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マラナ・タ https://blog.goo.ne.jp/malanata

私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

ハレルヤおじさん
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2009/07/20

  • どんな神ですか

    あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」イザヤ46章4節背負う神と、背負われる神。人が背負わなければならないのが世の神々であり、人の重荷を背負われるのが真の神。人間の親は自分の子どもの乳児期、幼児期、少年期、青年期と面倒を見て育ててくれますが、最後まで面倒を見るということはできません。むしろ反対にいつかは逆転して、親が子どもに面倒を見てもらわなければならなくなります。しかし、神は「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と約束しています。...どんな神ですか

  • 悟るとは

    「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」詩編19扁12節主に調べていただく祈りです。聖霊が私たちに自分の心の内を示してくださり、そして自分の道ではなく、主の道に導かれるように祈っています。ダビデがここで話しているのは、知らずに犯した罪のことです。私たちは、霊的に鈍くなっていて、罪を罪と認められないものがたくさんあります。気づいていないところで犯している罪があります。神さまとの交わりに罪が妨げになってほしくないと願っているダビデは、知らずに犯している罪に対しても、その赦しを願っています。松明に・・?知識と悟りの区別について。「知識があるという事は、」・・・道を照らそうとして、松明を使う事。「悟ったとは」・・・松明になる事詩篇139:23~24で自分で...悟るとは

  • 万軍の主

    ・・・、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。Ⅰサムエル17章45節Bこのダビデの言葉に、神の御国と人の国の対峙の本質があります。ダビデが表しているキリスト、とその御国は、御霊によるものです。主の御名によるものです。祈りと御言葉の霊的訓練によるものです。信仰によるものです。悪魔は、キリストの死とよみがえりによって、完全に敗北した者となっています。ですから、私たちがキリストのうちに立つとき、私たちが主の御名によって祈るとき、そのときにすでに悪魔は何も手を出すことができず、ただ退くことしかできません。そこで悪魔は、私たちの焦点をずらす戦法を取ってきます。あたかも問題が物理的な、肉的な問題であるかのように見せかけ、私たちを肉の領域に、物理的な領域に引き込もうとするのです。例えば、教会の中で言い争いが起こったら、...万軍の主

  • 偽善が問題でした。

    「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」使徒の手紙5章4節アナニヤとサッピラの罪は、代金を全部持って来なかったことではなかったことが、ここから分かります。持ち物は残していても良かったし、売っても、その代金は自分のものにして一向に構わなかったのに、とペテロは言っています。この二人の悪は偽善でした。自分たちを人々に良く見せるために、嘘をつきました。この偽善が問題だったのです。また、アナニヤとサッピラの夫婦の根本にある問題点は、神に対する不信です。だれが自分たちの生存と防衛を保障してくれるのかというニーズに対して、完全に神に信頼していなかったという点です。単に、ごまかしたということではな...偽善が問題でした。

  • 食べ物

    「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」ローマ14章3節「私はキリストの憐れみによって嘆願する。あなた方も誤りを犯すこともあり得ることを考えて見て下さい」クロムウェル教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエスは「信仰は食べ物に関する規則を守ったり、安息日の過ごし方などという規則で縛ることはできない」とハッキリ言われています。食べ物に汚...食べ物

  • 思うのですが

    平和(正義)への基準の違いが争いを引き起こすのです。それは個人にはその方の平和と言う基準があり、国には国家としての基準があります。それらはあくまでも、自分中心的な平和だと思うのです。相手の方または国が平和な心でやってくるならも私たちも平和な心でお迎えしますといった条件付きの平和なのです。(現実は親切を仇で返すと言うこともありそうですが。)人の頑張りではこの恒久的な平和は望みえないかもしれませんね。人が自分は正しいと言う時、相手が悪いということを秘かに暗示しています。また、人は自分が審判者で私が裁いてあげようと、また反対に自分ほど不当に扱われていると常に思うのです。聖書には。ピリピ人への手紙2章3節~4節でこう言っています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた...思うのですが

