10/2gooブログが終了しますのでアメーバブログに移転予定です引っ越しするのに自分では出来かねまして専門の方に頼んでおりますのでそれまで少しお休みさせて下さい5月は薫風自南来気持ちよい風に吹かれて美味しいものを食べたい麗しいお道具を拝見したいと願ってる毎日です写真は綱島のフクモトの御料理薫風自南来
式子内親王夏の夜はやがてかたぶく三日月の見る程もなく明くる山の端.今日は銀座で誕生日会銀座五丁目の「加賀屋」香り箱というメニュー夏の夜は
水無月の夏越の祓いをする人は千歳チトセの命のぶというなり明日は六月の晦日6月30日は水無月を食べる日。「夏越祓ナゴシノハラエ」「水無月の祓ミナヅキノハラエ」とも呼ばれる神社の鳥居の下や境内にチガヤで作られた大きな輪が据えられその輪をくぐる半年間の罪や穢れを祓い残り半年の無病息災を祈願するその六月のお菓子が「水無月」「水無月」は白の外郎生地に悪魔払いの意味の小豆をのせて暑気を払う三角の形は氷を表す枝豆や小豆をのせた三角の形の玉子豆腐やシンジョウ若いときの六月の懐石には煮物椀として重宝した今日は木曜稽古五名のお弟子様が見えてそれぞれ点前したお菓子は金団の「苔清水」とその「水無月」届いた時は蒸したばかりなのだろうお菓子の箱が熱々で嬉しい夏越の祓い
いわけなう日うらの白き胡瓜哉子規いわけなう→いわけ‐な・し【稚なし】=幼い。あどけない。子供っぽい。日うら=日陰のこと今日は水曜稽古寄付は西山翠嶂の鷺と胡瓜の絵にした西山翠嶂にしやま-すいしょう1879-1958明治-昭和時代の日本画家。明治12年4月2日生まれ。竹内栖鳳(せいほう)に師事。昭和8年母校京都市立美術工芸学校の校長,12年芸術院会員。青甲社を主宰し,堂本印象,上村松篁らをそだてた。32年文化勲章。昭和33年3月30日死去。78歳。京都出身。本名は卯三郎。(コトバンクヨリ)いわけなう
藤原定家たづねいるならの葉かげのかさなりてさてしもかろき夏衣かな明日は稽古日なので掛けものを替える「雲表清露」小堀卓巌筆先週はこの軸を掛けていた読み方はウンピョウノセイロ意味は雲の上の尊い世界の清らかな露。天上界の教えは無垢であり清浄である。この世のものならぬ清浄な霊水「清浄な霊水を沸かした湯で点てた一碗の茶、と解してよいであろう」芳賀幸四郎「禅語の茶掛一行物」若いとき三十代前半芳賀先生の講座に通っていた禅語の勉強に月に一度表参道の梅窓院まで出掛けたそこでバイ様に偶然会ったのだ芳賀幸四郎はがこうしろう、1908年1月25日-1996年8月6日)は、日本史学者。東京教育大学名誉教授。東山文化研究の第一人者。また、禅を極め、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師でもあった。庵号を「如々庵」(にょにょあん)、道号を「洞...ならの葉かげの重なりて
与謝野晶子睡蓮の花びらの先苦しくも少し尖れりわが心ほど今日は○○研究会紫兎先生と御坊っちゃまとお勉強に行くのだがわが家からほぼ一時間半ようやくたどり着いた玄関の土間から一段上がろうとしたところでなぜか私と先生とが絡み合いながら転んでしまったさいわい厚い玄関マットの上に転んだので二人とも怪我はなく打撲も何もなかったスローモーに転んでいく最中先生の頭とかがどこかに打たないようにと気を付けた気がするが何もできず気がついたら転んでいた転ばないようにと言っていた口が乾かないうちに実際に転んでしまった固いところがなかったので二人ともどこも怪我なく無事であるでも気を付けないと皆々様も写真はすいれん睡蓮の花びらの先
藤原兼輔わが着たる一重衣は山吹の八重の色にもおとらざりけり藤原兼輔フジワラノカネスケ平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。歌人清正キヨタダの父で、紫式部の曾祖父。従三位中納言まで進み、その邸宅が賀茂川堤にあったので、堤中納言といわれた。藤原定方などとともに紀貫之や凡河内躬恒などの専門歌人の後援者であった。家集に「兼輔集」があり、「聖徳太子伝暦」の著作もある。元慶元~承平三年(八七七‐九三三)今日は日曜日お弟子様のサカチカさんちの茶事へ出かけるいつもは水屋に入るのだが久しぶりに客になる一重の着物ではもう暑い気温だその上に絽の塵よけを着るからますます暑くなるがまあ仕方ない今どきは茶事に伺えばどこも冷房が効いて着物でも涼しいはずだがまん我慢茶事も配役によって感じかたは変わる気がする亭主は主役責任重大終われば達成...一重衣は山吹の
萱草の一輪咲きぬ草の中漱石ああ、昨日は寝落ちしてブログも書けなかったし大好きなテレビドラマ夜10時からの「ペンディングトレイン」の最終回だったがぐうぐう寝てしまった今日はお弟子様の森金さんの今週二回目の水屋を担当庭の水引を切り、予め頼まれていた背の高い扇風機を持って迎車のタクシーに乗り込む「扇風機をそのまま持って乗り込むお客さんは初めてデスネ」と言われた。その扇風機はサカチカさんのだが不要とのことで私と森金さんが欲しがったが私の負けわが家にも同じような背の高い扇風機があるもう一つあってもいいかと手を上げたエアコンあり背の高い扇風機は1台低い扇風機が二台すでにあるのにだまた欲しがる癖があるそして捨てないからものがドンドン増え続ける茶事は予定時間をだいぶオーバーしたが無事に終わった焼きもののカマスは美味しそう...なつかしき色ともなしに
