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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

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2010/06/24

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  • 腰有腰的花

    炒腰花腰には腰の花がある1970年代、上海の街頭文化の中で、あまり健康的でない流行語に「腰花」があり、それにはまた「大腰花」と「小腰花」の区別があり、早押しクイズで「大腰花は豚の腎臓炒め(炒猪腎)、小腰花はアヒルの砂袋を乾したもの(鴨肫干)」と回答しても、それは間違いだと判定することはできないが、ここで言う「腰花」とは、当時のモダンな男女が街をぶらぶらする時のお決まりの動作であった。「大腰花」は若い男が女の腰を引き寄せること。「小腰花」は若い女性が男の手をを引くことである。「腰花」の大小は男女の関係の深さを反映しており、もし「大腰花」が盛りであれば、ゴールインが近いであろう。当時を振り返ってみると、「腰花」という幸薄い名前は、実際にはほころびが生じていた。「大腰花」は、或いは女性の腰の間に確かに男の一方の...腰有腰的花

  • 有一腿

    金華火腿今回の話のテーマは、豚の後ろ足一本を丸々塩漬けにし、寒風に晒して作られる、金華火腿(金華ハム)。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-広東人の雑食性を形容することばに、こういうのがある。「翼のあるものは、飛行機以外。四つ足のものは、テーブル以外。広東人は何でも食べる。」たとえ飛行機が食べれたとしても、広東人はおそらくあまり食べたがらないと思う。なぜなら飛行機という二枚の翼を生やした物体はいつも遅れるので、これを食べようと思ったら、たいへんな我慢強さがなければならないからだ。それに比べ、足(脚)のテーブルに対する重要性は、明らかに翼の飛行機のそれより高い。紫檀やマホガニーなど、中国の堅木を使った家具の典型として、明式の家具がもし「圓腿側足(円形の...有一腿

  • 和猪油偷情(ラードと逢引きをする)

    猪油(ラード)今回のテーマは豚の油、ラード。これで炒めた料理は旨いのですが、健康志向の昨今では、使用が憚られることが多く、そういえば、香港の中秋節の月餅の宣伝で、ラード不使用を謳っているケースがありました。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-豚肉の脂身は、もはや人々があまり敢えて食べようとはしなくなった。少なくとも、既にあまり人々が人前で、公然と食べることをしなくなった。事既にここに到り、猪油(ラード)は豚肉の脂身の粋ではあるが、それ以上に提起することさえ憚られる禁忌となった。猪油(ラード)がいつからわたしたちの日常の食生活から離れてしまったかを、時期の上で確定するのは大変難しい。ラードはつまるところ、食用油の配給切符の対象でなければ、肉の配給切符、...和猪油偷情(ラードと逢引きをする)

  • 焼乳猪

    shāorǔzhū子豚のロースト出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-烤乳猪(子豚のロースト)のことを、広東人は焼乳猪、或いは焼猪と言う。この点については、ことばの規範のことであまり質問すべきではない。なぜなら、烤乳猪であろうと焼乳猪であろうと、この料理は広東人が発明したものだからである。それはちょうど、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後そこの土着民をずっと「インディアン」と呼び続けたのと同様、服従せざるを得ない。『礼記』の中で取り上げられた「炮豚」が現代の焼猪の調理法と比較的似ているけれども、「炮」páo、炙られたものがいったい乳猪であるかどうかは、言葉が簡単すぎて分からない。これに比べ、広州での考古学的発見はもっと説得力があり、南越王第2...焼乳猪

  • 腊味

    làwèi写真は、煲仔飯本短編の題、「腊味」というのは、燻製にした肉や魚のことです。「腊」とは肉類の処理方法で、肉を塩や味噌に漬け込み、冬の寒風に晒して乾燥させたもの。「腊」は「腊月」のことでもあり、旧暦12月を指します。腊肉は中国版ベーコン。これを使った料理も「腊味」で、広東省の「煲仔飯」は、米の上に腊肉などを載せて炊き上げた、広東風釜めしで、腊肉が調味料として料理全体に風味をつけています。沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)より。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-腊肉(燻製肉)はいつもわたしに降雪、綿入れの上着、ストーブや、冬の間の様々な行事を連想させる。もしひとつの食べ物で冬を形容するなら、「腊味」を先ず思い浮かべるだろう。「腊(臘)は乾し肉である」(『辞源』)。およそ塩漬けにしてか...腊味

  • 条順

    条順tiáoshùn(体つきがしなやか)今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足し...条順

  • 瓜子( クアズ )の音を聞く

    瓜子(クアズ)はヒマワリやスイカやかぼちゃの種をを殻ごと煎って、塩や調味料で味をつけ、お茶請けのスナックとして食べるもの。「殻ごと」というのがポイントで、その食べ方は、殻を手で剥いたりせず、殻を前歯で噛んで割って、舌の先で器用に中身だけ口の中に入れ、殻はぷっとはき出すというもの。ここで、「殻を前歯で噛んで割る」という動作のことを「嗑」kèといい、この時の音がこの話のテーマです。作家、テレビプロデューサーの沈宏非著、『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)収録の作品です。聴瓜子様々なものを食べる音の中で、水を飲む音の他、最も好ましい音は、クアズ(瓜子。ひまわりやスイカ、かぼちゃの種を炒ったもの)を前歯で噛み割る(嗑kè)音である。瓜子(クアズ)を噛み割る音は、主に以下の三つの動作が途切れず行われることででき...瓜子(クアズ)の音を聞く

  • 白塔寺廟会

    白塔寺白塔白塔寺、すなわち妙応寺は、北京阜成門内大街路北に位置し、寺の中に有名な全体が真っ白の巨大なチベット式仏塔があることで有名で、それゆえ俗に白塔寺と呼ばれる。遼の道宗寿昌2年(1096年)ここに仏舎利塔が建てられた。塔内には、お釈迦様の仏舎利と戒珠(かいしゅ。戒を保つことによって、その身が清らかに飾られることから、戒を珠玉(真珠)にたとえた)が20粒、香泥小塔(素焼きの小塔)2千個、離垢、浄光など陀羅尼(だらに)経5部が納められた。後に、塔は火災で焼失した。元代になり、この一帯の地区は新たに作られた元大都の内城になった。元の世祖フビライは文武両道の頗る政治的な頭脳を持った封建君主で、彼は「儒を以て国を治め、佛を以て心を治める」という国策を採用し、各民族の求心力を強化し、その統治を確固たるものにした。...白塔寺廟会

  • 雍和宮「打鬼」(鬼やらい)とチベット仏教の神舞

    法会の観衆毎年、首都北京の有名なラマ教寺院である雍和宮は伝統的な「祈願法会」が行われ、その間、1月の最終日と2月1日には、「打鬼」(鬼やらい)が行われる。昔、毎年鬼やらいの時期になると、雍和宮附近の通りは封鎖され、雍和宮内ではたくさんの人が動き回り、大通りや横丁には、物売りが雲集した。清の人、敦礼臣は『燕京歳時記』の中で次のように描写した。「毎年鬼やらいになると、……都の人々で見に行く者が甚だ多く、町の多くの家が留守になるような有様だった。」その賑やかさの一端が見えるかのようであった。「鬼やらい」は昔の北京の人の俗称で、民間ではまた「跳神」や「跳鬼」という呼び方もあった。北京に住むモンゴル族の人々は、鬼やらいを「跳布札」tiàobùzháと呼んだ。「布札」はモンゴル語で「舞蹈」(ダンス)の音訳で、前に漢字...雍和宮「打鬼」(鬼やらい)とチベット仏教の神舞

  • 雍和宮廟会

    雍和宮殿扁額雍和宮正殿の前面の庇の下の扁額は、乾隆皇帝の親筆である。扁額の上の文字は、右から左に満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四種の文字で書かれている。この扁額は乾隆9年(1744年)に作られた。雍和宮は北京安定門内以東の雍和宮大街に位置し、孔子廟、国子監と街路をはさんで相対していた。土地は6.6万㎡を占め、殿宇は雄壮壮麗で、北京に32ヶ所あるラマ教寺院の中で最も壮大なもので、今日に到るまで既に300年の歴史を有している。雍和宮は元々清代皇帝康熙帝の第4子胤禛(いんしん)が建てた府邸(屋敷)で、康熙33年(1694年)に建設され、最初は「禛貝勒府」(「貝勒」は清朝の爵位名で、親王・郡王の下に位した)と名付けられた。康熙48年(1709年)胤禛は爵位が上がり和碩雍親王に封じられ、その府邸も「雍親王府...雍和宮廟会

  • 昔の北京の社寺の縁日の話(2)

