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マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
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姫路市
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2009/07/20

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  • 主の御名

    ・・・、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。Ⅰサムエル17章45節B主は私の(牧者)であって、主は私と(共)に歩んでくださり、私が病み悩むときも(癒)してくださる神です。また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵み持って(備)えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。主は私の頭の上にある(旗)ですと宣言するとき、(主の)(平安)が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。(万軍)の主であり、(全能)の神だからです。牧者(ローイ)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。詩編23:1口語訳共に(シヤンマー)その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。エゼキエル48:35癒す(ラファ―)わたしはあなたをいやす主である。出エジプト15:26備え(イルエ)「主の山に、...主の御名

  • 頼れるお方は

    「主はこう言われる、『おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる』。」エレミヤ17章5節人に頼ることも、偶像礼拝に関わります。神以外に頼っているものがあれば、それが偶像ですから、人に依存することも偶像です。もちろん、私たちは互いに必要です。けれども、神から与えられた交わりであり、その交わりそのものが第一となってはいけないのです。あくまでも神の礼拝が第一であり、それから互いに交わりであり、人との関係であります。「のろわれる」とは怖い話です。なんだか神から脅されているように聞こえますが、そうではありません。神の「のろい」「刑罰」はあなたの選択と決断によって、自らが引き寄せているものです。雨降りのなかに傘も差さずに出て行けば必ず濡れます。しかし、屋根の下に入れば濡れません...頼れるお方は

  • 平和の基本

    「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」ピリピ2章3節~4節自分はできていない、駄目なのだというのはへりくだりではありません。むしろ高慢ですらあります。自己憐憫というのは、未だ自分のことばかりを考えているのであり、自己中心的です。自分を神と隣人のために忘れていること、それがへりくだりの結ぶ実であります。一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。自分のことではなく、キリストのことを思うことです。英語ではJOYというのは、初めにJ(Jesus)、次にO(Others)、それからY(you)です。初めにイエスを、次に他の人たち、それからあなたとなっていれば...平和の基本

  • 人はみな草のようだ

    「声が聞こえる、『呼ばわれ』。わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ』。」イザヤ40章6節人の世に生きていると、物質文明の絶頂期にあるため、人の力とわざが際立ってみえます。しかし、神の目からご覧になると、まことに「人は草」のように弱く、小さな存在です。大地がチョット揺れると、一瞬にして瓦礫となって、命を失います。まことに脆い、はかないものです。それを忘れて、人が何者かであるように思うなら、必ず報いをうけるでしょう。詩篇40:7「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ」主の時が来れば、ここでは「主のいぶきがその上に吹く」とありますが、主がご自分の意思一つで、これら人間の栄光をしぼませることがおできになる、ということです。...人はみな草のようだ

  • 望郷

    けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。ピリピ人への手紙3章20節「心は躍るよ心は躍るよカナンの地想うだに我が胸躍るよ」聖歌642番より(ヨルダンの彼方に。)一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしい...望郷

  • 渇いていますか

    見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。アモス書8章11節これが、今日を警告している言葉であると言えないでしょうか?御言葉はたくさん語られています。アモスが獅子のように吼えたように、この世に対する神の声は至る所に聞こえています。主の奉仕者、御言葉を語る者が、もっともたくさん起こされなければいけません。どんどん、御言葉を、神のご計画全体を伝え聞かせなければいけません。こんなに分厚い聖書が、私たちの目の前にあるのです!これを読ませ、教え、悟らせる必要があるのです。少しからだの調子が悪くって、入院した、検査漬けで聖書を読むことが出来なかった。と言う程度のものではないのです。神不在の世界が必...渇いていますか

  • 微笑み

    ほほえみは、お金を払う必要のないものだが相手にとってはひじょうな価値をもつものだほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わないフラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまるどんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しくいかに貧しくても、ほほえみの功徳によって飛んでいる家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる疲れたものには休息に、失望するものには光になり悲しむものには太陽、さまざまの心配に対しては、自然の解毒剤の役目を果たすしかし買うことの出来ないもの、頼んでも得られないもの借りられもしない代わりに、盗まれないもの、なぜなら自然に現れ、与えられるまでは、存在せず、値打もないからだもしあなたが、誰かに期待したほほえみを、得られなかったら...微笑み

  • 真実は

    いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。ルカの福音書12章23節さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。まず、頭をつかって優先順位を考えることです。着ている物と体であれば、もちろん体の方が大事です。体を隠すために、温めるために着る...真実は

  • 近くにおられた神

    「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」詩編10編1節見ず知らずの道でも。寂しい道でも人目につかない場所でも、ひとりで歩いているのではない、あなたの足跡が近くにあるから。たとえ今苦しみと虐げの只中であっても神は見ておられる虐げにあうとき、苦しむとき、私たちは、主の御名という砦があります。頼るところがあります。「虐待された人々はみな、主のもとに来ます。主は苦しんでいる人々の隠れ家です。」詩編9:9神を見ることができなかったら、話しかけてみよう。神が見えなくとも、そこにおられることがわかっているように語りかけてみよう。必ずこたえが聞こえてくるはず。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に...近くにおられた神

  • 食べ物

    ・・・・・。神がその人を受け入れてくださったからです。ローマ14章3節「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」「私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方が誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい」クロムウェル教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛...食べ物

  • 愛がないから

    彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカ10章27節神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。神を知っている、私たちが、世の光、地の塩でなければならない私たちが、ぜんぜん、神のことを理解していないために、私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、それでこそあなたの内に私は生きるのです、とても、とてもじゃないですが、出来ません、そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、私には不可能、出来ません、ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。従う事こそ、理解への道。ガラテヤ5:1...愛がないから

  • 元気のために

    今日は聖書からではなくキリストの平和からの証ですさて、皆様方はこの一年間にどれほどの感謝をささげることができたのでしょう。キリストの平和は健康のためにとても良いものです物です。多くの人達の心や体が病んでいる最も大きな原因は何でしょうか???それは怒り、憎しみ、赦せない心です。それらは、あなたがたの心や肉体を蝕み、様々な病気を引き起こしますもしそういうものがあなたの心にあるのならば、主イエスのみ前で告白し、悔い改めていきましょう。そして、その代わりに、キリストの平和が心を支配してくださいとお願いをしましょう。キリスト・イエスの平和に勝る薬はありません。この薬はネットでも買えませんましてや市販の薬屋さんにもありませんあるのは主イエスのみ体である教会にて無料で手に入れることができます。やっぱり聖書のみ言葉が必要...元気のために

  • クリスマスを

    「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス、この日には二千年以上にわたって、世界中の人が祝っていますしかしこのヨハネ3章16節の恵みを知っているならこのクリスマスを神に感謝し神のみ前にひれ伏す時としたいこの礼拝こそが真実のクリスマスです。賑やかなクリスマスもいいですがこのクリスマスをイエスと二人っきりの喜びの日としませんか信じ、希望し、愛する。この三つは昔からキリスト教が人間にとって最も大切なこととして教えてきたことです。心の深いところで強く信じ、広やかで肯定的な希望を抱き、心身を費やして人を愛することを忘れてしまったのでしょうか。その結果、多くの...クリスマスを

