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  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (35) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(3)

    〔13〕祈祷!!祈祷!!、何はともあれ祈りである。その祈りはイエスのみ名によって祈る祈りである。イエスのみ名によって祈るとは、彼の心、彼の性質、彼の願いが我が心にあって初めて彼のみ名によって祈り得るのである。心はキリストに反しながら、彼のみ名を用いて祈るのは実に畏れ多いことである。キリストの御心にかなう願いは、キリストの願いである。キリストのみ名によって願うとは、願うのはキリストであることをあらわす...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (34) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(2)

    〔7〕この節でキリストは、父なる神と同一体であることをあらわされた。多くの人の目には父なる神とキリストとは別のもののように見えるが、キリストは「我を見し者は父を見しなり」と宣言されたのである。多くの人々が父なる神を知り、また見ることが出来たのは何千年かの昔だけであったと思っているが、決してそうではない。「今より汝ら彼を知る」。〔8〕「ピリポ……」これは人々の叫びである。ピリポはキリストだけでは満足出来...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (33) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(1)

    聖餐後のお話(ヨハネ一四章~一六章)ヨハネ一四、一五、一六章はこの時のお話であって、愛の絶頂である。一四章では父なる神について、一五章では子なる神について、一六章では聖霊なる神について書かれている。もちろん一体なる神は、その中にところどころに現われている。ヨハネ一四章〔1〕この御言葉は我らに対する無限の愛をあらわす。キリストは眼前に苦、恥、死の大問題があるにもかかわらず、唯弟子のことだけを思って、...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (32)

    弟子たちの離散とペテロの堕落を予言される(マタイ二六31~35、マルコ一四27~31、ルカ二二31~38、ヨハネ一三36~38)マタイ福音書に基づいて講義する。〔30〕「歌を……」弟子たちは少しもキリストの心を察しなかった。聖霊によって歩まないからである。〔31〕これは弟子たちにとっては最も不審に思われたことであろう。先には一人といい、今度は皆が私につまずくであろうと言われた。ゼカリヤ一三7の予言はこれによって成就され...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (31)

    聖餐の時に起った弟子たちの争い(ルカ二二24~30)弟子たちの念頭には、常に我らの中で誰が一番偉いだろうかとの争いがあった。夕食の前にキリスト御自身が彼らの足をお洗いになり、親しく教えられたにもかかわらず、このような争いを起すとは、まことにあわれな彼らの心の状態である。ある人は「聖餐の準備をするのに、ペテロとヨハネとを用いられたためである」という。人は指導者としてよく用いられる人を、うらやみねたむもの...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (30)

    「附」過越の祭(出エジプト一二3~14)〔8〕「種入れぬパンに苦菜を交えて食い」これは罪のいかに憎むべきものであるかを覚えて食すべきことを教えられたのである。「火にて焼くべし」これは聖霊の火である。〔9〕「その頭と足と臓腑(ぞうふ)とを皆食え」頭とは知恵、足とはその歩み、臓腑とは愛である。これらをみな食べねばならない。そして明日まで余しておいてはならない。〔11〕「急ぎて食え」我らは世すなわちエジプトに...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (29)

    聖餐(マタイ二六26~29、マルコ一四22~29、ルカ二二14~20)場所 エルサレムルカ福音書に基いて講義する。〔14〕「時至りければイエス食に就きぬ……就けり」ユダヤにおいて小羊をほふるのは、午後三時より六時までの間であるという。このことより、この時は夕方六時頃であったろう。この時使徒たちも席についたのである。実に幸いなことである。〔15〕「イエス彼らに言いけるは……」キリストの御心が言外に溢れ出ているのを見る。...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (28)

    イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (27)

    イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (26)

    イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (25)

    ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (24)

    祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (23)

    〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (22)

    羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (21)

    財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (20)

    〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (19)

    十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (18)

    〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (17)

    イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (16)

    〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (15)

    〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (14)

    ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (13)

    キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (12)

    イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (11)

    メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (10)

    イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (9)

    サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...

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