ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
山内家第15代藩主:豊信(容堂)の隠居所として元治元年(1864)に建てられ、維新後は、山内家の「高知本邸」となった「旧山内家下屋敷(散田(さんでん)屋敷)」…
電停通りへ出ると鮮やかな朱色の鳥居の「佐田神社」がありました。「龍馬が生まれた町のエビスさん」です。 慶長7年(1602)土佐支藩の山内康豊(初代藩主:一豊の…
「婦人参政権発祥之地」碑の隣に、もう2つの碑が立っています。 まず「嶽洋社」跡の碑。もともと、此の場所には、「嶽洋社」がありました。「嶽洋社」とは、板垣の「立…
「龍馬誕生之地」から少し西北へ行くと、「婦人参政権発祥之地」という大きな石碑が見えます。龍馬が生まれた「上町」町会で、何と、日本初の女性参政権が認められたので…
龍馬の生家に近く、龍馬の遊び場だったと言われる「秋葉神社」です。高知市内には、このような住宅街の中に鎮座する「秋葉神社」が数十社あると言われています。 かつて…
全国で郵便局は何局くらいあるのでしょうか。 まず「コンビニ」は、55,950店(21年12月末)。また、寺院は77,206寺に対し、24,367局(2019年…
水天宮から少し歩くと「日根野道場」跡があります。此の辺りです。司馬さんの「竜馬がゆく」から。 竜馬14歳の頃。近所の築屋敷に、小栗流の道場を持つ「日根野弁治」…
上町二丁目の鏡川に架かる月ノ瀬橋の袂、つまり龍馬の生まれた町に鎮座する「水天宮」です。御祭神は安徳帝とその祖母の平時子。文政7年(1824)に勧請されたと言わ…
龍馬が生まれ育った町「上町」。その歴史や文化、龍馬を育てた家族などを、模型や映像を駆使して紹介する記念館「龍馬が生まれたまち記念館」です。「龍馬生誕地の碑」か…
龍馬生誕地から指呼の間にある「近藤長次郎邸跡」碑です。つまり龍馬の近所に住んでいた長次郎。龍馬は「饅頭屋」と呼んでいました。 司馬さんの「竜馬がゆく」から、引…
JR高知駅前に立つ「三志士の像」です。 中央には、勿論、龍馬。高知では、空港の名前にも、郵便局の名前にも、龍馬が登場します。甲府駅前には信玄像が、上越駅前には…
「土佐の高知シリーズ」を始めます。 東京方面から岡山を経て、「アンパンマン列車」で瀬戸大橋を渡海します。土讃線には、「赤いアンパンマン列車」と「黄色のアンパン…
福岡城の「下の橋、潮見櫓(伝)」近くに、「黒田如水公隠居所(御鷹屋敷)」がありました。今は「牡丹・芍薬園」になっています。 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601…
生涯であげた首は76級。当に後藤又兵衛と並ぶ、福岡藩黒田家の2大豪傑。母里太兵衛の邸宅の長屋門です。 福島正則から「大杯に注がれた酒を呑み干したら、望みの品を…
福岡城跡の敷地内に「史跡:鴻臚館跡」があり、「鴻臚館跡展示館」で、その「概要」を学習することが出来ます。 「鴻臚館」は古代の「迎賓館」に相当する施設で、唐や新…
福岡城内にある「福岡城むかし探訪館」です。巨大名城である福岡城の「むかし」、官兵衛や長政に想いを馳せることが出来る場所です。ジオラマや展示がぎっしり。官兵衛の…
名軍師「黒田官兵衛」が手掛けた、九州最大級の名城「福岡城」です。総面積は約46万㎡。博多湾側から見た城の形状が、空を舞う鶴の形に似ていることから、「舞鶴城」と…
福岡では此処へ寄ることが多くなりました。「西鉄グランドホテル内日本料理の松風」です。今回の季節は、「春弥生」です。●前菜 菜の花のお浸し、桜胡麻豆腐、天豆塩…
「久留米寺町」を離れ、少し南下します。「櫛原小路(中級武士の住まいが集中)」から「鉄砲小路(戦時に前線で戦う御手先足軽組が居住)」そして「十間屋敷、日吉エリア…
「久留米寺町シリーズ」も第8回になります。久留米市文化財保護課や久留米観光コンベンション国際交流協会作成の丁寧なパンフレットに沿い、ついつい我がブログも、丁寧…
「遍照院(真言宗大覚寺派)」です。或る意味では、久留米寺町を代表する寺院です。「寛政の三奇人」のひとりである「高山彦九郎」の墓があり、「国史跡」とされています…
久留米寺町は、江戸時代に、久留米城防衛の役割を担う「東の砦」として、25寺院が久留米藩の都市計画に沿って集約されました(現在残っているのは17寺)。久留米はJ…
「久留米の旅ノート」に曰く、「江戸時代に久留米城防衛のため寺院が集められた寺町。かつては26もの寺院が集中し、久留米絣(かすり)の始祖・井上伝の墓や、久留米市…
久留米の「街案内書」は、実に行き届いています。街の歴史に愛着があり、遠く関東の人にも、是非に見て欲しいという「郷土愛」が感じられます。遠路はるばる出掛けても、…
黙っていても観光客が訪れるK市のような人気観光都市とは違い、地方の城下町は素晴らしい観光資産を有してはいるものの、なかなか遠路の客を呼べないのが実情です。有馬…
まずは「本泰寺(日蓮宗)」です。有馬家の祈願寺のひとつです。元々、福知山のお寺でしたが、元和7年(1621)の有馬豊氏の久留米移封に伴い、当地へ転入しました。…
江戸時代、久留米城防衛のために寺院が集約された「寺町」。かつては「26」もの寺院が集中していましたが、今でも「17寺」が立ち並ぶ壮観さです。一帯は今でも江戸時…
「ブログリーダー」を活用して、嵯峨野の青竹さんをフォローしませんか?
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…