四季の動き、社会現象、国際関係、旅の話、読書の感想、歴史、ペット、芸術、スポーツまで幅広い分野をフォローするブログです。
自宅周辺には大雨を調整するための人工の調整池やけやき並木の遊歩道があり、四季折々自然を楽しんでいます。こうした自然を友にした散歩の途中、現代世相について諸々考えることがあります。2006年9月からスタートし、2700回を超えたこのブログは、そうした私の日常雑感をつづっています。
長田弘(1939~2015)の「ベルリンの本のない図書館」という詩は、ナチス時代のドイツのベルリンで起きた歴史的な焚書(ふんしょ)事件の現地を描いたものだ。ナチスを率いたヒトラーが自決したのは80年前の4月30日で、今日は「図書館の日」だそうだ。長田の詩(詩の一部は後掲))を読み返し、活字の大事さを改めて感じている。図書館こそ文化の宝庫なのだと思う。(30日は空気が澄み、富士山がよく見えた。高尾山より) にほんブログ村
2752 昭和とはどんな時代だったのか ブラックユーモアの叙勲
いつもの喫茶店に入った。顔見知りの先客がいた。毒舌氏と私がひそかに呼んでいる先輩のKさんで、コーヒーを飲みながら新聞を手にしている。Kさんは私に気が付くと手招きした。相席すると、いつもの長広舌を振るい始めた。私は注文したアメリカンを飲みながら、その話に聞き入った。ほかに客はいないのでマスターも一緒に聞いている。(写真はオオベニウツギ) にほんブログ村 ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄
「五風十雨」(ごふうじゅうう)という言葉がある。5日に1度風が吹き、10日に1度雨が降るという意味から転じて、天候が順調で農作物に都合がいいことを指す。さらに、世の中が平穏無事であることのたとえにも使うといわれるが、昨今はこの言葉を引用した記事や本を読んだことがない。世界の気象もおかしいし、世の中自体も平穏さとは程遠い現状にあり、使いたくとも使えないというのが実態だ。 にほんブログ村
「名も知らない草に咲く、一茎の花は、無条件に美しいものである」。日本のアンデルセンといわれた児童文学者、小川未明(1882~1961)は、『名もなき草』というタイトルのエッセーで「美しいもの、いい音色、正しいものは無条件に理屈を超越して人間の感情に迫る」と書いている。駆け引きと不正義が横行する現代社会。未明の短いエッセーを読んでいつの時代でも、生きる上で何が大事かを求める心は変わらないことを痛感する。 にほんブログ村
2749 津田梅子の「親父の背中」 2人のパイオニア育てた開明人
私は「親父の背中」を見たことがない。私が生まれて間もなく父親は戦死したからだ。太平洋戦争末期のフィリピン戦線でのことで、今日が命日だ。父親がいないことに私は何の疑問もなく、母と祖母が父親代わりになってくれたこともあって、寂しいと思ったことはない。だから理想の親父像を持ったことはない。ただ、さまざまな本や資料を見て、ある人物に畏敬を抱いている。新5千円札の肖像になった津田梅子(1864~1929)の父親だ。 にほんブログ村
池の端に咲くヤマフジ 私の住む街の真中にかつての里山がそのまま自然公園として残っている。4月も下旬となり、このところ最高気温は25度を超える夏日も記録し、急に新緑が目に付くようになった。公園を歩くと、山野草や樹木が「よく来たね」とでも言うように、出迎えてくれた。この季節は家にこもるより、やはり外を歩くべきだと自然が教えてくれる。 にほんブログ村
陣馬高原にて トランプアメリカが世界を相手に仕掛けた「関税戦争」。中でも米中の争いは果てしないほどにまで至ってしまった。あきれるばかりのアメリカの政策は、世界中を巻き込んでいる。かつては世界をリードしたアメリカは、今や斜陽の国に陥ってしまったのか。米中の戦後史を振り返ると、断絶状態を打開した日本のスポーツ大会を舞台にした「ピンポン外交」がある。このような劇的な打開策はないのだろうかと思う。
樹々の若葉の光り揺れだすメヌエット 音楽を俳句に取り入れた加藤千世子(1909~1986)の句だ。夫は人間探求派の俳人、加藤楸邨(しゅうそん)。散歩をしていて、樹々の若葉が萌えている風景を見ると、体が軽くなりスキップをしたくなるような思いがする。今朝は夫婦とみられる高齢者が2人でよもぎを摘んでいた。(蓬がある斜面) にほんブログ村
2745 根室の行商も無駄ではなかった 津村節子と吉村昭のつらい思い出
前回に続き『北の話 選集』(北海道新聞社)の心に残ったエッセーをもとに書いてみたい。今では大作家となった夫妻の若い時代のストーリーだ。芥川賞作家、津村節子(1928~)の「思い出の根室」と言う話だ。津村の夫は同じ作家の吉村昭(1927~2006)だが、このエッセーでは名前は出さず、ただ「夫」とだけ書かれている。2人は、作家として著名になる前に根室で苦労したという。この苦労が2人には作家としての肥やしになったことは想像できる。(緑が濃くなった調整池の森)
