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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 戦争の終局 その6

    昭和天皇のお言葉が発せられた瞬間、大臣らの目から涙がこぼれ落ち、やがて号泣に変わりました。陛下も涙を流されながら、お言葉を続けられました。「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。「祖先から受け継いだ我が国を子孫...

  • 戦争の終局 その5

    我が国を取り巻いた数々の非常事態を受けて、8月9日の夜に、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を受けいれるかどうかを決めるため、昭和天皇の御前で会議を開くことを決めました。いわゆる「御前会議」のことです。会議は鈴木首相の他に、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、い...

  • 戦争の終局 その4

    我が国がポツダム宣言を受けいれるか判断に迷っていた隙(すき)をついて、8月6日には広島、次いで9日には長崎に、アメリカによって原子爆弾が投下されました。原爆によって両都市の機能は完全に破壊され、何十万もの尊い生命が奪われるとともに、原爆による後遺症が私たち日本人を長い間苦しめ続けるなど、その被害は計り知れません。我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメ...

  • 【ハイブリッド方式】第93回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年11月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 戦争の終局 その3

    ポツダム宣言の内容は「軍隊の無条件降伏」こそ示されているものの、宣言文に「私たちの条件は以下のとおりである」という降伏の条件が記載されており、決して「国全体の無条件降伏」ではありませんでしたが、その一方で宣言文には重大な欠陥(けっかん)がありました。天皇の地位に対する保証が明記されていないのです。いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受け...

  • 戦争の終局 その2

    我が国で鈴木内閣が誕生した頃、ヨーロッパ戦線はナチスのヒトラーが1945(昭和20)年4月30日に拳銃自殺を遂(と)げた後に、翌5月にドイツが連合国に無条件降伏し、我が国はますます孤立することになりました。鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密(ひそ)かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、...

  • 戦争の終局 その1

    小磯国昭(こいそくにあき)内閣が昭和20(1945)年4月7日に総辞職すると、先述のとおり元侍従長で予備役海軍大将の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)が新たに内閣を組織しましたが、その直後の同月12日に、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領が急死しました。大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私に...

  • 戦局の悪化 その9

    当時の沖縄では、日本軍の敗北が決定的となったこともあって、多くの民間人が集団自決を遂げるという悲劇が見られましたが、この集団自決は「日本軍の命令」によって行われたという説が、小説家やマスコミを通じて広く流布(るふ)され、歴史教科書にも記載されました。しかし、これは「自決では年金が出ないので、軍の命令があったことにした」という背景があり、当時の指揮官が敢えて謂(い)われなき罪をかぶることで、多くの住...

  • 戦局の悪化 その8

    沖縄戦における戦艦大和の本当の使命は「アメリカ軍の襲撃を逃れることができれば、そのまま沖縄に座礁(ざしょう)させて砲台にする」ことであり、燃料も片道分しか搭載(とうさい)していませんでした。実は、戦艦大和の出撃は、我が身を棄(す)てても「沖縄防衛」を達成するという「特攻」の精神によるものでした。出撃の真意を知らされた際に「初めは顔が真っ青に、しかしすぐに『よし、やってやる!』と真っ赤になった」とい...

  • 戦局の悪化 その7

    硫黄島を手に入れたアメリカ軍は、ついに沖縄を支配すべく攻め込み始めました。沖縄は無論我が国固有の領土であり、どうしても救わねばならない場所でもありました。日本陸軍は制空権を失った状況の下で懸命な指揮を執り、一般県民の防衛隊も兵力に加えた守備隊が軍民一体となって、上陸したアメリカ軍と激しい戦闘を続けました。また多数の神風特攻隊が出撃したほか、潜航艇(せんこうてい)も「人間魚雷」などの特攻隊としてアメ...

  • 戦局の悪化 その6

    昭和20(1945)年3月9日の夜から10日未明にかけて、アメリカのB29爆撃機が東京に大挙して襲来し、あちらこちらで焼夷弾による爆撃を行いました。いわゆる「東京大空襲」です。わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員に対する大虐殺となりました。空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望...

