朗読:ルカ四・十六~二二、一ヨハネ二・二〇、二七、四・四。ルカによる福音書とヨハネ第一の手紙のこれらの御言葉は、以下の事柄に関するさらなる側面と強調点に私たちを連れ戻します。すなわち、聖霊の必要性と、御霊で満たされる必要性です。それがなぜ必要なのか、その理由のいくつかを私たちはこれまで見てきました。御霊で満たされること、御霊で油塗られることが何を意味するのか、私たちは見てきました。主は私たちにまだ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (35) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(3)
〔13〕祈祷!!祈祷!!、何はともあれ祈りである。その祈りはイエスのみ名によって祈る祈りである。イエスのみ名によって祈るとは、彼の心、彼の性質、彼の願いが我が心にあって初めて彼のみ名によって祈り得るのである。心はキリストに反しながら、彼のみ名を用いて祈るのは実に畏れ多いことである。キリストの御心にかなう願いは、キリストの願いである。キリストのみ名によって願うとは、願うのはキリストであることをあらわす...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (34) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(2)
〔7〕この節でキリストは、父なる神と同一体であることをあらわされた。多くの人の目には父なる神とキリストとは別のもののように見えるが、キリストは「我を見し者は父を見しなり」と宣言されたのである。多くの人々が父なる神を知り、また見ることが出来たのは何千年かの昔だけであったと思っているが、決してそうではない。「今より汝ら彼を知る」。〔8〕「ピリポ……」これは人々の叫びである。ピリポはキリストだけでは満足出来...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (33) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(1)
聖餐後のお話(ヨハネ一四章~一六章)ヨハネ一四、一五、一六章はこの時のお話であって、愛の絶頂である。一四章では父なる神について、一五章では子なる神について、一六章では聖霊なる神について書かれている。もちろん一体なる神は、その中にところどころに現われている。ヨハネ一四章〔1〕この御言葉は我らに対する無限の愛をあらわす。キリストは眼前に苦、恥、死の大問題があるにもかかわらず、唯弟子のことだけを思って、...
弟子たちの離散とペテロの堕落を予言される(マタイ二六31~35、マルコ一四27~31、ルカ二二31~38、ヨハネ一三36~38)マタイ福音書に基づいて講義する。〔30〕「歌を……」弟子たちは少しもキリストの心を察しなかった。聖霊によって歩まないからである。〔31〕これは弟子たちにとっては最も不審に思われたことであろう。先には一人といい、今度は皆が私につまずくであろうと言われた。ゼカリヤ一三7の予言はこれによって成就され...
聖餐の時に起った弟子たちの争い(ルカ二二24~30)弟子たちの念頭には、常に我らの中で誰が一番偉いだろうかとの争いがあった。夕食の前にキリスト御自身が彼らの足をお洗いになり、親しく教えられたにもかかわらず、このような争いを起すとは、まことにあわれな彼らの心の状態である。ある人は「聖餐の準備をするのに、ペテロとヨハネとを用いられたためである」という。人は指導者としてよく用いられる人を、うらやみねたむもの...
「附」過越の祭(出エジプト一二3~14)〔8〕「種入れぬパンに苦菜を交えて食い」これは罪のいかに憎むべきものであるかを覚えて食すべきことを教えられたのである。「火にて焼くべし」これは聖霊の火である。〔9〕「その頭と足と臓腑(ぞうふ)とを皆食え」頭とは知恵、足とはその歩み、臓腑とは愛である。これらをみな食べねばならない。そして明日まで余しておいてはならない。〔11〕「急ぎて食え」我らは世すなわちエジプトに...
聖餐(マタイ二六26~29、マルコ一四22~29、ルカ二二14~20)場所 エルサレムルカ福音書に基いて講義する。〔14〕「時至りければイエス食に就きぬ……就けり」ユダヤにおいて小羊をほふるのは、午後三時より六時までの間であるという。このことより、この時は夕方六時頃であったろう。この時使徒たちも席についたのである。実に幸いなことである。〔15〕「イエス彼らに言いけるは……」キリストの御心が言外に溢れ出ているのを見る。...
イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...
イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
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朗読:ルカ四・十六~二二、一ヨハネ二・二〇、二七、四・四。ルカによる福音書とヨハネ第一の手紙のこれらの御言葉は、以下の事柄に関するさらなる側面と強調点に私たちを連れ戻します。すなわち、聖霊の必要性と、御霊で満たされる必要性です。それがなぜ必要なのか、その理由のいくつかを私たちはこれまで見てきました。御霊で満たされること、御霊で油塗られることが何を意味するのか、私たちは見てきました。主は私たちにまだ...
油塗りについては以上ですが、もっと多くの点があります。コリント人への手紙からざっと説明して、終えることにします。よくご存じのように、コリント人への第一の手紙は、神の権利がコリントで侵害されていたことを見せています。これが第一の手紙ではっきりと示されています。次に、何が起きたでしょう?使徒が明確に示しているように、神の権利を侵害して油塗りに逆らっていた人々はとても厳しいこらしめに遭いました。主は彼ら...
信者に触れるとき、私たちはキリストに触れます。「あなたたちに触れる者は、わたしの瞳に触れるのです」――その瞳を神は大いにねたむほど大事にしておられます。神の瞳という句には、素晴らしい絵画的意味があります。私たちの肉体がどれほど熱心に目を守っているのか考えてみてください。なぜ眉毛があるのでしょう?(流行にならって眉毛を剃り落としてはなりません。自分の肉体だけでなく、神の御言葉が描写しているものをも損な...
さて、これに続いて直ちにもう一言述べるべきは、神が介入された以上――神がご自身をある対象に、すなわちご自身の証しのためのある器に委ねられた以上――彼は油塗られたものを限りなくねたむほど慕っておられる、ということです。油塗られたものは、個人であれ、群れであれ、教会全体であれ、主にとって大いに尊いものです。それを神は限りなくねたむほど慕っておられます。教会は、聖霊に油塗られて、イエス・キリストの主権に対す...
さて、これと同行する次の点は、油塗りはこの世界への神の介入を表すという事実です。油塗りは、神がご自身の権利という根拠に基づいてこの世界に介入されることです。神はこの宇宙に関する権利を持っておられます。神の権利は至高ですが、人はこの宇宙における神の権利を否定したり無視したりしました。そして、神を脇にやって排除しました。これはおそらく、主イエスを拒絶したことに最も顕著に見られます。世は彼を知りませんで...
しかし、この事実にはもう一つの慰めの面があります。人の積極面は排除されており、人の肉は神の御前に出て神のものに手を触れてはならない、ということが真実であるように、人の消極面も排除されている、ということも真実です。つまり、私たちは自分の弱さ・無能さ・無知・生来の無価値さに影響されて、「自分には、機能する有用な者となるのに必要だと思われる、多くの資質や多くのものに欠けています。そのせいで、自分には全く...
聖霊の油塗りは、私たちが主イエスの頭首権に全く服するようになったことを意味します。私たちの実際のクリスチャン生活が、召命・奉仕・いわゆる「職務」といった点で、ことごとくそうなったことを意味します。これは第二に、人間的・天然的な人は油塗りによって全く排除されることを意味します。これは前にベザレルに関して見たとおりです――主が彼を神の霊で満たして幕屋に関するすべての技量を与えられた時、彼の判断や考えに委...
さて私たちは、油塗りとは何を意味するのか、と問うてきました。その答えは、様々な面に触れつつ、いくつかの異なる形で与えることができますが、御霊の油塗りの第一の意味は、油を塗られる者が油を塗る方に完全に服する立場と状態に置かれる、ということです。ヨルダン川での主イエスの油塗りを例に挙げましょう。彼は御父に絶対的に(生活上も職務上も)服されました。彼は、ヨルダン川で、御父に従う立場を取り、その指示・統治...
さて、油塗りとは何を意味するのでしょう?神の御言葉は御霊の油塗りなるものを示しているのでしょうか?先に進む前に、私たちは次のことを認識すべきだと思います。すなわち、油塗りは特に職務と関係している問題であるということです。それは職務の問題です。それはある階級に属している、という意味ではありません。聖職者や宣教士のためのものであって、平信徒はあずかれない、という意味でもありません。神の御言葉の中にその...
