ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
今月22日に種蒔きした廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根の双葉が出てきたので、もう少ししてから間引き最終的には5株位にして育てる予定である。桜島大根は鹿児島旅行した際に切葉松本地大根は信州旅行した際に種を購入して育てその種を毎年採っているもので、食もせず手間暇かけてこの地でどのように育っていくのか見るだけ・・・まさに遊びの菜園である。遊びの菜園―桜島大根・切葉松本地大根の今
宮島線線路わきに上画像のような見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索すると熱帯性花木のデュランタのようであり、観賞用に植えられたものであろうか。下画像の花はウォーキング途中でみかけた小さな花で、Googleレンズで検索するとアルバルコウのようである。路傍の花―デュランタ・アルバルコウ
広電宮島線のマクラギで地御前駅から地御前神社前の間ではPCマクラギの間に木製のマクラギが1~3本設けられているところがあり、従来の木製マクラギが連続して設けられているところもあった。広電宮島線のマクラギ
早朝ウォーキングで宮島サービスエリア展望所に行き広島湾を遠望。手前は平良丘陵開発用地で、左側山向こうには五日市港の自動車運搬船がみえる。その先斜め線上には津久根島から安芸の小富士(似島)、灰ケ峰がみられる。中央島影のくびれた先には四国の石鎚山系の山並みがうっすらとみられる。宮島SAから広島湾遠望
広電宮島線の架線用電柱はコンクリートポールとなっているが、所々に以前からのレトロな鉄骨柱が残されている。地御前駅から地御前神社前の間に数か所みられ、路面電車開設当時に使用していた段付きレール(ステップレール)を利用して組立てた柱やI型鋼の柱などがみられる。広電宮島線の架線電柱
昨日紹介した関連で、厳島図会などの絵図にみられる地御前神社の釈迦堂は現在の地御前小学校の地にあった。(赤丸ケ所)明治18年(1885)に地御前小学校設置のために旧国道と山陽本線の間の現在地に移転されたようである。(釈迦如来坐像画像―廿日市の仏像より)絵図中の地御前神社釈迦堂
昨日紹介した、かつて地御前神社にあった梵鐘が架けられていた鐘楼(鐘撞堂)が厳島図会などの絵図にみられる。(赤丸ケ所)厳島図会には鐘楼「古鐘は天文年間大内義隆の寄付なりしが、宝暦年中囘禄に罹れり」とある。かつての鐘楼は現在の地御前小学校付近にあったものとみられる。絵図中の地御前神社鐘楼
福山市沼隈町にある西光寺の梵鐘は天文13年(1544)6月29日に地御前神社の梵鐘として大内義隆・佐伯景教が施主で大工直家が鋳造したものである。江戸期の地誌によると宝暦年中に地御前神社が焼失し、その後この梵鐘は四日市村(東広島市西条町)の真光寺にあったようである。看板表示によると幕末の梵鐘供出で流転していたものを明治中頃に当寺に求められたようである。大工の直家は他の鋳造作品などから類推すると久枝直家とみられるのである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑩-西光寺の梵鐘
秋祭りには子供会で俵もみをするようで俵もみの歌の練習が始まった。当地方で先人たちが伝えてきた歌を伝承しているのである。俵神輿を上げる前に花を頂いた方々にお礼の所望と木遣り口上、俵神輿を担いで練り歩くく時の流し歌などなどを練習している。俵もみの歌
佐伯区湯来町の湯の山温泉の後方に祀られている湯の山神社の本殿に吊り下げられている釣燈籠で、刻銘によると寛延3年(1750)5月に廿日市山田氏が鋳造している。吉長公御代記によると藩主浅野吉長が水内湯明神鉄燈籠の寄進について廿日市鋳物師の平左衛門に褒美銀が下賜されているので、山田平左衛門貞幹が鋳造したものとみられるのである。※平成18年(2006)6月22日に当ブログを開設してから本日で6666日目となりました。多くの方々の御来訪に支えられながらこれまで継続することができ、これからもできる限り更新していきますのでどうぞ宜敷くお願い致します。同じ数字が並んでなんだか今日は良いことがありそうだ・・・廿日市鋳物師の鋳造作品⑨-湯の山神社の釣燈籠
彼岸に入ったけれど例年ならウォーキング途中の田んぼの脇に上画像のように彼岸花が群生している。しかし今年は長引く酷暑の影響なのだろうか下画像のように数本しか咲いていないのである。彼岸花が夏バテ!!