  • ほほえみ

    「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」ビリピ4章4節笑顔は心と思いが平安の喜びで満ちているから、ほほえみとなるのです。この平安は主イエスに愛されたというところから始まります。「ほほえみは、お金を払う必要のないものだが相手にとってはひじょうな価値をもつものだほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わないフラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久にとどまるどんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しくいかに貧しくても、ほほえみの功徳によって飛んでいる家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し二人の友のあいだでは、友情の合言葉となる疲れたものには休息に、失望するものには光になり悲しむものには太陽、さまざまの心配に対しては、自然の解毒剤の役目を果たす。しかし買うこ...ほほえみ

  • 裁くばく人と裁かれる人

    「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」ローマ14章3節私たちがなぜ、他の人をさばいてはいけないか。その理由が、ここに書いてあります。神がその人を受け入れておられるからです。神が受け入れておられるのに、私たちが受け入れないならば、私たちは、神のみこころに背いている、罪を犯していることになります。教会には厳格な狭量派と寛大な自由派があります。この時代にも、また現代と言うときにも、二種類の人たちがいます。それは表に出さない人と、はっきりと態度で表す人たちです。私たちは教会の交わりから、あら捜しや軽蔑を(色んな意味を込めて)、共に無くさなければなりません。ただ同情と愛と理解を持っことをに努めなければならないのです。主イエ...裁くばく人と裁かれる人

  • パラダイスに

    「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカの福音書23:43この犯罪人は、おそらくイエスが神の国を立てられる終わりの時に、私を思い出してくださいと言ったのでしょう。彼は願っているのであり、要求していないことに気をつけてください。他の人々は、「救え」と要求していました。しかし、彼は願っているだけです。ここにイエスに自分のことを決める権威を持っておられることを認めています。救いを得ることは、権威に服することです。そして権威に服する人は、安心と平和を見つけます。嘆願はしますが、要求はしません。神に対して、また人に対して同じです。イエスは、「きょう」と言われました。イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるよ...パラダイスに

  • 神は死んだのか

    「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」ルカ20章38節神が死んだと言うことは、むしろ問題ではない。神を知っている、私たちが、世の光、地の塩でなければならない私たちが、ぜんぜん、神のことを理解していないために、私たち自身の中で、神が死んでいることが問題なのです。その愛の神があなたに命じられています。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。と、それでこそあなたの内に私は生きるのです、とても、とてもじゃないですが、出来ません、そう、正直に言ってどんなに欲目に言ってみたところで、私には不可能、出来ません、ですから、主イエス・キリストがあなたの側に居られるのです。従う事こそ、理解への道。黙示録1:17-18「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生き...神は死んだのか

  • 謙遜とは。

    「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18章12節これは興味深いです。初めに9節、仕事を怠ければ、それの刈り取りをします。けれども、富に頼る者は、それがそそり立つ城壁のようになっていると思い込みます。けれども、主の名こそが堅固な櫓です。そして、富への依存は高慢にも関わり、高慢は破滅に先立ちます。そして高慢の現われとして、人の訴えや話を聞かないというものがあります。自分で勝手に解釈して、自分の都合の良いようにしてしまうことも、「よく聞かない」ことになります。人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。聖書また箴言が教える、二つの尊い特質は。謙遜と主を恐れることです。平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。この風潮が、私たちの目をくらまして真...謙遜とは。

  • クリスマス

    聖しこの夜なべて静か御子イエス母のかいなに眠る安らかに安らかに聖歌148きよしこの夜星はひかり救いの御子はまぶねの中に眠り給ういと安く賛美歌109聖書のルカの福音書から2:6ベツレヘムにいる間に、2:7マリヤは初めての子を産みました。男の子でした。彼女はその子を布でくるみ、飼葉おけに寝かせました。宿屋が満員で、泊めてもらえなかったからです。2:8その夜、町はずれの野原では、羊飼いが数人、羊の番をしていました。2:9そこへ突然、御使いが現われ、主の栄光がさっとあたり一面を照らしたのです。これを見た羊飼いたちは恐ろしさのあまり震え上がりました。2:10御使いが言いました。「こわがることはありません。これまで聞いたこともない、すばらしい出来事を知らせてあげましょう。すべての人への、うれしい知らせです。2:11今...クリスマス