  • 隠れ家

    わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。詩篇71編3節何とかして自分で擁護する、あるいは他の人たちに擁護してもらうことを願います。しかしダビデは、「あなたこそ、私の巌、とりでです。」と主こそが擁護してくださる方であると宣言しています。人生の海のあらしにもまれ来しこの身も不思議なる神の手により命びろいしぬ※いと静けき港に着きわれは今安ろう救い主イエスの手にある身はいともやすしかなしみと罪の中より救われしこの身にいざないの声もたましい揺すぶること得じ※くりかえしすさまじき罪のあらしのもてあそぶまにまに死を待つはたれぞただちに逃げこめ港に※くりかえし聖歌472よりあなたには、身も心も委ねきれる、逃れの場所がありますか。その所は本当に安全でしょうか。...隠れ家

  • 真実の自分を

    「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」黙示録3章17節「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない」というのは、いまの自分の生活に満足している姿です。もちろん主にあって満足する心は大事ですが、ここでは、神がなくとも、キリストがいなくても、別に大きな支障はないとする心です。自己満足の状態に対して、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」と言われています。私たちの自己評価と、主の評価とは、このように正反対になるほど異なることが多いです。私たちは人と比較して、「自分はそんなに悪くない」と思ってしまいますが、私たちが比較すべき対象は、...真実の自分を

  • なに弁慶

    「私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。」詩編101編2節人は自分の家の中でどのように歩むかが大切です。よく「内面」と「外面」と言いますが、私自身も含めて、外面は大変良いけれども内面の悪い人が多いのです。(あんたには言われたくないよ。と言われそうですが)外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、家の中では我が儘で自分勝手で、ありがとうもおはようも、ごめんなさいの言葉もないと言うことがあるのではないでしょうか。(家の中にこそ、本心が出るところはありません)聖書に出てくるノアはいろいろ欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアの告げ、そして神に...なに弁慶

  • 祈り

    「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」詩編72編7節これは公正と平和を願う祈りです。(今この地球全体の願いでもあります。)天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われてい...祈り

  • チャンス

    「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」ルカ13章8節番人は肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。さて、いちじくの木はイスラエルの民を表しています。主人は父なる神、番人はキリストです。神はキリストを遣わされて、さまざまなしるしを彼らの前に示されました。ここに、『見なさい。三年もの間、やって来ては、・・・・。』とあります。神は実がなることを期待てその木を植えられました。が。その木には葉ばかりで実がありませんでした。この三年という数字、実はイエスの公生涯はこの時点でおおよそ三年が経過していました。神はその一人子を通して実がなることを期待しておられました。ここにさばきの遅延と神のあわれみと忍耐とを見ること...チャンス

  • 高くされるために

    「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ14章11節これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。本当の謙虚さとは、人ではなくキリストを見つめることにあります。ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くすると言うことです。ここを狙われると信仰は崩れます。何故でしょうか。まず第一に、神にゆだねることができなくなります。人生には、自分の思いどおりに恵まれる時があり、恵みも喜びも感じられないときもあります。信仰とはこのようなときにも神に自分の身をゆだねますが、高ぶる者はこれが出来ません。次に悔い改めが出来なくなります。...高くされるために

  • 貧しいとは

    「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」ルカの福音書6章20節今通りゆく人たちにこう言う質問をしたら一体どういう答えが返ってくることでしょう。「あなたにとっての貧しとはなんでしょう。」今私たちの生活は必要最低限の衣食住は守られています。「衣食足りて礼節を知る」と言うことばがありますが、本当に貧しいのは心と心の貧しさ、人を思いやることの貧しさ、優しい言葉をかけることのない貧しさなどではないでしょうか。マザー・テレサは、インドのカルカッタのロレット修道院の経営する学校の教師でした。そこには美しい庭があり、中流階級の子供たちが学んでいました。しかし、修道院の外では、食物のない人々、家のない人々等々、貧困の世界がありました。マザー・テレサはこの状態に心を痛めていました。そしてあるとき、「貧...貧しいとは

  • 究極的目的

    「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」伝道者の書2:11地上の人生の成功の意味は何なのだろうか。スティーブ・ジョブズはアップル社を創業し、この世的には栄華を極めたが、56歳ですい臓がんのために亡くなった。彼は生前「墓場で一番の金持ちになるなんて何の意味がある」という言葉を残している。ジョブズの言葉「墓場で一番の金持ちになるなんて何の意味がある。今日は最高だったといって眠りにつく。私にはこっちのほうが重要なのだ」。旧約続編シラ書14:12-17「次のことを心に留めよ。死は必ずやって来る。しかし陰府の定めはお前には示されていない・・・お前が苦労して得たものは、他人の手に渡...究極的目的

  • 主の家に住まう

    「たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。」詩篇27編3節まず知っていてほしいことは、いろいろな面で攻撃を受ける時に、審判者であられる主が戻ってこられることをです。神に信頼する時、何者をも恐れない生き方ができます。このような安心を得たいと多くの人々は努めているのではないでしょうか。しかし、金銀財宝を積み蓄えようとも、この平安を得ることはできません。むしろ、そのようなものから離れて、退路を断ち、神のみに心を委ねることが幸いです。あなたの「頼むところ」はなんでしょうか。そして、私にとって生涯の願いは「主の家」に住むことです。ここにこそ、神との絶えざる交わり、神の現臨の中での平安が豊かに在り、それらは私のため...主の家に住まう

  • 神の哀れみに、縋りつく

    「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17章10節神が人を見る視点は顔かたちや、はでなパフォーマンスではなく、外に現れた現象に囚われず心深くに隠れた動機を探られます。また、様々な試練を通して私たちの思いを知ろうとなさるのです。ある意味で怖い話ですが、神に真実に従い、赤裸々に自分をさらけ出しているなら、なにも恐れることはいりません。神は私たちを知り尽くしてそれぞれに応えてくださるのです。ダビデはこう祈っています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」そして彼は続けて、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」傷ついた道を知らされることに...神の哀れみに、縋りつく

  • 謙遜と高慢

    人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。「私どもは、自分を見てへり下るのではなく、十字架のあの方を、見てへり下るのである」マ―レ「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18:12「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」箴言22:4高慢は破滅に先立ちます。そして高慢の現われとして、人の訴えや話を聞かないというものがあります。自分で勝手に解釈して、自分の都合の良いようにしてしまうことも、「よく聞かない」ことになります。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」コロサイ3:12平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。この風潮が、私たちの目をく...謙遜と高慢

  • 委ね切って

    「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。しかし、彼女は娘のために、イエスに取りすがります。だが弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。イエスのお答えも「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」でした。しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわり...委ね切って

  • 安心して

    「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6章31節「養って下さる神の存在を信じる」時に、人は思いわずらいから解放される。まことの神を知らない人の特徴というのが、神を知らないがゆえにそういったことに(衣食住)心配していると言うのが特徴です。神は私たちが思い煩うことを喜ばれません。それどころか、嫌われます。なぜなら、神は「天の父」であって、私たちはその子供たちだからです。親が付いていながら、子供が心配したり、思い煩って落ち込んでいれば、親は悲しむでしょう。信頼されない親ほど、情けないものはありません。ですから、神は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです。自分の子を養うことが父の大きな喜びなのです。養われる神がおられる、導かれる神がおられる、支えられる神が...安心して

