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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 弥生文化 その4

    弥生時代の大きな特徴の一つとして、先述した弥生土器が挙げられます。この時代の土器は縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せきかっしょく)であり、また良質の粘土を高温で焼いているために硬いものが多いです。弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生町(とう...

  • 弥生文化 その3

    紀元前500年頃、中国大陸や朝鮮半島に近い北九州を中心に新たな文化が生まれました。この文化は、水稲耕作や金属器(青銅器や鉄器)を使用し、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生土器が使用されました。これらの文化を弥生文化といい、3世紀末までのこの時代を弥生時代といいます。ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生文化の及ん...

  • 弥生文化 その2

    中国大陸で群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の春秋・戦国時代の紀元前6世紀頃には、先述のとおり青銅器にかわって鉄器が普及し始め、紀元前3世紀には始皇帝(しこうてい)の秦(しん)が大陸を史上初めて統一し、始皇帝の死後に秦が滅亡すると、かわって漢(かん、または前漢=ぜんかん)が成立しました。なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇...

  • 弥生文化 その1

    我が国で縄文文化が長い時間をかけて発展し続けた頃、中国大陸では急速に文化が進展していきました。紀元前5000年~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土地帯でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう)下流域でも水稲耕作(=水稲農耕)が始まって、農耕社会が成立しました。紀元前16世紀頃に黄河流域で成立した殷(いん)という王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、...

  • 縄文文化 その12

    北海道函館市の豊原(とよはら)4遺跡の約6500年前の縄文時代の土坑墓(どこうぼ)から、幼児または子供の足形・手形を押し当ててつくられた「足形・手形付土製品(どせいひん)」が発掘されました。なお、青森県青森市の大石平(おおいしたい)遺跡からも同じような土製品が発掘されています。縄文時代の平均寿命は男女ともに約30歳と推定されており、現代とは比較にならないくらい厳しい時代でした。これらの土製品は、病気など...

  • 縄文文化 その11

    ところで、我が国で水稲耕作が始まったのは弥生時代の頃とされてきましたが、近年の進化した調査によって、少なくとも縄文時代の晩期にはイネの栽培が行われていたことが明らかになっています。平成11(1999)年、岡山県岡山市の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か所を...

  • 縄文文化 その10

    縄文時代の遺跡から出土する人骨を調べてみると、多くの儀式や儀礼が行われたと思われる形跡が見られます。例えば、縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯(ばっし)の風習は、成人期における集団の通過儀礼として行われたと考えられています。また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。なお、縄文時代の頃には集落...

  • 縄文文化 その9

    ところで、先述したとおり縄文土器が世界最古クラスであることから、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことになります。こうした事実が明らかになったのは、放射性炭素年代法などといった最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。日本列島は伝...

  • 縄文文化 その8

    さらに平成6(1994)年には、直径約1mのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに...

  • 縄文文化 その7

    つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培(さいばい)も行われた豊かで安定した生活」と大幅に記述が変化しているのです。なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~40...

  • 縄文文化 その6

    ところで、これまで述べたように縄文時代は「豊かで安定した定住的な生活」とされ、歴史教科書にもそのように書かれていますが、私(黒田裕樹)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述が現在とは大きく異なっていたことを皆さんはご存知でしょうか。私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝を...

  • 縄文文化 その5

    縄文時代になって食料の獲得法が多様化したので、以前のように獲物を求めて移動する必要がなくなり、安定した生活が送れるようになった縄文時代の人々は、地面を掘り下げて作った半地下式の竪穴(たてあな)住居に定住する生活を始めました。一つの住居には一つの家族が住み、数件の竪穴住居が寄り合って形成された集落に30~50人前後の人々が住んでいたと考えられています。縄文時代の集落では基本的に自給自足の生活を送っていま...

  • 縄文文化 その4

    ところで、魚類を捕まえようと思えば、釣るか銛(もり)で突き刺したりするのが一番手っ取り早いですよね。ということは釣り針や銛の先端が必要になりますが、縄文時代の人々は、これらの素材にシカの角や骨を利用していました。これを骨角器(こっかくき)といいます。その他にも網(あみ)を用いた漁も行っていました。また、丸木舟も各地で発見されており、八丈島(はちじょうじま)や伊豆諸島に渡るなどの航海術も身に着けてい...