  • 本当の故郷

    「けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・。」ピリピ人への手紙3章20節「しかし、私たちのふるさとは天にあります。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリスト様がそこから帰って来られるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。」同リビングバイブル「心は躍るよ心は躍るよカナンの地想うだに我が胸躍るよ」聖歌642番より一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。「今日一日感謝でした。明日が楽しみです」と言うことのできる日々を送っておられますか。勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせ...本当の故郷

  • 祈りについて

    世渡り下手で、付き合い下手のおじいさんが、チョコチョコと言いたいことを知らせたい。まず一番に、皆さんは、苦しいとき、辛いとき、悲しいときにどうされていますか。ぐちぐちと長い祈りをそれも一方的に要求する祈りをしてはいませんか。今日からは、口に手を当てて。主のなされることをじっと待つことをしましょう。そして主の御名をこう呼ぶのです。アドナイ・ラア(主は私の羊飼い)アドナイ・イルエ(主は備えたもう)アドナイ・シャロム(主は平安)アドナイ・ロフェ(主は癒し主)アドナイ・ニシ(主は我が旗)その他・・・私の苦しとき、主は私の良き牧者です。そして私の歩みの中にすべての良いものを備えてくださり、心の傷も癒してくださり、そして、平安も戴けました。そして、声高らかにこう宣言するのです。主は我が旗ですと。シャロームわが父なる神...祈りについて

  • 私さえ、

    ひとつのみ歌に声合わせなばひとつの敵にもついに勝をえん御国にのぼりて御神に会おう日一つの喜び我ら受くべし聖歌297より「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」Ⅰコリント1章10節【新共同訳】みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピ...私さえ、

  • その一歩の真実。

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節イエスはまず、「わたしのところに来なさい。」と言われました。これは、イエスと個人的な関係にはいることの招きです。私たちは、イエスの言葉を聞いて、それに同意できるかもしれません、また、それを頭で信じることもできるかもしれません。しかし、もし、自分の救い主として、自分の心と人生にイエスを受け入れるのでなければ、ここに約束されている安息を得る事はできないのです。神を知るというのは、いわゆる知識のことではなく、夫が妻を知るような意味であり、親密で深い関係を示します。この関係の中で、はじめて安らぎを得る事ができるのです。私たちは、神のために存在しているのですから、そのように生きていけば安息が...その一歩の真実。

  • 真実な平安とは

    「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」ルカ18章9節ここのパリサイ人の姿を見て、いかにも独善的な嫌な人だなと思うかもしれません。けれども、イエス様は「努力して狭い門から入りなさい」とかって言われました。普通にしていたらパリサイ派的なのが私たちであり、人間です。福音を信じて、その中に生きる人は少数なのです。パリサイ人がそうでした、そしてイエスは、このパリサイ人は神から遠い所にあると言われました。高ぶる心の人は奉仕ができなくなります。報酬をもらい、あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人は働きやすいものです。そうした働きも大切ですが、人の目にふれないが、他の人のために働く奉仕の生活も大切です。この奉仕は、神に信頼し、神にのみ信頼し、神にのみ期待する信...真実な平安とは

  • お互いに

    「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ローマ12章10節兄弟愛というのは、親しみと言いかえることができるでしょう。あなたは自分たちの仲間だよ。きょうは元気かい。今週は何が起こったの?そのような何気ない問いかけが、私たちには必要不可欠です。そして、尊敬を持って自分よりもまさっていると思います。その人の人格を尊んで、敬うことです。たとえ、意見の対立が起こっても、決して礼儀を失せず、慎み深くすることです。私たちは、悪を憎むことを愛することであると知らなければいけません。悪いことをしている人を見て、その人のために涙を流して祈らなければいけません。「そのままでいいのだよ。」と言うのは、真の愛ではありません。悪を憎み、そして善に親しまなければならないのです。こ...お互いに