    白塔寺白塔白塔寺廟会昔、阜成門を入り、東北の方向を見ると、巨大な白塔が人々の目に入って来る。白塔のある寺院なので、人々は俗に白塔寺と呼ぶ。曾て遼代、ここには仏塔が建てられていたが、後に戦火で壊された。元の世祖の時、遼塔の遺跡の場所に大聖寿万安寺が建立され、ネパールの建築家アニカが中心となりこの巨大な白色のラマ塔を建築した。元末の戦乱で、寺は破壊されてしまったが、塔は残った。明の英宗の時、仏寺が再建され、「妙応寺」の名を賜った。寺内の庭園は広々としていて、山門から塔院の間に、仏殿が分布していた。塔院のちょうど真ん中に白塔がそびえ立ち、塀で囲まれた四隅には一亭が建てられた。白塔寺の廟会は東西両廟の廟会と形式がよく似ていた。いつも廟会の日になると、廟の内外はたいへん賑やかであった。廟内の屋台は東西の両路と塔院の...昔の北京の社寺の縁日の話(2)

  • 昔の北京の社寺の縁日の話(1)

    老北京的廟会(雍和宮廟会、白塔寺廟会)姜尚礼著文物出版社2004年12月出版いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の...昔の北京の社寺の縁日の話(1)

  • 昔の北京の商店の看板(3)

    小旅館幌子柳の枝で編んだ笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。看板の効果招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜し...昔の北京の商店の看板(3)

  • 昔の北京の商店の看板(2)

    万宝号酒店清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。看板の種類招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。焼酒舗幌子酒瓢箪を幌子とするのは...昔の北京の商店の看板(2)

  • 昔の北京の商店の看板(1)

    範緯著:老北京的招幌文物出版社2004年12月第一版発行この本は、文物出版社に保存されていた1930年代末から40年代初頭の北京の店舗看板の写真資料をまとめたものだそうです。看板の歴史招幌(看板)は招牌、幌子の総称で、中国の商業習俗の表現形式のひとつで、また商業広告のよく見られる形式である。幌は伝統的な店舗の標記で、元々布で作った帷幕で、『玉篇』では「幌は帷幔なり」と言う。後に派生して酒旗の専称となり、また酒簾と呼ばれ、唐末には望子と称した。酒簾『広韵』では「青簾(青いのれん)は、酒家の望子。」「望」とは遠くを見ることである。古代の酒家は、門を開けて最初にすることは、酒旗を店門の外に高く掲げ、遥かに望むことができ、これを用いて酒客を呼んだ。張籍の『江南行』では「长干(昔の建康(南京)の里巷(裏町)の名)の...昔の北京の商店の看板(1)

  • 頤和園史話(5)

    万寿山周辺、昆明湖の景観昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。この中軸線の中部にある排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887...頤和園史話(5)

  • 頤和園史話(4)

    頤和園十七孔橋四、美しい頤和園頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次い...頤和園史話(4)

  • 頤和園史話(3)

    慈禧在頤和園仁寿殿前三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしてい...頤和園史話(3)

  • 頤和園史話(2)

    西太后慈禧二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしば...頤和園史話(2)

  • 頤和園史話(1)

    頤和園全景中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。頤和園史話中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の...頤和園史話(1)

  • 北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

    雍和宮打鬼第七節風俗習慣と日常生活上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。風俗習慣清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。...北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

  • 北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

    第六節北京の園林と廟宇西苑清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば...北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

  • 北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

    万斯同第五節清前期の北京の学術と文芸活動北京の学者や文士北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座...北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

  • 北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

    林清天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を...北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

  • 北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

    順天府衙署第四節清朝の政治体制と民衆の蜂起清朝の北京での地方行政組織清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。順天府清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月1、15日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康...北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

  • 北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

    清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)官営手工業の衰退と民営工房の発達農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色...北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

  • 北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

    清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制清初、統治者が踏みにじった手工業と商業土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持す...北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

  • 北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

    清摂政王ドルゴン第一節北京、清朝の都城1644年(大顺永昌元年)4月30日早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。5月3日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一...北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

  • 北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

    八達嶺長城長城と居庸関万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く...北京史(三十八)第六章明代の北京(16)

  • 北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

    十三陵北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきん...北京史(三十七)第六章明代の北京(15)

  • 避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

    磬錘峰(けいすいほう)有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古...避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

  • 避暑山荘(その6)外八廟(2)

    普陀宗乗之廟(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺...避暑山荘(その6)外八廟(2)

  • 避暑山荘(その5)外八廟(1)

    承徳外八廟・普寧寺避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年)康熙帝玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。1767年2月普陀宗乗之廟の建設に着手、1771年...避暑山荘(その5)外八廟(1)

  • 避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

    永佑寺舎利塔湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。試馬埭曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがお...避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

  • 北京史(三十六) 第六章 明代の北京(14)

    慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)第五節明代の北京の文化寺院と園林明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』)これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多く...北京史(三十六)第六章明代の北京(14)

  • 避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

    避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立...避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

  • 北京史(三十五) 第六章 明代の北京(13)

    北京城第五節明代の北京の文化北京城の建設明の北京城は元の大都城の基礎の上に建設され、後に清朝で流用されることになり、元の大都城よりもっと雄大で壮麗であった。元の大都の旧城は周囲60里(30Km)、全部で11の城門があった。1368年(明の洪武元年)、大将軍徐達が元の大都城を攻め落として占領し、その城の範囲があまりに広く、守備に不便であったので、次第に広々とした北部は放棄し、東西の両方の城壁と北側の光熙、粛清の二門を廃棄し、元の北城壁の南5里に、別途新たな城壁を築き、相変わらず二つだけ北門を開け、元の安貞門を安定門に改め、健徳門を徳勝門に改め、同時に東壁の崇仁門と西壁の和義門を東直門と西直門に改め、それ以外の七門は旧来通りとした。(光緒『順天府志』巻1『城池』)内城西直門甕城、城門楼、甕城門楼、箭楼、護城河...北京史(三十五)第六章明代の北京(13)

  • 避暑山荘(その2、宮殿地区)

    避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。避暑山荘宮殿地区避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの...避暑山荘(その2、宮殿地区)

  • 避暑山荘史話

    中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。一、康熙北巡と避暑山荘創建康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)...避暑山荘史話

  • 北京史(三十四) 第六章 明代の北京(12)

    雑技第五節明代の北京の文化民間の技芸と歌謡明代中葉以後、都市住民と商工業者の文化娯楽の需要を満足するため、北京の街頭の講談(説書)、弾詞(江蘇、浙江の語り物)、琵琶、雑技も空前の隆盛を迎えた。琵琶を弾くのは北京でたいへん盛んになり、多くの店舗の前には「琵琶教えます」という張り紙が貼られた。歌姫たちは皆、陳大声の小曲を愛唱し、「聞く者を生き生きした表情にさせる」ことができた。陳大声は明代江南の著名な散曲(元曲の一形式で、せりふが入らない)家で、名を陳鋒といい、彼は微に入り細に入り人々の生活を思いやることができた。彼の作品は人々を褒め称えた。それゆえ彼の散曲を、各地の人々は皆喜んで聞き、愛唱した。北京の講談も、琵琶の伴奏を多用した。講談の演者の多くは最も圧迫を受け、最も蹂躙された男女のめくらで、彼らは「古今の...北京史(三十四)第六章明代の北京(12)

  • 北京史(三十三) 第六章 明代の北京(11)

    国子監第五節明代の北京の文化明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。統治階級の北京での文化統治明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試と殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に...北京史(三十三)第六章明代の北京(11)

  • 北京史(三十二) 第六章 明代の北京(10)

    山海関第四節北京での大順政権(続き)大順政権の経済措置李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷...北京史(三十二)第六章明代の北京(10)

  • 北京史(三十一) 第六章 明代の北京(9)

    大順政権による「追贜索餉」第四節北京での大順政権(続き)大順政権の政治措置時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中...北京史(三十一)第六章明代の北京(9)

  • 北京史(三十) 第六章 明代の北京(8)

    李自成軍北京入城第四節北京での大順政権李自成の農民軍が北京に進軍明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。明末農民蜂起蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性...北京史(三十)第六章明代の北京(8)

  • 北京史(二十九) 第六章 明代の北京(7)

    明朝第14代万暦帝、在位1572-1620年第三節北京の政治(続き)北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発...北京史(二十九)第六章明代の北京(7)

  • 北京史(二十八) 第六章 明代の北京(6)

    劉六、劉七農民蜂起第三節北京の政治(続き)劉六、劉七が指導した農民蜂起劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著)だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪...北京史(二十八)第六章明代の北京(6)

  • 北京史(二十七) 第六章 明代の北京(5)

