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  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (38)

    種まきのたとえ(マタイ一三1~23)マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (37)

    イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持ってい...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (36)

    イエスしるしを求める者に答え給う(マタイ一二28~45)キリストはすでに目しいを見えさせ、足なえを歩かせ、耳しいに聞かせ、ご自分のメシヤであるしるしを顕わされたが、頑固な学者とパリサイ人は天からのしるしを求めた。これによって彼らがどんなに頑固であったかを知ることが出来る。〔40〕三日三夜とはユダヤ人の数え方であって、足かけ三日の意である。キリスト・イエスの神であることは、その甦えりによって証明することが...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (35)

    悪霊につかれた者の癒し(マタイ一二22)これは大変な恩恵である。この人は悪霊につかれた為、目は見えず、口は利けず、世にあっては無に等しい者である。しかしイエスはこの悪霊を追い出し、口を利けるようにされ、目を開かれたことは、この恩恵の表われである。メシヤのしるしである。〔24〕「この人」とある。これは英語のヂス・フェロー、すなわちこいつとの意であって、実に軽蔑の言葉である。〔25〕これはキリストの論法であ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (34)

    第二回ガリラヤ巡回(ルカ八1~3)ここにわたしたちは巡回伝道者であるイエスを見る。わたしたちは巡回伝道をする時、このイエスを覚えたい。わたしたちは一人で行くのではなく、彼が先に行かれるのである。福音とは死んだ人に生命を与えることである。ここでイエスに従う者は先の十二弟子次は病を癒された者たちであって、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令の妻もいた。実に大勝利である。彼らは十二弟子のように働くことは出来なか...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (33)

    香油をイエスの足に塗った女(ルカ七36~50)(二種の献げ物)パリサイ人はいかにもイエスを愛していたかのように、金銭を費して彼を招いた。ここに出て来る婦人は町の中で悪いことをした女性だとある。「後に立ち」これは謙遜を示している。またこのなげきは実に幸福なるなげきである。自分の罪を悲しみ、神の恵みに感じて流した告白の涙、感謝の涙であった。またこの婦人は自分の頭の毛をもって、イエスの足を拭いた。すなわち彼...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (32)

    イエス町々の頑くななのを責められる(マタイ一一20~24)悔改めない人に対しては神の親切も、神の愛も恵みもことごとく水の泡となった。彼らはイエスのメシヤである証拠を見たけれども悔改めなかった。コラジン、ベツサイダはガリラヤの町である。ここはキリストの伝道の根拠地であって、キリストの口より充分教訓を聞いたけれども悔改めなかった。勿論少数の人は悔い改めた。しかし大多数の人は悔い改めなかったのである。これは...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (31)

    バプテスマのヨハネ、使者をイエスに遣わす(ルカ一一2~19)ヨハネの信仰は確実であったにもかかわらず、イエスに使を遣わしてメシヤのことを問うたのは、ヨハネの頭の中に幾分か地上での神の国を期待する考えがあったと思われる。それなのに彼は、自分は牢に入れられ、イエスはますます民の中に奇跡を行っておられるので、大いに怪しんだのである。そこで彼は使をイエスに遣わしてこのことを問うた。キリストは親切にこれを迎え...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (30)

    やもめの子の甦えり(ルカ七11~17)夫に死なれ、またひとりっ子に死なれたこのやもめを見られた主の御心には同情の心が燃えた。今も主は世の中の嵐に悩まされ、死と言う嵐にもまれている人に、どのように同情をもってお出でなされることであろう。ペテロもまたその他の使徒も死人を甦らせたが、今の教会の中にこのようなことが行われていないのは、わたしたちが神から信用されていないからである。主はわたしたちに約束して言われ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (29)

    百卒長の僕の癒し(ルカ七1~10)二節を見るとこの人が愛の人であったことを見ることが出来る。真に熱心な祈りは愛より来るのである。四節五節にも彼の愛が表わされている。「善人」偉い人とはない。「我等の為に会堂を建てたり」彼は神を愛していたので、ユダヤ人をも愛していた。この人は愛の人であっただけでなく、謙遜の人であった。このような急な場合においても、七節のような態度をとったことを見る時、彼がどんなに遠慮深...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (28)