  • 縄文文化 その3

    縄文時代の人々は、主に狩猟や漁労を営んだり、植物資源の採取をしたりして食料を確保しました。特に漁労は縄文時代になってから幅広く行われるようになりましたが、これは完新世になって日本が列島化し、周りを海に囲まれるとともに各地で入江(いりえ)が発達したからであり、魚類が捕りやすくなったのはむしろ当然といえます。魚類のほかにも貝類の採集が活発化しました。縄文時代の遺跡には、人々が食べた貝の貝殻(かいがら)...

  • 縄文文化 その2

    大きく変わった自然環境に対応するために、様々な新技術や道具が登場しました。先述した弓矢もその一つで、はるかに遠くの獲物でも正確に捕まえることができました。弓矢の矢じりには石鏃(せきぞく)が用いられ、石斧(せきふ)などとともに当時は磨製石器が用いられていました。また、植物の煮炊(にた)きや食物を貯蔵する目的で土器が用いられ始め、人々の食生活は格段に豊かになりました。この時代の土器は、厚手で黒褐色(こ...

  • 縄文文化 その1

    今から約1万数千年前に地質時代における完新世(かんしんせい)になると氷期が終わり、気候が温暖化して海面が上昇し、日本は大陸と切り離されて日本列島が成立しました。我が国が大陸と海で隔(へだ)てられたという地理的環境は、中国大陸や朝鮮半島と近い距離にあったために文化的交流が行われ、大陸の文明の影響を受ける一方で、日本列島に独自の歴史と文化を生み出し、育てるという効果をもたらしました。なぜなら、海という...

  • 旧石器時代の社会 その3

    ところで、打製石器を使用した旧石器時代に対して、石器を磨(みが)き上げた磨製(ませい)石器あるいは土器が使用された時代を新石器時代と呼びます。これらのうち、日本の旧石器時代では打製石器を使用していたとされ、通常の学習もしくは将来の大学あるいは高校入試などに関してはそのように覚えて差し支(つか)えありません。しかし、実は岩宿遺跡で刃先(はさき)に磨きをかけた石斧である「局部磨製石斧」と呼ばれる世界最...

  • 旧石器時代の社会 その2

    ところで、我が国では長いあいだ旧石器時代は存在しないと考えられてきましたが、昭和21(1946)年に相沢忠洋(あいざわただひろ)氏が群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の関東ローム層から石器に酷似(こくじ)した石片(せきへん)を発見すると、さらに昭和24(1949)年には同じ関東ローム層から打製石器が発見されました。発掘された石器が約35000年前~25000年前のものと判明したことによって、我が国にも考古学上の旧石器時代が...

  • 旧石器時代の社会 その1

    先述のとおり、更新世の頃に氷河時代となったことで、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が交互に訪れるという厳しい環境となりましたが、海面が100m以上も低下した最も寒い氷期には、日本列島は北と南でユーラシア大陸と陸続きになりました。やがて、北からはマンモスやヘラジカが、南からはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が行き来するようになり、それらの群れを追ってやって来た人々が約40000年前頃から日本列島に住み...

  • 人類の誕生 その3

    さらに約60万年前になると、より進化した旧人(きゅうじん)が出現しました。ヨーロッパ大陸のネアンデルタール人(学名:ホモ・ネアンデルターレンシス)が代表的です。旧人は現代の人類と変わらぬ脳容積を持ち、死者を埋葬(まいそう)するなど精神文化が発達しました。なお、死者を埋葬したと考えられるのは、人骨とともに大量の花粉が発見されているからです。旧人はヨーロッパから西アジアにかけて住み、氷期に適応した生活を...

  • 人類の誕生 その2

    その後、約260万年前に地質時代が現代まで続く第四紀に入ると、更新世(こうしんせい)の頃に氷河時代となり、寒冷な氷期(ひょうき)と比較的温暖な間氷期(かんぴょうき)が交互に訪れるという厳しい環境になりました。そして、約200万年前のアフリカに原人(げんじん)が現れると、寒冷なヨーロッパやアジアに進出しました。原人としてはホモ・ハビリスやホモ・エレクトゥスが知られており、なかでもホモ・エレクトゥスは石を打...