  • 戦局の悪化 その5

    硫黄島の陥落後に、日本本土への空襲が激しさを増すようになっていきましたが、その兆候はすでに同盟国のドイツにも現れていました。1945(昭和20)年2月13日に、世界でもっとも素晴らしいバロック建築の多く残っていたドイツのドレスデンに対して、イギリスとアメリカが激しい空襲を加えました。空襲はイギリス軍が何百機もの航空機で市街地を爆撃した後、アメリカ軍による何百機ものB29爆撃機が約65万個の焼夷弾(しょういだん)...

  • 戦局の悪化 その4

    戦争を継続しながらも和平工作を何度か試みた小磯国昭内閣でしたが、陸軍大将とはいえ予備役であった小磯首相自身の指導力不足もあって不調に終わり、我が国と中立条約を結んでいたソ連(現在のロシア)による和平の仲介も検討しました。しかし、ソ連は1945(昭和20)年2月に、スターリンがアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相と、ソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行っていました。これを「...

  • 戦局の悪化 その3

    さて、すでに長距離重爆撃機B29による本土攻撃を開始していたアメリカ軍でしたが、より効果的な爆撃を可能とするため、小笠原諸島の南端近くに位置する硫黄島の占領を決意しました。硫黄島の重要性を理解していた日本軍は、不充分ながらも武装と資材をかき集めて、短期間で防衛設備を構築しましたが、昭和20(1945)年2月19日に始まった戦闘では、島全体の地表が変形するほどの徹底的な艦砲射撃と空爆を受けました。絶望的な情勢の...

  • 戦局の悪化 その2

    マッカーサーを司令官とするアメリカ軍が、昭和19(1944)年10月にフィリピンに再上陸すると、日本艦隊も全力で出撃し、激しい戦闘となりました。しかし、飛行士の熟練度や航空機の性能に後れを取っていた日本軍は、航空機による特攻隊を編成せざるを得ませんでした。いわゆる「神風特攻隊(=特別攻撃隊)」のことです。特攻隊の攻撃は「爆弾を載(の)せた飛行機が敵の軍艦めがけて体当たりで突撃する」というものであり、飛行機...

  • 戦局の悪化 その1

    大東亜戦争の開戦直後は優位に戦いを進めていた日本軍でしたが、講和の機会を得られぬまま、昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに劣勢(れっせい)に転じました。そして昭和19(1944)年7月にサイパン島が陥落(かんらく)すると、我が国の絶対国防圏(けん)が崩壊(ほうかい)したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われてしまいました。サイパンからは新開発の長距離重爆撃機B...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その12

    ところで、私の知人が「台湾の中学校を卒業後に志願兵として『大日本帝国軍人』となった台湾人」から直接伺(うかが)った話を、又聞きで私も拝聴(はいちょう)しましたが、非常に印象深かったので、皆様にもご紹介します。「日本軍がシンガポールを占領したとき、私たちの乗っている船に、現地の我々と同い年くらいの若い青年たちが物売りにたくさん来ました。その現地人たちと英語で話をするわけですが(当時の日本の中学生の学...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その11

    台湾での兵役は、朝鮮半島よりも遅れて昭和17(1942)年より陸軍特別志願兵制度が実施されましたが、朝鮮同様に志願者が殺到し、翌昭和18(1943)年には実に600倍近くの倍率となりました。これを受けて、台湾でも昭和20(1945)年から徴兵制が始まりましたが、同年のうちに終戦となったために短期間で終わっています。ところで、台湾における兵役の歴史は「高砂(たかさご)義勇隊」の存在抜きに語ることはできません。軍の要請を...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年11月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その10

    さて、戦時下などの朝鮮半島の様子についてこれまで紹介してきましたが、同じように我が国の領土となっていた台湾ではどうだったのでしょうか。台湾における徴用は、先述のとおり昭和14(1939)年に「国民徴用令」が施行された際に本土と同時に適用され、台湾本島や内地(=日本本土)、あるいは南方占領地への動員が開始されました。また、日本統治下の台湾においては日本語が国語とされましたが、大正11(1922)年に新教育令が発...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その9

    しかも、昭和40(1965)年に日韓基本条約が締結された際に両国で結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」において、請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」と確認されています。この協定が両国間で開示されず、また国際公約でなかったことが後に「慰安婦問題における日韓合意」につながったとはいえ、韓国大法院が「条約違反」の判決を平気で出したことは、...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その8