    明英宗第三節北京の政治明朝が北京に遷都(1421年)以後、その最高統治集団、皇帝、王公、宦官、皇帝の親族、朝廷の大小の官僚たちは全て北京に集まり居住し、膨大な全部で78衛に分かれ、48万人いた軍隊が北京に駐屯した。北京は明帝国の政治、軍事の中心で、また全国最大の封建堡塁(ほうるい)であった。明朝朝廷は北京から中国全国各地に政令、軍令を発布し、中国全土の階級的矛盾や統治階級内部の矛盾が、ここ北京で集中的に反映していた。明朝地主階級統治の強化廠衛の北京での罪悪活動成祖の永楽年間(1403年-1424年)から英宗の正統年間(1436年-1449年)初頭までが、明朝が最も強盛だった時期である。中国全土に亘って生産が一定の回復と発展が見られ、階級間の矛盾が比較的緩和され、明代の地主階級統治が比較的安定し、明の太祖洪...北京史(二十七)第六章明代の北京(5)

  • 北京史(二十六) 第六章 明代の北京(4)

    都城隍廟第二節北京の経済(続き)商業の繁栄明朝廷の商人に対する苛斂誅求永楽初年、北京の商業はまだたいへん不景気(蕭条)で、当時は「商人(商賈)がまだ集まらず、市の喧噪(市塵)はなお疏(まれ)」で、城外の交通はたいへん困難で、城内は至るところ広い空地であった。ここに建都後、明朝朝廷は前後して皇城の四門(大明門、東安門、西安門、北安門)、鐘鼓楼、東四牌楼、西四牌楼、及び朝暘、安定、西直、阜成、宣武各門付近に、数千軒の民家を建築し、一部は「民を召集し居住」させ、一部は「商人を召集し貨物を居」き、何れも「廊房」と呼んだ。このようにして、街の様子(市容)はかなり賑やかだった。その後、運河が通じ、北京と通州の街の内外で、また前後して多くの新しい「客店」と「塌坊」を建設した。「客店」は専ら客商(行商人)を呼び寄せ休憩さ...北京史(二十六)第六章明代の北京(4)

  • 北京史(二十五) 第六章 明代の北京(3)

    瑠璃廠第二節北京の経済(続き)手工業官営から民営へ元末の農民蜂起以降、元々ずっとモンゴルの支配者の官営の手工業部門で働いていた職人たちも、一定程度は解放された。明朝の支配層は手工業の職人を引き続き使役するため、職人を交替制の当番(輪班)と家住み(住坐)の二種類に分けた。職人たちは定期的に皇室のために使役される以外に、いくらかの自由時間でちょっとした手仕事で生計を立てた(営生)が、このことは明代の手工業発展にとりたいへん有利であった。永楽の遷都で、明朝朝廷は18万戸を交替制当番の職人とし、定期的にグループ毎に北京へ来て使役に就くよう規定した。三年或いは四年毎に一回当番(輪班)に当り、各戸から職人を一人出すので、推計で毎年北京に来て使役に就く職人は4万5千人余り、季節毎だと1万1千人余りであった。この他、更に...北京史(二十五)第六章明代の北京(3)

  • 北京史(二十四) 第六章 明代の北京(2)

    染牙雕瓜蝶洗(北京故宮博物院蔵)第二節北京の経済北京は1421年(永楽19年)から正式に明帝国の首都になった。この時、南北を貫く大運河が既に開通し、全国各地の商品と物資が川の流れのように絶え間なく北京に運ばれた。農業、手工業生産の技術もここで広範な交流を得て、北京の経済は顕著に発展した。皇帝を頭に功績を上げた王族(勲戚)、宦官、官僚、地主から成る明朝の最高統治グループも大挙して北京城に引っ越して来た。北京の農業、手工業、商業も突出して封建統治者に服務し、北京は全国最大の消費都市となった。農業と土地の占有関係元末の農民戦争は蒙古貴族の統治を打ち倒し、同時に漢族地主階級に極めて重い打撃を与えた。蒙古貴族と若干の漢族地主は彼らが元々権勢を頼みに占有していた一部分の土地を放棄するよう迫られ、農民と地主の緊張関係は...北京史(二十四)第六章明代の北京(2)

  • 北京史(二十三) 第六章 明代の北京(1)

    大明太祖朱元璋第一節北京への遷都1368年(明太祖の洪武元年)8月明軍が大都に攻め入って後、明朝統治者は大都を北平府に改称し、ただちにここに地方行政機構、北平布政使司を設立した。この時、北平はもう全国の首都ではなくなったが、政治、軍事上は依然として重要な地位を占めていた。明朝統治者はここを蒙古統治者の北方、東北の残余勢力から防御する主要拠点とした。応昌に逃げた蒙古貴族(応昌は今の内蒙古自治区達里泊(達来諾尔、元の捕魚儿海)付近)は、従前のように北平を奪い返し、明朝と対抗しようとした。明代辺境の各民族と内地の関係は継続して強化され、各族の統治者は政治上明朝と隷属関係を保持し、各族の人々と漢族の人々の経済、文化の付き合いは一層頻繁になった。当時、蒙古地方の統治者は明朝と対立する地位に処せられていたが、蒙古族の...北京史(二十三)第六章明代の北京(1)

  • 北京史(二十二) 第五章 元代の大都(10)

    頤和園内、耶律楚材祠第三節大都の文化(続き)園林名勝白雲観、東岳廟大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人、邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。白雲観大門「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不...北京史(二十二)第五章元代の大都(10)

  • 北京史(二十一) 第五章 元代の大都(9)

    郭守敬第三節大都の文化大都の文化(続き)科学技術元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。司天台(古観象台)また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、...北京史(二十一)第五章元代の大都(9)

  • 北京史(二十) 第五章 元代の大都(8)

    元曲作家、関漢卿第三節大都の文化大都の文化文学芸術元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、...北京史(二十)第五章元代の大都(8)

  • 北京史(十九) 第五章 元代の大都(7)

    「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した第三節大都の文化大都の文化理学の伝播理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。趙復は燕京に...北京史(十九)第五章元代の大都(7)

  • 北京史(十八) 第五章 元代の大都(6)

    元順帝(トゴン・テムル)第二節大都の政治経済情況元末の農民大蜂起の衝撃下の大都財政破綻の大都元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦儿(トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木儿が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑...北京史(十八)第五章元代の大都(6)

  • 北京史(十七) 第五章 元代の大都(5)

    元代『冬日戯嬰図』(台北故宮博物院蔵)第二節大都の政治経済情況経済概況と住民の生活(続き)市民生活大都は元代の多民族国家の縮図で、城内では各民族が雑居していた。契丹、女真、渤海などの民族が長い間漢族と雑居していた外、統治民族として、大量のモンゴル人が北京に住み、漢人と隣り合って暮らしていた。元朝中期、漠北草原が大風雪に被災し、また叛乱を起こした王による攪乱(竄cuàn、簡体字は「窜」)もあり、モンゴルの遊牧民たちが次々南下し、通州一帯に留まり、いたるところに逃れてきた「押当赤」(モンゴル語で貧困者の意味)がおり、元朝政府は彼らのため食糧を支給し、救済した。また特に蒙古侍衛軍を置き、収容した。タングート(唐兀人)、ウイグル(畏吾儿人)の元朝宮廷に出仕する者がたいへん多かった。大都城の西北の畏吾村(後に訛って...北京史(十七)第五章元代の大都(5)

  • 北京史(十六) 第五章 元代の大都(4)

    マルコ・ポーロの目に映った元・大都第二節大都の政治経済情況経済概況と住民の生活商業大都は元朝最大の商業の中心地で、天歴年間の統計によれば、大都の宣課提挙司に入る商業税は毎年11万3千錠(塊状のものを数える)余りで、全土の商業税総額の9分の1弱を占めた。元朝の規定では、商業税は3%であった。フビライの時、大都の商業の発展を促すため、旧城の商店が新城に引っ越すなら商業税を2.5%に減額すると命令した。そして、牛馬や果樹の諸市と酒、酢を除き、「魚やエビ、薬果の類の如き、及び書画、藁席、草鞋、篠箒(竹製の箒)、磚や瓦、木炭諸色、灯銅、鉄線、麻糸、苧麻(ちょま)、藁縄、曲貨は、皆課税すべきでない物」(『日下旧聞考』巻63『官署』から『稼堂雑抄』を引用)であり、明代の崇文門税課条目に比べ、より少なくなっていた。大都城...北京史(十六)第五章元代の大都(4)

  • 北京史(十五) 第五章 元代の大都(3)

