2021年のクーデターから事実上の内戦状態にある同国。 追い打ちをかけるように今年3月に発生したマグニチュード7.7の大地震により、多数の犠牲が報じられますが、紛争地故、正確な犠牲者数すら判明しないという惨状です。また国軍は避難民の頭上に爆弾の雨を降らすという非道も伝えられます。国連によれば戦災と併せ避難民は600万人に及ぶとされ、早急な人道支援が必要とされています。 一般社団法人 日本ビルマ救援センター 提供...
昔の国鉄ローカル線、地方私鉄や最近のローカル線など、旅の写真と思い出で綴るブログです。
1980年代、「鉄道のある風景」を求めて全国を旅した風太郎が写真と文章で綴る、ローカル線紀行。バリ鉄ではありませんが、自然溢れる沿線や、出会った人々など、しばし「鉄路の叙情」を感じて頂ければ、と思っています。しばらく「鉄」から遠ざかっていましたが、最近復活、ローカル線の「今」も綴っています。その他自然風景、日々雑感諸々まで。なるべく頻繁に更新したいと思っています。よろしくお願いいたします。
奈良原一高さんの写真集「人間の土地」のページをめくる。今では知らぬ人も珍しい長崎の端島(軍艦島)と桜島の火山灰の大地、に生きる人間の記録。1954年から1956年の撮影。 軍艦島の刻明な映像記録としてはおそらく初めてのものだろう。奈良原さんのあとがきによれば、所縁のあった九州各地を旅行中、23歳の一学生はこの被写体に偶然出会い、「思い立った者が行わなければならない」なる声を聴き、「はじめて自分のカメラを手に...
只見線 若宮 2017年始発列車までまだ1時間。地表を覆った朝靄が少しづつ空に消えてゆく。誰もいないホームに立ってそっと吸い込むのは、露に濡れた土と線路の赤錆、そしてやって来た実りの匂い。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
ご来展者から本を頂いた。昭和24年生まれというからひと回りは年上の方なのだが、SNSで拙写真集の存在を知り、以来この写真展に期待されていたそうだ。賛辞を頂くと共に時代の記録について話は尽きなかった。その後の入院でベッドに伏せっていた時、カミさんが家に届いたと持ってきてくれたもので、若い看護師は不思議なものを見るような顔をしていたが。「撮り鉄60周年記念」のメモリアルに制作した私家本だそうだ。 高度成長...
島原鉄道 大三東 2016年ホームがかさ上げになり、それに応じて待合室も横断踏切の位置も変わったか。海と空は変わらない。 そして足許に揺らめく翳の濃さも。古い写真から紡ぐのみならず、その場所で今この時も生み出されている写真の物語。 島原鉄道 大三東 1982年 写真集 「旅のたまゆら 1981-1988」 「夏の光」より本日発売の「旅と鉄道」。フォト&エッセイ「旅のたまゆら 1981-1988」 連載第...
島原鉄道 大三東 1982年これは写真展ハガキ「天狗」のラストショットである。咄嗟に望遠レンズに付け替えて「その後」を追ったらしい。天狗と子供たちはホームを降り、線路敷を悠々と歩いて神社の境内に向かう。トップライトを受けて鳥居の前に白く光るものは夜店のビニール屋根である。急行列車が乾ききった砂埃を上げて通り過ぎる。夏祭りのお囃子とざわめきが聴こえてくるだろうか。夏空に。 以前の五十肩でも筋トレ...
高千穂線 川水流 1988年オリンピック絡みでドゴール帽をしょっちゅう見せられると、つい思い出すのがこの夏のJR九州だ。1987年の分割民営化の際、同社の制帽として採用されたのがドゴール帽である。 あくまで俗称で、自由フランス軍のド・ゴール将軍のそれが大戦中やたら目立ったことから来る。近代軍隊の制服デザインの歴史というのは二大陸軍国とされたフランス系とドイツ系に大別されるそうだが、当初各国が真...
