chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
フォロー
住所
垂水区
出身
姫路市
ブログ村参加

2009/07/20

1件〜100件

  • 神の命の中で

    「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」口語訳聖書「このように、人間は、天地を造った神様に似た者として造られました。」リビングバイブル創世記1章27節神はご自分の創造物の最後に、ご自分に似せて、ご自分のかたちに人を造られました。神が自然界の全てを支配されているように、人にその支配を任せて、人の支配を通して自然を支配するようにお定めになりました。「ご自分のかたちに」と強調されています。ここで神は「創造された」という言葉を繰り返されています。三度も繰り返しています。これが神の最高傑作品だからです。動物と同じように被造物であるにも関わらず、神に似せて造られたのです。こんなすごいことはありません。この事実だけでも、私たちが今、ここで生きているということが神...神の命の中で

  • 信仰とは

    「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル11章1節「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、それがかなえられることを神に押し付けることではありません。そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。神が言われることが、「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。その目を閉じて、神の御手の内に一切を、素直に喜んで委ねるなら、これは最高、最善の信仰です。それは神がなぜ其々の働きをなされるのかを知ろうとはしません。理性と、感覚、体験には、怒りと不正以外の何物し...信仰とは

  • 呼び求められています。

    「主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。」詩篇12扁9節世が末の時代となり、社会的倫理が破れてくると「卑しいことが崇められる」ようになります。倫理とか道徳と言ってもピンとこなくっても、「汚いこと、卑しいこと」というと案外とわかります。悪臭が漂うごみための汚さがすぐわかるように、人と人との交わりの中の「汚いこと」「卑しいこと」は本能的にわかり、したくないのです。しかし現代は、そんな「卑しい」ことが横行している時代だと思いませんか。昔の人間には思いもよらない、人の尊厳を踏みにじるような獣のような考えと行いが満ちています。(昔もなくはなかったことですが、)聖書の中に「上にあるものを求めなさい。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」という聖句があります。「私た...呼び求められています。

  • 一人より二人

    ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。伝道者4章9節この箇所全体は「ふたりであることの祝福」が述べられています。一人では得られないすばらしさです。伝道者は「日の下で」ふたりであることのすばらしさを、ひとりぼっちのむなしさと比較しています。このふたりとは必ずしも結婚する者のことを意味していません。仲間、友人、協力者であっても良いのですが、特に11節には「いっしょに寝ると暖かい」とありますから、ここでの「ふたり」とは「夫婦」と理解するほうが自然です。その二人が力を合わせて一つの仕事にあたると、一人でするよりも行き届いてよくすることができ。しかも、その報いを二人で喜び、楽しむことができるのです。そして、このみ言葉を私と主イエスに置き換えて考えてみてください。主イエスが私とともにおられるなら、苦労も...一人より二人

  • 助けを求むのは

    目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。詩篇121扁1~2節この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。青壮年の方々も例外では...助けを求むのは

  • タラント

    彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。マタイ25章15節彼は、「おのおのの能力に応じて」、財産を渡しました。彼は、ある特定のノルマを達成しなさいと命じられたのではなく、それぞれの能力に応じて財産を任しました。この世の仕事では、私たちにある一定の基準を要求して、それを満たすことができないと用いられませんが、神はその反対に、どのような人をも用いることができるのです。なぜなら、能力以上のことを任せておられなからです。と同時に神は、能力以下のことも任せられません。さて、人生には神による総決算の時があります。主人は神、僕は私たち一人ひとりです。タラントは神から預かっている賜物です。私たちは、誰でも自分の歩んできた人生の総決算を神の...タラント

  • 祈り。

    御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。詩篇25扁18節普通、神に悩みや苦しみ、痛みを訴える時、慰めや癒しや、解決を求めるのが当たり前ではないでしょうか。ところが、このダビデはここで「私は悩んでいます、苦しんでいます、私のすべての罪を赦しい下さい」と祈っています。スポルジョンは、どんな悩みと苦しみの時にも、まず第一に自分自身の反省の時とすることを勧めています。自分自身のことを棚に上げて人を責めたり、八つ当たりして怒ったり、ひがんだりしやすいのですが、まず深く反省し、赦されていない罪、始末されていない罪がないかどうかを深く反省し、もしそれがあるのならば、神のところへ持っていき、悔い改め、言い表し、赦していただくことです。また悩みと苦しみの時、自分が世俗的に流れていないか、感謝を...祈り。

  • べテスタ( あわれみ ) 

    イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。ヨハネ5章6節このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあます。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。「もしも私が苦しま...べテスタ(あわれみ)

  • マラナ・タ

    「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。」マタイ25章31節「人の子」とはメシア・イエスことです。その方が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」とは、メシアの地上再臨を指します。その時、キリストは、信じている者たちのために、報酬を与えるために戻ってこられます。そして、ここからはご自分が地上に戻っておられる話をしています。まず、イエスは、地上に来られると、神の御国における栄光の位に着きます。おそらく、その座は「ダビデの座」と呼ばれ、エルサレム(シオン)に据えられます。人の子であるイエスが、ハルマゲドンに集結した反キリストによる異邦人の軍勢をエルサレムにおいて滅ぼした後に、地上で御国の王となり、栄光の座に着かれるのです。これはイザヤ書9章7節の成就です。さて...マラナ・タ

  • 神に委ねよう。

    その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。詩篇7扁18節ダビデは、何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王に誤解され、嫌われ、中傷され、命をつけ狙われました。そんな時、私たちは相手を呪ったり、攻撃をしがちです。しかし、ダビデはまず第一に、我が身を神のところに持っていき、神に身を投げ出しました。第二に、神の前に自分を洗いざらい投げ出して光に照らされ、反省しました。そして、第三に、神の正しい裁き、弁護を求めました。そして、その結論がこの賛美です。心の中から、神への賛美、感謝の歌が流れ出るなら、あなたの悩み苦しむ心が、正しい結論へ到達した確かな証拠です。そして、心から溢れる感謝や賛美は、現実的に、実際的に、問題の扉を開き、解決へとこぎつける力となるのです。詩篇26:1-2...神に委ねよう。

  • 変えてください。

    恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。詩篇4扁7節この言葉は「だれが、我々に良いことをくれるのか。」という反語的な表現です。神を信じたところで何の益があろうか、という世の声です。祝福、恵み、平安に満ちた人生の秘訣は、神の光りの中を歩むことです。私たち人間は、神の光が届かない暗闇の中に人間の自由があり、楽しみがあると考えています。しかし、このダビデは、神の光りの届かない自我の暗闇の中でとんでもない経験をしました。ダビデのような大人物でさえ、姦淫と殺人の罪に陥り、辱めの極限と魂の苦しみを経験したのです。そしてダビデは祈るのです。「神よ照らしてください、神・主、あなたの光りの中に、今日も歩ませてください」と。罪のはかない楽しみ、エゴの自由を求めると神から身を隠れたい...変えてください。

  • 本当の平和は、

    わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。レビ記26章6節私たち日本人は、どうしても平和の尊さを理解することができません。平和は空気のように、吸えば手に入れることができると考えてしまいます。また、私たちはこの豊かな日本に住んでいると、収穫も安全も空気のように当たり前に思ってしまいますが、安全も、それぞれの収穫も、主が与えてくださいました。私たちは、経済のこと、食の安全、体の健康など、安全を求めていますが、それは主が与えてくださるという信仰がないといけません。しかし、イスラエルにとって、平和は尊い神からの賜物なのです。古代ローマの人々の間では「汝が平和...本当の平和は、

  • 力ある聖書の言葉

    イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ4章4節身体は衣食住で満たされ、心は知識や愛情で満たされるが、私たちが衣食住や知識や愛情だけで満たされないのは、心の奥底に「神の口から出る一つ一つのことばで、なければ満たされない霊がある」からだというのです。確かに私たちは動物とは全く異なり、神と交わることのできる霊を持っている霊的存在なのです。このことを忘れていては、私たちの心に満足がないのは当然だと思う、私たちが真に求めるべきものは、神の口から出る一つ一つのみ言葉です。ここで、イエスは、「書いてある。」と言われています。聖書からの引用です。イエスはみことばをもって誘惑に抵抗されました。私たちも同じようにして誘惑に抵抗する事が出来ます。また、「...力ある聖書の言葉

