南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
弥生時代の大きな特徴の一つとして、先述した弥生土器が挙げられます。この時代の土器は縄文土器に比べて薄手(うすで)で赤褐色(せきかっしょく)であり、また良質の粘土を高温で焼いているために硬いものが多いです。弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生町(とう...
紀元前500年頃、中国大陸や朝鮮半島に近い北九州を中心に新たな文化が生まれました。この文化は、水稲耕作や金属器(青銅器や鉄器)を使用し、また縄文土器とは種類の異なる土器である弥生土器が使用されました。これらの文化を弥生文化といい、3世紀末までのこの時代を弥生時代といいます。ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生文化の及ん...
中国大陸で群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の春秋・戦国時代の紀元前6世紀頃には、先述のとおり青銅器にかわって鉄器が普及し始め、紀元前3世紀には始皇帝(しこうてい)の秦(しん)が大陸を史上初めて統一し、始皇帝の死後に秦が滅亡すると、かわって漢(かん、または前漢=ぜんかん)が成立しました。なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇...
我が国で縄文文化が長い時間をかけて発展し続けた頃、中国大陸では急速に文化が進展していきました。紀元前5000年~4000年頃までには、北方の黄河(こうが)中下流域の黄土地帯でアワやキビなどの畑作がおこり、南の長江(ちょうこう)下流域でも水稲耕作(=水稲農耕)が始まって、農耕社会が成立しました。紀元前16世紀頃に黄河流域で成立した殷(いん)という王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、...
北海道函館市の豊原(とよはら)4遺跡の約6500年前の縄文時代の土坑墓(どこうぼ)から、幼児または子供の足形・手形を押し当ててつくられた「足形・手形付土製品(どせいひん)」が発掘されました。なお、青森県青森市の大石平(おおいしたい)遺跡からも同じような土製品が発掘されています。縄文時代の平均寿命は男女ともに約30歳と推定されており、現代とは比較にならないくらい厳しい時代でした。これらの土製品は、病気など...
ところで、我が国で水稲耕作が始まったのは弥生時代の頃とされてきましたが、近年の進化した調査によって、少なくとも縄文時代の晩期にはイネの栽培が行われていたことが明らかになっています。平成11(1999)年、岡山県岡山市の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か所を...
縄文時代の遺跡から出土する人骨を調べてみると、多くの儀式や儀礼が行われたと思われる形跡が見られます。例えば、縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯(ばっし)の風習は、成人期における集団の通過儀礼として行われたと考えられています。また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。なお、縄文時代の頃には集落...
ところで、先述したとおり縄文土器が世界最古クラスであることから、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことになります。こうした事実が明らかになったのは、放射性炭素年代法などといった最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。日本列島は伝...
さらに平成6(1994)年には、直径約1mのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに...
つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培(さいばい)も行われた豊かで安定した生活」と大幅に記述が変化しているのです。なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~40...
ところで、これまで述べたように縄文時代は「豊かで安定した定住的な生活」とされ、歴史教科書にもそのように書かれていますが、私(黒田裕樹)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述が現在とは大きく異なっていたことを皆さんはご存知でしょうか。私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝を...
縄文時代になって食料の獲得法が多様化したので、以前のように獲物を求めて移動する必要がなくなり、安定した生活が送れるようになった縄文時代の人々は、地面を掘り下げて作った半地下式の竪穴(たてあな)住居に定住する生活を始めました。一つの住居には一つの家族が住み、数件の竪穴住居が寄り合って形成された集落に30~50人前後の人々が住んでいたと考えられています。縄文時代の集落では基本的に自給自足の生活を送っていま...
ところで、魚類を捕まえようと思えば、釣るか銛(もり)で突き刺したりするのが一番手っ取り早いですよね。ということは釣り針や銛の先端が必要になりますが、縄文時代の人々は、これらの素材にシカの角や骨を利用していました。これを骨角器(こっかくき)といいます。その他にも網(あみ)を用いた漁も行っていました。また、丸木舟も各地で発見されており、八丈島(はちじょうじま)や伊豆諸島に渡るなどの航海術も身に着けてい...