田んぼの脇でチョロチョロする小動物がおり、画像を撮ることが出来たのでGoogleレンズで検索してみるとシベリアイタチのようである。今年もスイカはことごとく食われてしまい一口も口にすることが出来なかった。アナグマやシベリアイタチにやられたようだ。シベリアイタチか?
早朝ウォーキング途中で今まで気が付かなかったが、道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索するとキカラスウリの花のようであり、実がなるようなので気を付けてみていこう。路傍の花―キカラスウリ
熊本地震で壊滅的な被害を受けた熊本城では各所で復興に向けての復旧工事が行われていた。現在は復旧工事に支障のないところに見物用の通路が設けられており、復旧が終わっている天守閣に汗だくで登った。天守閣の下層には巨大なブレースが設けられており最上階は新しく築造されたようであった。復興中の熊本城
休憩で道の駅阿蘇に寄ったので隣接する豊肥本線の阿蘇駅に向かった。駅前ロータリーには黄金色の不思議な像があった。ウソップ像というようで詳しくはネット検索してみてください。丁度ホームには宮地発肥後大津行きの列車が入ってきた。前日通った道沿いには豊肥本線のスイッチバックがあったようだ。豊肥本線―阿蘇駅
阿蘇中岳火口を訪れたのは何十年ぶりであろうか。現在はシャトルバスで火口まで訪れるのであるが以前はロープウェイで登っていた。阿蘇山ロープウェイ仮事務所と表示された建物があった。ロープウェイがあった名残りが表示として残されていた。阿蘇中岳火口
先日、サントリーの熊本・阿蘇ビール工場を見物したことを紹介したが、当工場は阿蘇山からの天然水を使用して製造されており、天然水のビール工場と称されている。工場内はオートメ化されており、作業をする人影は一部でみられるのみであった。ビールには関係ないがサントリーの前身である寿屋時代のTORYSの空瓶が物入の中にあった。(下画像)サントリー(天然水のビール工場)熊本・阿蘇
若い頃に岡山方面を巡り備前焼の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、この茶碗は備前焼窯元興楽園14代木村友敬の作品である。備前焼関連で先日由迦神社の鳥居と狛犬を紹介した。抹茶碗で一服④-備前焼
昨日は地域のお世話をしている人達とサントリー熊本工場を見物した。当方は飲めないので試飲はノンアルコールを・・・慣れないタブレットより更新熊本方面旅行
原地区の川末側と泉水峠側から林道工事が行われていることは以前にも紹介したが、山中の工事であり進捗状況は定かでなく現在の遠望画像である。県道294号虫道廿日市線の険道区間が林道として建設整備されているようである。林道玖島川末線開設工事の遠望
若い頃に北九州の窯元を訪れた時に記念に求めたもので、福岡県田川郡赤池町(現福智町)上野皿山にある上野焼は遠州七窯の一と言われ三窯元を巡ったように記憶している。この茶碗は高鶴窯の高鶴夏山の作品である。抹茶碗で一服③-上野焼
公共工事に伴って取り壊された土蔵に設けられていた龍と弁財天が表されている蔵飾りで、取り壊しの際に蔵飾り部分を切り取っておられた。他の場所に新築された物置の妻壁面にこの蔵飾りが復元設置され彩色も施されている。通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵に設けられているものは蔵飾りと称している。移設保存されている蔵飾り
岩国市錦町宇佐にある宇佐神社本殿脇に祀られている境内社で厳島大明神夏焼社と表示してある。江戸期の地誌によると夏焼地区に中御前社がみられ、祭神は市杵島姫命、祭日が6月17日とある。明治期に中御前社と他二社とが合祀し夏焼社と改号し、いつの時代かに境内社として祀られ厳島大明神夏焼社と称されるようになったようである。各地の厳島神社㉛-宇佐神社境内社の厳島神社
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の鐘楼に架けられている梵鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右エ門が鋳造している。この梵鐘も喚鐘と同じ山田貞栄が鋳造している。この梵鐘は鐘楼内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑧-国前寺の梵鐘
田んぼの稲は穂が実りつつあるが、畑に植えた陸稲と陸植え2代目黒米の現在である。陸稲の背丈は低いが穂が出つつある。上画像の左側の陸植え2代目黒米は背丈も低く稲穂は出ないかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。遊びの菜園―陸稲の今