  • 神は笑われる

    「天の御座に着いておられる方は笑い主はその者どもを嘲られる。そのとき主は怒りをもって彼らに告げ激しく怒って彼らを恐れおののかせる。」詩篇2扁4~5節ここには、神のユーモアがあります。国々の王たちは、最新兵器をもってキリストに立ち向かおうとしているわけですが、それに対して天の御座に着いておられる方は笑っておられて、嘲られています。私たちが天からの余裕が与えられているのは、ここにあります。私たちはキリストにあって、天につなげられている者たちです。ですから、地上で起こっていることを見れば息苦しくなるのですが、天の御座におられる方の視点で眺めれば、滑稽にさえ思える姿であると認めることができ、物ともしない、動じないのです。ここから私たちは、心の余裕が生まれるのです。たとえ世が騒々しくなっても、神が王であり、すべてを仕切っ...神は笑われる

  • 主よ。あわれみを。

    「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」マタイ18章22節七回まで赦すべきでしょうか、ということですが、当時ラビは三回までと言っていましたか、相当頑張っているのです。けれども、それは彼の誇り、自慢の裏返しでもあります。私たちが真面目に頑張る時に、イエスは完全に打ち砕くようなことを言われます。なぜなら、天の御国は私たちの功徳ではなく、神の恵みによって成り立っているからです。イエスは、「七回を七十倍するまで」と言われました。このことについて、「主よ。私は自分では赦せません!」と叫び声をあげるのではないでしょうか。つまり、私たち人間が思いつく赦しと、神の考えておられる赦しとは、桁外れに違うのです。私たちの持っている能力や性質は、それぞれに様々です。聖書によれば、それはみんな...主よ。あわれみを。

  • 力ある神が

    「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、」詩篇2扁4~5扁ここには、神のユーモアがあります。私たちが天からの余裕が与えられているのは、ここにあります。私たちはキリストにあって、天につなげられている者たちです。ですから、地上で起こっていることを見れば息苦しくなるのですが、天の御座におられる方の視点で眺めれば、滑稽にさえ思える姿であると認めることができ、物ともしない、動じないのです。ここから私たちは、心の余裕が生まれるのです。たとえ世が騒々しくなっても、神が王であり、すべてを仕切っておられるのです。全知全能の神に対して、核ミサイルであろうがその他の大量破壊兵器であろうが、まったく無力です。その光景はあまりにも滑稽です。主は...力ある神が

  • 神とのかかわり

    「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」イザヤ60章1節創造において、神は最初にやみの中から「光」を呼び出されます。この「光」は光源としての「光」ではなく、かかわりの「光」です。そしてその「光」の中にすべてのものがかかわりを持って創造されます。何のかかわりもなく単独で存在している被造物は存在しません。「暗闇」「夜」といった語彙はそうしたかかわりのない世界と言えます。希望が湧いてくるような、元気になれるような明るいみ言葉です。でも、そのあとに続く言葉にハッとさせられます。『見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる』というのです。預言者イザヤが活躍したのは昔のことであり、預言者はきれいな澄んだ目をもって自分のまわりをよく見ていました。暗くってどうしても希望が見えてこないのです。し...神とのかかわり

  • 朝ごとに

    主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。イザヤ50章4節頑なな民に対して、主はなおも仕えられました。それは一にも二にも、父なる神ご自身からご自身が召されたのだ、人として現れること、女から生まれる者とされたこと、このことをわきまえておられました。主イエスは、人間の姿を取られました。父なる神から離れては、何も行なわないようにしておられました。私たちが今、主の言葉に聞き入る弟子であるように、主ご自身が父なる神の御声に聞き入る弟子のようでありました。私たちに救いをもたらすために、へりくだった僕の声を聞かせてくださいます。そして心に励ましを与え、私たちを立ち直らせてくださいます。主の僕は、疲れた者を言...朝ごとに

  • 新しくされるために

    「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」詩篇119扁71節多くのものが成長を止める冬こそ、土壌にとっては安息の時であり、その間に来年の目覚ましい活躍のための復活の力が蓄積されているのです。実に行き届いた神の愛の配慮でしょうか。私たちはこの寒い冬の中にあっても、なおその中に秘められた神の愛のみ心を悟って、この寒い冬のためにも感謝することを学びたいものです。ところで、自然界に冬が来るだけでなく、私たちの人生にも冬はあります。時には花咲く順調な春もあるでしょう。あるいは額に汗して労する勤労の夏もそうです。また、成功の実を楽しむ収穫の秋も。しかし、また日の光さえ見えない逆境の冬も何回となく回ってきます。自然界に冬を与え、草木のために配慮し、私たちのために最善の取り計ら...新しくされるために

  • 恵みの日々を感謝します。

    「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ルカ2章29~30節マリアが賛歌を神にささげ、ザカリヤも捧げました。その他、天の軍勢も神を賛美していました。そしてシメオンもここで賛美を捧げています。シメオンは、この幼子自体を、「あなたの御救いを見た」といって、ほめたたえています。救いというのは、何か一定の教えや原則ではありません。イエスご自身が私たちにとっての救いです。今、人間の姿でご自分を示されたからです。救いを聞くだけでなく、さわって、見ることができました。この方に人格的に触れる時に、その人は救われます。私たちの神は一度決心されると、最後までやり通されるお方です。ユダヤの人々は何千年もの間、神の約束を信じて、主イエスのお生まれになるの...恵みの日々を感謝します。

  • 最後はこの体をもって

    「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」詩篇150編6節最後は、神のくださった最高の楽器、すなわち私たちの息、歌声であります。なんという、すばらしい終わりでしょうか。すべてはただ、主をほめたたえることです。すべてのことは主に栄光です。ハレルヤ。この詩篇の最後の言葉は、私たちに賛美の総動員をかけています。どうして聖書は「神をほめよ」「神を賛美せよ」と言うのでしょうか。第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮という代価によって救われた私たちが「喜んで」いたら、神はほんとうに喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛されている私たちが、うなだれ、悲しんでいるなら、神はとても悲しまれるでしょう。第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。神に祈る時、ただ、純粋に神...最後はこの体をもって

  • あきらめるな

    「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ルカ18章1節いつでも祈り、失望せずに祈り続けることは、目的があります。それは、神が選民のために裁きを必ず行ってくださる、ということです。キリスト者としてこの地上に生きている時に、私たちはたとえ物理的な迫害を受けていなくても、むしろ迫害がないところにある霊的誘惑の中にいつもさらされています。神はいらない人たちの制度がしっかりしているから、という強い圧力を感じます。神なしで生きていくように仕向けていきます。ですから、私たちは今まで以上に強い圧迫を受けており、しっかりと立っていないといけません。そこで必要なのは、しつこい祈りです。神の正しい裁きがなされるよう祈っていて、果たしてそれが聞かれるのか疑問に思います。けれ...あきらめるな

  • 丁度良い時に

    「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」Ⅰペテロ5章6節私たちは自分で、自分のことを売る必要はありません。いかにすぐれたミニストリーをしているのかを、宣伝する必要はありません。主が必要なときに、高く上げてくださいます。私たちが小さなことに忠実であるとき、主が大きなものを任せてくださいます。(自分を何者かのように、大きく見せびらかすことは必要ない。今ある自分がすべてです。)神は力強いお方です。全世界とすべての命をつくられたお方です。私たちは、この神の御手の下に自分を低くすることを学ばなけりばなりません。神が全世代の歴史を支配し、私たちの運命をも動かされるお方だからです。この神と共に歩むことです。わたしたちは、自分の生活設計を立てま...丁度良い時に

  • 私のために

    「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10章11節キリストにある神の愛を深く知れば知るほど、私たちはイエスの御声に聞き従うことができるようになるのです。羊は、良い牧者のところにいれば、それだけ深い信頼を寄せていて、その声を聞き分けることができます。なぜなら、イエスにとって、その羊の群れはご自分のものになっているからです。私たちには人生の導き手が必要です。なぜなら羊のように迷ったり、つまづいたりするからです。良い羊飼いあるイエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださいました。このお方が私たちの人生を導いて下さるのです。人とは、その生涯の中で一度ならず誰にも話せない問題をもって悩むことがあります。そうしたとき、イエスの名によって全能の神に祈り、答えをいただくことができます。救い...私のために

  • 神を第一にするとき。

    「私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。」詩篇142編6節人にひどく馬鹿にされた、見下された、無視されたと感じたことはありませんか。本当に嫌なものです。そのような「被害者意識」は悲しいものですが、私たち自身のひがみである場合が多いのです。他の人はそれほどあなたのことには関心はないものです。それなのに、ひがみ根性で、酷くおとしめられたと感じて、その人を恨み怒り、復讐心に燃えるような攻撃的態度をとったり、へたばってしまうこともありますが、ひがんだり、怒ったり、ぺっしゃんこになっりしたほうが負けです。そこからの解放は、第一に、どんな時、どんな所でも神を認めること、第二に、神を恐れ(畏れ)て悪から離れること、第三に、心...神を第一にするとき。

