保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくな…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
源頼朝という一個人を軸とする鎌倉方から、征夷大将軍という皇位継承と深く結びついた存在を軸とする鎌倉幕府となったことで、正二位の位階を持つ貴族である源頼朝とい…
コメを用意する者は、コメを用意したところでまともな商品が手に入らない上に、コメを溜め込んでおけばおくほど価値が高まるから、コメを用意することを止めてしまう。…
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三点目は経済対策である。既に平家政権の頃から宋銭が流通しており日本国内は貨幣経済に飲み込まれつつあった、正確に言えば一度は失われた貨幣経済が復活しつつあった…
源頼朝が征夷大将軍となったことは多くの人が知っていても、征夷大将軍という役職が恒久的な存在として確立されたことが取り返しの付かないこととなったことを京都の人…
なぜ取り返しの付かない譲歩になったのか? 忘れてはならないのは、後鳥羽天皇は三種の神器が揃うことなく即位した天皇であるということである。安徳帝を擁し、三種の…
まず、源頼朝は征夷大将軍で無ければならないと考えていたわけではない。必要なのは「大将軍」の官職であって、官職名の先頭二文字が「征夷」であることにはこだわって…
それにしてもどうして源頼朝は征夷大将軍を渇望したのか。 江戸時代まで続く征夷大将軍の持つ権威と権勢を考えたならば、武家のトップである人物が征夷大将軍を求めた…
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その知らせは突然訪れた。 鎌倉に第一報が届いたのは建久三(一一九二)年七月二〇日のことである。七月一二日に源頼朝が征夷大将軍に任命されたというのだ。 征夷大…
後鳥羽天皇が倚廬(いろ)を出て通常政務に完全に復帰したのは四月二日のことである。この日、間もなく迎える予定の賀茂祭については後白河法皇の喪に服すために中止と…
後白河法皇の死はただちに全国に向けて発せられたが、この時代の通信事情で日本全国に後白河法皇の死の知らせを届けるには一ヶ月を要する。鎌倉には後白河法皇が亡くな…
誰もがそのときを覚悟していた渦中の建久三(一一九二)年三月一三日、そのニュースが朝廷に届いた。 後白河法皇崩御。 死の間際を見とった一人が右大臣藤原兼雅であ…
後白河法皇の症状悪化は鎌倉にも伝わっており、鎌倉方は後白河法皇の病状回復を祈祷するためという名目と、後白河法皇の身に何か起こったときにただちに動くことができ…
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建久三(一一九二)年一月、例年であれば新年の祝賀気分に盛り上がるところであるが、この年は後白河法皇の病状悪化のために祝賀ムードは自粛となり、静かな正月となっ…
後白河法皇が復旧なった法住寺へと遷御したのは建久二(一一九一)年一二月一六日。その二日前、政局において大きな動きがあった。 九条兼実、摂政を辞任。 ただし、…
中原広元は既に鎌倉へ書状を送り、明法博士をはじめとする朝廷から付与された官職の全てから降りることを告げていたが、そのことが公表されたのは建久二(一一九一)年…
それにしてもなぜ丹後局なのか。しかも、牧ノ方を利用しての接近という誰も想定しない方法をどうして選んだのか。 その答えは建久二(一一九一)年一〇月二〇日の吾妻…
永続的な組織とするための要素の中には建物もある。人のつながりがどんなに重要であると言っても、人のつながりを実践するシンボル的存在になり得る建物を用意するのと…
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経営学では個人の資質によることなく企業が永続する前提のことを「ゴーイングコンサーン」という。日本語に訳すとしたら「継続企業の前提」となるが、日本国のビジネス…
それでも何らかの対処は考える。院政は、権力の継承は不可能でも資産の継承ならば可能であることは、鳥羽法皇が先例を作っている。鳥羽法皇の資産の多くを鳥羽法皇の娘…
警察権力であることを前面に掲げているから、目の前に強盗が現れれば取り締まるために出動することはあるが、先に記したように彼らの主目的は九条兼実と鎌倉方への対抗…
混迷化していた近江国での佐々木一族に対する処罰は後白河法皇の院宣で決まった。院政以前の日本国を取り戻そうとしていた摂政九条兼実も、これまで一〇〇年続いていた…
既に何度も記しているが、京都から鎌倉までの情報連絡は最速で七日を要する。 そして、鎌倉まで派遣された比叡山延暦寺からの使者はあくまでも佐々木一族に対する処罰…
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保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくな…
その当時、京都の朝廷が問題視していたのが、比叡山延暦寺をはじめとする宗教勢力の有する武力である。彼らの武装デモは厄介きわまりない話であったが対処するには困難…
三浦義村や和田義盛といった三浦家の人物を京都大番役の管理監督に採用した経緯を見てくると、初期鎌倉幕府の本質が見えてくる。初期鎌倉幕府の本質を突き詰めると、こ…
ただ、前述のように法然はもう八〇歳になっていた。数え年であるから満年齢にすると七八歳であるが、それでもかなりの高齢だ。当時でも高齢なだけでなく現在の感覚でも…