早朝ウォーキングで宮島サービスエリアに行き平良丘陵開発地を遠望すると、以前に仮設建物のようなものが築造されていると紹介したことがある。仮設の足場状の所にディスプレイが設置されており何かの画像が放映されていた。早朝の用地内で誰もいないところで(?_?)平良丘陵開発の今
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。広島市東区山根町にある国前寺の庫裡に架けられている喚鐘で、刻銘によると元禄7年(1694)に山田治右衛門藤原貞栄が鋳造している。この喚鐘は庫裡内に架けられており常時見ることが出来ない。画像は見学会が催された時のものである。廿日市鋳物師の鋳造作品⑦-国前寺の喚鐘
吉野山に設置されている中電の高圧線鉄塔(画像向こう側)が移設されることを以前に紹介したが、現在画像の手前側に見える掘削機があるところで基礎工事がおこなわれているものとみられる。吉野山の鉄塔移設工事の今
廿日市で中世から江戸期に鋳造活動をしていた鋳物師の現存作品を紹介しよう。岩国市美和歴史民俗資料館に展示されている生見の鉄燈籠で、以前に訪れた時は美和町生見中村の覆屋の中に設置されておりその時に作図した。当時は鉄燈籠の腐食が激しかったが後に修復されて歴史民俗資料館に展示されるようになった。腐食が進んで鉄燈籠の鋳出銘文は見えないが、江戸期の地誌に「天文十五丙午八月吉日廿日市之住大工綱家」とあり、天文15年(1546)に廿日市鋳物師の久枝綱家が鋳造したことがわかる。(覆屋鉄燈籠画像―山口県文化財要録より)廿日市鋳物師の鋳造作品⑥-生見の鉄燈籠
台風一過、早朝ウォーキング途中で原小学校プール脇の原低区配水池工事現場では配水タンクの設置工事中であった。また川末川に架かる下ケ原橋からここの場所までの道路にはアスファルトの切断がされていたので給水パイプの埋設工事が行われるのであろう。原低区配水池工事の今
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ウォーキング途中の道端に見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索してみるとキカラスウリ(黄烏瓜)の花のようである。鮮やかな朱色のカラスウリの実は見たことがあるがキカラスウリの実を見たことがないので注意してみよう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-キカラスウリ
ウォーキング途中で見掛ける可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、橋桁がすべて架けられていた。これから床版のコンクリート打ちが行われるのであろうか。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
原地区にあるかつての国立療養所原病院は現在社会福祉法人三篠会「ふれあいライフ原」の施設として使用されている。現在老朽化した建物が取り壊されており、何らかの施設建物が建築されるようである。(上画像-国立療養所原病院記念誌より)※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/国立療養所原病院今昔
梅雨の時期なので以前に訪れた岩国市六呂師大藤地区にある梅雨左衛門を紹介しよう。田んぼの脇に巨岩があり岩の隙間に蛇がいるというが、現在農地は荒れており近づくことは出来ない。江戸派の地誌に「田疇ニ大岩高サ四間程也、岩中ニ有一双小蛇、形鳥蛇ノ如ク、頭帯白色、毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ不退、・・・」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨左衛門
梅雨の合間に二重原地区石か小屋にある巨岩の割れ目に栖んでいるという梅雨太郎さんに会いに行ったが姿を見せてくれなかった。江戸期の地誌に「異石-・・・石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見まず、此石犯すものは祟ありといふ」と記されている。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/梅雨太郎
廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根(下画像)の現状で、切葉松本地大根は苗の時に虫被害でもうこれまでかと思っていたが何とか育って種が取れそうである。これらから種を採って廿日市21代目桜島大根と廿日市11代目切葉松本地大根を育てるつもりである。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
