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  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (29)

    聖餐(マタイ二六26~29、マルコ一四22~29、ルカ二二14~20)場所 エルサレムルカ福音書に基いて講義する。〔14〕「時至りければイエス食に就きぬ……就けり」ユダヤにおいて小羊をほふるのは、午後三時より六時までの間であるという。このことより、この時は夕方六時頃であったろう。この時使徒たちも席についたのである。実に幸いなことである。〔15〕「イエス彼らに言いけるは……」キリストの御心が言外に溢れ出ているのを見る。...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (28)

    イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (27)

    イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (26)

    イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (25)

    ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (24)

    祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (23)

    〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (22)

    羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (21)

    財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (20)

    〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (19)

    十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (18)

    〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (17)

    イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (16)

    〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (15)

    〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (14)

    ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (13)

    キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (12)

    イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (11)

    メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (10)

    イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (9)

    サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (8)

    ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (7)

    婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいる...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (6)

    悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (5)

    二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (4)

    イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (3)

    イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (2)

    イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (1)

    イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (51)

    イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (50)

    ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (49)

    ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (48)

    二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (47)

    ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (46)

    エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (45)

    ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (44)

    若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (43)

    イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (42)

    パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (41)

    ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (40)

    神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (39)

    十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (38)

    富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (37)

    不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)このような出来事は、世の中によくあることである。〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (36)

    〔25〕この兄は信者であっていまだ聖潔を受けない人、換言すれば、父と共に喜怒哀楽において一致しない者の型である。兄は弟のように放蕩ではなく、正直に父のもとに働いていたのである。表面より観察する時は非常に立派である。しかしながら、その心にある一物は時に臨み、機に触れて立ち上がりこのようなにがい水を出すのである。兄は畑にいて僕たちと共に終日すきを取り、一日の労働を終えて帰る時、たまたま妙なる音楽を耳にし...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (35)

    放蕩息子の譬話(ルカ一五11~33)キリストはこのところで特別に神の側と人間の側とを明かに語り給うた。〔12〕「弟は父に言いけるは身代をわれに分け与えよ」これは、誤りの第一の原因である。神は人間を自由な者に造り給うた。しかしながら、神より離れる自由ではなかった。人間は自分が主人になれば自由になると思うが、これは大いなる間違いであって、三十一節にある通り、神はわが所有物は、ことごとくあなたの所有であると仰...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (34)

    失われたる羊の譬話(ルカ一五3~7)このルカ伝十五章にある三つの譬は、パリサイ人と学者たちにキリストがなし給いし教えであって、人間の魂の貴重なことと彼らの不心得なことを教えたものである。〔2〕「この人は罪ある人に交わりて食せり」。食するとは親密なことを表わす。〔4〕「一つを失わば」失われた羊とは神の聖前より離れた人間を指したものである。獲るまでは尋ね給うのである。「尋ねえば喜びてこれを肩にかけ」神の喜...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (33)

    弟子たる者の覚悟(ルカ一四25~35)イエスがこの譬を語り給うたのは、エルサレムの上京の途中である。「多くの人々イエスと共に行きし」イエスと共にエルサレムに行くことは立派なことではあるが、イエスは表面のみでは満足なさらず、更に精神の中に探りを入れ給うのである。〔26〕これは弟子となる条件である。弟子とは普通の信者とは異なって、どこまでもイエスと共に行く者であり、またキリストの福音のために命を捨てるもので...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (32)

    婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (31)

    水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (30)

    ヘロデのたばかりと主の答え(ルカ一三31~35)ヘロデは自らの言葉を貫き、人の栄えを求めようとしてついに正しきヨハネの首を取った故に、良心に責められ、その心には平和がなかった(マルコ六26)。ここにイエスの名声を聞き、また彼が奇跡を行うのを見てヘロデの心は動揺し、ついにイエスをもってヨハネの死より甦れる者となすに至った(マルコ六16)。彼の心中に不安があるのは当然である。故に彼は、イエスを他のところに退け...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (29)

