前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
奥州遠征を終えて平穏無事に源頼朝らが鎌倉に戻ったのは文治五(一一八九)年一〇月二四日のこと。吾妻鏡によると、鎌倉に到着して間もなく、源頼朝は吉田経房と一条能…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
土御門通親こと源通親は姓を見てわかるとおり、源氏である。ただし、今や時代を手にするまでになっている清和源氏の源頼朝と違い、これまでの歴史において、源氏の中で…
奥州藤原氏が苦境にあることの知らせが京都に届き、間もなく奥州藤原氏が滅びそうであることは朝廷でも把握できていた。厳密に言えば、源頼朝からもたらされた書状によ…
奥州遠征完了を宣言した鎌倉方の軍勢は、文治五(一一八九)年九月一九日に厨川を出発し、全軍で鎌倉へ向かって凱旋しはじめた。 途中、平泉で論功行賞を行い、この遠…
さらに注目したいのが、どの史料を探してもこの兄弟、さらにその息子達が記録に登場するのがこのタイミングだということである。考えられるのは、藤原泰衡が平泉を焼き…
厨川で一晩を過ごした翌文治五(一一八九)年九月一三日、源頼朝は厨川で一つの指令を出した。 この戦乱で損害を被った東北地方の全ての一般庶民に対し、安全の保証と…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
どんな国でも侵略を受け入れることはしない。侵略されても降伏すればいいじゃないかという主張をする人もいるが、侵略されたときに待っているのは、通常であれば略奪、…
源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書…
文治五(一一八九)年九月八日、源頼朝は書状を安達清恒に託して京都へ戦況を報告させた。なお、このときの書状は源頼朝の直筆ではなく、主計允二階堂行政が代筆して権…
さて、藤原泰衡の首を河田次郎が持参したことについて別の視点からアプローチをした研究者がいる。岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターの羽柴直人博士である。羽柴…
北陸道軍の立場に立つと、長い行軍を経た上で味方と再会できるかどうかわらかないという行軍より、何月何日に比爪で大手軍と合流できるということが事前にわかっている…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
文治五(一一八九)年九月四日、源頼朝らは奥六郡のうちの一つである紫波郡に到着した。目的地である厨川までは一日もあれば到着できる地点である。 紫波郡は奥六郡の…
このときの奥州遠征そのものは関東の武士達の間にとって栄光の歴史の再現という側面もあった。関東地方の武士達が思い浮かべる武士の歴史となると、平将門でも、平忠常…
見つけ出された奥州藤原氏の関係者の心情を支配していたのは失望である。藤原泰衡が源義経を殺害したこと、藤原泰衡の弟達の命を奪ったことは、納得できるものではなか…
平泉に到着した鎌倉方の軍勢は、想像していなかった、それも悪い方向に進んでしまっていた平泉を目の当たりにした。 平泉にあった藤原泰衡の邸宅にして、奥州藤原氏が…
文治五(一一八九)年八月二〇日、鎌倉方の軍勢が多賀城を出発して平泉に向けて出発した。ただし、平泉に直行するのではなく平泉に至るまでの途中の陣地を攻略しながら…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
鎌倉方の奥州遠征は、源頼朝の率いる大手軍と太平洋岸を進軍してきた東海道軍の他に、日本海岸を行軍する北陸道軍がある。現代の日本で関東地方から新潟県に行くのは、…
文治五(一一八九)年八月一二日に出発した鎌倉方の一行は、八月一三日に多賀城に到着した。多賀城は陸奥国の国府のある地であり、行政上の陸奥国の中心地である。同日…
さらに平泉側によって不都合な事態となっていたのがこの日の天候である。朝から霧が出ていたのだ。視界が悪くなり鎌倉方がどのような規模でどのような攻撃を仕掛けてく…
文治五(一一八九)年八月八日の早朝と同時に鎌倉方の軍勢が目のしたのは、厚樫山の前に金剛別当秀綱が軍勢を強いている光景であった。 鎌倉方の軍勢は、畠山重忠、結…
その結果が、厚樫山山麓から阿武隈川までの総延長およそ三キロメートルに亘る長大な防衛線であった。幅一五メートルほどの堀を掘削して阿武隈川の水を引き込んでいた上…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
「ブログリーダー」を活用して、德薙 零己さんをフォローしませんか?
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! …
和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければなら…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! S…
鎌倉でクーデタが起こったという知らせは鎌倉でも唐突なニュースであったが、京都ではさらに衝撃的なニュースであった。 なぜか? これはクーデタというものの宿命で…
和田合戦の後始末は戦乱から二ヶ月を経ても完了していない。 完了していないのは当然で、反逆軍に加勢した者の中には戦場で討ち取られた者だけでなく、戦場からの脱出…
大倉御所は治承四(一一八〇)年に源頼朝が鎌倉入りして以降、源頼朝の住まいであると同時に鎌倉方の根拠地となっており、鎌倉幕府草創後は鎌倉幕府の所在地となった。…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! …
宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! …
一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…
一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、…
SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインディーズマンガにて無料公開中! …
式子内親王は、現存する和歌こそ少ないものの歌人としても有名であり、藤原定家との関係も深いものがあったことがわかる。治承五(一一八一)年には既に式子内親王のも…
梶原景時が粛正されたという知らせを受けたとき、後鳥羽上皇が護摩炊祈祷を執り行ったという記録がある。これを以て梶原景時が後鳥羽上皇とつながりがあった、あるいは…
俗に、源頼家が鎌倉幕府第二代将軍ということになっている。 後から歴史を振り返ると正しい認識となるが、正治二(一二〇〇)年二月時点では正しくない。どういうこと…