縄文時代の人々は、主に狩猟や漁労を営んだり、植物資源の採取をしたりして食料を確保しました。特に漁労は縄文時代になってから幅広く行われるようになりましたが、これは完新世になって日本が列島化し、周りを海に囲まれるとともに各地で入江(いりえ)が発達したからであり、魚類が捕りやすくなったのはむしろ当然といえます。魚類のほかにも貝類の採集が活発化しました。縄文時代の遺跡には、人々が食べた貝の貝殻(かいがら)...
大きく変わった自然環境に対応するために、様々な新技術や道具が登場しました。先述した弓矢もその一つで、はるかに遠くの獲物でも正確に捕まえることができました。弓矢の矢じりには石鏃(せきぞく)が用いられ、石斧(せきふ)などとともに当時は磨製石器が用いられていました。また、植物の煮炊(にた)きや食物を貯蔵する目的で土器が用いられ始め、人々の食生活は格段に豊かになりました。この時代の土器は、厚手で黒褐色(こ...
今から約1万数千年前に地質時代における完新世(かんしんせい)になると氷期が終わり、気候が温暖化して海面が上昇し、日本は大陸と切り離されて日本列島が成立しました。我が国が大陸と海で隔(へだ)てられたという地理的環境は、中国大陸や朝鮮半島と近い距離にあったために文化的交流が行われ、大陸の文明の影響を受ける一方で、日本列島に独自の歴史と文化を生み出し、育てるという効果をもたらしました。なぜなら、海という...
ところで、打製石器を使用した旧石器時代に対して、石器を磨(みが)き上げた磨製(ませい)石器あるいは土器が使用された時代を新石器時代と呼びます。これらのうち、日本の旧石器時代では打製石器を使用していたとされ、通常の学習もしくは将来の大学あるいは高校入試などに関してはそのように覚えて差し支(つか)えありません。しかし、実は岩宿遺跡で刃先(はさき)に磨きをかけた石斧である「局部磨製石斧」と呼ばれる世界最...
ところで、我が国では長いあいだ旧石器時代は存在しないと考えられてきましたが、昭和21(1946)年に相沢忠洋(あいざわただひろ)氏が群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の関東ローム層から石器に酷似(こくじ)した石片(せきへん)を発見すると、さらに昭和24(1949)年には同じ関東ローム層から打製石器が発見されました。発掘された石器が約35000年前~25000年前のものと判明したことによって、我が国にも考古学上の旧石器時代が...
先述のとおり、更新世の頃に氷河時代となったことで、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が交互に訪れるという厳しい環境となりましたが、海面が100m以上も低下した最も寒い氷期には、日本列島は北と南でユーラシア大陸と陸続きになりました。やがて、北からはマンモスやヘラジカが、南からはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が行き来するようになり、それらの群れを追ってやって来た人々が約40000年前頃から日本列島に住み...
さらに約60万年前になると、より進化した旧人(きゅうじん)が出現しました。ヨーロッパ大陸のネアンデルタール人(学名:ホモ・ネアンデルターレンシス)が代表的です。旧人は現代の人類と変わらぬ脳容積を持ち、死者を埋葬(まいそう)するなど精神文化が発達しました。なお、死者を埋葬したと考えられるのは、人骨とともに大量の花粉が発見されているからです。旧人はヨーロッパから西アジアにかけて住み、氷期に適応した生活を...
その後、約260万年前に地質時代が現代まで続く第四紀に入ると、更新世(こうしんせい)の頃に氷河時代となり、寒冷な氷期(ひょうき)と比較的温暖な間氷期(かんぴょうき)が交互に訪れるという厳しい環境になりました。そして、約200万年前のアフリカに原人(げんじん)が現れると、寒冷なヨーロッパやアジアに進出しました。原人としてはホモ・ハビリスやホモ・エレクトゥスが知られており、なかでもホモ・エレクトゥスは石を打...
※今回より「第93回歴史講座」の内容の更新を開始します(1月19日までの予定)。日本列島に私たちの祖先がたどりつき、暮らし始めるまでには実に長い年月がかかりました。約700万年前から600万年前の、地質時代でいう新第三紀の中新世(ちゅうしんせい)後期にアフリカに現れた人類の祖先は猿人(えんじん)と呼ばれています。初めは森の中で暮らしていましたが、やがて気候の変動で森が減ってくると草原へ出て、二本足で歩くことを...