    十八年病んだ女癒される(ルカ一三10~17)「女よ、汝はその病いより放さる……」この女は十八年病んだ、実に気の毒な女である。わたしたちは一日病んでも実に苦しい。しかしながら十八年とは実に長いことである。人間の側からは望みのないこの女が、キリストによって癒された。何という幸福なことであろう。「置きければ……」英訳には両手を置いたとある。その時「直ちに伸びて神を讃美せり」ハレルヤ。これを霊的に味うならば、わた...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (28)

    実を結ばないいちじくの話(ルカ一三6~9)この譬話はユダヤ人を戒めるために、主が語り給うたのである。ぶどう園とは異邦人のことで、いちじくはユダヤ人を指す。「来りてこれを求むれども、得ざりければ」神は実を求めに来り給う。これは記憶すべきことである。ユダヤ人は、他の国民より栄えを現わさねばならない者であり、また造り主なる神を拝すべきものである。しかしながら、バアルやアシタロテや金の小牛に仕え、これを拝し...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (27)

    神は私たちの必要を満たし給うこと(ルカ一一22~31)註釈はマタイ伝六章においてなしたのでこれを略し、ただ異なる点のみを言う。〔29〕今日、有形的側面において信者も未信者もほとんど違いのないことは、キリストの嘆き給うところである。魂の悪い時には神に願うが、金のない時また身体の病気の時には、異邦人と異なるところのないことは悲しむべきことである。「ただ神の国を求めよ……」これは、神の国には肉体の恵みも含むこと...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (26)

    唖の悪魔追い出される(ルカ一一14~26)この奇跡は、マタイによる福音書九章三十二節と同じであると言う者と、同十二章二十二節と同じものであると言う人があるが、いづれであるか明らかでない。註解はマタイ伝の時になしたので略す。愚かな富める者の譬話(ルカ一二16~21)〔15〕真実の安心は所有の高さによるものではない。この御言葉は多くの場合、未信者に当てはめるが、今日信者、伝道者の内にもこのような人がたくさんいる...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (25)

    ラザロ甦らさる(ヨハネ一一1~46)ラザロの住んだベタニヤは、聖書中にも神の恵みの現われたところである。またこの地は神の栄えが現われる機会のあったところである。なぜならば、そのところにはイエスを重んじ、イエスを信ずる三人の兄妹があったからである。第一、ルカによる福音書一○38~42には、イエスは真の教師として現われている。またマリアは学ぶ者として現われた。すなわちマリヤは善き方を選び、キリストに心を奪われ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (24)

    イエス、ヨルダンの向うに退き給う(ヨハネ一〇40~42)このヨハネがバプテスマを施したところは、イエスにとって記念すべきところである。実にこのところは厳かなまた静かな幸福なところであった。〔41、42〕これはヨハネにとって幸いなことである。なぜならば彼がこのところにおいて伝道した種は、今このところで芽生えたのである。ヨハネはすでに牢に死んだ。けれども、彼の労は空しくはならなかった。我らも我らの伝道が目前に...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (23)

    宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (22)

    イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (21)

    ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (20)

    善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (19)

    七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (18)

    羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (17)

    盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (16)

    節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (15)

    姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (14)

    イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (13)

    イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (12)

    七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (11)

    薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (10)

    イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (9)

    イエス再ぴその苦難を予言する(マタイ一七22~23)イエスがこの悪霊につかれた者、誰も癒すことの出来ない者を癒された時に、弟子たちの得意は、実に非常なものであった。彼らはこの調子では、間もなくキリストはエルサレムを占領し、自分たちは右大臣、左大臣の位でも得ることが出来ると思っていたであろう。ところがイエスは二三節に十字架のことを話された(ルカ九44)この「耳におさめよ」とは英語で、「沈み込ませよ」との意...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (8)

    イエス悪霊を追い出す(マタイ一七14~21)この三人の弟子は、山の上で恵みを受けたが、また山を下らねばならない。山の下には多くの悩んでいる者がいる(マルコ九22)を見れば「我らを憐みて助けよ」とある。すなわちこの子の父は、子の苦しみを自分の苦しみのように思っていた。丁度あのツロ・フェニキヤの女と同じ態度であった所を見ると、この人は確かに信仰を持っていたに相違ないが、全き信仰ではなかったらしい。〔16〕「こ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (7)