  • 辛くて、苦しい時

    「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」詩編107篇6節私たちは苦しみの中にいるまで主に祈らないことがあります。日本式にいえば、「困った時の神頼み」ですね。けれども、それでも主は私たちの苦しみの中からの祈りを聞いてくださいます。人生には、様々な試練があります。しかし神はそのさまざまな試練を一つ一つ恵みに変えて下さるお方です。此処の聖句では、そのことを歌っています。この6節は苦しみの時の祝福です。深い深い、暗いくらい井戸の底から見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように、普通では見えないものが、人生にはいくつもあります。それは、暗い井戸の底から見上げた時に見えるのです。食べるものや着るものに困らなかった時には見えなかった人の優しさや親切が、貧乏の...辛くて、苦しい時

  • 明らかにされています。

    人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。箴言5章21節ああ、なんと大事な言葉でしょうか!自分の進んでいる道は、主の前でいつも明らかです。私たちはどんなに隠れて物事を行なっても、主はそのすべてを見ておられます。そして、ただ見ておられるだけでなく、心を配っておられます。ですから、自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、主は心を配っておられるのですから、必ず逃れの道を備えてくださいます。大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。決して、ご自分のところに来る人を拒みません。主のところに行けば、主がその傷をご自分の体に受けてくださり、そして自分の体の中で、魂の中で、傷の治癒を行なっ...明らかにされています。

  • 真実な宝

    このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。コロサイ2章3節私たちの人生を豊かにする知恵と知識の宝が、この聖書の中に隠されています。私たちの人生の中の数十年は、今の私たちにとっては大きに意味を持ちます。いま現在のあなたがたを作り上げてきた数十年です。その歩みの中で何度となくイエス・キリストの内にある恵みと言う宝によって助けられたことか。数え切れません、そして父なる神のみ言葉によってどれだけ守られ、どれだけ導かれたか、またある時はどれほど強く罪を示され悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。この聖書がぼろぼろになっても、神のみ言葉はますます新鮮でますます恵みにあふれてきます。どんなに歳月が流れても、神のみ言葉はその恵みの新鮮さを失うことはありません。真実な宝

  • 順送り

    あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。レビ19章32節「お父さんの調子が悪くなったからお世話が大変でしょう」「でも、順送りですから、苦労して育ててもらったのだから」ふと、聞こえた会話です。自分が老いた両親を見て、老いていく。子供がそれを支える。その子供がまた年を取り老年となり、そして、孫が世話をしていく。この順送りと言う考えは"愛"がなければ生れません。そして、この愛が躍動した時、主イエスのみ心が満ちた温かい世界が育つのではないでしょうか。この、白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、神を恐(畏れ)れなさい。と言う旧約聖書の言葉が心に響きます。自分も「順送りですから」とさらりと言うことができるだろうかと思います。私たちは、老人の方々を見下げるの...順送り

  • … 幸いです。

    「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」マタイ5章9~10節多くの人が、初めに人と人との平和を求めます。世界はなんと平和を好むことでしょうか。けれども、ここに「その人は神の子と呼ばれます」という約束があります。人と人との平和は(今の世界を見てのとおりです)成り立ちません。初めは神との平和、そして神の平和が自分を満たし、それで自分に周りに平和を造ることができるのです。「義のために迫害される者」。面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。なぜなら、世は、心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。そういう人たちが自分...…幸いです。