    色目人阿合馬第二節大都の政治経済情況民族矛盾と政治闘争阿合馬刺殺の暴動フビライは漢人の儒士と軍将に頼ってハーンの位を取得し、新王朝を建設したが、間もなく李璮(りたん)の反乱(1262年)の後、漢人の脅威を感じたので、それゆえ民族差別と民族圧迫政策を積極的に推進し、且つ色目人を使って自分の手下にし、漢人を牽制し、警備した。色目人の阿合馬(アフマッド。アハマ)は皇后の媵臣(ようしん。嫁付きの下僕)として次第に親任を得て、政府の財政を主管し、更に権力を専横した。阿合馬はまた苛斂誅求し、人々の広範な憤怒を引き起こした。朝廷の中で漢人官僚と色目人官僚の間の陰に陽に繰り広げられた闘争がずっとたいへん激烈であった。東平人王著、字は子明は、小役人をしていたが、人柄が沈着で胆力があり、道義を重んじ金銭財物を軽んじ、細かい事...北京史(十五)第五章元代の大都(3)

  • 北京史(十四) 第五章 元代の大都(2)

    大都の水問題解決、白浮堰の水源、白浮泉第一節大都の建設大都の規模(続き)皇城は城の南部の中央で西に偏っていた。これは皇城が設計上、太液池(今の北海と中海)の景観を十分に利用して造成したいと思ったからである。皇城の北は海子である。海子は一名を積水潭と言い、西北の諸泉の水を集め、都城に流れ込んで、ここにひとつに集まったものである。海子付近は繁華な商業区域であった。太廟は宮城の真東、斉化門の内側にあった。社稷台は宮城以西にあった。これらは皆、古の制度の王都は「左に祖廟、右に社稷。朝廷に面して市場は後ろ」の原則に則り、配置された。海子の東岸には中心閣があり、この高閣のやや西に石が置かれ、その上に「中心之台」と刻まれていて、これは全城の幾何学的中心であった。城南の正門の麗正門から中心閣まで、南北に走る直線は城全体の...北京史(十四)第五章元代の大都(2)

  • 北京史(十三) 第五章 元代の大都(1)

    元大都城復元図第一節大都の建設大都の建設燕京等の場所で尚書省の統治が行われる中都の陥落後、ジンギスカンは直ちに腹心の汪古児(オングル)らを派遣し、勝手に収奪を行い、大量の金銀や金銭を荷造りして積み込み、持ち去った。戦火の下で幸運にも生存した中都の居住民は、孤立した城の中に久しく閉じ込められた後、食糧が無くなり、城中では人が人を食うような惨状まで出現した。蒙古に投降した漢人の将軍、王檝(おうしゅう)の要求により、蒙古の統治者は軍士(下士官)に兵糧を与え、城に入って転売するのを許可し、これにより飢餓の脅威を解決した。当時、城中に蓄積した貨物は、交易するところが無く、遂には銀を飼葉桶、金を酒かめに換え、大なるは千両にもなった。王檝の提案を実行したので、「士は金銭、織物を得て、民は食糧を獲た。」王檝はまた官吏を盧...北京史(十三)第五章元代の大都(1)

  • 北京史(十二) 第四章 遼宋金時代の北京(4)

    瓊華島第二節金代の中都社会経済(続き)農村の経済概況都の郊外の土地は、政府、貴族、官僚と大地主の手で掌握されていた。漢人の名門の大地主の中で、韓、劉、馬、趙の四つの姓が、遼以来幽燕地区の大金持ちであった。官田と放牧地は国家が直接管理する土地であり、中都路の放牧地は全部で6万35百顷(1顷は6.667ヘクタール)余りに達した。貴族が賜ったり略奪したりすることで大量の土地を占有し、都城内の170家の宗室の占有地が3,683顷に達した。一般に猛安(女真語で「千戸」の意味)、謀克(同「百戸」)の民戸が内地に移り住んで後、政府が各戸に土地を賜い、そこを耕作させ、平時の口糧とさせた。貞元の遷都(1153年。金の海陵王、完顔亮の中都への遷都)に伴い、上都で元々太祖阿骨打、遼王宗干、秦王宗翰に属していた猛安(三者は合併し...北京史(十二)第四章遼宋金時代の北京(4)

  • 北京史(十一) 第四章 遼宋金時代の北京(3)

    金の海陵王、完顔亮の北京(中都大興府)遷都第二節金代の中都金初の南京金初の対南京統治1127年(金太宗天会五年)、金軍は北宋の滅亡後、徽宗、欽宗の二帝、后妃(皇后と妃)、皇子、公主、及び宗室の貴戚(皇帝の親族)三千人余りを捕虜とし、並びに汴京(開封)の宣和殿、太清楼、龍図閣の図書書籍、珍宝、文物を全て北に持ち去った。その中には、有名な天文儀、岐陽(岐山の南)石鼓、九経(儒家経典)石刻、宋仁宗の篆書の針灸経石刻、定武(今の河北省定県)蘭亭石刻(『蘭亭序』の真跡)など珍しい文物が含まれていた。これらの文物は少数が途中で散逸した以外は、後に燕京に保管された。この他、金人はまた多くの工匠(職人)、俳優や芸人を捕虜にし、彼らは大多数が燕京に置かれ、「各人で生計を立て、有力な者は店を出し、無力な者は売り物を脇に挟んで...北京史(十一)第四章遼宋金時代の北京(3)

  • 北京史(十) 第四章 遼宋金時代の北京(2)

    薊県独楽寺観音閣第一節遼代の南京と北宋の燕山府遼代の南京(続き)寺院の建築遼の南京の建築物は、有名で考証できるものとして、南城に于越王廨(かい)、また永平館、旧称碣石館(けっせきかん)があり、何れも官僚や使者が宴会や集会をした場所であった。西城の上には、涼殿(りょうでん)が建てられていた。仏教が盛んであったので、城の内外には廟宇が方々に望めた。金初の洪皓は、城内で規模の比較的大きな廟宇が三十六ヶ所あった、と言った。憫忠寺(びんちゅうじ。今の法源寺)の高閣は、天に届き空に入るほど高く、俗に「憫忠の高閣、天を去ること一握(の距離)」と称した。開泰寺は魏王耶律韓寧が建立し、銀で鋳造した仏像で著名であった。「殿宇楼観は雄壮、全燕に冠する。」この他、更に延寿寺、延洪寺、三学寺、仙露寺、昊天寺などがあった。当時、遼の...北京史(十)第四章遼宋金時代の北京(2)

  • 北京史(九) 第四章 遼宋金時代の北京(1)

    燕雲十六州の契丹(遼)への割譲第一節遼代の南京と北宋の燕山府遼代の南京燕雲十六州の割譲西暦936年、後晋の石敬瑭が身売りし契丹を頼り、契丹の支持を頼みに、後唐に代わり帝を称した。媚びを売り謝礼をし、彼は恥知らずにも契丹の主を父皇帝と称し、歳幣を貢納し、今日の河北、山西両省北部の燕、雲等十六州の地を契丹に割譲した。(平州等の地は先に手放していた。)これより、契丹は、華北大平原に勢力を伸ばした。中原地区は直接、契丹の軍事の脅威の下にあることが露見した。幽州の背後は燕山を枕に、西は太行山脈に依り、東は渤海に臨み、地勢的にたいへん重要な場所であり、歴史的に中原王朝の東北方面の要衝であった。ここは北側を古長城と楡関(山海関)、松亭関、古北口、居庸関、紫禁関など五関の天険に依り、沃野千里の華北大平原を力強く守り、北方...北京史(九)第四章遼宋金時代の北京(1)

  • 北京史(八) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(5)

    房山雲居寺の遼代の塔(北塔)の周囲に立つ4基の唐代小塔北京市房山区大石窩鎮水頭村雲居寺第三節隋唐五代期の幽州地区の都市と住民(続き)幽州経済の発展唐代、幽州地区の土地はより一層開墾され、農業に発展が見られた。永徽年間(西暦650‐655年)、幽州の農民は盧溝水を引き、稲田数千頃(けい。100畝(ほ。ムー)が1頃、1頃は6.6667公頃(ヘクタール)に当り、66667㎡に等しい)を開き、百姓はその豊かな産量を頼みにした。しかし、幽州は隋や唐にとり北方の軍事の拠点であり、常に大量の軍隊が駐屯し、ただ当地で産する糧食に頼るのでは供給量が足らなかった。隋末、「倉粟盈積」というのは、軍糧を外地から運んで蓄えたことを言うのである。貞観の時、幽州には常に平倉が設けられ、凶作の年に救済したり、種もみを貸すのに用いられた。...北京史(八)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(5)

  • 北京史(七) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(4)