気にかかる事もなければ梅雨もよし虚子高浜虚子タカハマキョシ1874年〈明治7年〉2月22日~1959年〈昭和34年〉4月8日)明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。本名は高浜清(たかはまきよし、旧字体:高濱淸)。旧姓は池内。『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。今日は木曜稽古午前10時から二名のお弟子様サカチカさんとウエストさんそれぞれお昼頃にお稽古は終わりその後は夕方6時には秋さんの予定が入ってるさて休憩時間が大分ある午前中のお弟子様お二人といつもの魚屋さんへお昼を調達毎週木曜日のお刺身の日を取止めてるのでお魚は随時いつもの魚屋へ買いに行くお刺身と煮魚とか焼き魚を買う普通のお魚のほかに玉子焼に魚のサラダ厚揚げやさつま揚げも売ってる三人で適当に買ってあっさり解散昼食...梅雨もよし
夏至の日の幽かに聴こゆ馬の鈴石鼎セキテイ馬の鈴が聞こえてくるなんて夢の世界のようだ原石鼎ハラセキテイ1886年3月19日-1951年12月20日島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人。色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。今日は水曜稽古コロナ禍でずっと休んでいた七亊式の稽古を今日から始めることにした午前10時から集まりはじめまずは花月午前中は五名揃わず私めが参加しても四名だったがはじめたそのうち一人二人と見えて五名が揃ったお弟子様の見える時間の都合で午後から見えたり入れ替わりに帰ったりしながら平花月炭付花月濃茶付花月平花月炭付花月濃茶付花月と繰返す久しぶりに折据えを置く細かい畳目を数えて参加者には結構な脳トレになったはずだまた来月写...幽かに聴こゆ馬の鈴
ひらひらと挙るあふぎや雲の峰芭蕉今日はいい天気お弟子様の森金さんのお茶事の水屋に行く下ごしらえは森金さんが前日の昨日に出来ることは全て済ませ私は当日の魚の切りもの向付とその他温めたり盛付たりそうそう難しいことはないでも焼きもので失敗最近は魚はグリルで焼く時間設定が付いてないので携帯のタイマーをセットしたが失敗焼く時間は八分で様子見るその八分を八時間でセットしてしまったいつまでもアラームが鳴らない気が付くと、焦げてる失敗いい匂いがしてたしもう少し早めに見れば良かったと後悔した後悔とはしてしまった事について、後から悔やむこと。「後悔先に立たず」(事が終わって後にくやんでも取返しがつかない)例文今さら後悔しても始まらない」類語悔やむ(くやむ)悔いる(くいる)く関連語悔悟(かいご)悔恨(かいこん)悔い(くい)懲り...ひらひらと
あぢさゐを五器に盛ばや草枕嵐雪五器ゴキと高麗茶碗の一種の呉器のこと呉器は形が椀形で、禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ていることに由来するといわれます。一般に、大振りで、見込みが深く、丈が高く木椀形で、高台が高く外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色。素地は、堅く白茶色。釉薬は薄青みがかった半透明の白釉がかかります。呉器茶碗には、「大徳寺呉器」、「紅葉呉器」、「錐呉器」、「番匠呉器」、「尼呉器」などがあります。「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎として、帰国の折りに置いていったものを本歌とし、その同類をいいます。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くありませんが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていません。「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せていることからその名があ...五器に盛ばや草枕
与謝野晶子天の原にごれる海をみなもとになして行くらむ梅雨霽ツユバレの川浮世草子に財宝残らず釜の下の灰、広庭の落葉までもゆづる也とある竈の下の灰まで→家の中のものあますところなく。全部の意。江戸時代は「灰買い」という職業があったという・染色の定着材・土壌の改良剤・焼き物の釉薬また草木灰に含まれるアルカリ性と細かい珪酸分を利用し、茶碗等の器物の洗浄や、汚染されていない灰で人体の洗浄剤や傷口の消毒剤にも用いられてきたようだ週二日間の稽古日に風炉の灰型二文字押切を二つなかなか満足とはいかないいや満足は一度もない炉の灰は灰汁アクの抜けた灰にしてサラサラと灰さじから撒かねばならないでも風炉の灰は灰汁をとってしまうとサラサラして灰型ができないただ炉になるまでの風炉の半年間日常の炭手前を繰返し篩フルイでふるうを繰返すそ...梅雨霽ツユバレの川
青梅に眉あつめたる美人哉蕪村昭和十年発行の「茶料理」に小吸物のことが書かれている「昆布仕立は水三合に昆布二寸昆布の味が付かない位で昆布引上げ少量の鹽シオで加減昆布の味や香が、はっきりしては箸洗の目的に適せずこの急所をよく心得て置いて頂きたい」とこの時の実は衝羽根ツクバネと契チギり梅衝羽根の姿の良く一つ整ったのを椀に盛り汁を注いでから梅干を加える先に梅をいれると椀の底に喰ひ付いて離れ難いことがありますとあった今日は土曜日予定では朝9時24分踊り子3号に乗ってお弟子様のお茶事に出かける予定だったが家庭の事情で行けずつらいところだ朝から見事な晴天私は一日中そうじ片付け昼寝付青梅に眉あつめたる
出る杭のうつつなき身やかたつぶり蕪村梅雨の頃のイラストには紫陽花とカタツムリをメモ良い組合せだカタツムリそれを見そうそう雨が降るからね狭いところでは今日は金曜日商店街の郵便局へ振込の用事があるいつもの魚屋に寄ってお喋りがてら焼魚と煮魚をあるだけ大人買いそれでも二千円以下これで暫しのたんぱく質は確保した味もついてるしすぐ食べれるから良し写真はお友達からの頂戴したセレブなご飯のおともで有難く栄養補給した感謝うつつなき身や蝸牛