  • 主は立っておられる

    「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ヨハネ14章1節画家が向かっている大きな絵は、石造りの入り口が描かれていました。道の片側には優しい繊細な花が描かれてあります。反対側には棘のある木の茂みがありました。扉の前に一人の男が立っています。長く白いロープを着て右手は扉をたたく高さにあります。花は人生の喜びと美しさを現し、棘は苦しみを示します。扉は人間の心を象徴し、扉を叩く人はキリストです。しかし、ドアを開ける取っ手が描かれていない!画家は答えました。「取っ手はいらない。キリストがノックすると内側から開けられるはずだ。キリストは招き入れられる」人は誰でも自分の心の支配者です。心を開こうと開くまいと自由です。神は私たちの自由を尊重される、無理に私たちの心の中に押し入ろうとはされません。...主は立っておられる

  • 許すことは

    「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」コロサイ3章13節ウィリアム・バークレーはクリスチャンとして私たちが人を許すために三つのことを学ばなければならなと言いいました。そしてその第一は「理解すること」であるというのです。「人の行動にはいつも理由がある。粗野な人、失礼な人、気難しい人には、心配事があるか、他の苦痛があるかもしれない。人を疑ったり嫌ったりする人は、相手に対して何か誤解があるか、相手の言動を曲解しているのかもしれない。あるいは環境や遺伝のせいかもしれないし、また、気難しい気質のため問題が多く人間関係がうまくいかないのかもしれない。人を非難する前にその人を理解しょうと努めれば許すことも容易だろう。」そして...許すことは

  • 真実の豊かさとは。

    主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。詩篇37扁16節「ひとりの正しい者の持つわずかなもの」とはいったい何なのでしょうか。豊かないのち、豊かな心ではないでしょうか。自分を正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、人からも罪人と思われていた取税人は、神殿から遠くで祈った。方やパリサイ人は神殿の前で、祈りました。このパリサイ人の祈りは「後ろの取税人のような罪人ではないことを感謝します。……」でした。この取税人の祈りは、「神よ。こんな罪人のわたしをあわれんでください」でした。主イエス・キリストの軍配は取税人のほうにはっきりと示されました。罪を悔い改めて神を畏れ、神に新しい心をいただいた正しい心こそ、豊かなのです。見えるところは僅かでも、それは宝石...真実の豊かさとは。

  • わが贖い主よ

    どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。詩篇19扁15節ユダヤの人々が贖い主と言う時は、自分が窮地に陥り、全財産を失い、自分の身まで奴隷として売り渡さなければならないような時、犠牲を払ってまで買い戻し、助けてくれる親戚のことです。わたしたちにとっては、いのちを投げ出し、全身の血を流し切って、滅びから、さばきから救って下さる主イエス・キリストこそ贖い主です。そんな贖い主に、「私はこんなことをしました。認めてください」とまるで商取引のようには祈りません。私たちには差し出すものが何もなく、み前に祈る祈りの言葉をお受けくださいと祈るばかりです。心の底から湧き上がる信頼、願い、感謝と礼拝の思いとことばだけしかありません、しかし、神はどんな供え物に...わが贖い主よ

  • 共に悲しみ。

    彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。イザヤ63章9節私たちの悩み悲しみ、苦しみを神は無視されるのではなく、ここの約束は、共に悩み悲しみ、苦しんでくださっているというのです。神、自ら私たちのこの思いと心の中に入って下さり。共に涙を流し、理解してくださるのです。さらにこの世の神の奴隷あり、欲望の奴隷になって自分を見失っている私を、神は尊い御子の血潮にてこの世の神から贖いだし主に在る自由の世界に置いていてくださいました。私たちを遠くから眺めて、苦しんでいる私たちに教訓を与えるような方ではなく、いっしょに苦しみを感じてくださっているのです。ヘブル4:15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方で...共に悲しみ。

  • 自由とは

    もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。ヤコブ2章8節大事なのは、「最高(尊い)の律法」と訳されているところです。これは、「王の律法」と訳すことのできるものです。栄光の主イエス・キリストの律法でありますから、王なるキリストの律法ということです。つまり、これは王権をともなった、絶対権威のある、畏れ多い律法であるということです。この律法に違反する者なら、それ相当の罰が伴うというものであります。私たちは、キリストの御国にいます。そして、王なるキリストが与えられている掟の中に生きており、それがこの隣人を愛するという掟なのです。神は人をご自分の姿にかたどって創り、その上自由意志というものをお与えになりました。そして、人は神に逆らう...自由とは

