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プロフィール
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ハレルヤおじさんさんのプロフィール

住所
垂水区
出身
姫路市

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ブログタイトル
マラナ・タ
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/malanata
ブログ紹介文
私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   
更新頻度(1年)

50回 / 365日(平均1.0回/週)

ブログ村参加:2009/07/20

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ハンドル名
ハレルヤおじさんさん
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マラナ・タ
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マラナ・タ

ハレルヤおじさんさんの新着記事

1件〜30件

  • 解放

    「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ1章20節石川啄木の歌の中に「人という人の心に、ひとりずつ囚人がいて、うめく悲しさ」というのがあります。立派に見える人の心にも、罪に捕らわれた囚人がいて、それをどうすることもできずに呻いているというのです。このような罪の束縛や敵対関係の中に、イエスの十字架が起こったのです。神と私、人と人の間に、わだかまっている敵意や憎悪は、どんな小さなものであっても、誰の力でも取り除くことができないものです。ただイエスが十字架において、血を流すことによってのみ取り除かれ、和解し、平和はつくりだされたのです。神は「和解させてくださった」のです。神と...解放

  • 出会い

    この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ヨハネ12章21節人生を変えるような出会いがあります。また、そのような大切な事とも気が付かなく、過ごしてしまう出会いもあります。聖書の中には、イエスに是非お目にかかりたいと求めて、新しい人生の光を見出した人々のことが記されています。議会議員のニコデモも、異邦人の百人隊長も、憎まれ者の徴税人ザアカイもそうでした。しかし求めるべきお方がイエスだとわからなくても、心の中に永遠を求め、愛を求め、いのちを求め、光を求めた人々に対しては、イエスのほうからしばしば彼らの前にお立ちになったことも事実です。このブログに来られた皆様は、このような人生の出会いを、すでに経験されたことがおありでしょうか。(おっと、...出会い

  • 奴隷に

    「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」マタイ6章24節私たちはクリスチャンになるにあたって、神の奴隷になるか、お金の奴隷になるかの決断をしなければなりません。「お金もたくさんためて、それでクリスチャンとして生きれば、なんと素晴らしい人生が送れるのだろうか。」というのは不可能なのです。自分は主のしもべであることのはっきりとした決断をして、自分に与えられている財産はすべて神のものであるという認識に立ち、いかにしてこれを神を愛するために用いていくことができるのかを考えるべきです。金銭(富)は、私たちが神に仕えていないかぎり、私たちを神のように支配することになります。金銭...奴隷に

  • 神からの知恵

    「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」口語訳「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」新改訳第三版「知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」新共同訳伝道者の書1章18節「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」とあります。だからと言って、「知恵や知識を得ても悩みや悲しみを増すだけだから、そのようなものは必要ない」と考えることは浅はかな考えです。このことばが意味することは、上からの知恵、神についての知識がなければ、結局のところ、「新しいもの」に触れることができず、「虚しさ」的な悩みと悲しみしか得られないということなのです。人類はバベルの塔の如く、知識を蓄え、知恵を増し加えました。その結果、本当に幸福になったのでし...神からの知恵

  • 愛について

    「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」Ⅰコリント13章4節本当の愛、無条件の愛というのは、主イエスによるしかないと思いますが、ここに、ヴァージニア・サターの詩が、とても味わい深いのでアップします。私はあなたを、束縛せずに愛したい判定せずに称賛したい侵入せずに結ばれたい強制せずに誘いたいうしろめたさなしに別れたい責めることなく評価したい見下すことなく助けたいあなたも同じようにしてくれたらふたりはほんとうに出会いお互いを豊かにできるでしょうここにあるのは単純な愛の賛歌ではない。愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事なのです。感情は消えるが、信仰に基づく愛は永続する。終末の時、異言も説教もすたれるが、愛は滅びない。愛について

  • 戦われる神

    「彼らの顔が侮りで覆われるなら/彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。」共同訳「彼らの顔を恥で満たしてください。【主】よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。」新改訳詩篇83扁16節人に見られると恥ずかしい、人に見られると恥ずかしいと思っても、誰にも見られず、分からなければ恥ずかしいとは思わないという面があります。しかし、突然のように、心に光が差し込んで、人の前で恥じるのではなく、神の前に自分の卑しさ、罪深さを知り、悔い改め、神の絶大な愛の中に飛び込むことができるとしたら、神の前に恥を知ることはになんなと大切なことでしょう。その先には、罪の暗さも惨めさも完全に追放された、まるで長いトンネルから抜け出したような明るい生活があるのです。自分の力で人前を飾る戦々恐々の生き方ではなく、幼子のように神を...戦われる神

