大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
我が国古来の和歌も天皇を始め兵士や地方の農民に至るまで幅広く詠(よ)まれました。「万葉集(まんようしゅう)」には柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)・山部赤人(やまべのあかひと)・大伴家持(おおとものやかもち)らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆たちが詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人歌(さきもりうた)などの約4,500首が収録されています。万葉集の歌には心...
歴史書とともに、各地の地名の由来や古老(ころう、昔をよく知る老人のこと)による伝承、産物などを記した地誌(ちし)である「風土記(ふどき)」の編纂(へんさん)が和銅6(713)年に命じられました。今日では、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)・播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県南西部)・豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)・肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県・長崎県)の4か国で風土記の一部が伝えられてい...
6世紀に我が国に伝わった仏教は、奈良時代に朝廷の保護を受けていっそう発展しました。遣唐使がもたらした唐の文化を取り入れながら、高い精神性を持つ国際色豊かな仏教文化が花開きました。この時代の文化は、聖武天皇の時代の年号から「天平文化」と呼ばれています。我が国における中央集権的な律令国家の確立は、必然的に国家意識を高めることとなり、天武天皇の時代に始められた歴史書の編纂(へんさん)が続けられ、まず和銅5...
では、なぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか。考えられる理由のひとつとしては、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。歴史は正しく伝えられ、かつ評...
当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なものの一つに「異性と通じてはならない」というのがあります。鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まるのですが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力はそんな彼を支持したでしょうか。そ...
さて、ここまで奈良時代の政治の移り変わりについて述べてきましたが、皆さんの中で「通説」として認知されているであろうことについて、私は一言も触れておりません。それは「称徳(孝謙)天皇の男性関係」についてです。俗説として一般的に有名なのは「称徳天皇は始めのうち藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳...
光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既(すで)に62歳になっておられました。こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって律令...
称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と無理やり改名させられたうえに大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)に追放されてしまいました。これを「宇佐八幡宮神託事件」といいます。道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、神護景雲4(770)年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくし...
推古(すいこ)天皇や皇極(こうぎょく)天皇[=斉明(さいめい)天皇]に持統(じとう)天皇、あるいは元明天皇のように「未亡人」が即位されるのであればともかく、元正天皇や今回の称徳(孝謙)天皇のように独身の女性の皇族が天皇として即位された場合には、一生を結婚することなくお過ごしになられたのです。そのようなお自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は自らの後継者として僧である...
4-4.道鏡[非藤原氏]から再び藤原氏[藤原百川・藤原永手]へ称徳天皇は自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は700年に河内国若江郡(かわちのくにわかえぐん、現在の大阪府八尾市)で生まれ、葛城山(かつらぎさん)などで厳しい修行を積んだほか、修験道(しゅげんどう)や呪術にも優れていたとされています。仏教勢力を背景として自らの地位を高めた道鏡は、天平神護(てんぴょうじん...
こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が天平宝字4(760)年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。焦(あせ)った恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと天平宝字8(764)年に反乱を計画...
その後、天平宝字2(758)年に孝謙天皇が仲麻呂と縁の深い大炊王、すなわち淳仁(じゅんにん)天皇に譲位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。天皇に準ずる権力を持つことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に皇族以外で初めて就任しました。藤原仲麻呂改め恵美押...
4-3.藤原仲麻呂(恵美押勝)[藤原氏]聖武天皇が天平勝宝元(749)年に皇女の孝謙(こうけん)天皇に譲位されると、孝謙天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が自分を補佐する役所である紫微中台(しびちゅうだい)を新設して、その長官に藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を就任させました。この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライ...
ところで、大仏の造立には、巨額の費用と延べ260万人ともいわれる多数の人員が投入されましたが、この国家挙げての大事業に協力したのが僧の行基(ぎょうき)でした。行基は668年に和泉国大鳥郡(いずみのくにおおとりぐん、現在の大阪府堺市西区)で生まれ、15歳で出家して24歳で受戒(じゅかい、仏の定めた戒律を受けること)すると、飛鳥寺(あすかでら)で10数年修行した後に、40代から民間への布教を始めたほか、橋を架(か)...
天平13(741)年、聖武天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を建てることを目的に国分寺建立の詔(みことのり、天皇によるお言葉やその文書のこと)を出され、国府(こくふ)の近くに次々と国分寺が建てられました。次いで天平15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんど...
相次いで病死した藤原四兄弟の子孫たちがまだ若かったこともあり、皇族出身で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)した橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣(後に左大臣まで昇進)となって政治の実権を握りました。橘諸兄は唐から帰国した留学生の吉備真備や僧の玄ボウ(げんぼう・注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、...
4-2.藤原四兄弟[藤原氏]から橘諸兄[非藤原氏]へ長屋王の変の直後に、光明子は聖武天皇の皇后となりました。皇族以外の人間が皇后になったのは我が国史上初めてのことであり、これ以降の彼女は「光明皇后」と呼ばれることになります。藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は武智麻呂(むちまろ)が南家(なんけ)、房前(ふささき)が北家(ほっけ)、宇合(うまかい)が式家(し...