「旅と鉄道」誌(隔月刊 イカロス出版)に連載を持つことになった。お題は「旅のたまゆら 1981-1988」。 そもそもいつまでこのネタで引っ張るつもりだと囁かれるものもあったし、写真集も出せば先日の写真展もやったのを機に区切りを付け、「次」に向かう腹積もりだった。しかし世の中はまだまだ広い。SNS上やご来展者とのお話を通じて、「知らなかった」という未開拓顧客層が多数存在することが分かってきたことに加え、編集部...
磐越西線 山都 2015年さざ波立つ川面は秋の訪れを告げるか。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
保険会社に送った悲惨な写真負傷事故の際持っていたのは、Nikon1V3 10-30mm F3.5-5.6VR付きである。落下した瞬間のカメラの様子は知る由もないが、多分オシャカと思ったし、そんなものを確認している余裕も無かったから、転がっていた奴をそのまま持ち帰り、被害状況を確認したのはひと月後の退院時である。まずバッテリー室の蓋が開いて、中のバッテリーはどこかに吹き飛び、バッテリーを押さえていた黄色いプラの留め金が...
鹿児島交通 撮影地不明 1982年「油照り」という俳句の季語を初めて知った。 そうかああいうのを言うのかと、遠い夏の日が蘇る。台風銀座にまた大きい奴が迫っていて、予兆の雲が空に広がっていた。真夏の烈日こそ無いものの、熱気が雲に蓋をされ地表に沈殿したか。風はない。 流れる汗というより体中の脂を絞られるような田舎道の果てに、また暑苦しい色の流線形が来るのだった。あの頃の南九州より今の東京の方が暑い...
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2021年のクーデターから事実上の内戦状態にある同国。 追い打ちをかけるように今年3月に発生したマグニチュード7.7の大地震により、多数の犠牲が報じられますが、紛争地故、正確な犠牲者数すら判明しないという惨状です。また国軍は避難民の頭上に爆弾の雨を降らすという非道も伝えられます。国連によれば戦災と併せ避難民は600万人に及ぶとされ、早急な人道支援が必要とされています。 一般社団法人 日本ビルマ救援センター 提供...
長良川鉄道 深戸 2025年4月「九州」はまだまだ終わりませんが、この辺で閑話休題。話題のChatGPT、「ジブリっぽくして。」 やってみた。何というか、物凄くそれらしい出来。ホームが消されちゃって、女が男に代わったりしてるけど、それこそが絵として相応しいというAI様のさじ加減なのだろう。著作権がどうなんだという議論があるようだが、「ジブリ化」というボタンがサイト上に設置されているわけでもなく、あくま...
鹿児島交通 枕崎線 干河駅跡 2025年5月干河駅跡はただの草原に変わっていた。 一筋の道がホーム擁壁のラインだったらしい。写真集を拡げて確認する。撮影位置はここで間違いなかろう。 タイムトラベルではないが、「その現場」に立つたびに不思議な気持ちになる。 その時ここで何を考えてたのだろう、とか。隣地に住むご婦人が通りかかって、駅の跡を見に来たのかね、と言う。 そういう連中は珍しくないらしい。い...
鹿児島交通 枕崎線 加世田駅跡 2025年5月一大ターミナルだった加世田駅跡は広大なバスターミナルに変わっている。蒸気機関車にディーゼル機関車、かつて鉄道ありきのモニュメントが並ぶ。この瓦屋根はどこか見覚えがあると思ったが、多分ビンゴだろう。 セーラー服の、上。 鹿児島交通 枕崎線 加世田 1982年あの猛暑の日の、喉の渇きがリアルに蘇る。 白く乾いた構内通路と、微かに漂う機械油の匂い。「...
昨日発売の「旅と鉄道」8月号、フォト&エッセイ「旅のたまゆら1981-1988」連載第6回は「蝉時雨の駅」です。真夏を迎えた蒲原鉄道七谷駅。 駅まで歩くのが当たり前だった時代、そして大勢の人々が炎天下に駅を目指したあの頃。開け放たれた待合室に降って来るのは、夏草の匂いと騒がしい蝉時雨。上下列車がやって来て、ひととき賑わう駅の情景を、写真が呼び起こす記憶の糸を手繰って描きました。夜行って何の夜行よというご時世...