朗読:出エジプト二九・七、四〇・九、一サムエル十六・十三、一列王十九・十六、二コリント一・二一、一ヨハネ二・二〇、二七。さて、主が私たちの心に置かれたテーマを追求するにあたって、御霊の油塗りの問題に専念することにします。旧約聖書のこれらの節からわかるように、ここで述べられている人々や物は、神の命令と戒めにより、公的資格に関して油を塗られました。第一に、大祭司としての立場にあるアロンがいますが、油が...
そして第二に聖さです。すなわち、主の卓越性を示すことです。これについては多くのことを述べる必要があります。彼の聖さの卓越性がここでは幕屋において示されます。すべては「主に対して聖」です。主が願っておられるのは、聖霊によって、主イエスの聖さの卓越性が示されることです。「聖なる美しさの中で主を礼拝せよ」。そして第三は栄光です。幕屋の中にあるすべてのものが主の栄光を物語ります。栄光を受けた人の子に代表さ...
二五章の残りの部分をすべて読み進んで行くと、亜麻布は分与された義を、青色は天を、紫色は王権を物語っており、緋色は苦難を、明かりは証しを、香は主イエスの功績を、宝石は信じる私たちに対する彼の尊さを物語っています。というのは、「信じるあなたたちにとっては彼は尊い方」であり、宝石やその他のすべてのものだからです。祭司の務めや、祭壇・机・燭台・あわれみの座の機能はみな、主イエスの神聖な卓越性の異なる面を表...
金は神聖な性質を表します。ここでは人性がアカシアの木で表されていますが、アカシアの木は純金で覆われています。「それにより、際立って偉大な尊い約束を、私たちに与えてくださいました。それは、私たちが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです」。ここに展覧されるべき一つの卓越性が示されています。聖霊がここにおられるのは、私たちを神聖な性質にあずかる者とするためであり、そして神...
銀は私たちが神へと贖われたことを意味します。次の御言葉の真ん中の部分を忘れないでください。なぜなら、私にとってその部分は全体の中でとても価値のある箇所だからです。「そして私たちを神へと(unto God)贖ってくださいました」。私たちは贖われただけでなく、神へと(unto God)贖われたのです。「あなたたちは代価をもって買い取られたのです」「あなたたちは自分のものではなく、傷もしみもない小羊の血のような、キリス...
主の御前で間違いを正すべきときもあります。私は、罪を無視したり、容認したり、悪行を軽んじたりするべきだ、と言っているのではありません。神のみこころにかなっていないことについて聖霊によって触れられる時、「それは問題ではない」と言うべきである、と言っているのでもありません。それを直ちに正して罪定めから解放されるべきである、と言っているのです。御霊が私たちに誤りを確信させられたら、私たちは直ちにその道を...
さて、これは偉大な教理に関する短い言葉です。しかしこれは、あなたと私において示されるべきキリストの卓越性の一部です。ああ、今日、主の民のなんと多くが、頭上に神の裁きが吊り下がっているかのようにすごしていることでしょう!彼らは、大きな裁きとは言わないまでも、何らかの裁きを依然として恐れています。逆に言うと、キリストによる罪定めからの絶対的解放を、私たち全員が歓喜しているわけではないのです。私たちは歓...
この幕屋を見て、そのあらゆる部分がキリストの栄光を示すべきものであることを認識するとき、もちろん、あなたはその各部を取り出して眺め、キリストのどのような栄光がその中に示されているのかを見たくなるでしょう。出エジプト記二五章に戻って、挙げるささげ物と呼ばれているこの包括的ささげ物について考えてみましょう。注目すべきことに、この言葉は幕屋に適用されています。この言葉がいけにえの一つに適用される場合は理...
神はあなたや私に対してどのような御思いを持っておられるのでしょう?それは素晴らしい御思いであり、実に驚くべき事実です。神は私たちをすべての利己主義、罪深さ、憎しみから救い出して、私たちにおいてまた私たちを通して、御子の卓越性を示すことを望んでおられるのです。これを理解できるでしょうか?信じられるでしょうか?これが何を意味するのかはすぐに見ることになります。しかし、これが私たちに関する神の御思いです...
