第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
昭和天皇のお言葉が発せられた瞬間、大臣らの目から涙がこぼれ落ち、やがて号泣に変わりました。陛下も涙を流されながら、お言葉を続けられました。「念のため言っておく。今の状態で阿南陸相が言うように本土決戦に突入すれば、我が国がどうなるか私は非常に心配である。あるいは日本民族はみんな死んでしまうかもしれない。もしそうなれば、この国を誰が子孫に伝えることができるというのか」。「祖先から受け継いだ我が国を子孫...
我が国を取り巻いた数々の非常事態を受けて、8月9日の夜に、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を受けいれるかどうかを決めるため、昭和天皇の御前で会議を開くことを決めました。いわゆる「御前会議」のことです。会議は鈴木首相の他に、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣など合計7人で行われ、東郷外相は宣言の受諾を、阿南陸相はいわゆる本土決戦も辞さないと徹底抗戦をそれぞれ主張し、い...
我が国がポツダム宣言を受けいれるか判断に迷っていた隙(すき)をついて、8月6日には広島、次いで9日には長崎に、アメリカによって原子爆弾が投下されました。原爆によって両都市の機能は完全に破壊され、何十万もの尊い生命が奪われるとともに、原爆による後遺症が私たち日本人を長い間苦しめ続けるなど、その被害は計り知れません。我が国が降伏寸前であったにもかかわらず、まるで実験を行うかのように原爆を2つも落としたアメ...
【ハイブリッド方式】第93回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年11月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
ポツダム宣言の内容は「軍隊の無条件降伏」こそ示されているものの、宣言文に「私たちの条件は以下のとおりである」という降伏の条件が記載されており、決して「国全体の無条件降伏」ではありませんでしたが、その一方で宣言文には重大な欠陥(けっかん)がありました。天皇の地位に対する保証が明記されていないのです。いつの時代であろうとも、天皇なくして我が国の将来は有り得ません。このため、我が国ではポツダム宣言を受け...
我が国で鈴木内閣が誕生した頃、ヨーロッパ戦線はナチスのヒトラーが1945(昭和20)年4月30日に拳銃自殺を遂(と)げた後に、翌5月にドイツが連合国に無条件降伏し、我が国はますます孤立することになりました。鈴木内閣は、表向きは本土決戦などの強硬策を唱えながら、その裏では密(ひそ)かに戦争終結を図ろうと努力していました。しかし、交渉がなかなか進まない間に、アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相、...
小磯国昭(こいそくにあき)内閣が昭和20(1945)年4月7日に総辞職すると、先述のとおり元侍従長で予備役海軍大将の鈴木貫太郎(すずきかんたろう)が新たに内閣を組織しましたが、その直後の同月12日に、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領が急死しました。大統領の訃報(ふほう)を耳にした鈴木首相は、当時存在した同盟通信社の記者の質問に答えるかたちで「大統領の死がアメリカ国民に対して意味する大きな損失は私に...
当時の沖縄では、日本軍の敗北が決定的となったこともあって、多くの民間人が集団自決を遂げるという悲劇が見られましたが、この集団自決は「日本軍の命令」によって行われたという説が、小説家やマスコミを通じて広く流布(るふ)され、歴史教科書にも記載されました。しかし、これは「自決では年金が出ないので、軍の命令があったことにした」という背景があり、当時の指揮官が敢えて謂(い)われなき罪をかぶることで、多くの住...
沖縄戦における戦艦大和の本当の使命は「アメリカ軍の襲撃を逃れることができれば、そのまま沖縄に座礁(ざしょう)させて砲台にする」ことであり、燃料も片道分しか搭載(とうさい)していませんでした。実は、戦艦大和の出撃は、我が身を棄(す)てても「沖縄防衛」を達成するという「特攻」の精神によるものでした。出撃の真意を知らされた際に「初めは顔が真っ青に、しかしすぐに『よし、やってやる!』と真っ赤になった」とい...
硫黄島を手に入れたアメリカ軍は、ついに沖縄を支配すべく攻め込み始めました。沖縄は無論我が国固有の領土であり、どうしても救わねばならない場所でもありました。日本陸軍は制空権を失った状況の下で懸命な指揮を執り、一般県民の防衛隊も兵力に加えた守備隊が軍民一体となって、上陸したアメリカ軍と激しい戦闘を続けました。また多数の神風特攻隊が出撃したほか、潜航艇(せんこうてい)も「人間魚雷」などの特攻隊としてアメ...
昭和20(1945)年3月9日の夜から10日未明にかけて、アメリカのB29爆撃機が東京に大挙して襲来し、あちらこちらで焼夷弾による爆撃を行いました。いわゆる「東京大空襲」です。わずか1回の空襲で約26万戸の家が焼かれ、12万以上の人々が死傷し、100万人を超える人々が焼け出されるという甚大な被害をもたらすなど、世界史上でも例を見ない非戦闘員に対する大虐殺となりました。空襲後、昭和天皇はご自身で被災地を訪問したいと希望...
