キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
種まきのたとえ(マタイ一三1~23)マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪...
イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持ってい...
イエスしるしを求める者に答え給う(マタイ一二28~45)キリストはすでに目しいを見えさせ、足なえを歩かせ、耳しいに聞かせ、ご自分のメシヤであるしるしを顕わされたが、頑固な学者とパリサイ人は天からのしるしを求めた。これによって彼らがどんなに頑固であったかを知ることが出来る。〔40〕三日三夜とはユダヤ人の数え方であって、足かけ三日の意である。キリスト・イエスの神であることは、その甦えりによって証明することが...
悪霊につかれた者の癒し(マタイ一二22)これは大変な恩恵である。この人は悪霊につかれた為、目は見えず、口は利けず、世にあっては無に等しい者である。しかしイエスはこの悪霊を追い出し、口を利けるようにされ、目を開かれたことは、この恩恵の表われである。メシヤのしるしである。〔24〕「この人」とある。これは英語のヂス・フェロー、すなわちこいつとの意であって、実に軽蔑の言葉である。〔25〕これはキリストの論法であ...
第二回ガリラヤ巡回(ルカ八1~3)ここにわたしたちは巡回伝道者であるイエスを見る。わたしたちは巡回伝道をする時、このイエスを覚えたい。わたしたちは一人で行くのではなく、彼が先に行かれるのである。福音とは死んだ人に生命を与えることである。ここでイエスに従う者は先の十二弟子次は病を癒された者たちであって、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令の妻もいた。実に大勝利である。彼らは十二弟子のように働くことは出来なか...
香油をイエスの足に塗った女(ルカ七36~50)(二種の献げ物)パリサイ人はいかにもイエスを愛していたかのように、金銭を費して彼を招いた。ここに出て来る婦人は町の中で悪いことをした女性だとある。「後に立ち」これは謙遜を示している。またこのなげきは実に幸福なるなげきである。自分の罪を悲しみ、神の恵みに感じて流した告白の涙、感謝の涙であった。またこの婦人は自分の頭の毛をもって、イエスの足を拭いた。すなわち彼...
イエス町々の頑くななのを責められる(マタイ一一20~24)悔改めない人に対しては神の親切も、神の愛も恵みもことごとく水の泡となった。彼らはイエスのメシヤである証拠を見たけれども悔改めなかった。コラジン、ベツサイダはガリラヤの町である。ここはキリストの伝道の根拠地であって、キリストの口より充分教訓を聞いたけれども悔改めなかった。勿論少数の人は悔い改めた。しかし大多数の人は悔い改めなかったのである。これは...
バプテスマのヨハネ、使者をイエスに遣わす(ルカ一一2~19)ヨハネの信仰は確実であったにもかかわらず、イエスに使を遣わしてメシヤのことを問うたのは、ヨハネの頭の中に幾分か地上での神の国を期待する考えがあったと思われる。それなのに彼は、自分は牢に入れられ、イエスはますます民の中に奇跡を行っておられるので、大いに怪しんだのである。そこで彼は使をイエスに遣わしてこのことを問うた。キリストは親切にこれを迎え...
やもめの子の甦えり(ルカ七11~17)夫に死なれ、またひとりっ子に死なれたこのやもめを見られた主の御心には同情の心が燃えた。今も主は世の中の嵐に悩まされ、死と言う嵐にもまれている人に、どのように同情をもってお出でなされることであろう。ペテロもまたその他の使徒も死人を甦らせたが、今の教会の中にこのようなことが行われていないのは、わたしたちが神から信用されていないからである。主はわたしたちに約束して言われ...
百卒長の僕の癒し(ルカ七1~10)二節を見るとこの人が愛の人であったことを見ることが出来る。真に熱心な祈りは愛より来るのである。四節五節にも彼の愛が表わされている。「善人」偉い人とはない。「我等の為に会堂を建てたり」彼は神を愛していたので、ユダヤ人をも愛していた。この人は愛の人であっただけでなく、謙遜の人であった。このような急な場合においても、七節のような態度をとったことを見る時、彼がどんなに遠慮深...
平野の説教(ルカ六17~49)この説教が山の上の説教と異なる理由は、十二使徒選択後であること、またここでは平地にいることによって明らかである。〔18〕ここに「ことごとく癒されたり」とある。イエスの身には常に能力が満ちていた。丁度電気にさわれば皆その力を感ずるように。ルカによる福音書にはマタイによる福音書の山上の説教とは異なり「いま」と言う文字がある。すなわちこの世の物に満足を得ることが出来ずに、餓え渇く...