  • 愛とは

    「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ローマ12章10節兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。ここで求...愛とは

  • 辛い・苦しいなら神に叫ぼう

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のどん底...辛い・苦しいなら神に叫ぼう

  • 心配性のあなたへ

    だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイ6章34節神と心配は共存できません。とはいえ、「心配してはなりません」といくら言われても心配してしまう弱さが私たちにあります。私たちが思いわずらわずに考えられる範囲は、今日ということをイエスはよく知っておられます。あす、来月、来年のことを考えすぎると、思い煩うのです。ですから、一日、一日、神から与えられたものに、感謝することが大事なのです。世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物があふれるようになった社会に心の病が始まるということです。物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。日々の糧は神からの贈り物であることを実感できます。空の鳥のように、自分も養われているのだということを実感...心配性のあなたへ

  • 主の愛の中へ

    「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ15章9節天の父が人々を愛し、包み、働きかけていくのと同じような、愛の完全さをイエスは求めておられます。「イエスが愛したように」「神が愛するように」人々を愛する。考えてみれば、大変なことです。私たちは、神と違ってエゴイストです。他の人のことよりも、自分の望み、自分の生活のことを考えてしまいます。たとえ、他の人の幸せを考えて働きかけることがあるとしても、なかなか真実で純粋な愛には近づきにくいものです。しかしイエスは、私たちの汚れ、私たちの弱弱しさを十分に承知しながら高い理想を私たちに与えられました。高い理想、それは私たちの力では実現不可能なことです。しかし、「神にはできないことはない」のです。神の恩恵によってなら...主の愛の中へ

  • 家の中で

    「いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。」詩篇101篇2節人は自分の家の中でどのように歩むのかが大切です。よく「内面」と「外面」と言いますが、私自身も含めて、外面はいいけれども、内面が悪い人が多いのです。外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、家の中ではわがままで自分勝手、ありがとうも、お早うも、ごめんなさいのことばも無いということがあるのではないでしょうか。ノアはいろいろと欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアに告げ、そして神に信頼する人を助けるために大きな箱舟をつくらせました。。誰一人として悔い改めてその箱舟に入る人はいませんでしたが、ノアとその妻、...家の中で

  • そばにいてくださった

    「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28章20節人生には辛いことがたくさんあります。多くの悪いことがやってきます。そうした時、神は自分を捨ててしまわれたのかと感じます。その時、「いつも」あなたと共にいると言われたイエスのことばを覚えましょう。私たちが孤独で疲れ切った時に、かえってイエスはそばにいてくださるのです。だから安心して、すべての思いを打ち明けましょう。そして心の目が開かれて、イエスを見ることができるようにお願いしましょう。この世の人は、己が持ち物を愛し、自分のことで思い煩う。私はイエスを愛し、イエスの身を愛す。「みことばの糧」O・ハレスビーより私たちの生きている目的は、この生きているイエスのそばにいることです。イエスと交わりをすることです。ハレルヤ!主に栄光がある...そばにいてくださった

  • 癒されるために

    『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22章39節私たちクリスチャンは、聖書の言葉について間違いを犯してしまいます。聖書の文字を守ることがクリスチャン生活だと勘違いします。そうではありません。クリスチャンが生きる目的は、ことばになって現われている神のご人格に触れることです。つまり、聖書を文字としてではなく、生きた神のみことばが自分に語りかけていると受け止めることです。イエスは、神を愛し、人を自分のように愛することがたいせつな戒めであると言われました。人を愛することができない背景には、必ず、人に対する何らかの不信経験が存在しています。心が傷つけられた経験を持っているために人を信頼することができないのです。その傷ついた心が癒されるという経験なしに、私たち...癒されるために

  • 神へ

    「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」マタイ6章3~4節人前でラッパを吹きながら捧げ物をすることも誇張ですが、ここの「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」ということも、もちろん誇張です。しかし、それぐらい人目に付かぬところで善行をしなさいということです。そして目的は、隠しているということではありません。あくまでも目的は、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」ということです。自分の捧げ物が、人に対するものではなく、純粋に父なる神に対するものであるようにしなさい、人の目という要素が邪魔になるのではあれば、隠れたところで行いなさ...神へ

  • シャローム そして マラナ・タ

    「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」詩篇72篇7節王(メシア)の統治の特徴は、「公正」と「義」によるさばきと、豊かな「平和」(シャローム)の実現です。かつて、ソロモンが王位についたときに、彼が求めたものは「公正」と「義」でした。また「平和」はソロモン時代の特徴でした。これは公正と平和を願う祈りです。天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だということもできると思います。私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。要領よくやって得をしたと思っている人もいれば、またよく言われるように、正直者は馬鹿を見るということもあるのが現実です。ですから、この世に公正を求めていっても限界があります。しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不...シャロームそしてマラナ・タ

  • 神に呼ばれるまで、

    「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ14章11節これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。そして、末席に座る人は、主催者に自分のすわるべき席をゆだねて、自分で決めることはしませんでした。主イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子をご覧になって、信仰生活の話の原則について話されました。神のみ前で自分高くするときはこれを退け、遜る時これを高くし、祝福されるという原則です。私たちはいつも他人と比較して、優越感を持ったり、自分を卑下したりしますが、神は公平に私たちの心を見て、判断されるということが分かります。イスラエルの初代の王に選ばれたサウルが、神に選ばれ、見放される経過を見ると、サウルが遜る心を失い、自分を高...神に呼ばれるまで、

  • 実を結ぶために

    「……。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12章24節本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。イエスが死ななければ、救いが私たち異邦人に及ばないからです。それは、死なれることによって、そしてよみがえり、人々に豊かな命を与えることができる、と教えられているのです。十字架を目の前にされた主イエスはこのところで、死んで生きる生き方を教えられました。自我の追及をやめ、自我に死ぬ生き方こそ、実り多き生き方だと教えられました。それに続いて、主イエスはこで「仕える」生き方をも教えられました。救世軍の創設者ウイリアム・ブースも「私たちが救われたのは仕えるためだ」と言いました。人の生きざまは、その人が何のために命を捧げるか、何に仕えているか...実を結ぶために

  • 教会の顔として

    「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」Ⅰテサロニケ4章11節この勧めの理由は、主の再臨の教えを誤解して、自分たちの生活のための職業を放棄して、兄弟愛を当てにし、それに依存する「ぶらさがり現象」が起こり始めたことにあります。主の再臨の教えがそうした誤解を生まないようにするために、パウロはここであえて自分の仕事に身を入れ、自分の手で働くことで、「落ち着いた生活を、熱心に求める」ように命じたのです。これは今日の私たちにおいても有効な勧めです。そして、私たちは主が近いことを知って、そこで自分が従事している仕事をきちんと行なっていることが大事なのです。Ⅰテサロニケ4章12節「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするた...教会の顔として

  • 確信を

    「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」ピリピ2章13節私たちの内に一つの志、意志が与えられます。意志に働きかけられた神は、その事柄に力を与えて、事を実際に行うことができるようにしてくださいます。ですから能動的であり、活動的です。神が働きかけて、そこで私たちはその働きに乗るために、自分というものが清められて、練られて、そして砕かれて、主のなさりたいことの器として整えられていきます。私たちは、生きる目的、私たちの果たす使命というものをもう一度、確認したいと思います。生きる目的が自分のものになっていないと、私たちの歩みは迷いが生じます。また、理想的な響きを持つものであったとしても、それが人から押し付けられたものであると、本当の自分の力を引き出すことができません。...確信を

  • 欲求は

    「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」Ⅰヨハネ2章16節ふだん私たちを駆り立てているものは何でしょうか。食欲、性欲などの生理的欲求、好奇心や探求心といった知的欲求、所有欲や権力欲、虚栄心や名誉欲といった自我の欲求。こうした欲求は必ずしも悪いものではなく、それを求める者にそれなりの満足を与えてくれるものです。しかし、私たちの思いの隅々まで満たし、生かしてくれるものにはなりません。だから相変わらず渇きが残ります。わたしたちは、この世に生きながら、この世が提供してくれる物だけでは、人間らしく生きることができないのです。主イエスは救い主と呼ばれています。この主イエスに接した者は、あるいは癒され、あるいは喜びに満たされ、あるいは...欲求は