    キリストの変貌(マタイ一七1~13)この変貌は弟子たちのためだけでなく、キリストへの奨励であった。神は何時でも全く服従する時に、ご自身の栄光を顕わされる。すなわち弟子たちは、まず大体十字架を負う決心があったので、神はこの栄光を顕わされたのである。〔2〕キリストの容貌は、実に見苦しいお方であった。しかしこの時真実の栄光が顕われた(マルコ九3参照)。〔3〕エリヤは予言の中で大いなる人、モーセは律法を立てた人...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (6)

    イエス自己の死を予言される(マタイ一六21~29)この出来事はあのペテロの告白と対照して見ると大いなる教訓がある。ペテロは「汝は活ける神の子なり」と言って、キリストからおほめを頂いたが、キリストが長老、祭司たちから苦しみを受けること、すなわちキリストが十字架にかかられることがわからなかった。イエスは弟子たちがご自分がキリストであることを悟った時に、十字架のことをお知らせになられた。弟子たちは、キリスト...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (5)

    ペテロ、イエスの神性を認む(マタイ一六13~20)〔13〕はイエスの弟子の目の試験である。〔14〕の弟子たちの答は、世の人の目である。このような目を持つ者は地獄行きである。〔16〕はペテロのイエス観ではなくて、、聖霊のイエス観である。キリストとは、神から油注がれた者の義である。〔17〕キリストは明白な信仰を持っている者に報いを与え給うのである。文字通りならば、ペテロの上に教会を建てると解すべきであるが、これは...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (4)

    目しいの癒し(マルコ八22~26)この出来事は、肉体の癒しの漸次的な実例である。時として神は段々御手を加え給う場合がある。だからわたしたちからかれこれと注文すべきものではない。これをまた霊的に味わうならば、心の目に適用することが出来る。心の目の盲目な者は、天の栄光も、地獄も、キリストも、永遠もまた神の存在も明らかに見ることが出来ない。勿論頭では合点していても、ハッキリしていない。しかしキリストの手すな...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (3)

    イエスの四千人給食(マタイ一五32~39)〔32〕は先の先まで、見通し給う同情である。またここにイエスは、このことに関して弟子たちに、相談するような態度をとっておられる。わたしたちの同情はこのイエスの同情に同化されたものでなくてはならない。〔33〕弟子たちの不信仰と、神の恵みを忘れることが現われている。わたしたちも実際問題に出遇って、古い経験を忘れて祈っていると「我を信ぜよ」と、同じ聖声を聞くことがしばし...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (2)

    イエス多くの人を癒される(マタイ一五29~31)この出来事はイザヤの予言の成就である。ここで注意すべきことは、多くの人が病人を連れて、イエスの許に来たことである。わたしたちもイエスの許に病人を連れて来ることは大切なことである。そうすればキリストは癒して下さる。聾唖者の癒し(マルコ七32~37)この出来事も同じく、祈りから始まった。三二節、三三節に、キリストはこの人を外へ連れて行ったとあるが、深い恵みを味わ...

  • 「キリスト伝講義」反抗の時代 (1)

    イエス過越を避けてツロとシドンの地に行かれる(マタイ一五22~28)この出来事は過ぎ越しの祭りの時のように思われる。マルコ七24、25を見れば、彼がここに退かれたことが理解出来る。またヨハネ七1~2を見る時に、イエスは過ぎ越しの祭りを避けて、ツロとシドンに行かれたように思われる(ヨハネ六4参照)。マルコ七24を見ると、キリストは実に灯のようであり、また香のようであることがわかる。どうしても隠れることの出来ない...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (56)

    パリサイ人に対する主の答(マルコ七1~23)このことは主イエスの伝道の一転機であって、ヨハネ六章のパンの御説教の時から、多くの人は彼を離れ、反抗の機は熟して来た。次にこの出来事はどこの出来事であるかはっきりしないが、多分カペナウムであろうとのことである。多くの人がキリストを離れて行くのに、キリストと談じるとはちょっと立派に見えるけれども、キリストに反抗する為であるとは実にわざわいである。ユダヤ人と言...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (55)