峠地区の最禅寺境内に安置されている浅浮彫合掌仏立像(線刻仏像?)を久しぶりにお参りした。板状の石に浅浮彫りされたもので、衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し安置されたものであると教えてもらったことがある。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/浅浮彫合掌仏立像
玖島地区の大町と平谷集落の中ほどの県道沿いに大きな背石のある石仏が安置されており、刻銘に「安永九年(1780)子十月日」とある。現在は県道沿いであるがこの場所は旧石州往還道(廿日市~匹見・益田方面)があった所であり旅人の安穏を祈念して建立されたものであろう。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の石仏
玖島地区の大町集落のとある谷合(近所の人に聞いたが谷名不明)を登った所に小さな池(沼)がある。その周辺にある樹木の池上部分にモリアオガエルの卵塊がたくさん見られた。今年はまだ卵塊からオタマジャクシが垂れ落ちていなかった。※6月22日が丸19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/モリアオガエルの卵塊
時折り紹介している可愛川に架かる橋梁の進捗状況で、前回紹介した時より橋桁が多く架けられていた。橋台部分を見るともう1本位橋桁が架けられるのであろうか。橋桁上の材料であろうかクレーンで運搬されていた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
昨日紹介した自室前の田んぼに別のグループのコサギとアオサギかがやってきた。コサギは昨日のものより大きく成鳥のようであった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
自室前の田んぼに兄弟であろうか2匹のシラサギがやってきて田んぼの中の小動物をたべていた。撮影した画像を見ると小型でありクチバシや足が黒色なのでコサギの幼鳥のようである。時間を空けてからアオサキがやってきた。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/コサギ・アオサギが!
ウォーキング途中にブラシノキの花が咲いていた。オーストラリア原産のようで、カリステモン、ハナマキ、キンポウジュ、ボトルブラッシュともいわれているようである。花はビン洗いのブラシによく似ており和名でブラシノキというようである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/路傍の花-ブラシノキ
広電宮島線沿いの廿日市駅東側にあったレンガ建築の廿日市変電所は平成21年(2009)3月に取り壊され変電所跡は駐車場になっており、変電所脇にあった踏切は廃止されていた。新しい変電所は廿日市駅の上り線ホーム脇に設けられている。(広電廿日市変電所)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/広電廿日市変電所今昔
所用を兼てのウォーキング途中、壁面に本業敷瓦とみられるものが張ってある民家があったが近寄って見ることは出来なかった。本業敷瓦は日本のタイルの源流で、明治時代に焼き物の産地愛知県瀬戸で焼かれた陶製タイルである。参考画像は当ブログ主が所持しているもので、大きさは24cm×24cm厚さは1.8cmのものと15cm×15cm厚さ1.8cmのものである。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/本業敷瓦(タイル)
昨日紹介した地御前漁港には築港時代の石積みの防波堤が残されている。大正5年(1916)頃に南北の新開が築調されそれぞれの地先に石積みの防波堤が築造された。防波堤の先端部は海側にL型に折れ曲がって築造されて堤頂部には繋船石柱が設けられている。(地御前漁港築港についてー広島県の近代化遺産参照)※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港の防波堤
上・中画像は平成8年(1996)頃の地御前漁港で、護岸には多くの雁木(石階段)がみられ漁船から漁獲物の荷揚げがされていたものであろう。現在、地御前漁港は艇置施設(プレジャ-ボート係留施設)となってプレジャ-ボートがびっしりと係留されている。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/地御前漁港今昔
所用をかねてのウォーキング途中、可愛川下流域でアオサギが水中の餌を食んでいた。当方の移動を察知して上流方面に飛んで行った。以前に田んぼの中で餌を食んでいたのを紹介したことがあった。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/アオサギが!