  • 聖なる者へ

    「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」詩編99扁9節ここで悲しいことを書きますが、「主が聖」であっても、私たち人間は「聖なる者」になることはできない。・・・!!使徒たちさえ民族主義から自由になれず無割礼の異邦人と交わることができなかった現実を私たちは冷静に見つめる必要があるのではないでしょうか。(ガラテヤ2:11-13見てください)。この限界を乗り越えるのは、私たちの思いを超えることを為される「聖なる主」への信仰なのです。神のこの清さは私たちを排除するものではなく、私たちを招くものだというのです。神はこう言われます「私が聖であるから、あなた方も聖なる者となりなさい。」なぜ清い神は、「私のように聖なる者となれ」と私たちを召してくださるのでしょう。それは罪赦されて本当に...聖なる者へ

  • 永遠の父

    「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46章4節日本人の宗教心は、名を知らぬ神への帰依だ。西行法師は伊勢で歌った「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」。これはギリシャ人の信仰「知られざる神」に近い(使徒17章)。人間の限界を知り、超越者を求めるが、その名を知らない。イザヤはそれに対して、「私こそ神」と主は言われたと繰り返す。人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし、神は...永遠の父

  • キリストを見つめること

    「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ14章11節ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くするということです。ここを狙われると信仰は崩れていきます。何故でしょうか。まず第一に、神に委ねることができなくなります。人生には、自分の思うとおりに恵まれるときがあり、恵みも喜びも感じられない時もあります。信仰はこのような時にも神に自分自身を委ねますが、高ぶるものはこれができません。次には悔い改めができなくなります、自分を高くしているときは、確かに悪いのは他人、正しいのは自分という態度を取っています。この聖句は、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低...キリストを見つめること

  • チャンスは今この時です。

    番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。ルカ13章8節これが今、私たちが生きている時代なのだということを知る必要があるでしょう。主が戻ってこられるいろいろな徴があります。すでに、主に従う者とそうでない者の選り分けが行われています。主に属する者は聖霊によって清めを体験しますが、属さない者は火で焼かれます。患難によって滅び、また死後に永遠の滅びに遭います。しかし、神は一人でも滅びることを望まず、悔い改めることを望まれています。神は忍耐深い方です。クリスチャンも、信仰告白をして洗礼を受けたから救われていると思っていたら、それは思い違いです。イエスと個人的な関係を持っている人は、必ず実が結ばれます。もし実が結ばれていないのなら、イエスとの...チャンスは今この時です。

  • ただ単純に

    女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節女は、ダビデの子などというユダヤ人特有の呼び名は使いませんでした。とても単純に、「主よ、私を助けてください。」と言っています。ここに彼女の心が表れています。ただ、これだけだったのです。イエスは主であるということ。そして、助けてくださいというだけのことだったこと。他の尾ひれを付ける必要がありませんでした。この女は娘の病のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを求めます。イエスのお答えも「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかしイエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、...ただ単純に

  • 解放

    「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ1章20節石川啄木の歌の中に「人という人の心に、ひとりずつ囚人がいて、うめく悲しさ」というのがあります。立派に見える人の心にも、罪に捕らわれた囚人がいて、それをどうすることもできずに呻いているというのです。このような罪の束縛や敵対関係の中に、イエスの十字架が起こったのです。神と私、人と人の間に、わだかまっている敵意や憎悪は、どんな小さなものであっても、誰の力でも取り除くことができないものです。ただイエスが十字架において、血を流すことによってのみ取り除かれ、和解し、平和はつくりだされたのです。神は「和解させてくださった」のです。神と...解放

  • 出会い

    この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ヨハネ12章21節人生を変えるような出会いがあります。また、そのような大切な事とも気が付かなく、過ごしてしまう出会いもあります。聖書の中には、イエスに是非お目にかかりたいと求めて、新しい人生の光を見出した人々のことが記されています。議会議員のニコデモも、異邦人の百人隊長も、憎まれ者の徴税人ザアカイもそうでした。しかし求めるべきお方がイエスだとわからなくても、心の中に永遠を求め、愛を求め、いのちを求め、光を求めた人々に対しては、イエスのほうからしばしば彼らの前にお立ちになったことも事実です。このブログに来られた皆様は、このような人生の出会いを、すでに経験されたことがおありでしょうか。(おっと、...出会い

  • 奴隷に

    「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」マタイ6章24節私たちはクリスチャンになるにあたって、神の奴隷になるか、お金の奴隷になるかの決断をしなければなりません。「お金もたくさんためて、それでクリスチャンとして生きれば、なんと素晴らしい人生が送れるのだろうか。」というのは不可能なのです。自分は主のしもべであることのはっきりとした決断をして、自分に与えられている財産はすべて神のものであるという認識に立ち、いかにしてこれを神を愛するために用いていくことができるのかを考えるべきです。金銭(富)は、私たちが神に仕えていないかぎり、私たちを神のように支配することになります。金銭...奴隷に

  • 神からの知恵

    「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」口語訳「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」新改訳第三版「知恵が深まれば悩みも深まり/知識が増せば痛みも増す。」新共同訳伝道者の書1章18節「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」とあります。だからと言って、「知恵や知識を得ても悩みや悲しみを増すだけだから、そのようなものは必要ない」と考えることは浅はかな考えです。このことばが意味することは、上からの知恵、神についての知識がなければ、結局のところ、「新しいもの」に触れることができず、「虚しさ」的な悩みと悲しみしか得られないということなのです。人類はバベルの塔の如く、知識を蓄え、知恵を増し加えました。その結果、本当に幸福になったのでし...神からの知恵

  • 愛について

    「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」Ⅰコリント13章4節本当の愛、無条件の愛というのは、主イエスによるしかないと思いますが、ここに、ヴァージニア・サターの詩が、とても味わい深いのでアップします。私はあなたを、束縛せずに愛したい判定せずに称賛したい侵入せずに結ばれたい強制せずに誘いたいうしろめたさなしに別れたい責めることなく評価したい見下すことなく助けたいあなたも同じようにしてくれたらふたりはほんとうに出会いお互いを豊かにできるでしょうここにあるのは単純な愛の賛歌ではない。愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事なのです。感情は消えるが、信仰に基づく愛は永続する。終末の時、異言も説教もすたれるが、愛は滅びない。愛について

  • 戦われる神

    「彼らの顔が侮りで覆われるなら/彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。」共同訳「彼らの顔を恥で満たしてください。【主】よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。」新改訳詩篇83扁16節人に見られると恥ずかしい、人に見られると恥ずかしいと思っても、誰にも見られず、分からなければ恥ずかしいとは思わないという面があります。しかし、突然のように、心に光が差し込んで、人の前で恥じるのではなく、神の前に自分の卑しさ、罪深さを知り、悔い改め、神の絶大な愛の中に飛び込むことができるとしたら、神の前に恥を知ることはになんなと大切なことでしょう。その先には、罪の暗さも惨めさも完全に追放された、まるで長いトンネルから抜け出したような明るい生活があるのです。自分の力で人前を飾る戦々恐々の生き方ではなく、幼子のように神を...戦われる神

  • 私にしたことです。

    すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』マタイ25章40節王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。そして、イエスは、ここに出てくる人々を「わたしの兄弟たち」と言われています。とても感謝なことです。初めてこの日本を訪れたマザー・テレサの言葉を今でもはっきりと...私にしたことです。

  • 選ばれた者。

    「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」ルカ6章12~13節ルカのいう「使徒」はパウロのいう「使徒」とは少し意味合いが異なります。パウロの言う「使徒」は個別的意味合いが強いのですが、ルカの言う「使徒」とはあくまでも12弟子による共同体的・教会的「使徒」を意味しています。私たちはとかく、「自分」がいて、そして「聖書」があって、そしてそこに書かれてある教えを自分に当てはめようとする自己修養を目的とします。そして、ここに書いてあることができていないといって自分を責めたり、また自分が何か活動をしているから自分は立派なクリスチャンだと思いこみます。そういった自己修練でも、自己実現の場でもないのです。...選ばれた者。

  • 裁くな。

    「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」マタイ7章1節人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までを裁きます。けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちは裁くことができません。人の心の態度や隠れて行っていることは、神のみが知っておられることであり、神のみが正しく裁くことができるのです。したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「裁かれないためです。」とあります。上司の悪口を言いながら飲むお酒のうまさは格別だといいます。また、私の知人で、どうしても親しめない二人がいました。ある時共通の友達の悪口を語るうちに、この二人は急速に接近して、無二の親...裁くな。