  • 人類の誕生 その1

    ※今回より「第93回歴史講座」の内容の更新を開始します(1月19日までの予定)。日本列島に私たちの祖先がたどりつき、暮らし始めるまでには実に長い年月がかかりました。約700万年前から600万年前の、地質時代でいう新第三紀の中新世(ちゅうしんせい)後期にアフリカに現れた人類の祖先は猿人(えんじん)と呼ばれています。初めは森の中で暮らしていましたが、やがて気候の変動で森が減ってくると草原へ出て、二本足で歩くことを...

  • 戦争の終局 その15

    ※「昭和時代・戦中」の更新は今回が最後となります。明日(12月10日)からは「第93回歴史講座」の内容を更新します(1月19日までの予定)。それにしても、大東亜戦争に関する我が国の歴史の流れを詳しく学べば学ぶほど、我が日本民族が「極限状態になるまで決断できない」ことをつくづく思い知らされます。史実において我が国は、昭和天皇の「ご聖断」によって昭和20(1945)年8月15日に終戦を迎えましたが、それ以前に戦争を終わ...

  • 戦争の終局 その14

    では、アジアの諸民族は大東亜戦争をどのようにとらえているのでしょうか。タイの元首相であるククリット=プラモートが、現地の新聞紙に寄稿した「十二月八日」を紹介します。「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」。「今日、東南アジアの諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは...

  • 戦争の終局 その13

    我が国は大東亜戦争で敗北となりましたが、自衛のために多くの血を流した努力は、別の意味で大きな花を咲かせました。開戦前まで長い間アジアを抑圧してきた欧米列強の支配が、大東亜戦争をきっかけに急速に崩壊への道を歩んだからです。緒戦の日本軍の勝利によって、イギリスやアメリカ、オランダの支配から脱出したアジアの諸民族は、日本軍の占領統治を受ける間に独立心を高めました。そして、我が国の敗戦後に再び植民地として...

  • 戦争の終局 その12

    終戦に伴って、日本本土及び戦地からの軍人の復員や一般邦人の引揚げが始まりましたが、本土の軍人は比較的早く復員できたものの、中国大陸では国民政府軍と中国共産党軍との内戦や、満州を中心とするソ連の参戦、あるいは戦犯としての裁判などによって帰国が遅れました。一般邦人の帰国は困難を極め、終戦時にいわゆる外地にあった邦人居留民のうち、ソ連の支配下に入った満州や、北朝鮮からの引揚げの際には多くの犠牲者が出まし...

  • 戦争の終局 その11

    昭和20(1945)年8月15日の正午、昭和天皇がお自ら録音された「終戦の詔書」が、ラジオを通じて全国民に伝えられました。いわゆる「玉音(ぎょくおん)放送」によって、国民は戦争に負けたことを初めて知り、悔し涙を流しました。「終戦の詔書」は御前会議での陛下のお言葉をもとに起草されましたが、その中で最も重要な部分が、実は最後に記されていることを皆さんはご存知でしょうか。「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕...

  • 戦争の終局 その10

    人望が厚かった阿南陸相の割腹自決は、陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干(じゃっかん)の離反はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて...

  • 戦争の終局 その9

    ご聖断が下った後の閣議では、昭和天皇による「終戦の詔書(しょうしょ、天皇の意思を表示した公文書のこと)」の内容についても審議されましたが、阿南陸相は黙って閣議の決定に従いました。そして鈴木首相に別れの挨拶(あいさつ)を告げると、すべての責任を取って翌8月15日午前4時40分に、昭和天皇から拝領したワイシャツを身に着けて割腹(かっぷく)自決しました。想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃ...

  • 戦争の終局 その8

    「私の考えは、この前言ったことに変わりはない。相手方の回答に対する不安もあるだろうが、私はそのまま受けいれて良いと思う。また玉砕(ぎょくさい)して国に殉(じゅん)ずる思いもよく分かるが、私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」。ご聖断が下った後、阿南陸相は耐え切れずに激しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南陸相に対して優しく声をおかけになりまし...

  • 戦争の終局 その7

    昭和天皇のご聖断によって、我が国は「国体(=天皇を中心とする我が国の体制のこと)を護(まも)る」という条件を付けることでポツダム宣言を受諾することを連合国側に通知しました。我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本政府の地位は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属する」というものでした。この条件では我が国が連...

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