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マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
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2009/07/20

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  • 本当の遜りとは

    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ人への手紙7章24節自分で頑張って、自分の人生ぐらい、自分で切り開いていかなければ、人に頼る事は弱いって言うことは、百も承知です。でも、それでも、どうしょうもないこともある。それはあなたの命そのもののことです。私たちはみな罪人であり、罪には必ず刑罰があります。しかも、これは自分の力では、その罪に打ち勝つことが出来ないとすれば、私たちは全く絶望です。誰かが私に力を貸してくださって、救ってくださらない限り、私は滅んでしまうのです。この「自分はみじめな、滅ぶべき罪人である」との自覚が、何よりも大切です。病気の人が自分の病を自覚しない限り、治療の必要を認めないように。滅びを意識しない者は、救いの必要も感じないので...本当の遜りとは

  • 神にはできないことはない

    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・。」伝道者の書3:11それ故「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」詩編95:2讃美を一つ「神には出来ないことはない動かし得ない山はない鎮められない嵐はない慰められない嘆きはないもし主イエスが世界の重荷を負いあなたを愛しているならあなたの重荷を負い何処までも共に歩いてくださる主は招く「疲れた者来たれと」いま・・・もし主イエスが世界の重荷を負いあなたを愛しているならあなたの重荷を負い何処までも共に歩いてくださる」HeWillCarryYou(歌・小田彰)主の家族よ、心から讃美をささげよう。まだ主イエスに出会っていない人々よ、神はあなたを大切に想っておられます。(ぐー終了につきはてなブログへ移行します名前は「メッセンジー」で...神にはできないことはない

  • 泥かぶら

    いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。Ⅰテサロニケ5章16~18節「泥かぶら」のお話をご存知でしょうか。とても醜い女の子がいました。あまりにも醜いので泥んこのかぶらと皆にあざけられていました。ある日、旅のおじいさんが美しくなる秘訣を教えてくれました。「いつもにっこりと笑うこと」です。悪口を言われると暴れそうになる自分を抑えてにっこり笑うのです。旅のおじいさんの教えを実行していくうちに、泥かぶらは変わっていきます。ある日、村に人買いが来て、泥かぶらを一番いじめた梢という子を連れたいこうとします。両親がなく姿を見て、自分には親がいないから代わりに行くというのです。人がいに連れていかれながら、村の生活がどんなに楽しかった話すのですが、それを聞いて人買いの冷たい心が温められ、あ...泥かぶら

  • 終らせよう

    私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです新改訳聖書わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。新共同約聖書ピリピ人への手紙4章13節私たちは、いろんなことに否が応でも嫌になることに直面することがあります。そのことの中にあって、得ることもあり、また失うことも多くあるのです。しかし、年を重ねていくのに応じて。失っても、得ても、それほどの違いはないことを知るようになって行きます。ただ、若いときは、それに心を奪われてしまうと言うことが問題でした。今まで、全てを犠牲にして、あらゆる願いも退け、あらゆる感情も捨て、愛というものも、この人生から締め出し、人への思いやりも捨てて、自分の意思を強固にして、なりふかまわず走ってきた結果得たものは、本当の満足ではなく、実にむなしいもので...終らせよう

  • どちらかな

    「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」申命記11:27~28彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。・サムエルの人間的な勝手な判断、私たちも、陥り易い罠、知識と経験が、また自分の思い込みによって霊を曇らせる。・主は三節で「あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」と命じられています、・このところでは、「この人に油を注げ」と言われていないのに、サムエルは勝手に自分の考えで判断してしまった。・神に先立って、自分の考えで判断することが間違いの最...どちらかな

  • 神から

    万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。ロマ11:36神は最後に、人間を創造されました。(それは、非常によかった、と有り。)人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。どう違うのか。????伝道者3:21だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。伝道者12:7ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。へブル9:27そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創造主の神にこの霊を返さなければならないので、「霊的な歩み」即ち、日々の生活の中で神の御心を成すように求められる、それ...神から

  • この愛が

    あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命記4章24節私たちがまだ神にそっぽを向いているときにでさえ、ご自身の独り子を死に渡すことさえされたのです。ここに愛があるのです。私たちは申命記を通して、私たち人間が普通に考える「愛」と神の愛の違いを知ることができます。あなたを滅ぼしたくない、誰にも渡したくない。妬むほどあなたを愛された、神の愛はご自分の命をすべてあなたに与えておられるのです。この愛に応える従順な者には祝福となり、逆らうものらは裁きとなって現れてくるのです。神はあなたを自分ものとしたいと、願っているのです。それは、私たちが神を自分のものとすることではなく、私たちが神のものとなる、これこそ恵みの中心です。この世界に満ちている「この世の愛」とは奪う愛だと言われますが、あなたに示された「神の...この愛が

  • 応えようとされる神

    主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。詩編130篇1節ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「やめる気になればいつでもやめられる」と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。そして第三の段階は、もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき...応えようとされる神

  • 期待の約束

    「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死なく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21章4節究極の慰めが、新しいエルサレムにおいて与えられます。私たちがこの地上に生まれてくるときから持っている矛盾、つまり生まれてきたのに、死ななければいけないという矛盾の中で、私たちは悲しみ、叫び、苦しみます。イエスさまが、ラザロの死を悼むマリヤの姿を見て、涙を流され、憤られましたが、それは死が人類に対して、どうすることもできない叫びと悲しみをもたらすからです。けれども、イエスさまが死に打ち勝たれて、打ち勝たれただけではなく、最後にはこのように死そのものが滅び去るのですそこであなたに神がともにおられるという慰めの讃美をお贈りします「なぜ」作詞津村とみ...期待の約束

  • どっちにつきますか

    「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」ヨハネ12:26現在、地球には、何十億人という人がいます。それらの人を大きく二つに分けるとすると、次のように分けることができます。一組は、イエス様を信じている人たちです。もう一組は、イエス様を信じていない人たちです。そして、私たちは、このどちらかに属します。どちらに属するかは、とても大切なことです。片足をあちらに、もう一方をこちらにしていると疲れますよ。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わ...どっちにつきますか

  • 私の子たちへ

    「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」Ⅰコリント8章3節まず知っておきたいことは神を知るのではなく、神に知られているとあります。愛するご自分の子どもとして、知られていることを。少しおませな子、少しおくての子、少しヤンチャな子、少し消極的な子、突走てしまう子、賢い子、楽しい子、愉快な子、できる子もできない子も、み~んな、私の子。でも、私としては少しもどかしく思うと神は言われる。子たちよ、何故、私の前に出るのに、取り繕っている、何故、構えて私の前に来てまで、善い子ぶるのでしょう。こんなにも、私はお前たちを愛しているのに。さあ、そのままでいいからその笑顔を私に、見せておくれ。愛するすべての子達へ天の父よりまず神が私を愛された、私が神を愛したからではなく、私の良い所だけを見られたのでもな...私の子たちへ