  • 主なる神

    「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」詩篇82扁1節古代オリエントでは、神々がそれぞれの地を統治し、主なる神がその神々の上に立つという神話があった。その神話の形式に則り、神々を裁かれる主を描いています。メソポタミヤ神話ではしばしば「神々の集い」が登場する。旧約聖書もその影響を受け(旧約聖書が最終的に編集されたのはメソポタミヤのバビロンの地です。)、申命記やヨブ記等にその痕跡を残している。ただし、聖書には何度も何度も、「わたしだけが神である。」という宣言に満ちています。この神のみがまことの神です。しかし異教では、人が神になることを教えています。神はもしかしたら、そうしたことも皮肉を込めて、彼らのことを神々と呼ばれているのかもしれません。このみ言葉は二つの解釈ができます。第一は、地上の姿とするもの...主なる神

  • 赦された罪人

    『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9章13節主が来られたのは、病人のためであるということ。それは、罪人を招くためということを喩えるためです。つまり、全ての人、それぞれが、自分の罪を認識しなければ、イエスがその人に近づいて、触れることはできないということです。イエスを私たちから追い出す最も効果的な方法は、自分が正しいとすることです。自分を正しくしようとすることです。これは、イエスの心を大きく大きく損なうことです。なぜなら、ここでイエスがホセアの預言を引用されているように、神の喜びとしておられるのは、いけにえ以上に真実な愛、あるいは憐れみなのです。パリサイ派は、自分がどのように行うべ...赦された罪人

  • 愛によって

    「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」Ⅰコリント13章7節ペテロほど人間味豊かで近づきやすい人はいないでしょう。率直で、善意に満ち、自分の思うままを口に出し行動してしまいます。しかし、ゲッセマネの園で共に祈ることを求められても眠ってしまったり、カヤバの庭で裁判にかけられているイエスを知らないと言ってしまい、外に出て激しく泣いたといわれたりしています。こうしたペテロが立ち上がることができるのは、人間の弱さを十分に知りながら、ペテロを包み込むイエスの愛とやさしさに気づいた時でした。人間を救う力は、人間の弱さに失望しないで、これを包み込みながら、人間の可能性に、期待をしょうとする大きな愛です。「すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてに耐える」愛なる神の存在です。また、ア...愛によって

  • 苦難は喜びへ

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ5章3~4節人生には何をしても順風満帆の時があり、逆にいくら努力しても悪いことが続くことがあります。そうした中で、パウロは「信仰を持って努力していると必ず良い結果になり苦難も喜びとなります。」と語っています。忍耐は神を信頼して最後まで耐え忍ぶことです。練達は訓練に合格できる状態のことです。神の前で自分の人生の総決算をしなければならないテストがあります。主なる神は決して無駄なことはなさいません。苦難は忍耐へ、忍耐は練達へ作用します。希望は、救い主イエスに繋がる時心の奥底から湧いてくる確信です。キリストを信じることにより与えられる希望は、失望に終わること...苦難は喜びへ

  • 神はいつくしみ深い

    しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。詩篇73扁2~3節熱心な信仰者であるなるならば、誰でもぶつかる問題だと思います。その問題とは、この世の不条理に対する怒り、いや、もっと分かりやすく言えば、自分の内に湧いてくる「ねたみ」や「ひがみ」といった問題です。神を信じていなくても、深刻な問題で頭をかかえ込んだりすることもなく、結構、豊かな生活をし、羽振りのいい生活をしている。ほしいものが何でも手に入っている。一見、神を信じている自分たちよりも彼らのほうが幸せそうに見える。神がこの世を支配しておられるのに、どうして正しい者が苦しみ、悪者が繫栄しているのかという疑問が起こります。公正な神ならこのようなこと...神はいつくしみ深い

  • 幸せとは

    どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。ピリピ4章6節これは命令形になっています。「何も思い煩ってはいけません」となっています。選択肢ではないのです。なぜなら、やはり主ご自身の領域に勝手に入り込むことになるからです。思い煩うというのは、自分がそれらの状況の主人であることを意味するからです。そうではありません、自分は神の子どもであり、主のしもべです。主から命じられたことに集中すべきであり、自分勝手に思い込み、動いてはいけません。主から言われたことをただ行う、そしてその責任は主が負ってくださる、という意識が必要です。戦中・戦後には、うつだとか神経症だという病気はまれだったと読んだことがあります。しかし今の世の中を見る限りには、そうではな...幸せとは

  • いのちのことば

    「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」Ⅰコリント1章18節十字架のことば、これは、むろんキリストご自身についてのことばであり、またキリストが十字架につけられて、よみがえったことについてのことばです。そのことばは、確かにこの世の知恵では愚かに聞こえるだろうが、けれども救いをもたらす神の力であると、パウロは言っています。この世の知恵によっては、何一つ人を罪から救い出すことはできません。けれども、十字架のことばを聞いて信じた人は、確かに罪から救われて、その人生と生活が変わります。この世の知恵のことばは、雄弁で、聞きざわりがよいですが、そこには力がないのです。しかし、愚かなように聞こえる福音は、力があるのです。また「十字架のことば」とは、神が人を愛し、赦し、救う...いのちのことば

  • 祈りを

    「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」ルカ6章12節主イエスは祈るために山に行かれたのです。そして夜を明かすほどに祈られました。この祈りは、ある人々はゲッセマネの祈りの次に重要な祈りであったであろうと言います。なぜなら、次に主イエスが十二使徒を選ばれるからです。さて、私たちはこの主イエスの祈りの姿勢を模範としたい。主イエスはよく祈っておられました。短い言葉ですが聖書のあちらこちらに主イエスの祈る姿が見受けられます。主イエスの生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。多くの弟子たちの中から特に十二弟子を選ばれたのも徹夜をして祈られた後でした。二人の「きこり」がいて、一人は一日に昼の休みのほかは一度も休みを取らず、一心に働きました。もう一人のきこりは、一時間に十分の休み...祈りを

  • 完全なる福祉を

    「弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い」詩編72篇13節神の国、天国では公正な福祉がなされています。ここの12節に「王が助けを呼び求める貧者や、助ける人のない悩む者を救い出す」とあります。私たちの社会でも、神からの愛による福祉がなされたら素晴らしいと思います。ただ私たちは、誰かを助けようとするとき、同情したり、自己満足に陥ったりします、助けてあげよう、時間が余っているので、その人のためにしてあげようではなく、この事をしているのは主イエス・キリストにしているのだという意識が大切です。実際に主イエス・キリストは言われました。貧しい人、渇いている人、困っている人にしてあげたのは、私にしてくれたのだと。ですから貧しい人や困っている人を助けてあげているという気持ちからではなく、これをすることは主イエス・キリストに...完全なる福祉を

  • あなたは裁判官ではない。

    「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。ルカ6章37節ここは、天の父がわたしの真似るべき存在になっています。裁き主である神ご自身が、私たちの行ないにしたがって裁くのではなく、憐れみを示してくださいました。だからこそ、さばかない、罪に定めない、ということが必要です。あまりにも数多く人が、この世で起こっている事柄についてその現状を分析しようとしています。これは間違っている、と罪定めを、原因探しをします。しかし、神の命令はあら探しではなく、憐れみを示すということが私たちに対するイエス様の命令です。そして、ここで大事なのは、その憐れみという態度に応じて自分も憐れみを受けるという報い...あなたは裁判官ではない。

  • 愛しい人よ

    「見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞こえる。」雅歌2章11~12節真冬の身も凍るような、厳しい日々もいつかは止み、私たちの喜びの日々が来ます。これは来るべき神の国の姿です。ただ、私たちは、神が造られたものの中で、神と親しく交わり、今を喜び楽しんで。この一日を喜び楽しむ、これこそ私たちの姿、神が人を創られた想いでしょう。ここには宗教も儀式もなく、あのエデンの園でアダムとイブに交わりを求められた神の愛があるのみ、神は私たちに対しても交わりを求めておられる姿なのです。この場面の背景は、一時の夢の中では、花嫁は家の中におり、花婿はその外にいるのです。したがってそれぞれ相手の顔をじっくりと見ることはできず、花婿の声だけが聞こえるという設定...愛しい人よ

  • 永遠のいのちを

    「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」ローマ6章22節私たちは今、恵みにより赦しを受けて、正しい者となって生きるように義務付けられています。私たちは、罪の内にとどまり、死と神の怒りの内に導く罪に仕えるか、それとも新しいいのちの内に、恵みのうちに、神に仕えるかのどちらかです。罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます聖なる実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。聖さに進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。信じたら、どんな...永遠のいのちを

