南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
松本試案の提出に先立つ昭和21(1946)年2月4日、GHQの民政局25人が会議室に呼び集められると、ホイットニー局長が「これから一週間で日本国民のための新しい憲法を起草する」と通告しました。GHQは事前に松本試案の概要を入手しており、日本政府に先手を打つかたちで、自分側からの草案作成を急いでいたのです。ところが、民政局員の25人のメンバーのうち、弁護士の資格を持っている人物こそ存在したものの、憲法学を専攻した者は...
マッカーサー草案で、まず目についたのは「国会を一院制とすること」でした。大日本帝国憲法においては、衆議院と貴族院の二院制を採用していましたが、これは、多様な民意の反映をもたらすとともに、議会の多数派による専制政治を防ぐという重要な役割を持っていました。松本大臣がなぜ一院制なのかをGHQに問いただすと、ホイットニー民政局長は「日本にはアメリカのように州という制度がないから上院は必要ないし、一院制の方が...
先述のとおり、昭和20(1945)年10月11日に幣原首相が新任挨拶(あいさつ)のためGHQのマッカーサー元帥(げんすい)を訪問した際に、マッカーサーが口頭で憲法改正を示唆(しさ、ほのめかすこと)したことに伴い、幣原首相は「憲法問題調査委員会」を設置して、本格的な調査研究を開始しました。翌昭和21(1946)年に改正憲法の草案が完成し、2月8日に政府がGHQに提出しました。この草案は、憲法問題調査委員会の中心人物であった...
昭和20(1945)年8月15日、我が国は連合国からのポツダム宣言を受けいれるかたちで終戦を迎えましたが、宣言の内容には「軍隊の無条件降伏」こそあったものの、宣言文には「私たちの条件は以下のとおり」と書かれており、決して「全体的な無条件降伏」ではなかったですし、また宣言に書かれた条件の中には「新憲法の制定」は含まれていませんでした。これについては、軍事に関する条文などへの部分的な改正は必要であったとしても...
昭和27(1952)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したことで我が国は独立を回復しましたが(この経緯はいずれ後述します)、WGIPによる洗脳工作があったにもかかわらず、当時の我が国はまだ正気を保っているところもありました。独立回復から間もなく、極東国際軍事裁判によって「戦犯」と決めつけられた人々を即時に釈放すべきであるという運動が始まったのです。同年6月には日本弁護士連合会(=日弁連)が「戦犯の赦免...
【ハイブリッド方式】第95回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年3月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
通常の戦争犯罪に該当するB級(戦場の指揮官など)・C級(実行した兵隊など)の戦犯の裁判は、国内外の軍事法廷で2,000件以上行われましたが、その被告人の数は5,700人にのぼり、およそ1,000人が死刑判決を受けました。裁判においては、証人や資料が少なかったり、栄養失調の捕虜にゴボウを食べさせたことや、腰を痛めた捕虜に灸(きゅう)を据(す)えたことが虐待と認定されたりするなど杜撰(ずさん)な内容が多く、無実の罪で...
昭和23(1948)年11月12日、A級戦犯とみなされた25名に有罪の判決が下りましたが、その内容は日本側弁護団が主張した自衛戦争論をすべて却下した一方で、検事側が主張した侵略戦争論や共同謀議説を全面的に採用したものでした。判決は7人(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎=いたがきせいしろう、土肥原賢二=どいはらけんじ、松井石根=まついいわね、木村兵太郎=きむらへいたろう、武藤章=むとうあきら)が絞首刑、16人が終身刑...
極東国際軍事裁判の判事団は、アメリカ・イギリス・ソ連(現在のロシア)・中華民国など連合国側11か国からの代表各1名ずつで構成され、団長にはオーストラリアのウェップが任命されましたが、先述したように戦勝国側ばかりから裁判官を選ぶという段階で裁判の正当性は失われたも同然でした。なお、主席検察官にはアメリカのキーナンが任じられています。裁判において、清瀬一郎(きよせいちろう)らの日本側弁護団は、ブレイクニ...
