祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
「また、七つの最後の災害が満ちた七つの鉢を持った七人の御使いのひとりが来て、私に語って言った、『ここに来なさい。あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう』。そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」(黙示録二一・九~十一)。 私たちは前回の黙想で、小羊に関す...
この転機により、私たちの天然の命のまさに中心を砕かれて折られることにより、主は私たちを全くみこころに適う者にすることができます。その時から、私たちは開かれた天の意味を知るようになります。天が開かれたのは、神の小羊がヨルダン川とバプテスマの水に下って行かれた時でした。そこで彼は、ご自身が十字架に行って死んで復活することを、予型的に宣言されました。その時、天が開かれ、御霊が彼を照らし、神の王国に関す...
小羊の性質 さて、神のみこころ・御旨に至るのは小羊の道によります。小羊は、あらゆる天然の力の正反対です。さて獅子についてですが――獅子と言えば何が思い浮かぶでしょう?何か恐ろしいもの、獰猛なもの、強大なもの、力を誇示するものが思い浮かびます。ああ、そうです、それが自然な見方です。しかし、神の考えはこうです。すなわち、神の獅子は小羊であり、しかもほふられたばかりのような小羊なのです。それは主イエスの死...
王国とは何でしょう?ちょっと立ち止まって考えてみましょう。エペソ人への手紙が私たちにはっきりと明示しているように、この現在の地上やその周囲、地上と天上の間の空間には、悪の霊の勢力が住んでおり、この世界全体が彼らによって国々や区画に分けられています。それらの国々や区画は、ひとりの悪の君によって支配されており、その下には副王たちと、それから無数の悪の霊の軍勢がいます。パウロはそれを、「主権者たち、権...
主イエス――勝利者 神の御霊によるこの意図的な形象の変化は、一つの目的、一つの狙いのためです。力の秘訣は何でしょう、力の性質は何でしょう、打ち勝つための能力は何でしょう?私たちの命、打ち勝つ命、勝利の命、栄光と豊かさの命となるべきものは何でしょう?獅子たる自覚、獅子のようにすべてに処することでしょうか?いいえ、天然の力と能力をすべて滅ぼす十字架の意味を知ることです。私たちの内におられる主イエスご自身...
この基礎となる節を見ると、これが象徴によって鮮明に示されていることがわかります。ここに裁き、すべての諸国民の裁きの巻物があって、七つの封印で封印されています。この巻物は開かれなければなりません。諸国民は裁かれなければなりません。しかし、誰がこの巻物を開くのにふさわしいでしょう?誰にその権利があるでしょう、誰が諸国民を裁くのに道徳的にふさわしいでしょう?先見者は言います、その巻物を開いて、宇宙のこ...
旧創造は十字架によって滅ぼされる 手足が折れるとどうなるかはご存じでしょう。実際に手足が折れたら、何ができるでしょう?それを支配する力もなければ、制御することもできません。それで何かをしたくてもできません。それに指示する力、それを支配する力、使用する力をすっかり失います。力はなくなりました。さて、これを背骨に、脊柱に当てはめてみてください。脊柱は、あなたの骨格全体、体格全体を支えているものです――背...
朽ちることのない命の王国に対する戦い しかし、この戦いの性質はどのようなものでしょう?それは一般的な霊的圧力や戦いかもしれませんが、私たちはそれについてよく知っています。それは外側からの迫害や苦難かもしれません(教会はこれをよく知っています)。しかし黙示録を開くと、復活した主がこの地上で表現されている教会を対処しておられるのを見いだします。教会(ここでは七つの教会に代表されています)への主の来臨は...
ですから、王国と、私たちが受け継ぐことになる王国の到来とについて話すのは素晴らしいことですし、「あなたの王国が来ますように」と祈ること、王国と王国の到来する日についての偉大な知的観念を持つことも素晴らしいことなのですが――他方において、主イエスは「王国はあなたたちの内にあります」とも言われました。王国はそこから始まります。まもなく王国を継ぐことになると確信するには、私たちは自分の内にある王国が何を...
ご存じのように、マタイによる福音書は王と王国の福音書です。王国の知らせが布告され始めますが、王が紹介されて王国の知らせが発せられるやいなや、別の王国が反対して立ち上がります。王と王国の知らせが紹介された末に、王は十字架につけられ、王国は沈黙させられたかのように見えます。しかし、黙示録はそれとは全く別の面を私たちに見せます。十字架上での王の死と王国の福音に対するこの反対は敗北や災いを意味するもので...
「また、七つの最後の災害が満ちた七つの鉢を持った七人の御使いのひとりが来て、私に語って言った、『ここに来なさい。あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう』。そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった」(黙示録二一・九~十一)。「ま...
愛の御霊 「エペソよ、あなたは初めの愛を離れてしまいました!フィラデルフィアよ、あなたはその愛を持っており、人々はわたしがあなたを愛していることを知るでしょう!」。これは愛の御霊です。 これ以上先には進みませんが、神には完全な御旨があること、そして私たちの中でこの御旨が実現可能になるのは小羊によることを、理解していただきたいと思います。小羊が行われたすべてのこと、その尊い血のすべての功績により、私...
真理の御霊 最後に来ると、そこには神の完全な御旨を表す器が見られます(二二章が今の箇所から始まるのは残念です。その前から始まるべきです)。この五つの節を理解するには、その少し前に戻ることが大いに必要であることに気づきます。それに至るのは小羊の妻、教会、新しいエルサレムです。小羊の妻であるこの新しいエルサレムは、神の完全な御旨が最後に実現される時、その器、その化身となります。そして、この器の特徴の一...
