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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

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  • 北京史(二十二) 第五章 元代の大都(10)

    頤和園内、耶律楚材祠第三節大都の文化(続き)園林名勝白雲観、東岳廟大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人、邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。白雲観大門「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不...北京史(二十二)第五章元代の大都(10)

  • 北京史(二十一) 第五章 元代の大都(9)

    郭守敬第三節大都の文化大都の文化(続き)科学技術元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。司天台(古観象台)また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、...北京史(二十一)第五章元代の大都(9)

  • 北京史(二十) 第五章 元代の大都(8)

    元曲作家、関漢卿第三節大都の文化大都の文化文学芸術元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、...北京史(二十)第五章元代の大都(8)

  • 北京史(十九) 第五章 元代の大都(7)

    「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した第三節大都の文化大都の文化理学の伝播理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。趙復は燕京に...北京史(十九)第五章元代の大都(7)

  • 北京史(十八) 第五章 元代の大都(6)

    元順帝(トゴン・テムル)第二節大都の政治経済情況元末の農民大蜂起の衝撃下の大都財政破綻の大都元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦儿(トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木儿が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑...北京史(十八)第五章元代の大都(6)

  • 北京史(十七) 第五章 元代の大都(5)

    元代『冬日戯嬰図』(台北故宮博物院蔵)第二節大都の政治経済情況経済概況と住民の生活(続き)市民生活大都は元代の多民族国家の縮図で、城内では各民族が雑居していた。契丹、女真、渤海などの民族が長い間漢族と雑居していた外、統治民族として、大量のモンゴル人が北京に住み、漢人と隣り合って暮らしていた。元朝中期、漠北草原が大風雪に被災し、また叛乱を起こした王による攪乱(竄cuàn、簡体字は「窜」)もあり、モンゴルの遊牧民たちが次々南下し、通州一帯に留まり、いたるところに逃れてきた「押当赤」(モンゴル語で貧困者の意味)がおり、元朝政府は彼らのため食糧を支給し、救済した。また特に蒙古侍衛軍を置き、収容した。タングート(唐兀人)、ウイグル(畏吾儿人)の元朝宮廷に出仕する者がたいへん多かった。大都城の西北の畏吾村(後に訛って...北京史(十七)第五章元代の大都(5)

  • 北京史(十六) 第五章 元代の大都(4)

    マルコ・ポーロの目に映った元・大都第二節大都の政治経済情況経済概況と住民の生活商業大都は元朝最大の商業の中心地で、天歴年間の統計によれば、大都の宣課提挙司に入る商業税は毎年11万3千錠(塊状のものを数える)余りで、全土の商業税総額の9分の1弱を占めた。元朝の規定では、商業税は3%であった。フビライの時、大都の商業の発展を促すため、旧城の商店が新城に引っ越すなら商業税を2.5%に減額すると命令した。そして、牛馬や果樹の諸市と酒、酢を除き、「魚やエビ、薬果の類の如き、及び書画、藁席、草鞋、篠箒(竹製の箒)、磚や瓦、木炭諸色、灯銅、鉄線、麻糸、苧麻(ちょま)、藁縄、曲貨は、皆課税すべきでない物」(『日下旧聞考』巻63『官署』から『稼堂雑抄』を引用)であり、明代の崇文門税課条目に比べ、より少なくなっていた。大都城...北京史(十六)第五章元代の大都(4)

  • 北京史(十五) 第五章 元代の大都(3)

    色目人阿合馬第二節大都の政治経済情況民族矛盾と政治闘争阿合馬刺殺の暴動フビライは漢人の儒士と軍将に頼ってハーンの位を取得し、新王朝を建設したが、間もなく李璮(りたん)の反乱(1262年)の後、漢人の脅威を感じたので、それゆえ民族差別と民族圧迫政策を積極的に推進し、且つ色目人を使って自分の手下にし、漢人を牽制し、警備した。色目人の阿合馬(アフマッド。アハマ)は皇后の媵臣(ようしん。嫁付きの下僕)として次第に親任を得て、政府の財政を主管し、更に権力を専横した。阿合馬はまた苛斂誅求し、人々の広範な憤怒を引き起こした。朝廷の中で漢人官僚と色目人官僚の間の陰に陽に繰り広げられた闘争がずっとたいへん激烈であった。東平人王著、字は子明は、小役人をしていたが、人柄が沈着で胆力があり、道義を重んじ金銭財物を軽んじ、細かい事...北京史(十五)第五章元代の大都(3)

  • 北京史(十四) 第五章 元代の大都(2)

    大都の水問題解決、白浮堰の水源、白浮泉第一節大都の建設大都の規模(続き)皇城は城の南部の中央で西に偏っていた。これは皇城が設計上、太液池(今の北海と中海)の景観を十分に利用して造成したいと思ったからである。皇城の北は海子である。海子は一名を積水潭と言い、西北の諸泉の水を集め、都城に流れ込んで、ここにひとつに集まったものである。海子付近は繁華な商業区域であった。太廟は宮城の真東、斉化門の内側にあった。社稷台は宮城以西にあった。これらは皆、古の制度の王都は「左に祖廟、右に社稷。朝廷に面して市場は後ろ」の原則に則り、配置された。海子の東岸には中心閣があり、この高閣のやや西に石が置かれ、その上に「中心之台」と刻まれていて、これは全城の幾何学的中心であった。城南の正門の麗正門から中心閣まで、南北に走る直線は城全体の...北京史(十四)第五章元代の大都(2)

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