    平野の説教(ルカ六17~49)この説教が山の上の説教と異なる理由は、十二使徒選択後であること、またここでは平地にいることによって明らかである。〔18〕ここに「ことごとく癒されたり」とある。イエスの身には常に能力が満ちていた。丁度電気にさわれば皆その力を感ずるように。ルカによる福音書にはマタイによる福音書の山上の説教とは異なり「いま」と言う文字がある。すなわちこの世の物に満足を得ることが出来ずに、餓え渇く...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (27)

    イエス十二使徒を立てる(ルカ六12~16)ここで終夜イエスが祈られたのは使徒を立てる為であった。実に窮するに余りあることである。しかしある人は言うであろう。もしイエスが神の子ならば、このように長時間に渡る祈りは必要としないであろう。神に相談すればすぐ解るだろうと。しかしわたしたちは先ずここでイエスが人間であり、わたしたちと同じ肉体を持っていたことを考えなければならない。すなわち彼はわたしたちと同じく祈...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (26)

    イエス退いて祈る(マタイ一二14~21)これはガリラヤでの出来事であることは、マルコ三7~12を見れば明白である。イエスの行き給う所にはどこでも諸方面から沢山の人が集まったが、「我に来る者は我必らず」これを捨てずとの言葉の通り、彼は真実に彼に来る者を癒し給うた。このイザヤの予言はイザヤ四二1である。その僕とはイエスのことである。喜ぶとは愛することであって、神の愛するひとり子のことである。イエスが聖霊のバプ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (25)

    手のなえた人の癒し(マタイ一二10~13)神は人間に両手を与えて下さったが、ある人の手はなえて少しも役に立たない。この人も肝心な右の手がなえていた。霊的にも片手のなえている人がある。その人は信仰によって恩恵を受け取ることの出来ない者である。また愛によって与えることの出来ない人である。神は片手ばかりでなく両手を人間に与えて下さった。受けるばかりでなく与えることも出来るようにして下さった。ある人が樹木を見...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (24)

    弟子たちが穂を摘んで食べる(マタイ一二1~8)申命記二三25を見れば、畑の物は摘んで食べてもよいと録されているが、パリサイ人は、安息日にこれをしたことを理由に、このようにキリストに抗議したのである。それをキリストは弁護して下さるのだから実に有難いことである。主の答は斬新で聖書的である。彼はサムエル前一二1~6の事実を引いて、見事にパリサイ人の鋒を挫き給うた。ここの記事によればダビデは確かに律法を犯した。...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (23)

    三八年病んだ者の癒し(ヨハネ五2~16)ベテスダとは原語では「恵みの家」の義であって、キリストの型である。すなわち神がキリストの型として、実物教訓として与えたものである。三、四章の出来事は特別の出来事であるが、神は御摂理の中にキリストをしてこのように大なる奇跡をなさしめ給うた。四節に先立って入った者だけが癒されたと録されているが、旧約では人間に行いを要求したので失望があった。しかし六節を見ると実に恵...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (22)

    取税人マタイの召し(マタイ九9~13)人間が相手にしない者にイエスは行って「我に従え」と仰せられた。ルカによる福音書の方を見るとマタイは一切を捨ててイエスに従ったとある。欲の深い取税人が一切を捨て従ったのを見ると、彼が非常な決心を持っていたことがわかる。またマタイによる福音書と対照する時にマタイの特色を見ることが出来る。ここで悪魔は色々のことを言ったが、イエスはことごとく勝利を得た。〔13〕神の好み給...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (21)

    中風の人の癒し(マルコ二1~14)二節を見るとおびただしい群衆であることがわかる。また四人でこの中風の人をかついで来たことはマルコにのみ記してあり、四節を見れば四人の熱心が大変なものであることがわかる。彼らは百方力を尽したけれども入ることが出来なかった。しかし失望もせず、ついにその望みを達成した。ここにある病人は実に重病であったことがわかるが、四人の者が何としてでも彼を癒して貰おうとする熱心を持って...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (20)

    らい病人の潔め(マタイ八2~4)「来り拝して……」これは真の謙遜である。ただの敬礼ではない。「主もし御心にかなわぱ……」この人は主の能力を信じていた。けれども御心については光の欠乏している人であった。しかしその信仰は決して弱くなかった。なぜならば三年や五年の病気であればともかく、らい病となれば、人の目から見て失望するのが当然である。次にイエスは「我旨に適えり潔くなれ」と仰せられた。実にこれは有難いお言葉...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (19) 山上の説教 15