硫黄島の陥落後に、日本本土への空襲が激しさを増すようになっていきましたが、その兆候はすでに同盟国のドイツにも現れていました。1945(昭和20)年2月13日に、世界でもっとも素晴らしいバロック建築の多く残っていたドイツのドレスデンに対して、イギリスとアメリカが激しい空襲を加えました。空襲はイギリス軍が何百機もの航空機で市街地を爆撃した後、アメリカ軍による何百機ものB29爆撃機が約65万個の焼夷弾(しょういだん)...
戦争を継続しながらも和平工作を何度か試みた小磯国昭内閣でしたが、陸軍大将とはいえ予備役であった小磯首相自身の指導力不足もあって不調に終わり、我が国と中立条約を結んでいたソ連(現在のロシア)による和平の仲介も検討しました。しかし、ソ連は1945(昭和20)年2月に、スターリンがアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相と、ソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行っていました。これを「...
さて、すでに長距離重爆撃機B29による本土攻撃を開始していたアメリカ軍でしたが、より効果的な爆撃を可能とするため、小笠原諸島の南端近くに位置する硫黄島の占領を決意しました。硫黄島の重要性を理解していた日本軍は、不充分ながらも武装と資材をかき集めて、短期間で防衛設備を構築しましたが、昭和20(1945)年2月19日に始まった戦闘では、島全体の地表が変形するほどの徹底的な艦砲射撃と空爆を受けました。絶望的な情勢の...
マッカーサーを司令官とするアメリカ軍が、昭和19(1944)年10月にフィリピンに再上陸すると、日本艦隊も全力で出撃し、激しい戦闘となりました。しかし、飛行士の熟練度や航空機の性能に後れを取っていた日本軍は、航空機による特攻隊を編成せざるを得ませんでした。いわゆる「神風特攻隊(=特別攻撃隊)」のことです。特攻隊の攻撃は「爆弾を載(の)せた飛行機が敵の軍艦めがけて体当たりで突撃する」というものであり、飛行機...
大東亜戦争の開戦直後は優位に戦いを進めていた日本軍でしたが、講和の機会を得られぬまま、昭和17(1942)年のミッドウェー海戦の敗北をきっかけに劣勢(れっせい)に転じました。そして昭和19(1944)年7月にサイパン島が陥落(かんらく)すると、我が国の絶対国防圏(けん)が崩壊(ほうかい)したのみならず、太平洋全域における制海権並びに制空権をアメリカ軍に奪われてしまいました。サイパンからは新開発の長距離重爆撃機B...
ところで、私の知人が「台湾の中学校を卒業後に志願兵として『大日本帝国軍人』となった台湾人」から直接伺(うかが)った話を、又聞きで私も拝聴(はいちょう)しましたが、非常に印象深かったので、皆様にもご紹介します。「日本軍がシンガポールを占領したとき、私たちの乗っている船に、現地の我々と同い年くらいの若い青年たちが物売りにたくさん来ました。その現地人たちと英語で話をするわけですが(当時の日本の中学生の学...
台湾での兵役は、朝鮮半島よりも遅れて昭和17(1942)年より陸軍特別志願兵制度が実施されましたが、朝鮮同様に志願者が殺到し、翌昭和18(1943)年には実に600倍近くの倍率となりました。これを受けて、台湾でも昭和20(1945)年から徴兵制が始まりましたが、同年のうちに終戦となったために短期間で終わっています。ところで、台湾における兵役の歴史は「高砂(たかさご)義勇隊」の存在抜きに語ることはできません。軍の要請を...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年11月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
さて、戦時下などの朝鮮半島の様子についてこれまで紹介してきましたが、同じように我が国の領土となっていた台湾ではどうだったのでしょうか。台湾における徴用は、先述のとおり昭和14(1939)年に「国民徴用令」が施行された際に本土と同時に適用され、台湾本島や内地(=日本本土)、あるいは南方占領地への動員が開始されました。また、日本統治下の台湾においては日本語が国語とされましたが、大正11(1922)年に新教育令が発...
しかも、昭和40(1965)年に日韓基本条約が締結された際に両国で結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」において、請求権に関する問題は「完全かつ最終的に解決された」と確認されています。この協定が両国間で開示されず、また国際公約でなかったことが後に「慰安婦問題における日韓合意」につながったとはいえ、韓国大法院が「条約違反」の判決を平気で出したことは、...
しかし、韓国政府が「適切な解決」に向けた努力を約束した、在韓国日本大使館前の「慰安婦像」の撤去については、国会での朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)の弾劾訴追案(だんがいそついあん)可決などによる政治の混乱もあって、一向に進展しませんでした。そして、弾劾された朴氏に代わって大統領に就任した文在寅(ムン・ジェイン)氏が、2018(平成30)年1月に「日韓合意に対する新たな方針」を発表し、日本政府が拠出した1...