神亀4(727)年、聖武天皇と光明子との間に待望の皇子が誕生しました。皇子が無事に成長すれば、やがて天皇に即位することで藤原四兄弟が外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となり、藤原氏の栄華が約束されることになったはずでした。ところが、翌神亀5(728)年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな...
藤原氏が政治の表舞台に登場するきっかけを作った不比等でしたが、彼が養老4(720)年に亡くなると、4人の息子がまだ器量不足だったこともあり、皇族で天武天皇の孫にあたる長屋王(ながやおう)が右大臣(うだいじん)となり、政治の実権を握りました。長屋王が政権を担当してから数年後の神亀元(724)年に、首皇子が聖武(しょうむ)天皇として即位されましたが、長屋王は同じ日に左大臣(さだいじん)に出世しており、政治への...
先述のとおり、奈良時代は実質80余年という短い期間でしたが、この時代は「政治の実権を握った者」が目まぐるしく移動しており、はっきり分かるだけで「6回」も交代しているのです。なぜそれだけ頻繁(ひんぱん)に替わったのでしょうか。そのカギを握るのは、政権を担当した者が「藤原氏」か、あるいは「非藤原氏」かということでした。4-1.藤原不比等[藤原氏]から長屋王[非藤原氏]へ天武(てんむ)天皇が崩御された後の、い...
天平15(743)年に朝廷は「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」を発布し、三世一身法が施行されてから約20年が経過して開墾した世代が交代する頃に、身分に応じた一定の面積の開墾した田地(でんち)を無期限に所有できることとなりました。これによって田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。有力な貴族や東大寺などの大寺院は...
この当時は人口の増加によって口分田が不足し、公地公民制の基礎が揺(ゆ)らいでいました。このため、朝廷は養老6(722)年に「百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾(かいこん)計画」を立てましたが、文字どおりの「計画倒れ」に終わってしまいました。なぜなら、いくら計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、朝廷は翌養老7(723)年に「三世一身法(さん...
奈良時代の民衆の住居は、それまでの竪穴(たてあな)住居から平地式の掘立柱(ほったてばしら)住居へと進化し、西日本から次第に普及しました。また、当時の結婚は男性が女性の家に通うという妻問婚(つまどいこん)に始まり、その後に自らの家を持つという形式でした。8世紀の農業は、鉄製の農具の普及が広がるなど進歩を見せました。当時の農民は班給(はんきゅう)された口分田(くぶんでん)を耕作したほか、口分田以外の公...
しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、天平宝字(てんぴょうほうじ)7(763)年に76歳の生涯を終えました。ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう...
ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため無事に我が国にたどりついた唐の高僧がいました。鑑真(がんじん)のことです。仏教を学ぶ際に重要であった戒律(かいりつ)を日本に広めるために、我が国の留学僧が鑑真を訪問しました。鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決...
造船や航海技術が未熟であった当時、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずにそのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。養老(ようろう)元(717)年に吉備真備らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得まし...
630年に舒明(じょめい)天皇が犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを派遣して始められた遣唐使(けんとうし)は、白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)の戦いやその後の朝鮮半島の新羅(しらぎ)との国交回復の影響で一時期中断されていましたが大宝2(702)年に復活し、その後は寛平(かんぴょう)6(894)年に廃止されるまで長く続けられました。中国大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡...
中央と地方とを結ぶ交通制度に関しては、都を中心とする幹線道路である官道(かんどう、または駅路=えきろ)が整備され、約16kmごとに駅家(うまや)が設けられました。駅家には駅馬(えきば)が置かれ、公用旅行の証拠である駅鈴(えきれい)を携(たずさ)えた役人に利用されました。これを駅制(えきせい)といいます。国司(こくし)の政務地であり、地方に置かれた国府(こくふ)には様々な設備が設けられ、一国内の政治や経...
平城京に遷都される直前の慶雲5(708)年、武蔵国(むさしのくに)の秩父(ちちぶ、現在の埼玉県秩父市)から良質の銅が朝廷に献上されたことで、年号が「和銅」と改められました。これをきっかけとして、朝廷は全国への普及を目指した新しい銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)しました。いわゆる「和同開珎(わどうかいちん、または「わどうかいほう」)」のことです。ちなみに、我が国初の銭貨は前回(第96回)の講座で紹介した...
※今回より「第97回歴史講座」の内容の更新を開始します(9月3日までの予定)。大宝律令(たいほうりつりょう)を大宝元(701)年に制定された42代の文武(もんむ)天皇が慶雲(けいうん)4(707)年に25歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、後継とされた文武天皇の子である首皇子(おびとのみこ)が7歳とまだ幼かったので、文武天皇の母親で天智(てんじ)天皇の娘でもある...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(8月2日)からは「第97回歴史講座」の内容を更新します(9月3日までの予定)。朝鮮戦争によって、終戦までの我が国の安全保障の真意をようやく悟(さと)ったアメリカは、それまでの占領方針を大きく転換して、反共政策をとるようになりました。多くのアメリカ軍が朝鮮半島へ出動することで、日本に軍事力の空白ができることを恐れたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭...
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大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...