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プロフィール
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ハレルヤおじさんさんのプロフィール

住所
垂水区
出身
姫路市

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ブログタイトル
マラナ・タ
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/malanata
ブログ紹介文
私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   
更新頻度(1年)

50回 / 365日(平均1.0回/週)

ブログ村参加:2009/07/20

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ハンドル名
ハレルヤおじさんさん
ブログタイトル
マラナ・タ
更新頻度
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マラナ・タ

ハレルヤおじさんさんの新着記事

1件〜30件

  • 終わりの時が来る

    「あなたは『いつまでも、私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。」イザヤ47章7節私たちは極力、人生の終わりについて考えないようにとして生きていると思います。家族の死を通して、自分の先を見、人はより意味のある人生を生きたいと願うのではないでしょうか。死ぬと言うことがあるから、生きている今に価値が感じられる。老いるということがあるから、今の日々が大切になる、別れる時が来るから、一緒にいる今を大切にしたい。すべてに終わりがあるから、すべてがいとおしくなってくるのです。終わりから今を見ると、すごく気にしていたことも、それほど重要なことではないと気づかされることもあります。今この時にいかに生きるべきかをよく考える時を大切にしたいものです。わたしたちはいつまでも今の楽...終わりの時が来る

  • 塩として

    「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。」ルカ14章34節喩えを語られているので、聞く耳のある者は聞きなさいと言われています。関心のない人、求道しない人はこの譬えだけで終わってしまいますが、その意味を解き明かしてほしい、そして自分にどのように関わるか知りたいと願っている人には知らされる内容です。キリストの弟子にならなければ、イエス様に付いてきても意味がないということです。私たちが本気でキリストの弟子になって、イエスに付いてきていないと、結局、世において役立つ者たちにならないのです。つまり人々に霊的な渇きを起こし、社会や人々の心にある暗闇、そこに光を当てることができないのです。十字架を誇ってください、パウロはそう言いました。その生活を歩んでいる時に、初めて自分では...塩として

  • くびき

    「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」マタイ11章29節この当時のガリラヤで使われていた「くびき」とは、二頭の牛に農具をひかせるための道具でした。二頭の牛がしっかりとくびきとくびきに繋がれて働くのと同様に、イエスのくびきには、私たちの重荷に苦しむものがしっかりと結び付けられ、力を合わせて重荷を引きずっていくことになります。そのために私たちの重荷は軽いものとされ、再び編み続ける力を取り戻すこともできるのです。イエスはさまざまな重荷にあえぐ私たちを招き、十字架の死によって、私たちの重荷を引き受け、重荷から解放してくださっていることを心にとめ、歩んで行きたいものです。「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであ...くびき

  • 豊かに満たされるために

    「気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。」箴言11章25節奉仕とは、経済的、時間的労力の上で犠牲が求められます。これは避けることの出来ない犠牲ですが。この犠牲には恵みが伴います。その恵みの値打ちは計り知れないものです。私たちのささやかな犠牲と奉仕によって「他を潤す人は自分も潤う」という経験をする恵でもあり、さらにイエスにあって行われる犠牲には、永遠のいのちが約束されています。イエス・キリストは「自分の十字架を負い、そして、私についてきなさい」と言われ、またその報いとして、「この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では、永遠のいのちを受ける」と約束してくださいました。さて、神の律法の中に、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。...豊かに満たされるために

  • 違いが大切

    「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。」Ⅰコリント12章20~21節人目につくからだの器官が、あまり見ばえのしない器官に対して、「必要としない。」と言っていることに注目してください。目が手に向かって、「必要としない。」と言っています。また、頭が足に向かって、「必要としない。」と言っています。けれども、見ばえがよいか悪いかで、その器官が必要なのか不必要なのかを決定するものでは、もちろんありません。それは、互いの器官がいたわり合うという、からだの機能です。パウロは、教会と人類を人間の体にたとえました。人それぞれが目であり耳であり、足であったりするわけです。目と足とは、いくら話し合ったとしても、お互い...違いが大切

