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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その5

    すでに存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これらのこ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その4

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その3

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その2

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后陛下(こうごうへいか)に以下のように仰られました。「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそ...

  • 仁徳天皇の「民のかまど」 その1

    さて、皆さんは世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙...

  • 古墳文化の発展 その3

    古墳の分布は大和朝廷の勢力拡大とともに広がりを見せていきました。4世紀後半頃には九州南部から東北南部まで及ぶようになり、5世紀に入るとその数も増えていきました。古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお、最近の教科書では応...

  • 古墳文化の発展 その2

    前期の副葬品には、鉄製の武器や農工具などのほかに、縁(ふち)の断面が三角形をなして神や獣(けもの)をデザインした三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの多数の銅鏡(どうきょう)や、碧玉製(へきぎょくせい)の腕輪(うでわ)類といった呪術的(じゅじゅつてき)な性格をもつものが多く見られます。このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。3世紀...

  • 古墳文化の発展 その1

    弥生(やよい)時代の後期から、すでに大きな墳丘(ふんきゅう)を持つ墓が各地でつくられていましたが、3世紀後半になると、畿内(きない)から瀬戸内海沿岸にかけて、丘陵(きゅうりょう)や山地など自然の形を利用した古墳が現れました。なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その10

    その後、我が国が独立を回復する以前から「紀元節の復活」を望む声が国民のあいだで高まってきましたが、米ソの冷戦や安保闘争などの保革激突によって実現できませんでした。終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月1...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その9

    このようにして大和を平定された神武天皇は、橿原(かしはら)の地に宮殿を築かれ、初代天皇として即位されました。なお、現在の橿原神宮はこの伝承に基づいて明治時代に創建されたものです。また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。現在、神武天皇が即位されて...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その8

    天皇は苦戦の末、紀伊(きい、現在の和歌山県)から海路で熊野(くまの、現在の三重県)に上陸されましたが、険しい山道のなかでいつしか道に迷われそうになりました。そんな神武天皇の軍勢の前に、いきなり巨大なカラスが現れました。それは三本足をもつ八咫烏(やたがらす)でした。八咫烏は天照大神の使いとして、天皇を大和まで先導して道案内の役割を果たしたのです。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられ...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その7

    では、日本書紀や古事記による神武天皇の東征はどのように書かれているのでしょうか。現代の天皇陛下は数えて第126代目となられますが、日本書紀あるいは古事記には、始祖(しそ)とされる神武天皇がご即位されるまでの様々な出来事が生き生きと描かれています。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫であられる神武天皇(別名:神日本磐余彦尊=かんやまといわれひこのみこと)...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その6

    「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その5

    河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が、8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その4

    神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆様はご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山の...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その3

    5世紀のチャイナの南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅん...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その2

    我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後75年以上を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(...

  • 大和朝廷の誕生と日本の建国伝承 その1

    ※今回より「第94回歴史講座」の内容の更新を開始します(3月18日までの予定)。3世紀後半頃の我が国では国家の統一が進み、大和(やまと、現在の奈良県)の豪族を中心とする強大な連合政権が誕生しました。これを大和朝廷(やまとちょうてい)と呼び、現代の皇室のルーツでもあります。大和朝廷が誕生したとされる当時は、大和地方を中心に巨大な古墳(こふん)が現れており、また各地の古墳も大和地方と同じ前方後円墳(ぜんぽう...

  • 占領政策の開始 その6

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(2月11日)からは「第94回歴史講座」の内容を更新します(3月18日までの予定)。公職追放に関する一連の指示のうち、G項の「その他」が何を意味するのかが非常に曖昧(あいまい)でしたが、GHQはこれを逆手に取って、政策に反対すると思われた者を名指しで追放しました。後に内閣総理大臣を務めた鳩山一郎(はとやまいちろう)や石橋湛山(いしばしたんざん)などがその例です...

  • 占領政策の開始 その5

    日本の民主化達成のためには「戦争協力者を公職から排除する」ことが望ましいと判断したGHQは、昭和21(1946)年1月4日に以下に該当する人物を公職から追放するように指示しました。A項 戦争犯罪人B項 職業軍人C項 極端な国家主義団体などの有力分子D項 大政翼賛会や翼賛政治会などの有力分子E項 日本の膨張に関係した金融機関などの役員F項 占領地の行政長官G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者政府はこれらの指...

