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  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (11) 山上の説教 7

    〔17〕今は新約時代だからと言って律法を守らない人もあるが、律法と恩恵とは決して衝突しない。主イエスは律法を完全にするためにこの世に来られた。またここに信者の責任の重いことを表わしている。ある人は律法位少々は破ってかまわないと言うが、それは大いなる間違いである。なお不義は必らず友を求めるもので、一人で悪事を働くことは良心がとがめて出来ない。あの人もやっている、この人もやっているなどと標準を人におき、...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (10) 山上の説教 6

    〔13〕塩は腐敗を止めたまま味を付けるものである。世の人は神の目からご覧になる時には腐れているが、この腐敗を止めるのは神からの塩だけである。レビ二13にある塩とはキリストの潔い生涯の型である。この世の人は外面は味があるようだが、心には少しの味もない。しかしほむべき主はわたしたちを塩とするために、ご自身の霊を与えられる。マルコ九49を見れば供え物は必らず塩づけられ、塩をよくするには火にかけるとあるが、この...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (9) 山上の説教 5

    〔10〕これまで七つの品性を画いて来た。この節からは七つの品性を有する結果として、その人と世人との衝突を画いたものである。主はこの七つの品性をわたしたちに与え給う。そのためわたしたちがこの品性を受けた時には世と反対になって来る。テモテ後三12、13にあるように真面目であれば世と衝突するのは当然である。このような人は天国において報いが多い。かりに地上で何物を失っても天においては大いなる報いがある。もしわた...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (8) 山上の説教 4

    〔7〕六節までは消極的であるが、ここから積極的になる。自分の欠乏のために砕けた人は今度は同情の人となり、人が悪事を働いた時にもすぐさま自分で裁判する地位に立たず、あわれみを持つようになる。神はまことに同情に富み給うお方である。そのあわれみを味わった人はまたあわれみを持つ人となる。あわれみは新約を通じて表われている神の御性質である。そこでこの神はわたしたちにもまたあわれみの人となることを求められる(...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (7) 山上の説教 3

    〔5〕「柔和なる者は幸なり……」これも以上の結果であって、心の貧しいために悲しみ、悲しんでいる人は柔和になる。すぐ怒り、人をとがめる人は心の貧しい人ではない。柔和とは意気地のないことではない。いかなる場合にも自分の損を甘んじて受ける人である。テトス三1。二三節にある通り自分が以前には悪かったと言うことを記憶している人は自然柔和となる。権限や論理の方から言えば、キリストはわたしたちを粉微塵にしてもかまわ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (6) 山上の説教 2

    第五章この時主イエスの伝道に対する世論はますます高くなり、多くの人々がこの山に集まった。この山はカペナウムの近くにある小さい山で、主はここで多くの聴衆と弟子とを見て座につかれた。言わばこの山はキリストの講壇であった。主がこの教えを語られた人は、格別に主を受け入れた人であった。その為に主のこの説教は求道者に適している。また実に円満な説教である。ここで「汝ら」とあるのは弟子に向って仰せられたので、福音...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (5) 山上の説教 1

    山上の説教分解五章。 1~12 真正の幸福。 13~16 信者の責任。 17~48 法律。 (1)17~20 法律の威厳。 (2)21~26 他人を害すること。 (3)27~30 姦淫罪。 (4)31~32 離婚罪。 (5)33~37 誓約の罪。 (6)38~42 復仇の罪。 (7)43~48 完全な愛。六章。 1~18 偽善者を戒しめる。 (1)1~4 ほどこし。 (2)5~15 祈り。 (3)16~18 断食。 19~34 肉体上の必要物。 ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (4)

    シモンのしゅうとめと多くの人のいやし(マタイ八14~17)「イエス、ペテロの家に入り」このようにイエスは身分の低い人の家にも入り給うお方であった。「ふし居たるを見て」ある人は病人の所に行ってもそれを見ようとしない。けれども主は親しくご覧になり給うた。「さわりければ」イエスがさわる時はいかなる病気もいやされた。この「入る」「見る」「さわる」の三つはイエスの愛を表わしている。「女おきて彼らに仕う」いやしの...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (3)

    悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。ルカ四32~36。ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのよ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (2)

    イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (1)

    イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここ...

  • 「キリスト伝講義」不明時代 (5)

    サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエ...

  • 「キリスト伝講義」不明時代 (4)

    ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさな...

  • 「キリスト伝講義」不明時代 (3)

    イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので...

  • 「キリスト伝講義」不明時代 (2)

    最初の奇跡(ヨハネ二1~11)婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受け...

  • 「キリスト伝講義」不明時代 (1)

    最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち(一)バプテスマのヨハネには...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (6)

    イエスの受洗(マタイ三13~17)〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。イエスの誘惑(マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (5)

    パプテスマのヨハネの伝道(マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレッ...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (4)

    イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)〔エルサレム〕〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (3)

    博士の訪問(マタイ二1~12)このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そう...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (2)

    イエスの割礼と命令(ルカ二21)イエス神に献げられる(ルカ二22~24)マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であるこ...

  • 「キリスト伝講義」準備の三○年 (1)

    イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)マタイ...

  • 「キリスト伝講義」御降誕前 (4)

    ヨセフの夢(マタイ一18~25)わたしたちはヨセフの人物について学ぶべき所が多くある。〔19〕第一、彼は義人であった。ヨセフは下層の大工であって、しかも罪悪の入り乱れている中に生活しながら、すこしも境遇に汚されなかった。第二、彼は度量のある人であった。普通の出来ていない人間ならば刃物でも持って騒ぐところであるが、彼は軽々しくことをせず、穏便な手段を講じた。すなわち彼は彼女を辱しめることを好まず、ひそかに...

  • 「キリスト伝講義」御降誕前 (3)

    バプテスマのヨハネの誕生(ルカ一57~80)〔58〕「主がエリサベツに大なる慈悲を垂れたまいし事…」。わたしたちにも主は大いなる慈悲を垂れて下さることを常に感謝すべきである。〔63、64〕ザカリヤが天の使に「我既に年老い妻も年またすすみたれば何に因りてかこの事あるを知らん」(ルカ一18)と言った不信仰のため、「汝おしとなりてこの事のなる日まで言うこと能わじ」(20)と宣告されたが、彼は全く神を信じ全く服従した。...

  • 「キリスト伝講義」御降誕前 (2)

    イエス誕生の告知(ルカ一26~38)〔26〕この六カ月はバプテスマのヨハネをみごもってから六カ月の意味である。〔27〕ヨセフもマリヤもダビデの子孫であって、系図は、ダビデ=ヨセフ・マリヤ=キリストとなっている。〔34〕マリヤの質問は、不信仰の疑問ではなくて知識上の疑問であった。しかしザカリヤは反対であった。〔36、37〕人間には不可解であっても、神には知らないこと、出来ないことはないと、天使は懇切にマリヤに教え...

  • 「キリスト伝講義」御降誕前 (1)

    講義(読者は各項目毎に聖書の本文を読み、各節に照してこの講義を読まれるよう望む)イエス・キリストの神たる事キリストの神であることはヨハネ一1~5において明瞭である。三福音書において、イエスの救主であることを証明しても、なお救主の神性を疑う者があるのでヨハネは明白に、それの神であることを証したのである。ルカの緒言ルカの緒言1、2節を見ると、彼がいかに心を用いて事実を記録したかを知ることが出来る。テオピロ...

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