「生まれてから5年がその人の人生の方針(生きる上での視点)を決める」と書いたのは、作家の池澤夏樹だ。1945年7月北海道帯広市で生まれた池澤は、この町で5年間を送った後東京に移った。5歳の目でも帯広と東京の風景の違いを覚えており、特に帯広の異質性が好きだった池澤は「外の視点」でものを考えるようになったという。池澤と同年代の私は、18歳まで生まれ故郷の福島を離れなかった。その後の仕事の拠点となったのは東京だが、故郷との異質性を感じたのはいつの頃だっただろうかと考えている。今回はやや「かたい話」です。 JUGEMテーマ:コラム
ウワミズザクラ ラジオ体操は第1と第2の間に首の運動がある。今朝は首の運動の際のピアノ伴奏曲として『春の小川』が演奏されていた。『故郷』で知られる高野辰之(作詞)と岡野貞一(作曲)コンビによる小学唱歌だ。この詩は東京代々木周辺の昔(明治末期ごろ)の風景を描いたもので、モデルは付近を流れていた河骨川(こうぼねがわ)だった。ここは最初の東京五輪の際に下水道の一部になり、現在は当然ながら当時の面影はない。 にほんブログ村
「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」ということわざが昔からある。『故事ことわざ辞典』(東京堂出版)には「桜の枝は折るがよく、梅の枝は切るがよい」という説明が出ている。さらに『続故事ことわざ辞典』(同)には「桜折る馬鹿柿折らぬ馬鹿」(桜の枝を折ると枯れる。柿は刃物を嫌う)ということわざも紹介されている。満開の桜が散り始めた。地球環境の温暖化が進む中、日本の春を彩る桜は、今後も華麗な花を咲かせ続けることができるのだろうか。(美しい枝垂桜) にほんブログ村
2741 庭師から画家への転身 素朴派のアンドレ・ボーシャン
海棠の花が美しい ロシアに軍事侵攻されたウクライナ。政府は兵士の追加動員を進め、いつ動員されるのかと苦悩している若者が少なくないというニュースを見た。戦場では死と隣合わせになるのだからその苦悩は当然といえるだろう。部屋にあるカレンダーの4月は果物が描かれた素朴な絵だ。作者は第一次大戦に召集されたことがきっかけで絵の道に進んだ画家で、その生き方はこの世界ではさまざまな人生があることを教えてくれている。 にほんブログ村
美しい雲 仏には 桜の花を たてまつれ わが後(のち)の世を 人とぶらはば(仏となった私に桜の花を供えてほしい。私の後世をだれかが弔ってくれるならば) 辻邦生の名作『西行花伝』(新潮文庫)は、この歌で終わっている。西行の弟子藤原秋実(あきざね・実在せず、作者のフィクションと思われる)らゆかりの人たちの目で、西行の生涯を描いた作品は、満月が白く光る夜、満開の桜のもとで73年の生涯を終えたことが書かれている。当然、桜に絡んで、よく知られた西行の「あの歌」も出てくる。
日本の春、一斉に桜が咲く季節。美しさ、華やかさに包まれ、心躍る人が多いのではないか。「予祝」(よしゅく)という言葉がある。辞書を引くと「あらかじめ祝うこと。前祝い」(広辞苑)とある。満開の桜の下で楽しむ「花見」も実は予祝だという。どんなことかといえば、稲の実り、豊作を引き寄せようという農民の前祝いなのだ。そう聞くと、米の値上がりが続く今年こそ、満開の桜に豊作と米価の安定を託したいと思う。(満開の桜を見ながらそぞろ歩きの人たち)
2738 因縁の「硫黄島の星条旗」写真 国防総省サイト削除・復活
太平洋戦争の激戦地、硫黄島を石破首相が先月29日、アメリカのヘグセス国防長官とともに訪れ、日米合同の追悼式に出たことはニュースで見た。あの激戦から80年。この戦いで米軍の勝利を象徴したといわれる6人の兵士が米国旗・星条旗を摺鉢山山頂に掲げる写真、いわゆる「硫黄島の星条旗」をめぐっては、さまざまなエピソードが付いて回っている。最近も国防総省のウェブサイトが一時削除したあと、復活させるなど物議を醸したばかりだ。
桜と霧とビル 四月なのに手袋をする寒い朝歩いて数分の憩いの場所調整池に面して桜が咲いている辺りは霧が立ち込めている陽光に映える桜はすがすがしい見上げる私の顔に一枚の花びら 出がけに読んだ新聞米トランプ政権が相互関税発表の記事一面から社説まで溢れている川柳の中心もトランプ氏「偉大なアメリカ」「解放の日」三文役者のような台詞が虚しい 桜が私に問いかける君は私を見て何を考えてきたかと私が答えるあなたは人間に利用され続けてきましたねあなたには戦争と平和が付きまとうのですね 桜が私に話すどんな時代でも私は花を咲かせてきた人の喜びも争いも見てきた今はいい時代になったでも時々変な人間が現れるのを知っているで…
JUGEMテーマ:人生論 イタリア生まれのオペラ作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868)は、37歳で引退した。この後の人生を、ロッシーニは何をして送ったのだろう。それは「食」である。ロッシーニは若くしての引退だが、定年後にスペインのバルセロナで豆腐屋を始めた元新聞記者がいる。豆腐という「食」へのこだわりが、動機だ。彼が書いた本『バルセロナで豆腐屋になった ——定年後の『一身二生』奮闘記』(岩波新書)を読んだ。(バルセロナ市内の風景) にほんブログ村
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