  • 占領政策の開始 その4

    日本人の国民意識を変革するため、GHQは様々な政策に着手しました。例えば「戦争中に日本の軍人や政治家が一般国民に知らせなかった事実を暴露する」と称して、大東亜戦争の開戦日にあたる昭和20(1945)年12月8日に、占領軍が作成した「太平洋戦争史」の各新聞への連載を開始させました。そして、GHQはこの連載に合わせるかのように「大東亜戦争」の呼称を禁止して「太平洋戦争」に無理やり変更させました。翌9日にはNHKラジオに...

  • 占領政策の開始 その3

    かつて弱腰外交を展開した幣原首相にいきなりカウンターパンチを食らわせたGHQは、その後も次々と指令を加えました。昭和20(1945)年10月には軍国主義や国家主義的とみなした教育を禁止するとともに、これらに抵触するとして約11万人もの教職者を追放するよう指令しました。これを「教職追放」といいます。さらにGHQは、我が国の伝統的な神道を軍国主義のイデオロギーと一方的にみなして、同年12月に神道を国家から分離するために...

  • 占領政策の開始 その2

    東久邇宮内閣の総辞職を受けて新たに内閣を組織したのは、昭和初期を中心に外務大臣を歴任し、他国との「協調外交」を目指したものの、結果として相手国になめられ続けるだけだった弱腰ぶりを展開した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。昭和20(1945)年10月9日に内閣を発足させた幣原は、11日に新任挨拶(あいさつ)のためマッカーサーに面会に出向きましたが、そこで待っていたのは、GHQによる一方的な要求でした。マッ...

  • 占領政策の開始 その1

    昭和天皇のご聖断をもたらした鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣が終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に総辞職すると、次の内閣総理大臣には皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が任命されました。我が国最初で最後の皇族内閣です。東久邇宮が首相に任命された背景には、我が国が連合国に降伏したことに納得しない陸軍の武装を解除するとともに、ポツダム宣言に基づく終戦に伴う手続を円滑に進める...

  • 連合国による日本占領 その13

    ポツダム宣言の受諾によって、我が国の主権の及ぶ範囲は本州・北海道・九州・四国と連合国の決定する諸小島(しょしょとう)に限られ、奄美大島・沖縄・小笠原諸島はアメリカの管理下に置かれたほか、台湾並びに澎湖(ほうこ)諸島は中華民国に返還されました。昭和20(1945)年8月8日に日ソ中立条約を一方的に破棄して我が国に侵攻したソ連は、アメリカに対して南樺太(みなみからふと)や千島(ちしま)列島全島、さらには北海道...

  • 連合国による日本占領 その12

    29.占領軍総司令部への不適切な言及GHQを聖域とし、一切言及できないようにしました。30.時期尚早(しょうそう)の発表解禁されていない報道の公表を禁じることによって、GHQによる政策の一切を隠蔽し、同時に日本人に対策を立てさせない効果をもたらしました。プレス=コードによって、我が国は新聞から雑誌、私的書簡に至るまですべての文書が丹念に検閲され、プレス=コードに触れると判断されれば容赦なく発禁あるいは私信の没...

  • 連合国による日本占領 その11

    25.占領軍の批判当時の米兵が罪を犯しても「背の高い男」などと抽象的な表現でしか報道できなかったばかりか、米兵の犯罪による賠償金を日本政府に肩代りさせ、それすら報道させませんでした。26.飢餓(きが)状態の誇張深刻な食糧不足で飢(う)える国民が増えていたにもかかわらず、その実態を「誇張」と一方的にみなして報道させませんでした。27.暴力行為と不穏状態の誘導日本国民による占領軍に対する抗議行動の一切を禁止し...

  • 連合国による日本占領 その10

    21.その他の宣伝抽象的な内容ですが、逆にこれを理由としてGHQに都合の悪い人物を追放したり、都合の悪い文書を破棄あるいは没収したりすることを可能としました。「GHQのためなら何でもあり」を可能とする重要な項目だったのです。22.戦争犯罪人の正当化または弁護この事項が、極東国際軍事裁判における連合国側の「何でもあり」を可能としました。23.占領軍将兵の日本女性との懇交日本政府がGHQの要請によっていわゆる「慰安所」...

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