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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 押しつけられた日本国憲法 その4

    松本試案の提出に先立つ昭和21(1946)年2月4日、GHQの民政局25人が会議室に呼び集められると、ホイットニー局長が「これから一週間で日本国民のための新しい憲法を起草する」と通告しました。GHQは事前に松本試案の概要を入手しており、日本政府に先手を打つかたちで、自分側からの草案作成を急いでいたのです。ところが、民政局員の25人のメンバーのうち、弁護士の資格を持っている人物こそ存在したものの、憲法学を専攻した者は...

  • 押しつけられた日本国憲法 その3

    マッカーサー草案で、まず目についたのは「国会を一院制とすること」でした。大日本帝国憲法においては、衆議院と貴族院の二院制を採用していましたが、これは、多様な民意の反映をもたらすとともに、議会の多数派による専制政治を防ぐという重要な役割を持っていました。松本大臣がなぜ一院制なのかをGHQに問いただすと、ホイットニー民政局長は「日本にはアメリカのように州という制度がないから上院は必要ないし、一院制の方が...

  • 押しつけられた日本国憲法 その2

    先述のとおり、昭和20(1945)年10月11日に幣原首相が新任挨拶(あいさつ)のためGHQのマッカーサー元帥(げんすい)を訪問した際に、マッカーサーが口頭で憲法改正を示唆(しさ、ほのめかすこと)したことに伴い、幣原首相は「憲法問題調査委員会」を設置して、本格的な調査研究を開始しました。翌昭和21(1946)年に改正憲法の草案が完成し、2月8日に政府がGHQに提出しました。この草案は、憲法問題調査委員会の中心人物であった...

  • 押しつけられた日本国憲法 その1

    昭和20(1945)年8月15日、我が国は連合国からのポツダム宣言を受けいれるかたちで終戦を迎えましたが、宣言の内容には「軍隊の無条件降伏」こそあったものの、宣言文には「私たちの条件は以下のとおり」と書かれており、決して「全体的な無条件降伏」ではなかったですし、また宣言に書かれた条件の中には「新憲法の制定」は含まれていませんでした。これについては、軍事に関する条文などへの部分的な改正は必要であったとしても...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その9

    昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したことで我が国は独立を回復しましたが(この経緯はいずれ後述します)、WGIPによる洗脳工作があったにもかかわらず、当時の我が国はまだ正気を保っているところもありました。独立回復から間もなく、極東国際軍事裁判によって「戦犯」と決めつけられた人々を即時に釈放すべきであるという運動が始まったのです。同年6月には日本弁護士連合会(=日弁連)が「戦犯の赦免...

  • 【ハイブリッド方式】第95回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年3月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その8

    通常の戦争犯罪に該当するB級(戦場の指揮官など)・C級(実行した兵隊など)の戦犯の裁判は、国内外の軍事法廷で2,000件以上行われましたが、その被告人の数は5,700人にのぼり、およそ1,000人が死刑判決を受けました。裁判においては、証人や資料が少なかったり、栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせたことや、腰を痛めた捕虜に灸(きゅう)を据(す)えたことが虐待と認定されたりするなど杜撰(ずさん)な内容が多く、無実の罪で...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その7

    昭和23(1948)年11月12日、A級戦犯とみなされた25名に有罪の判決が下りましたが、その内容は日本側弁護団が主張した自衛戦争論をすべて却下した一方で、検事側が主張した侵略戦争論や共同謀議説を全面的に採用したものでした。判決は7人(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎=いたがきせいしろう、土肥原賢二=どいはらけんじ、松井石根=まついいわね、木村兵太郎=きむらへいたろう、武藤章=むとうあきら)が絞首刑、16人が終身刑...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その6

    極東国際軍事裁判の判事団は、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)・中華民国など連合国側11か国からの代表各1名ずつで構成され、団長にはオーストラリアのウェップが任命されましたが、先述したように戦勝国側ばかりから裁判官を選ぶという段階で裁判の正当性は失われたも同然でした。なお、主席検察官にはアメリカのキーナンが任じられています。裁判において、清瀬一郎(きよせいちろう)らの日本側弁護団は、ブレイクニ...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その5