  • あなたには何の権利もないのです

    「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」ルカ6章41節別な訳ではこうです。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」「自分の目に材木が入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのでしょう。」私たちは、イエスを見つめることなくして、他の人を見つめることがしばしばあります。イエスを仰ぎ見た後に他人を見るのではなく、自分自身を見なければいけません。自分のことは棚に上げて人の弱点をとやかく言って裁きがちな私たちに、大切なことを気づかせてくださいました。私たちはどうしても自分に甘く、他人に対しては厳しくなりがちです。(私はあなたとは違うという思いと、私は正しいという心がこのよ...あなたには何の権利もないのです

  • 祈り

    「生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」詩編72編7節これは公正と平和を願う祈りです。(今この地球全体の願いでもあります。)天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われてい...祈り

  • 謙遜と大胆さ

    「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」マタイ15章27節弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。「パン屑はいただきたい」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。彼女を動かしていたのは、愛です。...謙遜と大胆さ

  • 私の主が執成しを

    「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8章34節神の義によれば、私たちは罪ありと訴えられます。けれども、今は、神の義は、キリストを信じる者を義と認めることにおいて現れました。したがって、私たちを訴えることができるものは、誰一人、何一つありません。私たちが肉の弱さのために、罪を犯してしまっても、キリストは私たちのために弁護され、とりなしをされます。「わたしは、この者のために血を流しました。この者が受けるべき罪の罰を、わたしが変わりに受けました。」ととりなしてくださるのです。私たちの罪のために死なれただけでなく、神の右の座で執り成しをしてくださっているので、私たちを終わりまで救うことがおできに...私の主が執成しを

  • 神の国の市民です

    「けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。」ピリピ人への手紙3章20節まず最初に、「神の国の市民」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。と言うことをしっかりと信仰として、日常の生活に植え付けてください。一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってき...神の国の市民です

  • 無用です。

    だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。マタイの福音書6章34節この不安定な時代、確実なものを見出しにくい時代。明日の事に思いを馳せ、思い煩いやすい者です。思い煩いの原因それは、恐れるということでしょう。ではその原因とは何でしょうか。40パーセントが、これから起ころうとすること。30パーセントが、過去にあったこと。12パーセントが、有りもしないこと。あとの残りが、人間関係です。以上が、恐れの原因でしょう。世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物が溢れるようになった社会に心の病が始まるということです。物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。けれども物が溢れているところに、私たちは物そのものに仕える誘惑が増えます。そして物...無用です。

  • 一緒に

    「すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」出エジプト33章14節クリスチャンもそうでない人も問題を持ちます。同じ不幸が押し寄せます。病にかかるとクリスチャンは、なかなか薬を飲まないそうです。それは自分が病気にかかっていることを認めたくないし、クリスチャンが特有に持っているプライドがあるからです。でも、私たちはまったく同じように問題を持ちます。違いは、主がともにおられるか、そうでないかであります。主がともにおられるかそうでないかによって、その人がクリスチャンかそうでないかの決定的な違いがあるのです。主は私を見上げて、「さあ。来なさい」と。愛の慈しみに満ちた瞳で私を下から見上げている。どうしょう。踏み出せば良いだけの事なのに、何かが、私を後ろに尻込みさせる。それは、私の自我...一緒に

  • 疲れた ???。最後の一歩

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節ここでの「重荷」は、自分を喜ばせようとする重荷です。私たちが、何とかして自分を喜ばせようとしても、満ち足りる事がなく、いつも不安です。現代は、「自己」という言葉が好きです。「自己実現」「自己尊厳」「自己啓発」など、自分を喜ばせようとする考えが中心になっています。けれども、現代はまた同時に、心の豊かさを求めています。逆に言うと、現代人は心が満たされいていないのです。この矛盾を抱えているわけは、自分を喜ばそうとしているところに起因しています。自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている休みを得る事はできないのです。神を知るというのは、いわゆる...疲れた???。最後の一歩

  • そのままで、

    わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43章4節ここには、主ご自身が自ら「わたしはあなたを愛している」とイスラエルの民に語ったフレーズのある有名な箇所です。このフレーズは本来「主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった」主の民に対して、主が語っている一方的なラブ・コールなのです。いわば片思いの愛です。名も知らない方の詩を紹介します。「『そのままでいい』どれぐらい信じているかな「そんなこと言うけれどこれしなかったらダメなんでしょ?ああならないといけないんでしょ?何の役にも立たなかったら、見放すんでしょ?だってこのままの私が愛されるはずない、だからムチ打って働いているよ、疲れているのにあなたのためだから、愛してくれるのでし?」でも神さまの愛はそんなんじゃない。「その...そのままで、

  • 鍛錬

    「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」Ⅰテモテ4章7節悪いものから守られるのは、悪いものがいかに悪いかを知ることよりも、むしろ健全な教えによって自分を整えることに他なりません。私たちは敬虔のための健全な教えはないがしろにして、知らなくてもよいような事柄に多くの時間を割きます。しかし聖書ほど矛盾や錯誤に満ちた書はありません。それだけに、細かく詮索すれば、膨大な論争の種になりますが、それは「俗悪で愚にもつかない作り話」です。それよりも、聖書の言葉を単純に信じて、みことばが語る神様のみ心を知り、生活に生かす訓練、神を敬う訓練をしましょう。説明できなくても、首尾一貫しなくても、信じて喜び、安心を得て、感謝が絶えなければそれ以上の幸いはありません。鍛錬

  • 人の怒りと神の義

    「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」ヤコブ1章20節ここで言っている人の怒りとは、妬みや争いから生じている怒りです。私たちは、自分がいつのまにか自分の義の中に陥っていないか、心を見張っている必要があります。神の名を使いながら、実は神の義ではなく自分自身の義に陥っていることです。しばしば言われるのは、「正しいと言い張るのが、正しくない。」であります。正しいと言い張ると、そこには柔和さがなくなります。憐れみがなくなります。へりくだりがなくなります。しかし、これらこそが神の義に至るものであり、自分の理解する正しさではないのです。私たちはその心をイエスの十字架の血潮のゆえに消し去っていただかなければなりません。「義」とは正しいことですが、絶対的に正しい方は神以外にありません。人はとかく「自分は...人の怒りと神の義

  • 今日 楽園に

    イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカの福音書23:43私たちの主とともに、十字架につけられた二人の強盗の一人、ラスト・チャンスを掴んだ、最高にラッキーな人物。イエスは死なれる時に、一人の人を確実に救いへと導かれました。ある物語では。彼はイエスに出会うのはこれが初めてではなく、二度目だと言うことです。一度目は、主が両親と、エジプトへ逃れる途中でであったと言う物語があります。勿論彼は、その時から強盗でしたが。日本のことわざに「終わりよければ、すべてよし」と言う言葉がありますが。あなたにとって人生の終わりとはどんなものでしょう。主イエス・キリストは、いつもあなたに、手を差し伸べて。あなたにチャンスの用意をしてくれています。あなたはこのチャ...今日楽園に

  • 知識と悟り

    しかし、心にひそむ罪を、どうして知りえましょう。どうか、隠れた罪からもきよめてください。故意に悪に走ることからも引き止め、守ってください。そうすれば、私は過ちを犯さず、大きな罪からも逃れることができます。私の口のことばと、秘めた思いが、神様に喜ばれますように。ああ、私の岩、私の救い主、主よ。詩篇19扁12~14節リビング・バイブル松明に・・?知識と悟りの区別について。「知識があるという事は、」・・・道を照らそうとして、松明を使う事。「悟ったとは」・・・松明になる事神学校で何年か学び、それで悟ったつもりで、人々に語り、果てには、愛の御言葉で、人々を傷付けていた私、その時思ったのです。「この人たちは信仰が弱いから、私の勧めが理解できないのだ」と。なんと高慢な者でしょう。知識だけを振り回し、そこに何の実体もない...知識と悟り

