南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
16.戦争弁護の宣伝これによって、本来あるはずの「戦争の原因」の隠蔽に成功したのみならず「日本だけが悪かった」という何の根拠もない「架空の神話」が独り歩きすることになりました。17.神国日本の宣伝18.軍国主義の宣伝皇室を中心とする我が国の国体を破壊すると同時に、我が国に「軍国主義があった」と見せかけ、戦時における日本軍の活躍などを報じることが禁止されました。19.民族主義(国家主義)の宣伝国家として当然であ...
5.アメリカの批判6.ソ連の批判7.イギリスの批判8.朝鮮人の批判9.中国の批判10.その他の連合国の批判11.連合国の全体批判連合国への批判を一切許さなかったほか、我が国と朝鮮人や中華民国とを離反させる流れにもつながりました。12.満州(現在の中国東北部)での日本人処遇への批判ソ連による侵攻後の満州における日本人の苦難が報道されなくなり、その結果として、日本人が満州において所持していた膨大(ぼうだい)な資産が略奪...
【ハイブリッド方式】第94回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年1月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
プレス=コードは昭和20(1945)年9月19日に発表されましたが、表現活動において触れることを厳禁した30項目は非常に重要なものですので、そのすべてを紹介します。1.占領軍総司令部(連合軍最高司令官、マッカーサー)の批判これによってマッカーサーは聖人君子のごとき扱いを受けるようになりました。この効果は絶大で、やがて日本国民の中からマッカーサーへの感謝の思いを綴(つづ)った手紙がGHQに届くようになります。2.極東...
GHQによる言論統制は苛烈(かれつ)を極めました。確かに戦前の我が国にも検閲はありましたが、×印や○印で伏せ字にされたので、まだ消したことが分かるものでした。しかし、ポツダム宣言の重大違反となるGHQの言論統制は、そもそも検閲があったことを知らせてはならないことから、どこが消されたかを分からなくするために、文章を一から作り直さなければならなかったのです。もし新聞や雑誌を発行しようにも、GHQの検閲によって削...
昭和20(1945)年10月2日、GHQは「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏(きゅうぼう)に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」を命じ、これに基づいて「日本民族から独立心を奪い、贖罪(しょくざい、犯した罪をつぐなうこと)意識を植えつける政策」が実施され続けました。アメリカによる占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げたこれらの計画は...
ポツダム命令によって、GHQの発する命令は「天皇の名において日本政府が発する命令」に置き換わり、日本国民が「天皇陛下(へいか)のご命令とあらば」と、どんな過酷な条件であろうと逆らわずに受けいれるという図式が出来上がってしまいました。実際には直接統治にもかかわらず、我が国を裏で操るがごとく間接的に統治するという占領政策が可能となったのですから、GHQは非常にやりやすかったことでしょう。後に行われた極東国際...
昭和20(1945)年9月20日、ポツダム宣言の占領方針を遂行(すいこう)するための法的措置(そち)の根拠として、法律ではなく「最高司令官の指令に基づいた勅令や政令」を発することを可能とした、いわゆる「ポツダム緊急勅令」が発せられ、これに基づいて「ポツダム命令」が次々に出されるようになりました。これは、大日本帝国憲法第8条1項において「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由(よ)リ帝国...
GHQを通じて我が国に事実上思いどおりの占領政策を行うことを可能としたアメリカは、我が国が連合国に降伏する以前から対日戦略を着実に練り続けていました。大東亜戦争開戦の翌年の1942(昭和17)年には、早くも対日戦後政策がアメリカ外交関係協議会で討論されたほか、1944(昭和19)年にはアメリカの国務・陸軍・海軍調整委員会(=SWNCC)が発足して、具体的な対日方針が計画されました。これらの計画は、GHQの占領政策にも少...