    ところで、東條英機元首相らは「A級戦犯」として起訴されましたが、その他にも「B級戦犯」や「C級戦犯」として起訴された人々も多く存在しました。こうした階級分けが「罪の重さによる区分」と思われていることが多いようですが、事実は全く異なります。ABCの区分は「戦犯の単純な区分」であり、A級は「戦争を始めた国家指導者」が中心で、B級は「通常の戦争犯罪である捕虜虐待(ほりょぎゃくたい)などを命じた戦場の指揮官」、C...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その4

    GHQのマッカーサーは昭和21(1946)年1月19日に極東国際軍事裁判所条例を公布し、ドイツのニュルンベルク国際軍事裁判にならって、従来のスパイなど国際公法で規定された戦争犯罪に加え、新たに「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった観念を導入しました。こうした観念が大東亜戦争当時には認知されているはずもありませんから、条例は「事後法によっては過去を訴追(そつい)できない」という不遡及(ふそきゅう)の原則...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その3

    昭和20(1945)年9月11日、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーは、東條英機(とうじょうひでき)元首相を含む39名を「戦争犯罪人」と称して彼らの逮捕を指示しましたが、ここでいう「戦争犯罪人」は戦争に関する国際条約であるハーグ陸戦条規の定めるものとは全く異なっており、法的根拠を著(いちじる)しく欠くものでした。にもかかわらずGHQが「戦争犯罪人」の逮捕に積極的だった背景には、日本国民に「戦争そ...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その2

    大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、結果として欧米列強が持っていた植民地が解放され、アジアからアフリカ・アメリカ大陸に至るまで多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃(てっぱい)」という大きな理想が大東亜戦争によって初めて達成されたといえますが、こうした現実は、白色人種たる欧米列強にとって許されざる問題でした。「日本のせいで自分...

  • 極東国際軍事裁判(=東京裁判)という茶番 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。1945(昭和20)年11月、連合国側は敗戦国となったドイツを裁くという名目で「ニュルンベルク国際軍事裁判」を開廷しましたが、検察側は「共通の計画または共同謀議」「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」に基づいて被告を起訴しました。裁判では、文明に対する罪や平和に対する罪を大義名分としたうえで「個人を罰しない限りは国際犯罪である侵...

  • 大和朝廷の6世紀 その4

    ※「第94回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月19日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っ...

  • 大和朝廷の6世紀 その3

    対外政策の失敗によって大伴金村を始めとする大伴氏が失脚すると、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏と大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏が政治の実権を握るようになりました。朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることで...

  • 大和朝廷の6世紀 その2

    皇統断絶の危機を脱した大和朝廷でしたが、対外政策では大きな試練を迎えていました。朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにの...

  • 大和朝廷の6世紀 その1

    我が国で初めての統一政権として着実に勢力を伸ばしてきた大和朝廷でしたが、6世紀初頭に最大の危機を迎えました。25代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御された際に後継となる男子がおられなかったのです。この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神天皇の五世の孫、すなわち来孫(らいそん)にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(えちぜん、現在の福井県)か...

  • 大和朝廷の政治制度 その3

    当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...

  • 大和朝廷の政治制度 その2

    姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の...

  • 大和朝廷の政治制度 その1

    5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏の家柄や能力に応じて...

  • 古墳文化の変容 その6

    天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...

  • 古墳文化の変容 その5

    古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の須恵器(す...

  • 古墳文化の変容 その4

    古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味から、故...

  • 古墳文化の変容 その3

    6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果とし...

  • 古墳文化の変容 その2

    漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記」や「日本書紀」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか儒教(じゅきょう)を伝えま...

  • 古墳文化の変容 その1

    古墳時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷は彼らを厚遇して畿内やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを可能とする技術が農業の生産性を大いに高めたりするな...

  • 大和朝廷と東アジア その5

    倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...

  • 大和朝廷と東アジア その4

    朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入るとチャイナの南朝である宋や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が国はチャ...

  • 大和朝廷と東アジア その3

    さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」からも知ることができます。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。おそらく神功皇...

  • 大和朝廷と東アジア その2

    三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...

  • 大和朝廷と東アジア その1

    我が国で大和朝廷が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、チャイナでは三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。朝鮮半島では、現...

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