    隋大運河永済渠第三節隋唐五代期の幽州地区の都市と住民今の北京地区は、隋代には当時の幽州の大部分の地域を含んでいた。唐代には当時の幽州の大部分、檀州(だんしゅう)の全て(今の密雲、懐柔、平谷県境)と嬀州(きしゅう)東部(今の延慶県境)地区であった。隋の煬帝の大業三年(西暦607年)、幽州は涿郡に改称され、唐初に郡が州に改められ、再び幽州と称した。唐の玄宗の天宝の時、一度範陽郡に改称されたが、以後また幽州に改められた。幽州の治所は薊城に設けられ、城址は北魏と同じで、ずっと五代まで変わらなかった。隋代の涿郡の戸数は8万4千戸余りに達した。隋末の動乱を経て、唐初の幽州には2万戸余りが残り、檀州には1700戸しかなかった。玄宗の天宝年間(西暦742‐755年)には幽州の人口は6万7千戸、37万人にまで増加した。檀州...北京史(七)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(4)

  • 北京史(六) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(3)

    魏の嘉平2年(250年)、薊城の西北で㶟河(るいが:今の永定河)の水を引き、戻陵堰を築いた二節魏晋十六国北朝時代の薊城薊城の政治状況と薊城の住民黄巾蜂起軍の主力が鎮圧され、広陽の黄巾も薊城から退出させられた。地主階級が元々持っていた私的な武装軍は、黄巾鎮圧の過程で大きく増強された。州や郡の官吏も次々軍隊入隊者を募集し、勢力を拡充した。東漢以来封建経済の発展がもたらした社会の分裂は益々明確になった。農民軍の再蜂起を防止するため、州や郡をコントロールし、自らの存亡の危機から救うため、東漢王朝はいくつかの重要な地区の州刺史を州牧に改め、宗室や名望家出身の官吏を選んで任命し、彼らに一州の軍政大権を管掌させた。漢の宗室出身の劉虞(りゅうぐ)は幽州牧に任じられ、西暦189年(漢中平六年)薊城に着任した。一年後、董卓の...北京史(六)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(3)

  • 北京史(五) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(2)

    東漢荘園明器・陶庭院西漢時代の燕国(続き)北京地区の貧富の差は日増しにひどくなった。大商人や富豪地主の多くの一般の人々に対する搾取や圧迫はたいへん残酷なものだった。『漢書・酷吏列伝・厳延年伝』によれば、涿郡の「大姓(名門)の西高氏、東高氏は、郡吏以下皆これを恐れ避け、敢えてこれと触れようとせず、皆曰く「寧ろ二千石を負うても、豪なる大家を負わず。」賓客は放って盗賊となる。発すればすぐに高氏に入り、吏は敢えて追わず。次第に道路は弓を引き刀を抜き、その後敢えて行く。その乱れることかくの如し。」西漢後期、北京地区の土地は併呑され搾取され、圧迫は一層ひどくなった。早くも武帝の時期、北京地区の階級矛盾と階級闘争は既にたいへん先鋭化していた。『漢書・酷吏列伝・咸宣伝』によれば、「吏民はますます犯罪を軽視し、盗賊が増えた...北京史(五)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(2)

  • 北京史(四) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(1)

    北京考古遺跡博物館(大葆台西漢墓遺跡)北京市豊台区黄土崗郷第一節秦漢時代の北京地区秦代の広陽地区秦は紀元前222年(秦王政の二十五年)燕を滅ぼし、翌年軍を指揮して南下し、斉を滅ぼし、中国を統一した。秦は依然、咸陽を国都とし、専制主義の中央集権の封建国家を建立した。地方行政は、郡県両級の制度を採用した。旧燕国地区は、北側の行政区画は基本的に元の燕の制度を踏襲した。すなわち、長城線に沿い、西から東へ、従来通り上谷(沮陽(そよう)を管轄。今の河北省懐来県大古城)、漁陽(漁陽を管轄。今の北京市懐柔県梨園庄)、右北平(無終を管轄。今の天津市薊県)、遼西(陽楽を管轄。今の遼寧義県)、遼東(襄平を管轄。今の遼寧遼陽)の五郡を置いた。元の燕国の都城、薊とそれ以南の地区から燕の下都、武陽(今の河北易県)に至る一帯には、新た...北京史(四)第三章秦漢から五代に至る時期の北京(1)

  • 北京史(三) 第二章 夏商周時代の北京(2)

    (写真)北京考古遺跡博物館(瑠璃河遺跡分館)北京市房山区琉璃河董家林村燕国の都城史書の記載によれば、西周の初年、燕の召公の封地は「燕」或いは「北燕」と呼ばれた。地処は今の淶水県一帯の古北伯領地で、燕の召公の封地以内も含まれていた。周の武王は褒賞として帝堯の後代(子孫。『史記』では帝堯の後、『楽記』では黄帝の後とする)を薊に封じ、しばらくするとまた燕の領地に帰することとなった。史書では周初の燕国は「地は燕山の野に在り」、すなわち今日の燕山のラインの南を指し、華北平原の北端、北京市の周囲である。北京地区の最古の都邑、「幽都」は集落の名称で、原始的な村落から発展していった。西周の時代、燕の都城は今の房山県瑠璃河鎮東側の董家林村周囲に位置し、これより北魏時代まで、ここは「聖聚」(聖なる町)と称された。古聖水(今の...北京史(三)第二章夏商周時代の北京(2)

  • 北京史(一) 第一章 太古の北京

    見出し:三羊銅罍(らい)、平谷県劉家河出土第一節夏商時代の北京地区の青銅器文明原始社会から奴隷社会までの間には、相当長い過渡期の時代がある。原始氏族社会制の晩期、私有制、階級は既に萌芽し、奴隷制確立後も長い間、原始氏族社会の名残は様々な形で残された。およそ紀元前2千年代の初期、北京地区は既に歴史に沿って進化し、原始社会は次第に奴隷制社会に移り変わりつつあった。伝説中の夏の時代、商族の祖先、亥は曾て牛車に乗り、北京以南の易水近傍で牛や羊を放牧し、各部落の間で売買を行った。有易部落は亥を殺し、亥の牛車と牛、羊を奪った。後に亥の兄弟の恒の子供の上甲微が亥の敵を打ち、有易部落を打ち負かした。この話は多くの古書の中に記載がある。これらの商族の祖先の名前も、商代の甲骨卜辞の中に見られる。龍山文化(山東省東部の章丘県龍...北京史(一)第一章太古の北京

  • 北京史 第一章 太古の北京

    これからご紹介するのは、北京出版社より、1985年8月に初版が刊行された、北京大学歴史系『北京史』編写組による、『北京史』、すなわち北京の歴史です。中国史の中で、北京地区の歴史にフォーカスします。第一節北京人(北京原人)とその文化おおよそ五十万年前、北京房山の周口店地区(北京市街地から西南へ約50Km)で、原始の人類が働き、生息していた。これが世の中でよく知られている「北京人」(北京原人)である。ちなみにこの章で言う「北京人」とは、「北京猿人」、すなわち北京原人のことです。北京人は周口店龍骨山北斜面の洞窟の中に居住し、そこには彼らの骸骨の化石、使っていた工具、火を用いた痕跡と大量の哺乳動物の化石が残されていた。これは人類の起源の謎を紐解く歴史の宝庫である。周口店龍骨山遺跡人類の誕生にはおよそ200万年あま...北京史第一章太古の北京

  • 『徐霞客遊記』を読む(4)遊黄山日記

    黄山は今の安徽省黄山市の南(歙県(きゅうけんshèxiàn)と太平県の間)に位置し、面積は約154平方キロメートル、有名な景勝地です。元の名を黟山(いざんyíshān)と言い、唐代の天宝年間以後、今の名前に改名されました。伝説によると、黄帝と仙人の容成子、浮丘公が一緒にここで丹薬を練ったことから、「黄山」と名付けられたと言われています。徐霞客は万暦四十四年(1616年)、白岳山登山の後、二月三日に湯口に入り、南から北に登山し、十一日に湯口より黄山を後にしました。二月二日、白岳山より下山し、十里(5キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)進み、山麓に沿って西に向かい、南渓橋に着いた。大渓を渡り、別の渓流に沿って山麓を北に向かった。十里行くと、ふたつの山が二枚の門のように、険しく切り立ち、接近しているのが見えた。渓流はそ...『徐霞客遊記』を読む(4)遊黄山日記