古今集・よみ人知らず忘れ草たねとらましを逢ふことのいとかく難きものと知りせば今日は雨が降ったり止んだり梅雨の最中ゆえ雨はつきものだようやく庭の半化粧が葉を白くし始めた友人のハイさんがこの半化粧を欲しいというのこころなりけり今日のお茶のお稽古のあとに寄るとのこと日陰で背の伸びた半化粧を四五本紙に来るんで差し上げた茶の流儀は宗偏流とのこと・千宗旦の子弟である山田宗偏(1627~1708)がはじめた流派宗偏は宗旦四天王の一人。腕の立つ職工として茶杓、茶碗などを手がけ、宗旦の厚い信頼を得た。宗旦は祖父利休の没後、経済的にどんなに苦しい状況にあっても大名仕えはせず、ひたすら質素に徹するい「侘び詫び」の生活を押し通した。宗旦の苦しい時代を支えたのが愛弟子の山田宗偏。宗旦の侘び詫びの精神に深く共鳴した小笠原家全権大使と...忘れ草
樋口一葉飛鳥川あすは知らねど水色に今日はにほへるあぢさゐの花今日は水曜稽古花溜には額紫陽花が盛りだくさん大ゴミの和ダンスを出すのに朝早くヘルパーさん2名見えて外まで出してくれた丁寧に大切に出したのに大ゴミ収集の車の後ろにボコボコ投入れるとバリバリ壊しサッと出発したあっけないもの長年使った箪笥は姿を消してしまった掛けものは涌蓮涌蓮読みはようれんとネットには出ていたが私はゆれん又はゆうれんだと思っていた江戸中期の真宗高田派の僧。伊勢黒田生。浄光寺誓海の弟。諱は慧亮エリョウ、字アザナは達空タックウ、嵯峨居士と号する。初め江戸桜田の澄泉寺に住むが、のち京都に上り、冷泉為村に和歌を学ぶ。安永3年(1774)寂、享年未詳。今日はにほへるあぢさゐの花
相模見渡せば松のみどりにうちかさねこ紫なる岸の藤波今日は火曜日お習字のお稽古森金先生とお習字予定は予定針切は相模集・重之の子の僧の集相模と、重之の子の僧、藤原行成筆と伝えられる。相模集と重之の子の僧の集の二集を1冊の綴葉本として書写されたもの。書写本の筆跡が細くシャープなところから、『針切』と称されている。歌のみが書写された相模集の部分と、詞書コトバガキを設けてリズミカルな出入りを配した重之の子の僧の集の部分とが有る。どちらも流麗な線で書かれているが、相模の部分はやや右に流れる傾向が有り、重之の子の僧の部分はこれに比して行をやや垂直に執り、墨継と相まってすらりとした美しさをより強調して凛とした強さも醸し出している。「針切相模集」は現在十一葉三十六首知られているが、後に一葉四首も『針切』として加えられて...小紫なる岸の藤浪
橘俊綱タチバナノトシツナつれづれと音たえせぬは五月雨の軒のあやめの雫なりけり橘俊綱タチバナノトシツナ1028-1094平安中期-後期の官吏,歌人。長元元年生まれ。藤原頼通の子。丹波,播磨などの国守。正四位上,修理大夫,近江守。永承5年(1050)「橘俊綱家歌合」伏見の自邸で歌会をひらいた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に12首みえる。造園に通じ,「作庭記」の作者ともされる。寛治8年7月14日死去。67歳。通称は伏見修理大夫。今日は茶会へ名古屋の有楽苑如庵結の会の茶会朝8時10分品川発の新幹線で名鉄に乗換犬山に11時ころ着いたマイクロバスで行く小雨の有楽苑濃茶席は如庵と正伝庵薄茶は別棟の元庵それからバスで奥村邸にてフランス料理ワインで乾杯音たえせぬは五月雨の
古泉千樫さみだれのあめふりけぶり朝あやし白き海鳥庭に来て居り今日は朝日カルチャー白河切シラカワキレ『後撰和歌集』の断簡。伝称筆者は西行(1118~1190)平安後期から鎌倉初期の緩急抑揚の変化にとんだ筆運から、江戸時代に筆者を西行と鑑定され、名筆の一つとして鑑賞されてきた。太い線と細い線が交錯した緩急のある運筆で、連綿は長い。伝本の少ない古本系統『後撰和歌集』の平安後期の書写になる古写本として国文学上にも価値がある(ウィキペディアヨリ)写真は駅前の建物の解体現場隠しもせずいいのかしらちょっと見てはいけないような景色だけど誰も興味を示していない五月雨の雨降りけぶる朝怪し
北原白秋枇杷の木に黄なる枇杷の實かがやくとわれ驚きて飛びくつがへる今日は食事会いつもは綱島のふくもとだったが満員で予約がとれなかったいつもの四人のうち2名は6月が誕生日ではでは帝国ホテルで誕生会をしようと今日は帝国ホテルのレ・セゾンその写真コースのあとはロビーの喫茶店で紅茶一日を楽しんだ珈琲をお代わりした黄なる枇杷の實かがやくと
藤原俊成夏もなほ心はつきぬ紫陽花の四ひらの露に月もすみけり今日は木曜稽古昨日は森金さんが今日はアイテラ氏が紫陽花を持ってきてくれた水屋の花溜めはかさ張るアジサイだらけだホンアジサイ、額紫陽花水揚げを良くすれば生き生きと華やぐ万葉集にも歌われているそうな写真の掛けものは呉浚明ゴシュンメイの山水または五十嵐浚明イガラシシュンメイ元禄13年(1700年)-天明元年8月10日(1781年9月27日))は江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明。字は方篤、後に方徳。号は思明、孤峰、穆翁、竹軒。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。いつまでも見て飽きない好きな絵師だ夏もなほ心はつきぬ紫陽花の
北原白秋色硝子暮れてなまめく町の湯の窓の下なるどくだみの花今日は水曜稽古掛けものは須川信行須川信行スガワノブユキ天保10年10月25日~大正6年(1917年)11月13日)江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人。『明治天皇御集』の編纂委員を務)(ウィキペディアヨリ)窓の下なるどくだみの花