    しかし、韓国政府が「適切な解決」に向けた努力を約束した、在韓国日本大使館前の「慰安婦像」の撤去については、国会での朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)の弾劾訴追案(だんがいそついあん)可決などによる政治の混乱もあって、一向に進展しませんでした。そして、弾劾された朴氏に代わって大統領に就任した文在寅(ムン・ジェイン)氏が、2018(平成30)年1月に「日韓合意に対する新たな方針」を発表し、日本政府が拠出した1...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その7

    ところで、現代の我が国と韓国との間で論議を呼んでいるものの一つに、韓国側や一部の日本人がしきりに主張している、いわゆる「従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)問題」があります。歴史教科書の中には「日本軍が朝鮮人などの女性を強制的に集め、慰安婦として働かせた」と書かれているものがありますが、確かに朝鮮人の慰安婦が存在したのは事実であるものの、彼女らを日本軍が強制連行したという証拠は一切存在しません。にもか...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その6

    この他、戦局の悪化に伴って、朝鮮半島においても徴兵制が実施されたのは事実ですが、その前提として、志願兵の募集倍率の高さがあったことを忘れてはいけません。朝鮮半島では昭和13(1938)年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募がありました。その後も驚くべき高倍率が続いて志願者が殺到し、昭和17(1942)年には62.4倍にも達しました。高倍率の背景には、一部の下級官吏(かんり)による説得があったとされ...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その5

    さて、朝鮮半島で小学校を増やした際に、我が国は李氏朝鮮時代に作られたハングル文字を半島全土へ普及させましたが、同時に広めようとした日本語は、朝鮮の人口全体のわずか16%に留まりました。歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆なのです。また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名(そうしかいめい)」ですが、これも...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その4

    では次に、我が国が朝鮮半島に対して搾取(さくしゅ)してきたかどうかに関する事実を検証してみましょう。植民地化するということは、当然朝鮮半島の資産を我が国が奪ってきたはずなのですが、併合される直前の保護国の時代では、当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を我が国が支援しています。我が国は併合の段階で、朝鮮半島に対してかなりの負担をしていたことになりますね。だとすれば、併合後には搾取していたのでしょ...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その3

    例えば、ブラジルではサトウキビの栽培(さいばい)を広い範囲で行わせたり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしましたが、これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給に等しい状態で過酷な労働を強いられたのです。なお、このような熱帯・亜熱帯地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って、世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することを「プランテーション」といいます。プランテ...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その2

    ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航し、戦後の昭和34(1959)年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑の中で判明しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者を除いて一人もいなかったということが明らかになって...

  • 戦時下の朝鮮・台湾 その1

    ※今回より「昭和時代・戦中」の更新を再開します(12月9日までの予定)。戦局の悪化に伴い、日本国内は総力戦の様相を呈(てい)するようになりましたが、この流れは、当時我が国の領土であった朝鮮半島や台湾においても例外ではありませんでした。戦時下の朝鮮半島において、一般的な歴史教科書では「太平洋戦争において日本の戦局が悪化すると、数十万人の朝鮮人を日本本土に強制連行し、鉱山や土木工事現場などで無理やり働かせ...

  • 桃山文化 その5

    ※「第92回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(11月4日)からは「昭和時代・戦中」の更新を再開します(12月9日までの予定)。桃山文化の頃は庶民の生活にも変化が現れました。農村で昔ながらの萱葺(かやぶき)屋根の平屋(ひらや)が普通であったのに対して、京都や大坂などの都市では二階建ての家や瓦葺(かわらぶき)の家が見られるようになりました。衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(は...

  • 桃山文化 その4

    当時の大都市である京都や大坂・堺・博多などでは、町衆(まちしゅう)と呼ばれた富裕な商工業者が文化の担(にな)い手となりました。茶の湯では、堺の千利休(せんのりきゅう)が簡素かつ閑寂(かんじゃく、ひっそりとして落ち着いていること)さが特徴の侘茶(わびちゃ)の方式を完成させ、茶道(ちゃどう、または「さどう」)を確立しました。京都にある寺院の妙喜庵(みょうきあん)の茶室の「待庵(たいあん)」は利休が建て...

  • 桃山文化 その3

    城郭には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な要素が散りばめられていました。城の内部には書院造(しょいんづくり)をとり入れた居館(きょかん)が設けられ、広間には彫刻や濃絵(だみえ)の豪華な障壁画(しょうへきが)が描かれました。なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤あるいは緑などの原色を彩色したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が施(...

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