chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

arrow_drop_down
  • 天平文化 その3

    我が国古来の和歌も天皇を始め兵士や地方の農民に至るまで幅広く詠(よ)まれました。「万葉集(まんようしゅう)」には柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山上憶良(やまのうえのおくら)・山部赤人(やまべのあかひと)・大伴家持(おおとものやかもち)らの宮廷の歌人のほか、東国の民衆たちが詠んだ東歌(あずまうた)、九州沿岸の守りについた防人歌(さきもりうた)などの約4,500首が収録されています。万葉集の歌には心...

  • 天平文化 その2

    歴史書とともに、各地の地名の由来や古老(ころう、昔をよく知る老人のこと)による伝承、産物などを記した地誌(ちし)である「風土記(ふどき)」の編纂(へんさん)が和銅6(713)年に命じられました。今日では、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)・播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県南西部)・豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)・肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県・長崎県)の4か国で風土記の一部が伝えられてい...

  • 天平文化 その1

    6世紀に我が国に伝わった仏教は、奈良時代に朝廷の保護を受けていっそう発展しました。遣唐使がもたらした唐の文化を取り入れながら、高い精神性を持つ国際色豊かな仏教文化が花開きました。この時代の文化は、聖武天皇の時代の年号から「天平文化」と呼ばれています。我が国における中央集権的な律令国家の確立は、必然的に国家意識を高めることとなり、天武天皇の時代に始められた歴史書の編纂(へんさん)が続けられ、まず和銅5...

  • 奈良時代の政治 その17

    では、なぜ後世にこのような「伝説」が残されてしまったのでしょうか。考えられる理由のひとつとしては、称徳天皇と道鏡が「藤原氏に対抗する勢力」であったことです。時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。歴史は正しく伝えられ、かつ評...

  • 奈良時代の政治 その16

    当時の我が国の仏教で不足していたのは「戒律」であり、それを補うために唐の高僧であった鑑真が来日したのは先述したとおりですが、戒律の中でもっとも重要なものの一つに「異性と通じてはならない」というのがあります。鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まるのですが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力はそんな彼を支持したでしょうか。そ...

  • 奈良時代の政治 その15

    さて、ここまで奈良時代の政治の移り変わりについて述べてきましたが、皆さんの中で「通説」として認知されているであろうことについて、私は一言も触れておりません。それは「称徳(孝謙)天皇の男性関係」についてです。俗説として一般的に有名なのは「称徳天皇は始めのうち藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳...

  • 奈良時代の政治 その14

    光仁天皇は、白壁王の時代に他の皇族が権力闘争で次々と生命を落としていくのを横目にしながら、自らは飲酒を続けて野心のないことをアピールし続けていたという苦労されたご経験の持ち主で、ご即位されたときには既(すで)に62歳になっておられました。こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって律令...

  • 奈良時代の政治 その13

    称徳天皇の逆鱗(げきりん)に触れた和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と無理やり改名させられたうえに大隅国(おおすみのくに、現在の鹿児島県東部)に追放されてしまいました。これを「宇佐八幡宮神託事件」といいます。道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、神護景雲4(770)年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくし...

  • 奈良時代の政治 その12

    推古(すいこ)天皇や皇極(こうぎょく)天皇[=斉明(さいめい)天皇]に持統(じとう)天皇、あるいは元明天皇のように「未亡人」が即位されるのであればともかく、元正天皇や今回の称徳(孝謙)天皇のように独身の女性の皇族が天皇として即位された場合には、一生を結婚することなくお過ごしになられたのです。そのようなお自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は自らの後継者として僧である...

  • 奈良時代の政治 その11

    4-4.道鏡[非藤原氏]から再び藤原氏[藤原百川・藤原永手]へ称徳天皇は自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は700年に河内国若江郡(かわちのくにわかえぐん、現在の大阪府八尾市)で生まれ、葛城山(かつらぎさん)などで厳しい修行を積んだほか、修験道(しゅげんどう)や呪術にも優れていたとされています。仏教勢力を背景として自らの地位を高めた道鏡は、天平神護(てんぴょうじん...

  • 奈良時代の政治 その10

    こうした中で、最大の後ろ盾であった光明皇太后が天平宝字4(760)年に死去され、さらには病に倒れられた孝謙上皇(上皇=じょうこうとは「退位された天皇」という意味)が僧の道鏡(どうきょう)の祈祷(きとう)によって健康を回復されると、上皇が次第に影響力を高められた一方で、恵美押勝の勢力が急速に衰えていきました。焦(あせ)った恵美押勝は、道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑えようと天平宝字8(764)年に反乱を計画...

  • 奈良時代の政治 その9

    その後、天平宝字2(758)年に孝謙天皇が仲麻呂と縁の深い大炊王、すなわち淳仁(じゅんにん)天皇に譲位されると、淳仁天皇は仲麻呂に対して、貨幣の鋳造権や税の徴収権とともに「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を与えられました。天皇に準ずる権力を持つことになった恵美押勝は、朝廷の官職を中国風に改め、自らは太政大臣(だじょうだいじん)に相当する大師(たいし)に皇族以外で初めて就任しました。藤原仲麻呂改め恵美押...