  • 私にしたことです。

    すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』マタイ25章40節王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。そして、イエスは、ここに出てくる人々を「わたしの兄弟たち」と言われています。とても感謝なことです。初めてこの日本を訪れたマザー・テレサの言葉を今でもはっきりと...私にしたことです。

  • 選ばれた者。

    「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」ルカ6章12~13節ルカのいう「使徒」はパウロのいう「使徒」とは少し意味合いが異なります。パウロの言う「使徒」は個別的意味合いが強いのですが、ルカの言う「使徒」とはあくまでも12弟子による共同体的・教会的「使徒」を意味しています。私たちはとかく、「自分」がいて、そして「聖書」があって、そしてそこに書かれてある教えを自分に当てはめようとする自己修養を目的とします。そして、ここに書いてあることができていないといって自分を責めたり、また自分が何か活動をしているから自分は立派なクリスチャンだと思いこみます。そういった自己修練でも、自己実現の場でもないのです。...選ばれた者。

  • 裁くな。

    「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」マタイ7章1節人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までを裁きます。けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちは裁くことができません。人の心の態度や隠れて行っていることは、神のみが知っておられることであり、神のみが正しく裁くことができるのです。したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「裁かれないためです。」とあります。上司の悪口を言いながら飲むお酒のうまさは格別だといいます。また、私の知人で、どうしても親しめない二人がいました。ある時共通の友達の悪口を語るうちに、この二人は急速に接近して、無二の親...裁くな。

  • 主なる神

    「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」詩篇82扁1節古代オリエントでは、神々がそれぞれの地を統治し、主なる神がその神々の上に立つという神話があった。その神話の形式に則り、神々を裁かれる主を描いています。メソポタミヤ神話ではしばしば「神々の集い」が登場する。旧約聖書もその影響を受け(旧約聖書が最終的に編集されたのはメソポタミヤのバビロンの地です。)、申命記やヨブ記等にその痕跡を残している。ただし、聖書には何度も何度も、「わたしだけが神である。」という宣言に満ちています。この神のみがまことの神です。しかし異教では、人が神になることを教えています。神はもしかしたら、そうしたことも皮肉を込めて、彼らのことを神々と呼ばれているのかもしれません。このみ言葉は二つの解釈ができます。第一は、地上の姿とするもの...主なる神

  • 赦された罪人

    『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9章13節主が来られたのは、病人のためであるということ。それは、罪人を招くためということを喩えるためです。つまり、全ての人、それぞれが、自分の罪を認識しなければ、イエスがその人に近づいて、触れることはできないということです。イエスを私たちから追い出す最も効果的な方法は、自分が正しいとすることです。自分を正しくしようとすることです。これは、イエスの心を大きく大きく損なうことです。なぜなら、ここでイエスがホセアの預言を引用されているように、神の喜びとしておられるのは、いけにえ以上に真実な愛、あるいは憐れみなのです。パリサイ派は、自分がどのように行うべ...赦された罪人

  • 愛によって

    「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」Ⅰコリント13章7節ペテロほど人間味豊かで近づきやすい人はいないでしょう。率直で、善意に満ち、自分の思うままを口に出し行動してしまいます。しかし、ゲッセマネの園で共に祈ることを求められても眠ってしまったり、カヤバの庭で裁判にかけられているイエスを知らないと言ってしまい、外に出て激しく泣いたといわれたりしています。こうしたペテロが立ち上がることができるのは、人間の弱さを十分に知りながら、ペテロを包み込むイエスの愛とやさしさに気づいた時でした。人間を救う力は、人間の弱さに失望しないで、これを包み込みながら、人間の可能性に、期待をしょうとする大きな愛です。「すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてに耐える」愛なる神の存在です。また、ア...愛によって

