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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その12

    大政奉還によって徳川慶喜は確かに征夷大将軍の地位を自ら返上しましたが、同時に任命されていた内大臣(ないだいじん)の地位はそのままであり、また400万石を超える広大な幕領(=天領)も残っていました。慶喜の内大臣の地位と幕領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きまし...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その11

    「王政」とは天皇による親政を意味しており、また「復古」は「古(いにしえ)に戻る」ことですから、古代あるいは後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政がそうであったように、王政復古の大号令は天皇親政による新政府の樹立の宣言を意味していました。天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その10

    先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その9

    また、武力による討幕は、徳川家そのものの滅亡も意味していましたから、曲がりなりにも長年にわたって政治を行ってきた徳川家を滅ぼすことに対しては、やはり大きな抵抗を感じる藩も少なからず存在しており、その中心となったのが土佐藩でした。朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その8

    ところが「不可能を可能にする」手段が一つだけありました。それは、天皇ご自身から「幕府を倒すように」という命令をいただくことです。慶応3(1867)年旧暦10月14日、朝廷は薩長両藩に対して「討幕の密勅(みっちょく、秘密に作成された天皇からの命令書のこと)」を下しました。討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩から...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その7

    そもそも「幕府」という言葉には、チャイナにおける「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」という意味がありました。この場合、チャイナの皇帝は将軍に戦争をさせやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていました。我が国における「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与え...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その6

    慶応3(1867)年旧暦10月14日に徳川慶喜が朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を行い、江戸幕府が260年余りの歴史に終止符を打つと、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て明治新政府が我が国の新たな為政者となったことで、後ろ盾を失った一行は最終的に帰国せざるを得なくなりました。なぜ慶喜は大政奉還を行ったのでしょうか。栄一らが外国に行っている間に我が国の歴史が大きく変化したことになりますが、ここでその流れを振...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その5

    なお、パリ万博での展示の際、先にフランスと交渉していた薩摩(さつま)藩によって、当初は幕府と琉球(りゅうきゅう)王国(当時は薩摩藩が支配)が同格となっていました。幕府がこれに抗議すると、薩摩側が「太守」を意味する「グーヴェルマン」という呼称を使用し、幕府が「大君(たいくん)グーヴェルマン」、薩摩が「薩摩グーヴェルマン」と名乗ることを提案し、幕府側も了承しました。しかし「グーヴェルマン」の本当の意味...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その4

    1867年にパリで万国博覧会が開かれることになりましたが、当時の皇帝であったナポレオン三世が「日本からも将軍家を招待したい」との意向を示したことで、将軍慶喜の弟である徳川昭武(とくがわあきたけ)が名代(みょうだい)でフランスに向かうことが決まり、その随行員の一人として栄一が選ばれたのです。総務あるいは会計担当係として随行した栄一は、国賓(こくひん)待遇で当時の最新鋭の技術を駆使したパビリオンが集まった...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その3

    この時、慶喜は初対面の農民出身である栄一の意見を一言も口をきかずにじっと聞いていたそうですが、栄一の利発さを見抜いた慶喜のもとで、兵力の充実や産業の奨励などによって一橋家の「富国強兵(ふこくきょうへい)」に成功するなど、栄一は着実に存在感を高めるようになります。ところが、慶応(けいおう)2(1866)年に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が21歳の若さで急死してしまい、その後継として慶喜が15代将軍に...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その2

    ところが、京都で様々な情報収集を行っていた栄一たちに、とんでもない知らせが届きました。栄一を説得した長七郎が往来の飛脚を斬って捕まったというのです。長七郎の取り調べ中に高崎城乗っ取り計画が発覚してしまう可能性もあり、進退窮(きわ)まった栄一らでしたが、このタイミングで円四郎が「一橋家に仕官しないか」と声を掛けました。栄一は尊王攘夷にこだわる喜作を説得して、円四郎の申し出を受けました。尊王攘夷のため...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その1

    成人した頃の栄一は、学問の師である尾高惇忠やその弟の長七郎(ちょうしちろう)、あるいは栄一の従兄にあたる渋沢喜作(きさく)らと当時の政治情勢について毎日のように激論を交わしました。そして、惇忠の学問が尊王攘夷を唱える水戸学の影響を受けていたこともあり、血気にはやった彼らは、高崎城乗っ取りと横浜の焼き討ちという恐ろしい計画を練り始めました。栄一らは槍や刀などを着々と買い集め、文久3(1863)年旧暦10月2...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その10

    一方、通商条約を勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)なしで結んだ大老の井伊直弼(いいなおすけ)への非難が強まると、直弼は攘夷派の動きを抑えるために安政5(1858)年から翌6(1859)年にかけて、攘夷派の大名や幕臣、あるいは公卿(くぎょう)や諸藩の志士らを一斉に弾圧するという「安政の大獄」を行いました。そして、翌安政7年旧暦3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その9

    さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りはそのまま外...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その8

    大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延(まんえん)小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしましたが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げたのであればまだしも、貿易による値上がりで景...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その7

    幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その6

    我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸(きいと)・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その5

