大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(10月1日)からは「第98回歴史講座」の内容を更新します(11月11日までの予定)。新安保条約をめぐる闘争は、当時の国論を二分する激しいものとなりましたが、この背景には、新安保条約の発効によって日米間の軍事同盟が強化され、ソ連(現在のロシア)などが目論(もくろ)んでいた日本の共産主義化に大きな影響を与えるという側面があったと考えられています。しかしながら、...
かねてより「新安保条約は憲法違反の軍事同盟であり、安保条約は廃棄すべきである」と主張していた社会党や共産党などの革新勢力は、条約調印に先立つ昭和34(1959)年3月に安保改定阻止国民会議を結成し、激しい条約批准阻止闘争を展開していました。また、当時の国会で審議されていた警察官職務執行法の強化や、教員の勤務評定などをめぐって、岸信介内閣は革新勢力と対立していましたが、これらと同時期に新安保条約の調印が行...
鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣の後を受けて昭和31(1956)年12月に誕生した石橋湛山(いしばしたんざん)内閣でしたが、首相の病気によって短命に終わり、翌昭和32(1957)年2月に岸信介(きしのぶすけ)内閣が成立しました。第一次防衛力整備計画を決定して、我が国の自衛力の強化に努めた岸内閣は「日米新時代」のスローガンを掲げて、片務的な内容だった従来の日米安全保障条約の改定に意欲を見せました。岸首相の努力もあ...
サンフランシスコ講和条約の締結によって我が国は独立を回復しましたが、国際社会への本格的な復帰や国際連合への加盟のためにはソ連(現在のロシア)の支持を得ることが不可欠であり、また北方海域における漁業を円滑に行うためにも、ソ連との国交回復が急がれていました。自主外交路線をめざし、対ソ問題の解決に取り組んでいた鳩山一郎首相は、第三次内閣の時の昭和31(1956)年10月に自らがモスクワを訪問し、ソ連のブルガーニ...
昭和22(1947)年の衆議院総選挙で第一党となり、他の政党と連立して片山哲(かたやまてつ)内閣を組織した日本社会党(現在の社会民主党)でしたが、サンフランシスコ講和条約や日米安全保障条約の締結をめぐる対立の激化によって、昭和26(1951)年10月に右派と左派とに分裂しました。その後、鳩山一郎が憲法改正を視野に内閣を組織すると、総選挙直前の昭和30(1955)年1月に左右両派がそれぞれ党大会を開き、改憲阻止を名目と...
昭和23(1948)年10月に第二次内閣を組織して以来、長期政権を維持してきた吉田茂(よしだしげる)でしたが、経済復興や対米外交を優先させた政治姿勢を批判され、昭和29(1954)年に起きた造船疑獄事件をきっかけとして、同年12月に約6年間続いた政権に幕を下ろしました。自由党総裁でもあった吉田の後を受けて首相になったのは、改進党と自由党の一部が結成して誕生した日本民主党の総裁を務めていた鳩山一郎(はとやまいちろう...
【ハイブリッド方式】第98回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年9月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、前々回(第96回)より会場が「貸会議室プランセカンス」に、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコードはこちらです。...
東西平和共存路線などのソ連による対米接近の動きは、資本主義打倒を標榜(ひょうぼう、主義・主張や立場などを公然と表すこと)する中華人民共和国の反発を招き、1960年代に入ると両国は対立するようになりました。これを「中ソ対立」といいます。その後、1964(昭和39)年に初の核実験を行い、核保有国となった中華人民共和国が西側諸国に対する発言力を強めると、1966(昭和41)年には毛沢東(もうたくとう)が復権をめざして「...
インドシナ休戦協定以降、南北に分断されたベトナムでは、ベトナム民主共和国(=北ベトナム)が南ベトナム解放民族戦線(=べトコン)への支援を続けたこともあり、次第に内戦が激化していきました。そして、1965(昭和40)年にはアメリカが北ベトナムへの爆撃を開始し(これを「北爆」といいます)、アメリカや南ベトナム政府と、ソ連や中華人民共和国の支援を受けた南ベトナム解放民族戦線および北ベトナムとの全面対決へと発展...
1950年代に入って、米ソ間で「雪どけ」の動きがみられるようになりましたが、1959(昭和34)年にアメリカ南部のカリブ海のキューバで社会主義政権が誕生すると、1962(昭和37)年にソ連がキューバにミサイルを配備しようとしました。ソ連の動きを警戒したアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖したため、米ソ両国の間で核戦争の危機が迫りました。これを「キューバ危機」といいます。この危機はその後、ソ連がミサイルを撤...