  • 信仰告白

    「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」ルカ9章20節主イエスは、他の人が自分のことをどのように言っているのか、また、この弟子たちがどう思っているのか、聞かれたことがありました。ペテロが代表して、「神のキリスト(メシア)です」と答えました。正しい答えだったのですが、主イエスを正しく理解していませんでした。主イエスが自分の使命は、ただ人の尊敬を受け、好かれかれ、好評を博するようなことをして生涯を終わるのではなく、逆に人々から排除され迫害され、ついには、自分の命さえ捧げることにあるのだと言われたとき、彼らはがっかりしてどうしていいのかわからなくなってしまいました。そして主イエスはこのような弟子たちを育てなければなりませんでした。私た...信仰告白

  • クリスチャンへ

    「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」ヤコブ3章9節私たちが身体の調子を崩して病院に行くと、医師から「ちょっと舌を見せてください」と言われます。舌を見れば身体の調子がどうなっているか分かるように、霊的な健康の程度も、その人の舌を見れば分かるということです。「舌」をどの程度制御できるかがキリスト者の成長・成熟の程度を計るバロメーターだということです。口からでるものは心から出るものです。人の心こそ、つかみ所の無い変幻自在なものはありません。自分ですらも、どれが自分の本当の心であるか、つかみかねています。そこには「のろい」から「讃美」まで、なんでもそろっています。舌を制するには心を何とかしなければならないのですが、自分ではどうにもなりません。時々刻...クリスチャンへ

  • 新し日を覚えて

    「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」詩編1章3節神のいのちの中に深く根を下ろした人生こそ幸せな人生ですが、その第一の祝福は命の祝福です。幸いな祝福された人生とは、神のいのち、つまり本物のいのちと繋がっているものなのです。いのちがありさえすれば冬に枯れても、霜に打たれ、虫に食われ、嵐に倒れても、また芽を吹くのです。その第二の祝福は成長の祝福です。いのちのあるものは成長するのです。第三の祝福は美しさの祝福です。いのちのある人生は愛と喜びと平和の美しさに飾られるのです。そして、第四の祝福は実りの祝福です。いのちのある人生には実が実ります。祝福が他の人にまで及ぶ実を結ぶのです。この繁栄は、少しずつであることを忘れないでくださ...新し日を覚えて

  • 祈りなさい。

    「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。……。」マタイ5章44~45bある大学の心理学の時間に、先生は一つの興味ある問題を出しました。「諸君が嫌いだと思っている人の名を出来るだけ多く書きなさい。」学生は一斉に書き出しました。その結果、意外なことに、一番多く名前を書きだした人が、そのクラスの中で一番嫌われている人で、一番少なくしか書けなかった人が一番みんなから愛されている学生でした。このことから、あの人と仲良くなれないと気が付くことがあったら、自分自身を落ち着いて反省してみる必要があります。自分自身の中に仲良くなれない原因があるということです。私たち人間は、孤立している存在ではなく、一つの群れ、仲間として生...祈りなさい。

  • 恥じない

    「【主】よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。」詩編71篇1節ユダヤの人々は、恥を恥とする民族です。そして日本人もまた恥を恥じる人種です。私は人間として本当に恥ずかしいことが二つあると思います。その一つは、「罪」です。私たちの心の汚れ、内面的な卑しさです。ジョン・ウェスレーは「罪のほか恥ずべきものは何一つない」と言いました。私たちはたとえどんなものを恥じても、この「罪」を恥としないならば、それは最も恥ずかしいことです。神はどんな隠れた罪もご覧になります。そして私たちが本当に恥ずべきもう一つのことは、こんな罪深い私を愛し、私のために十字架の上で血を流し、罪を赦してくださった神に恥じることです。神は愛と恵みに満ちたお方です。あなたを愛して育ててくださるお方です。このようなお方を恥...恥じない

  • 平和について

    「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5章9節国際的な平和という大きな問題について考えてみたいと思います。第一に、平和の実現に欠かすことができないのは正義です。ある国が他の国から不正に取り扱われている限り、社会の平和も世界の平和も実現することはできません。第二に、必要なのは、真実です、自分の国だけが正しく優れており、他の国や民族は劣っていると言った曲解された考えを持っている人は、平和を実現する人にはなれません。第三に、対話がぜひとも必要です。聞く耳を持たずに怒鳴り合っていたのでは何の進展も得られないでしょう。理性的に行われる対話によって相手の立場を理解し、相手のみている真理の一面を知って、ともにもっと全面的な真理を、そして相互理解を深めることができるようになると思います。パ...平和について

  • 互いに

    「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」ガラテヤ6章2節キリスト教の特徴の一つは、分かち合いの精神です。私たちが人生の各段階で背負う重荷は、実に様々ですが、もしその折々の苦しみや辛さを、誰かが熱心に聞いてくれたら、ずいぶんと慰められると思います。それはすぐ、その苦しみの解消にはつながらないでしょうが、じっと自分の話に耳を傾けてくれる人がいるという、その事だけで、私たちは自分の重荷を背負い直し、生きていく勇気与えられます。「分かち合う喜びは二倍の喜び、分かち合う苦しみは半分の苦しみ」という美しい諺があります。誰でも何か嬉しいことがあったら、すぐに家族や友人たちに知らせて、一緒に喜んで欲しいと思うでしょう。同じように辛いことや、悲しいことが起こったとき、その苦悩を分...互いに

  • 神になろうとしている。

    「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」マタイ5章7節あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。イエスは後で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。(7:1)」と言われましたが、私たちは、人の心の中に起こっていること、つまり動機をさばくことはできません。むしろ私たちは、神がわたし達を豊かに赦されたように、私たちも他人を赦すべきなのです。約束は、「あわれみを受ける」ことです。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。神の義を求める者は、憐れみ深くなります。自分の義ではなく、神の義を求めるからです。イエスは後で、「裁いてはいけない」ことを教えられます。マタイ7:1-2「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あな...神になろうとしている。

  • 祈るために

    「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」詩編70篇6節この詩編は伝統的に受難節に読まれてきました。十字架につけられた主イエスの祈りと通じるものがあるからです。私たちの信仰はしばしば緊急性、切迫性が感じられるところで試されます。つまり、私たちが緊急性、切迫性として感じられる状況では、助けが遅くなってしまったら大変だという恐れが背後に隠れています。そんな私たちの恐れに対して、イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われます。神を信頼するということがどういうことかを探られることばです。また、信頼するとは、一見、緊急を要する状況の中でも主にあって安心することです。そうした主を信頼することから生まれる心の余裕を持つ...祈るために

  • 喜んで。

    「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」詩編51篇12節罪の清めによって、主に仕える霊が回復できますようにと祈っています。その清い心により霊が揺るぐことなく、御前に留まることができ、救いの喜びに基づく神への奉仕ができます。そうです、私たちの奉仕は、救いの喜びに支えられた、喜んで仕える霊です。したがって、私たちは神に仕えるということについて真実に知りたかったら、まずは罪の清めを知り、救いの喜びを知っているということです。聖書は、痛みを伴ったおそれや、偽りの愛からではなく、心から神に仕える望みを人に与えます。おそれの心から神に仕える人は、おそれが続く間しかその奉仕を続けないからです。自分の意志によるのではなく、強制によって、神に仕える人は、刑罰がなく地獄が無くなれば、仕えることをやめる...喜んで。

  • 罪認

    「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」ヨハネ8章7節罪のない者とは、罪を犯したことがない者ということです。イエスはここで、この女が石打ちの刑になるべきであることを否定されていません。むしろ、「彼女に石を投げなさい。」と命じておられます。そうです、彼女は死に値する罪を犯したのです。けれども、イエスは同時に、あなたたちも石打ちの刑を受けなければいけませんね、と暗に示されています。罪を犯せば、モーセの律法によれば死刑です。彼らも殺されなければならないのです。姦淫の女に石を投げなかったイエスは、世の光でした。イエスは、暗やみのわざを明らかにされる光なのです。そして同時に、神の恵みとまことを完全に示す光でもあります...罪認

