ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
佐賀城・西御門に「島 義勇(よしたけ)」の像が建っています。「厳寒を化して麗春となさん」は、彼の言葉です。 初代の秋田県権令を辞した後、帰郷し「もはや勇退のと…
「龍泰寺(曹洞宗)」です。大隈重信の墓があることでも知られています。 永禄6年(1563)に「五国二島の太守」とも「肥前の熊」とも呼ばれた「龍造寺隆信」が、「…
「佐賀→久留米→福岡」と進めます。「佐賀=鍋島家35万7千石」、「久留米=有馬家21万7千石」、「福岡=黒田家47千3石」と、何れも大藩です。九州については、…
松江城の周囲(全長約3.7Km)を約50分かけて巡る船の旅です。1日乗り放題なので、途中で街歩きして、再度、乗船することも可能です。 まずは、3つある乗船場の…
「いっそ 松江の人になってしまおうか」と藤村が言ったとか。大橋川沿いに佇む「皆美館」の庭園です。朝、見ると確かに見事な庭園です。作庭者は不明ですが……。 某ア…
明治21年創業。島崎藤村などの文人も宿泊した名旅館の「皆美館」の2泊目の食事です。 先付二題(季節は秋) 多岐無花果胡麻クリーム秋茄子湯葉のせ 牡蠣と珍しい食…
水郷松江の「産土神」です。 出雲国風土記では「賣布社」。延喜式には「賣布神社」と記されています。「賣布(めふ)」とは、「海藻や草木が豊かに生える」こと。もとは…
城下町に「寺町」は付きものです。寺院を特定地区に集中させ、城郭の出先機関として、防衛設備の中核とさせます。松江の場合、北寺町、南寺町、寺町、万代町、昭和町に、…
文政8年(1825)、「人参方(薬用ニンジンの生産・販売を促進する役所」が、(古志原村から)天神川沿いの寺町へ移転されました。写真は、その「人参方役所の門」で…
松江市民には「天神さん」と親しまれている「白潟天満宮」です。 保元年間(12世紀)に広瀬富田城内にて、平忠度により創建されました。眼病平癒を目的に、創建された…
「京店商店街」から「松江大橋」を下ると、「松江本町商店街」そして「松江天神町商店街」と、続きます。右手が「ミオヤ小路」。江戸時代には、大橋川に沿って、蔵が立ち…
慶長13年のことです。初代の松江大橋の建設工事が難航し、たまたま通り掛かった「源助」が、人柱にされてしまいました。 その朝、源助は、お茶を飲んで家を出ようとす…
「松江歴史館」の隣りにある「松江ホーランエンヤ伝承館」です。「松江ホーランエンヤ」とは、約370年の歴史を有する「日本三大船神事のひとつ」で、10年に一度、約…
松江城の本丸や二ノ丸に至る「北惣門橋」。その東の袂に、家老屋敷がありました。今は、「松江歴史館」になっています。市立の歴史博物館は、福岡、大津、岐阜などが優れ…
家老屋敷(現:松江歴史館)の直ぐ前にあり、松江城本丸へ通じる「北惣門橋」です。京橋川(内堀)に架かっています。直ぐ東側に家老屋敷があり、家老屋敷と城内を結ぶ重…
金沢や佐倉でも鑑賞出来る「武家屋敷」ですが、松江にも保存されています。金沢の場合は、上級武家、中級武家、足軽と、様々な階層の武家屋敷が鑑賞出来ますが、松江に残…
松江城北側の「御堀端の一角」です。江戸時代の風情を色濃く残し、「塩見縄手」と呼ばれています。名前の由来は、諸説ありますが、藩の家老で「塩見小兵衛」という人物の…
塩見縄手に立つ「小泉八雲」像です。「小泉八雲記念館」や「小泉八雲旧居」の道路の対面です。 八雲はギリシャで生まれ、アイルランドで育ち、アメリカで記者として活躍…
「小泉八雲記念館」の隣りに「小泉八雲旧居」があります。八雲は松江で、1年3カ月ほど暮らしました。 八雲が実際に住んでいた武家屋敷が、ほぼそのまま残されています…
作家・ジャーナリストとして知られる小泉八雲の直筆原稿や初版本などの遺愛品が多く展示されています。2016年に、展示内容を一新しリニューアルされました。新しく気…
島根県内でも数少ない明治建築が、城内二之丸にあります。「興雲閣」です。明治36年に、松江市が「工芸品陳列所」として建築しました。 当初は、明治天皇の行在所とし…
松江城が国宝になる「決め手」となる「祈祷札」が発見された「松江神社」です。松江城内の二之丸に鎮座します。 明治10年、旧松江藩有志の面々が、市内楽山に、松平直…
姫路城や大坂城を見慣れると小さく感じますが、歴とした「現存12天守」のひとつ「松江城」です。先般、姫路、彦根、松本、犬山に続き、5番目の「国宝城郭」に昇格しま…
松江城前広場に立つ「堀尾吉晴」像です。吉晴は「築城名人」として知られ、近代城郭としての松江城を築城しました。それまでの出雲の中心は、月山富田城でした。 吉晴は…
松江城主は、堀尾家が2代で京極家が1代で断絶した後、信州松本から松平直政が入封し、目出度く「家門」入りし、そのまま松平家は、幕末まで継続します。 島根県庁前広…
宍道湖畔に佇む老舗旅館「皆実館」です。島崎藤村がいたく気に入り、「いっそ松江のひとにでも、なってしまおうか」と言ったとか。明治21年創業の老舗宿で、確かに、居…
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ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…