  • 『徐霞客遊記』を読む(3)遊白岳山日記

    白岳山(斉雲山)白岳山は安徽省休寧県城の西にあり、今は斉雲山と呼ばれます。道教の四大名山のひとつで、山上には碑文や摩崖石刻が数多く残されています。万暦四十四年(すなわち丙辰の年、1616年)1月、徐霞客は安徽省に入り、先ず白岳山、次いで黄山を旅行しました。白岳遊覧は1月26日から2月1日の間ですが、大雪と悪天候で、宿に止まる時間が長く、天気が回復したわずかな時間に、あわただしく景勝地を巡っています。丙辰の年(1616年)、私は潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)といっしょに、一月二十六日、徽州府休寧県に到着した。県城の西門から出発した。休寧県より白岳山(斉雲山)を目指すそこを流れる渓流は、祁門県qíménxiànから流れて来て、白岳山を通って、県城に沿って南に向け流れ、梅口に至って郡渓水と合流...『徐霞客遊記』を読む(3)遊白岳山日記

  • 『徐霞客遊記』を読む(2)遊雁宕山日記

    雁宕山yàndàngshānは雁蕩山(発音は同じ)のことで、浙江省温州市楽清市東北に位置しています。約1億年前に火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったものです。山頂に湖(また「蕩」と言う。「蕩」は浅い湖のこと)があり、昔は湖が年中涸れることがなく、春に雁が北に帰る時、多くこの地に宿ったので、「雁蕩山」と呼ばれるようになりました。徐霞客は明の万暦41年(1613年)、天台山に続き、4月9日から15日までの間、雁宕山を巡りました。同行奢は天台山と同じく、江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。文章では、苦労して登攀する過程と、途中で見た特異な風景を記述し、歩くにつれ景観が変化する、雁宕山諸峰と龍湫瀑布の姿が生き生きと描かれています。最後に、作者は、山の頂上に登り、雁湖を探したいと願い...『徐霞客遊記』を読む(2)遊雁宕山日記

  • 『徐霞客遊記』を読む(1)遊天台山日記

    徐霞客徐霞客(1586-1641)、名は弘祖、字は振之、霞客と号しました。明代南直隷江陰(今日の江蘇省江陰市)の人です。徐氏は代々官僚を輩出した家柄で、高祖父・徐経の代に巨万の富を築き、父の代には中衰期にあったものの、依然としてかなりの資産を有していました。幼時から多くの典籍に触れて育ちましたが、とりわけ奇書と呼ばれる古今の史書・地理書・山海経図を愛読し、仙人・隠士の足跡に思いを馳せました。科挙に合格して役人になるのは彼の本心ではなく、早々に仕官の道を諦めて名山大川を訪ねる志を持ちました。22歳より旅行を始め、55歳で病のため故郷に戻るまでの30余年、全国の名山大川、海の果て、辺境の地を遍歴しました。東は海を渡り落迦山(浙江省舟山群島の普陀山。観音霊場)に至り、西は騰衝(雲南省。ミャンマーとの国境付近)の西境に...『徐霞客遊記』を読む(1)遊天台山日記

  • 中国の民間玩具、風車(かざぐるま)

    北京の春節の廟会で売られる「大風車」「風車」fēngchēは広く普及した伝統的な民間玩具で、一般には紙、竹、コウリャン殻で車輪を作り、風の力を借りて休みなく回転させます。容易く作れてすぐ遊べるので、子供たちにたいへん人気があります。中国の風車の歴史は古く、唐代や宋代の絵画の中に既にしばしばおもちゃの風車を見つけることができます。例えば南宋の画家、李蒿の筆による『貨郎図』(「貨郎」とは行商人の意味です)の中に小さな風車が描かれていて、行商人の帽子の後ろに描かれています。李蒿『貨郎図』(部分)この風車の構造はたいへん簡単で、三本の細い棒を交差させて六角形にし、棒のひとつひとつの先端に長方形の小旗を貼り付け、中心に軸を取り付け、軸と柄がつながり、小さく精巧で簡単な造りです。こうした風車は宋代に流行したものです。元代の...中国の民間玩具、風車(かざぐるま)

  • 中国の凧(2)中国凧の種類と特徴

    硬翅風筝(沙燕)凧の歴史が分かったところで、今回は凧の種類とその特徴について見て行きたいと思います。尚、中国国内の有名な凧の産地には、北京、天津、山東省濰坊、陝西省西安、河北省保定、江蘇省南通などがあります。(一)凧の造形により表現する題材による区分1.鳥型の凧:鷂(ハイタカ)、鳩、鳳凰、タンチョウ、大雁、オウムなど。2.虫型の凧:トンボ、蝉、蝶、蛾、テントウムシなど3.水生生物の凧:蛙、金魚、ナマズ、つがいのコイ、蟹、オタマジャクシ、イセエビ(ザリガニ)、貝4.人形凧:神話上の人物、歴史上の人物、芝居の人物、例えば孫悟空、寿老人、関羽、張飛、鍾馗、和合二仙(家庭円満を司る仙人、神様)、劉海、許仙、白娘子(白素貞。『白蛇伝』の女主人公)など。京劇の俳優のくま取りの凧(臉譜風筝)を含みます。臉譜風筝(くま取りの凧...中国の凧(2)中国凧の種類と特徴

  • 中国の凧(1)中国の凧の起源と歴史

    伝統的な沙燕風筝中国のおもちゃについて、今回は凧を取り上げたいと思います。今回も、王連海著『中国民間玩具簡史』(北京工芸美術出版社1991年)の内容を元にしています。凧は日本でも平安時代頃までに中国から伝わったようですが、中国では凧はいつ頃生まれたのでしょうか。古書の記述によれば、春秋戦国時代の紀元前5世紀ごろ、墨子(BC470頃~BC390頃)、公輸子(魯班のこと。BC507~BC444大工の始祖とされる)が「木鳶」mùyuān(木製のトンビのような鳥型飛行器具)を制作したという記述があります。『韓非子・外儲説左上』に、「墨子は木鳶を作るに三年にして成り、一日飛びて落ちる」とあり、『墨子』には、「公輸子は竹木を削りて鵲と為し、之を飛ばすに、三日下らず」とあります。これらの書物で、中国の最も古い飛行器具を「木鳶...中国の凧(1)中国の凧の起源と歴史

  • 端午節の玩具・香包と布老虎

    布老虎前回まで、粘土を焼いて作った中国各地の泥人形を紹介してきました。中国の伝統的なおもちゃにはもうひとつ、布で作ったおもちゃがあります。今回は、「香包」と「布老虎」を取り上げます。香包「香包」(におい袋)と「布老虎」(虎のぬいぐるみ)は何れも五月五日の端午節の季節の玩具であり、中国全土に存在します。端午節は中国語圏の伝統的な祝日です。端午節の起源にはいくつか説がありますが、その中でも、特に代表的なものは四つあります。ひとつは「屈原説」。端午節にちまきを食べ、ペーロン、或いはドラゴンボートの競争をするのは、戦国時代、楚の政治家で詩人であった屈原(紀元前4-3世紀)を哀悼して始まったものとされ、端午節は屈原の記念日とされています。ふたつめは「龍の祭り説」。ちまきを食べるのもボート競技も何れも龍が関係しており、五色...端午節の玩具・香包と布老虎

  • 中国の泥人形(8)季節の泥人形、「兎儿爺」

    兎儿爺中国の泥人形について、その歴史や各地の泥人形を紹介してきましたが、もうひとつ、季節の行事で使われる泥人形として、「兎儿爺」を紹介したいと思います。「兎儿爺」tùéryéというのは、中秋節、お月見の時に使われる、粘土で作られた、首から下は人、首から上はウサギの人形のことです。毎年中秋節前に北京の街中で販売されました。清代の富察敦崇は『燕京歳時記』の中でこう言っています。「毎年中秋節になると、市井の手先の器用な人が黄土を捏ねてヒキガエルやウサギの像を作って販売し、これを「兎儿爺」と言う。服を着て冠を被り傘を差したのや、甲冑を纏い旗を帯びたの、虎に乗ったもの、黙って座っているものがある。大きいのは三尺(1メートル)、小さいのは一尺余り(30センチ強)、職人たちが技巧の限りを尽くして飾りたてる。」潘栄陛は『帝京歳...中国の泥人形(8)季節の泥人形、「兎儿爺」

  • 中国の泥人形(7)北京の泥人形

    張玉亭作「吹糖人」(吹き飴細工職人)北京は長い歴史を持つ古都で、金、元、明、清など五つの王朝がここに都を置き、都の歴史は金代より起算すると700年余りとなります。ここは歴代王朝の政治、経済、文化の中心であり、悠久の文化の伝統と、多彩な民間芸術の成果が多く残されています。封建時代末期、清朝政府は貴族階級の享楽を満足させるため、全国各地から職人を徴用し、宮廷内で働かせました。その中には、鳥かごの制作職人、木製玩具の制作職人、キリギリスやコオロギの飼育繁殖者、泥人形の制作職人なども含まれました。天津の「泥人張」の創始者、張明山もそうした職人のひとりでした。今日、北京の故宮博物院には、清代の玩具が数多く収蔵されています。宮廷に入った職人たちは、皇帝や宮中の人々の審美眼、趣味に応じて数々の創作を行いました。そのため宮廷の...中国の泥人形(7)北京の泥人形

