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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 連合国による日本占領 その9

    16.戦争弁護の宣伝これによって、本来あるはずの「戦争の原因」の隠蔽に成功したのみならず「日本だけが悪かった」という何の根拠もない「架空の神話」が独り歩きすることになりました。17.神国日本の宣伝18.軍国主義の宣伝皇室を中心とする我が国の国体を破壊すると同時に、我が国に「軍国主義があった」と見せかけ、戦時における日本軍の活躍などを報じることが禁止されました。19.民族主義(国家主義)の宣伝国家として当然であ...

  • 連合国による日本占領 その8

    5.アメリカの批判6.ソ連の批判7.イギリスの批判8.朝鮮人の批判9.中国の批判10.その他の連合国の批判11.連合国の全体批判連合国への批判を一切許さなかったほか、我が国と朝鮮人や中華民国とを離反させる流れにもつながりました。12.満州(現在の中国東北部)での日本人処遇への批判ソ連による侵攻後の満州における日本人の苦難が報道されなくなり、その結果として、日本人が満州において所持していた膨大(ぼうだい)な資産が略奪...

  • 【ハイブリッド方式】第94回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年1月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 連合国による日本占領 その7

    プレス=コードは昭和20(1945)年9月19日に発表されましたが、表現活動において触れることを厳禁した30項目は非常に重要なものですので、そのすべてを紹介します。1.占領軍総司令部(連合軍最高司令官、マッカーサー)の批判これによってマッカーサーは聖人君子のごとき扱いを受けるようになりました。この効果は絶大で、やがて日本国民の中からマッカーサーへの感謝の思いを綴(つづ)った手紙がGHQに届くようになります。2.極東...

  • 連合国による日本占領 その6

    GHQによる言論統制は苛烈(かれつ)を極めました。確かに戦前の我が国にも検閲はありましたが、×印や○印で伏せ字にされたので、まだ消したことが分かるものでした。しかし、ポツダム宣言の重大違反となるGHQの言論統制は、そもそも検閲があったことを知らせてはならないことから、どこが消されたかを分からなくするために、文章を一から作り直さなければならなかったのです。もし新聞や雑誌を発行しようにも、GHQの検閲によって削...

  • 連合国による日本占領 その5

    昭和20(1945)年10月2日、GHQは「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏(きゅうぼう)に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」を命じ、これに基づいて「日本民族から独立心を奪い、贖罪(しょくざい、犯した罪をつぐなうこと)意識を植えつける政策」が実施され続けました。アメリカによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げたこれらの計画は...

  • 連合国による日本占領 その4

    ポツダム命令によって、GHQの発する命令は「天皇の名において日本政府が発する命令」に置き換わり、日本国民が「天皇陛下(へいか)のご命令とあらば」と、どんな過酷な条件であろうと逆らわずに受けいれるという図式が出来上がってしまいました。実際には直接統治にもかかわらず、我が国を裏で操るがごとく間接的に統治するという占領政策が可能となったのですから、GHQは非常にやりやすかったことでしょう。後に行われた極東国際...

  • 連合国による日本占領 その3

    昭和20(1945)年9月20日、ポツダム宣言の占領方針を遂行(すいこう)するための法的措置(そち)の根拠として、法律ではなく「最高司令官の指令に基づいた勅令や政令」を発することを可能とした、いわゆる「ポツダム緊急勅令」が発せられ、これに基づいて「ポツダム命令」が次々に出されるようになりました。これは、大日本帝国憲法第8条1項において「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国...

  • 連合国による日本占領 その2

    GHQを通じて我が国に事実上思いどおりの占領政策を行うことを可能としたアメリカは、我が国が連合国に降伏する以前から対日戦略を着実に練り続けていました。大東亜戦争開戦の翌年の1942(昭和17)年には、早くも対日戦後政策がアメリカ外交関係協議会で討論されたほか、1944(昭和19)年にはアメリカの国務・陸軍・海軍調整委員会(=SWNCC)が発足して、具体的な対日方針が計画されました。これらの計画は、GHQの占領政策にも少...

  • 連合国による日本占領 その1

    我が国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した後の昭和20(1945)年8月末、最高司令官マッカーサー元帥(げんすい)率いる連合国軍が、占領軍として日本に進駐しました。9月2日には、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号で、重光葵(しげみつまもる)外務大臣と梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長が降伏文書に調印しました。我が国はアメリカ軍を主力とする占領軍の軍事的支配下に入り、東京にはGHQ(=連合国...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その3

    会見を終えたマッカーサーは、後に軍事補佐官のボナー=フェラーズによる「もし天皇が戦争犯罪人として裁かれれば日本の統治機構は崩壊(ほうかい)し、全国民的反乱が避けられなくなる」との進言を受けいれ、昭和天皇を戦犯として訴追(そつい)しませんでした。昭和天皇の無私のご行動によって、皇室を中心とする我が国の国体(=国家としての体制のこと)を護ることはできました。終戦の直前、昭和天皇による2度目のご聖断が下...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その2

    「日本の戦争責任のすべてはこの私にある。自分の身はどうなってもかまわないから、飢(う)えている国民のためにぜひ食糧援助をお願いしたい。ついては、皇室財産の有価証券類をまとめて持ってきたので、その費用の一部に充(あ)てて欲しい」。昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサーは「われ、神を視(み)たり!」と大いに感動して、それまで陛下の前で椅子に座り、足を組んでパイプをくわえたままの姿勢からやおら立ち上がると...