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋芭蕉もうすぐ梅雨入りになるようだ今日は火曜日村雨庵ではお習字の日森金先生は10時にお出まし新入会の生徒さんサヨさんは荻窪からヨツさんはとても遠方からお越しだでも私は読売カルチャーへ茶話指月集のお勉強お習字はお休み今日は瀬田の唐橋の擬宝珠ギボシのお話千利休が言う「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」とすると織部が急に席を立ち、夕方に戻ってきた。「早馬で瀬田に参りました。2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と利休をはじめ一座の者は、織部の執心の凄まじさに感心した。(久須見疎安の茶話指月集ヨリ)というあたり夕方雨が降りだした写真は大谷尊由の自画賛隠れぬものや瀬田の橋
樋口一葉おもふ事いはねば知らじ口なしの花のいろよきもとのこころも今日はエマ先生のお茶事へ天気も良い茶事日和今回で伺うのは三回目今月から一重の着物紫卯先生に頂いた紫色の着物正午茶事本懐石に初炭菓子で中立ち後座は手付籠にマツモトセンノウ縞アシに半化粧お心入れのお道具で楽しかった写真は5/30に行った「ふくもと」で撮った実も付いてる山梔子クチナシの花言はねば知らじ口なしの
短夜や浪うち際の捨篝カガリら蕪村今夜は満月今日はお弟子様の秋さんちで茶事の稽古料理を作りそのあと客と水屋にわかれるそして茶事を始める向付鯛のかさねもり、山葵、山芋、茗荷、加減酢みそ汁菖蒲の生麩、袱紗味噌煮物椀鱈、豆腐、蛇の目瓜焼物イサキの幽庵焼預け鉢ゆば、小芋、獅子唐の炊き合わせ進肴青瓜と胡瓜ささみの三杯酢小吸物くこ八寸煮アワビ枝豆香のもの沢庵、新生姜、奈良漬菓子水無月秋さんが昨日懐石用に買った材料を写真にとり、ラインで送ってくる。それを見ながら考えた献立煮物椀の鱈は冬の方が相応しいけどまあ仕方ないか初心者組だけど味はなかなか良かった頑張ったね写真は道端のパンジー短夜や
藤原定家玉鉾の道ゆき人のことづても絶えて程ふる五月雨のそら通りすがりの人にあの人がいつも託す手紙が私のところに来なくなってずいぶん経つわね仕方なく見上げる梅雨の空は灰色だわ玉鉾タマボコ「たまほこ」とも①玉で飾ったほこ。また、ほこの美称。②道の枕詞「この程はしるもしらぬも玉鉾の行きかふ袖は花の香ぞする」〈新古今・春下〉今日は朝日カルチャー崩し字の講座社中の森金さんとサカチカさんも参加帰りは三人でそごうの鳩居堂へ森金さんはお茶事の案内を巻紙にしたためるのに用紙が足りなくなったのでと買いにきた六月、七月、八月分のお手紙分一気に書くそうだが凄いエネルギーがいるサカチカさんも巻紙と封筒私は封筒とお線香みたいなお香を2種類写真は地下のお鮨屋で三人遅いお昼玉鉾タマボコの
六月の山のゆふべに雨晴れぬ木の間にかなし日のながれたる一年の半分早くも六月はアジサイが咲き蛍が飛ぶイメージお菓子の水無月を食べて晦日には茅の輪をくぐる夏越の祓いは「水無月の夏越祓ナゴシノハラエをする人は千歳の命のぶというなり」台風と梅雨前線の影響で外は強い雨風の音がする自然は脅威だ写真は秋さんが送ってくれた写真飼っている猫チミだ可愛いね六月の山のゆふべに雨晴れぬ
読み人知らず五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする今日は木曜稽古籠ひさごの花入に美央柳ビョウヤナギを入れた別名は美女柳ビジョヤナギまた美容柳ビヨウヤナギ金線海棠キンセンカイドウ弟切草(おとぎりそう)科「葉っぱがうすめの品種」と「葉っぱが厚めの品種」があるうちのは薄めだ写真は花橘の香をかげば
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10/2gooブログが終了しますのでアメーバブログに移転予定です引っ越しするのに自分では出来かねまして専門の方に頼んでおりますのでそれまで少しお休みさせて下さい5月は薫風自南来気持ちよい風に吹かれて美味しいものを食べたい麗しいお道具を拝見したいと願ってる毎日です写真は綱島のフクモトの御料理薫風自南来
今日は火曜日鶯谷で皆さんと待合せ東博特別展へ「蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児」吉原大門を入ると吉原大通の桜が出迎えるいい気分出口近くには耕書堂の店大川端から花火も見れるいい気分だ平成館2025年4月22日(火)~2025年6月15日(日)「一目千本」と「写楽」を前期21作品をたっぷり拝見他のは通りすぎるだけだったお昼はホテルオークラガーデンテラスで三時は松坂屋の二階のカフエケーキが凄くフルーツたくさんでも高いけど珈琲SETとお喋り楽しまた行きましょう東博へ東博へ行こう
名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと伊勢物語の9段『東下り』今日は茶会大磯の松月茶会へ薄茶席担当のお道具屋さんからご案内初めて参加す風情がある料亭での茶会雨の予報だったが曇晴れ上等濃茶席は胡銅花入に牡丹薄茶席は竹花入にもみじと木苺写真は今日の点心だ名にし負はば
今日は東美で和美の会へわりと空いていた感じ森金さんと待ち合せエフ先生と合流茶入茶杓を目的にとアッチコッチへうろちょろカタログにはあったが実物は売れてしまったのか姿が無かった江戸初期の茶杓は高い案外、茶入は安く買い時かもでも私は何も買えないけども楽しかった帰りはビールで乾杯しようかビアホールはシニア風な人々で溢れるばかり満員凄いエネルギーが充満してる感じみんな元気でいいね!東美和美の会