  • 侮れば。

    「神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。」詩篇10扁4節「罪を認めて悔い改めよ」と叫ぶエレミヤを人々は嘲笑し、しかもエレミヤが語る滅亡預言は成就しない。悪がますます栄える現実の中で、エレミヤは神に叫ぶ。神の不在経験によってもたらされるリアリティは、私たちの神に対する幻想が打ち砕かれて、神に対する真の信仰を強めてくれることにあります。神の沈黙が、神の不在が、神と私たちとの関係を浅瀬から深みへと導いてくれるのです。目にする現実に、心が落ち込んでしまうのではなく、私たちがそれまで持っていた神に対する幻想から解放されて、柔軟にされることで、内なる暗闇から抜け出す経験をするのです。神の不在を個人的に経験することで、結局は、私たちが神の臨在をより強く、より深く味わうように導かれる・・・ここに神の...侮れば。

  • 神の命の中で

    「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」口語訳聖書「このように、人間は、天地を造った神様に似た者として造られました。」リビングバイブル創世記1章27節神はご自分の創造物の最後に、ご自分に似せて、ご自分のかたちに人を造られました。神が自然界の全てを支配されているように、人にその支配を任せて、人の支配を通して自然を支配するようにお定めになりました。「ご自分のかたちに」と強調されています。ここで神は「創造された」という言葉を繰り返されています。三度も繰り返しています。これが神の最高傑作品だからです。動物と同じように被造物であるにも関わらず、神に似せて造られたのです。こんなすごいことはありません。この事実だけでも、私たちが今、ここで生きているということが神...神の命の中で

  • 信仰とは

    「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル11章1節「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分の心に言い聞かせて、それがかなえられることを神に押し付けることではありません。そうではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑問も提示せず「しかり」と納得し、確信することなのです。神が言われることが、「そのとおりである」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中で体験されていることになります。その目を閉じて、神の御手の内に一切を、素直に喜んで委ねるなら、これは最高、最善の信仰です。それは神がなぜ其々の働きをなされるのかを知ろうとはしません。理性と、感覚、体験には、怒りと不正以外の何物し...信仰とは

  • 呼び求められています。

    「主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。」詩篇12扁9節世が末の時代となり、社会的倫理が破れてくると「卑しいことが崇められる」ようになります。倫理とか道徳と言ってもピンとこなくっても、「汚いこと、卑しいこと」というと案外とわかります。悪臭が漂うごみための汚さがすぐわかるように、人と人との交わりの中の「汚いこと」「卑しいこと」は本能的にわかり、したくないのです。しかし現代は、そんな「卑しい」ことが横行している時代だと思いませんか。昔の人間には思いもよらない、人の尊厳を踏みにじるような獣のような考えと行いが満ちています。(昔もなくはなかったことですが、)聖書の中に「上にあるものを求めなさい。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」という聖句があります。「私た...呼び求められています。

  • 一人より二人

    ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。伝道者4章9節この箇所全体は「ふたりであることの祝福」が述べられています。一人では得られないすばらしさです。伝道者は「日の下で」ふたりであることのすばらしさを、ひとりぼっちのむなしさと比較しています。このふたりとは必ずしも結婚する者のことを意味していません。仲間、友人、協力者であっても良いのですが、特に11節には「いっしょに寝ると暖かい」とありますから、ここでの「ふたり」とは「夫婦」と理解するほうが自然です。その二人が力を合わせて一つの仕事にあたると、一人でするよりも行き届いてよくすることができ。しかも、その報いを二人で喜び、楽しむことができるのです。そして、このみ言葉を私と主イエスに置き換えて考えてみてください。主イエスが私とともにおられるなら、苦労も...一人より二人

  • 助けを求むのは

    目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。詩篇121扁1~2節この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。青壮年の方々も例外では...助けを求むのは

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