イエス十二使徒を立てる(ルカ六12~16)ここで終夜イエスが祈られたのは使徒を立てる為であった。実に窮するに余りあることである。しかしある人は言うであろう。もしイエスが神の子ならば、このように長時間に渡る祈りは必要としないであろう。神に相談すればすぐ解るだろうと。しかしわたしたちは先ずここでイエスが人間であり、わたしたちと同じ肉体を持っていたことを考えなければならない。すなわち彼はわたしたちと同じく祈...
イエス退いて祈る(マタイ一二14~21)これはガリラヤでの出来事であることは、マルコ三7~12を見れば明白である。イエスの行き給う所にはどこでも諸方面から沢山の人が集まったが、「我に来る者は我必らず」これを捨てずとの言葉の通り、彼は真実に彼に来る者を癒し給うた。このイザヤの予言はイザヤ四二1である。その僕とはイエスのことである。喜ぶとは愛することであって、神の愛するひとり子のことである。イエスが聖霊のバプ...
手のなえた人の癒し(マタイ一二10~13)神は人間に両手を与えて下さったが、ある人の手はなえて少しも役に立たない。この人も肝心な右の手がなえていた。霊的にも片手のなえている人がある。その人は信仰によって恩恵を受け取ることの出来ない者である。また愛によって与えることの出来ない人である。神は片手ばかりでなく両手を人間に与えて下さった。受けるばかりでなく与えることも出来るようにして下さった。ある人が樹木を見...
弟子たちが穂を摘んで食べる(マタイ一二1~8)申命記二三25を見れば、畑の物は摘んで食べてもよいと録されているが、パリサイ人は、安息日にこれをしたことを理由に、このようにキリストに抗議したのである。それをキリストは弁護して下さるのだから実に有難いことである。主の答は斬新で聖書的である。彼はサムエル前一二1~6の事実を引いて、見事にパリサイ人の鋒を挫き給うた。ここの記事によればダビデは確かに律法を犯した。...
三八年病んだ者の癒し(ヨハネ五2~16)ベテスダとは原語では「恵みの家」の義であって、キリストの型である。すなわち神がキリストの型として、実物教訓として与えたものである。三、四章の出来事は特別の出来事であるが、神は御摂理の中にキリストをしてこのように大なる奇跡をなさしめ給うた。四節に先立って入った者だけが癒されたと録されているが、旧約では人間に行いを要求したので失望があった。しかし六節を見ると実に恵...
取税人マタイの召し(マタイ九9~13)人間が相手にしない者にイエスは行って「我に従え」と仰せられた。ルカによる福音書の方を見るとマタイは一切を捨ててイエスに従ったとある。欲の深い取税人が一切を捨て従ったのを見ると、彼が非常な決心を持っていたことがわかる。またマタイによる福音書と対照する時にマタイの特色を見ることが出来る。ここで悪魔は色々のことを言ったが、イエスはことごとく勝利を得た。〔13〕神の好み給...
中風の人の癒し(マルコ二1~14)二節を見るとおびただしい群衆であることがわかる。また四人でこの中風の人をかついで来たことはマルコにのみ記してあり、四節を見れば四人の熱心が大変なものであることがわかる。彼らは百方力を尽したけれども入ることが出来なかった。しかし失望もせず、ついにその望みを達成した。ここにある病人は実に重病であったことがわかるが、四人の者が何としてでも彼を癒して貰おうとする熱心を持って...