  • 奈良時代の政治 その8

    4-3.藤原仲麻呂(恵美押勝)[藤原氏]聖武天皇が天平勝宝元(749)年に皇女の孝謙(こうけん)天皇に譲位されると、孝謙天皇の母親である光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が自分を補佐する役所である紫微中台(しびちゅうだい)を新設して、その長官に藤原四兄弟の武智麻呂(むちまろ)の子である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を就任させました。この結果、政治の実権は藤原仲麻呂が握るようになり、仲麻呂は自分のライ...

  • 奈良時代の政治 その7

    ところで、大仏の造立には、巨額の費用と延べ260万人ともいわれる多数の人員が投入されましたが、この国家挙げての大事業に協力したのが僧の行基(ぎょうき)でした。行基は668年に和泉国大鳥郡(いずみのくにおおとりぐん、現在の大阪府堺市西区)で生まれ、15歳で出家して24歳で受戒(じゅかい、仏の定めた戒律を受けること)すると、飛鳥寺(あすかでら)で10数年修行した後に、40代から民間への布教を始めたほか、橋を架(か)...

  • 奈良時代の政治 その6

    天平13(741)年、聖武天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を建てることを目的に国分寺建立の詔(みことのり、天皇によるお言葉やその文書のこと)を出され、国府(こくふ)の近くに次々と国分寺が建てられました。次いで天平15(743)年には、大仏の造立(ぞうりゅう)によって我が国の平安を築こうとする壮大な計画の下に、大仏造立の詔が出されました。当初は紫香楽宮で計画が進められた金銅仏(こんど...

  • 奈良時代の政治 その5

    相次いで病死した藤原四兄弟の子孫たちがまだ若かったこともあり、皇族出身で臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)した橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣(後に左大臣まで昇進)となって政治の実権を握りました。橘諸兄は唐から帰国した留学生の吉備真備や僧の玄ボウ(げんぼう・注)を重用しましたが、これに反発した藤原四兄弟の宇合(うまかい)の子である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、...

  • 奈良時代の政治 その4

    4-2.藤原四兄弟[藤原氏]から橘諸兄[非藤原氏]へ長屋王の変の直後に、光明子は聖武天皇の皇后となりました。皇族以外の人間が皇后になったのは我が国史上初めてのことであり、これ以降の彼女は「光明皇后」と呼ばれることになります。藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は武智麻呂(むちまろ)が南家(なんけ)、房前(ふささき)が北家(ほっけ)、宇合(うまかい)が式家(し...

  • 奈良時代の政治 その3

    神亀4(727)年、聖武天皇と光明子との間に待望の皇子が誕生しました。皇子が無事に成長すれば、やがて天皇に即位することで藤原四兄弟が外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となり、藤原氏の栄華が約束されることになったはずでした。ところが、翌神亀5(728)年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、さらには四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな...

  • 奈良時代の政治 その2

    藤原氏が政治の表舞台に登場するきっかけを作った不比等でしたが、彼が養老4(720)年に亡くなると、4人の息子がまだ器量不足だったこともあり、皇族で天武天皇の孫にあたる長屋王(ながやおう)が右大臣(うだいじん)となり、政治の実権を握りました。長屋王が政権を担当してから数年後の神亀元(724)年に、首皇子が聖武(しょうむ)天皇として即位されましたが、長屋王は同じ日に左大臣(さだいじん)に出世しており、政治への...

  • 奈良時代の政治 その1

    先述のとおり、奈良時代は実質80余年という短い期間でしたが、この時代は「政治の実権を握った者」が目まぐるしく移動しており、はっきり分かるだけで「6回」も交代しているのです。なぜそれだけ頻繁(ひんぱん)に替わったのでしょうか。そのカギを握るのは、政権を担当した者が「藤原氏」か、あるいは「非藤原氏」かということでした。4-1.藤原不比等[藤原氏]から長屋王[非藤原氏]へ天武(てんむ)天皇が崩御された後の、い...

  • 奈良時代の社会 その3

    天平15(743)年に朝廷は「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」を発布し、三世一身法が施行されてから約20年が経過して開墾した世代が交代する頃に、身分に応じた一定の面積の開墾した田地(でんち)を無期限に所有できることとなりました。これによって田地の数はようやく増加しましたが、私有地の拡大も同時に進み、公地公民制の根本を揺るがすという結果を招いてしまいました。有力な貴族や東大寺などの大寺院は...