さて、私たちはこれを一ペテロ二・九と結びつけました。「それは、あなたたち(私たち)を暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の卓越性を、あなたたちが告げ知らせるためです」。ペテロは現在の事柄を取り扱っています――彼が示している真理の面は教会の現在の巡礼です――しかしパウロは地上と現在の巡礼を超えて、天の教会を見ています。そして永遠を包含して、来るべき時代に関して次の御言葉を述べています。「それは...
さて、この出エジプト記三一章三節を読んだのは、幕屋に少し触れるためです。その前の章は、幕屋のあらゆる詳細で占められていることがわかります。二五章で、主はモーセに、「心から喜んでする者はみな」ささげ物を持って来るようにイスラエルの子らに告げること、次に「ささげ物(単数形)を受け取る」ことを命じられました。単数形で述べられているのは、受け取った物は複数のささげ物ではなく一つのささげ物を形成するものだっ...
悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。ルカ四32~36。ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのよ...
イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学...
イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここ...
サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエ...
ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさな...
イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので...
最初の奇跡(ヨハネ二1~11)婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受け...
最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち(一)バプテスマのヨハネには...
イエスの受洗(マタイ三13~17)〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。イエスの誘惑(マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ...
パプテスマのヨハネの伝道(マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレッ...
イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)〔エルサレム〕〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし...
博士の訪問(マタイ二1~12)このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そう...
イエスの割礼と命令(ルカ二21)イエス神に献げられる(ルカ二22~24)マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であるこ...
イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)マタイ...
ヨセフの夢(マタイ一18~25)わたしたちはヨセフの人物について学ぶべき所が多くある。〔19〕第一、彼は義人であった。ヨセフは下層の大工であって、しかも罪悪の入り乱れている中に生活しながら、すこしも境遇に汚されなかった。第二、彼は度量のある人であった。普通の出来ていない人間ならば刃物でも持って騒ぐところであるが、彼は軽々しくことをせず、穏便な手段を講じた。すなわち彼は彼女を辱しめることを好まず、ひそかに...
バプテスマのヨハネの誕生(ルカ一57~80)〔58〕「主がエリサベツに大なる慈悲を垂れたまいし事…」。わたしたちにも主は大いなる慈悲を垂れて下さることを常に感謝すべきである。〔63、64〕ザカリヤが天の使に「我既に年老い妻も年またすすみたれば何に因りてかこの事あるを知らん」(ルカ一18)と言った不信仰のため、「汝おしとなりてこの事のなる日まで言うこと能わじ」(20)と宣告されたが、彼は全く神を信じ全く服従した。...
イエス誕生の告知(ルカ一26~38)〔26〕この六カ月はバプテスマのヨハネをみごもってから六カ月の意味である。〔27〕ヨセフもマリヤもダビデの子孫であって、系図は、ダビデ=ヨセフ・マリヤ=キリストとなっている。〔34〕マリヤの質問は、不信仰の疑問ではなくて知識上の疑問であった。しかしザカリヤは反対であった。〔36、37〕人間には不可解であっても、神には知らないこと、出来ないことはないと、天使は懇切にマリヤに教え...
講義(読者は各項目毎に聖書の本文を読み、各節に照してこの講義を読まれるよう望む)イエス・キリストの神たる事キリストの神であることはヨハネ一1~5において明瞭である。三福音書において、イエスの救主であることを証明しても、なお救主の神性を疑う者があるのでヨハネは明白に、それの神であることを証したのである。ルカの緒言ルカの緒言1、2節を見ると、彼がいかに心を用いて事実を記録したかを知ることが出来る。テオピロ...
キリストの生涯 イエス・キリストは全聖書の中心である。旧約を見ても使徒行伝や手紙を見ても、その生涯は最大の関係を有している。キリスト伝の七区分(一)準備の三○年。(二)不明の時代。(三)人望の時代。(四)反抗の時代。(五)苦難の週間。(六)十字架の日。(七)復活後の四○日。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
キリスト時代の政治上の区画 パレスチナはキリストの時代、政治的には五つに区画されていた。すなわちガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ、ペレヤ、バシャンがそれである。(一)紀元前三七年からキリスト降誕時代、すなわち紀元前四年まではローマの属領としてヘロデ大王の王国であった。(二)ヘロデの死後領地を三分し、その子アケラオはユダヤ、サマリヤ(マタイ二22)ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤを(マタイ一四1、ルカ三6...