ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
寛永寺の「開山堂」です。 寛永寺の開祖「慈眼大師/空海」と空海が崇敬する「慈恵大師/良源」を祀るので「両大師堂」と呼ばれています。東京国立博物館の東にあります…
佐賀から久留米へ行く前に、上野を少々。 因州池田家上屋敷表門です。通称(加賀の赤門に対し)「黒門」と言われています。旧丸の内の「大名小路」にあった表門ですが、…
博多駅前で中華が食べたくなり、「鴻臚/ホテル日航福岡」を再訪しました。「鴻臚(こうろ)」といういかにも博多という名のお店で、其の日は団体が入っていましたが、普…
「宗龍寺」の少し南にある「万部島」です。その名称は、「法華経一万部読経」が行われたことに由来します。 永正2年(1505)龍造寺家兼(剛忠)は「国家安泰・万民…
最近、名古屋城の本丸御殿が復元され話題となりましたが、日本で最初に「本丸御殿を復元」したのは、佐賀城です。他に、本丸御殿が残されているのが、高知城、川越城です…
天正16年(1588)に佐賀藩祖:鍋島直茂が、龍造寺隆信を祀るべく建立した「金剛山宗龍寺(曹洞宗)」です。龍造寺隆信の法号「法雲院殿泰厳宗龍居士」に因んでいま…
佐賀県内最初の歴博「徴古館」です。鍋島家第12代直映公により昭和2年に創設されました。鍋島家より、国宝・重文など多くの文化財が寄進されています。 建物は、左右…
佐賀城下町の中心地「長崎街道/柳町界隈」です。此処には、江戸期から大正期にかけての歴史的建造物が並んでいます。ノスタルジアな雰囲気が満点のエリアです。 まずは…
佐賀の中心部を横断する長崎街道(シュガーロード)。旧古賀銀行(現歴史民俗館)の直ぐ南に鎮座する「八坂神社」です。地元の鎮守社です。 境内には、樹齢600年の大…
ずば抜けた先進性で、幕末の佐賀藩を「薩長土肥の一角」に押し上げ、日本の近代化を推進した名君「鍋島直正公」の像が、佐賀城本丸の中心に建てられています。 直正公は…
大隈重信は、「佐賀七賢人」のなかでも、1~2を争う有名人です。明治維新での活躍は、さほどではありませんが、明治の大政治家そして早稲田大学創設という教育者の顔も…
佐賀はやはり遠いので、リピートしたい銀座イタリアンを。「サン・ミケーレ/ホテルモントレ・スールギンザ店」です。 旬の食材を適切に使用された、視覚と味、食感を全…
こんなお店が東京にあれば、せっせとリピートするのに。そんな欧州カレーの名店が、佐賀の中心部・白山にあります。「レストラン白山文雅」です。 「ミシュランガイド福…
松原神社に隣接する「佐嘉神社」です。第10代:鍋島直正公を祀るべく創建され、後に、第11代:直大公も合祀されました。 明治4年、幕末の佐賀藩を日本一の近代的な…
安永元年(1772)に第8代藩主:鍋島治茂公により藩祖:鍋島直茂公を御祭神として「日峯社」が創建されました。「日峯社」の名称は、直茂公の法号「日峯宗智大居士」…
称念寺の隣にある「願正寺(浄土真宗本願寺派)」です。此方も立派なお寺です。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際し、佐賀藩初代藩主:鍋島勝茂は、西軍に組し敗れ…
流石に35万7千石の城下町佐賀。寺町も幾つもあります。此処は、佐賀藩の儒者、草場佩川、武富●南が眠る「白山無量光院称念寺(浄土宗)」です。「白山町」の名の由来…
九州を三分した「肥前のひぐま」龍造寺隆信。その龍造寺氏発祥の寺院と言われる「龍造寺(高寺)」が、佐賀の中心地、白山一丁目にあります。正式には、「端石山龍造寺」…
文治3年(1187)、龍造寺家の祖である南次郎季家が、佐賀龍造寺村の地頭職になった後、鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊勧請して当社を創建しました。主祭神は「応神天皇」…
「長崎街道」は、小倉(常盤橋)から長崎までの「57里(約224Km)」で、当時は、九州随一の「脇往還」でした。常盤橋から長崎へは、およそ7泊8日の旅程だったと…
元禄14年(1701)に、鍋島綱茂公の心願により、江戸桜田屋敷に鎮座されていた「烏森稲荷大明神」を勧請しました。こちらは「鳩森稲荷神社」です。 綱茂公は念願か…
八幡小路を更に東へ。「岡田三郎助生誕地」碑があります。 岡田三郎助は明治~昭和前期の洋画家。天真道場で、黒田清輝、久米桂一郎に学び、「白馬会」の創立にも参画し…
佐賀市内「八幡小路」に、「久米邦武・桂一郎父子の生誕地」があります。 まず「久米邦武」は、明治・大正期の佐賀藩出身の歴史学者です。 太政官に出仕し、岩倉欧米視…
大楠が見事な「佐賀縣護圀神社」です。 明治3年に鍋島直大が、戊辰戦争で戦死した藩士78柱を祀るべく創設しましたが、現在では、以後の国難に殉じた約3万5千柱の御…
「與賀神社」。佐賀を代表する神社です。欽明天皇の御世の創設と言われています。 御祭神は、竜宮城の御姫様と言われ、神武天皇の御祖母である「豊玉姫命」。 石橋、鳥…
佐賀中心部「与賀町交差点」にある「妙安寺(曹洞宗)」です。 慶長5年(1600)頃、佐賀藩初代藩主「鍋島勝茂」が、「龍造寺胤栄の遺児(妙安尼)」のために、50…
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ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…