ところで、東條英機元首相らは「A級戦犯」として起訴されましたが、その他にも「B級戦犯」や「C級戦犯」として起訴された人々も多く存在しました。こうした階級分けが「罪の重さによる区分」と思われていることが多いようですが、事実は全く異なります。ABCの区分は「戦犯の単純な区分」であり、A級は「戦争を始めた国家指導者」が中心で、B級は「通常の戦争犯罪である捕虜虐待(ほりょぎゃくたい)などを命じた戦場の指揮官」、C...
GHQのマッカーサーは昭和21(1946)年1月19日に極東国際軍事裁判所条例を公布し、ドイツのニュルンベルク国際軍事裁判にならって、従来のスパイなど国際公法で規定された戦争犯罪に加え、新たに「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった観念を導入しました。こうした観念が大東亜戦争当時には認知されているはずもありませんから、条例は「事後法によっては過去を訴追(そつい)できない」という不遡及(ふそきゅう)の原則...
昭和20(1945)年9月11日、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)のマッカーサーは、東條英機(とうじょうひでき)元首相を含む39名を「戦争犯罪人」と称して彼らの逮捕を指示しましたが、ここでいう「戦争犯罪人」は戦争に関する国際条約であるハーグ陸戦条規の定めるものとは全く異なっており、法的根拠を著(いちじる)しく欠くものでした。にもかかわらずGHQが「戦争犯罪人」の逮捕に積極的だった背景には、日本国民に「戦争そ...
大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、結果として欧米列強が持っていた植民地が解放され、アジアからアフリカ・アメリカ大陸に至るまで多くの国家が独立する流れへとつながっていきました。日本など有色人種の国家にとって悲願でもあった「人種差別の撤廃(てっぱい)」という大きな理想が大東亜戦争によって初めて達成されたといえますが、こうした現実は、白色人種たる欧米列強にとって許されざる問題でした。「日本のせいで自分...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。1945(昭和20)年11月、連合国側は敗戦国となったドイツを裁くという名目で「ニュルンベルク国際軍事裁判」を開廷しましたが、検察側は「共通の計画または共同謀議」「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」に基づいて被告を起訴しました。裁判では、文明に対する罪や平和に対する罪を大義名分としたうえで「個人を罰しない限りは国際犯罪である侵...
※「第94回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月19日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(4月14日までの予定)。大和朝廷が動揺(どうよう)しつつあった6世紀の後半には、東アジアでも大きな動きが見られました。中国大陸では南北朝時代などによって混乱状態が続いていましたが、北朝からおこった隋(ずい)が589年に大陸を約300年ぶりに統一したのです。この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っ...
対外政策の失敗によって大伴金村を始めとする大伴氏が失脚すると、大連(おおむらじ)の物部(もののべ)氏と大臣(おおおみ)の蘇我(そが)氏が政治の実権を握るようになりました。朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は欽明天皇などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。なお、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることで天皇の血縁者となることで...
皇統断絶の危機を脱した大和朝廷でしたが、対外政策では大きな試練を迎えていました。朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて北方の高句麗が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅とともに、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。我が国は新羅を攻めるために任那へ援軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅が現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにの...
我が国で初めての統一政権として着実に勢力を伸ばしてきた大和朝廷でしたが、6世紀初頭に最大の危機を迎えました。25代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御された際に後継となる男子がおられなかったのです。この非常事態を救ったのが大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、15代の応神天皇の五世の孫、すなわち来孫(らいそん)にあたる男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(えちぜん、現在の福井県)か...
当時の有力な豪族は「田荘(たどころ)」と呼ばれる私有地や「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民をもっており、それらを経済的な基盤(きばん)としていました。一方、朝廷も直属の民である「名代(なしろ)」「子代(こしろ)」を持ち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である「屯倉(みやけ)」を各地に設けて「田部(たべ)」と呼ばれた人々に耕作させました。朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々...
姓(かばね)の種類は多岐にわたっていました。例えば、蘇我(そが)や葛城(かつらぎ)のように地名を氏(うじ)の名とする畿内の有力豪族や、出雲(いずも)や吉備(きび)などの地方の伝統ある豪族には「臣(おみ)」が与えられました。また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には「連(むらじ)」が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の...
