祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
種まきのたとえ(マタイ一三1~23)マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪...
イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持ってい...
イエスしるしを求める者に答え給う(マタイ一二28~45)キリストはすでに目しいを見えさせ、足なえを歩かせ、耳しいに聞かせ、ご自分のメシヤであるしるしを顕わされたが、頑固な学者とパリサイ人は天からのしるしを求めた。これによって彼らがどんなに頑固であったかを知ることが出来る。〔40〕三日三夜とはユダヤ人の数え方であって、足かけ三日の意である。キリスト・イエスの神であることは、その甦えりによって証明することが...
悪霊につかれた者の癒し(マタイ一二22)これは大変な恩恵である。この人は悪霊につかれた為、目は見えず、口は利けず、世にあっては無に等しい者である。しかしイエスはこの悪霊を追い出し、口を利けるようにされ、目を開かれたことは、この恩恵の表われである。メシヤのしるしである。〔24〕「この人」とある。これは英語のヂス・フェロー、すなわちこいつとの意であって、実に軽蔑の言葉である。〔25〕これはキリストの論法であ...
第二回ガリラヤ巡回(ルカ八1~3)ここにわたしたちは巡回伝道者であるイエスを見る。わたしたちは巡回伝道をする時、このイエスを覚えたい。わたしたちは一人で行くのではなく、彼が先に行かれるのである。福音とは死んだ人に生命を与えることである。ここでイエスに従う者は先の十二弟子次は病を癒された者たちであって、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令の妻もいた。実に大勝利である。彼らは十二弟子のように働くことは出来なか...
香油をイエスの足に塗った女(ルカ七36~50)(二種の献げ物)パリサイ人はいかにもイエスを愛していたかのように、金銭を費して彼を招いた。ここに出て来る婦人は町の中で悪いことをした女性だとある。「後に立ち」これは謙遜を示している。またこのなげきは実に幸福なるなげきである。自分の罪を悲しみ、神の恵みに感じて流した告白の涙、感謝の涙であった。またこの婦人は自分の頭の毛をもって、イエスの足を拭いた。すなわち彼...
イエス町々の頑くななのを責められる(マタイ一一20~24)悔改めない人に対しては神の親切も、神の愛も恵みもことごとく水の泡となった。彼らはイエスのメシヤである証拠を見たけれども悔改めなかった。コラジン、ベツサイダはガリラヤの町である。ここはキリストの伝道の根拠地であって、キリストの口より充分教訓を聞いたけれども悔改めなかった。勿論少数の人は悔い改めた。しかし大多数の人は悔い改めなかったのである。これは...
バプテスマのヨハネ、使者をイエスに遣わす(ルカ一一2~19)ヨハネの信仰は確実であったにもかかわらず、イエスに使を遣わしてメシヤのことを問うたのは、ヨハネの頭の中に幾分か地上での神の国を期待する考えがあったと思われる。それなのに彼は、自分は牢に入れられ、イエスはますます民の中に奇跡を行っておられるので、大いに怪しんだのである。そこで彼は使をイエスに遣わしてこのことを問うた。キリストは親切にこれを迎え...
やもめの子の甦えり(ルカ七11~17)夫に死なれ、またひとりっ子に死なれたこのやもめを見られた主の御心には同情の心が燃えた。今も主は世の中の嵐に悩まされ、死と言う嵐にもまれている人に、どのように同情をもってお出でなされることであろう。ペテロもまたその他の使徒も死人を甦らせたが、今の教会の中にこのようなことが行われていないのは、わたしたちが神から信用されていないからである。主はわたしたちに約束して言われ...
百卒長の僕の癒し(ルカ七1~10)二節を見るとこの人が愛の人であったことを見ることが出来る。真に熱心な祈りは愛より来るのである。四節五節にも彼の愛が表わされている。「善人」偉い人とはない。「我等の為に会堂を建てたり」彼は神を愛していたので、ユダヤ人をも愛していた。この人は愛の人であっただけでなく、謙遜の人であった。このような急な場合においても、七節のような態度をとったことを見る時、彼がどんなに遠慮深...
