さて、ここでもう一度、泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを、別の角度から振り返ってみると別の側面が見えてくる。 まず、反逆軍として和田義盛とともに戦った武士達…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
ニーアル・ファーガソン氏はその著書「大惨事(カタストロフィ)の人類史」(東洋経済新報社・二〇二二年)において、軍事的無能の徴候として以下の傾向を挙げている。…
それでも源頼朝はギリギリまで粘っていた。朝廷が鎌倉方の軍事行動にお墨付きを与えてくれれば、この戦いは私戦ではなく朝廷が認める内乱鎮圧となる。朝廷への譲歩の意…
京都では後鳥羽天皇のもとに摂政九条兼実が娘を入内させるかどうか、入内させるならいつ頃が最善かという議論が繰り広げられていた頃、平泉では絶望が悲劇を生み出して…
藤原泰衡は追い詰められていた。 日本中の視線が奥州平泉に向かっているならまだいい。無視されていたのだ。 このときは奥州平泉に対して源義経を差し出すように命令…
平泉が存亡の危機に直面していた頃、京都では平泉とは対比を為すかのような平穏な話題にあふれていた。 後鳥羽天皇の元服だ。 後鳥羽天皇は文治五(一一八九)年時点…
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文治五(一一八九)年三月二二日、奥州藤原氏第四代当主藤原泰衡から、鎌倉の源頼朝を経由して朝廷に届ける請文が届いた。現実はそうでなくとも、朝廷の職制上、源頼朝…
この頃、一つの時代の終わりを告げる知らせが次々と飛び込んできた。 まず、文治五(一一八九)年二月二四日に、平時忠が配流先の能登国で亡くなった。源義経に縋って…
源頼朝が戦闘停止を宣言したのが文治四(一一八八)年二月一三日のこと。それが、一年間の戦闘停止なのか、それとも文治四(一一八八)年末までの戦闘停止なのかは不明…
京都における源頼朝の評判の向上は比叡山にも届いていた。 ここで源頼朝に逆らうことは得策ではない。かといって、比叡山延暦寺の内部に鎌倉方の勢力が深く入り込むこ…
京都でも奥州藤原氏に対する処罰は不可避と考えられるようになってきていた。 源義経を匿っていることは特に問題とならない。それどころか同情の対象である。 しかし…
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安倍氏や清原氏と言った面々が支配してきた東北地方の混迷を平穏にし、前九年の役から続いてきた戦乱に終止符を打って平和な日常を作り上げたのが奥州藤原氏である。初…
文治四(一一八八)年の秋を迎えたが、平泉からはこれといったアクションは起こっていない。 奥州藤原氏のもとにいる源義経を差し出すように命じる宣旨が平泉に届いて…
では、源頼朝は自分の娘を本当に後鳥羽天皇のもとに入内させようとしていたのか? 源頼朝の長女である大姫はもともと木曾義仲の息子である源義高と結婚する予定であっ…
文治四(一一八八)年九月一二日、九条兼実が本格的に政務に復帰した。 息子を亡くした父の哀しみは誰もが理解できることであったが、時代はもう、藤原氏という巨大氏…
平和の達成と書くと壮大な理想の実現のように感じるが、実際のところは武力で犯罪を押さえつけることである。犯罪者ではないごく普通の一般人にとっては特に何の問題も…
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源頼朝が殺生禁止を名目に軍事行動を止めたことは平泉の藤原泰衡のもとにも届いている。当然ながら、それで鎌倉との間の軍事衝突は永遠に回避できると考えるわけはない…
政治家としての評価はただ一つ、庶民生活が以前と比べてどれだけ良くなったかだけで決まる。これはどんな時代であってもどんな世界であっても例外はない。 庶民生活の…
そんな最中の文治四(一一八八)年四月一三日、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭った。後白河法皇は一時的に白河押小路を法皇御所とすることとして六条殿…
鎌倉方と後白河法皇との奇妙な絡み合いは、相互の利益を得るための妥協の産物であったと捉えることができる。後白河法皇は鎌倉方に対抗しうる存在として源義経に目を向…
摂政九条兼実不在の間も、朝廷は最低限の政務を取り仕切ることが可能とはなっていた。ただし、それは九条兼実の望んだ形での政務遂行ではなく、従来の後白河院政に鎌倉…
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本来なら源義経追討の宣旨は摂政九条兼実が主導して発給するところであった。実際、文治四(一一八八)年二月一四日に発給した宣旨については摂政九条兼実が主導してい…
源義経が奥州平泉にいることは周知の事実になっていたが、京都に住む人の中にはもっと別の場所、具体的には京都にもっと違い場所にいるはずという思いもあったようで、…
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さて、ここでもう一度、泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを、別の角度から振り返ってみると別の側面が見えてくる。 まず、反逆軍として和田義盛とともに戦った武士達…