  • 一番大切なもの

    いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。ルカの福音書12章23節それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」それから...一番大切なもの

  • 覚有情

    わたしがフェイスブックで毎週シリーズで投稿している「覚有情」から少しお贈りします「覚有情」(約束)・・ロマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」・・神のための益か・・私のための益か・・ここには大きな隔たりかあるように見えるが・・真実はどちらも神の栄光となるという事です。・・私の喜びは神の喜びという自負はありますか・・理解不能だが神の計画があることを知ろう・・神を信頼して神に主権を明け渡していこう・・もうすでに御存知だと思いますがもう一つ知ることがあります・・神はとてつもなくあなたを愛しています・・この神を「知的知識」としてではなく・・「体験をした知識」となられますように・・シャロームそしてマラ...覚有情

  • 尊い特質

    「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18章12節人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。この風潮が、私たちの目をくらまして真実を覆い隠しています。もう遅すぎるという前に、今こそ襟を正しましょう。来るべき、神の大審判より救われる、安全地帯は、キリスト・イエスの十字架の贖いの他にはありません。・・・聖書また箴言が教える、二つの尊い特質は、謙遜と主を恐れることです。・・・箴言22:4「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」コロサイ3:12「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」「私どもは、自分を見...尊い特質

  • 神のみ

    人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」詩編58編12節新共同訳こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」同新改訳物事を公平に正しく見極めることは必要ですが。あの人が悪い、この人が悪いと裁く態度は、裁く当人にとっても精神衛生上非常に悪いばかりか、時々問題を大きくしたり、物事を混乱させます。イエス・キリストは、あの有名な山上の説教の中で「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」ルカ6:37といわれています。パウロは言いました。人間が正しいとされるのは、決してやましいことが一つもないと...神のみ

  • 試練と恵み

    「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」エレミヤ書29章11~12節試練の日は恵みの日でもあるのです。危機は転機でもあるのです。失敗は新しい段階へのスタートなのです。これは、自分の目で見れば、幸いどころか災いしか感じることができないような状況の中で与えられた約束です。私たちの人生がこれからバラ色になるという約束ではありません。むしろ、困難な中にあっても得ることができる幸いをここでは約束しているのです。問題が無くなった、嬉しい、これでさっぱりした、と喜んでも、また問題が次から次へ起きてきます。切がないですね。でもキリ...試練と恵み

  • 全て麗しい

    「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・・。」伝道者の書3:11それ故「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」詩編95:2HeWillCarryYou(歌・小田彰)「神には出来ないことはない動かし得ない山はない鎮められない嵐はない慰められない嘆きはないもし主イエスが世界の重荷を負いあなたを愛しているならあなたの重荷を負い何処までも共に歩いてくださる主は招く「疲れた者来たれと」いま・・・もし主イエスが世界の重荷を負いあなたを愛しているならあなたの重荷を負い何処までも共に歩いてくださる」主の家族よ、心から讃美をささげよう。まだ主イエスに出会っていない人々よ、神はあなたを大切に想っておられます。ソロモンは、神が良い方だから、その永遠の計画の中で時を定めておられるはずで...全て麗しい

  • 神はあなたを喜ばない

    それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒の手紙5章4節人は、他者を愛すると言いながらも、本当の自分の心の奥底を見るにつれ、自己中心であり、物欲と名誉心を求めやすい者です。人生それで押し通せることもありますが、しかし、神は、騙されるような方ではないのです。それなのに、騙しとおせると思っているのです。神を馬鹿にするにもほどがあります、あなたのことを誰も知らない、知るはずがないと思っておられますか。でも、神はあなたのことを一番よく知っています。なぜなら、神はあなたを心から愛しておられるからです。そのあなたのことを、いつも見ておられます。その、神の愛にあなたも応えて頂きたいのです。よく覚...神はあなたを喜ばない

  • 渇き

    見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。アモス書8章11節少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必ず来ると言うのです。主の、み言葉を聞きたくっても、誰も語らない、誰もそれを解き明かさない、どこにも救いの招きがなくなるということは、世の最後と言うことでしょうか。いや。これはある人たちにとってはとても素晴らしいことなのかもしれませんね。暗闇に住み出てこない人々のことですが、神がこの人たちに計画している事は、永遠に愛のない世界に住まわせる事。しかし、神の御心は全ての人々を救いに入れたいと言う、今、まだ神の...渇き

  • 叫び求めます

    主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。詩編130篇1節人は追い詰められ、出口の見えない深い淵にまで落ち込まないと自分の罪が見えない。「もうだめだ。もう終わりだ」、その極限に追いつめられて人は主を求め、叫ぶ。この体験をした者は絶望の淵にあってもなおも希望を持つ。なぜなら神は「罪に目を留める」方ではなく、「憐れまれる」方であることを知る故だ。ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「やめる気になればいつでもやめられる」と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。そして第三の...叫び求めます

  • 揺るがない希望

    けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。ピリピ人への手紙3章20節私たちの目がこの世という地に向いているのか、希望に燃えた神の国に向いているのか。それが聖い生活を歩むことができるかどうかの鍵であります。「私たしの国籍」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝...揺るがない希望

  • キリストの力

    すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。Ⅱコリント12章9節全文「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」これは、クリスチャンが試金石とすべき根本的な真理です。クリスチャンの力は、自分の弱さの中に現われるということです。私たちは絶えず、神によって、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされます。神は、私たちの夢、野心、期待がそがれていき、これでもかと言わんばかりに、私たちを低くされます。そして、私たちが低くされたときに初めて、神は、「わたしの恵みは、あなたの十分である。」と語ってくださるの...キリストの力

  • わが家へ

    しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。へブル11章16節人生とは神の国を目指す旅であり、私たち信仰者は寄留者です。信仰者の本籍は天にあります。それゆえに神は一点において、私たちに誇りを持ち、喜んでおられたことがあった。それは、神が用意してくださっている天の都をあこがれていた、ということです。ピリピ3:20「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」ピリピ1:23「私は、その二つのもの(死と生)の間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほう...わが家へ

  • 神に愛された人

    だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。エペソ人への手紙5章29節「いまだかって、自分を憎んだ者はいません」と聖書は言うのです。自分を愛して当然です、これを自己愛と言います。ただ、自己愛は行き過ぎると、自己憐美に陥ります。そしてこれは、とんでもない悪魔に変身してしまうです。しかし、聖書の言う健全な自己愛は、自分を愛するように自分の隣人を愛しなさいと言う言葉にかかってきます。そういう意味で、本当に自分が愛され、また、そのような自分自身をそのままで受け入れ愛してくださった方がおられることを知る、これが本当の自己愛ではないでしょうか。自分を愛せないで、他者を愛することは不可能なことですし、それは自己満足、自己欺瞞です。父なる神があなたを愛し...神に愛された人

  • 神の命令は

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。人生の現実は不条理に満ちており、人は不条理に負けて、挫折する。しかし、そのどうにもならない不条理の現実の中で、イエスを信じてすべてを任せ、身を投じ...神の命令は

  • 呪いと祝福

    「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」申命記11章27節~28節新しい契約においては、キリストを信じる者は、すでに聖霊によって神の証印を押されており、キリストにあって神のうちにいる者にされていることです。キリストにあってすべての天にある霊的祝福を受けています。ですから、イスラエルのように、神に従順だから祝福されて、不従順であればのろわれるということはありません。しかし、です。その、キリストのうちにいる自分というのを信仰をもって見つけていかなければいけません。新約においては、神がキリストにあってなされ...呪いと祝福

  • 信じたから・・・ ?