  • 苦難は喜びへ

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ5章3~4節人生には何をしても順風満帆の時があり、逆にいくら努力しても悪いことが続くことがあります。そうした中で、パウロは「信仰を持って努力していると必ず良い結果になり苦難も喜びとなります。」と語っています。忍耐は神を信頼して最後まで耐え忍ぶことです。練達は訓練に合格できる状態のことです。神の前で自分の人生の総決算をしなければならないテストがあります。主なる神は決して無駄なことはなさいません。苦難は忍耐へ、忍耐は練達へ作用します。希望は、救い主イエスに繋がる時心の奥底から湧いてくる確信です。キリストを信じることにより与えられる希望は、失望に終わること...苦難は喜びへ

  • 神はいつくしみ深い

    しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。詩篇73扁2~3節熱心な信仰者であるなるならば、誰でもぶつかる問題だと思います。その問題とは、この世の不条理に対する怒り、いや、もっと分かりやすく言えば、自分の内に湧いてくる「ねたみ」や「ひがみ」といった問題です。神を信じていなくても、深刻な問題で頭をかかえ込んだりすることもなく、結構、豊かな生活をし、羽振りのいい生活をしている。ほしいものが何でも手に入っている。一見、神を信じている自分たちよりも彼らのほうが幸せそうに見える。神がこの世を支配しておられるのに、どうして正しい者が苦しみ、悪者が繫栄しているのかという疑問が起こります。公正な神ならこのようなこと...神はいつくしみ深い

  • 幸せとは

    どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。ピリピ4章6節これは命令形になっています。「何も思い煩ってはいけません」となっています。選択肢ではないのです。なぜなら、やはり主ご自身の領域に勝手に入り込むことになるからです。思い煩うというのは、自分がそれらの状況の主人であることを意味するからです。そうではありません、自分は神の子どもであり、主のしもべです。主から命じられたことに集中すべきであり、自分勝手に思い込み、動いてはいけません。主から言われたことをただ行う、そしてその責任は主が負ってくださる、という意識が必要です。戦中・戦後には、うつだとか神経症だという病気はまれだったと読んだことがあります。しかし今の世の中を見る限りには、そうではな...幸せとは

  • いのちのことば

    「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」Ⅰコリント1章18節十字架のことば、これは、むろんキリストご自身についてのことばであり、またキリストが十字架につけられて、よみがえったことについてのことばです。そのことばは、確かにこの世の知恵では愚かに聞こえるだろうが、けれども救いをもたらす神の力であると、パウロは言っています。この世の知恵によっては、何一つ人を罪から救い出すことはできません。けれども、十字架のことばを聞いて信じた人は、確かに罪から救われて、その人生と生活が変わります。この世の知恵のことばは、雄弁で、聞きざわりがよいですが、そこには力がないのです。しかし、愚かなように聞こえる福音は、力があるのです。また「十字架のことば」とは、神が人を愛し、赦し、救う...いのちのことば

  • 祈りを

    「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」ルカ6章12節主イエスは祈るために山に行かれたのです。そして夜を明かすほどに祈られました。この祈りは、ある人々はゲッセマネの祈りの次に重要な祈りであったであろうと言います。なぜなら、次に主イエスが十二使徒を選ばれるからです。さて、私たちはこの主イエスの祈りの姿勢を模範としたい。主イエスはよく祈っておられました。短い言葉ですが聖書のあちらこちらに主イエスの祈る姿が見受けられます。主イエスの生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。多くの弟子たちの中から特に十二弟子を選ばれたのも徹夜をして祈られた後でした。二人の「きこり」がいて、一人は一日に昼の休みのほかは一度も休みを取らず、一心に働きました。もう一人のきこりは、一時間に十分の休み...祈りを

  • 完全なる福祉を

    「弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い」詩編72篇13節神の国、天国では公正な福祉がなされています。ここの12節に「王が助けを呼び求める貧者や、助ける人のない悩む者を救い出す」とあります。私たちの社会でも、神からの愛による福祉がなされたら素晴らしいと思います。ただ私たちは、誰かを助けようとするとき、同情したり、自己満足に陥ったりします、助けてあげよう、時間が余っているので、その人のためにしてあげようではなく、この事をしているのは主イエス・キリストにしているのだという意識が大切です。実際に主イエス・キリストは言われました。貧しい人、渇いている人、困っている人にしてあげたのは、私にしてくれたのだと。ですから貧しい人や困っている人を助けてあげているという気持ちからではなく、これをすることは主イエス・キリストに...完全なる福祉を