咲く花は八重か一重かおぼつかなおぼろ月夜の山蔭の道自画賛阪正臣筆4月8日火曜日はお釈迦様の誕生日その日は森金さんの水屋4月9日水曜日は大仏の日熊ショウさんちで七時式4月10日は村雨庵の稽古日明日はまた森金さんの水屋土曜日は和美の会日曜日はサカチカさんの水屋4月は何かとあわただしくこの後もずっと予定が詰まっている良いような悪いような突き進むしかないが出来なくなったら自然に止むはず咲く花は
たんぽぽや折々さます蝶の夢加賀千代女土曜日は茶事手伝い昨日の日曜日は倍様と文の会前回は1月なので久しぶり伊勢物語を音読お昼はいつものイタリアンいつもの前菜とワインそれにパスタ2種いつもでも支払い金額はだんだん増えてる新しいエアコンを買ったので午後から取付作業前のエアコンを外す我が家は古い家軒が出ている長押ナゲシの上の壁に穴をあけて一度軒ノキの上に出し軒ノキを下にと穴を開けパイプをとおして外に出す直角に曲げるので古いエアコンを外すときも据えるときもそれが大変電気屋さんはいつもの電気屋さんがお歳でお店を閉じてしまったので同じような方を紹介してもらったどうも私と同年代20キロのエアコン担いで脚立にのって一人で作業するのだが四苦八苦危うく落としそうになるので思わず下からエアコンを支えた順調にはいかない「どうぞ勉...タンポポや
今日はサカチカさんと銀座谷庄の茶会へ買うものは無いし見るだけだそれでも楽しいお互いどこかでお目にかかったようなと目が合い先日の柿伝の茶飯釜でご一緒だと気がついたまた護国寺で御目文字した竹とんぼさん達ともご縁ですね思いがけぬ場所での遭遇は嬉しいその後は歩いてぜん屋へ雨草履を買うつもりが低反発の草履を買ったそして歩いて「司」へ見るだけそれから歩いて京橋の「婆娑羅」で昼食ここは美味しいオープンキッチンでよくみえるそして歩いて東京駅大丸のイノダへ我慢できずケーキセット今日はよく歩いたらしく足裏に豆ができた有楽町、銀座から京橋、東京駅
花冷やはるかに燃ゆる花篝草城昨日は火曜日火曜日は南方録のお勉強今回は覚え書二十一飯台は机の如くして2人3人4人も台一つにて食する、これ禅林日用の作法なりしかるを紹鷗、宗易、大徳寺、南宗寺の衆を茶の時、折々飯台を出されしなり2畳3畳4畳別して四畳半によし茶立口の他に今一つ口ある座敷ならでは茶立口より出し入れは好まざることなり亭主まず台を座へかかえだし布巾にて清めさて食の椀に物相の飯を入れ蓋をし下に汁椀を重ねかくの如く客の数次第、引き盆に並べる出て台の上に上げ汁は汁次にて出す菜も鍋にても鉢にても出すその品次第の見合せなり酒は一、二返にてすむべし食椀の蓋にしたるものにて飲むなり客の食いよう別してきれいに喰うべし惣じて飯台の料理は殊更軽くすることなり汁一つ菜一つ、強いて二つ、茶うけのものなど出さざるもよしまた一様...花冷えや
今日はエイプリルフール4月の冷たい雨が降って懐炉を持っていないことに悔やんだ昨日はお茶碗研究会仁清乾山どの分野でもそうだがわかっているようでまだまだだと思い知らされる古清水は仁清以後~奥田頴川以前とか道具屋筋は明治でも古清水と言うと奥田頴川はトーハクに呉須赤絵の重要美術品色絵飛鳳文隅切膳がある陸方山とも号した建仁寺の南に開窯明の渡来人の子孫中国意匠の作品が多い特に呉須赤絵を得意京焼に磁器を導入,京焼黄金時代の因となった今日は読売カルチャーの南方録へ奥田頴川オクダエイセン
西行おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲今日は川崎で食事会12名が賑やかにお喋りワイワイとお酒を飲んであっという間にお料理が並んだが誰もがムシャムシャ完食した身体も胃袋も元気帰りにお花見しながら帰ると言う人もみんな元気だねえ明日も元気で出かけようじゃないのおしなべて
今日はサカチカさんの茶事私は玉ちゃんと水屋担当今日の茶事は飯後の茶事菓子の茶事とも言う茶事は食事をお出しする朝茶正午夜咄の茶事が一般的だが飯後はその言葉どおり食事の合間にする茶なので3時間以内でするすると進めるでないとその後の食事にさわり不都合となる汲み出初炭香合をご覧に入れてその後吸い物八寸菓子椀中立となる後座の床は花となり続き薄茶でお開きだどんな茶でも一献あればそれは茶事になるとエス先生は仰ったお酒ばかりでは宴会と変わらない何事も程ほど写真は待合の床田中訥言筆「猫に蝶図」復興大和絵の祖といわれる江戸後期の画家中国では猫と蝶々の取合せは長寿を表す猫と蝶々の中国語maoとdieは70歳と80歳の発音が似てるそうなと亭主サカチカさんのお話しありサカチカサンノ飯後の茶事
桜狩り雨は降りきぬ同じくはぬるとも花の陰にかくらむ正二位季忠七十二歳画並書藤浪季忠フジナミスエタダ昨日はうちで茶事だった後期高齢者にしてはオーバーワーク亭主は身体と頭をフルに使うこと・1ヶ月前から手紙を書く・前日までに庭の点検(前日前には蹲や庭をする綺麗に掃除、枝をととのえる)炭を洗っておく・前日には茶事の道具箱から棚に並べる掛軸を掛ける(当日でも可)・当日2時間前に来て水撒き30分前にも水撒きする暑くなると15分前にも水撒きあとはいつものように炭、濃茶、薄茶の準備腰掛と待合の火入を出汲出を用意しておくお客様が挨拶に見えたら→汲出を出して「お腰掛けまでお出ましを」お客様が腰掛けに移られたら迎付け濡れ釜掛けて手掛かりを開ける挨拶→初炭手前炭斗下げたら後炭の用意炭道具はまだ乗せない後座の花を見積る香合をご...桜狩り