    労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。Ⅱコリント11章27節私たちが信じた後、とおらなければならない道。(信仰×試練=信仰-カス+忍耐=円熟したクリスチャン)しかし、もし出来るならば通りたくないと言うのが本音でしょう。誰もが、苦しみから解放されたいと願いますが、何処にも、苦しみの無い人生などと言うものはありません、信仰を持ってクリスチャンになったとしても、それは苦しみに出会わない人生を意味するものではありません。(それどころか、聖書にはあなた方はこの世にあって艱難がありますとはっきり記されています。)では、信仰を持つと言う事は、一体何を意味するのでしょうか。それは、苦しみに出会わない人生ではなく、苦しみはあるけれども、苦しみによって潰...信じたから・・・?

  • 神のあわれみ

    「・・・。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」Ⅱ列王記4章26節あなたの死に出会ってもわたしの魂は悲しみに屈しない死は長い別離ではないそれは蔓を伸ばしていき塀の向こう側で花を咲かせる薔薇の蔓のようなものではないか死は人を隠すものではあるが人と人とを分かつものではないあなたはキリストの側に行っただけなのだあなたはキリストと共におりキリストは私と共にいてくださるキリストにあって私たちはいまも結び合わされている「荒野の泉」12月3日の記事より死とは辛く悲しいものです、それはその死が全てであるかのように思うからです。もちろん一時の別れは辛いものですが。しかし。キリストを主と信じ受け入れた者にとっては死も生も私たちには影響を及ばさない。主イエスは言わ...神のあわれみ

  • 自由とは

    「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」ヤコブ2章8節全地を創られた神はご自分の姿にかたどって造り、その上に自由意志というものをお与えになりました。そして、人間は神に逆らうと言うことを覚え、そのために、自分自身を滅ぼすことさえできるようになりました。これは一つの大きな謎と言えます。現在私たちの目前でみられる色々な現象はこの謎の恐ろしい一面です。しかし人間はまた他方で、この自由意志のために、自ら進んで神に仕え、隣人のために尽くし、永遠の救いを勝ち取ることもできるのです。なんと大きな違いでしょうか。神からいただいた「自由」を自由に使いこなすことは悪いことではないが、一致、真理、そして隣人への愛のため...自由とは

  • 飢饉が来る

    見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。アモス書8章11節少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必ず来ると言うのです。主の、み言葉を聞きたくっても、誰も語らない、誰もそれを解き明かさない、どこにも救いの招きがなくなるということは、世の最後と言うことでしょうか。いや。これはある人たちにとってはとても素晴らしいことなのかもしれませんね。暗闇に住み出てこない人々のことですが、神がこの人たちに計画している事は、永遠に愛のない世界に住まわせる事。しかし、神の御心は全ての人々を救いに入れたいと言う、今、まだ神の...飢饉が来る

  • パラダイスへのチャンス

    イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカの福音書23章43節イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるようになったのです。彼はまだ十字架につけられています。その苦しみを受け続けています。けれども、罪の赦しを得たのです。イエスの祈りが、この犯罪人において聞かれたのです。私たちの主とともに、十字架につけられた二人の強盗の一人、ラスト・チャンスを掴んだ、最高にラッキーな人物。ある物語では。彼はイエスに出会うのはこれが初めてではなく、二度目だと言うことです。一度目は、主が両親と、エジプトへ逃れる途中でであったと言う物語があります。勿論彼は、その時から強盗でしたが。日本のことわざに「終...パラダイスへのチャンス

  • 自信がないかも

    「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」Ⅰコリント1章10節私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。私たちの目は、キリストに向けられているのですから、同じキリストを見つめている人たちとの間には、同じ思いと同じ判断が与えられるのです。クリスチャンの一致とは、ロボットのように、すべてのことにおいて同じように考え、同じように行動しなければならないのではありません。そうではなく、イエス・キリストという生けるお方と交わるところにおいて一つとなっているのです。でも、みんなと同じ思いになるなんて私には...自信がないかも

  • 私の只中に

    「私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」詩編42編9節私たちに否定的な思いを持ってくるのは、霊的には悪魔、悪霊どもの言葉です。が。私たちが落ち込むのは、悪魔が行なっていることではありません。しかし、悪魔は鬱になっている感情を使って、私たちに神がいることを疑わせるような声をかけてきます。それに屈してはいけません。「主にある愛する方々よ、あなたはこのみ言葉の質問に答えることができますか。なぜこのように繰り返して喜びの代わりに悲しみが訪れるのか、その理由を見出すことができますか。なぜあなたの心がいつまでも暗くふさぎ込んでいるのを。そのままにしておくのですか。夜が朝へと変わることなど決してないと、だれがあなたに告げたのですか。不満...私の只中に

  • 私は恐れない

    「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」ヨブ40章4~5節世渡り下手で、付き合い下手のおじいさんが、チョコチョコと言いたいことを知らせたい。まず一番に、皆さんは、苦しいとき、辛いとき、悲しいときにどうされていますか。ぐちぐちと長い祈りをそれも一方的に要求する祈りをしてはいませんか。今日からは、口に手を当てて。主のなされることをじっと待つことをしましょう。そして主の御名をこう呼ぶのです。アドナイ・ラア(主は私の羊飼い)詩篇23:1アドナイ・イルエ(主は備えたもう)創世記22:14アドナイ・シャロム(主は平安)士師記6:24アドナイ・ロフェ(主は癒し主)出エジプト...私は恐れない

  • パン屑に大きな祝福が

    「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節彼女は娘のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。イエスのお答えも「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、ベンゲルという人は、「彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた」と言っております。彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。た...パン屑に大きな祝福が

  • この方以外には

    「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」使徒の働き4章12節「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」江戸川柳より「可能であれば平和を、しかしどんな犠牲があろうとも真理を」ルターここまで徹底的に、真理をそのまま伝えている言葉がないと言ってもいいほどです。大胆というのは、こういうことです。権威や圧力から自由にされて、真実に、良心をもって神に仕えることのできる自由です。私にたとえ知識が無くとも、教理を知らずとも、主は私の神である事には変わりがない。神が私の神になってくださったという、このことこそが私たちの恵みであり、喜びの基盤です。この世には救い主だと自認するお方が多くおられますが、ただ、十字架にかかり甦られた主が、私の主。このお...この方以外には