平野の説教(ルカ六17~49)この説教が山の上の説教と異なる理由は、十二使徒選択後であること、またここでは平地にいることによって明らかである。〔18〕ここに「ことごとく癒されたり」とある。イエスの身には常に能力が満ちていた。丁度電気にさわれば皆その力を感ずるように。ルカによる福音書にはマタイによる福音書の山上の説教とは異なり「いま」と言う文字がある。すなわちこの世の物に満足を得ることが出来ずに、餓え渇く...
イエス十二使徒を立てる(ルカ六12~16)ここで終夜イエスが祈られたのは使徒を立てる為であった。実に窮するに余りあることである。しかしある人は言うであろう。もしイエスが神の子ならば、このように長時間に渡る祈りは必要としないであろう。神に相談すればすぐ解るだろうと。しかしわたしたちは先ずここでイエスが人間であり、わたしたちと同じ肉体を持っていたことを考えなければならない。すなわち彼はわたしたちと同じく祈...
イエス退いて祈る(マタイ一二14~21)これはガリラヤでの出来事であることは、マルコ三7~12を見れば明白である。イエスの行き給う所にはどこでも諸方面から沢山の人が集まったが、「我に来る者は我必らず」これを捨てずとの言葉の通り、彼は真実に彼に来る者を癒し給うた。このイザヤの予言はイザヤ四二1である。その僕とはイエスのことである。喜ぶとは愛することであって、神の愛するひとり子のことである。イエスが聖霊のバプ...
手のなえた人の癒し(マタイ一二10~13)神は人間に両手を与えて下さったが、ある人の手はなえて少しも役に立たない。この人も肝心な右の手がなえていた。霊的にも片手のなえている人がある。その人は信仰によって恩恵を受け取ることの出来ない者である。また愛によって与えることの出来ない人である。神は片手ばかりでなく両手を人間に与えて下さった。受けるばかりでなく与えることも出来るようにして下さった。ある人が樹木を見...
弟子たちが穂を摘んで食べる(マタイ一二1~8)申命記二三25を見れば、畑の物は摘んで食べてもよいと録されているが、パリサイ人は、安息日にこれをしたことを理由に、このようにキリストに抗議したのである。それをキリストは弁護して下さるのだから実に有難いことである。主の答は斬新で聖書的である。彼はサムエル前一二1~6の事実を引いて、見事にパリサイ人の鋒を挫き給うた。ここの記事によればダビデは確かに律法を犯した。...
三八年病んだ者の癒し(ヨハネ五2~16)ベテスダとは原語では「恵みの家」の義であって、キリストの型である。すなわち神がキリストの型として、実物教訓として与えたものである。三、四章の出来事は特別の出来事であるが、神は御摂理の中にキリストをしてこのように大なる奇跡をなさしめ給うた。四節に先立って入った者だけが癒されたと録されているが、旧約では人間に行いを要求したので失望があった。しかし六節を見ると実に恵...
取税人マタイの召し(マタイ九9~13)人間が相手にしない者にイエスは行って「我に従え」と仰せられた。ルカによる福音書の方を見るとマタイは一切を捨ててイエスに従ったとある。欲の深い取税人が一切を捨て従ったのを見ると、彼が非常な決心を持っていたことがわかる。またマタイによる福音書と対照する時にマタイの特色を見ることが出来る。ここで悪魔は色々のことを言ったが、イエスはことごとく勝利を得た。〔13〕神の好み給...
中風の人の癒し(マルコ二1~14)二節を見るとおびただしい群衆であることがわかる。また四人でこの中風の人をかついで来たことはマルコにのみ記してあり、四節を見れば四人の熱心が大変なものであることがわかる。彼らは百方力を尽したけれども入ることが出来なかった。しかし失望もせず、ついにその望みを達成した。ここにある病人は実に重病であったことがわかるが、四人の者が何としてでも彼を癒して貰おうとする熱心を持って...