  • 極限の愛

    あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命記4章24節ここに、とても大事な神の本質がここに書かれています。「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」とあります。これは、ヘブル書にも引用されている主の本質です。「神は・・・である」という言葉が聖書にはいくつかありますが、例えば「神は愛です。」はその一つです。「神は光です」というのもあります。そしてここでは、「焼き尽くす火です」というのもあるのです。主は私たちのためにキリストを十字架につけました。「神が愛だというのは良いんだけれども、別に十字架にまでかかってくれなくて良かったのに。」と私たちの人間的な思いは言います。けれども主は熱情を持っておられます。私たちが罪の中で死に、その状態でご自身がお裁きになるのを神ご自身が最も嫌がっておら...極限の愛

  • 正直に

    異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。箴言20:10いくら混ぜても、かき回しても、混ざらない、いくら共に話し合いをと接点を見つけようとしてもそれは無理、水と油そのような関係。どちらも、これだけは譲れないとしたら、葛藤と言うことばがあります。なぜこのような心の状態になるのでしょう。「葛藤」とは、二つ、もしくはそれ以上の何かに心が満たされているゆえです、善し悪しは別として、一つの方向に向かっている時、人はこれも良し悪しは別として魅力的に感じるものです。しかし、人は神に向かって真っすぐの向うとき、まことの命、まことの力をいただけるのです。その人はさらに魅力的になります。そして、真理は一つ、たとへ、このことで排他的と言われようが、このことは絶対に譲れない、それ以外はすべて譲ったと...正直に

  • 祈りなさい

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗い暗い井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のど...祈りなさい

  • どんな神ですか

    あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46章4節背負う神と、背負われる神。人が背負わなければならないのが世の神々であり、人の重荷を背負われるのが真の神。人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし、神は「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。...どんな神ですか

  • 悟るとは

    「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」詩編19扁12節主に調べていただく祈りです。聖霊が私たちに自分の心の内を示してくださり、そして自分の道ではなく、主の道に導かれるように祈っています。ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。気づいていないところで犯している罪があります。神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。松明に・・?知識と悟りの区別について。「知識があるという事は、」・・・道を照らそうとして、松明を使う事。「悟ったとは」・・・松明になる事詩篇139:23~24で自分で...悟るとは

  • 万軍の主

    ・・・、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。Ⅰサムエル17章45節Bこのダビデの言葉に、神の御国と人の国の対峙の本質があります。ダビデが表しているキリスト、とその御国は、御霊によるものです。主の御名によるものです。祈りと御言葉の霊的訓練によるものです。信仰によるものです。悪魔は、キリストの死とよみがえりによって、完全に敗北した者となっています。ですから、私たちがキリストのうちに立つとき、私たちが主の御名によって祈るとき、そのときにすでに悪魔は何も手を出すことができず、ただ退くことしかできません。そこで悪魔は、私たちの焦点をずらす戦法を取ってきます。あたかも問題が物理的な、肉的な問題であるかのように見せかけ、私たちを肉の領域に、物理的な領域に引き込もうとするのです。例えば、教会の中で言い争いが起こったら、...万軍の主

  • 偽善が問題でした。

    「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒の手紙5章4節アナニヤとサッピラの罪は、代金を全部持って来なかったことではなかったことが、ここから分かります。持ち物は残していても良かったし、売っても、その代金は自分のものにして一向に構わなかったのに、とペテロは言っています。この二人の悪は偽善でした。自分たちを人々に良く見せるために、嘘をつきました。この偽善が問題だったのです。また、アナニヤとサッピラの夫婦の根本にある問題点は、神に対する不信です。だれが自分たちの生存と防衛を保障してくれるのかというニーズに対して、完全に神に信頼していなかったという点です。単に、ごまかしたということではな...偽善が問題でした。

  • 食べ物

    「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」ローマ14章3節「私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方も誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい」クロムウェル教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない」とハッキリ言われています。食べ物に汚...食べ物

  • 思うのですが

    平和(正義)への基準の違いが争いを引き起こすのです。それは個人にはその方の平和と言う基準があり、国には国家としての基準があります。それらはあくまでも、自分中心的な平和だと思うのです。相手の方または国が平和な心でやってくるならも私たちも平和な心でお迎えしますといった条件付きの平和なのです。(現実は親切を仇で返すと言うこともありそうですが。)人の頑張りではこの恒久的な平和は望みえないかもしれませんね。人が自分は正しいと言う時、相手が悪いということを秘かに暗示しています。また、人は自分が審判者で私が裁いてあげようと、また反対に自分ほど不当に扱われていると常に思うのです。聖書には。ピリピ人への手紙2章3節~4節でこう言っています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた...思うのですが

  • ほほえみ

    「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」ビリピ4章4節笑顔は心と思いが平安の喜びで満ちているから、ほほえみとなるのです。この平安は主イエスに愛されたというところから始まります。「ほほえみは、お金を払う必要のないものだが相手にとってはひじょうな価値をもつものだほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わないフラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまるどんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しくいかに貧しくても、ほほえみの功徳によって飛んでいる家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる疲れたものには休息に、失望するものには光になり悲しむものには太陽、さまざまの心配に対しては、自然の解毒剤の役目を果たす。しかし買うこ...ほほえみ

  • 裁くばく人と裁かれる人

    「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」ローマ14章3節私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエ...裁くばく人と裁かれる人

  • パラダイスに

    「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカの福音書23:43この犯罪人は、おそらくイエスが神の国を立てられる終わりの時に、私を思い出してくださいと言ったのでしょう。彼は願っているのであり、要求していないことに気をつけてください。他の人々は、「救え」と要求していました。しかし、彼は願っているだけです。ここにイエスに自分のことを決める権威を持っておられることを認めています。救いを得ることは、権威に服することです。そして権威に服する人は、安心と平和を見つけます。嘆願はしますが、要求はしません。神に対して、また人に対して同じです。イエスは、「きょう」と言われました。イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるよ...パラダイスに

  • 神は死んだのか

    「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」ルカ20章38節神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。神を知っている、私たちが、世の光、地の塩でなければならない私たちが、ぜんぜん、神のことを理解していないために、私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、それでこそあなたの内に私は生きるのです、とても、とてもじゃないですが、出来ません、そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、私には不可能、出来ません、ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。従う事こそ、理解への道。黙示録1:17-18「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生き...神は死んだのか

  • 謙遜とは。

    「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18章12節これは興味深いです。初めに9節、仕事を怠ければ、それの刈り取りをします。けれども、富に頼る者は、それがそそり立つ城壁のようになっていると思い込みます。けれども、主の名こそが堅固な櫓です。そして、富への依存は高慢にも関わり、高慢は破滅に先立ちます。そして高慢の現われとして、人の訴えや話を聞かないというものがあります。自分で勝手に解釈して、自分の都合の良いようにしてしまうことも、「よく聞かない」ことになります。人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。聖書また箴言が教える、二つの尊い特質は。謙遜と主を恐れることです。平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。この風潮が、私たちの目をくらまして真...謙遜とは。

