祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
〔17〕今は新約時代だからと言って律法を守らない人もあるが、律法と恩恵とは決して衝突しない。主イエスは律法を完全にするためにこの世に来られた。またここに信者の責任の重いことを表わしている。ある人は律法位少々は破ってかまわないと言うが、それは大いなる間違いである。なお不義は必らず友を求めるもので、一人で悪事を働くことは良心がとがめて出来ない。あの人もやっている、この人もやっているなどと標準を人におき、...
〔13〕塩は腐敗を止めたまま味を付けるものである。世の人は神の目からご覧になる時には腐れているが、この腐敗を止めるのは神からの塩だけである。レビ二13にある塩とはキリストの潔い生涯の型である。この世の人は外面は味があるようだが、心には少しの味もない。しかしほむべき主はわたしたちを塩とするために、ご自身の霊を与えられる。マルコ九49を見れば供え物は必らず塩づけられ、塩をよくするには火にかけるとあるが、この...
〔10〕これまで七つの品性を画いて来た。この節からは七つの品性を有する結果として、その人と世人との衝突を画いたものである。主はこの七つの品性をわたしたちに与え給う。そのためわたしたちがこの品性を受けた時には世と反対になって来る。テモテ後三12、13にあるように真面目であれば世と衝突するのは当然である。このような人は天国において報いが多い。かりに地上で何物を失っても天においては大いなる報いがある。もしわた...
〔7〕六節までは消極的であるが、ここから積極的になる。自分の欠乏のために砕けた人は今度は同情の人となり、人が悪事を働いた時にもすぐさま自分で裁判する地位に立たず、あわれみを持つようになる。神はまことに同情に富み給うお方である。そのあわれみを味わった人はまたあわれみを持つ人となる。あわれみは新約を通じて表われている神の御性質である。そこでこの神はわたしたちにもまたあわれみの人となることを求められる(...
〔5〕「柔和なる者は幸なり……」これも以上の結果であって、心の貧しいために悲しみ、悲しんでいる人は柔和になる。すぐ怒り、人をとがめる人は心の貧しい人ではない。柔和とは意気地のないことではない。いかなる場合にも自分の損を甘んじて受ける人である。テトス三1。二三節にある通り自分が以前には悪かったと言うことを記憶している人は自然柔和となる。権限や論理の方から言えば、キリストはわたしたちを粉微塵にしてもかまわ...
第五章この時主イエスの伝道に対する世論はますます高くなり、多くの人々がこの山に集まった。この山はカペナウムの近くにある小さい山で、主はここで多くの聴衆と弟子とを見て座につかれた。言わばこの山はキリストの講壇であった。主がこの教えを語られた人は、格別に主を受け入れた人であった。その為に主のこの説教は求道者に適している。また実に円満な説教である。ここで「汝ら」とあるのは弟子に向って仰せられたので、福音...
山上の説教分解五章。 1~12 真正の幸福。 13~16 信者の責任。 17~48 法律。 (1)17~20 法律の威厳。 (2)21~26 他人を害すること。 (3)27~30 姦淫罪。 (4)31~32 離婚罪。 (5)33~37 誓約の罪。 (6)38~42 復仇の罪。 (7)43~48 完全な愛。六章。 1~18 偽善者を戒しめる。 (1)1~4 ほどこし。 (2)5~15 祈り。 (3)16~18 断食。 19~34 肉体上の必要物。 ...
シモンのしゅうとめと多くの人のいやし(マタイ八14~17)「イエス、ペテロの家に入り」このようにイエスは身分の低い人の家にも入り給うお方であった。「ふし居たるを見て」ある人は病人の所に行ってもそれを見ようとしない。けれども主は親しくご覧になり給うた。「さわりければ」イエスがさわる時はいかなる病気もいやされた。この「入る」「見る」「さわる」の三つはイエスの愛を表わしている。「女おきて彼らに仕う」いやしの...
悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。ルカ四32~36。ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのよ...
イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学...
イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここ...
サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエ...
ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさな...
イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので...
最初の奇跡(ヨハネ二1~11)婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受け...
最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち(一)バプテスマのヨハネには...
イエスの受洗(マタイ三13~17)〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。イエスの誘惑(マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ...
パプテスマのヨハネの伝道(マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレッ...
イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)〔エルサレム〕〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし...
博士の訪問(マタイ二1~12)このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そう...
イエスの割礼と命令(ルカ二21)イエス神に献げられる(ルカ二22~24)マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であるこ...
イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)マタイ...
ヨセフの夢(マタイ一18~25)わたしたちはヨセフの人物について学ぶべき所が多くある。〔19〕第一、彼は義人であった。ヨセフは下層の大工であって、しかも罪悪の入り乱れている中に生活しながら、すこしも境遇に汚されなかった。第二、彼は度量のある人であった。普通の出来ていない人間ならば刃物でも持って騒ぐところであるが、彼は軽々しくことをせず、穏便な手段を講じた。すなわち彼は彼女を辱しめることを好まず、ひそかに...
バプテスマのヨハネの誕生(ルカ一57~80)〔58〕「主がエリサベツに大なる慈悲を垂れたまいし事…」。わたしたちにも主は大いなる慈悲を垂れて下さることを常に感謝すべきである。〔63、64〕ザカリヤが天の使に「我既に年老い妻も年またすすみたれば何に因りてかこの事あるを知らん」(ルカ一18)と言った不信仰のため、「汝おしとなりてこの事のなる日まで言うこと能わじ」(20)と宣告されたが、彼は全く神を信じ全く服従した。...
イエス誕生の告知(ルカ一26~38)〔26〕この六カ月はバプテスマのヨハネをみごもってから六カ月の意味である。〔27〕ヨセフもマリヤもダビデの子孫であって、系図は、ダビデ=ヨセフ・マリヤ=キリストとなっている。〔34〕マリヤの質問は、不信仰の疑問ではなくて知識上の疑問であった。しかしザカリヤは反対であった。〔36、37〕人間には不可解であっても、神には知らないこと、出来ないことはないと、天使は懇切にマリヤに教え...
講義(読者は各項目毎に聖書の本文を読み、各節に照してこの講義を読まれるよう望む)イエス・キリストの神たる事キリストの神であることはヨハネ一1~5において明瞭である。三福音書において、イエスの救主であることを証明しても、なお救主の神性を疑う者があるのでヨハネは明白に、それの神であることを証したのである。ルカの緒言ルカの緒言1、2節を見ると、彼がいかに心を用いて事実を記録したかを知ることが出来る。テオピロ...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...