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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

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2010/06/24

  • 昔の北京の社寺の縁日の話(2)

    白塔寺白塔白塔寺廟会昔、阜成門を入り、東北の方向を見ると、巨大な白塔が人々の目に入って来る。白塔のある寺院なので、人々は俗に白塔寺と呼ぶ。曾て遼代、ここには仏塔が建てられていたが、後に戦火で壊された。元の世祖の時、遼塔の遺跡の場所に大聖寿万安寺が建立され、ネパールの建築家アニカが中心となりこの巨大な白色のラマ塔を建築した。元末の戦乱で、寺は破壊されてしまったが、塔は残った。明の英宗の時、仏寺が再建され、「妙応寺」の名を賜った。寺内の庭園は広々としていて、山門から塔院の間に、仏殿が分布していた。塔院のちょうど真ん中に白塔がそびえ立ち、塀で囲まれた四隅には一亭が建てられた。白塔寺の廟会は東西両廟の廟会と形式がよく似ていた。いつも廟会の日になると、廟の内外はたいへん賑やかであった。廟内の屋台は東西の両路と塔院の...昔の北京の社寺の縁日の話(2)

  • 昔の北京の社寺の縁日の話(1)

    老北京的廟会(雍和宮廟会、白塔寺廟会)姜尚礼著文物出版社2004年12月出版いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の...昔の北京の社寺の縁日の話(1)

  • 昔の北京の商店の看板(3)

    小旅館幌子柳の枝で編んだ笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。看板の効果招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜し...昔の北京の商店の看板(3)

  • 昔の北京の商店の看板(2)

    万宝号酒店清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。看板の種類招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。焼酒舗幌子酒瓢箪を幌子とするのは...昔の北京の商店の看板(2)

  • 昔の北京の商店の看板(1)

    範緯著:老北京的招幌文物出版社2004年12月第一版発行この本は、文物出版社に保存されていた1930年代末から40年代初頭の北京の店舗看板の写真資料をまとめたものだそうです。看板の歴史招幌(看板)は招牌、幌子の総称で、中国の商業習俗の表現形式のひとつで、また商業広告のよく見られる形式である。幌は伝統的な店舗の標記で、元々布で作った帷幕で、『玉篇』では「幌は帷幔なり」と言う。後に派生して酒旗の専称となり、また酒簾と呼ばれ、唐末には望子と称した。酒簾『広韵』では「青簾(青いのれん)は、酒家の望子。」「望」とは遠くを見ることである。古代の酒家は、門を開けて最初にすることは、酒旗を店門の外に高く掲げ、遥かに望むことができ、これを用いて酒客を呼んだ。張籍の『江南行』では「长干(昔の建康(南京)の里巷(裏町)の名)の...昔の北京の商店の看板(1)

  • 頤和園史話(5)

    万寿山周辺、昆明湖の景観昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。この中軸線の中部にある排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887...頤和園史話(5)

  • 頤和園史話(4)

    頤和園十七孔橋四、美しい頤和園頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次い...頤和園史話(4)

  • 頤和園史話(3)

    慈禧在頤和園仁寿殿前三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしてい...頤和園史話(3)

  • 頤和園史話(2)

    西太后慈禧二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしば...頤和園史話(2)

  • 頤和園史話(1)

    頤和園全景中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。頤和園史話中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の...頤和園史話(1)

  • 北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

    雍和宮打鬼第七節風俗習慣と日常生活上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。風俗習慣清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。...北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)

  • 北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

    第六節北京の園林と廟宇西苑清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば...北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)

  • 北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

    万斯同第五節清前期の北京の学術と文芸活動北京の学者や文士北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座...北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)

  • 北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

    林清天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を...北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)

  • 北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

    順天府衙署第四節清朝の政治体制と民衆の蜂起清朝の北京での地方行政組織清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。順天府清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月1、15日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康...北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