  • 偽善

    「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。」ローマ2章1節ローマ1:29~31「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。」このように語ると、「これは、私には当てはまらない」とみなし、そして、「ああ、あのような人たちのことね」と他人行儀にする姿に対して、パウロは福音の真理に基づく光を当てます。確かに、そのような人たちは、人間的には、他の人々より道徳的な生活をしているのかもしれません...偽善

  • 私って何

    万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。ローマ11章36節ほんとうに、アーメンと言うことしかできませんね。すべての原因は神であり、その過程も神であり、目的地も神なのです。神は最後に、人間を創造されました。(それは、非常によかった、と有り。)人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。どう違うのか。????伝道者3:21だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。伝道者12:7ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。へブル9:27そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創...私って何

  • あなたの心はどっち

    「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。」詩編119編32節私たちは「広い心」を持っいるでしょうか。それとも「狭い心」を持っているでしょうか。「広い世間を狭くして渡る」という言葉がありますが、今日は、狭い心とは何かを考えてみましょう。第一に、それは劣等感で狭くなった心です。劣等感とは、実際のところ何の関係もなく、自分が劣っているとか、無価値だとか、生きていく自信がないという感情です。そこから始まる、自己嫌悪、自己否定になってしまうという感情です。要は、自分と何かまたは誰かとを比較する所にあります。しかし聖書の神はそうは言っておられないのです。それどころかあなたは素晴らしいと言われるのです。有るすばらしい働きをし、多くの人々に手助けをして助け。人々から本当に尊敬を受けて...あなたの心はどっち

  • 仕えるとは

    「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」ヨハネ12章26節現在、地球には、何十億人という人がいます。それらの人を大きく二つに分けるとすると、次のように分けることができます。一組は、イエス様を信じている人たちです。もう一組は、イエス様を信じていない人たちです。そして、私たちは、このどちらかに属します。どちらに属するかは、とても大切なことです。片足をあちらに、もう一方をこちらにしていると疲れますよ。あなたは真実にどちらに属しておられますか。今日、潔く主に平伏しましょう。黙示録3:15~16「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あな...仕えるとは

  • あなた次第です ・・・・ が。

    「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」伝道者の書2章11節自分の人生、どう使おうと勝手だ。そう、その通りですか゛。全てが自分のためになるとは、限らないのです。人の現在の生き方を、決めるものは、その人の未来観でしょう。神か、富か、どちらを取ると言われたら、多くの人は富のほうに手を出すことでしょう。まだ、富のはかなさを知らないからではないからでしょうか。富は、永遠にはあなたのものとはならないのです。そのことは十分に知っているはずなのに、この世での刹那的なひと時に人生を求めてしまう。弱いわたしたちです。三つの選択この世においてか・・・・。あの世においてか・・・・。この世も、...あなた次第です・・・・が。

  • 故郷へ

    ややにちかしあまつわがやこころにえがきてわれはまてりそなえられしわがすまいはかがやけるまちのなかにぞある聖歌364よりへブル11:16しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。天の故郷です。地上に思いをはせるのか、それとも天におもいをはせるのか。地上も捨てたものではないですが、天に比べたら、地上は月とスッポンです。だから、この地上における不便も喜んで耐え忍びました。ピリピ1:23私は、その二つのもの(死と生)の間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。クリスチャンは、単に後の世のこ...故郷へ

  • カナンの地へ

    けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。ピリピ人への手紙3章20節「しかし、私たちのふるさとは天にあります。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。」同3:20リビングバイブル「心は躍るよ心は躍るよカナンの地想うだに我が胸躍るよ」ヨルダンの彼方に。聖歌642番より一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、...カナンの地へ

  • なぜ私なのか

    万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。ロマ11章36節神は最後に、人間を創造されました。(それは、非常によかった、と有り。)人間は他の造られた物と違って、神のかたちに造られています。どう違うのか。????伝道者3:21「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」伝道者12:7「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」へブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」獣には「?」が無いので、「死」とは、チリに帰るだけ。しかし、人間はそうでなく、創造主の神にこの霊を返さなければならないので、「霊的な歩み」即ち、日々の生活の中で神の御心を成すように求...なぜ私なのか

  • 神のことばとして

    「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」ヨハネの福音書17章8節イエスが人々に伝えるのは、自分の言葉ではなく、神から託された真理の言葉なのです。教会が神の言葉以外には、何も指示したり定めたりしないことを、私たちは知っています。(たとえ愛する牧師先生でも、牧師先生の経験や知識を語るならそれは神のみ心とは言えません。人の悟りというものは間違うと言うこともあるからです。聖書のみ言葉自体に神の恵みと力があるのです。)もしそうでない教会があるとすれば、キリストが言われるように、それはただの名前だけの教会です。もっと言えば教会というものが主のおられないただの建物のこととなってしまっ...神のことばとして

  • 私の恵みの主

    「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」使徒の働き4章12節ここまで徹底的に、真理をそのまま伝えている言葉がないと言ってもいいほどです。大胆というのは、こういうことです。権威や圧力から自由にされて、真実に、良心をもって神に仕えることのできる自由です。「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」江戸川柳より「可能であれば平和を、しかしどんな犠牲があろうとも真理を」ルター私にたとえ知識が無くとも、教理を知らずとも、主は私の神である事には変わりがない。神が私の神になってくださったという、このことこそが私たちの恵みであり、喜びの基盤です。この世には救い主だと自認するお方が多くおられますが、ただ、十字架にかかり甦られた主が、私の主。このお...私の恵みの主

  • 愛の模範

    「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節イエスが愛されたというのが基準です。弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。私たちはしばしば、おそらく無意識に、愛から何が得られるかを考えてしまう。この愛が私に何をしてくれるのだろうとおもう。神の愛と私たちの愛の違いなんと違うことでしょう。しかしこの命令は、イエス・キリストを通して示された神の愛に基礎づけ...愛の模範

  • 満ちたるために

    「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」マタイ5章6節「ああ、飢えて死のうとする人が食物を求めるように、あるいは、渇いて死のうとする人が水を求めるように、全な義を慕い求める人の、幸いよ!その人は本当の満足を得ることができるであろう。」バークレ―訳自分自身のありのままの姿を見た人は、義に対して飢え乾きます。自分の正しいと思っていた行いは、神の目から見たら汚いぼろきれのようなものです「幸い」とは、神の祝福を受けた者としての喜びです。必ずしも自分が成功することではありません。「義に飢え…」とは、神との正しい関係、神のみ心に従うことをひたすら求める人のことです。この人の追及は飢えや渇きが満たされるまでやむことはありません。このような人を神はご自身との正しい関係に入れてくださるのです。さて、...満ちたるために