  • 唇をどう使うか。

    「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」詩編120篇2節ある人に「体の中で一番尊いところはどこですか」と聞いたら、「舌です。神を賛美することができるからです」と答えました。「では、体で一番いやなところ、悪い部分はどこですか」と聞くとこう答えました。「舌です。人を気づつけ、人を殺すこともできるからです」と言われました。考えてみますと、三尺の剣より、三寸の舌の方が、人を傷つけ、人を殺します。悪意に満ちた中傷のことばは、告げ口もありますし、悪意はなく本当のことを言っているとしても、思いやりの知恵がないために、ぐさっと人を傷つけて殺す言葉もあります。私たちは、人々の偽りの唇、欺きの舌から守られたいと思いますが、まずは自分自身が偽りの唇、欺きの舌を用いない事を願い求めるべきではないで...唇をどう使うか。

  • 惜しむことなく

    「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」ローマ8章32節ここで注目したいことは、「惜しみなく」ということばです。私たちは、人に対しても、神に対しても、惜しむという気持ちがつきものです。しかし神が私たちを助ける時には、惜しむということがないのです。神には出し惜しみするということがありません。「惜しみなく」です。つまり、この「惜しみなく」とは「無制限の恵み」なのです。神とともに歩む者には、いつも神が第二、第三の道を備えてくださることを知らなければならない。一つの道がふさがれ、失敗に見えても、神は次の道を備えてくださいます。どの道が一番良いのか、あるいはよかったのかは、時間と共に、神が示してください...惜しむことなく

  • 裁いてはならない

    人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」詩編58篇12節(こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」同)これは厳粛な場面です。詩篇でこれまで読んだところに何度か出てきましたが、黙示録にもたくさん出てきます。主が再臨されるとき天にいる人々が大歓声を上げて、悪者が滅びるのを喜びます。神を恐れかしこみつつ、その裁きを喜びます。物事を公平に正しく見極める目は必要です。しかし、この人が悪いと裁く態度は、裁く当人にとって精神衛生上非常に悪いばかりか、時々問題を大きくしたり、物事を混乱させたりします。イエス・キリストは、有名な山上の説教の中で「裁いてはいけません、裁かれないためです。あなた方が裁く通りにあなた方も裁かれる」と言われました。...裁いてはならない

  • 神はすべての者を愛しています

    「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」ローマ14章3節主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることではない」とはっきりと言われています。食べ物に汚れたものなどない。安息日に働きさえしなければいい、と言うものでもなく、神が望まれるのは、もっと生き生きした愛であり、義であると言われています。人間は神の前では、誰もほとんど似たり寄ったりだということを知りながら、その小さなさに悩みます。相手とほんのわずか違うことを、私たちは怒ったり、非難したりします。神は、どんな人も使われるし、愛されます。愚かな人も賢い人も、勇気ある人も小心な人も、だらしない人も潔癖な人も、それぞれ、そ...神はすべての者を愛しています

  • 隠れ場

    「烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」詩編55編9節ここには、人生の重荷が耐えがたくなった時の逃避心が、絵のように歌い上げられています。「とにかく人の世は住みにくい。住みにくさが高じると住みやすい所へ引越ししたくなる」というのは、夏目漱石の「草枕」の冒頭の有名な句ですが、どこに引越ししたとしても、自分が変わらない限り、変わらないのが人生ではないでしょうか。しかし、自分が変わるなら、周りまで変わるのが人生ではないでしょうか。あるとき友人から、「今すぐやめてしまいたいと思うとき、逃げ出したら負けだ、辞めたくも変わりたくもないとき、いや人から惜しまれ、引き留められる時こそ辞め時だ」と言われたことがありました。振り返ってみますと知恵のことばだと思います。今すぐ遠くへ逃げ出したいと思うときは、今すぐ、神...隠れ場

  • 心配しないで

    「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」マタイ6章27節「思い悩むな」という教えは、思慮なく、計画性なく、責任を負わない者であれということではない。思い悩みから解放されるには、神が人を造られたのだから人に必要なものは与えられるとまず信じることです。また、神と心配は共存できません。とはいえ、「心配してはなりません」といくら言われても心配してしまう弱さが私たちにあります。人間にとって一番大事なものは命だということは誰も異論はないと思います。山のようなお金を手に入れても、夢のような結婚ができても、死んでしまったら終わりです。では私たちはどうやって命を手に入れたのか、自分で手に入れた人は誰もいません。命はただ与えられるしかありません。しかもいつまで自分の命があるのかさ...心配しないで

