それにしてもなぜ鳥羽か? 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。 なぜ独自の根拠地を持たなけれ…
源頼朝の手にした征夷大将軍の称号は武家のトップの称号ではない。天叢雲剣の新たな形代こそ征夷大将軍という称号であった。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
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何度も述べているように、源頼朝は京都と鎌倉との間での書状を片道七日でやりとりできるだけの体制を整えている。建久二(一一九一)年四月五日に鎌倉で書状を受け取っ…
建久新制の宣旨が鎌倉に届いた前後である建久二年(一一九一)年四月五日、鎌倉に激震が再び走った。 京都の一条能保と中原広元の両名からそれぞれ同じ連絡が来た。 …
鎌倉方は日本全国に人員を配置しており、鎌倉からの命令一つでいつでも軍勢を出動できるようになっている。これを朝廷として利用しない手はない。 建久新制によって、…
国司には令制国内の治安維持を目的とした軍事行動が認められている。 厳密には、軍隊の出動が必要となった事態が令制国内で起こったならば、事件のあった地域の郡司が…
鎌倉が自然災害に見舞われ、火災と地震からの復旧に向けて動き出していた頃、京都ではこれからの時代に向けての一つの動きが起こっていた。 建久二年(一一九一)年三…
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先に、建久二(一一九一)年一月一五日の政所設置以降、政所の発給する書状からは源頼朝の花押が消えた代わりに「前右大将家政所下文」と記されることとなったと記した…
建久二(一一九一)年一月の途中までは、前年末の任官を祝すための儀式も加わった諸々の新年恒例行事が立て続いていたが、一月一五日、源頼朝が上洛したことの意味が発…
建久二(一一九一)年元日、三日前に鎌倉に到着したばかりの源頼朝は、辞職したとはいえ朝廷から官職を受け取った身であることを鎌倉で誇示した。こうした誇示自体はど…
それからの吾妻鏡の記事は建久元(一一九〇)年一二月の何日にどこに経由して鎌倉へと向かったかという記事になる。 以下は吾妻鏡における記載である。 一二月一五日…
建久元(一一九〇)年一二月一一日、源頼朝の鎌倉帰還前に、鎌倉方の御家人達に源平合戦とその後の功績に対する表彰として官職が付与された。 左兵衛尉、千葉常秀こと…
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建久元(一一九〇)年一二月二日、権大納言兼右近衛大将源頼朝が、はじめて正式な権大納言として内裏に参内した。この日が源頼朝の議政官デビューである。 多くの人は…
院政が権力を手にした理由は、上皇や法皇が人事に強く介入したからである。あくまでも推薦したというだけであり、天皇にしても、議政官にしても、上皇や法皇の推薦を拒…
建久元(一一九〇)年一一月一九日、源頼朝が一条能保とともに後白河法皇の六条院を訪問した。吾妻鏡には長時間の会談と記されているだけで、どのようなことが話し合わ…
源頼朝が征夷大将軍を、より正確に言えば後世の人が征夷大将軍と認識している役職を求めていることは既に周知の事実となっていた。その役職がどのような権限を持ち、そ…
後白河法皇のいる六条院を訪ねた源頼朝であるが、六条院で後白河法皇と二人きりとなったわけではない。複数名の貴族も同席しており、少なくともその中には権大納言吉田…
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源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。…
鎌倉方の上洛は事前通達のあった上で繰り広げられたパレードであるため、興味を持つ人は前から沿道に詰めかけてパレードを待ちわび鎌倉方の壮麗さに圧倒されたが、興味…
雨が上がった建久元(一一九〇)年一一月七日の午前中に、京都は一つのニュースが響き渡った。 源頼朝らが間も無く京都へ到着するというのである。 それも一〇〇〇騎…
建久元(一一九〇)年一〇月二八日、美濃国小熊宿、現在の岐阜県羽島市に到着した一行であったが、予定を変更して少し先にある美濃国墨俣まで移動して宿泊している。先…
吾妻鏡は何月何日に源頼朝ら一行がどこに滞在したかをある程度は記している。 まず、鎌倉を出発した建久元(一一九〇)年一〇月三日には相模国懐島、現在の神奈川県茅…
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当初は建久元(一一九〇)年中に源頼朝が上洛するものの具体的な日時は未定という話であったが、次第に一〇月中の上洛ということで話がまとまってきた。 源頼朝一人が…
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それにしてもなぜ鳥羽か? 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。 なぜ独自の根拠地を持たなけれ…
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師とし…
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日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳に…
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇…
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉ら…
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。 しかし、後鳥羽…
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同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。 土御門天皇はまだ三歳…
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、…
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であ…
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能…
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。 源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。 源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論が…
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大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。 これは源頼朝…
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。…
藤原秀衡が公的に認めているわけではないが、奥州藤原氏の根拠地である平泉に源義経がいるらしいことは確実である。 ならば平泉まで誰かを派遣して源義経を連れ戻せば…
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さらに源義経には奥州藤原氏が欲していたもう一つの弱点である軍勢指揮能力が存在する。源義経は軍勢を率いて平泉に戻ってきたのではなく、単身とまでは言えないにして…
トップですら従五位上という特筆することのない位階である奥州藤原氏は、いかに財力を有していても朝廷とまともな交渉をすることもできないのが現状なのだ。位階を得て…
奥州藤原氏にとっての源義経は貴重な切り札であった。承安四(一一七四)年に鞍馬寺を出て新天地を求めた源義経を奥州藤原氏が受け入れたのも、源義経が源義朝の実子で…
先に、源平合戦は奥州藤原氏にとって勢力拡張のチャンスであったと記した。そして、関東地方はともかく日本海沿岸に沿って軍勢を進めるチャンスがあったと記した。ただ…
日本国内に目を向けると、奥州藤原氏が無視できない存在として目に入る。 奥州藤原氏の本拠地である平泉は日本海より太平洋のほうが近い土地であるが、奥州藤原氏自身…
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源平合戦期の日本は奇跡が二つ起こっている。 一つは国外からの侵略を受けなかったこと。 そしてもう一つが、奥州藤原氏が特筆すべき動きを見せなかったことである。…
後鳥羽天皇の教育をきっかけとして自身の栄達を成し遂げようとする貴族達がいる一方、既に権勢の側に加わっている貴族達は政務を遂行しつつあった。 その中心となって…
源義経の在処が奥州平泉であることが判明しつつある頃、京都では一つの騒動が起こっていた。騒動の中心は例によって例の如く後白河法皇である。 後白河法皇の寵愛する…
文治三(一一八七)年二月一〇日、鎌倉に衝撃的な情報が届いた。 源義経の消息が判明したというのだ。なお、この時点では未確認情報であり、断言とはなっていない。 …
年が明けた文治三(一一八七)年一月、未だ源義経の消息は把握できずにいる。しかし、源義経の逃げ道は、一つ、また一つと封鎖されていた。源義経を捉えよとの院宣が発…
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結果はどうあれ、少なくとも京都の貴族達の間では、源義経に対して公然と協力するという光景が消失した。ただし、既に一年以上にも亘って動静が不明となっている源義経…
京都で起こっていたのは、位階は持っていても役職は持っていない、すなわち公的には権力を持たないはずの源頼朝に対する忖度であった。源頼朝に率先して従うことが自分…
北条時政に代わるために一条能保が京都に送り込まれたのち、一条能保が京都で調査をし、一条能保がまとめた調査結果を鎌倉に送り、鎌倉の源頼朝から京都の一条能保へと…