  • 神を褒め称えよ

    「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」詩編150編6節「神を賛美することによって、世界の意味が満たされるのであり、神の力の豊かさをほめ歌うことによって天と地の相異なる二つの声が力強いシンフォニーによる讃美へと一つに結ばれるのである。」A・ヴァイザ―詩編の最初の言葉は、「アシュレー」(幸いなことよ。)でしたが。最後は「息のあるものはみな、主(ヤハ)ほめたたえよ」で閉じています。この最後の詩編で、私たちに讃美の総動員をかけています。どうして聖書は「神をほめよ」「神を賛美せよ」というのでしょうか。第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮と言う代価によって救われた私たちが「喜んで」いたら、神は本当に喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛している者たちが、うなだれて、悲しんでいるなら...神を褒め称えよ

  • あきらめないで

    「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」ルカの福音書18章1節私たちの主イエスは、いつでも、どんな時でも絶えず祈れるように、たとえを用いて話されました。「絶えず」「いつも」という表現はこの当時画期的な表現でした。当時のユダヤ教では、「神を絶えざる祈りで煩わせるな、一日三回より多く祈るべきでない」と教えていた。神を畏れず(恐れず)人を人とも思わない裁判官のところに、非力な貧しいやもめが助けを求めてやってきました。あまりにひつこく訴えるので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」とイエスは言っています。私たちはどんな問題で...あきらめないで

  • そのままでいいよ

    わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4主はご自分の選びのゆえに、ご自分の召しと贖いのゆえに、イスラエルをこよなく愛されています。この愛は、キリストにあって私たちにも注がれています。私たちは神の愛の中で、特別な存在です。ところで、ここで「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。ここで大事なのは、神の目によって高価なのだということであり、私自身の中には価値があるわけではないということです。ですから、自分の内に何か価値あるものがあるのかという自分探しはやめてください。代価を支払ってご自分のものにしたいと願われる神、この神を見つめてください。自分探しではなく神探しであります。「『そのままでいい』どれぐらい信じているかな「そんなこと言うけれどこれしなかったらダメなん...そのままでいいよ

  • 愛する子たちへ

    「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」Ⅰコリント8章3節ここに、「神に知られるのです」と書かれています。神を知るのではなく、神に知られているとあります。「私はクリスチャンです。私は神を知っています。」と言うことから、他の人が、「あの人はクリスチャンなんだ。神があの人と一緒におられるのだ。」と、神に知られている人に変えられていきます。少しおませな子、少しおくての子、少しヤンチャな子、少し消極的な子、突走てしまう子、賢い子、楽しい子、愉快な子、できる子もできない子も、み~んな、私の子。でも、私としては少しもどかしく思うと神は言われる。子たちよ、何故、私の前に出るのに、取り繕っている、何故、構えて私の前に来てまで、善い子ぶるのでしょう。こんなにも、私はお前たちを愛しているのに。さあ、そ...愛する子たちへ

  • 神は待っておられる

    すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。Ⅱコリント12章9節全文「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」人間の持つ高慢さぐらい始末におえないものはありません。あなたは高慢ですねと言われるよりも遜った人ですねと言われる方が心地よいものです、そして、そう私はそうなんですと言ってのけるのが高慢さなのでしょうか。心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。(絶対にです。)しかし、この高慢と言うものは自分ではなかなか判らないもので、神から示されれば聞く耳はあるが、あなたにだけは言わ...神は待っておられる

  • 慕い求めます。

    私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。・・・。イザヤ26章9節うれいもおそれもきえさるなりいのちをあとうきよきみ名にいかなるけがれもきよめつくさんちしおのちからのあるかぎりは聖歌90ああ言葉の限りよりあなたは誰をまた何を待ち望むのでしょう。この世の当てにならない、またはかなく消えゆくものに人生の全てを費やしてはなりません。真実にあなたを愛するお方がおられます。このかた即ちキリスト・イエスを知っていただきたいのです。私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。1コリント11:3...慕い求めます。

  • 待っておられる

    主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。詩編130篇1節ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「やめる気になればいつでもやめられる」と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。そして第三の段階は、もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき...待っておられる

  • 一つに

    ひとつのみ歌に声合わせなばひとつの敵にもついに勝をえん御国にのぼりて御神に会おう日一つの喜び我ら受くべし聖歌297より一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。自分のことではなく、キリストのことを思うことです。私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。1ヨハネ1:3「わたしたちが見、また聞いたこ...一つに

  • どちらも幸いです

    ややにちかしあまつわがやこころにえがきてわれはまてりそなえられしわがすまいはかがやけるまちのなかにぞある聖歌364よりピリピ1:23「この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(同)私は、その二つのもの(死と生)の間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。へブル11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。聖書には死後のことも、...どちらも幸いです

  • 主の御名

    ・・・、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。Ⅰサムエル17章45節B主は私の(牧者)であって、主は私と(共)に歩んでくださり、私が病み悩むときも(癒)してくださる神です。また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵み持って(備)えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。主は私の頭の上にある(旗)ですと宣言するとき、(主の)(平安)が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。(万軍)の主であり、(全能)の神だからです。牧者(ローイ)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。詩編23:1口語訳共に(シヤンマー)その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。エゼキエル48:35癒す(ラファ―)わたしはあなたをいやす主である。出エジプト15:26備え(イルエ)「主の山に、...主の御名

  • 頼れるお方は

    「主はこう言われる、『おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる』。」エレミヤ17章5節人に頼ることも、偶像礼拝に関わります。神以外に頼っているものがあれば、それが偶像ですから、人に依存することも偶像です。もちろん、私たちは互いに必要です。けれども、神から与えられた交わりであり、その交わりそのものが第一となってはいけないのです。あくまでも神の礼拝が第一であり、それから互いに交わりであり、人との関係であります。「のろわれる」とは怖い話です。なんだか神から脅されているように聞こえますが、そうではありません。神の「のろい」「刑罰」はあなたの選択と決断によって、自らが引き寄せているものです。雨降りのなかに傘も差さずに出て行けば必ず濡れます。しかし、屋根の下に入れば濡れません...頼れるお方は

  • 平和の基本

    「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」ピリピ2章3節~4節自分はできていない、駄目なのだというのはへりくだりではありません。むしろ高慢ですらあります。自己憐憫というのは、未だ自分のことばかりを考えているのであり、自己中心的です。自分を神と隣人のために忘れていること、それがへりくだりの結ぶ実であります。一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。自分のことではなく、キリストのことを思うことです。英語ではJOYというのは、初めにJ(Jesus)、次にO(Others)、それからY(you)です。初めにイエスを、次に他の人たち、それからあなたとなっていれば...平和の基本

  • 人はみな草のようだ

    「声が聞こえる、『呼ばわれ』。わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ』。」イザヤ40章6節人の世に生きていると、物質文明の絶頂期にあるため、人の力とわざが際立ってみえます。しかし、神の目からご覧になると、まことに「人は草」のように弱く、小さな存在です。大地がチョット揺れると、一瞬にして瓦礫となって、命を失います。まことに脆い、はかないものです。それを忘れて、人が何者かであるように思うなら、必ず報いをうけるでしょう。詩篇40:7「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ」主の時が来れば、ここでは「主のいぶきがその上に吹く」とありますが、主がご自分の意思一つで、これら人間の栄光をしぼませることがおできになる、ということです。...人はみな草のようだ