  • 昭和天皇とマッカーサーとの会見 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を開始します(2月10日までの予定)。大東亜戦争終結から約1か月が経った昭和20(1945)年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)のマッカーサー元帥(げんすい)と会見されるため、アメリカ大使の公邸へと向かわれました。マッカーサーは陛下(へいか)を玄関で出迎えることもなく、会見場となった迎賓室(げいひんしつ)で待機していました。この当時、マッカーサーは「戦争...

  • 小国の分立と邪馬台国 その4

    ※「第93回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月20日)からは「昭和時代・戦後」の更新を開始します(2月10日までの予定)。239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。...

  • 小国の分立と邪馬台国 その3

    中国大陸では220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち華北(かほく)を支配していた魏に使者を送ったのが、有名な邪馬台国(やまたいこく)でした。「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連...

  • 小国の分立と邪馬台国 その2

    当時のチャイナの歴史書には、我が国の小国がチャイナと様々な外交を展開したことが記されています。例えば、前漢の歴史をまとめた「漢書」地理志(「かんじょ」ちりし)によれば、紀元前1世紀頃の倭人(わじん)社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡に使者を送ったとされています。楽浪郡とは先述のとおり朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地でした。なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我...

  • 小国の分立と邪馬台国 その1

    環濠集落は弥生時代の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地性集落が広まったのは、先述のとおり軍事的な緊張が高まったからでした。収穫物を求めるなどして我が国も争いの時代に入っていったのです。集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつ...

  • 世界に誇れる日本文明 その8

    さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...

  • 世界に誇れる日本文明 その7

    その後、弥生時代を迎えて水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ文化を導入する必要に迫られました。しかし、我が国における青銅器や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器がつくられたのは先述したとおりです。つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジしてさらに発展させるという優...

  • 世界に誇れる日本文明 その6

    世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダス川流域...

  • 世界に誇れる日本文明 その5

    アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷・周(しゅう)・秦・漢より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法などを活用した最新の調査で明...

  • 世界に誇れる日本文明 その4

    ところで、中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれてい...

  • 世界に誇れる日本文明 その3

    さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったま...

  • 世界に誇れる日本文明 その2

    また、歴史教科書にはこのような記述も見られます。「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」というのはどうなので...

  • 世界に誇れる日本文明 その1

    ところで、現在の歴史教科書では、弥生文化のはじまりについて概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなので...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和5年1月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 弥生文化 その11

    国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を共通とする大きな連合体が作られていたと考えられています。なお、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡は大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさど...

  • 弥生文化 その10

    弥生時代には、それまでの石器から新たに金属器が使われるようになりましたが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来していたと見なされています。このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり...

  • 弥生文化 その9

    また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭りを重んじるようになりましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古...

  • 弥生文化 その8

    弥生時代の死者は、集落近くの共同墓地に大型の甕棺(かめかん)を用いた甕棺墓(かめかんぼ)や、大型の平らな石を配した支石墓(しせきぼ)などに葬(ほうむ)られましたが、縄文時代の屈葬と異なり、体全体を伸ばしたままで伸展葬(しんてんそう)された事例が多いのが特徴です。また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ、後期には大...

  • 弥生文化 その7

    水稲耕作が中心の農耕社会の出現は、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化をもたらしました。人々は水田の近辺で生活したほうが便利なことから、やがて平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。そこで人々は...

  • 弥生文化 その6

    弥生時代が進むにつれ、農業の技術も次第に発達していきました。農具は初期の木製から鋤(すき)や鍬(くわ)、刀子(とうす)、斧(おの)などの鉄製農工具が現れ、水路の造成や耕地の開拓も進んで乾田(かんでん)の開発も進められました。弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(...

  • 弥生文化 その5

    初期の水稲耕作は、もともと水分を多く含んだ低湿地(ていしっち)で行われていました。これを湿田(しつでん)といいます。当初は籾(もみ)を田んぼに直接まく直播(じきまき)を行っていましたが、やがて苗(なえ)を育てて水田に植えていく田植えが広まっていきました。耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほ...

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