  • 神の家に

    「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」詩編52編10節この世の中には、不公平、矛盾、困難、試練が満ちています。怒りたくなるようなこと、すねたりひがんだりしたくなるようなことが沢山あります。しかし、目を上に向け、神の深い恵み、神の徹底的な正しさ、きよさを見るなら、私たちは自分の幸せ、自主性を見出します。神は、こんな小さな私まで愛してくださり、生かしてくださるのです。この作者は「私は神の家にある生い茂るオリーブの木のようだ」と言っています。なんという積極的、楽観的な幸せでしょう。私たち人間の幸せの根本は。神の恵みの中に生きる自分自身を見極めるところから始まるのです。次に、神を見上げるとき、私たちは自分の使命を見出すのです。それは、どんな環境の中でも、神の恵み...神の家に

  • 父の愛

    「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」ルカ15章22節ここで、雇い人の一人にしてください、と息子が言う前に父親が話し出しました。ここに、大いなる恵みがあります。私たちがいかに悔い改めたか?とか、私たちの態度がどれだけ改まったか?とか、そういったことの前に、圧倒的な恵みによって、愛によって、父親は息子を息子として受け入れ、祝宴を開いたのです。なんという恵みでしょうか、なんという愛でしょうか!放蕩息子は私たち人間を、父親は神を表しています。放蕩息子がすべてを無くして帰ってきたとき、この父親は三つのものを準備し息子を迎えました。良い着物、指輪、くつなどみな、息子の資格を示すものです。しもべは、くつをはくことはありませんでした。父親は、罪を赦してくれたどころか...父の愛

  • 仕えるということは

    『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』マタイ25章40節わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。という聖書のみ言葉を実践しましょう。イエスは、神に仕えるということは、人に仕えることであると言っておられるのです。神は私たちが人生で、日常の人々のふれあいの中で、どのように過ごしてきたのか、その在り方によって、羊と山羊を分けるように、永遠の生命と、永遠の刑罰を受けるようにされるというのです。王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる...仕えるということは

  • 喜びたたえよ

    「わたしは御力をたたえて歌をささげ/朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。」詩編59編17節どんなことがあっても、どんなにつらく、苦しい日々でも、この詩編の記者が心に決めと実行してきたこと、それは「朝に喜びの歌を」歌うことです。仕事の関係や生活のスタイル、リズムの違いで朝早く起きられない人も多いと思います。しかし昔から「早起きは三文の得」という言葉があるように、人々は早起きの利点を感じていたのではないでしょうか。朝はすべてが新鮮で若々さに満ちたとっておきの時間です。また、誰にも邪魔されることのない自分だけの静かな時です。こんな時に起き出して心から神の力をほめ歌い、喜びの賛美を歌ったらどうでしょう。心そのものが朝のようにすがすがしく若やぐでしょう。そして、心に神の愛や恵み...喜びたたえよ

  • 命であり霊である。

    「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」ヨハネ6章63節これがイエスの言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。イエスの御霊のことばと、人々の肉のことばのすれ違いでした。イエスは、霊のいのちのことを語られたのに、人々は肉のいのちのことを考えていました。この世には2つのいのちがあります。御霊のいのちと肉のいのちです。ローマ8章2節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則があります。これに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなって...命であり霊である。

  • 神から遠い人。

    「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」ルカ18章9節自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、そのような人がどのような心の状態になっているかを、イエスは次から描かれます。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。対照的な人物が現われました。うのぼれ、高ぶっているのがパリサイ人です。そしてイエスは、このパリサイ人は神から遠いところにあると言われています。高ぶる者は奉仕ができなくなります。報酬をもらい、あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人とは働きやすい者です。そうした働きも大切ですが、人の目にふれないが、他者のために働く奉仕の生活も...神から遠い人。

  • まっすぐに

    「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」Ⅰコリント9章22節人々が救われるために、福音のために、自分の生活習慣を変える柔軟性をパウロは持っていました。私たちも同じようになりたいですね。例えば、私たちは、お中元など、人間関係を保つための習慣をしなくてもよい自由が与えられました。聖書には、義理人情という考えは一切ありません。すべては神の恵みであり、見かえりを期待しません。けれども、もし私たちが、未信者の方からお中元を受け取ってばかりでお返しをしなかったら、どうなるでしょうか?彼らは、私たちが人間関係を重んじない変な人たちと受け止めるでしょう。そして、これがクリスチャンのあり方か、と思うでしょう。不必要に壁を作...まっすぐに