  • 北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

    清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)官営手工業の衰退と民営工房の発達農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色...北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)

  • 北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

    清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制清初、統治者が踏みにじった手工業と商業土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持す...北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)

  • 北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

    清摂政王ドルゴン第一節北京、清朝の都城1644年(大顺永昌元年)4月30日早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。5月3日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一...北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)

  • 北京史(三十八) 第六章 明代の北京(16)

    八達嶺長城長城と居庸関万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く...北京史(三十八)第六章明代の北京(16)

  • 北京史(三十七) 第六章 明代の北京(15)

    十三陵北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきん...北京史(三十七)第六章明代の北京(15)

  • 避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

    磬錘峰(けいすいほう)有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古...避暑山荘(その7)奇峰異石十大景

  • 避暑山荘(その6)外八廟(2)

    普陀宗乗之廟(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺...避暑山荘(その6)外八廟(2)

  • 避暑山荘(その5)外八廟(1)

    承徳外八廟・普寧寺避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年)康熙帝玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。1767年2月普陀宗乗之廟の建設に着手、1771年...避暑山荘(その5)外八廟(1)

  • 避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

    永佑寺舎利塔湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。試馬埭曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがお...避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区

  • 北京史(三十六) 第六章 明代の北京(14)

    慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)第五節明代の北京の文化寺院と園林明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』)これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多く...北京史(三十六)第六章明代の北京(14)

  • 避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

    避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立...避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

  • 北京史(三十五) 第六章 明代の北京(13)

    北京城第五節明代の北京の文化北京城の建設明の北京城は元の大都城の基礎の上に建設され、後に清朝で流用されることになり、元の大都城よりもっと雄大で壮麗であった。元の大都の旧城は周囲60里(30Km)、全部で11の城門があった。1368年(明の洪武元年)、大将軍徐達が元の大都城を攻め落として占領し、その城の範囲があまりに広く、守備に不便であったので、次第に広々とした北部は放棄し、東西の両方の城壁と北側の光熙、粛清の二門を廃棄し、元の北城壁の南5里に、別途新たな城壁を築き、相変わらず二つだけ北門を開け、元の安貞門を安定門に改め、健徳門を徳勝門に改め、同時に東壁の崇仁門と西壁の和義門を東直門と西直門に改め、それ以外の七門は旧来通りとした。(光緒『順天府志』巻1『城池』)内城西直門甕城、城門楼、甕城門楼、箭楼、護城河...北京史(三十五)第六章明代の北京(13)

  • 避暑山荘(その2、宮殿地区)

    避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。避暑山荘宮殿地区避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの...避暑山荘(その2、宮殿地区)

  • 避暑山荘史話

    中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。一、康熙北巡と避暑山荘創建康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)...避暑山荘史話

  • 北京史(三十四) 第六章 明代の北京(12)

    雑技第五節明代の北京の文化民間の技芸と歌謡明代中葉以後、都市住民と商工業者の文化娯楽の需要を満足するため、北京の街頭の講談(説書)、弾詞(江蘇、浙江の語り物)、琵琶、雑技も空前の隆盛を迎えた。琵琶を弾くのは北京でたいへん盛んになり、多くの店舗の前には「琵琶教えます」という張り紙が貼られた。歌姫たちは皆、陳大声の小曲を愛唱し、「聞く者を生き生きした表情にさせる」ことができた。陳大声は明代江南の著名な散曲(元曲の一形式で、せりふが入らない)家で、名を陳鋒といい、彼は微に入り細に入り人々の生活を思いやることができた。彼の作品は人々を褒め称えた。それゆえ彼の散曲を、各地の人々は皆喜んで聞き、愛唱した。北京の講談も、琵琶の伴奏を多用した。講談の演者の多くは最も圧迫を受け、最も蹂躙された男女のめくらで、彼らは「古今の...北京史(三十四)第六章明代の北京(12)

  • 北京史(三十三) 第六章 明代の北京(11)

