前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
文久3年(1863)の「八月十八日の政変」で、三条実美以下の七名の公卿が長州へ下った、いわゆる「七卿落ち」。この7名の公卿が落ち着いた先が、三田尻御茶屋(今の…
萩藩毛利家の主城である萩城と公港の三田尻港を結んでいた「萩往還」。毛利家は、その「終結点」に「参勤交代や迎賓の館として」《三田尻御茶屋》を建設しました。 萩藩…
「英雲荘」の直ぐ西に鎮座する「老松神社」です。白雉3年(652)創建と伝わる古社で、はじめは「須佐神社」と称されておりましたが、貞観14年(872)に「老松神…
「萩往還」の三田尻側の結点あたりに「明覚寺(浄土真宗本願寺派)」があります。当寺の18世住職・香川黙識が、近くに住む楫取素彦男爵と協力して、明治25年に、日本…
「萩往還」沿いに、数年前の大河ドラマの主人公を務めた「男爵楫取素彦と美和子夫人の三田尻邸跡(終焉の地)」がありました。 楫取素彦は、長州藩医の松島家に生まれ、…
参道の左にある「大專坊」です。 毛利元就が大内義長を討った時の本陣であり、禁門の変の前に、京に向け出陣する長州遊撃隊の将・来島又兵衛と、毛利世子の命を受けて来…
菅公を祀る天満宮のうち、北野、大宰府と並ぶ「日本三大天満宮」のひとつと言われています。そのうち、「日本で1番目(最初)に創建された天満宮」とも言われています。…
関ヶ原の戦いに敗れ、本城を山陰の萩に置かされた毛利家は、江戸への参勤交代の御成道として、「萩~山口~三田尻(防府)港」をほぼ直線で結ぶ、全長約53Kmの「萩往…
贈正五位「勤王の豪商:岡本三右衛門」が眠る「芦樵寺(臨済宗)」です。勤王の豪商とは、まるで白石正一郎のような人物ですが、駒札を見ると、宮部鼎蔵、坂本龍馬、高杉…
「聖武天皇勅願所で1200年前から防府を見守っている凄いお寺」です。かつては寺域が61町歩余りもあり、七堂伽藍と25ケ寺の塔頭・末寺を有していました。 天平1…
地方の国行政機関があった「役所または役所の所在地」を「国衙(あるいは国府)」と言います。今でいう県庁(所在地)ですね。かつて「周防国の国衙」は此処にありました…
野崎小唄、同期の桜、お夏清十郎、明治一代女、旅笠道中、麦と兵隊などを作曲した「大村能章」の顕彰碑です。佐波神社の境内にあります。 大村能章は、明治26年防府の…
多々良山山麓の防府市惣社町に鎮座している、周防国総社「佐波神社」です。天照大神など14柱の神様を祀っています。 防府も長府も「仲哀天皇伝説地」が多いのですが、…
「維新発動の地」あるいは「2000年の歴史が息づく町」として「凄いぞ!防府」キャンペーンが行われていました。今は新幹線の駅もない街ですが、毛利家36万9千石が…
「これぞ!旧公爵家の庭園」です。国指定名勝でもある「毛利氏庭園」はその広さ「約8万3千㎡」で、「約11万㎡」とも言われる「兼六園」にも匹敵する名園です。 壮大…
防府市を訪れたのは今春ですが、丁度「凄いぞ防府!」キャンペーンが行われていました。現在でこそ、新幹線の停車駅もない防府ですが、本当は、凄い処なのです。 まず「…
姫路城へは年に1度程度、行きます。一時は「白過ぎる」とも言われた姫路城ですが、やや落ち着いた色合いになったような気がします。金閣鹿苑寺でも、改修早々は色合いが…
彦根城(井伊家)には「玄宮園」という名園があり、他の城下町にも、兼六園、後楽園、栗林公園などの名園が多くありますが、「世界遺産・姫路城」には、これと言った庭園…
「世界遺産・姫路城」の西内濠の役割をする「船場川」。その「清水橋」から「市の橋」にかけて、「千姫の小径」と呼ばれる散策路があります。写真は、「本多忠刻と千姫の…
「清水橋」の袂に「阿部知二文学碑」が立っています。 阿部知二は、アメリカ文学の代表である「白鯨」を翻訳するなどメルヴィル研究でも有名な、昭和期の小説家、評論家…
世界遺産「姫路城」近くの「石だたみ通り」の「清水橋」にある「吉水地蔵尊」です。此の辺りには、戦国時代に赤松義村が「播磨十井」のひとつに定めたと言われる「鷺の井…
JR姫路駅前の「あなご料理:柊」です。 新鮮で上質な穴子を、昔ながらの手焼き製法で焼き上げています。香ばしく風味豊かな味わいです。姫路前浜の播磨灘で採れた新鮮…
浄土真宗の寺院はもともと布教の拠点として存在し、観光寺院は少ないのですが、此処、「船場本徳寺」も、見かけは素っ気ない印象があります。 かつて「浄土真宗中興の祖…
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前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
奈良です。 奈良は古い街で、街中を「ぶらぶら」散策していると、思わぬ出逢いも多くあります。そうした出逢いを中心に、アップしていきます。 まずは、「ならまち高林…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…
安政元年(1854)「日米和親条約」が締結され、下田と箱館の開港が約束されました。やはり、函館の次は下田だろうと下田へ向かいます。 途中で熱海で下車。まずは「…