鹿児島交通 枕崎線 永吉駅跡 2025年5月廃線跡は一部がサイクリングコースになっていた。 そして吉利駅や永吉駅はホームが保存されている。最末期の此処はホームも線路も夏草が伸び放題、駅舎はボロボロに朽ち果て、既に打ち捨てられた空気に満ちていたから、楚々と芝生が貼られ、公園的に整備されたそこはどこか白々しさも覚える。それもまた、あの生きていた鉄道が手の届かぬ遠い過去になったという証なのだろう。あ...
鹿児島交通枕崎線廃線跡 永吉 2025年5月路線が長い割に意外に「決め」になる場所がなかった鹿児島交通。吉利~永吉間の永吉川に架かるプレートガーターは数少ないそれだったかもしれない。いや、だから誰でも撮る場所だった。 アングルに苦しむ。手前の石橋も渋く、これを前景とするのもあったろうが、それでは石橋の写真になってしまいそうで。 しかも完全逆光。南九州の炎天下、クラクラしながらの逡巡が昨日の事の...
鹿児島県 吹上浜 2025年5月薩摩半島と言えば、鹿児島交通鉄道線だろう。 いや現地では最後まで「南薩線」と呼んでいたという。鹿児島本線伊集院から指宿枕崎線枕崎まで49.6kmは決して短くはないローカル私鉄だった。いい時代もあったはず。 しかし高度成長期を迎え、「北海道の産炭地並みの」沿線人口急減に見舞われ、廃止が取り沙汰される。しかし鹿児島の名門企業、岩崎財閥の経営が災いしたか、その度に沿線の廃止反...
吹上温泉 中島温泉旅館 2025年5月旅の時間を鹿児島に巻き戻しましょう。予約するときから「ウチは普通の旅館じゃなくて古い自炊湯治宿ですから。」「仕切りは障子1枚ですから。」云々の注釈多し。値段も値段だし、これは剛の者とは思ったが、なんだかんだでこのご時世である、それなりのソーシャライズがあるものと思ったが。薩摩半島は東シナ海に面した、吹上浜に程近い古い温泉場である。これは来ましたね。物凄い...
日南線 大堂津 2025年6月この天気のくせにトップライトに近い光線のせいか、モノトーンの感じになっているのが逆に面白いかと思っている。既に真夏の光のなかで。 此処に走ってたかと、タラコの白日夢。南九州梅雨入り宣言は何処へ行ったかと快晴。 更に北上すればまた快晴。フロントガラス越し、健康的に日焼けして帰って来ました。 後を追いかけるように九州は大荒れ、本物の梅雨入りを迎えたようですね。30泊31日、う...
指宿枕崎線 松ヶ浦 2025年5月銭湯に富士山、指宿枕崎に開聞岳。借景と言うには主張が強すぎて。このカーブは誰かが謀ったか。 松ヶ浦そして駅がある。やってくるのは「ネコバス」ではありません。Copyright © 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
指宿枕崎線 頴娃 2025年5月この旅が始まったばかりの5月半ば、南九州に例年より半月も早い梅雨入り宣言は、そんなに行いが悪かったかと頭を抱えたものだが、まあ何とか宣言なんて水物だからね。 いやそれでもなかなかスッキリ抜けがいい空にならない。今日ばかりは奇跡のように夏空が広がった。言うのも面倒臭いけど、ホーム端にある踏切からですよ。Copyright © 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほん...
指宿枕崎線 西大山 2025年5月 此処まで来たら此処で撮りますわね。どんなに映えようと、大型観光バスが到着しようと、日本語が聞こえなくとも、彼らの普段通りはこうして存在しているのです。映え狙いがホテルで朝飯食ってる頃がシャッターチャンス。 あっ一人いたか。今日はまた、これ以上ない開聞日和だ。 西大山遅々と進まぬ記事はやっと此処に到達しましたが、東京を出てから28日目の現在は別府。 いよいよ九...