ところで、現代の我が国と韓国との間で論議を呼んでいるものの一つに、韓国側や一部の日本人がしきりに主張している、いわゆる「従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)問題」があります。歴史教科書の中には「日本軍が朝鮮人などの女性を強制的に集め、慰安婦として働かせた」と書かれているものがありますが、確かに朝鮮人の慰安婦が存在したのは事実であるものの、彼女らを日本軍が強制連行したという証拠は一切存在しません。にもか...
この他、戦局の悪化に伴って、朝鮮半島においても徴兵制が実施されたのは事実ですが、その前提として、志願兵の募集倍率の高さがあったことを忘れてはいけません。朝鮮半島では昭和13(1938)年に志願兵の募集が始まりましたが、定員の7倍以上の応募がありました。その後も驚くべき高倍率が続いて志願者が殺到し、昭和17(1942)年には62.4倍にも達しました。高倍率の背景には、一部の下級官吏(かんり)による説得があったとされ...
さて、朝鮮半島で小学校を増やした際に、我が国は李氏朝鮮時代に作られたハングル文字を半島全土へ普及させましたが、同時に広めようとした日本語は、朝鮮の人口全体のわずか16%に留まりました。歴史教科書を中心に「日本は朝鮮人から朝鮮語を奪った」という主張がよくなされているようですが、事実は全く逆なのです。また、同じように「朝鮮人から名前を奪った」とされる、いわゆる「創氏改名(そうしかいめい)」ですが、これも...
では次に、我が国が朝鮮半島に対して搾取(さくしゅ)してきたかどうかに関する事実を検証してみましょう。植民地化するということは、当然朝鮮半島の資産を我が国が奪ってきたはずなのですが、併合される直前の保護国の時代では、当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を我が国が支援しています。我が国は併合の段階で、朝鮮半島に対してかなりの負担をしていたことになりますね。だとすれば、併合後には搾取していたのでしょ...
例えば、ブラジルではサトウキビの栽培(さいばい)を広い範囲で行わせたり、スリランカでは紅茶を栽培させたりしましたが、これらの利益のほとんどは本国が吸い上げ、先住民はそれこそ無給に等しい状態で過酷な労働を強いられたのです。なお、このような熱帯・亜熱帯地域の植民地において、奴隷や先住民の安い労働力を使って、世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産することを「プランテーション」といいます。プランテ...
ちなみに、戦時中に徴用されて我が国に渡航し、戦後の昭和34(1959)年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だった事実が国会での質疑の中で判明しており、しかもその245人は、自分の自由意思によって日本に留まった者か、あるいは日本生まれであり、日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は、犯罪者を除いて一人もいなかったということが明らかになって...
※今回より「昭和時代・戦中」の更新を再開します(12月9日までの予定)。戦局の悪化に伴い、日本国内は総力戦の様相を呈(てい)するようになりましたが、この流れは、当時我が国の領土であった朝鮮半島や台湾においても例外ではありませんでした。戦時下の朝鮮半島において、一般的な歴史教科書では「太平洋戦争において日本の戦局が悪化すると、数十万人の朝鮮人を日本本土に強制連行し、鉱山や土木工事現場などで無理やり働かせ...
※「第92回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(11月4日)からは「昭和時代・戦中」の更新を再開します(12月9日までの予定)。桃山文化の頃は庶民の生活にも変化が現れました。農村で昔ながらの萱葺(かやぶき)屋根の平屋(ひらや)が普通であったのに対して、京都や大坂などの都市では二階建ての家や瓦葺(かわらぶき)の家が見られるようになりました。衣服では小袖(こそで)が一般に用いられ、男子は袴(は...
当時の大都市である京都や大坂・堺・博多などでは、町衆(まちしゅう)と呼ばれた富裕な商工業者が文化の担(にな)い手となりました。茶の湯では、堺の千利休(せんのりきゅう)が簡素かつ閑寂(かんじゃく、ひっそりとして落ち着いていること)さが特徴の侘茶(わびちゃ)の方式を完成させ、茶道(ちゃどう、または「さどう」)を確立しました。京都にある寺院の妙喜庵(みょうきあん)の茶室の「待庵(たいあん)」は利休が建て...
城郭には建築や絵画・彫刻など、桃山文化を結集した象徴的な要素が散りばめられていました。城の内部には書院造(しょいんづくり)をとり入れた居館(きょかん)が設けられ、広間には彫刻や濃絵(だみえ)の豪華な障壁画(しょうへきが)が描かれました。なお、濃絵とは金箔(きんぱく)をはりつめた画面に青や赤あるいは緑などの原色を彩色したものです。また、欄間(らんま)には花鳥(かちょう)の透(すか)し彫(ぼり)が施(...
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第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...