※「昭和時代・戦中」の更新は今回が最後となります。明日(12月10日)からは「第93回歴史講座」の内容を更新します(1月19日までの予定)。それにしても、大東亜戦争に関する我が国の歴史の流れを詳しく学べば学ぶほど、我が日本民族が「極限状態になるまで決断できない」ことをつくづく思い知らされます。史実において我が国は、昭和天皇の「ご聖断」によって昭和20(1945)年8月15日に終戦を迎えましたが、それ以前に戦争を終わ...
では、アジアの諸民族は大東亜戦争をどのようにとらえているのでしょうか。タイの元首相であるククリット=プラモートが、現地の新聞紙に寄稿した「十二月八日」を紹介します。「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている」。「今日、東南アジアの諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは...
我が国は大東亜戦争で敗北となりましたが、自衛のために多くの血を流した努力は、別の意味で大きな花を咲かせました。開戦前まで長い間アジアを抑圧してきた欧米列強の支配が、大東亜戦争をきっかけに急速に崩壊への道を歩んだからです。緒戦の日本軍の勝利によって、イギリスやアメリカ、オランダの支配から脱出したアジアの諸民族は、日本軍の占領統治を受ける間に独立心を高めました。そして、我が国の敗戦後に再び植民地として...
終戦に伴って、日本本土及び戦地からの軍人の復員や一般邦人の引揚げが始まりましたが、本土の軍人は比較的早く復員できたものの、中国大陸では国民政府軍と中国共産党軍との内戦や、満州を中心とするソ連の参戦、あるいは戦犯としての裁判などによって帰国が遅れました。一般邦人の帰国は困難を極め、終戦時にいわゆる外地にあった邦人居留民のうち、ソ連の支配下に入った満州や、北朝鮮からの引揚げの際には多くの犠牲者が出まし...
昭和20(1945)年8月15日の正午、昭和天皇がお自ら録音された「終戦の詔書」が、ラジオを通じて全国民に伝えられました。いわゆる「玉音(ぎょくおん)放送」によって、国民は戦争に負けたことを初めて知り、悔し涙を流しました。「終戦の詔書」は御前会議での陛下のお言葉をもとに起草されましたが、その中で最も重要な部分が、実は最後に記されていることを皆さんはご存知でしょうか。「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕...
人望が厚かった阿南陸相の割腹自決は、陸軍全体に大きな衝撃を与え、若干(じゃっかん)の離反はあったものの、その後の徹底抗戦への動きを封じることができました。阿南陸相は昭和天皇のご聖断を確かなものにするため、自ら命を絶つとともに、責任の重さから介錯を断って、最期を迎えるまで苦しみ抜いたに違いありません。陸軍の最高責任者として、戦争への責任などが何かと問題視される阿南陸相ですが、昭和天皇のご聖断を受けて...
ご聖断が下った後の閣議では、昭和天皇による「終戦の詔書(しょうしょ、天皇の意思を表示した公文書のこと)」の内容についても審議されましたが、阿南陸相は黙って閣議の決定に従いました。そして鈴木首相に別れの挨拶(あいさつ)を告げると、すべての責任を取って翌8月15日午前4時40分に、昭和天皇から拝領したワイシャツを身に着けて割腹(かっぷく)自決しました。想像を絶する痛みや苦しみのなか、阿南陸相は介錯(かいしゃ...
「私の考えは、この前言ったことに変わりはない。相手方の回答に対する不安もあるだろうが、私はそのまま受けいれて良いと思う。また玉砕(ぎょくさい)して国に殉(じゅん)ずる思いもよく分かるが、私自身はいかになろうとも、国民の生命を助けたい」。ご聖断が下った後、阿南陸相は耐え切れずに激しく慟哭(どうこく、悲しみのあまり声をあげて泣くこと)しました。昭和天皇はそんな阿南陸相に対して優しく声をおかけになりまし...
昭和天皇のご聖断によって、我が国は「国体(=天皇を中心とする我が国の体制のこと)を護(まも)る」という条件を付けることでポツダム宣言を受諾することを連合国側に通知しました。我が国の条件に対して、連合国側は8月12日に回答を伝えましたが、その内容は「日本政府の地位は国民の自由な意思によって決められ、また天皇の地位や日本政府の統治権は、連合軍最高司令官に従属する」というものでした。この条件では我が国が連...
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...