  • クリスマス

    聖しこの夜なべて静か御子イエス母のかいなに眠る安らかに安らかに聖歌148きよしこの夜星はひかり救いの御子はまぶねの中に眠り給ういと安く賛美歌109聖書のルカの福音書から2:6ベツレヘムにいる間に、2:7マリヤは初めての子を産みました。男の子でした。彼女はその子を布でくるみ、飼葉おけに寝かせました。宿屋が満員で、泊めてもらえなかったからです。2:8その夜、町はずれの野原では、羊飼いが数人、羊の番をしていました。2:9そこへ突然、御使いが現われ、主の栄光がさっとあたり一面を照らしたのです。これを見た羊飼いたちは恐ろしさのあまり震え上がりました。2:10御使いが言いました。「こわがることはありません。これまで聞いたこともない、すばらしい出来事を知らせてあげましょう。すべての人への、うれしい知らせです。2:11今...クリスマス

  • 本当の故郷

    「けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。」ピリピ人への手紙3章20節「しかし、私たちのふるさとは天にあります。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。」同リビングバイブル「心は躍るよ心は躍るよカナンの地想うだに我が胸躍るよ」聖歌642番より一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせ...本当の故郷

  • 祈りについて

    世渡り下手で、付き合い下手のおじいさんが、チョコチョコと言いたいことを知らせたい。まず一番に、皆さんは、苦しいとき、辛いとき、悲しいときにどうされていますか。ぐちぐちと長い祈りをそれも一方的に要求する祈りをしてはいませんか。今日からは、口に手を当てて。主のなされることをじっと待つことをしましょう。そして主の御名をこう呼ぶのです。アドナイ・ラア(主は私の羊飼い)アドナイ・イルエ(主は備えたもう)アドナイ・シャロム(主は平安)アドナイ・ロフェ(主は癒し主)アドナイ・ニシ(主は我が旗)その他・・・私の苦しとき、主は私の良き牧者です。そして私の歩みの中にすべての良いものを備えてくださり、心の傷も癒してくださり、そして、平安も戴けました。そして、声高らかにこう宣言するのです。主は我が旗ですと。シャロームわが父なる神...祈りについて

  • 私さえ、

    ひとつのみ歌に声合わせなばひとつの敵にもついに勝をえん御国にのぼりて御神に会おう日一つの喜び我ら受くべし聖歌297より「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」Ⅰコリント1章10節【新共同訳】みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピ...私さえ、

  • その一歩の真実。

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節イエスはまず、「わたしのところに来なさい。」と言われました。これは、イエスと個人的な関係にはいることの招きです。私たちは、イエスの言葉を聞いて、それに同意できるかもしれません、また、それを頭で信じることもできるかもしれません。しかし、もし、自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている安息を得る事はできないのです。神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。私たちは、神のために存在しているのですから、そのように生きていけば安息が...その一歩の真実。

  • 真実な平安とは

    「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」ルカ18章9節ここのパリサイ人の姿を見て、いかにも独善的な嫌な人だなと思うかもしれません。けれども、イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」とかって言われました。普通にしていたらパリサイ派的なのが私たちであり、人間です。福音を信じて、その中に生きる人は少数なのです。パリサイ人がそうでした、そしてイエスは、このパリサイ人は神から遠い所にあると言われました。高ぶる心の人は奉仕ができなくなります。報酬をもらい、あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人は働きやすいものです。そうした働きも大切ですが、人の目にふれないが、他の人のために働く奉仕の生活も大切です。この奉仕は、神に信頼し、神にのみ信頼し、神にのみ期待する信...真実な平安とは

  • お互いに

    「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ローマ12章10節兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。こ...お互いに

  • 辛くて、苦しい時

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏の...辛くて、苦しい時

  • 明らかにされています。

    人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。箴言5章21節ああ、なんと大事な言葉でしょうか!自分の進んでいる道は、主の前でいつも明らかです。私たちはどんなに隠れて物事を行なっても、主はそのすべてを見ておられます。そして、ただ見ておられるだけでなく、心を配っておられます。ですから、自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、主は心を配っておられるのですから、必ず逃れの道を備えてくださいます。大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。決して、ご自分のところに来る人を拒みません。主のところに行けば、主がその傷をご自分の体に受けてくださり、そして自分の体の中で、魂の中で、傷の治癒を行なっ...明らかにされています。

  • 真実な宝

    このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。コロサイ2章3節私たちの人生を豊かにする知恵と知識の宝が、この聖書の中に隠されています。私たちの人生の中の数十年は、今の私たちにとっては大きに意味を持ちます。いま現在のあなたがたを作り上げてきた数十年です。その歩みの中で何度となくイエス・キリストの内にある恵みと言う宝によって助けられたことか。数え切れません、そして父なる神のみ言葉によってどれだけ守られ、どれだけ導かれたか、またある時はどれほど強く罪を示され悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。この聖書がぼろぼろになっても、神のみ言葉はますます新鮮でますます恵みにあふれてきます。どんなに歳月が流れても、神のみ言葉はその恵みの新鮮さを失うことはありません。真実な宝

  • 順送り

    あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。レビ19章32節「お父さんの調子が悪くなったからお世話が大変でしょう」「でも、順送りですから、苦労して育ててもらったのだから」ふと、聞こえた会話です。自分が老いた両親を見て、老いていく。子供がそれを支える。その子供がまた年を取り老年となり、そして、孫が世話をしていく。この順送りと言う考えは"愛"がなければ生れません。そして、この愛が躍動した時、主イエスのみ心が満ちた温かい世界が育つのではないでしょうか。この、白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、神を恐(畏れ)れなさい。と言う旧約聖書の言葉が心に響きます。自分も「順送りですから」とさらりと言うことができるだろうかと思います。私たちは、老人の方々を見下げるの...順送り

  • … 幸いです。

    「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」マタイ5章9~10節多くの人が、初めに人と人との平和を求めます。世界はなんと平和を好むことでしょうか。けれども、ここに「その人は神の子と呼ばれます」という約束があります。人と人との平和は(今の世界を見てのとおりです)成り立ちません。初めは神との平和、そして神の平和が自分を満たし、それで自分に周りに平和を造ることができるのです。「義のために迫害される者」。面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。なぜなら、世は、心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。そういう人たちが自分...…幸いです。

  • 主は立っておられる

    「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ヨハネ14章1節画家が向かっている大きな絵は、石造りの入り口が描かれていました。道の片側には優しい繊細な花が描かれてあります。反対側には棘のある木の茂みがありました。扉の前に一人の男が立っています。長く白いロープを着て右手は扉をたたく高さにあります。花は人生の喜びと美しさを現し、棘は苦しみを示します。扉は人間の心を象徴し、扉を叩く人はキリストです。しかし、ドアを開ける取っ手が描かれていない!画家は答えました。「取っ手はいらない。キリストがノックすると内側から開けられるはずだ。キリストは招き入れられる」人は誰でも自分の心の支配者です。心を開こうと開くまいと自由です。神は私たちの自由を尊重される、無理に私たちの心の中に押し入ろうとはされません。...主は立っておられる

  • 許すことは

    「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」コロサイ3章13節ウィリアム・バークレーはクリスチャンとして私たちが人を許すために三つのことを学ばなければならなと言いいました。そしてその第一は「理解すること」であるというのです。「人の行動にはいつも理由がある。粗野な人、失礼な人、気難しい人には、心配事があるか、他の苦痛があるかもしれない。人を疑ったり嫌ったりする人は、相手に対して何か誤解があるか、相手の言動を曲解しているのかもしれない。あるいは環境や遺伝のせいかもしれないし、また、気難しい気質のため問題が多く人間関係がうまくいかないのかもしれない。人を非難する前にその人を理解しょうと努めれば許すことも容易だろう。」そして...許すことは