    〔13〕「狭き門より入れよ」よく言う言葉であるが、天国へ行く道は本当に狭い。ただ信者になる時に狭いばかりでなく、信者の生涯を送るにも狭い。なぜかと言えば神がきよいお方である為である。けれども今日の信者はおろか伝道者でさえも狭い道をはずれている。罪と汚れを捨てること、全く献身することを非常にゆるがせにしている。聖別会に出席する人の中にも、本当にせまい道を歩いている人は少ない。どうしても人間の肉は狭い道...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (18) 山上の説教 14

    〔7~12〕「求めよさらぱ与えられ……」ここでキリストはもう一度祈りについて教えられた。しかも特に力を入れて教えておられる。もちろん神の側としては人間に聖霊を与え給うが、人間の側としては熱心に求めなければならない。聖霊は祈りの目標であり、賜物の中の賜物である。「求めよ」とは自分の欲するものを指すので、神はこれを与えられる。「尋ねよ」とは失った物を尋ねることで、神を見失った時のことである。神を見失った者...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (17) 山上の説教 13

    第七章〔1~5〕この言は平常よく言っていることであるが、実際において警戒せねばならない。ちょっとした人の欠点を見た程度でどのように思うかが問題である。その人を審く位地に立とうとすることはないか。また全てを神が審判することを思ってその人のことを同情をもって考えるか。主はよくこのことを知っておられる。わたしたちはアダムの子孫である以上、生まれつき人をとがめるのは天性であるけれども、イエスの血によって潔め...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (16) 山上の説教 12

    〔25〕「生命の為に何を食い……」生命は実に大切なもので、食物は割合に軽い。神は生命を与えられたからには、必らずこれを守る為の食物と衣服を与えて下さる。キリストはなお次の節でたとえをもって懇切に教えられる。〔26〕「汝空の鳥を見よ……」キリストはこのように誰にも理解出来るように教えて下さる。「空の鳥は何も知恵をしぼり出してことをするのではない。ただ天の父がこれを養って下さるのだ」とおっしゃられた。「汝らこ...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (15) 山上の説教 11

    〔19~21〕昔の財宝は着物あるいは錦、縫取りをした立派なものが財産の大部分を占めていた。しかしこういう財宝は盗人が盗む。ただ盗まれないのは天に貯えた財宝のみである。財宝のある所には心があるというのは真実である。わたしたちはこれによって自分の姿を知ることが出来る。わたしたちが朝から晩まで、重んじ、思い、心を労しているものは果して何だろう。ルターは言った「その人の愛しているものは、その人の神様である」と...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (14) 山上の説教 10

    〔9〕この祈りの意味は簡単であるけれども、深くまた広い。「我らの父よ」祈りの時、このように神との親しい関係で祈らなければならない。またこの言は自分一人のためでなく、兄弟姉妹のためにも祈るべきことを表わしている。実に人ではなく、また地にでもなく、天にいます父に求めることは幸福である。「御名を崇めさせ給え」これは信者の深い願いである。「御心の天に成る如く……」わたしたちの行く所はどこでもこれを神の所とな...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (13) 山上の説教 9

    第六章〔1〕人間の生まれつきの傾向は、自分を人の前に現わし、自分の義を弁護するものである。この傾向はどんな人にもある。そこでまだこれを取り去っていない者は、すみやかに御霊によって焼き尽されねばならない。そして神の御前に神からの報いの頂ける生涯を送らねばならない。〔2〕今でもこの「人の栄えを得んとする」精神が働いている。だからわたしたちは確実にこれを取り去られねばならない。〔3〕これは極めてひそかに正...

  • 「キリスト伝講義」人望を得た時代 (12) 山上の説教 8

    〔31〕今日の教会には、この戒しめを特別には重んじない風潮のあることをおぼえ、自分自身で固く守り、人々に警告し戒しめるべきである。〔33~34〕神を知らない所には、このような罪悪はない。しかし神を知った国の人には、悪魔は特別にこのような悪にわたしたちを誘う。慎重でなければならないことである。アメリカあたりの下層社会ではやたらに主の名を呼んで、「神がお前を罰する」という風に実に聞き苦しい言をはく者がある。...

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