    ユダヤ人の会堂での説教(ヨハネ六22~65)〔22~25〕どのように主が彼らに質問されたかを見ることが出来る。しかし主は彼らの心の動機を知っておられる。彼らは生命を得る為にイエスを求めたのではなく、肉欲を満足させる為に主を求めたことがわかる。そこでキリストは彼らに対して「朽つる糧の為に働かずして永生に至る糧すなわち人の子の与える糧の為に働くべし」と仰せられた。しかし肉のことだけ考えている彼らには、このキリ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (54)

    〔28~31〕「主よもし汝ならば我に命じて……」ペテロはここで、主だと聞いて嬉しくてたまらなくなってこのように叫んだ。これはペテロの特色であるが、また非常な教訓がある。すなわちペテロはここで主の答を待った。彼は祈ったのである。またペテロはあの海辺で甦えりの主に遇った時よりも沈着な態度を取っている。彼はこの時キリストの命令を待った為に、海を歩くことが出来たのである。もし彼が命を待たずに飛入りしたならば溺れ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (53)

    イエス水の上を歩かれた(マタイ一四22~33)〔22~23〕キリストは人々を帰えし、また弟子たちをも向う岸に渡らせ、一人で密かに山に行って祈られた。わたしたちは集会の前には祈るけれども、集会の後には祈らない。わたしたちもキリストのように祈りの人となりたいものである。この日主は非常に多忙であったことを知ることが出来る。わたしたちは二百人や三百人の集まりでも充分多忙であるのに五千人にも食物を与えることは、人間...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (52)

    イエスの五千人給食(マルコ六31~44)〔31〕イエスの伝道がどんなに多忙であったかを見よ。わたしたちも働きに疲れた時イエスと共に休むべきである。しかしわたしたちはとかくイエスと共に休まない為に、肉に所を得られ、力をサタンに奪われることがある。そこでイエスは「我と共に」と言われる。〔36~38〕これは人間の考えである。あるいは今日の宗教家とも比較すべきか。彼らは自力をたのみとしている。「銀二百のパンを買い……...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (51)

    バプテスマのヨハネの死(マルコ六14~29)〔14〕主の名の広まったことを見よ。〔16〕ヘロデは罪のない者の首を斬った為に、このように恐れたのである。これによってどんなに猛悪な人間にも、良心の存在するのを見ることが出来る。歴史によればヘロデとピリポとは腹違いの兄弟である。ヘロデには当時他の妻があった。それなのに彼はヘロデヤと不義を行い、ヘロデヤはピリポと離縁してヘロデと結婚した。これは原因がどのようなもの...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (50)

    〔26〕何物も神の前には裸かで現われるものなので、人を恐れるのは愚かなことである。〔27〕これは密室の祈祷で神から聞いたことを公衆の前に証詞せよと言うことである。またこれは人に道を語る時、適用することが出来るのである。〔28〕人を恐れるなかれ、神を恐れよ。人間は身体を殺すことが出来るだけである。しかし神は人の霊魂を地獄で滅ぼす権威を持っておられる。それなのにわたしたちの着眼点は時々狂い易いので注意しなけ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (49)

    マタイ一〇16~421~15は信仰をもって出て行くべきことを示したものであって、16~23の一段は知恵と柔和とを示したものである。またこの中には忍耐をも含む。24~42、ここは大胆にキリストの証詞をするべきことを教えたものである。わたしたちはこの決心と大胆を要するのである。〔16〕どうしたらわたしたちは大胆に進むことが出来るか。この節にあるように「我汝らを遣す」の聖言にあるのである。ユダの獅子であるイエスが共に行...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (48)

    十二使徒の派遣(マタイ一〇1~15)汚れた霊を追い出すとは、キリストの敵を追い出すことである。また彼らは病を癒やす権威をも賜わった。人はどうしても霊と肉体との救いを得なければ満足することは出来ない。〔5〕イエスはペンテコステ前は、ユダヤ人だけの救い主であった、だからこう仰せられたのである。「イスラエルの家の迷える羊に往け」キリストがいかにイスラエルを顧みておられたかがわかる。望みなく亡びに近づいている...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (47)

    口の不自由な人から悪霊を追い出す(マタイ九32)悪霊の一つの働きは人間の口を不自由にすることである。神が人間に口を与えられたのは、神を讃美させる為、人の徳をたてさせる為である。悪魔はこれを閉して、神を讃美させないようにした。また人をおしゃべりにするのである。ある人は口の不自由な人はのどの器械が足りないのだと言う。しかし悪霊の働きであることがしばしばある。今日といえども、信仰によって主を働かせるならば...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (46)