1953(昭和28)年にソ連のスターリンが死去した後に最高指導者となったフルシチョフは、1956(昭和31)年にスターリン政権における不当な粛清(しゅくせい)や恐怖政治を批判する(これを「スターリン批判」といいます)など、東西平和共存路線を打ち出しました。ソ連によるこうした動きは、それまで同国の支配下に置かれてきた東ヨーロッパ諸国において、共産主義体制の過酷な抑圧からの解放を求める声が高まる流れをもたらしまし...
第二次世界大戦終結後の1946(昭和21)年以後に、ベトナム民主共和国(=北ベトナム)が独立をめぐってフランスと戦争を続けていました。これを「インドシナ戦争」といいます。その後、1954(昭和29)年のジュネーヴ国際会議で「インドシナ休戦協定(=ジュネーヴ協定)」が結ばれ、フランス軍がベトナムから撤退しましたが、北ベトナムは1949(昭和24)年に誕生したベトナム共和国(=南ベトナム)と北緯17度線を境界に分離されま...
朝鮮戦争は1953(昭和28)年に休戦となりましたが、アメリカ・ソ連(現在のロシア)の両大国は軍拡競争を繰り広げ、水爆や核兵器を他の大陸にまで撃ち込める大陸間弾道ミサイル(=ICBM)を開発しました。しかしその一方で、1955(昭和30)年にアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の各首脳がスイスのジュネーヴで集まり、軍縮やヨーロッパの安全保障あるいは東西間の交流の拡大などを協議した「ジュネーヴ四巨頭会談」が行われまし...
日米安全保障条約によって、アメリカ軍が引き続き日本国内に駐留するとともに基地の増強が進められましたが、これらの動きに反発した基地反対闘争が全国各地で発生し、基地の撤去を強く要求しました。昭和27(1952)年には石川県で「内灘(うちなだ)事件」が、昭和30(1955)年には東京都立川市で「砂川事件」が発生していますが、事件の背景には地元民の反発のみならず、日本共産党や総評あるいは全日本学生自治会総連合(=全学...
サンフランシスコ講和条約の調印に際して、労働組合の一部や日本共産党は全面講和や武装闘争を唱えていましたが、条約発効直後の昭和27(1952)年5月1日のメーデーで、中央集会のデモ隊が使用を許可されなかった皇居前広場に侵入して警官隊と衝突(しょうとつ)し、多数の死傷者を出しました。後に「血のメーデー事件」と呼ばれたこの出来事をきっかけとして、暴力主義的破壊活動を行った団体を公安調査庁に取り締まらせるため、第...
昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ講和条約並びに日米安全保障条約が発効して、我が国が独立を正式に回復すると、占領時代に進められた我が国の政策が大きく修正されました。海上の警備機関たる「海上警備隊」が独立回復と時を同じくして誕生すると、同年8月には「保安庁」が設置され、それまでの警察予備隊が「保安隊」に改称されたほか、海上警備隊も「警備隊」と改められました。その後、昭和29(1954)年3月に「日米...
大東亜戦争期から敗戦直後にかけて、我が国は深刻な食糧難に悩まされ続けてきましたが、アメリカが救済復興を目的に占領地域に提供した「ガリオア資金」による緊急食糧輸入が昭和20(1945)年から同26(1951)年まで続いたことで、辛うじて確保されていました。その後、戦争終結によって働き手が増えたことや、生産技術の向上などによってコメの生産が史上空前の豊作を繰り返したことで、昭和30(1955)年頃までにはコメの自給が可...
特需景気を受け、昭和26(1951)年から昭和30(1955)年にかけて、国民総生産(=GNP)や個人消費が戦前の最高水準に達したほか、昭和27(1952)年には国際通貨基金(=IMF)と世界銀行に、昭和30(1955)年には関税及び貿易に関する一般協定(=GATT)に加入しました。IMFや世界銀行は「世界金融の公正かつ円滑な運営」を目的として設立されたほか、GATTは加盟国間の公平な貿易を実現するために、輸入制限や関税の障壁(しょうへ...
ところで、特需景気に関しては「戦後における日本の経済回復は朝鮮戦争という多大な犠牲によって成り立っている」という見方もあるようですが、確かに我が国の経済復興が朝鮮戦争をきっかけとしたことは事実であるといえます。しかし、もし当時の我が国の工業力などが不足していれば、アメリカ軍を中心とした巨額な発注を到底受けいれることはできなかったでしょう。逆に言えば、戦争という悲劇を経験してもなお高い水準を保ってい...
GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による「ドッジ=ライン」の強行によって、深刻な不況に陥(おちい)っていた我が国の経済でしたが、昭和25(1950)年の朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)によって、劇的な変化を遂げることになりました。朝鮮戦争によって、我が国に駐留していたアメリカ軍が国連軍として出動しましたが、その際にアメリカ軍と我が国の業者との間で、国連軍への物資の提供やサービスの調達が直接契約で結ばれました...