燃える御霊 次に、私があえて話さない他の諸々の点がありますが、この神の霊の七重の表われがいかなるものなのかということだけ述べることにします。第一に命の御霊、次に燃える御霊です。というのは、これらはともし火であり、神の御前で火のようだからです。ともし火としての御霊、燃えるような御霊です。火のような御霊は常に霊的熱意を物語ります。主が少なくともいくつかの教会を対処されたのは、この点に関するものだったこ...
これを思い出すのはとても厳粛なことです。私たちは主に、自分自身の自己欺瞞と盲目さから救ってください、と求めなければならないと思います。御座の周りの虹によって示されている恵みにより、小羊の血によって示されているあわれみにより、彼に求めようではありませんか。主から見て御旨に反することに対して、注意して目を覚ましていられますように、と。たとえ本当に主を愛し、神のためにすべてをささげたいと感じ、心の中で...
主イエスは黙示録の中で、その目が火の炎のような方として紹介されています。次に、その少し後で、七つの目を持つ小羊として示されます。最後に、新しい聖所のともし火として、すなわち天のエルサレムのともし火として示されます。七つの目!これらのともし火が神の御座の前で常に燃えています!神の霊はその力の中で来臨して、ここにあるすべてのものを顧みてくださいます。それが意味するところに私たちは印象付けられる必要が...
命の御霊 聖霊によって証しされる神の七重の性質は、まず第一に、命の御霊です。神の霊の最も最初の表われは命です。創世記の初めから黙示録の終わりまで、神の御言葉のどこを見ても、神の霊の最初の表われは命であることがわかります。御霊は死と暗闇と混沌の上を覆われました。御霊の最初の行動は、死の状態から脱け出させることでした。これは天然の被造物に言えますし、新創造にも言えます。新創造への最初の動きは、尊い血に...
さて、四章では万物を創造したのは神です。賛美が、御座に座している、万物を創造された方にささげられています。「あなたは万物を創造され、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、創造されたからです」。御座に座している方の御座の前に、創造者の七つの燃えるともし火があります。ともし火は常に証しを表すことを思い出してください。ですからここでは、みこころのゆえに万物を創造された方の御座の前にあるこれらの七つの...
「神の七つの霊」 要点は、サタンを内側から打ち倒すものは何か?ということです。その答えは、物事が神にしたがったものになることです。しかし、それはどういうことでしょう?それは、七つのともし火、七つの目、七つの角という、この高度に象徴的な言葉が示唆しているものであるように、私には思われます。それはみな神の七つの霊です。その意味を理解するとき、私たちはサタンの力を無にする内側の状況というこの問題全体への...
さて、私たちはこの書で明らかにされている事実から、必要な励ましと慰めをすべて得ることができます。教会に対するサタンのこの世における働きに関するかぎり、その働きは破滅する運命にありますし、サタンも破滅する運命にあります。黙示録にある絵図ほど、神の民に対するサタンの働きに関する価値ある絵図は、どこにも見当たりません。この書では、サタンが聖徒たちに対して、小羊に対して戦争を仕掛けて、恐ろしい事が起きる...
そこで、外側からと内側からの敵の二重の攻撃の結果、これらすべての手紙が書かれました。これらの手紙を使徒たちはこの二つの状況に対処するために書いたのです。いくつかの手紙は特に、試練の中にある聖徒たちを慰め、励まし、世話するために書かれました。ペテロは特にそのために手紙を書きました。「あなたたちの上に臨んでいる火のような試練については」と彼は述べています。使徒たちはいくつかの手紙を、迫害されている人...
朗読:黙示録二二・一~五。「私は、私に語りかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台を見た。その燭台の間に、人の子のような方がおられた」(黙示録一・十二~十五)。「御座からは、いなずまと声と雷鳴とが発している。そして七つのともし火が、御座の前で燃えていた。この七つのともし火は、神の七つの霊である」(黙示録四・五)。「私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられた...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (11)
次に、ここでは「教会(単数形)」や「諸教会(複数形)」といった言葉についても解き明かされています。同じものがそれらを支配しています。教会(単数形)とは何でしょう?ここで言う教会(単数形)とは、教会全体、キリストのからだ全体、彼のからだである宇宙的な霊的教会のことです。それは、イエスは死と死が意味するところすべてに打ち勝ったという証しを入れるための器です。彼が復活させられるまで、彼の復活と勝利の御...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (10)
この箇所から、神が何に向かって働いておられるのかがわかります。この箇所は聖書における重大な事柄を解き明かしている、と指摘して終えることにします。第一に、神の御座があります。この句は、「神の王国」という言葉と全く同じ意味です。「あなたの王国が来ますように」と祈るよう命じられているのは、このためです。「王国と力と栄光は、永遠にあなたのものだからです」(改訳者たちは「王国」という言葉を削除して欄外に置...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (9)
永遠の御旨の光の教会への適用 七つの教会への七つのメッセージは、いったい何なのでしょう?それらはみなこれについてです。お望みなら、それを分解して、各教会に具体的に適用することもできますが、その最終的結果を見ると、それはこれです。腐敗させるようなことが起きて、そのせいで勝利の命の証しが無効化されました。これが問題です。諸教会に対する包括的・総括的なメッセージは、「勝利の命の立場に戻りなさい!この腐敗...
「神と小羊の御座」第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト (8)
私たち自身の個人生活や神との来歴における、あなたや私に対する神の取り扱いはみな、これに関してです。しかし、これは宇宙の歴史のある時点や日時に到来するものではないことを、私たちは認識しなければなりません。これは今、神が私たちの内になさっていることなのです。神はあなたや私の内に何をなさっているのでしょう?私たちに対する彼の取り扱いの目的は何でしょう?なぜ彼は、このような火のような試練がすべて私たちの...
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祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...