  • 真実の豊かさとは。

    主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。詩篇37扁16節「ひとりの正しい者の持つわずかなもの」とはいったい何なのでしょうか。豊かないのち、豊かな心ではないでしょうか。自分を正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、人からも罪人と思われていた取税人は、神殿から遠くで祈った。方やパリサイ人は神殿の前で、祈りました。このパリサイ人の祈りは「後ろの取税人のような罪人ではないことを感謝します。……」でした。この取税人の祈りは、「神よ。こんな罪人のわたしをあわれんでください」でした。主イエス・キリストの軍配は取税人のほうにはっきりと示されました。罪を悔い改めて神を畏れ、神に新しい心をいただいた正しい心こそ、豊かなのです。見えるところは僅かでも、それは宝石...真実の豊かさとは。

  • わが贖い主よ

    どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。詩篇19扁15節ユダヤの人々が贖い主と言う時は、自分が窮地に陥り、全財産を失い、自分の身まで奴隷として売り渡さなければならないような時、犠牲を払ってまで買い戻し、助けてくれる親戚のことです。わたしたちにとっては、いのちを投げ出し、全身の血を流し切って、滅びから、さばきから救って下さる主イエス・キリストこそ贖い主です。そんな贖い主に、「私はこんなことをしました。認めてください」とまるで商取引のようには祈りません。私たちには差し出すものが何もなく、み前に祈る祈りの言葉をお受けくださいと祈るばかりです。心の底から湧き上がる信頼、願い、感謝と礼拝の思いとことばだけしかありません、しかし、神はどんな供え物に...わが贖い主よ

  • 共に悲しみ。

    彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。イザヤ63章9節私たちの悩み悲しみ、苦しみを神は無視されるのではなく、ここの約束は、共に悩み悲しみ、苦しんでくださっているというのです。神、自ら私たちのこの思いと心の中に入って下さり。共に涙を流し、理解してくださるのです。さらにこの世の神の奴隷あり、欲望の奴隷になって自分を見失っている私を、神は尊い御子の血潮にてこの世の神から贖いだし主に在る自由の世界に置いていてくださいました。私たちを遠くから眺めて、苦しんでいる私たちに教訓を与えるような方ではなく、いっしょに苦しみを感じてくださっているのです。ヘブル4:15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方で...共に悲しみ。

  • 自由とは

    もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。ヤコブ2章8節大事なのは、「最高(尊い)の律法」と訳されているところです。これは、「王の律法」と訳すことのできるものです。栄光の主イエス・キリストの律法でありますから、王なるキリストの律法ということです。つまり、これは王権をともなった、絶対権威のある、畏れ多い律法であるということです。この律法に違反する者なら、それ相当の罰が伴うというものであります。私たちは、キリストの御国にいます。そして、王なるキリストが与えられている掟の中に生きており、それがこの隣人を愛するという掟なのです。神は人をご自分の姿にかたどって創り、その上自由意志というものをお与えになりました。そして、人は神に逆らう...自由とは

  • 侮れば。

    「神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。」詩篇10扁4節「罪を認めて悔い改めよ」と叫ぶエレミヤを人々は嘲笑し、しかもエレミヤが語る滅亡預言は成就しない。悪がますます栄える現実の中で、エレミヤは神に叫ぶ。神の不在経験によってもたらされるリアリティは、私たちの神に対する幻想が打ち砕かれて、神に対する真の信仰を強めてくれることにあります。神の沈黙が、神の不在が、神と私たちとの関係を浅瀬から深みへと導いてくれるのです。目にする現実に、心が落ち込んでしまうのではなく、私たちがそれまで持っていた神に対する幻想から解放されて、柔軟にされることで、内なる暗闇から抜け出す経験をするのです。神の不在を個人的に経験することで、結局は、私たちが神の臨在をより強く、より深く味わうように導かれる・・・ここに神の...侮れば。

  • 神の命の中で

    「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」口語訳聖書「このように、人間は、天地を造った神様に似た者として造られました。」リビングバイブル創世記1章27節神はご自分の創造物の最後に、ご自分に似せて、ご自分のかたちに人を造られました。神が自然界の全てを支配されているように、人にその支配を任せて、人の支配を通して自然を支配するようにお定めになりました。「ご自分のかたちに」と強調されています。ここで神は「創造された」という言葉を繰り返されています。三度も繰り返しています。これが神の最高傑作品だからです。動物と同じように被造物であるにも関わらず、神に似せて造られたのです。こんなすごいことはありません。この事実だけでも、私たちが今、ここで生きているということが神...神の命の中で

  • 信仰とは

    「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル11章1節「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、それがかなえられることを神に押し付けることではありません。そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。神が言われることが、「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。その目を閉じて、神の御手の内に一切を、素直に喜んで委ねるなら、これは最高、最善の信仰です。それは神がなぜ其々の働きをなされるのかを知ろうとはしません。理性と、感覚、体験には、怒りと不正以外の何物し...信仰とは

  • 呼び求められています。

    「主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。」詩篇12扁9節世が末の時代となり、社会的倫理が破れてくると「卑しいことが崇められる」ようになります。倫理とか道徳と言ってもピンとこなくっても、「汚いこと、卑しいこと」というと案外とわかります。悪臭が漂うごみための汚さがすぐわかるように、人と人との交わりの中の「汚いこと」「卑しいこと」は本能的にわかり、したくないのです。しかし現代は、そんな「卑しい」ことが横行している時代だと思いませんか。昔の人間には思いもよらない、人の尊厳を踏みにじるような獣のような考えと行いが満ちています。(昔もなくはなかったことですが、)聖書の中に「上にあるものを求めなさい。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」という聖句があります。「私た...呼び求められています。

  • 一人より二人

    ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。伝道者4章9節この箇所全体は「ふたりであることの祝福」が述べられています。一人では得られないすばらしさです。伝道者は「日の下で」ふたりであることのすばらしさを、ひとりぼっちのむなしさと比較しています。このふたりとは必ずしも結婚する者のことを意味していません。仲間、友人、協力者であっても良いのですが、特に11節には「いっしょに寝ると暖かい」とありますから、ここでの「ふたり」とは「夫婦」と理解するほうが自然です。その二人が力を合わせて一つの仕事にあたると、一人でするよりも行き届いてよくすることができ。しかも、その報いを二人で喜び、楽しむことができるのです。そして、このみ言葉を私と主イエスに置き換えて考えてみてください。主イエスが私とともにおられるなら、苦労も...一人より二人

  • 助けを求むのは

    目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。詩篇121扁1~2節この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。青壮年の方々も例外では...助けを求むのは

  • タラント

    彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。マタイ25章15節彼は、「おのおのの能力に応じて」、財産を渡しました。彼は、ある特定のノルマを達成しなさいと命じられたのではなく、それぞれの能力に応じて財産を任しました。この世の仕事では、私たちにある一定の基準を要求して、それを満たすことができないと用いられませんが、神はその反対に、どのような人をも用いることができるのです。なぜなら、能力以上のことを任せておられなからです。と同時に神は、能力以下のことも任せられません。さて、人生には神による総決算の時があります。主人は神、僕は私たち一人ひとりです。タラントは神から預かっている賜物です。私たちは、誰でも自分の歩んできた人生の総決算を神の...タラント

