近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
関門海峡は、門司港と下関(唐戸)の間に横たわっており、その間は、最短で僅か650mです。2つの街を繋ぐ「交通手段」は、人道、車、鉄道、船と、色々あります。車な…
約6年半に亙る改修工事の末、開業当時の姿に戻った「門司港」駅。「門」の形状が美しいですね。 此の日は、夕方から、コンサートが行われていました。 夕闇迫る門司港…
高さ103mからの大パノラマです。黒川紀章設計の高層マンションの31階に「門司港レトロ展望室」があります。 真正面に関門橋が。その辺りが「壇ノ浦」で、本州と九…
門司港グルメは数多ありますが、何と言っても、関門海峡から上がったばかりの新鮮な魚介類でしょう。此処「光本」さんは、プレミアホテルからも大阪商船ビルからも、直ぐ…
大阪商船(現:大阪商船三井船舶)は、明治17年に設立された海運会社で、当時の門司港は、大陸航路の一大拠点でした。大阪商船は、明治22年に門司港が「特別輸出港」…
かつて、「門司港~大連」間の国際航路は、繁昌を極めていました。そして1979年に、北九州市と大連市は「友好都市」契約を締結。1902年に、「友好都市契約締結1…
門司港レトロ地区のシンボル「旧門司税関」です。門司税関は明治42年に発足し、此の建物は、明治45年に「煉瓦造り瓦葺き2階建て」建物として竣工しました。昭和初期…
「プレミアホテル門司港」の直ぐ前にある、全国で最大級の歩行者専用跳ね橋「ブルーウィングもじ」です。全長は、約108mです。 1日6回各10分程度、船を通行させ…
最重要な国際貿易拠点として、大正時代には、輸出入額日本一になった門司港。今でも、美しい歴史的建造物が並び、異国情緒が漂う、門司港レトロ地区の中心に佇むデザイナ…
大正3年開業当時の姿に完全復元された門司港駅。その2階に、「みかど食堂」by NARISAWAがあります。 「ワールド50ベスト レストラン」に、11年連続で…
「門司港、下関、長府城下町シリーズ」を始めます。まずは「JR門司港駅」。大正3年に国鉄「門司」駅として開業しました(昭和17年に、門司港駅に改称)。九州の鉄道…
京都大丸の少し南、東洞院通り沿い(元悪王子町)に鎮座する「悪王子神社(分霊)」です。御祭神は「素戔嗚(すさのお)命」で、その「荒御魂(荒ぶる魂、現実に姿を顕し…
神明町(綾小路通り、高倉から東洞院の間)に鎮座する「神明神社」です。平安末期の近衛天皇の御世、しばしば「皇居」とされた、摂政・藤原忠通の屋敷跡です。「四条内裏…
仏光寺の山門を左折すると正面に「大行寺(真宗仏光寺派)」があります。前の通りは、仏光寺通りです。此の寺院も、仏光寺の山内寺院です。 文政4年(1821)に清和…
真宗十派のひとつ「仏光寺派」の本山の「仏光寺」です。大寺院ですが、四条烏丸の繁華街に近く、アクセスが良いので、良く参拝しています。 親鸞聖人が流罪先の越後から…
天台宗総本山比叡山延暦寺の「三門跡寺院」のひとつ「青蓮院門跡」です。現在、京都には五門跡寺院があり、「五ケ室」と呼ばれ、其のひとつでもあります。 天台宗の祖:…
書流の「青蓮院流」です。 南北朝時代(14世紀)尊円法親王を祖として起こった書の流派です。尊円流、粟田口流、御家流とも呼ばれる、我が国書道史上、最も注目すべき…
粟田御所とも呼ばれた門跡寺院「青蓮院」です。山号はない天台三門跡寺院のひとつで、高い寺格を誇っています。 かつては比叡山三千坊のひとつで、近くにあった「青蓮池…
「因幡薬師」。正式には「福聚山平等寺(真言宗智山派)」といいます。長徳3年(997)因幡国司の橘行平が、その任務を終え京へ戻る途中、因幡国賀留津の海に、一体の…
「青蓮院門跡」へ参拝するべく三条神宮道を下った処に、「粟田口」の碑がありました。「粟田口」は「京の七口」のひとつで、場所柄、東海道を東へ下る「口」と言えます。…
東京方面から徳島へ行く場合、新幹線を新大阪で下車。JR舞子で「高速バス(鳴門・徳島行)」に乗り換えます。JR舞子には新快速が停車しないので、神戸で快速に乗り換…
絵画については、普通の印刷では「書籍の大きさ」に限界があり、原寸大なんては不可能です。また、同じ材質で原寸大の作品を製作すれば「贋作」になります。複写として写…
「大塚国際美術館」に展示されている1000点余りの陶板画は、大塚グループの大塚オーミ陶業㈱の特殊技術により、オリジナル作品と同じ大きさに複製されています。原画…
「大塚国際美術館」の建築にあたり、国立公園の中なので、厳しい「高さ制限」があり、高層建築は建てられない。そこで、地上階の高さ制限を守りつつ、地下に潜った構造と…
「われ去りしとも 美は朽ちず(玉岡かおる著、潮出版社)」を読むと、「大塚国際美術館」設立の苦労や大変さが、良くわかります。東京で(事業を)やるなら黒字、大阪な…
「大塚国際美術館」。大塚グループが創立75周年を記念して創立した、日本最大級の「陶板名画美術館」です。敷地総面積:6万6630㎡。延べ床面積:2万9412㎡。…
水辺の景色が美しい新町川河畔は、寂聴さんの子供の頃の遊び場でした。2006年10月に寂聴さんが文化勲章を受章され(86歳)、その栄誉と郷土への大いなる貢献を称…
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近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…