らい病人の潔め(マタイ八2~4)「来り拝して……」これは真の謙遜である。ただの敬礼ではない。「主もし御心にかなわぱ……」この人は主の能力を信じていた。けれども御心については光の欠乏している人であった。しかしその信仰は決して弱くなかった。なぜならば三年や五年の病気であればともかく、らい病となれば、人の目から見て失望するのが当然である。次にイエスは「我旨に適えり潔くなれ」と仰せられた。実にこれは有難いお言葉...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (19) 山上の説教 15
〔13〕「狭き門より入れよ」よく言う言葉であるが、天国へ行く道は本当に狭い。ただ信者になる時に狭いばかりでなく、信者の生涯を送るにも狭い。なぜかと言えば神がきよいお方である為である。けれども今日の信者はおろか伝道者でさえも狭い道をはずれている。罪と汚れを捨てること、全く献身することを非常にゆるがせにしている。聖別会に出席する人の中にも、本当にせまい道を歩いている人は少ない。どうしても人間の肉は狭い道...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (18) 山上の説教 14
〔7~12〕「求めよさらぱ与えられ……」ここでキリストはもう一度祈りについて教えられた。しかも特に力を入れて教えておられる。もちろん神の側としては人間に聖霊を与え給うが、人間の側としては熱心に求めなければならない。聖霊は祈りの目標であり、賜物の中の賜物である。「求めよ」とは自分の欲するものを指すので、神はこれを与えられる。「尋ねよ」とは失った物を尋ねることで、神を見失った時のことである。神を見失った者...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (17) 山上の説教 13
第七章〔1~5〕この言は平常よく言っていることであるが、実際において警戒せねばならない。ちょっとした人の欠点を見た程度でどのように思うかが問題である。その人を審く位地に立とうとすることはないか。また全てを神が審判することを思ってその人のことを同情をもって考えるか。主はよくこのことを知っておられる。わたしたちはアダムの子孫である以上、生まれつき人をとがめるのは天性であるけれども、イエスの血によって潔め...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (16) 山上の説教 12
〔25〕「生命の為に何を食い……」生命は実に大切なもので、食物は割合に軽い。神は生命を与えられたからには、必らずこれを守る為の食物と衣服を与えて下さる。キリストはなお次の節でたとえをもって懇切に教えられる。〔26〕「汝空の鳥を見よ……」キリストはこのように誰にも理解出来るように教えて下さる。「空の鳥は何も知恵をしぼり出してことをするのではない。ただ天の父がこれを養って下さるのだ」とおっしゃられた。「汝らこ...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (15) 山上の説教 11
〔19~21〕昔の財宝は着物あるいは錦、縫取りをした立派なものが財産の大部分を占めていた。しかしこういう財宝は盗人が盗む。ただ盗まれないのは天に貯えた財宝のみである。財宝のある所には心があるというのは真実である。わたしたちはこれによって自分の姿を知ることが出来る。わたしたちが朝から晩まで、重んじ、思い、心を労しているものは果して何だろう。ルターは言った「その人の愛しているものは、その人の神様である」と...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (14) 山上の説教 10
〔9〕この祈りの意味は簡単であるけれども、深くまた広い。「我らの父よ」祈りの時、このように神との親しい関係で祈らなければならない。またこの言は自分一人のためでなく、兄弟姉妹のためにも祈るべきことを表わしている。実に人ではなく、また地にでもなく、天にいます父に求めることは幸福である。「御名を崇めさせ給え」これは信者の深い願いである。「御心の天に成る如く……」わたしたちの行く所はどこでもこれを神の所とな...
第六章〔1〕人間の生まれつきの傾向は、自分を人の前に現わし、自分の義を弁護するものである。この傾向はどんな人にもある。そこでまだこれを取り去っていない者は、すみやかに御霊によって焼き尽されねばならない。そして神の御前に神からの報いの頂ける生涯を送らねばならない。〔2〕今でもこの「人の栄えを得んとする」精神が働いている。だからわたしたちは確実にこれを取り去られねばならない。〔3〕これは極めてひそかに正...
〔31〕今日の教会には、この戒しめを特別には重んじない風潮のあることをおぼえ、自分自身で固く守り、人々に警告し戒しめるべきである。〔33~34〕神を知らない所には、このような罪悪はない。しかし神を知った国の人には、悪魔は特別にこのような悪にわたしたちを誘う。慎重でなければならないことである。アメリカあたりの下層社会ではやたらに主の名を呼んで、「神がお前を罰する」という風に実に聞き苦しい言をはく者がある。...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...