前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
「世界遺産:姫路城」の直ぐ近く、酒井雅楽頭家の菩提寺「瑞松山景福寺(曹洞宗)」です。開山は、総持寺第五世住職「通幻寂霊」。 応安2年(1369)摂津国猪名川で…
年に数回姫路へ行くのですが、駅前エリアでなかなか気に入ったレストランがありません。そのなかで最近リピートしているのが、「アンティーコアルベルゴ」です。 ●イタ…
高知城追手門前の一等地。かつては、江戸時代初期に藩政改革に取り組んだ「野中兼山の屋敷」や初代藩主:山内一豊夫妻を祀る「藤並神社」などがありました。そして現在も…
高知の文化エリアに、「高知県立文学館」があります。館内には、「寺田寅彦記念室」が設けられ「物理学者で文学者でもあった寅彦の事績」が展示されているのを始め、紀貫…
高知城の石段を、板垣像から更に上ります。最初の段が「杉の段」。現在は「花壇公園」と言われていますが、かつてはスギの木が多かったようです。此処に、有名な「山内一…
高知城の追手門を入り天守閣へ上る石段入口右に立つ「板垣退助の像」です。自由民権運動のリーダーらしく、演説をしている様子です。板垣が、かの有名な「板垣死すとも自…
「現存12天守のひとつ」に数えられる「高知城」です。「国指定史蹟、重文は15棟」です。享保12年(1727)の大火により、追手門を除く城郭の多くの建物が焼失し…
「現存12天守のひとつ」である「高知城」です。なお、江戸期以前から存続する12天守とは、姫路、松江、彦根、犬山、松本(以上は「国宝」5天守)、弘前、備中松山、…
高知市の中心街であり、「日本三大がっかりスポット」とも言われる「はりまや橋」です。大丸にも近い市内第一の繁華街で、路面電車が「東西線と南北線が交差する乗り換え…
「龍馬記念館」から海浜へ降ります、龍馬の頃から土佐人の心のふるさとだった「桂浜」です。空の青、海の青が、とても美しい。きっと、月夜の浜も良いのでしょう。 海に…
桂浜を臨む「高知県立坂本龍馬記念館」です。天候が良ければですが、いつ行っても、良いロケーションです。「My遊バス」で、「桂浜」の1つ前の停留所。高台にあるため…
「龍馬記念館」の直ぐ側に「浦戸城天守跡」が残っていました。長宗我部元親の主城は「岡豊城(現在の南国市内)」で、此の「浦戸城」は、元親が本山氏から奪った城でした…
「植物園を造るなら《五台山》がええ」・・・・・・90歳を超えた牧野博士の此の一言で、四国霊場第31番札所「五台山竹林寺」の「南の坊」跡の周辺を譲り受け、195…
神亀元年(724)に、聖武天皇の《勅願寺》として創建された「五台山竹林寺」です。江戸時代には、土佐藩主山内家の《祈願寺》にも指定され、土佐随一の大寺院として繁…
高知「はりまや橋」から「桂浜」へ行く途中に「五台山金色院竹林寺(真言宗)」があります。「四国霊場第31番札所」です。 或る日、聖武天皇が「夢」をご覧になりまし…
「おかしなことやな はりまや橋で 坊さんが簪(かんざし) 買いよった」 土佐の代表的な民謡「よさこい節」。「よさこい」の「よさ」は「夜」に通じ、「よ…
海あり山あり清流ありの土佐・高知。そこに、旬があり幸がある「高知料理」を楽しみに、土佐へ行きました。「カツオのタタキ」や「皿鉢料理」などが有名ですが、高知の料…
高知の繁華街に「吉田東洋先生遭難の地」との碑があります。 文久2年(1862)4月8日、東洋は藩主・豊範に「日本外史のうちの《本能寺の変》」を御進講し、偶々此…
後藤象二郎と並ぶ「土佐出身の明治の高官」、「板垣退助先生」の生誕地碑です。後藤象二郎生誕地とは、僅かに150m程の地にあり、2人は「肝胆相照らす仲」でした。板…
「薩長土肥」の一角を成す土佐藩ですが、維新期に活躍した有名な人物は、龍馬、慎太郎、瑞山など「郷士」出身者が殆どで、上級武士出身者は、後藤象二郎と板垣退助くらい…
「旧散田屋敷(旧山内家下屋敷)」、「鷹匠公園(旧山内家分家南邸跡)」に隣接して鎮座する「山内神社」です。此処は、歴代土佐藩主を祀っています。明治4年に藤並神社…
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前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
奈良です。 奈良は古い街で、街中を「ぶらぶら」散策していると、思わぬ出逢いも多くあります。そうした出逢いを中心に、アップしていきます。 まずは、「ならまち高林…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…