桜島島内 黒神町 奈良原一高さんの「人間の土地」に黒神村として収録されているのを見て以来、一度足を運んでみたかった場所。桜島の島内、もちろん火口から至近の距離にある。 常時大量の火山灰が降り、時に火山弾が飛ぶ。井戸の掘りようがないのか、飲み水さえ天水に頼るしかない。 奈良原さんが捉えた「人間が生きる極限の土地」の記録は異様な迫力を持って忘れ難かった。今も残る鳥居を埋めた火山灰は約2mの深さがあると...
肥薩線 大隅横川 2025年5月「用の美」。駅とは使われてこそじゃないのか。観光客に媚びないから、特別に扱われていないから、その土地の日々と共にある。地元成人式の集合写真が20年分位掲げられている。 20年前と比べ1~2割は減っていようか。でもその程度だ。故郷も、駅も、まだ呼吸を続けている。暮れなずむ駅前でカメラを構えていると、「どっから来たの?」とゆらゆらやって来たおじさん。東京からと言うと、ひえ...
肥薩線 大隅横川 2025年5月ご近所の嘉例川がチヤホヤされ過ぎて、という判官贔屓でもないが、「大隅横川」を強く推さずにはいられない。駅がほぼ原形を留めているという意味では嘉例川と同等、その堂々たる佇まいも同等、しかし何より地域のおらが駅として立派に機能しているという点で比較にならない程、響く。バックグラウンドとしての駅の立地が、嘉例川より遥かに賑わいを保っているのが大きいのだろう。利用客は高...
肥薩線 中福良 2025年5月ここらでバリ鉄。別に嫌いじゃあないんですよ。 ゆったりと弧を描く線路に、風景に奥行きを出す光線があって、ひたすら奇をてらうことを目標にしたような車両、風景を汚す奇天烈ラッピングが無ければ。川線があって山線があって、ここは何線と言うんだろ。山線の続き?いずれにしても壊滅した肥薩線、唯一の生き残り区間は日陰者にここで光を当てたのかもしれない。土地勘ゼロ、あてどなく車を走...
肥薩線 嘉例川 2025年5月木造駅舎西の横綱と讃えられる「嘉例川駅」、実は「竹林の湯」から至近にある。湯上りに拝みに行く。堂々たる大ぶりの駅舎は見事なものだと思う。 いい駅には違いない。 しかし。何処か「愛され過ぎて」いるんだな。待合室の中は駅の由縁やら応援イベントやら、鉦太鼓の張り紙だらけである。その点、東の横綱の「上神梅駅」が掲示物等を最低限に抑え、あくまでさりげない佇まいを残しているのと...
竹林の湯 2025年5月これは野趣! 人知れず山中にこんこんと湧いている「野良湯」である。霧島温泉郷は塩浸温泉から至近の山中。「竹林の湯」は周囲を鬱蒼とした竹林に囲まれているから。河原に源泉があり、こんこんと湧きだすそれが流れ下り、多分誰かが穿った穴二つに溜まっている。源泉の温度は高く、50℃近くはあるのではと思うが、まず上段の湯舟に行きつくところで40℃台前半、下段に至って40℃を切るか。これが本当の...
肥薩線 坂本 2025年5月 「人吉? 川線アレでしょ、山線もアレでしょ、今更行って何撮るのよ。」と言われたものだが。そこは人差し指を振って、ちっ、ちっ、ちっな訳で。 「壊れた線路」を撮りに来たのです。カメラをデジタルに替えてからかれこれ10年以上鉄道を撮ってきたし、相応のストックも出来たなかで、そろそろひとつ「纏め」をしたいと思っている。「旅のたまゆら NOW!」の構想はいくつかあって迷いもあ...
前にも書いたが風太郎は一匹狼というか、自分勝手な人間なので、折角の和を乱すような気がして、グループの一員になって皆で写真を撮りに行ったり、合同写真展とかに関わることは基本的に無い。いきおいその界隈における知人はかなり少ない。それでも目立つ形で前に出ると、思わぬ方まで情報が届くものだ。受付でカードに記されるご芳名を見ていて、ああっと驚くことが結構ある。只見線写真の名著「望郷只見線」の中心メンバーの一...