  • 中国の泥人形(6)河南省

    淮陽泥泥狗1.淮陽県の泥人形淮陽県(周口市淮陽県)は河南省南部に位置し、古くは「陳州」と呼ばれていました。県内には太昊tàihào伏羲fúxī陵、伏羲画卦台、伏羲白亀池、神農五谷台、宛丘城遺跡など、多くの古跡があり、古くから古代の伝説中の伏羲氏と神農氏という二人の帝王の故郷と考えられてきました。当地の人々は、昔から「人祖爺」(人々の祖先)である伏羲は「太昊陵」に葬られたと伝承してきました。太昊陵は県城の正北1.5キロにあり、現存する御陵の建物は全て明代の遺跡であり、現在は公園になっていて、俗に「人祖廟」と呼ばれています。毎年旧暦の二月二日から三月三日まで、当地の人々は御陵の中で盛大な「太昊陵廟会」を行います。付近のおおむね50キロ内の人々は、廟会見物に訪れます。淮陽の泥人形は俗に「泥泥狗」と呼ばれます。御陵区域...中国の泥人形(6)河南省

  • 中国の泥人形(5)山東省

    聶家庄の泥人形「拴娃娃」1.聶家庄nièjiāzhuāngの泥人形山東省には何カ所か泥人形の産地がありますが、先ず取り上げるのは、山東半島東部の濰坊市高密県(現在は高密市)です。青島市に隣接し、泥人形の産地は県城付近の東聶家庄、西聶家庄、高家庄の三つの村に集中しています。泥玩具の職人には聶niè姓の人が多く、高密泥人形は「聶家庄泥人形」とも呼ばれています。濰坊市高密県(現在は高密市)高密県は有名な民間工芸品の里であり、ここで生産される木版の年画(春節に門や室内に飾る絵画。吉祥の図柄を木版刷りの輪郭に筆または色刷りで彩色する)である「撲灰年画」(明代成化年間(1465-1487年)に始まり、清代に盛んに作られた。柳の枝を焼いて作った灰炭で輪郭を描き、それを上から紙で写し取ることから、この名が付けられた)と剪紙(切...中国の泥人形(5)山東省

  • 中国の泥人形(4)陝西省の泥人形

    麒麟送子(鳳翔)陝西省は歴史上多くの泥人形の産地を輩出してきました。鳳翔県、乾県、安塞県、富県、及び西安市郊外の狄寨、魚化寨などの地が泥人形の産地です。1.鳳翔の泥人形鳳翔県(2021年1月より、これまでの鳳翔県を廃止し、宝鶏市鳳翔区になった)は行政的には宝鶏市に属し、陝西省の省都の省都西安より渭河を遡り、約170キロ西にあります。陝西省宝鶏市鳳翔県鳳翔県の泥人形は陝西省の民間工芸の重要な品目であり、中国西北地域の民間工芸を代表するものです。この地の泥人形は、四つのカテゴリーに分けることができます。①大型の獣の像「大坐虎」、「大坐獅」、「黒白坐虎」などがあり、高さは約60センチ、何れも季節の行事の際の室内の飾りです。②小型の獣の像花馬、花兎、泥牛、泥狗などがあり、大きさは3-15センチくらい。③人物像八仙人、西...中国の泥人形(4)陝西省の泥人形

  • 中国の泥人形(3)河北省白溝鎮の泥人形

    白溝泥人河北省内には泥人形の産地がいくつかありますが、その中でも有名なのは、新城県白溝泥人、泊鎮泥人、玉田泥人、保定泥人などです。ここでは新城県白溝鎮の泥人形を紹介します。白溝鎮は、現在は行政的には河北省保定市高碑店市の管轄となっています。高碑店市の東南部で、東に雄県と接します。雄県は北京市の副都心として建設されている雄安新区の所在地で、白溝も近年は発展が著しく、急速に都市化してきています。北京、天津からだいたい100~120キロの距離にあります。白溝河東岸に位置することからその名があります。白溝と北京、天津の位置関係ちなみに、河北省の他の泥人形の産地ですが、泊鎮は河北省滄州市泊頭市に属します。玉田は河北省唐山市に属します。河北省の東北部で、唐山市の最西端に位置します。さて、白溝鎮は歴史上も重要な民間玩具の産地...中国の泥人形(3)河北省白溝鎮の泥人形

  • 中国の泥人形(2)恵山泥人

    恵山泥人「阿福」中国全土で、泥人形の産地には、以下のようなところがあります。北京市天津市山東省:蒼山県、臨沂市、済南市、黄県、掖県、高密県等河北省:新城県、泊鎮、玉田県、保定市江蘇省:無錫市、徐州市安徽省:阜陽県、蚌埠河南省:淮陽県、浚県、沈丘県、霊宝県陝西省:鳳翔県、富県、西安市等甘粛省:泰昌県四川省:南充市浙江省:嵊県遼寧省:瀋陽市これから、これらのうちの主な産地と、そこで作られる泥人形の特徴を紹介していきます。今回は、先ず、江蘇省無錫市の恵山泥人について、紹介していきます。恵山は慧山とも言い、江蘇省無錫市の西郊に位置し、江南の名山の一つです。山中に泉が多く、またの名を恵泉山とも言い、「天下第二泉」、「龍眼泉」など十数カ所の名所旧跡があります。恵山の東側に錫山という山があり、現在は、2つ併せて錫恵公園となっ...中国の泥人形(2)恵山泥人

  • 中国の泥人形(1)その歴史

    中国へ旅行に行くと、お土産屋さんに粘土を焼いて着色した、かわいらしい人形が並んでいるのを目にします。中国語で「泥人」、「泥玩具」などと言います。産地や作者の名前を付けて、「恵山泥人」、「泥人張」などという商品名が付いています。今回は、こうした泥人形について、その歴史や各産地の商品の特徴について、ご紹介したいと思います。ちょうど手元に、王連海著、『中国民間玩具簡史』と言う本があり、この中で、泥玩具について、約20ページにわたり記述があり、この内容から抜粋したいと思います。王連海氏は現在61歳、北京出身、北京清華大学美術学院で中国民間美術の研究をされています。1.泥人形の歴史泥人形の起源は、墓の副葬品として、死者が死後の世界で寂しい思いをしないよう作られた、いわゆる明器です。これは、その当時、一定の身分や勢力があっ...中国の泥人形(1)その歴史

  • 中国語で読む成語のお話Vol.38「有恃無恐」

    斉の孝公とその軍隊をねぎらう魯の大夫、展喜“有恃无恐”这句成语,出自《左传・僖公二十六年》里记载的关于鲁国大夫展喜劝齐孝公退兵的故事。“yǒushìwǔkǒng”zhèjùchéngyǔ,chūzì《zuǒzhuàn・xǐgōngèrshíliùnián》lǐjìzǎideguānyúlǔguódàfūzhǎnxǐquànqíxiàogōngtuìbīngdegùshi。「有恃無恐」(恃(たの)み有れば恐れ無し)という成語は、『春秋左氏伝・僖公二十六年』に記載された、魯の大夫(長官)、展喜が斉の孝公に撤兵するよう勧めた故事に基づくものである。魯の大夫、展喜春秋时期,齐国经过了历史上著名的“齐桓公变法”之后,国力日渐强大,成为当时各诸侯国的盟主。齐桓公死后,儿子齐孝公继位,他想继承父亲的事业,称雄诸侯。于是,在鲁...中国語で読む成語のお話Vol.38「有恃無恐」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.37「一誤再誤」

    “一误再误”这句成语,出自《宋史》中的《魏王廷美传》和《九朝纪事本末》里记载的一个有趣的故事。“yīwùzàiwù”zhèjùchéngyǔ,chūzì《sòngshǐ》zhōngde《wèiwángtíngměizhuàn》hé《jiǔcháojìshìběnmò》lǐjìzǎideyīgeyǒuqùdegùshi。「一誤再誤」という成語は、『宋史』の中の『魏王廷美伝』と『九朝紀事本末』で書かれた、あるおもしろい話から出たものである。中国の歴史書の編纂方式として、年毎の出来事を記載したのが「編年体」、皇帝や活躍した人物など、人を中心としたものが「紀伝体」ですが、「紀伝体」では内容の重複が起こりますし、「編年体」では記述が切れ切れとなってしまうという欠点があり、これらを補うため、発生した事件ごとにその顛末をまと...中国語で読む成語のお話Vol.37「一誤再誤」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.36「機会不可失」