正論を用いての話し合いは通じないが、正拳を用いての殴り合いは通じる。暴れ回ることを目的とする集団を抑え込むもっとも確実な方法は、暴れ回ろうとしている集団を力…
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貴族の時代である平安時代から武士の時代である鎌倉時代に移り変わったのは一瞬の出来事ではない。平安時代の草創期に登場した武士が少しずつ勢力を持つようになり、朝…
さて、建暦元(一二一一)年七月に京都から脱税疑惑を指摘され、北条時房のもとでの監禁生活となった惟宗孝尚が、一二月一日に軟禁解除となって釈放されたのは既に記し…
その予算はどこにもなかった。 予算がないために平安京の復興どころか日々の生活をいかに再建するかに汲々とする状態であった。そのときの日本で潤沢な資産を持ってい…
三善康信は不吉な例を列挙することで後鳥羽上皇の求めた大内裏復興を暗に否定した。 大内裏復興という野望は、推し進める後鳥羽上皇の意見も、暗に否定する三善康信も…
平安京は本来、北端中央に大内裏、その中心に内裏があるという都市計画のもとで建設された都市である。しかし、建暦元(一二一一)年時点の大内裏はかつて内裏があった…
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さて、栄西が著した喫茶養生記は現在まで伝わる名著であるが、鎌倉ではほぼ同タイミングで現在まで伝わる名著の著者が姿を見せている。 その人物が鎌倉に来た理由は源…
僧侶としての成功者である栄西であるが、同時に、現在で言う数多くのビジネス書を発行する作家のような存在でもあった。確認できる範囲では、密教について問答形式での…
鎌倉時代の特色の一つとして歴史の教科書に取り上げられることの多い鎌倉新仏教。大学入試で日本史を選択したならば、あるいは高校入試で社会科を学んだならば、以下に…
ここで話を源実朝に戻すと、源実朝は自分のことを独自の政治権力であるとは、ましてや朝廷から独立した勢力であるとは考えていなかった。父の事績を追いかけ、父と兄の…
建暦元(一二一一)年六月二六日、東海道に新しい宿駅を設置する件について、過去に何度も決裁されているにもかかわらず未だに実行されていないことについて、源実朝か…
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鎌倉幕府の御家人の一人である稲毛重成は、北条政子の亡き妹を妻としていたことから源頼朝とは義兄弟の関係にあたる。その稲毛重成が、亡き妻を供養するために相模川に…
鎌倉幕府の圧力が利いて興福寺の強訴が鎮静化した。 この事実は朝廷に、そして後鳥羽院政に対する一つの現実を突きつけることとなった。 鎌倉幕府の武力はどうあって…
後鳥羽院政に武力無し。 この知らせが広まっただけでも、およそ五〇年間、はじめは平家の武力の前に、その後は鎌倉方の武力の前に沈黙させられていた寺社勢力の武装デ…
熊野御幸から戻ってきた後鳥羽上皇は、今なお宗教問題が片付いていないことを知ることとなった。 話は同年六月に発生した遠江国の赤土荘の騒動まで遡る。赤土荘はもと…
後鳥羽上皇は、自らの院政が成功のもとでスタートしたことを周囲にアピールした後に従来の院政の継承をした。 藤原定家の日記には後鳥羽上皇が連日連夜、ときには蹴鞠…
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上皇となり院政を始めるメリットは多々ある。責任からの回避や政治的自由も無視できないメリットであるが、忘れることのできないメリットとして資産がある。天皇は皇室…
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、…
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇…
それにしてもなぜ鳥羽か? 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。 なぜ独自の根拠地を持たなけれ…
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師とし…
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日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。 建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石…
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。 院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳に…
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇…
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。 実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉ら…
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。 しかし、後鳥羽…
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