藤原良経春風の吹きにし日よりみ吉野の雪間の草ぞ色まさりゆく今日はほの暖かい春風が心地よい明日は自宅で社中の茶事だベテランの御弟子様たちは各自で茶事をひらくがコロナ禍前後に入門した若い御弟子様たちは安居の会という村雨庵の茶会を19回ひらいたがそれは虫養いムシヤシナイと菓子のあと中立濃茶後炭薄茶と続く小寄せの茶会懐石の部分を経験していない招待の手紙を出すところから始まりつくばいの掃除海の石を取り出し底をよく掃除回りの木々を整え庭の掃除わが家の濡れ縁を腰掛代わりにしているので外から窓を拭き網戸を拭きぬれ縁を拭いてもらうとっても助かる家の回りが清められて気持ちが良い炭を洗ったし明日の準備は良いかしらね亭主は暮れちゃんお客様は三名水屋は二名自分のおうちから道具を何回か運んだこの和歌は九条良経くじょうよしつね嘉応元~...春風の吹きにし日より
今日は広尾の茶会へ先月も伺ったが結構なお道具が出て勉強今日も尊円法親王の和漢朗詠集の3月3日「春来遍是桃花水不辨仙源何處尋」王維書き下し文は「春来っては遍ねくこれ桃花の水なれば仙源を弁(わきま)へず何れの処にか尋ねむ」王維十九歳陶淵明の影響を受け詠む「桃源の行」の一節尊円法親王は伏見天皇第6皇子。永仁6年8月1日(1298年9月7日)-延文元年/正平11年9月23日(1356年10月17日))は、青蓮院第十七世門跡。茶会は遊びのようで遊びでないかも濃茶のお菓子は富ヶ谷の岬屋金団薄茶のお菓子は伊織春来遍是桃花水
起きよ起きよ我が友にせん寝る胡蝶芭蕉今日はいつもの茶事水屋手伝いなー朝から春の明るい日射し何年か前は足が大変だったが元気になってよかったですねとご正客の言葉に膝が悪く辛い日々を思い出した喉もとすぎるとすぐ忘れる鈍感力起きよ起きよ
19日と20日は村雨庵の稽古日釣釜と透木釜どちらでも炭手前を出来るように稽古二碗物の茶通箱に続き薄茶教える方も習う方も能がよく働く茶通箱に利休好み薬籠蓋に仙翁好み桟蓋と玄々斎好み出会い桟蓋がある出会い桟蓋は持ってないので桟蓋の茶通箱で稽古茶通箱は焼物の茶入と棗を袋に入れた茶入を入れ薄器は棗と形の違うものを稽古では四滴の中から選んで使うはじめの濃茶を飲み茶名を伺うまではよいがそのあと正客はのんびりとしてるわけにはいかないよく言う茶巾袱紗で「今一種」塵打ち聞いたら出会いで返す二碗目の加減を問われて水が入ると「後の茶名」「前の茶入お仕服拝見」茶碗返しつ茶入に仕服を引く茶筅清めば拝見をする水指の蓋で拝見かけてそれを引くとき茶入仕服を返すというわけで気を抜く暇はない茶通箱
寄付は短冊森金さんが福田行雄先生より頂戴したもの待合は狩野派の桜に霞本席はお公家の桜の懐紙春永のひねもすをのたりとすごされてらっしゃるご様子楽しそうなお声が途切れない今日は4時半に起きたそろそろ眠たし昨日の茶事先生がそれでは春永ハルナガにお目にかかりませうと春分がすぎ日が長くなったらとのことだ是非とも森金さんの飯台茶事
今日は柿伝の茶飯釜の茶事初炭は管炭と枝炭は残し増やしたぎっちょと割りを丸くつぐサラサラと釜にお米を入れ炊ける間に香合の拝見あっという間にご飯は炊き上がり香ばしい良い香りが広がるまず一口の嬉しい時間だ今日は彼岸の入り生きてる生かされていることに感謝した一日写真は新宿のホームお茶らしい写真を撮れず茶飯釜の茶事
朝から雨だ今日は五島美術館美の友の茶会早めに行ったので44番三席目に入れた濃茶席は高野切の二の手水指はノンコウの桐紋薄作だそうだがこの茶会では何度も拝見する茶入は住吉茶碗は井戸九重茶杓は空中作釜はあられ釜五島の美の友には20代に入った昔のこの茶会は道具にたいして敬意をひょうし紋付きでと先輩にご指導あったが時代ともに色々変わる現在も全てが変更中振り落とされないようにしっかり五島美術館美の友茶会
今日は昔の友人と食事会お互いに誕生会を開いて60年今回は京橋の婆娑羅ランチ3,410円トマトすき焼が有名とか私は魚ゆっくり贈り物交換などは出来ないが美味予算内で友人の一人が肉が全てダメで場所を探すのも大変年に三回だから次からは金額はほどほどなら良い何でも値上がりこのご時世三千四千円ではなかなか難しいお昼のあとは銀座五丁目のトリコロールのケーキセット1,670円すごく良いのだがすごく混んでるそして外人が多い階段でならんで待つひたすら待つ次は山の誕生会六月予算が上がってどこになるかな楽しみ京橋~銀座
短夜のともし火残る御堂哉子規今日は山の誕生日会場所は東京駅すぐのpommed'Adamポムダダン丸ノ内ホテルの八階外の景色はすこぶる良い珈琲のあとプレゼントも交換してないし喋り足りないし少し歩いてパレスホテルへ珈琲を注文して御祝を渡してお菓子などの物々交換今日のお料理などのお喋り次は11月今度はイタリアンが良いと言うことになった短夜のともし火残る
大伴旅人橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き今日は跡見の茶事水屋は大したことをしないが私めは一応水屋担当茶会には7種類の方式がある茶事七式という暁の茶事、朝の茶事正午の茶事夜咄の茶事不時フジの茶事飯後ハンゴの茶事跡見アトミの茶事今日はその跡見茶事朝茶事または正午茶事の後引き続き行なうまたは日時をかえて行う茶事参会できなかった招待者や当日招待されなかった人々の申込みにより茶事の趣向や道具を使って披露ただし懐石は同様にせずその時々で考慮する融通無碍な茶事だ下記は2016/3/5の拙ブログの記事跡見の時知らせの鳴り物うたぬ事なり鳴らさぬように客は早くはいる濃茶の後炭が良さそうなら続き薄茶立ち炭をしても良い中立なくば諸荘又は濃茶の後花を軸に買えてもよし軸の所望をしても良い茶の順などは決まってなく薄...たちばなの花散里