    国子監第五節明代の北京の文化明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。統治階級の北京での文化統治明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試と殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に...北京史(三十三)第六章明代の北京(11)

  • 北京史(三十二) 第六章 明代の北京(10)

    山海関第四節北京での大順政権(続き)大順政権の経済措置李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷...北京史(三十二)第六章明代の北京(10)

  • 北京史(三十一) 第六章 明代の北京(9)

    大順政権による「追贜索餉」第四節北京での大順政権(続き)大順政権の政治措置時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中...北京史(三十一)第六章明代の北京(9)

  • 北京史(三十) 第六章 明代の北京(8)

    李自成軍北京入城第四節北京での大順政権李自成の農民軍が北京に進軍明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。明末農民蜂起蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性...北京史(三十)第六章明代の北京(8)

  • 北京史(二十九) 第六章 明代の北京(7)

    明朝第14代万暦帝、在位1572-1620年第三節北京の政治(続き)北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発...北京史(二十九)第六章明代の北京(7)

  • 北京史(二十八) 第六章 明代の北京(6)

    劉六、劉七農民蜂起第三節北京の政治(続き)劉六、劉七が指導した農民蜂起劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著)だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪...北京史(二十八)第六章明代の北京(6)

  • 北京史(二十七) 第六章 明代の北京(5)

    明英宗第三節北京の政治明朝が北京に遷都(1421年)以後、その最高統治集団、皇帝、王公、宦官、皇帝の親族、朝廷の大小の官僚たちは全て北京に集まり居住し、膨大な全部で78衛に分かれ、48万人いた軍隊が北京に駐屯した。北京は明帝国の政治、軍事の中心で、また全国最大の封建堡塁(ほうるい)であった。明朝朝廷は北京から中国全国各地に政令、軍令を発布し、中国全土の階級的矛盾や統治階級内部の矛盾が、ここ北京で集中的に反映していた。明朝地主階級統治の強化廠衛の北京での罪悪活動成祖の永楽年間(1403年-1424年)から英宗の正統年間(1436年-1449年)初頭までが、明朝が最も強盛だった時期である。中国全土に亘って生産が一定の回復と発展が見られ、階級間の矛盾が比較的緩和され、明代の地主階級統治が比較的安定し、明の太祖洪...北京史(二十七)第六章明代の北京(5)

  • 北京史(二十六) 第六章 明代の北京(4)

    都城隍廟第二節北京の経済(続き)商業の繁栄明朝廷の商人に対する苛斂誅求永楽初年、北京の商業はまだたいへん不景気(蕭条)で、当時は「商人(商賈)がまだ集まらず、市の喧噪(市塵)はなお疏(まれ)」で、城外の交通はたいへん困難で、城内は至るところ広い空地であった。ここに建都後、明朝朝廷は前後して皇城の四門(大明門、東安門、西安門、北安門)、鐘鼓楼、東四牌楼、西四牌楼、及び朝暘、安定、西直、阜成、宣武各門付近に、数千軒の民家を建築し、一部は「民を召集し居住」させ、一部は「商人を召集し貨物を居」き、何れも「廊房」と呼んだ。このようにして、街の様子(市容)はかなり賑やかだった。その後、運河が通じ、北京と通州の街の内外で、また前後して多くの新しい「客店」と「塌坊」を建設した。「客店」は専ら客商(行商人)を呼び寄せ休憩さ...北京史(二十六)第六章明代の北京(4)

  • 北京史(二十五) 第六章 明代の北京(3)