  • 祈り。

    御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。詩篇25扁18節普通、神に悩みや苦しみ、痛みを訴える時、慰めや癒しや、解決を求めるのが当たり前ではないでしょうか。ところが、このダビデはここで「私は悩んでいます、苦しんでいます、私のすべての罪を赦しい下さい」と祈っています。スポルジョンは、どんな悩みと苦しみの時にも、まず第一に自分自身の反省の時とすることを勧めています。自分自身のことを棚に上げて人を責めたり、八つ当たりして怒ったり、ひがんだりしやすいのですが、まず深く反省し、赦されていない罪、始末されていない罪がないかどうかを深く反省し、もしそれがあるのならば、神のところへ持っていき、悔い改め、言い表し、赦していただくことです。また悩みと苦しみの時、自分が世俗的に流れていないか、感謝を...祈り。

  • べテスタ( あわれみ )

    イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。ヨハネ5章6節このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもあます。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。「もしも私が苦しま...べテスタ(あわれみ)

  • マラナ・タ

    「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。」マタイ25章31節「人の子」とはメシア・イエスことです。その方が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」とは、メシアの地上再臨を指します。その時、キリストは、信じている者たちのために、報酬を与えるために戻ってこられます。そして、ここからはご自分が地上に戻っておられる話をしています。まず、イエスは、地上に来られると、神の御国における栄光の位に着きます。おそらく、その座は「ダビデの座」と呼ばれ、エルサレム(シオン)に据えられます。人の子であるイエスが、ハルマゲドンに集結した反キリストによる異邦人の軍勢をエルサレムにおいて滅ぼした後に、地上で御国の王となり、栄光の座に着かれるのです。これはイザヤ書9章7節の成就です。さて...マラナ・タ

  • 神に委ねよう。

    その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。詩篇7扁18節ダビデは、何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王に誤解され、嫌われ、中傷され、命をつけ狙われました。そんな時、私たちは相手を呪ったり、攻撃をしがちです。しかし、ダビデはまず第一に、我が身を神のところに持っていき、神に身を投げ出しました。第二に、神の前に自分を洗いざらい投げ出して光に照らされ、反省しました。そして、第三に、神の正しい裁き、弁護を求めました。そして、その結論がこの賛美です。心の中から、神への賛美、感謝の歌が流れ出るなら、あなたの悩み苦しむ心が、正しい結論へ到達した確かな証拠です。そして、心から溢れる感謝や賛美は、現実的に、実際的に、問題の扉を開き、解決へとこぎつける力となるのです。詩篇26:1-2...神に委ねよう。

  • 変えてください。

    恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。詩篇4扁7節この言葉は「だれが、我々に良いことをくれるのか。」という反語的な表現です。神を信じたところで何の益があろうか、という世の声です。祝福、恵み、平安に満ちた人生の秘訣は、神の光りの中を歩むことです。私たち人間は、神の光が届かない暗闇の中に人間の自由があり、楽しみがあると考えています。しかし、このダビデは、神の光りの届かない自我の暗闇の中でとんでもない経験をしました。ダビデのような大人物でさえ、姦淫と殺人の罪に陥り、辱めの極限と魂の苦しみを経験したのです。そしてダビデは祈るのです。「神よ照らしてください、神・主、あなたの光りの中に、今日も歩ませてください」と。罪のはかない楽しみ、エゴの自由を求めると神から身を隠れたい...変えてください。

  • 本当の平和は、

    わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。レビ記26章6節私たち日本人は、どうしても平和の尊さを理解することができません。平和は空気のように、吸えば手に入れることができると考えてしまいます。また、私たちはこの豊かな日本に住んでいると、収穫も安全も空気のように当たり前に思ってしまいますが、安全も、それぞれの収穫も、主が与えてくださいました。私たちは、経済のこと、食の安全、体の健康など、安全を求めていますが、それは主が与えてくださるという信仰がないといけません。しかし、イスラエルにとって、平和は尊い神からの賜物なのです。古代ローマの人々の間では「汝が平和...本当の平和は、

  • 力ある聖書の言葉

    イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」マタイ4章4節身体は衣食住で満たされ、心は知識や愛情で満たされるが、私たちが衣食住や知識や愛情だけで満たされないのは、心の奥底に「神の口から出る一つ一つのことばで、なければ満たされない霊がある」からだというのです。確かに私たちは動物とは全く異なり、神と交わることのできる霊を持っている霊的存在なのです。このことを忘れていては、私たちの心に満足がないのは当然だと思う、私たちが真に求めるべきものは、神の口から出る一つ一つのみ言葉です。ここで、イエスは、「書いてある。」と言われています。聖書からの引用です。イエスはみことばをもって誘惑に抵抗されました。私たちも同じようにして誘惑に抵抗する事が出来ます。また、「...力ある聖書の言葉

  • 神は笑われる

    「天の御座に着いておられる方は笑い主はその者どもを嘲られる。そのとき主は怒りをもって彼らに告げ激しく怒って彼らを恐れおののかせる。」詩篇2扁4~5節ここには、神のユーモアがあります。国々の王たちは、最新兵器をもってキリストに立ち向かおうとしているわけですが、それに対して天の御座に着いておられる方は笑っておられて、嘲られています。私たちが天からの余裕が与えられているのは、ここにあります。私たちはキリストにあって、天につなげられている者たちです。ですから、地上で起こっていることを見れば息苦しくなるのですが、天の御座におられる方の視点で眺めれば、滑稽にさえ思える姿であると認めることができ、物ともしない、動じないのです。ここから私たちは、心の余裕が生まれるのです。たとえ世が騒々しくなっても、神が王であり、すべてを仕切っ...神は笑われる

  • 主よ。あわれみを。

    「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」マタイ18章22節七回まで赦すべきでしょうか、ということですが、当時ラビは三回までと言っていましたか、相当頑張っているのです。けれども、それは彼の誇り、自慢の裏返しでもあります。私たちが真面目に頑張る時に、イエスは完全に打ち砕くようなことを言われます。なぜなら、天の御国は私たちの功徳ではなく、神の恵みによって成り立っているからです。イエスは、「七回を七十倍するまで」と言われました。このことについて、「主よ。私は自分では赦せません!」と叫び声をあげるのではないでしょうか。つまり、私たち人間が思いつく赦しと、神の考えておられる赦しとは、桁外れに違うのです。私たちの持っている能力や性質は、それぞれに様々です。聖書によれば、それはみんな...主よ。あわれみを。

  • 力ある神が

    「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、」詩篇2扁4~5扁ここには、神のユーモアがあります。私たちが天からの余裕が与えられているのは、ここにあります。私たちはキリストにあって、天につなげられている者たちです。ですから、地上で起こっていることを見れば息苦しくなるのですが、天の御座におられる方の視点で眺めれば、滑稽にさえ思える姿であると認めることができ、物ともしない、動じないのです。ここから私たちは、心の余裕が生まれるのです。たとえ世が騒々しくなっても、神が王であり、すべてを仕切っておられるのです。全知全能の神に対して、核ミサイルであろうがその他の大量破壊兵器であろうが、まったく無力です。その光景はあまりにも滑稽です。主は...力ある神が