  • 知っておられる神。

    「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」箴言5章12節自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、主は心を配っておられるのですから、必ず逃れの道を備えてくださいます。大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。決して、ご自分のところに来る人を拒みません。主のところに行けば、主がその傷をご自分の体に受けてくださり、そして自分の体の中で、魂の中で、傷の治癒を行なってくださいます。全知全能の神は、すべてをご覧になる神です。神は私たちが行うすべてのことの中に存在しておられます。私たちは神うちに生き働き、存在しているのです。では、私たちは日々神のみ前に歩んでいると自信をもって言えるでしょうか...知っておられる神。

  • 隠されている。

    「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」コロサイ2章3節私たちの人生を豊かにする知恵と知識の宝が、この聖書の中に隠されています。人生の中の数十年は、今の私たちには非常に大きな意味を持ちます。現在の自分を作り上げてきた数十年ですが、その歩みの中で何度イエス・キリストの内にある恵みの宝によって助けられたか、数え切れません。聖書のみ言葉によってどれだけ守られたか、どれだけ導かれたか、またあるときはどれほど強く罪を示され悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。長い間使っている聖書はボロボロになっても、聖書のみ言葉はますます新鮮でますます恵みがあふれています。どんなに歳月が流れても、神のみ言葉はその恵みの新鮮さを失うことはありません。どのようにしてか、それは互いの愛の交わりの中...隠されている。

  • 三人の盲人の話

    「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」詩編111編10節こんなお話を聞いたことがあります。「三人の盲人の話」という物語です。三人の目の不自由な人が動物園に行き象を見学しました。一人は象の足をさわって大きな柱のようだと言い、一人は象の腹を触ったので大きな岩のようだと言い、もう一人は象の鼻を触りホースのようだと言いました。この三人の目の不自由な人が自信をもって言っているのは象の総てではありません。同じように、私たちも日常生活において、この三人のように一部を触って総てであると考えているのではないでしょうか。また私たちは自信をもって絶対と言い切ることができるでしょうか。私たち自身は何も言い切ることができない存在です。聖書は私たちに何を教えてくれているのか、聖書こそ私たち...三人の盲人の話

  • つまずきは

    イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。」ルカ17章1節イエスは、「つまずきを起こさせる者はわざわいだ。」と言われました。これは、罪を悔い改めて信仰に入ろうとする者たちを妨げるような人たちの事をいいます。ここに「小さな者の一人をつまずかせる」とあります。これは、必ずしも子どものことを意味していません。この世においては小さな評価しか得ない者、あるいは信仰によってへりくだる者、こうした者たちが小さい者です。イエスのところに、罪人や取税人が集まってきました。そして乞食ラザロもいました。そうした人々が小さき者です。こうした人々が信仰を持ち、それを保つのを妨げるようなら、金持ちがハデスで苦しんだように、厳しい裁きを受けることになる、という警告です。「こ...つまずきは

  • 順送ですから。

    「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」レビ記19章32節自分が年老い始めて思う。このごろ、年老いた人たちに対する不親切が、社会の中に広まっていますが、それは汚れたことであり、神の喜ばれない事でもあります。私たちは、老人の方々を見下げるのではなく、むしろ尊敬して接しなければいけません。老人を敬うこと、これは聖いことなのです。こんな会話を小耳に挟みました。「お父さんの老化が酷くなったからお世話が大変でしょう」「でも、順送りですから、苦労して育ててもらったのだから。」と。電車の中のお二人の会話です。自分が年老いた両親を見て、老いていく。子供がそれを支える。その子供がまた老化し、孫が世話をしていく。この順送りという考えは、"愛"がなければ生まれてはきま...順送ですから。

  • 平和のもと

    「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5章9~10節キリストは、「心の貧しい人、悲しむ人、正義に飢え渇く人、平和のために働く人、正義のために迫害される人、キリストのために人からののしられ、責められ、数々の悪口を言われる人」が「幸せである」と言っています。キリストの言う「幸せな人」は、過去に満足している人ではなくて、前向きな姿勢で理想をもって、努力している人たちです。また今の自分の人格に満足してしまったり、あきらめたりするのではなくて、常に理想を目指して、自ら鞭打って努力することが人間として本当に生きているという事なのです。自分は他人に迷惑をかけていると気づく人、直そうと思ってもなかなか直せなく、人格の至ら...平和のもと