  • 重荷は、

    「主をたたえよ/日々、わたしたちを担い、救われる神を。」詩編68篇20節重荷の受け止め方の代表的なものは「思い煩う」事です。ある人は思い煩いを定義してこう言いました。「自分のせいなのに人のせいだと思い込んで人を恨み人に責任をなすりつけ、自分には手に負えず、神だけにしか解決できない問題なのに、自分だけでどうにかしょうともがくこと、これが思い煩いである」しかし罪の解決は、「罪の赦し」のほかないのです。イエス・キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかられ、罪を赦してくださいました。このキリスト・イエスの愛の赦しの前に、裸になって悔い改め、その愛の中に飛び込むとき、すべての罪の重荷は取り除かれるのです。ゆだねきれない主には何時までたっても重く、電車に乗っても、まだ自分で荷物を背負っているなら重さは変わらないのと同...重荷は、

  • 幼子のように

    よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。口語訳聖書「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。新改訳聖書第三版「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。新共同訳聖書すべてマタイ18章3節わたしたちは、地上では誰が、「より偉いか」を問題にします。しかし、ここでは、「天国では誰が偉いか」が問題になっています。天国にさえ序列があるのでしょうか。主イエスは、この序列を否定しません。ただそれは、この地上と正反対の様相を呈しています。そこでは幼子のような「低さ」が、一番偉いのです。主イエスは、高さも低さもない、偉いも偉くもない、みな平等とは言...幼子のように

  • 喜び

    「神に従う人は誇らかに喜び祝い/御前に喜び祝って楽しむ。」詩編68篇4節「しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。」…詩編68:3新改訳3版詩篇の中には、信仰の喜びー神との親しい交わりの喜び、愛されている喜び、みことばに対する喜び、神の大いなるみわざにあずかった喜び、敵に対する勝利の喜び、将来の確かな救いの完成に対する希望など・・が満ち溢れています。その喜びこそまさに「いのちのしるし」なのです。神への信頼が本当になると、本物の「喜び」が溢れるのです。本物の喜びの姿を聖書はこう表現しています。「神の国は飲み食いのことではなく義と平和と聖書による喜びだからです。あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれど愛しており、今見てはいないけれど信じており、言葉に尽くすことの出来ない、栄...喜び

  • 財産と命

    そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」ルカ12章15節偽善は、人から歓心を得たいという強い思いですが、貪欲は、物を得たいという強い思いです。ここで主が教えられているのは、富を蓄えること自体を非難しているのではありません。主が諭されたのは財産が蓄えられたから、もう大丈夫だ。明日からは好きなように遊んで暮らそうと考えた「愚かさ」にあります。なぜなら、人の命は財産によって保障されているわけではないからです。生命というものは、いつでも「いのちの本源」によって生かされているものです。そこへ考えが及ばないところに、愚かさがあるのです。ではどうしたらよいでしょうか。主イエスはこのように教えられました。あなた方は地...財産と命

  • 悩まないで

    「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Ⅰペテロ5章7節私たちの人生を確かにしてくださる方はただ一人の神です。私たちを造り、支配しておられる神は父として私たちを愛してくださっています。そして私たちの人生を通して、その神の御心を着実に実現しょうとしておられるのです。「人間の心は自分道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」箴言16:9困ったとき、問題や悩みがあるとき、何時でも素直に神の前に、自分の心を注ぎだしましょう。コップを真っ逆さまにして中の水を全部注ぎだすように、私たちは空っぽにして神の前に出るとき、神は戦う力が必要ならその力を、自分を変えることが必要なら新しいいのちを満たしてくださいます。神に全部打ち明け、神にすべてを期待していくと、そこに新...悩まないで

  • 信頼。

    「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。マルコ6章8~9節主が弟子たちを神の働きにのために送り出した時のことばです。これでは何かがあったらすぐに困ってしまうと思わずにはおれません。しかし、ここで大切なことは、荷物を沢山持つことではなく、主に信頼を置くということです。また、どんな苦しいときにもくじけてしまわない心を持っていることではないでしょうか。そして、弟子たちは、主の力を心の内に、身体の中に、一杯にして出かけたのです。わたしも、どんな苦しいときにでもくじけない心を持ちたいと思います。主は出かけて行こうとする弟子たちに、何も持って行かないようにと命じられました。これは、不必要なものを持って行かないということです。...信頼。

  • 平和を

    「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」Ⅰペテロ3章11節「悪から遠ざかって、善を行ないなさい。平和な生涯を送りたいと願うなら、熱心に追い求めて、手に入れなさい。」同・LIB訳平和というものは、待っていれば、向こうから自然にやってくるというというものではなく、また何もしないでも続くというものでもありません。平和はひたすら追い求め続けなければなりません。次のような印象深い言葉があります。「平和のためには、戦争をするときの、二倍の苦労と努力が必要である」戦争を経験した人は、戦争中の生活がどれほど大変なものであったか思い出されるに違いありません。でも、平和はその二倍の努力と苦労が必要だというのです。主は平和を求め続けました。その生涯は苦難の連続で、ついに十字架につけられ、苦難の極みを味わいつくされ...平和を

  • 恵みにて

    「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」マタイ5章45節私たちは、目に見える区別にばかり気を取られます。金持ち、教養のある人、知恵のある人、力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、お年寄り、弱い人、貧しい人、力のない人、知恵のない人を見下したり、無視したり、忘れたりしやすいのです。しかし、死を前にして、神のさばきの前に立って考えるとき、お金や肩書などは何の力もないのです。すべて神の前には平等です。神の力の前に自分を置いてみた時に、一羽の雀さえ、野の一本の花でさえ、神の御心によって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人はこの世には一人もいません。神の恵みにならって...恵みにて

  • 祈り。

    「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」ルカ6章12節夜を明かして祈られました。人を選ぶ重要な決断をするのに、神から知恵と導きをいただくためです。この祈りは、ある人々はゲッセマネの祈りの次に重要な祈りであったであろうと言います。なぜなら、次に主が十二使徒を選ばれるからです。主はよく祈っておられました。短い言葉ですが聖書のあちこちに主の祈る姿が見受けられます。主の生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。多くの弟子の中から特に十二人を選ばれたのも徹夜して祈られた後のことでした。祈りの重要な第一歩は、まず始めることです。そのまま神がそこにおられることを想像して、できればそれを感じて、場所も時間も姿勢も問題にしないで心を込めて神のみ前にいることが大切です。心の落ち着くの...祈り。

  • 知っておられる。

    「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。」詩編139篇4節この詩編のことばは、紀元前九百年ごろの信仰者の叫びです。人がどこへ逃れようとも、神からは逃れない事が書かれています。人は孤独であり、また社会的なものと言われています。家族、友人、仲間と共に生きていくなかで、自分の失敗、あるいは全くの誤解で周りの人から排斥され、孤独になってしまう場合があります。そんな時に一番の助け手となり、ゆっくりと悩みを聞いてくれるのは、忍耐と愛に満ちた親、兄弟、夫婦、仲間や友人でしょう。しかし、その交わりの中にあっても、孤独のどん底で悩む者にとっては、本当の意味での支え手とはなり切れないかもしれません。しかし、神が共にいてくださる以上に心強いことはないでしょう。この口から言葉が出る前から私の考えを...知っておられる。

  • 真の勝利とは。

    「神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」詩編60篇14節神に任せきり、神と共に歩むとき、私にだって力ある働きができるのです。それでは、「力ある働き」とはどんな働きでしょう。第一に、エネルギーに満ちた、生き生きとした働きではないでしょうか。朝ごとに、神から、愛や慰めや励まし、いのちの力をいただいて目を輝かせて働くのです。第二に、世間の言う大事業、大成功とは違うかもしれませんが、人の役に立つ、神に喜んでいただける、永遠につながる価値のある働きではないでしょうか。神の目から見る偉大さと、人の考える偉大さは何と違うことでしょう。イエス・キリストは偉大な者になろうと思うなら、仕える者になりなさいと言われました。私たちは、神を信じることによって、神に祈ることによって、また神を愛し、神に従うことに...真の勝利とは。

  • 十分です。

    「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。……。」Ⅱコリント12章9節私たちは自分の都合のよいことばかり願い、また、それを叶えることが神の仕事であるかのように考えがちです。病気を癒してください。お金が与えられるようにしてください。この苦しみを取ってください…など。願うことは決して悪いことではないのですけれども、その後に「しかしながら、御心のままに」と付け加えることを忘れてはいませんか。そして神は言われるのです。「あなたには、私の恵みで十分である」と。神の愛というものは、人間を不幸、災難、苦しみから遠ざけることにあるのではなく、それらの試練に耐える力を添えてくださることにあります。誰しも試練から逃れたいと願いますが、にもかかわらず、与えられたときには...十分です。