  • 神とのかかわり

    「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。」イザヤ60章1節創造において、神は最初にやみの中から「光」を呼び出されます。この「光」は光源としての「光」ではなく、かかわりの「光」です。そしてその「光」の中にすべてのものがかかわりを持って創造されます。何のかかわりもなく単独で存在している被造物は存在しません。「暗闇」「夜」といった語彙はそうしたかかわりのない世界と言えます。希望が湧いてくるような、元気になれるような明るいみ言葉です。でも、そのあとに続く言葉にハッとさせられます。『見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる』というのです。預言者イザヤが活躍したのは昔のことであり、預言者はきれいな澄んだ目をもって自分のまわりをよく見ていました。暗くってどうしても希望が見えてこないのです。し...神とのかかわり

  • 朝ごとに

    主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。イザヤ50章4節頑なな民に対して、主はなおも仕えられました。それは一にも二にも、父なる神ご自身からご自身が召されたのだ、人として現れること、女から生まれる者とされたこと、このことをわきまえておられました。主イエスは、人間の姿を取られました。父なる神から離れては、何も行なわないようにしておられました。私たちが今、主の言葉に聞き入る弟子であるように、主ご自身が父なる神の御声に聞き入る弟子のようでありました。私たちに救いをもたらすために、へりくだった僕の声を聞かせてくださいます。そして心に励ましを与え、私たちを立ち直らせてくださいます。主の僕は、疲れた者を言...朝ごとに

  • 新しくされるために

    「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」詩篇119扁71節多くのものが成長を止める冬こそ、土壌にとっては安息の時であり、その間に来年の目覚ましい活躍のための復活の力が蓄積されているのです。実に行き届いた神の愛の配慮でしょうか。私たちはこの寒い冬の中にあっても、なおその中に秘められた神の愛のみ心を悟って、この寒い冬のためにも感謝することを学びたいものです。ところで、自然界に冬が来るだけでなく、私たちの人生にも冬はあります。時には花咲く順調な春もあるでしょう。あるいは額に汗して労する勤労の夏もそうです。また、成功の実を楽しむ収穫の秋も。しかし、また日の光さえ見えない逆境の冬も何回となく回ってきます。自然界に冬を与え、草木のために配慮し、私たちのために最善の取り計ら...新しくされるために

  • 恵みの日々を感謝します。

    「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ルカ2章29~30節マリアが賛歌を神にささげ、ザカリヤも捧げました。その他、天の軍勢も神を賛美していました。そしてシメオンもここで賛美を捧げています。シメオンは、この幼子自体を、「あなたの御救いを見た」といって、ほめたたえています。救いというのは、何か一定の教えや原則ではありません。イエスご自身が私たちにとっての救いです。今、人間の姿でご自分を示されたからです。救いを聞くだけでなく、さわって、見ることができました。この方に人格的に触れる時に、その人は救われます。私たちの神は一度決心されると、最後までやり通されるお方です。ユダヤの人々は何千年もの間、神の約束を信じて、主イエスのお生まれになるの...恵みの日々を感謝します。

  • 最後はこの体をもって

    「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」詩篇150編6節最後は、神のくださった最高の楽器、すなわち私たちの息、歌声であります。なんという、すばらしい終わりでしょうか。すべてはただ、主をほめたたえることです。すべてのことは主に栄光です。ハレルヤ。この詩篇の最後の言葉は、私たちに賛美の総動員をかけています。どうして聖書は「神をほめよ」「神を賛美せよ」と言うのでしょうか。第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮という代価によって救われた私たちが「喜んで」いたら、神はほんとうに喜んでくださるでしょう。しかし、それほど愛されている私たちが、うなだれ、悲しんでいるなら、神はとても悲しまれるでしょう。第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。神に祈る時、ただ、純粋に神...最後はこの体をもって

  • あきらめるな

    「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」ルカ18章1節いつでも祈り、失望せずに祈り続けることは、目的があります。それは、神が選民のために裁きを必ず行ってくださる、ということです。キリスト者としてこの地上に生きている時に、私たちはたとえ物理的な迫害を受けていなくても、むしろ迫害がないところにある霊的誘惑の中にいつもさらされています。神はいらない人たちの制度がしっかりしているから、という強い圧力を感じます。神なしで生きていくように仕向けていきます。ですから、私たちは今まで以上に強い圧迫を受けており、しっかりと立っていないといけません。そこで必要なのは、しつこい祈りです。神の正しい裁きがなされるよう祈っていて、果たしてそれが聞かれるのか疑問に思います。けれ...あきらめるな

  • 丁度良い時に

    「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」Ⅰペテロ5章6節私たちは自分で、自分のことを売る必要はありません。いかにすぐれたミニストリーをしているのかを、宣伝する必要はありません。主が必要なときに、高く上げてくださいます。私たちが小さなことに忠実であるとき、主が大きなものを任せてくださいます。(自分を何者かのように、大きく見せびらかすことは必要ない。今ある自分がすべてです。)神は力強いお方です。全世界とすべての命をつくられたお方です。私たちは、この神の御手の下に自分を低くすることを学ばなけりばなりません。神が全世代の歴史を支配し、私たちの運命をも動かされるお方だからです。この神と共に歩むことです。わたしたちは、自分の生活設計を立てま...丁度良い時に

  • 私のために

    「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10章11節キリストにある神の愛を深く知れば知るほど、私たちはイエスの御声に聞き従うことができるようになるのです。羊は、良い牧者のところにいれば、それだけ深い信頼を寄せていて、その声を聞き分けることができます。なぜなら、イエスにとって、その羊の群れはご自分のものになっているからです。私たちには人生の導き手が必要です。なぜなら羊のように迷ったり、つまづいたりするからです。良い羊飼いあるイエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださいました。このお方が私たちの人生を導いて下さるのです。人とは、その生涯の中で一度ならず誰にも話せない問題をもって悩むことがあります。そうしたとき、イエスの名によって全能の神に祈り、答えをいただくことができます。救い...私のために

  • 神を第一にするとき。

    「私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。」詩篇142編6節人にひどく馬鹿にされた、見下された、無視されたと感じたことはありませんか。本当に嫌なものです。そのような「被害者意識」は悲しいものですが、私たち自身のひがみである場合が多いのです。他の人はそれほどあなたのことには関心はないものです。それなのに、ひがみ根性で、酷くおとしめられたと感じて、その人を恨み怒り、復讐心に燃えるような攻撃的態度をとったり、へたばってしまうこともありますが、ひがんだり、怒ったり、ぺっしゃんこになっりしたほうが負けです。そこからの解放は、第一に、どんな時、どんな所でも神を認めること、第二に、神を恐れ(畏れ)て悪から離れること、第三に、心...神を第一にするとき。

  • 愛とは

    「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ローマ12章10節兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。ここで求...愛とは

  • 辛い・苦しいなら神に叫ぼう

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏のどん底...辛い・苦しいなら神に叫ぼう

  • 心配性のあなたへ

    だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」マタイ6章34節神と心配は共存できません。とはいえ、「心配してはなりません」といくら言われても心配してしまう弱さが私たちにあります。私たちが思いわずらわずに考えられる範囲は、今日ということをイエスはよく知っておられます。あす、来月、来年のことを考えすぎると、思い煩うのです。ですから、一日、一日、神から与えられたものに、感謝することが大事なのです。世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物があふれるようになった社会に心の病が始まるということです。物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。日々の糧は神からの贈り物であることを実感できます。空の鳥のように、自分も養われているのだということを実感...心配性のあなたへ

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