  • 扉は内側から

    「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ヨハネ14章1節画家が持っている大きな絵には、石造りの邸宅の入り口描かれていました。道の片側には優しい繊細な花々が描かれています。反対側にはとげのある木の茂みがありました。扉の前に一人の男が立っています。長く白いロープを着て右手は扉を叩く高さにあります。花は人生の喜びと美しさを現わし、とげは苦しみを示します。扉は人の心を象徴し、扉を叩く人はキリスト・イエスです。しかし、ドアを開ける取っ手が描かれていない!この画家は答えました。「取っ手は要らない。キリストがノックすると内側から開けられるはずだ。そして、キリストは招き入れられる。」人は誰でも自分の心の支配者です。心を開こうと開くまいと自由です。神は人の自由を尊重するところから。無理に押し入ろうとはな...扉は内側から

  • 忘却は愛。

    「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」コロサイ3章13節赦すことへの勧めですが、「赦す」という意味を考えなければいけません。それは、端的にいうと「過ぎ去らせる」ということです。お互いの間に、何が意見の不一致があって、気まずい思いになったとしましょう。このときに陥りやすい罠は、「私はこのように話した、あの言葉が、このように言い換えればよかったのね。」云々と、細かいことの分析をすることです。自分たちのことを掘り起こしたところで、何も良いものが生まれません。むしろ、キリストにあって互いにこの問題を過ぎ去らせ、再び新たに関係を気づくことが大切です。ウィリアム・バークレイはクリスチャンとして私たちが人を許すために三つのことを学...忘却は愛。

  • 真の豊かさとは。

    「主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」詩編37編16節「ひとりの人の持つわずかなもの」とは一体何なのでしょうか。それは、豊かな命、豊かな心ではないでしょうか。自分は正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、人にも罪人だと思われていた取税人が、二人並んで神殿の前で祈りました。パリサイ人の祈りは、「この横の取税人のような罪人でない事を感謝します。神よ。私は何事も正しくやってきました。」でした。取税人の祈りは、「神よこんな罪人のわたしをあわれんでください」でした。イエス・キリストは軍配を取税人の方にはっきり示されたのです。罪を悔い改めて神を恐れ(畏れ)、神に新しい心をいただいた正しい人のその心、その命こそ豊かなのです。見えるところは僅かでも、それは...真の豊かさとは。

  • 平安のために

    「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5章10節ここで考えなければいけないのは、それは、第一義的に神との平和です。一人ひとりが、罪の赦しの必要があります。家族の一人ひとりにも罪の赦しの必要があります。これは家族といえども代わって赦しを受けることはできない。その心の一新があってこそ、真の平和が訪れます「正義」「平和」という言葉がよくつかわれますが、それは社会的に大きなことだけとは限りません。人と人との関わり合いにもそれが必要です。お互いにかけがえのない兄弟であり、社会を作っていく仲間であるということを全面的に認めた時に、好き嫌いによって過大評価をしたり、過小評価をする資格や権利のないことが分かると思います。そこには正義があります。感情的で生理的な好き嫌いは一生付きまとう...平安のために

  • 任せなさい。

    「あなたの道を主にまかせよ。」詩編37篇5節愛による自発性、これは主との親しい交わりの中で培われると信じます。「ゆだねる」ためには、主を知ること、主との親しい交わりが必要です。しかし、ゆだねることが私たちになかなかできないのです。ゆだねる相手が神にもかかわらずです。ここに私たちの根深い罪があります。主にゆだねること、主を信頼することは私たち信仰者の生涯のテーマと言えます。さて、私たちの人生には過去の罪、人生の障壁、人間関係のもつれ、嫌なこと、邪魔なものなど、心の願いの成就を妨げるようなものがいっぱいあります。心配もその大きなことの一つです。そんな重荷を主にゆだね、転がしていって主の前においてお任せすると、主が始末をしてくださり、負ってくださるのです。ペテロは「あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい、神があな...任せなさい。

  • 本物輝きとは

    「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5章16節私たちが、自分の信仰、神に対する希望をただ心の中に留めていくことだけでは不十分だということです。信仰とは公にするものです。口で告白するものです。それは、教会のみならず、世の人に対しても明らかにすることです。これには危険が伴います。なぜなら、自分がキリストにそぐなわないことを行なえば、すぐに周りの人はそれを認め、「だからクリスチャンは・・・」と言って、キリストの名が侮られる可能性があります。けれども、私たちはキリストの使節です。出て行き、キリストの権能を携えて、その力を行使する者たちです。あるテレビのディレクターが、放送雑誌に書いていました。「最近の若いタレントた...本物輝きとは

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