それにしてもなぜ鳥羽か? 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。 なぜ独自の根拠地を持たなけれ…
源頼朝の手にした征夷大将軍の称号は武家のトップの称号ではない。天叢雲剣の新たな形代こそ征夷大将軍という称号であった。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
なお、仮に七月一八日に北条時定が左衛門尉を辞していなかったならば、選択肢として左衛門尉北条時定を利用するという手段も選べたのだが、既に辞しているために北条時…
建久元(一一九〇)年八月に入ると、源頼朝の上洛がいよいよ現実のものとなった。 源頼朝は武家の棟梁であるし、率いるのも武士である。鎌倉から京都へ向かうとなれば…
源頼朝が征夷大将軍の官職を求めていることは内々には伝わっていた。ただ、それを聞いた誰もが、源頼朝はどうしてそのような職を求めるのだろうかという疑問を抱くよう…
それでは、源頼朝は具体的にどのような形で反映させることを考えたのか? 自分が正二位の位階を持つ貴族であることを活かして位階相当の役職を獲得し、役職に応じて国…
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かといって、税を受け取る側が年々豊かになっているかというとそんなことは無い。貴族の豊かさで言ってもやはり藤原摂関政治のほうが豊かであり、院政、源平合戦へと時…
源頼朝が上洛に向けてどのような行動をとってきたかを時系列で追うと、以下の通りとなる。 文治四(一一八八)年四月、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭…
源頼朝が上洛を考えていることが京都に伝わったとき、当初はあくまでも打診であり、実際の上洛はまだまだ先のことであろうとするのが多くの人の考えであったが、日を追…
そして、九条兼実の打ち出した第二弾が、建久元(一一九〇)年四月二六日の中宮宣下である。後鳥羽天皇のもとに入内した九条兼実の娘の藤原任子が中宮となったことで、…
建久へと改元してから八日後の建久元(一一九〇)年四月一九日、後鳥羽天皇の元服のために太政大臣に就任していた摂政九条兼実が太政大臣を辞任し、摂政専任となった。…
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源平合戦が終わって平家が滅び、奥州藤原氏も滅亡し、唯一の武力集団となった源氏も鎌倉に滞在したまま動かないでいる。京都は目指すべき過去の姿への回帰を求め、摂政…
文治六(一一九〇)年四月一一日のこととして京都から伝わった、正確に言えば京都から全国に向けて意図的に発出された情報は、京都ではやはり反乱のインパクトが全く生…
源頼朝が定期的に京都から情報を得ていたことは何度も書いてきたことである。京都から得ている情報が重要な情報なら情報量が多く、重要でない情報のときは些事で分量を…
吾妻鏡の記載に従うと、大河兼任についての続報が源頼朝のもとに届いたのは文治六(一一九〇)年三月二五日のこととなっている。かなりのタイムラグが生じてしまってい…
文治六(一一九〇)年二月一二日、鎌倉方の反撃が始まった。 記録はその前日に鎌倉方の軍勢が平泉を出発したところから始まる。多くの兵士が大河兼任の率いる反乱軍か…
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大河兼任の乱の続報が鎌倉に到着したのは文治六(一一九〇)年二月六日のことである。その前日に、源頼朝は現地の情勢を査察すべく最低でも三名の者を純粋な調査目的と…
大河兼任の乱は簡単に鎮圧できると誰もが考えていたところでショッキングな内容が飛び込んできた。 文治六(一一九〇)年一月一八日、熱海の伊豆山権現のもとにいた源…
反乱軍は日本海岸に沿って南下したのち、現在の酒田市のあたりから内陸に入って、笹谷峠を越えて現在の仙台市に出て、まずは多賀城の陸奥国府を制圧することを考えた。…
京都で後鳥羽天皇が元服を迎え、九条兼実の娘が後鳥羽天皇のもとに入内したことで、古き良き時代への回帰への期待に満ちあふれていた頃、鎌倉は大河兼任の反乱への対処…
後鳥羽天皇の元服の儀は文治六(一一九〇)年一月三日に開催され通常の元服の儀としてはその日のうちに終わったが、国家的祝事としての後鳥羽天皇の元服はこの日で終わ…
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鎌倉が大河兼任の反乱の対応に追われていた頃、まだ東北地方での反乱勃発の知らせを受けていない京都では、翌年一月の後鳥羽天皇の元服に向けての準備が着々と進んでい…
その要請が届いたのが一二月二三日であった。ただし、この段階ではまだ反乱勃発の知らせと反乱首謀者の名前が伝わっただけであり、鎌倉方の被害については伝わっていな…
九条兼実は過去の先例に基づいて行動していた。娘の入内についても先例に則っているし、後鳥羽天皇の元服についても先例の通りである。しかし、九条兼実には先例に則る…
では、唯一の例外が唯一では無くなるとどうなるか? 丹後局の娘が甥である後鳥羽天皇の准母を務め、准母として後鳥羽天皇の元服に尽力したとあれば、それが評価の材料…