  • 望郷

    けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。ピリピ人への手紙3章20節「心は躍るよ心は躍るよカナンの地想うだに我が胸躍るよ」聖歌642番より(ヨルダンの彼方に。)一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしい...望郷

  • 渇いていますか

    見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。アモス書8章11節これが、今日を警告している言葉であると言えないでしょうか?御言葉はたくさん語られています。アモスが獅子のように吼えたように、この世に対する神の声は至る所に聞こえています。主の奉仕者、御言葉を語る者が、もっともたくさん起こされなければいけません。どんどん、御言葉を、神のご計画全体を伝え聞かせなければいけません。こんなに分厚い聖書が、私たちの目の前にあるのです!これを読ませ、教え、悟らせる必要があるのです。少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必...渇いていますか

  • 微笑み

    ほほえみは、お金を払う必要のないものだが相手にとってはひじょうな価値をもつものだほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わないフラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまるどんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しくいかに貧しくても、ほほえみの功徳によって飛んでいる家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる疲れたものには休息に、失望するものには光になり悲しむものには太陽、さまざまの心配に対しては、自然の解毒剤の役目を果たすしかし買うことの出来ないもの、頼んでも得られないもの借りられもしない代わりに、盗まれないもの、なぜなら自然に現れ、与えられるまでは、存在せず、値打もないからだもしあなたが、誰かに期待したほほえみを、得られなかったら...微笑み

  • 真実は

    いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。ルカの福音書12章23節さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。まず、頭をつかって優先順位を考えることです。着ている物と体であれば、もちろん体の方が大事です。体を隠すために、温めるために着る...真実は

  • 近くにおられた神

    「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」詩編10編1節見ず知らずの道でも。寂しい道でも人目につかない場所でも、ひとりで歩いているのではない、あなたの足跡が近くにあるから。たとえ今苦しみと虐げの只中であっても神は見ておられる虐げにあうとき、苦しむとき、私たちは、主の御名という砦があります。頼るところがあります。「虐待された人々はみな、主のもとに来ます。主は苦しんでいる人々の隠れ家です。」詩編9:9神を見ることができなかったら、話しかけてみよう。神が見えなくとも、そこにおられることがわかっているように語りかけてみよう。必ずこたえが聞こえてくるはず。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に...近くにおられた神

  • 食べ物

    ・・・・・。神がその人を受け入れてくださったからです。ローマ14章3節「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」「私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方が誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい」クロムウェル教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛...食べ物

  • 愛がないから

    彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカ10章27節神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。神を知っている、私たちが、世の光、地の塩でなければならない私たちが、ぜんぜん、神のことを理解していないために、私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、それでこそあなたの内に私は生きるのです、とても、とてもじゃないですが、出来ません、そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、私には不可能、出来ません、ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。従う事こそ、理解への道。ガラテヤ5:1...愛がないから

  • 元気のために

    今日は聖書からではなくキリストの平和からの証ですさて、皆様方はこの一年間にどれほどの感謝をささげることができたのでしょう。キリストの平和は健康のためにとても良いものです物です。多くの人達の心や体が病んでいる最も大きな原因は何でしょうか???それは怒り、憎しみ、赦せない心です。それらは、あなたがたの心や肉体を蝕み、様々な病気を引き起こしますもしそういうものがあなたの心にあるのならば、主イエスのみ前で告白し、悔い改めていきましょう。そして、その代わりに、キリストの平和が心を支配してくださいとお願いをしましょう。キリスト・イエスの平和に勝る薬はありません。この薬はネットでも買えませんましてや市販の薬屋さんにもありませんあるのは主イエスのみ体である教会にて無料で手に入れることができます。やっぱり聖書のみ言葉が必要...元気のために

  • クリスマスを

    「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス、この日には二千年以上にわたって、世界中の人が祝っていますしかしこのヨハネ3章16節の恵みを知っているならこのクリスマスを神に感謝し神のみ前にひれ伏す時としたいこの礼拝こそが真実のクリスマスです。賑やかなクリスマスもいいですがこのクリスマスをイエスと二人っきりの喜びの日としませんか信じ、希望し、愛する。この三つは昔からキリスト教が人間にとって最も大切なこととして教えてきたことです。心の深いところで強く信じ、広やかで肯定的な希望を抱き、心身を費やして人を愛することを忘れてしまったのでしょうか。その結果、多くの...クリスマスを

  • 隠れ家

    わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。詩篇71編3節何とかして自分で擁護する、あるいは他の人たちに擁護してもらうことを願います。しかしダビデは、「あなたこそ、私の巌、とりでです。」と主こそが擁護してくださる方であると宣言しています。人生の海のあらしにもまれ来しこの身も不思議なる神の手により命びろいしぬ※いと静けき港に着きわれは今安ろう救い主イエスの手にある身はいともやすしかなしみと罪の中より救われしこの身にいざないの声もたましい揺すぶること得じ※くりかえしすさまじき罪のあらしのもてあそぶまにまに死を待つはたれぞただちに逃げこめ港に※くりかえし聖歌472よりあなたには、身も心も委ねきれる、逃れの場所がありますか。その所は本当に安全でしょうか。...隠れ家

  • 真実の自分を

    「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」黙示録3章17節「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない」というのは、いまの自分の生活に満足している姿です。もちろん主にあって満足する心は大事ですが、ここでは、神がなくとも、キリストがいなくても、別に大きな支障はないとする心です。自己満足の状態に対して、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」と言われています。私たちの自己評価と、主の評価とは、このように正反対になるほど異なることが多いです。私たちは人と比較して、「自分はそんなに悪くない」と思ってしまいますが、私たちが比較すべき対象は、...真実の自分を

  • なに弁慶

    「私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。」詩編101編2節人は自分の家の中でどのように歩むかが大切です。よく「内面」と「外面」と言いますが、私自身も含めて、外面は大変良いけれども内面の悪い人が多いのです。(あんたには言われたくないよ。と言われそうですが)外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、家の中では我が儘で自分勝手で、ありがとうもおはようも、ごめんなさいの言葉もないと言うことがあるのではないでしょうか。(家の中にこそ、本心が出るところはありません)聖書に出てくるノアはいろいろ欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアの告げ、そして神に...なに弁慶

  • 祈り

    「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」詩編72編7節これは公正と平和を願う祈りです。(今この地球全体の願いでもあります。)天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われてい...祈り

  • チャンス

    「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」ルカ13章8節番人は肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。さて、いちじくの木はイスラエルの民を表しています。主人は父なる神、番人はキリストです。神はキリストを遣わされて、さまざまなしるしを彼らの前に示されました。ここに、『見なさい。三年もの間、やって来ては、・・・・。』とあります。神は実がなることを期待てその木を植えられました。が。その木には葉ばかりで実がありませんでした。この三年という数字、実はイエスの公生涯はこの時点でおおよそ三年が経過していました。神はその一人子を通して実がなることを期待しておられました。ここにさばきの遅延と神のあわれみと忍耐とを見ること...チャンス