藤原有家後の世を知らせがほにも篝火のこがれて過ぐる鵜飼舟哉藤原有家フジワラノアリイエ久寿二~建保四(1155-1216)藤原重家の3男。母は藤原家成の娘。従三位,大蔵卿となる。六条家の有力歌人で,和歌所寄人,「新古今和歌集」撰者のひとりにえらばれた。「千載和歌集」以下の勅撰集に67首がはいる。今日は水曜稽古届いたお菓子は練切の撫子と生麩まんじゅう夏らしい美味しかった写真はうちの猫ミーちゃん後の世を
樋口一葉飛鳥川あすは知らねど水色に今日はにほへるあぢさゐの花昨日の話し昨日は土曜日銀座の古美術店の茶会があると先生からのお誘いあり12時の席入夏向きの設え狭いが茶の雰囲気はたっぷりだ使われた道具は手にとって拝見したその後もう一軒目の茶道具店のお茶会茶道具の拝見箱も回ってくる私の他は皆さんそれぞれお買い求めなさってご満悦何か欲しかったけど家の道具の山をみるとくじけたあすは知らねど水色に
明易きみずに大魚の行き来かな龍之介茶道具にも色々あるが棚は実に嵩張る特にわが家ては紹鴎棚の収納に困ってる前に紫兎先生から譲って頂き炉の季節に使ったが日常に使えず階段下の納戸に入れたり障子の後ろの廊下に置いたり出すのも大変仕舞うのももっと大変差し上げるからと言ってもお弟子様やお友達快い返事はない紹鴎棚はちょっとした家具和室においても違和感無い炉開きや初釜に相応しい塗師は茶平一斎だし良いものですよ勧めるがなかなかこの棚は二年前の茶会で使ったあと桐の箪笥のような外箱に入ったまま四畳半の隅にずっと置いてあるその上には座布団やら紙袋お習字の紙などなど山積みになっている酷い状態だダメもとで若いお友達のシモちゃんに声をかけると欲しいと言う返事気の変わらない内に早くとりに来てと思っていたら金曜日行きますとライン今日の午後...明易きアケヤスキ
紫陽花に雫あつめて朝日かな千代女今日は小熊の会七事式の稽古「花月」「且座」「廻り炭」「廻り花」「茶カブキ」「一二三」「員茶」今日は「且座」のお稽古花・炭・聞香・濃茶・薄茶の順且座之式は、臨済宗の宗祖臨済義玄の語録「臨済録」の「且座喫茶」からとられた雫あつめて朝日かな
与謝野晶子六月は酒を注ぐや香を撒くや春にまさりて心ときめく三井記念美術館展示室1にあった黒楽茶碗重要文化財「俊寛」シュンカン俊寛は平安時代の僧侶。僧都。康治2(1143)~治承3(1179)祖父は大納言源雅俊。父は仁和寺法印寛雅。後白河院の信任を得た。藤原成親,師光らは俊寛の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘に会合して平氏打倒のための相談をしたが(→鹿ヶ谷事件),多田行綱の密告によって発覚し,治承1(1177)年6月逮捕されて共謀者藤原成経,平康頼らとともに薩摩鬼界ヶ島に流された。翌年中宮御産の大赦により,成経と康頼は京都に召還されたが,俊寛は許されずに島に残された。俊寛は能の曲名でもある。四番目物。五番立の能の神,男,女,狂,鬼の狂にあたる。中宮の安産祈願のため,大赦を伝える赦免使(ワキ)が鬼界ヶ島へ下る島では...六月は酒を注ぐや
与謝野晶子円山の杉のみどりの蔭に吹く真葛が原の六月のかぜ今日から六月六月朔日ツイタチは鮎の日、気象記念日、牛乳の日、矯正歯科月間の日、景観の日、国際親の日、総務の日、チューインガムの日、電波の日、バリ舞踊の日、防災用品点検の日、リードオルガンの日一年は早い半年はすぐくるひと月はまばたき一日はもちろん一生は六月のかぜ
五月雨や色帋シキシへぎたる壁の跡芭蕉今日は東京大丸のサバティーニでいつものメンバーとランチその後は三井記念美術館へ展覧会は茶の湯の美学利休・織部・遠州の茶道具6月16日まで○展示室1・黒大棗千利休在判桃山時代○展示室4・紹鴎黒大棗秀次室町時代○千利休在判の茶道具・黒中棗追銘影法師利休在判宗旦極書(桃山)・黒中棗金砂文字入利休直書、隨流斎直書在判・町棗千利休在判また・伝盛阿弥造の一文字椀展示室6・利休形茶器十二桃山時代、江戸初期の棗は四百年を経てもなお形良く艶があり美しい棗写真はランチの前菜五月雨や
今日は木曜稽古を休んで村雨庵四十五周年記念食事会村雨庵の茶道教室をひらき今年の三月で四十五周年五年毎に茶会をひらいていたがもう茶会はしないから美味しいものでも皆で食べよう場所はいつもの綱島のふくもとかつては村雨庵にお稽古に来ていたお二人にお世話になり美味しいお料理と美味しいお酒まずふくもとさんからの見事なご挨拶に思わず落涙幹事の森金さんのスムーズ司会慣れてる乾杯の挨拶は今年米寿の数先生生き方も立派挨拶も立派です初めの一杯で真っ赤なお顔のアイテラ氏はじめからお開きまで休まずお喋り話すこと沢山あるんだ写真はお店の床に掛かってた一行徳は孤コならず必有隣ヒツユウリン(論語)徳は孤ならず、必ず隣あり徳のある人には、必ず理解者や協力者が現れる、ということ。徳のあるなしに関わらず理解者や協力者、楽しい仲間と一緒にお茶を...徳不孤必有隣
杜若にたりやにたり水の影芭蕉今日はお茶碗研究会高取、上野アガノ、八代、小代焼先月は薩摩、その前は唐津を勉強した九州は今月で終了来月は萩焼だ高取焼は黒田長政が招いた朝鮮陶工八山(高取八蔵)が永満寺・宅間に窯を築いたのに始まる黒田藩の御用窯だが窯場は時代で変わる古高取と言われる永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯内ヶ磯は織部好遠州高取は白旗山窯で焼かれた上野アガノ焼は細川忠興が文禄・慶長の役で招いた朝鮮陶工尊楷ソンカイ(上野喜蔵)が釜の口窯に窯を築いたのに始まり細川家、小笠原家の藩窯として栄える九州のこの辺りの焼物はとても好きな焼物だがその歴史というと私には難しい一度も行ったことが無い土地勘がないからなのか難しい水の影
みじか夜の闇より出て大ゐ河蕪村土曜日の茶事の花茶事の花はその日の朝の花溜めから集中して花を選ぶ亭主の真剣な顔も茶事ならでよく入ったら傍らでみても安堵するみじか夜の