らい病人の潔め(マタイ八2~4)「来り拝して……」これは真の謙遜である。ただの敬礼ではない。「主もし御心にかなわぱ……」この人は主の能力を信じていた。けれども御心については光の欠乏している人であった。しかしその信仰は決して弱くなかった。なぜならば三年や五年の病気であればともかく、らい病となれば、人の目から見て失望するのが当然である。次にイエスは「我旨に適えり潔くなれ」と仰せられた。実にこれは有難いお言葉...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (19) 山上の説教 15
〔13〕「狭き門より入れよ」よく言う言葉であるが、天国へ行く道は本当に狭い。ただ信者になる時に狭いばかりでなく、信者の生涯を送るにも狭い。なぜかと言えば神がきよいお方である為である。けれども今日の信者はおろか伝道者でさえも狭い道をはずれている。罪と汚れを捨てること、全く献身することを非常にゆるがせにしている。聖別会に出席する人の中にも、本当にせまい道を歩いている人は少ない。どうしても人間の肉は狭い道...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (18) 山上の説教 14
〔7~12〕「求めよさらぱ与えられ……」ここでキリストはもう一度祈りについて教えられた。しかも特に力を入れて教えておられる。もちろん神の側としては人間に聖霊を与え給うが、人間の側としては熱心に求めなければならない。聖霊は祈りの目標であり、賜物の中の賜物である。「求めよ」とは自分の欲するものを指すので、神はこれを与えられる。「尋ねよ」とは失った物を尋ねることで、神を見失った時のことである。神を見失った者...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (17) 山上の説教 13
第七章〔1~5〕この言は平常よく言っていることであるが、実際において警戒せねばならない。ちょっとした人の欠点を見た程度でどのように思うかが問題である。その人を審く位地に立とうとすることはないか。また全てを神が審判することを思ってその人のことを同情をもって考えるか。主はよくこのことを知っておられる。わたしたちはアダムの子孫である以上、生まれつき人をとがめるのは天性であるけれども、イエスの血によって潔め...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (16) 山上の説教 12
〔25〕「生命の為に何を食い……」生命は実に大切なもので、食物は割合に軽い。神は生命を与えられたからには、必らずこれを守る為の食物と衣服を与えて下さる。キリストはなお次の節でたとえをもって懇切に教えられる。〔26〕「汝空の鳥を見よ……」キリストはこのように誰にも理解出来るように教えて下さる。「空の鳥は何も知恵をしぼり出してことをするのではない。ただ天の父がこれを養って下さるのだ」とおっしゃられた。「汝らこ...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (15) 山上の説教 11
〔19~21〕昔の財宝は着物あるいは錦、縫取りをした立派なものが財産の大部分を占めていた。しかしこういう財宝は盗人が盗む。ただ盗まれないのは天に貯えた財宝のみである。財宝のある所には心があるというのは真実である。わたしたちはこれによって自分の姿を知ることが出来る。わたしたちが朝から晩まで、重んじ、思い、心を労しているものは果して何だろう。ルターは言った「その人の愛しているものは、その人の神様である」と...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (14) 山上の説教 10
〔9〕この祈りの意味は簡単であるけれども、深くまた広い。「我らの父よ」祈りの時、このように神との親しい関係で祈らなければならない。またこの言は自分一人のためでなく、兄弟姉妹のためにも祈るべきことを表わしている。実に人ではなく、また地にでもなく、天にいます父に求めることは幸福である。「御名を崇めさせ給え」これは信者の深い願いである。「御心の天に成る如く……」わたしたちの行く所はどこでもこれを神の所とな...
第六章〔1〕人間の生まれつきの傾向は、自分を人の前に現わし、自分の義を弁護するものである。この傾向はどんな人にもある。そこでまだこれを取り去っていない者は、すみやかに御霊によって焼き尽されねばならない。そして神の御前に神からの報いの頂ける生涯を送らねばならない。〔2〕今でもこの「人の栄えを得んとする」精神が働いている。だからわたしたちは確実にこれを取り去られねばならない。〔3〕これは極めてひそかに正...
〔31〕今日の教会には、この戒しめを特別には重んじない風潮のあることをおぼえ、自分自身で固く守り、人々に警告し戒しめるべきである。〔33~34〕神を知らない所には、このような罪悪はない。しかし神を知った国の人には、悪魔は特別にこのような悪にわたしたちを誘う。慎重でなければならないことである。アメリカあたりの下層社会ではやたらに主の名を呼んで、「神がお前を罰する」という風に実に聞き苦しい言をはく者がある。...
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キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...
婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいる...
悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...
二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
勝利のうちに生き残るという私たちの確信を罪は弱める 私は、この確信を弱めるものを知っています。それを述べなければ、とても大事な点を見落とすことになります。生き残って、いずれあるいは最後には無事に切り抜ける、という私たちの確信を弱めるものは、自分自身の罪、自分自身の罪深さ、クリスチャンである自分自身の失敗に対する感覚もしくは自覚です。そうです、私たちはクリスチャンなのに罪を犯します。それを他の名で呼...