我が国がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した後の昭和20(1945)年8月末、最高司令官マッカーサー元帥(げんすい)率いる連合国軍が、占領軍として日本に進駐しました。9月2日には、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号で、重光葵(しげみつまもる)外務大臣と梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長が降伏文書に調印しました。我が国はアメリカ軍を主力とする占領軍の軍事的支配下に入り、東京にはGHQ(=連合国...
会見を終えたマッカーサーは、後に軍事補佐官のボナー=フェラーズによる「もし天皇が戦争犯罪人として裁かれれば日本の統治機構は崩壊(ほうかい)し、全国民的反乱が避けられなくなる」との進言を受けいれ、昭和天皇を戦犯として訴追(そつい)しませんでした。昭和天皇の無私のご行動によって、皇室を中心とする我が国の国体(=国家としての体制のこと)を護ることはできました。終戦の直前、昭和天皇による2度目のご聖断が下...
「日本の戦争責任のすべてはこの私にある。自分の身はどうなってもかまわないから、飢(う)えている国民のためにぜひ食糧援助をお願いしたい。ついては、皇室財産の有価証券類をまとめて持ってきたので、その費用の一部に充(あ)てて欲しい」。昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサーは「われ、神を視(み)たり!」と大いに感動して、それまで陛下の前で椅子に座り、足を組んでパイプをくわえたままの姿勢からやおら立ち上がると...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を開始します(2月10日までの予定)。大東亜戦争終結から約1か月が経った昭和20(1945)年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)のマッカーサー元帥(げんすい)と会見されるため、アメリカ大使の公邸へと向かわれました。マッカーサーは陛下(へいか)を玄関で出迎えることもなく、会見場となった迎賓室(げいひんしつ)で待機していました。この当時、マッカーサーは「戦争...
※「第93回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月20日)からは「昭和時代・戦後」の更新を開始します(2月10日までの予定)。239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。...
中国大陸では220年に後漢が滅び、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となりましたが、このうち華北(かほく)を支配していた魏に使者を送ったのが、有名な邪馬台国(やまたいこく)でした。「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連...
当時のチャイナの歴史書には、我が国の小国がチャイナと様々な外交を展開したことが記されています。例えば、前漢の歴史をまとめた「漢書」地理志(「かんじょ」ちりし)によれば、紀元前1世紀頃の倭人(わじん)社会は百余国、つまり100余りの国に分かれ、楽浪郡に使者を送ったとされています。楽浪郡とは先述のとおり朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地でした。なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我...
環濠集落は弥生時代の大きな特徴の一つですが、この他にも、瀬戸内海沿岸や大阪湾岸にかけての平野部や、海を広く展望できる丘陵(きゅうりょう)には、見張りや砦(とりで)などの機能を持つ高地性集落が見られます。このような環濠集落や高地性集落が広まったのは、先述のとおり軍事的な緊張が高まったからでした。収穫物を求めるなどして我が国も争いの時代に入っていったのです。集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつ...
さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...
その後、弥生時代を迎えて水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ文化を導入する必要に迫られました。しかし、我が国における青銅器や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器がつくられたのは先述したとおりです。つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジしてさらに発展させるという優...
世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダス川流域...
アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷・周(しゅう)・秦・漢より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、放射性炭素年代法などを活用した最新の調査で明...
ところで、中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆様の多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲耕作などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと教科書に書かれてい...
さらに、男性のみがもつ遺伝子の「Y染色体」を周辺諸国とともに調査したところ、日本人男子の約34%がもつY染色体が、他の地域にはほとんど存在しないことが分かりました。歴史を振り返れば、我が国は異民族に征服されたこともなければ、民族虐殺(ぎゃくさつ)を伴う惨劇を国内で経験したこともなく、また縄文時代以降に日本民族を圧倒するような移民もありませんでした。我が国には、古くからのY染色体が、その基本形を保ったま...