    二人の目の癒し(マタイ九27~31)ダビデの子孫とはメシヤすなわち救い主の意である。彼らはイエスがメシヤであることを信じていた。「われこの事をなし得るや」と、イエスは信仰を要求される。そこでわたしたちが祈る時に神は、わたしにこのことをすることが出来ると信じるかと仰せられる。しかしその時主を見上げる者は「主よ然り」と言うことが出来る。ここに信仰の順序を見ることが出来る。さてわたしたちは肉体の目は開かれて...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (45)

    長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)〔35〕「何ぞ師を煩わすや」このような望みのない時に悪魔は激しく働く。けれどもイエスは助けて下さる「恐るる勿れ唯信ぜよ」と。何と有難いことではないか。多くの場合悪魔は「駄目だ駄目だ」と言う、しかし主の言葉を信じて進むべきである。〔37〕「誰にも共に往くことを許さざりき」不信仰な人はいざと言う場合に何の役にも立たない。一緒にいることさえ障害となる。...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (44)

    長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)会堂の司とは宗教上重い役目である。当時信者のすくない時、しかも会堂の司の中にヤイロのような信仰篤い人物を出したことは驚くべきことである。信仰には謙遜が伴うものである。「其足下にうつ伏して切々に求めいいけるは……」これは切なる祈りである。マタイによる福音書(九18~26)の方には「既に死ねり」とあるのを見れば、ここに矛盾があるようであるが、既に死ねり...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (43)

    悪霊が豚に入る(マタイ八28~34)現在悪魔は、神の前に敗軍の将である。しかし個人から追い出される時は信仰する時である。これを飼主から見る時、豚が海に溺れたのは、大損害である。しかしユダヤ人より見れば、豚は汚れたものであって、律法で禁じられていた。だからイエスがこのようになされたのは当然のことである。パウロがピリピで悪霊を追い出した時も、金儲けの道を失った人が出て来た。マルコ五1~20レギオンとは連隊と...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (42)

    イエス嵐を静められる(マタイ八23~27)イエスと共に舟で乗り出すことは大切なことである。次に注意しなければならないことは、イエスと共にいる時にも世の中の嵐は吹くと言うことである。このような場合神から捨てられたように、またこれは神の聖旨ではないなどと思うことがある。この時は実に心細く感じる。マルコ四35を見ると、水が舟に満ちたとある。その上その時は夕暮であった。弟子たちはどんなに心細く感じたことであろう...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (41)

    隠された宝と真珠のたとえ(マタイ一三44~46)〔44〕このたとえを信者の側から見ないでキリストの側から見なさい。先ず第一にキリストは卑しいわたしたちを顧み、このわたしたちの魂を重んじて、これを求められた。すなわちわたしたちの魂を目がけて、天の栄えを捨ててこの地上に来られ、真珠のようにわたしたちを買い上げられたのである。これを土台として、人の側から味わうべきである。このようにして与えて下さるキリストの賜...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (40)

    からし種とパン種のたとえ(マタイ一三31~35)このたとえには二つの解釈がある。一つは小さな福音の種が大いなる福音の実を結ぶことを示したものであると言うことである。他の一つは、小さな罪が非常に大きな罪となると言うことである。いずれも一面の真理であるが、前後の関係を見れば、後者すなわち罪のたとえと解する方がよい。わたしたちも知っているようにからし種は実に小さなものであるけれども樹木のように大きくなるもの...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (39)

    毒麦のたとえ(マタイ一三24~30、36~43)天国とは神の国との意義に用いられた所もあるが、ここでは真理を説けばとの意である。〔25〕ここにあるように、悪魔は疲れた時、寝た時のように油断した時に、すきを狙ってひそかに悪の分子を投げ込むのである(マタイ一三36~44参照)。〔26〕この世には悪魔の子と神の子とがある。教会の中にもこのように二種の者のあることは注意すべきことである。〔27〕主人の僕とは伝道者のような者...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (38)

    種まきのたとえ(マタイ一三1~23)マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (37)

    イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持ってい...

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