戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
一番人気の人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」は、全10段で構成されていますが、第8段「順礼歌の段」が定期公演されています。 徳島の御家騒動に絡んで盗まれた主君の名刀…
「阿波人形浄瑠璃」。淡路で始まり、後に、大坂で爆発的な人気を得た人形芝居ですが、時代を超えて演じ継がれ、情感豊かな伝統芸能として、今も阿波で、息ついています。…
徳島名物「ひょうたん島クルーズ」です。「ひょうたん島」と呼ばれる、新町川と助任川に囲まれた「周囲約6Kmの中洲」。この中に、JR徳島駅、徳島城(城山)、徳島市…
眉山山麓に広がる徳島寺町。最後は、真言宗大覚寺派の2寺です。藩主蜂須賀家の関係でしょう。真言宗の寺院が多いように思われます。 まずは「安住寺」です。奈良時代に…
「敬台院殿(蜂須賀至鎮公の正室)」を祀る「敬台寺(日蓮正宗)」です。日蓮正宗総本山の大石寺第17世日精上人を開基として、江戸の法詔寺を移転しました。 眉山山…
「願成寺(真言宗御室派)」です。徳島寺町で唯一と言われる「仁王門」があります。 そして、「徳島七福神のうち大黒天」が祀られています。「大黒堂」があります。 本…
「東宗院(とうしゅういん、高野山真言宗)」です。もとは藍住にあり、勝瑞城主の細川持隆の祈願所でした。 蜂須賀家が現在地へ移転させています。 立派な山門です。新…
通称「滝薬師」と呼ばれる「常慶院(高野山真言宗)」です。慶長3年(1598)に蜂須賀家政の本願により創建されました。「開運の寺」として、大いに栄えました。 …
徳島城下町の総社(総鎮守)「春日神社」です。藩主蜂須賀公の崇敬深き神社です。奈良の春日大社から勧請されたので、御祭神は春日大社と同じ4柱です。 眉山山麓にあり…
「般若院(高野山真言宗)」です。 見事な山門ですが、徳島城西の丸の薬医門だったと言われています。ビルマの請来釈迦如来の御本尊、本堂には、堂本印象筆の襖絵56面…
「東光寺(浄土真宗本願寺派)」です。 俗名:藤原成重という人物が出家し、興正寺の末寺として今の板野町に一宇を創建しましたが、三好氏から寺領13貫地を受け、一時…
徳島寺町の紹介を続けます。 「還国寺(浄土宗)」です。法然上人が四国流罪の後、帰京の途中で滞在された宿坊が前身と言われています。もとは「源国寺」といい、勝瑞に…
徳島寺町の紹介を続けます。「妙長寺(日蓮宗)」です。日蓮宗の四国77カ寺のひとつです。此のお寺は、寺町の東の入口にあり、寺の屋根上に「八大竜王」を祀ります。 …
徳島寺町にある「壽量寺(日蓮宗)」です。 元和元年(1616)に蜂須賀至鎮公が(藩命として)1町四方の土地を与え創建したという由緒あるお寺です。開山として伊勢…
徳島寺町の紹介を続けます。 まずは、「本覚寺(日蓮宗)」です。当時は、千 道安(利休の嫡男)の菩提を弔うべく勝瑞にて創建され、承応年間(17世紀)に当地へ移転…
城下町に「寺町」は付きものです。各藩主は、城下町の区割りを行う際、必ず、寺院を一ヵ所に集め城砦化し、敵襲来の際は、お城と一体となって守備するようにしました。金…
徳島眉山山麓に鎮座する「天神社」です。文化6年(1809)に創建された道真公を祀る神社です。代々の蜂須賀公から、文教の神として保護されました。 瀬戸内寂聴さん…
徳島のシンボルとされる「眉山」です。僅か300mに満たない標高の山ですが、どの方向から見ても「美しい眉の形」に見える山で、JR徳島駅、徳島城の真正面に位置して…
「坂東太郎」そして「筑紫次郎」に対し、「四国三郎」の異名を持つ「吉野川」。石鎚山系の瓶ケ森(かめがもり)を水源とし総延長194Kmにも上る大河は、阿波徳島の産…
徳島市内きっての名刹と言われる「瑞巌寺(臨済宗妙心寺派)」です。御本尊は「釈迦如来」像。元は勝瑞城下にあり、三好氏から寺領13貫文を給されていたものを、慶長1…
宿泊した「JRホテル・クレメント徳島/藍彩」です。郷土料理のお店です。 お庭が奇麗です。 徳島は、瀬戸内海、特に潮流の激しい鳴門に近く、近海産の魚種に恵まれ、…
徳島藩蜂須賀家25万7千石の「藩祖」と言われる「蜂須賀家政」の像です。徳島城址公園内に立っています。 蜂須賀家政は正勝(小六)の子。信長・秀吉に仕え、天正12…
「阿波・徳島シリーズ」を再開します。 徳島と言えば「阿波踊り」。起源としては、「盆踊り起源説」、「風流踊り起源説」、「築城起源説」があり、どの説をとっても、4…
岩崎彌之助・小彌太(三菱2代目および4代目社長)の父子2代により創設・拡充された「静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)が、二子玉川から丸の内へ移転し、人気が沸騰…
新年、おめでとうございます。本年も、よろしくお願いします。 例年は暮れの恒例ですが、まずは、東京国際フォーラムの干支人形から。 そして、「エスカーレ/ホテ…
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戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…