大井川鐡道 崎平 2018年 そぼ降る雨中のタチアオイ。茎の下の方から開花して、上まで咲き登ると梅雨の終りと聞く。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
退院の朝手術室というところが、あれほど冷え冷えと室温を落としている場所とは思わなかった。手術着1枚しか着ていない風のナースは冷え性にならないのかしらと思ったり、他人事状態のうちに皆でエイヤと幅50cm位しかないのではという手術台に載せ替えられる。真上にいわゆる手術室のライト、両側から見下ろすドクター達。これはいい絵だねえ。縦位置ウルトラワイドで決まりだな。スマホカメラでいいから腹の上に置かせてくれ...
とんだ不注意で外傷事故にあい、1ヶ月ほど入院加療になってしまいました。復活の日をどうかお待ち頂ければ幸せです。風太郎 拝...
只見線 入広瀬 2018年この駅で下車する高校生たちが、ほぼ全部の乗客だった。道筋に残っているのは、あとひと駅。たった一人の為に、列車は闇に沈む山峡へ。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
ご来展者から素敵なフォトブックを頂いた。タイトルは「PORT RAIL」。 車内に駅に線路際に、人々の素敵なポートレートを集めている。作者は川井聡さん。風太郎の3歳先輩で、多岐にわたるジャンルで活躍されているプロ作家だ。見れば見る程、コレどうやって撮ったんですかと驚くばかりなのだが、全て声掛けし、許可を得て撮っているという。それでも意識させない自然な表情の捉え方は素晴らしい。 無論相手と対峙する作者の人柄の為...
もう40年前に全盛を極めた鉄道趣味サークル「日本レイルファンクラブ」というのがあって、風太郎も誘われて末席を汚していた。関東・関西に二拠点があったと言えば大規模集団のように見えるが、会員数は100名に達することは無かったと思う。更にコアな集団に限れば30名以下に絞られ、写真展に合宿、各種イベント等々、関東・関西仲良く交流していた。学生、社会人、属性は様々で、ほとんどが20代前半、30代などジジイと呼ばれてい...
今般の写真展においては鉄道写真はもちろん、ジャンルを超えたプロ作家をはじめ、伝説的なアマチュア作家、そして無名の写真愛好家に至るまで、心に響く交流を持つことが出来た。 そこで感じたことを「余聞」として適宜書き綴っていきたいと思う。1976年創刊、以来1983年春号をもって休刊の告知があるから7年の命だったことになる。「鉄道グラフ雑誌」の触れ込みで、「蒸気機関車を失ったあとの鉄道写真」のクオリティを、孤軍奮闘...
島原鉄道 大三東 2016年天狗が通ったあと、実は長い長い歳月が流れていたのです。いろいろなものが変わりました。 変わらないのは、この空と海。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
「こういう大空間に自分の写真を置いて眺める機会は人生に何度も無いぞ。」とは成程と頷いてきたけれど、今回は「自分の写真を眺める」時間はおよそ無かったなー、というのが実感。正味10日間のご来展者は延べ1000人というところ。 それが多いか少ないか以前に、ご来展者とのコミュニケーションがこれまでの個展と比べ異次元に多く、深かった。他人の写真展を見に行った時に、作者在廊なら何らかの感想を述べて帰るのが、タダで見...
日中線 1984年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示・写真集未収録)現代に生き残っているローカル線よりよほど乗っているのは皮肉と言う他ない。「葬式鉄」は一人もいなかった。廃止の日まであと二か月。 GWを挟んで長きに及んだ展示は、13日(月)でいよいよ千秋楽を迎えます。 15時まで。写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 2024年4月25日(木)~5月13日(月) ※ 4月30日(火)~5月8日(木)...
島原鉄道 大三東 1982年ご来展者によれば。この時代を象徴する一枚なのだそうだ。まず「足だけ」も含め子供が3人も写っていること。地方に子供達が目立った1980年代を人口構成に鑑みれば、戦後日本に巨大なマスを形成した「団塊世代」(1947~49年生まれと定義づければ)が33歳から40歳だったということだ。「団塊二世」である。そして第一次産業専従とは言わずとも、団塊世代が地方に定住した「三世代同居」が当然の...