5世紀末から6世紀にかけて、大和朝廷は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された「氏(うじ)」と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。朝廷は各氏の家柄や能力に応じて...
天候などの自然条件に左右されやすい農耕生活の発達は、様々な祭祀(さいし)の重要性を高めるとともに、古墳文化の重要な要素となりました。春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり、または「きねんさい」)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり、または「にいなめさい」「しんじょうさい」)は特に重要な行事であり、この頃までに我が国に流入した外来文化とも融合して我が国独自の伝統文化が形成され...
古墳時代の人々は、豪族などの有力者が掘立柱(ほったてばしら)を用いた平地住居を建てていたのに対して、普通の人々はそれまでの竪穴住居で暮らすのが一般的だったようです。住居の中には、粘土で固めた竃(かまど)が使用されていました。日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中頃には朝鮮半島から伝わったとされる硬質で灰色の須恵器(す...
古墳時代の後期には副葬品にも大きな変化がありました。それまでの武具や馬具のほかに生前の日用品である土器などがおさめられるようになり、埴輪(はにわ)もそれまでの円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪とともに、人間や動物をあしらった形象(けいしょう)埴輪が用いられました。家族墓的な性格を持つようになって葬送儀礼(そうそうぎれい)が変化したことで、副葬品もそれまでの故人の権威を示すという意味から、故...
6世紀に入って古墳時代も後期になると、古墳自体にも大きな変化が現れました。従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が山の中腹や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に拡大することによって当時の国民の生活レベルが向上し、その結果とし...
漢字がもたらした「文字で記録を残す文化」は、やがて6世紀半ば頃に「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」といった我が国古来の歴史をまとめる事業をもたらし、これらが「古事記」や「日本書紀」といった我が国最古の歴史書へとつながりました。また、6世紀に入ると百済から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか儒教(じゅきょう)を伝えま...
古墳時代中期の5世紀前後には、朝鮮半島の戦乱から逃れるために数多くの帰化人(きかじん、または渡来人=とらいじん)が我が国に渡来(とらい)しました。大和朝廷は彼らを厚遇して畿内やその周辺に居住させ、彼らから大陸の進んだ文化を積極的に学びました。例えば、大陸の進んだ土木技術が大規模な治水や灌漑(かんがい)事業を可能にしたり、優れた鉄製農具をつくることを可能とする技術が農業の生産性を大いに高めたりするな...
倭の五王の一人である「武」とされる雄略天皇の時代までに、大和朝廷の勢力は関東から九州南部まで広がっていたと考えられています。なぜなら埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳と熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄剣(てっけん)に、それぞれ「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」と読める銘文(めいぶん)が発見されたからです。なお、雄略天皇の別名は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」で...
朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大和朝廷は、5世紀に入るとチャイナの南朝である宋や斉(せい)とも積極的に外交を行いました。いわゆる「倭(わ)の五王(ごおう)」の時代のことです。「宋書」倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権を認めてもらおうとしています。要するに、我が国はチャ...
さて、好太王の碑から4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢のおおよそをつかむことが出来ますが、実は我が国の歴史書である「古事記」や「日本書紀」からも知ることができます。14代の仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御された後、后(きさき)であった神功(じんぐう)皇后が身ごもっているにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済や高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。おそらく神功皇...
三国が形成された当時の朝鮮半島(特に南部)には豊富な鉄資源や先進技術が存在していました。大和朝廷は百済との友好関係を足がかりとして、4世紀後半には統一国家のなかった弁韓地方の任那(みまな)に勢力を伸ばしました。なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書...
我が国で大和朝廷が国内統一を進めていたとされる3世紀から4世紀にかけて、チャイナでは三国時代の後に魏(ぎ)を倒した晋(しん)が280年に大陸を統一しましたが、4世紀に入ると晋は北方民族の侵入を受けて南方へ移り、やがて南北朝時代となりました。大陸の混乱状態によって周辺の諸民族に対するチャイナの影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。朝鮮半島では、現...
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南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...