  • 高くされるために

    「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ14章11節これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。本当の謙虚さとは、人ではなくキリストを見つめることにあります。ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くすると言うことです。ここを狙われると信仰は崩れます。何故でしょうか。まず第一に、神にゆだねることができなくなります。人生には、自分の思いどおりに恵まれる時があり、恵みも喜びも感じられないときもあります。信仰とはこのようなときにも神に自分の身をゆだねますが、高ぶる者はこれが出来ません。次に悔い改めが出来なくなります。...高くされるために

  • 貧しいとは

    「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」ルカの福音書6章20節今通りゆく人たちにこう言う質問をしたら一体どういう答えが返ってくることでしょう。「あなたにとっての貧しとはなんでしょう。」今私たちの生活は必要最低限の衣食住は守られています。「衣食足りて礼節を知る」と言うことばがありますが、本当に貧しいのは心と心の貧しさ、人を思いやることの貧しさ、優しい言葉をかけることのない貧しさなどではないでしょうか。マザー・テレサは、インドのカルカッタのロレット修道院の経営する学校の教師でした。そこには美しい庭があり、中流階級の子供たちが学んでいました。しかし、修道院の外では、食物のない人々、家のない人々等々、貧困の世界がありました。マザー・テレサはこの状態に心を痛めていました。そしてあるとき、「貧...貧しいとは

  • 究極的目的

    「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」伝道者の書2:11地上の人生の成功の意味は何なのだろうか。スティーブ・ジョブズはアップル社を創業し、この世的には栄華を極めたが、56歳ですい臓がんのために亡くなった。彼は生前「墓場で一番の金持ちになるなんて何の意味がある」という言葉を残している。ジョブズの言葉「墓場で一番の金持ちになるなんて何の意味がある。今日は最高だったといって眠りにつく。私にはこっちのほうが重要なのだ」。旧約続編シラ書14:12-17「次のことを心に留めよ。死は必ずやって来る。しかし陰府の定めはお前には示されていない・・・お前が苦労して得たものは、他人の手に渡...究極的目的

  • 主の家に住まう

    「たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。」詩篇27編3節まず知っていてほしいことは、いろいろな面で攻撃を受ける時に、審判者であられる主が戻ってこられることをです。神に信頼する時、何者をも恐れない生き方ができます。このような安心を得たいと多くの人々は努めているのではないでしょうか。しかし、金銀財宝を積み蓄えようとも、この平安を得ることはできません。むしろ、そのようなものから離れて、退路を断ち、神のみに心を委ねることが幸いです。あなたの「頼むところ」はなんでしょうか。そして、私にとって生涯の願いは「主の家」に住むことです。ここにこそ、神との絶えざる交わり、神の現臨の中での平安が豊かに在り、それらは私のため...主の家に住まう

  • 神の哀れみに、縋りつく

    「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17章10節神が人を見る視点は顔かたちや、はでなパフォーマンスではなく、外に現れた現象に囚われず心深くに隠れた動機を探られます。また、様々な試練を通して私たちの思いを知ろうとなさるのです。ある意味で怖い話ですが、神に真実に従い、赤裸々に自分をさらけ出しているなら、なにも恐れることはいりません。神は私たちを知り尽くしてそれぞれに応えてくださるのです。ダビデはこう祈っています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」そして彼は続けて、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」傷ついた道を知らされることに...神の哀れみに、縋りつく

  • 謙遜と高慢

    人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。「私どもは、自分を見てへり下るのではなく、十字架のあの方を、見てへり下るのである」マ―レ「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18:12「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」箴言22:4高慢は破滅に先立ちます。そして高慢の現われとして、人の訴えや話を聞かないというものがあります。自分で勝手に解釈して、自分の都合の良いようにしてしまうことも、「よく聞かない」ことになります。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」コロサイ3:12平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。この風潮が、私たちの目をく...謙遜と高慢

  • 委ね切って

    「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。しかし、彼女は娘のために、イエスに取りすがります。だが弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。イエスのお答えも「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわり...委ね切って

  • 安心して

    「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6章31節「養って下さる神の存在を信じる」時に、人は思いわずらいから解放される。まことの神を知らない人の特徴というのが、神を知らないがゆえにそういったことに(衣食住)心配していると言うのが特徴です。神は私たちが思い煩うことを喜ばれません。それどころか、嫌われます。なぜなら、神は「天の父」であって、私たちはその子供たちだからです。親が付いていながら、子供が心配したり、思い煩って落ち込んでいれば、親は悲しむでしょう。信頼されない親ほど、情けないものはありません。ですから、神は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです。自分の子を養うことが父の大きな喜びなのです。養われる神がおられる、導かれる神がおられる、支えられる神が...安心して

  • あなたには何の権利もないのです

    「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」ルカ6章41節別な訳ではこうです。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」「自分の目に材木が入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのでしょう。」私たちは、イエスを見つめることなくして、他の人を見つめることがしばしばあります。イエスを仰ぎ見た後に他人を見るのではなく、自分自身を見なければいけません。自分のことは棚に上げて人の弱点をとやかく言って裁きがちな私たちに、大切なことを気づかせてくださいました。私たちはどうしても自分に甘く、他人に対しては厳しくなりがちです。(私はあなたとは違うという思いと、私は正しいという心がこのよ...あなたには何の権利もないのです

  • 祈り

    「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」詩編72編7節これは公正と平和を願う祈りです。(今この地球全体の願いでもあります。)天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われてい...祈り

  • 謙遜と大胆さ

    「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。「パン屑はいただきたい」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。彼女を動かしていたのは、愛です。...謙遜と大胆さ

  • 私の主が執成しを

    「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8章34節神の義によれば、私たちは罪ありと訴えられます。けれども、今は、神の義は、キリストを信じる者を義と認めることにおいて現れました。したがって、私たちを訴えることができるものは、誰一人、何一つありません。私たちが肉の弱さのために、罪を犯してしまっても、キリストは私たちのために弁護され、とりなしをされます。「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべき罪の罰を、わたしが変わりに受けました。」ととりなしてくださるのです。私たちの罪のために死なれただけでなく、神の右の座で執り成しをしてくださっているので、私たちを終わりまで救うことがおできに...私の主が執成しを

  • 神の国の市民です

    「けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。」ピリピ人への手紙3章20節まず最初に、「神の国の市民」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。と言うことをしっかりと信仰として、日常の生活に植え付けてください。一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってき...神の国の市民です

  • 無用です。

    だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。マタイの福音書6章34節この不安定な時代、確実なものを見出しにくい時代。明日の事に思いを馳せ、思い煩いやすい者です。思い煩いの原因それは、恐れるということでしょう。ではその原因とは何でしょうか。40パーセントが、これから起ころうとすること。30パーセントが、過去にあったこと。12パーセントが、有りもしないこと。あとの残りが、人間関係です。以上が、恐れの原因でしょう。世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物が溢れるようになった社会に心の病が始まるということです。物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。けれども物が溢れているところに、私たちは物そのものに仕える誘惑が増えます。そして物...無用です。