一昨日紹介した搬入されていた橋桁が、昨日の昼過ぎ通りがかりにみると可愛川に架けられていた。何本の橋桁が架けられているのか分からないが、画像をみると手前側にまだ数本の橋桁が架けられるのであろうか。※6月22日が19年目の開設日なのでこの日まで当ブログを更新していきます。移転先のAmebaブログでも同様に更新をしています。https://ameblo.jp/n3491/市道堂垣内広池山線工事の今
安来市広瀬町には中世尼子氏の居城月山富田城があり、江戸期、松江藩の支藩であった広瀬藩の陣屋があった所である。半世紀前頃に月山富田城跡や陣屋跡、街並みなどを訪れ八幡焼の窯元があったので記念に求めたものである。抹茶碗で一服②-八幡焼
以前にも紹介したが、佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中で8割方工事が終わっているようにみえる。完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。「かっぱえびせん」のカルビー工場建築中
吉野山にある中電の高圧線鉄塔が場所を変えて建て替えられることを以前に紹介した。現在、藤戸の谷の作業用地から山上の鉄塔までの工事部分の山林が伐採されていた。また資材などを運搬する索道の準備作業が行われているようである。吉野山の高圧線鉄塔
以前紹介した吉野山に生息しているイノシシによって、山裾の畑で被害があったことを聞いていた。当ブログ主の田んぼの近くに以前から捕獲檻が設置されており、一昨日親子のイノシシが捕獲されていた。一昨年は田んぼをイノシシに荒らされたことがあったなぁ・・・ならず者御用だ!
可愛川の西側流域で広電廿日市市役所前駅のロータリと旧国道の間、住宅に囲まれた中にある田んぼが最下流の田んぼである。用水は薬師井手か新宮川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ--2
可愛川の東側流域で平良保育所脇に見られる田んぼが最下流の田んぼである。用水は柳庵川から取水しているものとみられる。平良地区最下流域の田んぼ
ウオーキング途中に赤い実がびっしりと付いた植物があった。ヒペリカムと教えて頂き、挿し木するとつきやすいとのことで、枝を分けてもらった。挿し木した枝は大きく育ち、黄色の花が咲いて赤い実となりつつある。ヒペリカム
ウォーキング途中にカヤがあったので、久しぶりにバッタを作ってみた。当ブログの最初はウォーキング途中カヤでバッタを作っていたバッタおじさんから習ったバッタ画像であった。カヤのバッタ
水稲育苗箱で陸稲(左側)と黒米苗(右側)が育っている。陸稲は昨年秋に収穫した籾であり、黒米は昨年陸植した籾で陸植2代目となる予定の黒米苗である。陸植した赤米は育ちが悪く籾が採れなかったのである。遊びの菜園ー陸稲・黒米苗
宮園団地の高い法面下の擁壁から赤褐色の水「赤水」「かなけ水」などと呼ばれる水が湧出している。擁壁下にある田んぼはこの水が使用されており既に田植えがされていた。かなけ水を使用した田んぼと通常の川水を使用した田んぼの米の出来ぐわいが異なるのであろうか。かなけ水の田んぼ
玖島上大町地区のとある谷筋(谷名分からず)を入った所に小さな溜め池があり、その上に張り出した樹木の枝に「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数多くみられた。ここの場所では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるのであるが、今年は卵塊の数が少ないようである。モリアオガエルの卵塊
「引き回転定木」引き回転定木は引っ張っていき円板で筋を付け十の字跡を付けていくものである。上画像と中画像は吉和地区でみたもので、下画像は佐伯歴史民俗資料館に展示されているものである。このような民具は吉和地区と佐伯地区で使用されていたようである。田植えに関する民具⑤
「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②
当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今