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それにしてもなぜ鳥羽か? 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。 なぜ独自の根拠地を持たなけれ…
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師とし…
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日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳に…
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇…
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉ら…
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。 しかし、後鳥羽…
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同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。 土御門天皇はまだ三歳…
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、…
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であ…
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能…
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。 源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。 源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論が…
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大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。 これは源頼朝…
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。…
藤原秀衡が公的に認めているわけではないが、奥州藤原氏の根拠地である平泉に源義経がいるらしいことは確実である。 ならば平泉まで誰かを派遣して源義経を連れ戻せば…
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さらに源義経には奥州藤原氏が欲していたもう一つの弱点である軍勢指揮能力が存在する。源義経は軍勢を率いて平泉に戻ってきたのではなく、単身とまでは言えないにして…
トップですら従五位上という特筆することのない位階である奥州藤原氏は、いかに財力を有していても朝廷とまともな交渉をすることもできないのが現状なのだ。位階を得て…
奥州藤原氏にとっての源義経は貴重な切り札であった。承安四(一一七四)年に鞍馬寺を出て新天地を求めた源義経を奥州藤原氏が受け入れたのも、源義経が源義朝の実子で…
先に、源平合戦は奥州藤原氏にとって勢力拡張のチャンスであったと記した。そして、関東地方はともかく日本海沿岸に沿って軍勢を進めるチャンスがあったと記した。ただ…
日本国内に目を向けると、奥州藤原氏が無視できない存在として目に入る。 奥州藤原氏の本拠地である平泉は日本海より太平洋のほうが近い土地であるが、奥州藤原氏自身…
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源平合戦期の日本は奇跡が二つ起こっている。 一つは国外からの侵略を受けなかったこと。 そしてもう一つが、奥州藤原氏が特筆すべき動きを見せなかったことである。…
後鳥羽天皇の教育をきっかけとして自身の栄達を成し遂げようとする貴族達がいる一方、既に権勢の側に加わっている貴族達は政務を遂行しつつあった。 その中心となって…
源義経の在処が奥州平泉であることが判明しつつある頃、京都では一つの騒動が起こっていた。騒動の中心は例によって例の如く後白河法皇である。 後白河法皇の寵愛する…
文治三(一一八七)年二月一〇日、鎌倉に衝撃的な情報が届いた。 源義経の消息が判明したというのだ。なお、この時点では未確認情報であり、断言とはなっていない。 …
年が明けた文治三(一一八七)年一月、未だ源義経の消息は把握できずにいる。しかし、源義経の逃げ道は、一つ、また一つと封鎖されていた。源義経を捉えよとの院宣が発…
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結果はどうあれ、少なくとも京都の貴族達の間では、源義経に対して公然と協力するという光景が消失した。ただし、既に一年以上にも亘って動静が不明となっている源義経…
京都で起こっていたのは、位階は持っていても役職は持っていない、すなわち公的には権力を持たないはずの源頼朝に対する忖度であった。源頼朝に率先して従うことが自分…
北条時政に代わるために一条能保が京都に送り込まれたのち、一条能保が京都で調査をし、一条能保がまとめた調査結果を鎌倉に送り、鎌倉の源頼朝から京都の一条能保へと…