さて、サンフランシスコ講和条約を結んだ同じ日に、我が国はアメリカと「日米安全保障条約」を調印して、アメリカ軍の我が国への駐留を認めました。また、翌昭和27(1952)年2月には「日米行政協定」に調印し、我が国を含む極東地域の平和と安全を名目として、我が国に駐留するアメリカ軍に基地を提供することや、基地経費を我が国が負担することなどが取り決められました。かくして、我が国は自国の安全保障をアメリカに委(ゆだ...
極東国際軍事裁判などの「諸判決」を受諾することは、いわゆる「東京裁判」の「結果」のみを受けいれることになりますが、これが「裁判」となりますと、連合国による一方的な裁判全体、すなわち「日本は侵略戦争を起こした犯罪国家である」という「東京裁判史観」を無条件で認めることになってしまうのです。無論、我が国は茶番劇たる極東国際軍事裁判のすべてを受けいれる意図はありませんでした。しかし、戦後から40年が経過した...
ところで、サンフランシスコ講和条約において我が国は独立を回復し、6年半にも及んだ占領期間を終えて、独立国家としての第一歩を踏み出しましたが、条文の和訳をめぐって大きな問題が起きているのをご存知でしょうか。それは第11条です。第11条の正確な内容は「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の『諸判決』を受諾する」ですが、当時の外務省によって「諸判決」が「裁判」と誤訳されてしまった...
昭和26(1951)年9月8日、アメリカのサンフランシスコで対日講和会議が開かれ、我が国は連合国のうち48か国との講和条約に調印しました。これを「サンフランシスコ講和条約(または「サンフランシスコ平和条約」)」といいます。講和条約は翌昭和27(1952)年4月28日に発効し、我が国は独立を回復しました。連合国のうち、ソ連やチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)・ポーランドは講和会議に出席したものの調印せず、イ...
ソ連のスターリンによる「講和阻止」の流れを受けた我が国の一部の知識人は、アメリカ陣営とのいわゆる「単独講和」に反対し、ソ連を含む全交戦国との講和を求める「全面講和」を求めるようになりました。昭和25(1950)年1月には、当時の南原繁(なんばらしげる)東大総長などが「単独講和は特定国家への依存や隷属(れいぞく)をもたらすものである」と全面講和を主張し、また一部の新聞社や雑誌社、あるいは社会党や共産党、さ...
大東亜戦争の開戦の直前まで、ハル・ノートなどアメリカによる横暴に悩まされた我が国が同時にずっと恐れていたのが、ソ連(現在のロシア)などによる「共産主義の脅威(きょうい)」でした。しかし、世界中にめぐらされていたコミンテルンの謀略により、我が国とアメリカは3年半以上も死闘を続けることになりました。そして戦後、日本というストッパーがなくなった東アジアは、朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)に代表されるように、中...
吉田首相による再軍備の拒絶は、我が国が軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、結果として我が国が真の独立国として再出発することや、第9条を含んだ日本国憲法の改正の好機を逃したという批判もあります。しかしその一方で、当時の我が国は復興への道をようやく歩み始めたばかりであり、経済に過酷な負担を強(し)いることになる再軍備が、現実的に可能だったかどうかという見方もあります。また、朝鮮戦争で数百万人も...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(9月30日までの予定)。GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策の大きな転換は、結果的に対日講和問題の急速な進展をもたらしました。昭和26(1951)年1月に来日した大統領特別顧問のダレスは、我が国に対して「対日講和七原則」を示して、単独(多数)講和や在日米軍の駐留などの構想を明らかにするとともに、我が国の再軍備を強く迫りました。しかし、当時の吉田茂(...
※「第97回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(9月4日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(9月30日までの予定)。奈良時代には美術面においても唐の様式を受容して大いに発達し、多くの美術作品がつくられました。建築面では寺院や宮殿に礎石(そせき)や瓦(かわら)が用いられるなどの技術の進歩によって、東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)や唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)などの壮...
この時代には、鎮護国家の思想によって仏教は国家の保護を受けて大いに発展したことによって様々な仏教理論の研究が進められ、南都六宗(なんとろくしゅう)と呼ばれる学派が形成されました。南都六宗とは三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)のことです。このうち律宗は先述した唐の高僧であった鑑真が我が国に...
ところで、現在の我が国の元号である「令和」は万葉集の「梅花の歌三十二首の序文」から引用されたことが知られていますが、我が国の古典から元号が選定されたのは史上初めてです。「梅花の歌三十二首の序文」は以下のとおりです。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫...
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大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...