  • あなたは裁判官ではない。

    「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。ルカ6章37節ここは、天の父がわたしの真似るべき存在になっています。裁き主である神ご自身が、私たちの行ないにしたがって裁くのではなく、憐れみを示してくださいました。だからこそ、さばかない、罪に定めない、ということが必要です。あまりにも数多く人が、この世で起こっている事柄についてその現状を分析しようとしています。これは間違っている、と罪定めを、原因探しをします。しかし、神の命令はあら探しではなく、憐れみを示すということが私たちに対するイエス様の命令です。そして、ここで大事なのは、その憐れみという態度に応じて自分も憐れみを受けるという報い...あなたは裁判官ではない。

  • 愛しい人よ

    「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」雅歌2章11~12節真冬の身も凍るような、厳しい日々もいつかは止み、私たちの喜びの日々が来ます。これは来るべき神の国の姿です。ただ、私たちは、神が造られたものの中で、神と親しく交わり、今を喜び楽しんで。この一日を喜び楽しむ、これこそ私たちの姿、神が人を創られた想いでしょう。ここには宗教も儀式もなく、あのエデンの園でアダムとイブに交わりを求められた神の愛があるのみ、神は私たちに対しても交わりを求めておられる姿なのです。この場面の背景は、一時の夢の中では、花嫁は家の中におり、花婿はその外にいるのです。したがってそれぞれ相手の顔をじっくりと見ることはできず、花婿の声だけが聞こえるという設定...愛しい人よ

  • 永遠のいのちを

    「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」ローマ6章22節私たちは今、恵みにより赦しを受けて、正しい者となって生きるように義務付けられています。私たちは、罪の内にとどまり、死と神の怒りの内に導く罪に仕えるか、それとも新しいいのちの内に、恵みのうちに、神に仕えるかのどちらかです。罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます聖なる実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。聖さに進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。信じたら、どんな...永遠のいのちを

  • 信仰告白

    「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」ルカ9章20節主イエスは、他の人が自分のことをどのように言っているのか、また、この弟子たちがどう思っているのか、聞かれたことがありました。ペテロが代表して、「神のキリスト(メシア)です」と答えました。正しい答えだったのですが、主イエスを正しく理解していませんでした。主イエスが自分の使命は、ただ人の尊敬を受け、好かれかれ、好評を博するようなことをして生涯を終わるのではなく、逆に人々から排除され迫害され、ついには、自分の命さえ捧げることにあるのだと言われたとき、彼らはがっかりしてどうしていいのかわからなくなってしまいました。そして主イエスはこのような弟子たちを育てなければなりませんでした。私た...信仰告白

  • クリスチャンへ

    「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」ヤコブ3章9節私たちが身体の調子を崩して病院に行くと、医師から「ちょっと舌を見せてください」と言われます。舌を見れば身体の調子がどうなっているか分かるように、霊的な健康の程度も、その人の舌を見れば分かるということです。「舌」をどの程度制御できるかがキリスト者の成長・成熟の程度を計るバロメーターだということです。口からでるものは心から出るものです。人の心こそ、つかみ所の無い変幻自在なものはありません。自分ですらも、どれが自分の本当の心であるか、つかみかねています。そこには「のろい」から「讃美」まで、なんでもそろっています。舌を制するには心を何とかしなければならないのですが、自分ではどうにもなりません。時々刻...クリスチャンへ

  • 新し日を覚えて

    「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」詩編1章3節神のいのちの中に深く根を下ろした人生こそ幸せな人生ですが、その第一の祝福は命の祝福です。幸いな祝福された人生とは、神のいのち、つまり本物のいのちと繋がっているものなのです。いのちがありさえすれば冬に枯れても、霜に打たれ、虫に食われ、嵐に倒れても、また芽を吹くのです。その第二の祝福は成長の祝福です。いのちのあるものは成長するのです。第三の祝福は美しさの祝福です。いのちのある人生は愛と喜びと平和の美しさに飾られるのです。そして、第四の祝福は実りの祝福です。いのちのある人生には実が実ります。祝福が他の人にまで及ぶ実を結ぶのです。この繁栄は、少しずつであることを忘れないでくださ...新し日を覚えて