  • 奈良時代の社会 その2

    この当時は人口の増加によって口分田が不足し、公地公民制の基礎が揺(ゆ)らいでいました。このため、朝廷は養老6(722)年に「百万町歩(ひゃくまんちょうぶ)の開墾(かいこん)計画」を立てましたが、文字どおりの「計画倒れ」に終わってしまいました。なぜなら、いくら計画を立てたところで、そのメリットがなければ行動に移そうとしないのが人間というものだからです。このため、朝廷は翌養老7(723)年に「三世一身法(さん...

  • 奈良時代の社会 その1

    奈良時代の民衆の住居は、それまでの竪穴(たてあな)住居から平地式の掘立柱(ほったてばしら)住居へと進化し、西日本から次第に普及しました。また、当時の結婚は男性が女性の家に通うという妻問婚(つまどいこん)に始まり、その後に自らの家を持つという形式でした。8世紀の農業は、鉄製の農具の普及が広がるなど進歩を見せました。当時の農民は班給(はんきゅう)された口分田(くぶんでん)を耕作したほか、口分田以外の公...

  • 奈良時代の外交 その4

    しかし、副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の機転で密かに別の船に乗ることができた鑑真は、清河と阿倍仲麻呂を乗せた船が難破した一方で無事に我が国にたどり着き、ついに悲願の渡日を果たしました。鑑真は我が国に戒律の他に彫刻や薬草の知識を伝え、唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建して我が国に留まり、天平宝字(てんぴょうほうじ)7(763)年に76歳の生涯を終えました。ちなみに、彼の死後に造られた彫像(ちょうぞう...

  • 奈良時代の外交 その3

    ところで、阿倍仲麻呂が帰国しようとして失敗に終わった際に、別の船に乗っていたため無事に我が国にたどりついた唐の高僧がいました。鑑真(がんじん)のことです。仏教を学ぶ際に重要であった戒律(かいりつ)を日本に広めるために、我が国の留学僧が鑑真を訪問しました。鑑真は弟子たちに「誰か日本に渡る人はいないか」と問いかけましたが、誰も手を挙げようとしないので、「それなら私自身が行く」と自らの渡日(とにち)を決...

  • 奈良時代の外交 その2

    造船や航海技術が未熟であった当時、遣唐使による航海は命がけであり、中には帰国できずにそのまま唐で生涯を終えた留学生もいました。養老(ようろう)元(717)年に吉備真備らが入唐(にっとう)した際、彼らに同行していた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が唐の超難関の試験である科挙(かきょ)に合格し、後に唐の高い役職を歴任しました。詩人の李白(りはく)と親交を持ち、また唐の皇帝の玄宗(げんそう)の厚い信任を得まし...

  • 奈良時代の外交 その1

    630年に舒明(じょめい)天皇が犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを派遣して始められた遣唐使(けんとうし)は、白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)の戦いやその後の朝鮮半島の新羅(しらぎ)との国交回復の影響で一時期中断されていましたが大宝2(702)年に復活し、その後は寛平(かんぴょう)6(894)年に廃止されるまで長く続けられました。中国大陸の先進的な政治制度や文化を学ぶために多くの留学生が唐へ渡...

  • 平城京への遷都 その3

    中央と地方とを結ぶ交通制度に関しては、都を中心とする幹線道路である官道(かんどう、または駅路=えきろ)が整備され、約16kmごとに駅家(うまや)が設けられました。駅家には駅馬(えきば)が置かれ、公用旅行の証拠である駅鈴(えきれい)を携(たずさ)えた役人に利用されました。これを駅制(えきせい)といいます。国司(こくし)の政務地であり、地方に置かれた国府(こくふ)には様々な設備が設けられ、一国内の政治や経...

  • 平城京への遷都 その2

    平城京に遷都される直前の慶雲5(708)年、武蔵国(むさしのくに)の秩父(ちちぶ、現在の埼玉県秩父市)から良質の銅が朝廷に献上されたことで、年号が「和銅」と改められました。これをきっかけとして、朝廷は全国への普及を目指した新しい銭貨(せんか)を鋳造(ちゅうぞう)しました。いわゆる「和同開珎(わどうかいちん、または「わどうかいほう」)」のことです。ちなみに、我が国初の銭貨は前回(第96回)の講座で紹介した...

  • 平城京への遷都 その1

    ※今回より「第97回歴史講座」の内容の更新を開始します(9月3日までの予定)。大宝律令(たいほうりつりょう)を大宝元(701)年に制定された42代の文武(もんむ)天皇が慶雲(けいうん)4(707)年に25歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、後継とされた文武天皇の子である首皇子(おびとのみこ)が7歳とまだ幼かったので、文武天皇の母親で天智(てんじ)天皇の娘でもある...

  • 朝鮮戦争の勃発 その5

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(8月2日)からは「第97回歴史講座」の内容を更新します(9月3日までの予定)。朝鮮戦争によって、終戦までの我が国の安全保障の真意をようやく悟(さと)ったアメリカは、それまでの占領方針を大きく転換して、反共政策をとるようになりました。多くのアメリカ軍が朝鮮半島へ出動することで、日本に軍事力の空白ができることを恐れたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用