三井寺や日は午ゴにせまる若楓与謝蕪村今日はお弟子様の茶事の水屋へ初風炉の正午茶事挨拶のあとは懐石定石どおりに終わり四つ椀が戻る初炭手前があるのでそのあいだに道具を洗い片付けた焦らずともよく気分が良い懐石の箸洗いは何にしますか一汁三菜のあと改めて八寸を持ちだし千鳥の盃となるがその前に箸を洗い、口中を清める主客献酬のための「箸洗い」中身は使用した材料の一部梅肉のへいだもの海藻類の一片種子の核など箸にかかるかかからぬ程度のものをごく少量お湯仕立てと言われるくらい薄味の清し汁にする箸洗い小吸い物は美味しくしては良くないと習った今日の箸洗は水前寺海苔蕗→三月~春花山椒→四月つくし→春篠竹→春山葵の芽、花、葉→春海藤花→四月独活ウド→三月~五月ちぎり梅→二月、六月茗荷→初夏青梅→六月鱧の笛(ハモの浮き袋)針生姜→...三井寺や日は午ゴにせまる
池五月雨晴れやらぬ池の□のいぶせさも濁るに見ゆる五月雨のころ宣長□は読めないいぶせさ→鬱陶しい本居宣長モトオリノリナガ享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5)18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂の人。木綿商の家に生まれるが、医者となる。医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。(本居宣長記念館のホームページより)晴れやらぬ
杜若にたりやにたり水の影芭蕉火曜日出かけるつもりだった三井記念美術館の「茶の湯の美学」利休織部遠州の茶道具2024/4/18(木)〜6/16(日)10:00〜17:00桃山時代から江戸時代初期、茶の湯界をリードした、千利休・古田織部・小堀遠州の美意識を、三井家伝来の茶道具のなかから探ります。千利休の「わび・さびの美」、古田織部の「破格の美」、小堀遠州の「綺麗さび」、3人の美意識を以上のようにとらえ、書画、茶碗・茶入・花入・水指・釡・茶杓など、各人の美意識から生まれた茶道具の名品・優品を多数展示いたします。と美術館のホームページにあったが夏用の着物の裾上げなどしてたら時間がかかり過ぎて出かけるのはやめた残りの時間は昼寝とおやつ水の影
草の雨祭の車過てのち蕪村今日は月曜日巻さんが灰型の勉強にみえた私は灰型が苦手風炉の時はどうしても嫌だと避けるわけにはいかずやむを得ず眉風炉と道庵風炉の二文字をつくり続けてる私のお茶の先生は灰型大好きいつまでもやっていたいそう仰っていたが無理まず灰を細かい篩でこすこれが案外重要だ台所のお料理のザルなどでは目が荒く灰匙で押してもサラサラ壊れてしまうから必須前の谷以前習ったときは左から中央へ三匙で仕上げ次右から中央へこれまで三匙もう触らないと習ったがそれは案外難しいカルチャーでご指導受けた先生は同じ場所だったら何度でも灰匙を引いていいとのことだ内容は先生によって色々自分に合ったようになさるべく私は時間を短縮するを優先し多少整っていないのには目をつぶる几帳面かズボラ器用かどうかは十分関係あるだろうが治らないものは...草の雨
サリーちゃんのパパが豆腐を買うぜい佐理、東風、行成三跡小野東風894~966野席藤原佐理944~998佐跡藤原行成972~1027権跡894遣唐使廃止その100年前は794ウグイス平安京894から50年経ち佐理が生まれる行成は道長の亡くなった同じ日に亡くなった写真の扇子は住吉物語絵巻三跡
源氏物語・花散里橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ土曜日は何かと用事が入って行けなかったが今日は朝日カルチャーの崩し字入門いつもより教室が広い与えられたレジメを読み下しあとから一文字ずつ分解説明をうけるのだそのときはなるほどと思うのだが「亭」の文字でテだとおもったら「帝」の文字のテだった橘タチバナの
橘曙覧タチバナアケミ(幕末の歌人)明日よりは夏の暑さもあらひこしなごみわたれり瀬々の川かぜ今日は東京美術倶楽部での日本陶磁協会の茶会濃茶は当代随一の数寄者・潮田洋一郎氏五名ずつの回しのみ薄茶が二席官休庵の宗屋宗匠と陶磁協会の席また特別観覧の部屋筋切が正面に掛かっていた筋切って何伝承筆者は藤原佐理だが研究で藤原行成の曽孫にあたる藤原定実(活躍期、1077~1119年)と言われている定実は『元永本古今和歌集』(東京国立博物館蔵)『巻子本古今和歌集序』(大倉集古館蔵)『西本願寺本三十六人家集』の「貫之集上」(西本願寺蔵)の筆者筋切ってなにもとは古今集を書いた二冊の粘葉装デッチョウソウ粘葉装は糊綴じなので糊をはずして紙の表裏をはがすと(相剥ぎアイヘギ)2枚になり表の銀泥で天地に界線(筋)があるのを筋切裏の篩...日本陶磁協会の茶会
昨日は水曜稽古だがブログも書けずねてしまった木曜稽古松波資之のほととぎすの和歌を掛ける湖遠郭公遊山から崎のまつとはなしにほととぎすききつるばかりうれしきはなし松波資之マツナミスケユキ1831*-1906幕末-明治時代の歌人。天保元年12月19日生まれ。安芸広島の商人岡田集介の次男。京都徳大寺家につかえ,のち北面の武士松波家の養子となる。香川景樹にまなび,景樹没後はその子の景恒をたすけて東塢塾を主宰。維新後は皇太后宮の内舎人ウドネリ,雑掌をつとめた。明治39年9月13日死去。77歳。通称は直三郎,大学大允。号は遊山,随所。歌集に「花仙堂家集」。(日本人名大辞典ヨリ)唐崎というと近江八景の「唐崎夜雨」を思い浮かべる唐崎は『万葉集』の「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」『蜻蛉日記』では都人が唐...唐崎夜雨