  • 口が

    「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に/彼らが捕えられますように。」詩編59篇13節口はわざわいの元と言いますが、その第一は「高慢な言葉」です。チョトした言葉の端々に人を見下ろす心が出ます。人を見下す言葉は、人と人との心の通い路をシャットアウトし、また、自分では永遠に気づかないかもしれませんが、人の心を傷つけています。第二に、「のろい」です。呪いの言葉は、私たちが思う以上に私たちの口から出ているものです。恨みごと、裁きのことば、皮肉、トゲのある憎しみに満ちたやり返すことば、ことば…悪が悪を生む口の罪はのろいです。第三に、「あざむき、よこしま」です。人の美点を見つけいそれを褒めることは、気持ちの良い事です。心が通います。しかし、あざむき、よこしまと言うのは口先が巧みで心のねじ...口が

  • 備えよ。

    「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。マタイ3章3節洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ者の声」として現れました。彼は、神殿ではなく、学校でもなく、荒れ野で宣べ伝えました。町の大通りではなく、人通りのない荒野で叫びました。荒野とは、イスラエルが四十年間彷徨ったところであり、イエスが誘惑にあわれたところです。荒野はまた、人生の荒野、人々が愛を失い、冷たくなる場所でもあります。この荒野を、神の恵みの場所とするためには、悔い改めが必要です。悔い改めとは、神を中心に生き始めることです。すべてを神中心にやり直すことです。どんなに信仰深そうに見えることでも、真に神中心になっていなければ、それは形だけのもの、表面的なものに過ぎません。神はこの冷たく冷めた所へと、あなたを...備えよ。

  • 新しい戒め

    「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節イエスが愛されたというのが基準です。弟子たちは、イエスがどのように自分たちを愛してくださったのかを知っていました。イエスは愛を語ったのではなく、愛をお見せになりました。ご自分が模範となられて、それを実践されていました。したがって、弟子たちは、イエスが去って行っても、このイエスにならって前に進んで行くことができるわけです。どのようにして生きれば良いか分からないのではなく、模範にしたがって生きていくことができます。それは、イエスにならって人を愛して生きることです。「互いに愛し合いなさい」とイエスは言っておられます。ではキリストの愛とはどんな人間関係を言っているのでしょうか。い...新しい戒め

  • 二種類の涙

    「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」詩編126篇5節「涙とともに種を蒔く」とはどういうことでしょうか。この箇所をしばしば伝道の働きに解釈して、涙ながらに苦労して伝道するならば、必ず、束を抱えるような収穫を得ると理解してきましたが、この箇所はそのようなことを言うとしているのではありません。この箇所は働きを励ますことではなく、神とのかかわりのために必要な、神のお取り扱いとしての「種蒔き」のたとえです。マタイ13章5~8節いくら種を蒔いても、生えない事もあります。イエス・キリストのたとえ話にあるように、道端に落ちて鳥に食べられてしまう種もあれば、石ころだらけの石地に蒔かれて、すぐに芽を出しても、間もなく枯れてしまったり、雑草の生い茂るところに落ちて実を結ばない種もあるでしょう。これが人生の現実かもし...二種類の涙

  • 終わりの時が来る

    「あなたは『いつまでも、私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。」イザヤ47章7節私たちは極力、人生の終わりについて考えないようにとして生きていると思います。家族の死を通して、自分の先を見、人はより意味のある人生を生きたいと願うのではないでしょうか。死ぬと言うことがあるから、生きている今に価値が感じられる。老いるということがあるから、今の日々が大切になる、別れる時が来るから、一緒にいる今を大切にしたい。すべてに終わりがあるから、すべてがいとおしくなってくるのです。終わりから今を見ると、すごく気にしていたことも、それほど重要なことではないと気づかされることもあります。今この時にいかに生きるべきかをよく考える時を大切にしたいものです。わたしたちはいつまでも今の楽...終わりの時が来る

  • 塩として

    「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」ルカ14章34節喩えを語られているので、聞く耳のある者は聞きなさいと言われています。関心のない人、求道しない人はこの譬えだけで終わってしまいますが、その意味を解き明かしてほしい、そして自分にどのように関わるか知りたいと願っている人には知らされる内容です。キリストの弟子にならなければ、イエス様に付いてきても意味がないということです。私たちが本気でキリストの弟子になって、イエスに付いてきていないと、結局、世において役立つ者たちにならないのです。つまり人々に霊的な渇きを起こし、社会や人々の心にある暗闇、そこに光を当てることができないのです。十字架を誇ってください、パウロはそう言いました。その生活を歩んでいる時に、初めて自分では...塩として

  • くびき

    「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」マタイ11章29節この当時のガリラヤで使われていた「くびき」とは、二頭の牛に農具をひかせるための道具でした。二頭の牛がしっかりとくびきとくびきに繋がれて働くのと同様に、イエスのくびきには、私たちの重荷に苦しむものがしっかりと結び付けられ、力を合わせて重荷を引きずっていくことになります。そのために私たちの重荷は軽いものとされ、再び編み続ける力を取り戻すこともできるのです。イエスはさまざまな重荷にあえぐ私たちを招き、十字架の死によって、私たちの重荷を引き受け、重荷から解放してくださっていることを心にとめ、歩んで行きたいものです。「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであ...くびき

  • 豊かに満たされるために

    「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。」箴言11章25節奉仕とは、経済的、時間的労力の上で犠牲が求められます。これは避けることの出来ない犠牲ですが。この犠牲には恵みが伴います。その恵みの値打ちは計り知れないものです。私たちのささやかな犠牲と奉仕によって「他を潤す人は自分も潤う」という経験をする恵でもあり、さらにイエスにあって行われる犠牲には、永遠のいのちが約束されています。イエス・キリストは「自分の十字架を負い、そして、私についてきなさい」と言われ、またその報いとして、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では、永遠のいのちを受ける」と約束してくださいました。さて、神の律法の中に、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。...豊かに満たされるために

  • 違いが大切

    「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」Ⅰコリント12章20~21節人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、「必要としない。」と言っていることに注目してください。目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。けれども、見ばえがよいか悪いかで、その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、もちろんありません。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互い...違いが大切

  • 唇をどう使うか。

    「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」詩編120篇2節ある人に「体の中で一番尊いところはどこですか」と聞いたら、「舌です。神を賛美することができるからです」と答えました。「では、体で一番いやなところ、悪い部分はどこですか」と聞くとこう答えました。「舌です。人を気づつけ、人を殺すこともできるからです」と言われました。考えてみますと、三尺の剣より、三寸の舌の方が、人を傷つけ、人を殺します。悪意に満ちた中傷のことばは、告げ口もありますし、悪意はなく本当のことを言っているとしても、思いやりの知恵がないために、ぐさっと人を傷つけて殺す言葉もあります。私たちは、人々の偽りの唇、欺きの舌から守られたいと思いますが、まずは自分自身が偽りの唇、欺きの舌を用いない事を願い求めるべきではないで...唇をどう使うか。

  • 惜しむことなく

    「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8章32節ここで注目したいことは、「惜しみなく」ということばです。私たちは、人に対しても、神に対しても、惜しむという気持ちがつきものです。しかし神が私たちを助ける時には、惜しむということがないのです。神には出し惜しみするということがありません。「惜しみなく」です。つまり、この「惜しみなく」とは「無制限の恵み」なのです。神とともに歩む者には、いつも神が第二、第三の道を備えてくださることを知らなければならない。一つの道がふさがれ、失敗に見えても、神は次の道を備えてくださいます。どの道が一番良いのか、あるいはよかったのかは、時間と共に、神が示してください...惜しむことなく

  • 裁いてはならない

    人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」詩編58篇12節(こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」同)これは厳粛な場面です。詩篇でこれまで読んだところに何度か出てきましたが、黙示録にもたくさん出てきます。主が再臨されるとき天にいる人々が大歓声を上げて、悪者が滅びるのを喜びます。神を恐れかしこみつつ、その裁きを喜びます。物事を公平に正しく見極める目は必要です。しかし、この人が悪いと裁く態度は、裁く当人にとって精神衛生上非常に悪いばかりか、時々問題を大きくしたり、物事を混乱させたりします。イエス・キリストは、有名な山上の説教の中で「裁いてはいけません、裁かれないためです。あなた方が裁く通りにあなた方も裁かれる」と言われました。...裁いてはならない

ブログリーダー」を活用して、ハレルヤおじさんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ハレルヤおじさんさん
ブログタイトル
マラナ・タ
フォロー
マラナ・タ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用