第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
大政奉還によって徳川慶喜は確かに征夷大将軍の地位を自ら返上しましたが、同時に任命されていた内大臣(ないだいじん)の地位はそのままであり、また400万石を超える広大な幕領(=天領)も残っていました。慶喜の内大臣の地位と幕領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きまし...
「王政」とは天皇による親政を意味しており、また「復古」は「古(いにしえ)に戻る」ことですから、古代あるいは後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政がそうであったように、王政復古の大号令は天皇親政による新政府の樹立の宣言を意味していました。天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大...
先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...
また、武力による討幕は、徳川家そのものの滅亡も意味していましたから、曲がりなりにも長年にわたって政治を行ってきた徳川家を滅ぼすことに対しては、やはり大きな抵抗を感じる藩も少なからず存在しており、その中心となったのが土佐藩でした。朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま...
ところが「不可能を可能にする」手段が一つだけありました。それは、天皇ご自身から「幕府を倒すように」という命令をいただくことです。慶応3(1867)年旧暦10月14日、朝廷は薩長両藩に対して「討幕の密勅(みっちょく、秘密に作成された天皇からの命令書のこと)」を下しました。討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩から...
そもそも「幕府」という言葉には、チャイナにおける「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」という意味がありました。この場合、チャイナの皇帝は将軍に戦争をさせやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていました。我が国における「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与え...
慶応3(1867)年旧暦10月14日に徳川慶喜が朝廷に対して大政奉還(たいせいほうかん)を行い、江戸幕府が260年余りの歴史に終止符を打つと、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て明治新政府が我が国の新たな為政者となったことで、後ろ盾を失った一行は最終的に帰国せざるを得なくなりました。なぜ慶喜は大政奉還を行ったのでしょうか。栄一らが外国に行っている間に我が国の歴史が大きく変化したことになりますが、ここでその流れを振...
なお、パリ万博での展示の際、先にフランスと交渉していた薩摩(さつま)藩によって、当初は幕府と琉球(りゅうきゅう)王国(当時は薩摩藩が支配)が同格となっていました。幕府がこれに抗議すると、薩摩側が「太守」を意味する「グーヴェルマン」という呼称を使用し、幕府が「大君(たいくん)グーヴェルマン」、薩摩が「薩摩グーヴェルマン」と名乗ることを提案し、幕府側も了承しました。しかし「グーヴェルマン」の本当の意味...
1867年にパリで万国博覧会が開かれることになりましたが、当時の皇帝であったナポレオン三世が「日本からも将軍家を招待したい」との意向を示したことで、将軍慶喜の弟である徳川昭武(とくがわあきたけ)が名代(みょうだい)でフランスに向かうことが決まり、その随行員の一人として栄一が選ばれたのです。総務あるいは会計担当係として随行した栄一は、国賓(こくひん)待遇で当時の最新鋭の技術を駆使したパビリオンが集まった...
この時、慶喜は初対面の農民出身である栄一の意見を一言も口をきかずにじっと聞いていたそうですが、栄一の利発さを見抜いた慶喜のもとで、兵力の充実や産業の奨励などによって一橋家の「富国強兵(ふこくきょうへい)」に成功するなど、栄一は着実に存在感を高めるようになります。ところが、慶応(けいおう)2(1866)年に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が21歳の若さで急死してしまい、その後継として慶喜が15代将軍に...
ところが、京都で様々な情報収集を行っていた栄一たちに、とんでもない知らせが届きました。栄一を説得した長七郎が往来の飛脚を斬って捕まったというのです。長七郎の取り調べ中に高崎城乗っ取り計画が発覚してしまう可能性もあり、進退窮(きわ)まった栄一らでしたが、このタイミングで円四郎が「一橋家に仕官しないか」と声を掛けました。栄一は尊王攘夷にこだわる喜作を説得して、円四郎の申し出を受けました。尊王攘夷のため...
成人した頃の栄一は、学問の師である尾高惇忠やその弟の長七郎(ちょうしちろう)、あるいは栄一の従兄にあたる渋沢喜作(きさく)らと当時の政治情勢について毎日のように激論を交わしました。そして、惇忠の学問が尊王攘夷を唱える水戸学の影響を受けていたこともあり、血気にはやった彼らは、高崎城乗っ取りと横浜の焼き討ちという恐ろしい計画を練り始めました。栄一らは槍や刀などを着々と買い集め、文久3(1863)年旧暦10月2...
一方、通商条約を勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)なしで結んだ大老の井伊直弼(いいなおすけ)への非難が強まると、直弼は攘夷派の動きを抑えるために安政5(1858)年から翌6(1859)年にかけて、攘夷派の大名や幕臣、あるいは公卿(くぎょう)や諸藩の志士らを一斉に弾圧するという「安政の大獄」を行いました。そして、翌安政7年旧暦3月3日(西暦1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門...
さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りはそのまま外...
大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延(まんえん)小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしましたが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げたのであればまだしも、貿易による値上がりで景...
幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...
我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸(きいと)・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追...
また、関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円...
ところで、栄一が子供から大人へと成長していった1850年代から1860年代の当初は、嘉永(かえい)6(1853)年にアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀(うらが)に来航したことをきっかけに、翌嘉永7(1854)年には日米和親条約を結ばされて我が国は無理やり開国させられ、さらに安政(あんせい)5(1858)年には日米修好通商条約を結ばされたことで、諸外国との貿易が始まりました。いわゆる「激動の幕末」が始まったわけですが、こ...
栄一が17歳の時、血洗島の領主が栄一の家やその親戚に対して御用金(ごようきん、領主からの借金のこと)を申し付けてきました。父の代理人として代官所に出向いた栄一は、そこで500両という大金を受けるよう代官から言いつけられました。栄一は「私は代理人としてきたので、今日は金額のみを聞いて帰り、正式な回答は後日連絡します」と述べて即答を避けましたが、代官は栄一に対してすぐに承知するよう、口汚い言葉で強要しまし...
渋沢栄一は、天保(てんぽう)13年旧暦2月13日(西暦1840年3月16日)に武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくにはんざわぐんちあらいじま、現在の埼玉県深谷市血洗島)で、渋沢市郎右衛門(いちろうえもん)とゑいの長男として生まれました。栄一の実家は養蚕(ようさん)や藍玉(あいだま)の製造を手掛ける豪農であり、裕福な家庭で生まれた栄一は幼い頃から学問に励み、やがて7歳になると、10歳年上の従兄である尾高惇忠(おだかじ...
※今回より「第88回歴史講座」の内容の更新を開始します(3月10日までの予定)。令和3(2021)年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公であり、また令和6(2024)年から新たに発行される一万円札の肖像画として採用された渋沢栄一(しぶさわえいいち)について、皆様はどの程度ご存知でいらっしゃるしょうか。渋沢栄一と言えば、その生涯で約500社ともいわれる会社の設立に関与するなど「日本資本主義の父」と呼ばれたことで...
※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(2月7日)からは「第88回歴史講座」の内容を更新します(3月10日までの予定)。これまで述べてきた事例を考えれば、南京攻略後に大虐殺が行われたとは到底考えられませんが、南京攻略戦において国民政府軍の兵士以外の民間人にも死傷者が出た可能性が高いのは事実です。しかし、それは先述の便衣隊が一般市民に紛れてゲリラ的活動を繰り返していたからであり、その行為自体が国...
当時の我が国は国際連盟から脱退していることもあって、日本軍の中国大陸における行動に対し、国際社会の目はどちらかと言えば批判的でした。もしそんな折に大虐殺を行っていれば、当時の世界のジャーナリストはこぞって我が国を非難するはずですが、現実にはそんな声は全く聞かれていません。確かに南京攻略から半年後に書かれた「虐殺の記録」は残っていますが、これも筆者が南京へは一度も出向かずにすべて伝聞で書かれていたこ...
「南京攻略当時は日本軍が報道管制を敷(し)いており、一切事実を明らかにしなかったからだ」とも考えられそうですが、当時の戦争報道は自由であり、先述のとおり、南京入城に対しても外国人を含む多数のジャーナリストが同行していました。しかし、彼らが「大虐殺」の記事を書いたり、後になって本として出版したりしたという事実は一切ありません。また、戦後になって次々と発表された「南京大虐殺の証拠写真」に関しても、その...
いわゆる「南京大虐殺」が最初に指摘されたのは極東国際軍事裁判(=東京裁判)でしたが、その背景には、戦勝国であるアメリカが、広島や長崎への原爆投下や東京大空襲などの一般市民への無差別爆撃といった、自分たちが犯した残虐な罪を相殺するために、敗戦国の日本を自分たちと同じくらい残忍な侵略国に仕立て上げようという思惑がありました。その後、昭和57(1982)年の文部省(現在の文部科学省)の教科書検定において、中国...
指揮官たる蒋介石が不在では、国民政府が降伏勧告に応じるはずもありません。日本軍はやむなく昭和12(1937)年12月10日から南京への総攻撃を開始し、当初は国民政府軍の激しい抵抗を受けましたが、南京防衛司令官の唐生智(とうせいち)までもが敵前逃亡したこともあって、早くも12日に首都南京が陥落(かんらく)しました。しかし、敗北した国民政府軍の一部兵士が軍服を脱ぎ捨てて、便衣隊(べんいたい)として一般市民に紛(ま...
さて、首都を攻め落とされるという危機に陥(おちい)った国民政府は、南京攻略に対してどのような行動をとったのでしょうか。一般的な判断力を持つ指導者であれば、普通は首都攻防戦という策は行わず、敵に開放して「オープン・シティ」にするのが常識でした。というのも、首都攻防戦に陥れば、多くの一般市民の生命や財産を巻き添えにするのが必至だったからです。戦闘状態が長くなればなるほど、たとえ守り切ったとしても、周囲...
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第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...