    また、関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その4

    ところで、栄一が子供から大人へと成長していった1850年代から1860年代の当初は、嘉永(かえい)6(1853)年にアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀(うらが)に来航したことをきっかけに、翌嘉永7(1854)年には日米和親条約を結ばされて我が国は無理やり開国させられ、さらに安政(あんせい)5(1858)年には日米修好通商条約を結ばされたことで、諸外国との貿易が始まりました。いわゆる「激動の幕末」が始まったわけですが、こ...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その3

    栄一が17歳の時、血洗島の領主が栄一の家やその親戚に対して御用金(ごようきん、領主からの借金のこと)を申し付けてきました。父の代理人として代官所に出向いた栄一は、そこで500両という大金を受けるよう代官から言いつけられました。栄一は「私は代理人としてきたので、今日は金額のみを聞いて帰り、正式な回答は後日連絡します」と述べて即答を避けましたが、代官は栄一に対してすぐに承知するよう、口汚い言葉で強要しまし...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その2

    渋沢栄一は、天保(てんぽう)13年旧暦2月13日(西暦1840年3月16日)に武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじま、現在の埼玉県深谷市血洗島)で、渋沢市郎右衛門(いちろうえもん)とゑいの長男として生まれました。栄一の実家は養蚕(ようさん)や藍玉(あいだま)の製造を手掛ける豪農であり、裕福な家庭で生まれた栄一は幼い頃から学問に励み、やがて7歳になると、10歳年上の従兄である尾高惇忠(おだかじ...

  • 豪農の子が尊王攘夷派となるまで その1

    ※今回より「第88回歴史講座」の内容の更新を開始します(3月10日までの予定)。令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公であり、また令和6(2024)年から新たに発行される一万円札の肖像画として採用された渋沢栄一(しぶさわえいいち)について、皆様はどの程度ご存知でいらっしゃるしょうか。渋沢栄一と言えば、その生涯で約500社ともいわれる会社の設立に関与するなど「日本資本主義の父」と呼ばれたことで...

  • 日華事変と南京攻略 その14

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(2月7日)からは「第88回歴史講座」の内容を更新します(3月10日までの予定)。これまで述べてきた事例を考えれば、南京攻略後に大虐殺が行われたとは到底考えられませんが、南京攻略戦において国民政府軍の兵士以外の民間人にも死傷者が出た可能性が高いのは事実です。しかし、それは先述の便衣隊が一般市民に紛れてゲリラ的活動を繰り返していたからであり、その行為自体が国...

  • 日華事変と南京攻略 その13

    当時の我が国は国際連盟から脱退していることもあって、日本軍の中国大陸における行動に対し、国際社会の目はどちらかと言えば批判的でした。もしそんな折に大虐殺を行っていれば、当時の世界のジャーナリストはこぞって我が国を非難するはずですが、現実にはそんな声は全く聞かれていません。確かに南京攻略から半年後に書かれた「虐殺の記録」は残っていますが、これも筆者が南京へは一度も出向かずにすべて伝聞で書かれていたこ...

  • 日華事変と南京攻略 その12

    「南京攻略当時は日本軍が報道管制を敷(し)いており、一切事実を明らかにしなかったからだ」とも考えられそうですが、当時の戦争報道は自由であり、先述のとおり、南京入城に対しても外国人を含む多数のジャーナリストが同行していました。しかし、彼らが「大虐殺」の記事を書いたり、後になって本として出版したりしたという事実は一切ありません。また、戦後になって次々と発表された「南京大虐殺の証拠写真」に関しても、その...

  • 日華事変と南京攻略 その11

    いわゆる「南京大虐殺」が最初に指摘されたのは極東国際軍事裁判(=東京裁判)でしたが、その背景には、戦勝国であるアメリカが、広島や長崎への原爆投下や東京大空襲などの一般市民への無差別爆撃といった、自分たちが犯した残虐な罪を相殺するために、敗戦国の日本を自分たちと同じくらい残忍な侵略国に仕立て上げようという思惑がありました。その後、昭和57(1982)年の文部省(現在の文部科学省)の教科書検定において、中国...

  • 日華事変と南京攻略 その10

    指揮官たる蒋介石が不在では、国民政府が降伏勧告に応じるはずもありません。日本軍はやむなく昭和12(1937)年12月10日から南京への総攻撃を開始し、当初は国民政府軍の激しい抵抗を受けましたが、南京防衛司令官の唐生智(とうせいち)までもが敵前逃亡したこともあって、早くも12日に首都南京が陥落(かんらく)しました。しかし、敗北した国民政府軍の一部兵士が軍服を脱ぎ捨てて、便衣隊(べんいたい)として一般市民に紛(ま...

  • 日華事変と南京攻略 その9

    さて、首都を攻め落とされるという危機に陥(おちい)った国民政府は、南京攻略に対してどのような行動をとったのでしょうか。一般的な判断力を持つ指導者であれば、普通は首都攻防戦という策は行わず、敵に開放して「オープン・シティ」にするのが常識でした。というのも、首都攻防戦に陥れば、多くの一般市民の生命や財産を巻き添えにするのが必至だったからです。戦闘状態が長くなればなるほど、たとえ守り切ったとしても、周囲...

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