蒲原鉄道 大蒲原 1983年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)降って、止んで、また降って。越後の長い冬に伸びる、ひと筋の道。今回の写真展の開催告知において、「写真系紙メディア」は冷たかったなーと思う。現在の「二大誌」と思っている「CAPA」はたった一行、タイトルと期間のみ。「フォトコン」に至っては完全スルー。「銀塩フイルムの」ときた時点でお呼びじゃないのかな。かつて写真誌の権威と言えば...
五能線 大戸瀬 1983年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)「この写真のピントはわざと雪に合わせたのか。」と聞かれれば、そんなことは言いっこなしと写真に書いてあるだろう、と開き直るしかない。「こういう写真を見るとさ、ここに写っている人たちは今何処でどうしているんだろうと思うんだよな。」と述懐されれば、撮影技術を越えたところにある意図は伝わったかと思う。女子高生風が持った茶封筒...
宗谷本線 音威子府 1984年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)上りの利尻は0時前に音威子府に着く。ここで降りた目的は下りの利尻を撮ることと、その後4:20発の天北線の始発で浜頓別、興浜北線に向かうこと。怪訝そうに待合室を覗き込んだ駅員が、何を了解したか無言で引っ込むのは、決して珍しくはないお客だったからかもしれない。それからの長い時間をどう過ごしたのか、今となっては思い出...
磐越西線 豊美 1985年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示・写真集未収録)「たまゆら」って何?とはよく聞かれるが、古代の「勾玉」同士が触れ合う微かな響き、ひいては音が出るその「瞬間」のイメージ。仏教用語でいうところの「刹那」(指をひとはじきする間を65刹那とする、「極めて短い時間」の念。1/75秒に相当するとも。)に近いかもしれない。(旅先での)魂の揺らぎでもあろうという解釈も付...
「人間とは何か。写真に聞いてみよう。」か。GWのギャラリーは皆写真撮りに行っちゃうから枯れると、OMさんも閉めちゃうわけだが、富士フイルムさんはまた凄いのをぷっこんできたな。人物ポートレート20世紀の遺産だそうだ。 隣ではアンセル・アダムスかあ。「ポートレート」はチャーチルからアインシュタイン、ヘミングウェイから市井の名もなき人まで。機材は現代とは比べようもないはずなのに、そのライティングの妙以前に...
風間克美さんは風太郎より20歳近く年上の大先輩なのだが、写真に関して共感するところ多く、先日も拙写真展にご来展、お会いしたばかりだ。その風間さんの新刊が出た。 1960年代の地方私鉄の情景を捉えた珠玉の写真集。風太郎はその頃、やっと生まれてせいぜい幼稚園児という時代だから、もはや口惜しさも感じない異次元のワールドである。これは氏の独特なカメラアイなのだが、ほば全部の写真が標準レンズクラスで撮られている。...
同和鉱業 小坂鉄道 雪沢温泉 1983年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示・写真集未収録)フルサイズVSハイレゾフォーサーズの勝敗は、両者を並べている訳ではないし勝負はつきそうにない。しかし破綻しているという評は聞かれないし、むしろ35mmトライXからここまで伸びるのかという驚きをよく聞くから、ハイレゾフォーサーズのチャレンジ、まずは成功と思っている。時代の栄華を秘めた「小坂鉱山」から、...
磐越西線 日出谷 1982年中学時代の恩師がご来展。国文学専攻、まだ20代の女性国語教師は、夏休みの宿題に「小説を一本書け」とかいうのは仰天したが、読むこと、書くことの楽しさを教えてくれたと思う。中学2年の時に「今一番楽しいと思うことを作文に書け」というので、しからばと「国鉄相模線西寒川支線探訪記」というのを書いた。ご存じだろうか、西寒川支線。 寒川から分岐する支線で、僅か1.5km、1984年まで存在...