    瑠璃廠第二節北京の経済(続き)手工業官営から民営へ元末の農民蜂起以降、元々ずっとモンゴルの支配者の官営の手工業部門で働いていた職人たちも、一定程度は解放された。明朝の支配層は手工業の職人を引き続き使役するため、職人を交替制の当番(輪班)と家住み(住坐)の二種類に分けた。職人たちは定期的に皇室のために使役される以外に、いくらかの自由時間でちょっとした手仕事で生計を立てた(営生)が、このことは明代の手工業発展にとりたいへん有利であった。永楽の遷都で、明朝朝廷は18万戸を交替制当番の職人とし、定期的にグループ毎に北京へ来て使役に就くよう規定した。三年或いは四年毎に一回当番(輪班)に当り、各戸から職人を一人出すので、推計で毎年北京に来て使役に就く職人は4万5千人余り、季節毎だと1万1千人余りであった。この他、更に...北京史(二十五)第六章明代の北京(3)

  • 北京史(二十四) 第六章 明代の北京(2)

    染牙雕瓜蝶洗(北京故宮博物院蔵)第二節北京の経済北京は1421年(永楽19年)から正式に明帝国の首都になった。この時、南北を貫く大運河が既に開通し、全国各地の商品と物資が川の流れのように絶え間なく北京に運ばれた。農業、手工業生産の技術もここで広範な交流を得て、北京の経済は顕著に発展した。皇帝を頭に功績を上げた王族(勲戚)、宦官、官僚、地主から成る明朝の最高統治グループも大挙して北京城に引っ越して来た。北京の農業、手工業、商業も突出して封建統治者に服務し、北京は全国最大の消費都市となった。農業と土地の占有関係元末の農民戦争は蒙古貴族の統治を打ち倒し、同時に漢族地主階級に極めて重い打撃を与えた。蒙古貴族と若干の漢族地主は彼らが元々権勢を頼みに占有していた一部分の土地を放棄するよう迫られ、農民と地主の緊張関係は...北京史(二十四)第六章明代の北京(2)

  • 北京史(二十三) 第六章 明代の北京(1)

    大明太祖朱元璋第一節北京への遷都1368年(明太祖の洪武元年)8月明軍が大都に攻め入って後、明朝統治者は大都を北平府に改称し、ただちにここに地方行政機構、北平布政使司を設立した。この時、北平はもう全国の首都ではなくなったが、政治、軍事上は依然として重要な地位を占めていた。明朝統治者はここを蒙古統治者の北方、東北の残余勢力から防御する主要拠点とした。応昌に逃げた蒙古貴族(応昌は今の内蒙古自治区達里泊(達来諾尔、元の捕魚儿海)付近)は、従前のように北平を奪い返し、明朝と対抗しようとした。明代辺境の各民族と内地の関係は継続して強化され、各族の統治者は政治上明朝と隷属関係を保持し、各族の人々と漢族の人々の経済、文化の付き合いは一層頻繁になった。当時、蒙古地方の統治者は明朝と対立する地位に処せられていたが、蒙古族の...北京史(二十三)第六章明代の北京(1)

  • 北京史(二十二) 第五章 元代の大都(10)

    頤和園内、耶律楚材祠第三節大都の文化(続き)園林名勝白雲観、東岳廟大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人、邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。白雲観大門「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不...北京史(二十二)第五章元代の大都(10)

  • 北京史(二十一) 第五章 元代の大都(9)

    郭守敬第三節大都の文化大都の文化(続き)科学技術元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。司天台(古観象台)また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、...北京史(二十一)第五章元代の大都(9)

  • 北京史(二十) 第五章 元代の大都(8)

    元曲作家、関漢卿第三節大都の文化大都の文化文学芸術元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、...北京史(二十)第五章元代の大都(8)

  • 北京史(十九) 第五章 元代の大都(7)

    「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した第三節大都の文化大都の文化理学の伝播理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。趙復は燕京に...北京史(十九)第五章元代の大都(7)

  • 北京史(十八) 第五章 元代の大都(6)

    元順帝(トゴン・テムル)第二節大都の政治経済情況元末の農民大蜂起の衝撃下の大都財政破綻の大都元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦儿(トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木儿が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑...北京史(十八)第五章元代の大都(6)

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