さて、何度も繰り返しているが、この時代の情報伝達網は鎌倉と京都の間が片道七日往復半月である。つまり、建暦三(一二一三)年五月二日にはじまり三日に終わりを迎え…
建暦三(一二一三)年五月七日、今回の和田合戦での報償の打ち合わせが始まった。反逆軍の面々の保有していた所領を幕府軍の一員として戦い、戦功を残した者に配ること…
建暦三(一二一三)年五月四日、和田常盛と横山時兼は甲斐国大菩薩峠で自ら命を絶ったとの知らせが届いたと同時に、この二人の首も鎌倉に届けられた。この二人を含め、…
建暦三(一二一三)年五月三日の寅刻、現在の時制にして午前四時頃、和田義盛らとともに反逆軍に加わる予定であった横山時兼が、娘婿の波多野盛通や甥の横山五郎らを引…
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足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。 最初に和田義盛…
さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう…
この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していた…
和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五…
建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の…
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さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の…
ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選…
和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。 ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名…
鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つま…
現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そし…
正治二(一二〇〇)年二月二二日、中原広元と三善康信の両名によって、梶原景時の鎌倉からの逃亡と上洛未遂が後鳥羽上皇のもとに伝わったこと、この知らせを受けた後鳥…
一見するとあまりにも無謀な計画に見えるが、吾妻鏡によると実際に計画された話だという。また、かなり都合のいい展開が続いたならばという条件が付くが、越後国の城一…
梶原景時が討ち取られたが、事件はそれで終わるわけではない。 正治二(一二〇〇)年一月二四日、鎌倉幕府は安達親長を使者として京都へ派遣した。梶原景時が討ち取ら…
しかし、一月二〇日に風雲急を告げるようになる。 梶原景時が討ち取られたという知らせが飛び込んできたのだ。 辰刻というから、現在の時制に直すと午前八時頃、原宗…
朝廷で九条家の復権が見えていた頃、鎌倉では梶原景時が話題を独占していた。 梶原景時とその家族が鎌倉から発って寒川神社に向かったことは鎌倉中に知れ渡っており、…
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鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。 名誉回復の目的としては、土御門…
その選択肢の最初に浮かんだのが三浦義村である。結城朝光はすぐに三浦義村の屋敷に向かって梶原景時の讒言によって自分が何かしらの処罰を受ける可能性があることを告…
視点を鎌倉に移すと、正治元(一一九九)年八月までゴタゴタはあったが、その後は平穏であるかのように映っていた。しかし、正治元(一一九九)年一〇月二五日に鎌倉で…
鎌倉でゴタゴタがあった頃、後鳥羽上皇は自身の二つの趣味界への傾倒を深めていた。 一つは和歌、もう一つは熊野詣。 どうやら正治元(一一九九)年八月頃から、後鳥…
その人物は、北条政子。 彼女は息子の不祥事を母として窘(たしな)めるため、二階堂行光を使者として源頼家に思いとどまるように示した。なお、ヒートアップしている…
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吾妻鏡は安達景盛の派遣以後の源頼家について、同意しがたい行動を書き記している。 安達景盛を三河国に派遣した隙に安達景盛の愛人を奪ったというのだ。 以前から源…
源頼朝によって京都と鎌倉との間の情報伝達が七日間まで短縮されたこともあり、正治元(一一九九)年六月二二日に京都で起こった大幅な人事刷新の情報は六月末までに届…
ただし、藤原氏内部の近衛家と九条家の争いはさらに悪化させている。摂政近衛基通の長男である近衛家実が二一歳の若さで右大臣に就任したのである。 内大臣九条良経が…
その頃京都では、ようやく源頼朝死去に伴う混乱が収束したばかりであった。 これでようやく落ち着きを取り戻し、しばらくは安泰であると誰もが考えた。 その安泰を後…
こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもっ…
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