また、歴史教科書にはこのような記述も見られます。「弥生文化は、農耕社会をすでに形成していた朝鮮半島から必ずしも多くない人々が新しい技術を携(たずさ)えて日本列島にやってきて、従来の縄文人とともに生み出したものと考えられる」。上記のうち、朝鮮半島から農耕社会の技術が伝わったというのが実際には逆だったことは先述のとおりですが、では「渡来(とらい)した弥生人と従来の縄文人が共存した」というのはどうなので...
ところで、現在の歴史教科書では、弥生文化のはじまりについて概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、これは本当のことなので...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和5年1月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
国産の青銅器のうち、銅鐸は近畿地方を中心に、銅矛・銅戈は北九州を中心に、平形銅剣は東瀬戸内海を中心に分布しており、青銅器が広まった地方はいずれも文化の先進地域として栄え、祭祀(さいし)を共通とする大きな連合体が作られていたと考えられています。なお、島根県の荒神谷(こうじんだに)遺跡は大量の青銅製祭器が発掘されたことで有名です。ちなみに、全国各地で青銅製祭器が広まったのは、集落の政治や軍事をつかさど...
弥生時代には、それまでの石器から新たに金属器が使われるようになりましたが、我が国では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝来していたと見なされています。このため、通常ではまず青銅器が主流となった(=青銅器時代)後に、青銅よりも優れた金属である鉄器が用いられる(=鉄器時代)ようになるのですが、我が国においては鉄器が実用的な道具としてすぐに広まりました。つまり、我が国では石器時代から青銅器時代を飛び越えていきなり...
また、農作業は天候に左右されやすいため、人々は太陽や月・雨・風・水などの自然に霊が宿ると信じ、それらに祈る祭りを重んじるようになりましたが、そんな中で「神々に祈る」ことを主とする人々も見られるようになりました。このようにして、人々の間に権威を持つ統一者が現れるとともに、彼らの死後の墓も時代とともに大きく進化していきましたが、こうした流れが天皇のルーツになるとともに、全国各地に現在も見られる大きな古...
弥生時代の死者は、集落近くの共同墓地に大型の甕棺(かめかん)を用いた甕棺墓(かめかんぼ)や、大型の平らな石を配した支石墓(しせきぼ)などに葬(ほうむ)られましたが、縄文時代の屈葬と異なり、体全体を伸ばしたままで伸展葬(しんてんそう)された事例が多いのが特徴です。また、方形(ほうけい)の低い墳丘(ふんきゅう)の周りに溝(みぞ)をめぐらした方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も各地でつくられ、後期には大...
水稲耕作が中心の農耕社会の出現は、社会のしくみや人々の生活にも大きな変化をもたらしました。人々は水田の近辺で生活したほうが便利なことから、やがて平地に定住するようになりました。住居も縄文時代の竪穴住居から掘立柱の平地式建物が多くなり、住居が集まってつくられた集落の規模も次第に大きくなりました。集落が大きくなるにつれて問題となったのは、いかにして集落全体を外敵から守るかということでした。そこで人々は...
弥生時代が進むにつれ、農業の技術も次第に発達していきました。農具は初期の木製から鋤(すき)や鍬(くわ)、刀子(とうす)、斧(おの)などの鉄製農工具が現れ、水路の造成や耕地の開拓も進んで乾田(かんでん)の開発も進められました。弥生初期の湿田は地下水位が高いことから水の補給を必要としないのですが、土壌(どじょう)の栄養が少ないこともあって生産性が低いのが欠点でした。一方、乾田は地下水位が低いので灌漑(...
初期の水稲耕作は、もともと水分を多く含んだ低湿地(ていしっち)で行われていました。これを湿田(しつでん)といいます。当初は籾(もみ)を田んぼに直接まく直播(じきまき)を行っていましたが、やがて苗(なえ)を育てて水田に植えていく田植えが広まっていきました。耕作用の農具には木製の鋤(すき)や鍬(くわ)が用いられ、収穫の際には石包丁(いしぼうちょう)を使用して、稲が実った部分のみを直接刈り取る穂首刈(ほ...
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南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...