イザヤとエゼキエルの預言書を見ると、エルサレムは荒廃しています。エルサレムは荒れ果てています。ネヘミヤ記とエズラ記では、それはこの状況にあります。荒れ果て、荒廃し、その土地の人々は追放されています。これがエルサレムの有様であり、シオンの有様であり、イスラエルの有様です。エルサレムとシオンという言葉は、多くの場合、場所ではなく民に対して使われていることを、常に覚えておいてください。シオンの娘、エル...
キリストと正しい関係にあるものは勝利して生き残る さて、もう一言述べることにします。それは次のことです。すなわち、これらの土台は、もしくは、この土台――キリスト――と正しい関係にあるものは、勝利して生き残るのです。型・絵図であるエルサレムを見ると、それはとても良い例であり絵図です。ああ、この都にはなんという歴史があることでしょう。包囲され、攻撃され、蹂躙・破壊されてきましたが、それにもかかわらず、なん...
勝利の命の統合する力 次に、私たちは土台の統合する性質に、死に勝利する命の力によって統合する性質に進みました。ここでも私は追加の言葉を述べることにします。なぜなら、多くの啓示や多くの光・真理との不一致がこの方面で見られることがよくあるからです。私の時間の大半は、より多くの光を得た人々が他のクリスチャンたちに関して引き起こした混乱を解決することに費やされています。彼らは、からだに関する光、からだ・教...
キリストの堅固さ 第一章では、キリストは土台であり、堅固さの大きな要因であることを見ました。私たち全員にとって次のことは大いに明らかです。すなわち、もし私たちに真の霊的堅固さがないなら、もし私たちが堅固さと確信を持ち、霊的に頼りになる霊的にしっかりとした人々でないなら、もし私たちが一つ思いではなくて動揺している人々なら、私たちの土台、キリスト理解、キリストとの関係にはなにか大きな問題があるのです。...
「なぜなら、据えられている土台のほかに、だれも他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。」(一コリント三・十一)「土台が壊されるなら、義人は何をなしえようか?」(詩篇十一・三) 私たちは、永遠から永遠へと私たちを導く神の壮大なみこころと御旨について、膨大な量の教えを受けてきました。また、神のそれらの御旨に関する領域の多くに通じており、少なくとも知ってはいます。しかし...
イエス・キリストの霊は、あなたと私の中にこの同じことをなすために来臨されました。それは私たちが、自分の失敗や不完全さ、そして私たちを疎外し、引き離し、分裂させるあらゆる類のことのゆえに、やすやすと互いに離れ去ることのないためです。私たちは、自分たちと同じように見ていないからといって、他の人々を去らせることはできません。啓示を受けていないからといって、主の民を去らせることはできません。私が言わんと...
しかし、あなたと私が共有している命には、この宇宙のあらゆる破壊的な勢力を遥かに上回るなにかがあります。それらの勢力は主イエスの十字架に集中しました。破壊し、崩壊させ、分裂させ、散らそうとしていました。彼の復活において、この命はこれらすべての破壊的な勢力を遥かに上回ることが証明されました。ペンテコステの日に、その命が何を行ったのかを見ることができます。主が裏切られた夜、彼らはみな散らされました。ペ...
神はこの家族の上に建造される 土台に関しては、神は何の上に建造されるのでしょう?何の上にしか建造できないのでしょう?その答えは大いに明確です。神は命の上にしか建造できません。命の上にしか家族を築けません。私が思うに、神の御言葉、神聖な真理の中で、とても尊い点の一つは、まさに次のことです。すなわち、神の土台の霊的本質はこの家族である、ということです。私たちは、多くの事柄によって、またそれらの上に、建...
私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです...
死に勝利する命によって構成された家族 さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命であることです。これは漠然とした言葉であることは承知してい...
「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)「なぜなら、据えられている土台...
イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「...
キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性 もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台以外のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」と...
キリストの堅固さの秘訣 しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼のお気に入りの言葉は――「天におられる父」でした。彼の生活はことごとく、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づ...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...
土台の重要性 土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります...
シオンの土台 さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台に言及しています。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他の土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山...
「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私た...
シオンの特徴T. オースチン-スパークス目次第一章 キリストの堅固さ第二章 キリストの勝利の命における合一第三章 キリストの命の不滅性第四章 キリストの尊さ第五章 神聖な開始における栄光第六章 隠れた働きにおける栄光第七章 最終的顕現における栄光オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...