  • 一緒に

    「すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」出エジプト33章14節クリスチャンもそうでない人も問題を持ちます。同じ不幸が押し寄せます。病にかかるとクリスチャンは、なかなか薬を飲まないそうです。それは自分が病気にかかっていることを認めたくないし、クリスチャンが特有に持っているプライドがあるからです。でも、私たちはまったく同じように問題を持ちます。違いは、主がともにおられるか、そうでないかであります。主がともにおられるかそうでないかによって、その人がクリスチャンかそうでないかの決定的な違いがあるのです。主は私を見上げて、「さあ。来なさい」と。愛の慈しみに満ちた瞳で私を下から見上げている。どうしょう。踏み出せば良いだけの事なのに、何かが、私を後ろに尻込みさせる。それは、私の自我...一緒に

  • 疲れた ???。最後の一歩

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている休みを得る事はできないのです。神を知るというのは、いわゆる...疲れた???。最後の一歩

  • そのままで、

    わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節ここには、主ご自身が自ら「わたしはあなたを愛している」とイスラエルの民に語ったフレーズのある有名な箇所です。このフレーズは本来「主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった」主の民に対して、主が語っている一方的なラブ・コールなのです。いわば片思いの愛です。名も知らない方の詩を紹介します。「『そのままでいい』どれぐらい信じているかな「そんなこと言うけれどこれしなかったらダメなんでしょ?ああならないといけないんでしょ?何の役にも立たなかったら、見放すんでしょ?だってこのままの私が愛されるはずない、だからムチ打って働いているよ、疲れているのにあなたのためだから、愛してくれるのでし?」でも神さまの愛はそんなんじゃない。「その...そのままで、

  • 鍛錬

    「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」Ⅰテモテ4章7節悪いものから守られるのは、悪いものがいかに悪いかを知ることよりも、むしろ健全な教えによって自分を整えることに他なりません。私たちは敬虔のための健全な教えはないがしろにして、知らなくてもよいような事柄に多くの時間を割きます。しかし聖書ほど矛盾や錯誤に満ちた書はありません。それだけに、細かく詮索すれば、膨大な論争の種になりますが、それは「俗悪で愚にもつかない作り話」です。それよりも、聖書の言葉を単純に信じて、みことばが語る神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神を敬う訓練をしましょう。説明できなくても、首尾一貫しなくても、信じて喜び、安心を得て、感謝が絶えなければそれ以上の幸いはありません。鍛錬

  • 人の怒りと神の義

    「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」ヤコブ1章20節ここで言っている人の怒りとは、妬みや争いから生じている怒りです。私たちは、自分がいつのまにか自分の義の中に陥っていないか、心を見張っている必要があります。神の名を使いながら、実は神の義ではなく自分自身の義に陥っていることです。しばしば言われるのは、「正しいと言い張るのが、正しくない。」であります。正しいと言い張ると、そこには柔和さがなくなります。憐れみがなくなります。へりくだりがなくなります。しかし、これらこそが神の義に至るものであり、自分の理解する正しさではないのです。私たちはその心をイエスの十字架の血潮のゆえに消し去っていただかなければなりません。「義」とは正しいことですが、絶対的に正しい方は神以外にありません。人はとかく「自分は...人の怒りと神の義

  • 今日 楽園に

    イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカの福音書23:43私たちの主とともに、十字架につけられた二人の強盗の一人、ラスト・チャンスを掴んだ、最高にラッキーな人物。イエスは死なれる時に、一人の人を確実に救いへと導かれました。ある物語では。彼はイエスに出会うのはこれが初めてではなく、二度目だと言うことです。一度目は、主が両親と、エジプトへ逃れる途中でであったと言う物語があります。勿論彼は、その時から強盗でしたが。日本のことわざに「終わりよければ、すべてよし」と言う言葉がありますが。あなたにとって人生の終わりとはどんなものでしょう。主イエス・キリストは、いつもあなたに、手を差し伸べて。あなたにチャンスの用意をしてくれています。あなたはこのチャ...今日楽園に

  • 知識と悟り

    しかし、心にひそむ罪を、どうして知りえましょう。どうか、隠れた罪からもきよめてください。故意に悪に走ることからも引き止め、守ってください。そうすれば、私は過ちを犯さず、大きな罪からも逃れることができます。私の口のことばと、秘めた思いが、神様に喜ばれますように。ああ、私の岩、私の救い主、主よ。詩篇19扁12~14節リビング・バイブル松明に・・?知識と悟りの区別について。「知識があるという事は、」・・・道を照らそうとして、松明を使う事。「悟ったとは」・・・松明になる事神学校で何年か学び、それで悟ったつもりで、人々に語り、果てには、愛の御言葉で、人々を傷付けていた私、その時思ったのです。「この人たちは信仰が弱いから、私の勧めが理解できないのだ」と。なんと高慢な者でしょう。知識だけを振り回し、そこに何の実体もない...知識と悟り

  • 極限の愛

    あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命記4章24節ここに、とても大事な神の本質がここに書かれています。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」とあります。これは、ヘブル書にも引用されている主の本質です。「神は・・・である」という言葉が聖書にはいくつかありますが、例えば「神は愛です。」はその一つです。「神は光です」というのもあります。そしてここでは、「焼き尽くす火です」というのもあるのです。主は私たちのためにキリストを十字架につけました。「神が愛だというのは良いんだけれども、別に十字架にまでかかってくれなくて良かったのに。」と私たちの人間的な思いは言います。けれども主は熱情を持っておられます。私たちが罪の中で死に、その状態でご自身がお裁きになるのを神ご自身が最も嫌がっておら...極限の愛

  • 正直に

    異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。箴言20:10いくら混ぜても、かき回しても、混ざらない、いくら共に話し合いをと接点を見つけようとしてもそれは無理、水と油そのような関係。どちらも、これだけは譲れないとしたら、葛藤と言うことばがあります。なぜこのような心の状態になるのでしょう。「葛藤」とは、二つ、もしくはそれ以上の何かに心が満たされているゆえです、善し悪しは別として、一つの方向に向かっている時、人はこれも良し悪しは別として魅力的に感じるものです。しかし、人は神に向かって真っすぐの向うとき、まことの命、まことの力をいただけるのです。その人はさらに魅力的になります。そして、真理は一つ、たとへ、このことで排他的と言われようが、このことは絶対に譲れない、それ以外はすべて譲ったと...正直に

  • 祈りなさい

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗い暗い井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のど...祈りなさい

  • どんな神ですか

    あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46章4節背負う神と、背負われる神。人が背負わなければならないのが世の神々であり、人の重荷を背負われるのが真の神。人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし、神は「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。...どんな神ですか

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