  • 祈りなさい。

    「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。……。」マタイ5章44~45bある大学の心理学の時間に、先生は一つの興味ある問題を出しました。「諸君が嫌いだと思っている人の名を出来るだけ多く書きなさい。」学生は一斉に書き出しました。その結果、意外なことに、一番多く名前を書きだした人が、そのクラスの中で一番嫌われている人で、一番少なくしか書けなかった人が一番みんなから愛されている学生でした。このことから、あの人と仲良くなれないと気が付くことがあったら、自分自身を落ち着いて反省してみる必要があります。自分自身の中に仲良くなれない原因があるということです。私たち人間は、孤立している存在ではなく、一つの群れ、仲間として生...祈りなさい。

  • 恥じない

    「【主】よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。」詩編71篇1節ユダヤの人々は、恥を恥とする民族です。そして日本人もまた恥を恥じる人種です。私は人間として本当に恥ずかしいことが二つあると思います。その一つは、「罪」です。私たちの心の汚れ、内面的な卑しさです。ジョン・ウェスレーは「罪のほか恥ずべきものは何一つない」と言いました。私たちはたとえどんなものを恥じても、この「罪」を恥としないならば、それは最も恥ずかしいことです。神はどんな隠れた罪もご覧になります。そして私たちが本当に恥ずべきもう一つのことは、こんな罪深い私を愛し、私のために十字架の上で血を流し、罪を赦してくださった神に恥じることです。神は愛と恵みに満ちたお方です。あなたを愛して育ててくださるお方です。このようなお方を恥...恥じない

  • 平和について

    「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5章9節国際的な平和という大きな問題について考えてみたいと思います。第一に、平和の実現に欠かすことができないのは正義です。ある国が他の国から不正に取り扱われている限り、社会の平和も世界の平和も実現することはできません。第二に、必要なのは、真実です、自分の国だけが正しく優れており、他の国や民族は劣っていると言った曲解された考えを持っている人は、平和を実現する人にはなれません。第三に、対話がぜひとも必要です。聞く耳を持たずに怒鳴り合っていたのでは何の進展も得られないでしょう。理性的に行われる対話によって相手の立場を理解し、相手のみている真理の一面を知って、ともにもっと全面的な真理を、そして相互理解を深めることができるようになると思います。パ...平和について

  • 互いに

    「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」ガラテヤ6章2節キリスト教の特徴の一つは、分かち合いの精神です。私たちが人生の各段階で背負う重荷は、実に様々ですが、もしその折々の苦しみや辛さを、誰かが熱心に聞いてくれたら、ずいぶんと慰められると思います。それはすぐ、その苦しみの解消にはつながらないでしょうが、じっと自分の話に耳を傾けてくれる人がいるという、その事だけで、私たちは自分の重荷を背負い直し、生きていく勇気与えられます。「分かち合う喜びは二倍の喜び、分かち合う苦しみは半分の苦しみ」という美しい諺があります。誰でも何か嬉しいことがあったら、すぐに家族や友人たちに知らせて、一緒に喜んで欲しいと思うでしょう。同じように辛いことや、悲しいことが起こったとき、その苦悩を分...互いに

  • 神になろうとしている。

    「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」マタイ5章7節あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。イエスは後で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。(7:1)」と言われましたが、私たちは、人の心の中に起こっていること、つまり動機をさばくことはできません。むしろ私たちは、神がわたし達を豊かに赦されたように、私たちも他人を赦すべきなのです。約束は、「あわれみを受ける」ことです。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。神の義を求める者は、憐れみ深くなります。自分の義ではなく、神の義を求めるからです。イエスは後で、「裁いてはいけない」ことを教えられます。マタイ7:1-2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あな...神になろうとしている。

  • 祈るために

    「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」詩編70篇6節この詩編は伝統的に受難節に読まれてきました。十字架につけられた主イエスの祈りと通じるものがあるからです。私たちの信仰はしばしば緊急性、切迫性が感じられるところで試されます。つまり、私たちが緊急性、切迫性として感じられる状況では、助けが遅くなってしまったら大変だという恐れが背後に隠れています。そんな私たちの恐れに対して、イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われます。神を信頼するということがどういうことかを探られることばです。また、信頼するとは、一見、緊急を要する状況の中でも主にあって安心することです。そうした主を信頼することから生まれる心の余裕を持つ...祈るために

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