    “机不可失”这句成语出自《旧唐书》和《新唐书》里记载的关于李靖带兵讨伐东突厥的故事。“jībùkěshī”zhèjùchéngyǔchūzì《jiùtángshū》hé《xīntángshū》lǐjìzǎideguānyúlǐjìngdàibīngtǎofádōngtūjuédegùshi。「機不可失」という成語は、『旧唐書』と『新唐書』に記載されている、李靖が兵を率いて東突厥を討伐したことに関する物語より出たものである。『旧唐書』は、唐の滅亡後の五代十国時代の後晋の時代に劉昫らによって編纂された唐の歴史書ですが、945年に完成したものの、その翌年には後晋が滅びてしまうなど政治情勢が不安定で、その内容の不備が指摘されていました。そこで北宋の仁宗が編纂を命じ、1060年に完成したのが『新唐書』です。李靖(571-...中国語で読む成語のお話Vol.36「機会不可失」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.35「双管斉下」

    晚唐时候,朱景玄写过一本《唐朝名画录》,其中记载有关唐代著名画家吴道子等一百多人的小传,还有对他们画技的评论。“双管齐下”这句成语,就出自这本书里记载的关于张璪绘画的故事。Wǎntángshíhou,zhūjǐngxuánxiěguòyīběn《tángcháomínghuàlù》,qízhōngjìzǎiyǒuguāntángdàizhùmínghuàjiāwúdàozǐděngyībǎiduōréndexiǎozhuàn,háiyǒuduìtāmenhuàjìdepínglùn。“shuāngguǎnqíxià”zhèjùchéngyǔ,jiùchūzìběnshūlǐjìzǎideguānyúzhāngzǎohuìhuàdegùshi。晩唐の頃、朱景玄が『唐朝名画録』を書いたが、その中で、呉道子など百名あ...中国語で読む成語のお話Vol.35「双管斉下」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.34「心腹之患」

    “心腹”,指一个人的心脏和腹部。这些都是人体内非常重要的部分。“患”,指疾患、疾病。心、肝、脾、肺、肾等器官患了病,对人是非常危险的。因此,人们就用“心腹之患”来比喻一些隐藏在重要部位的祸害,形容这些祸害的危险性。“xīnfù”,zhǐyīgeréndexīnzànghéfùbù。Zhèxiēdōushìréntǐnèifēichángzhòngyàodebùfen。“huàn”,zhǐjíhuàn、jíbìng。Xīn、gān、pí、fèi、shènděngqìguānhuànlebìng,duìrénfēichángwēixiǎnde。Yīncǐ,rénmenjiùyòng“xīnfùzhīhuàn”láibǐyùyīxiēyǐncángzàizhòngyàobùwèidehuòhài,xíngróngzh...中国語で読む成語のお話Vol.34「心腹之患」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.33「力不従心」

    班超已经力不从心难以抵抗敌人的侵犯“力不从心”这句成语,出自《后汉书・西域传》和《后汉书・班超传》里记载的关于班超要求从西域回国的故事。“lìbùcóngxīn”zhèjùchéngyǔ,chūzì《hòuhànshū・xīyùzhuàn》hé《hòuhànshū・bānchāozhuàn》lǐjìzǎideguānyúbānchāoyāoqiúcóngxīyùhuíguódegùshi。「力不従心」(力心に従わず)という成語は、『後漢書・西域伝』、『後漢書・班超伝』に書かれた、班超が西域からの帰国を求める話が出典である。『後漢書』は中国南北朝時代、南朝宋の歴史家、範曄(はんよう)により編纂された後漢時代の正史です。『史記』と同じく、紀伝体で書かれ、そのうちの個人の伝記である「伝」の中に、『西域伝』、『班超伝』...中国語で読む成語のお話Vol.33「力不従心」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.32「后来居上」

    在《史记・汲郑列传》和《汉书・汲黯传》里,都记载着有关汉武帝提拔人才的动人故事。Zài《shǐjì・jízhènglièzhuàn》hé《hànshū・jíànzhuàn》lǐ,dōujìzǎizheyǒuguānhànwǔdìtíbáréncáidedòngréngùshi。『史記・汲鄭列伝』と『漢書・汲黯伝』には、何れも漢の武帝が人材を抜擢した、人の心をひきつける物語が記載されている。西汉时期,汲黯、公孙弘和张汤都是汉武帝的臣子,其中汲黯的资历最深。当汉武帝还是太子时,汲黯就在“太子宫”中任职。他为人十分正直,对别人的过失常常当面指责,不留情面。甚至对汉武帝也是直言不讳,毫不畏惧。因此,汉武帝对他很敬畏。Xīhànshíqī,jíàn,gōngsūnhónghézhāngtāngdōushìhànwǔdìd...中国語で読む成語のお話Vol.32「后来居上」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.31「疾風知勁草」

    当风暴来临时,一些草被连根拔起,一些草顽强地迎风挺立着。这些在疾风中挺立的草,就是劲草。Dāngfēngbàoláilínshí,yīxiēcǎobèiliángēnbáqǐ,yīxiēcǎowánqiángdeyíngfēngtǐnglìzhe。Zhèxiēzàijífēngzhōngtǐnglìdecǎo,jiùshìjìngcǎo。あらしが来た時、草の中には根もとから引っこ抜かれるものもあるし、粘り強く風に向かってまっすぐに立っているものもある。こうした疾風の中でまっすぐに立っている草こそが、勁草(強い草)である。“疾风知劲草”这句成语,来源于《后汉书・王霸传》里记载的一个历史故事。“jífēngzhījìngcǎo”zhèjùchéngyǔ,láiyuányú《hòuhànshū・wángbàzhuàn...中国語で読む成語のお話Vol.31「疾風知勁草」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.30「有備無患」

    晋悼公多次召集各国诸侯会盟春秋时期,晋悼公当了国君之后,就想跟他的先祖晋文公那样,重振晋国的威名,使晋国成为各国诸侯的盟主。Chūnqiūshíqī,jìndàogōngdāngleguójūnzhīhòu,jiùxiǎnggēntādexiānzǔjìnwéngōngnàyang,chóngzhènjìnguódewēimíng,shǐjìnguóchéngwéigèguózhūhóudeméngzhǔ。春秋時代、晋の悼公は国王になってから、彼の祖先の晋の文公のように、再び晋の威名をとどろかせ、晋を各諸侯国の盟主にしたいと思うようになった。晋の悼公(とうこう。紀元前587年-紀元前558年)は、春秋時代の諸侯国のひとつ、晋の王で、晋の襄公の曾孫に当たります。即位前は、周の洛邑で学問を積んでいました。厲公(れい...中国語で読む成語のお話Vol.30「有備無患」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.29「山窮水尽疑無路,柳暗花明又一村」

    “山穷水尽疑无路,柳暗花明又一村”,这是一句很常用的成语,它出自中国南宋初期著名的爱国诗人陆游写的《游山西村》一诗。这句成语的意思是这样的:翻过层层叠叠的山峦,越过盘旋曲折的溪流,只见前面群山环绕,好像已经无路可通了;但是路转峰回,走出山口,眼前又是一个柳绿花红的秀丽山村,进入了一个美好的天地。“shānqióngshuǐjìnyíwúlù,liǔànhuāmíngyòuyīcūn”,zhèshìyījùhěnchángyòngdechéngyǔ,tāchūzìzhōngguónánsòngchūqīzhùmíngdeàiguóshīrénlùyóuxiěde《yóushānxīcūn》yīshī。Zhèjùchéngyǔdeyìsishìzhèyangde:fānguòcéngcéngdiédiédeshān...中国語で読む成語のお話Vol.29「山窮水尽疑無路,柳暗花明又一村」

  • 中国語で読む成語のお話Vol.28「驕兵必敗」

    “骄兵必败”这句成语,意思是说,骄傲自大的军队必定要失败。古往今来,无数实例都证明了这个真理。“jiāobīngbìbài”zhèjùchéngyǔ,yìsishìshuō,jiāoàozìdàdejūnduìbìdìngyàoshībài。Gǔwǎngjīnlái,wúshùshílìdōuzhèngmínglezhègezhēnlǐ。「驕れる兵は必ず敗れる」、この成語は、驕り高ぶり、尊大にしている軍隊は、必ず敗北するという意味である。古今東西、数えきれない実例がこの真理を証明している。《汉书・魏相传》记载着一个有关骄兵必败的故事。《hànshū・wèixiāngzhuàn》jìzǎizheyīgeyǒuguānjiāobīngbìbàidegùshi。『漢書・魏相伝』に、「驕兵必敗」に関する物語が記載されて...中国語で読む成語のお話Vol.28「驕兵必敗」

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