「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
以前訪れて紹介した英彦山や大峰山と共に日本三大修験道といわれる羽黒山の出羽三山神社を参詣した。国の重要文化財である三神合祭殿の屋根の一部は萱葺替え工事が行われていた。また、国の重要文化財である鐘楼は修復工事中であり、建治元年の梵鐘は隙間からしか見られなかった。山形探訪-出羽三山神社
出雲市八島町の田園地帯に祀られている厳島神社で、出雲大社のある地の出雲平野の中にどのような経緯で厳島神社が祀られたのであろうか。各地の厳島神社㉓
昨日宿泊した由良温泉のホテルから由良海岸の白山島を望んだ風景。下画像は蔵王ロープウェイで樹氷高原駅への途中に見られた紅葉である。本日は最終日、昨夜はかみのやま温泉泊まりであった。山形探訪
昨日、都道府県で訪れていない最後の山形県を広島空港からFDAチャーター便で山形空港に・・・羽黒山に向かう道中紅葉が・・・体調万全ではないが同行者に迷惑をかけないようにしないと・・・ホテルより馴れないタブレットから山形探訪
吉和歴史民俗資料館に秋穂八幡宮応仁元年造営記録が掲示されていた。応仁元年(1467)に吉和山の曽木が地御前に搬出され船で運ばれて、山口市秋穂の正八幡宮の楼門、僧座の拝殿に上葺されたようである。秋穂の正八幡宮は以前に紹介したが、吉和山の曽木を使用した応仁元年頃の正八幡宮は別の地にあったようで、文亀元年(1501)に大内義興が現在地に移築したようである。吉和山の曽木
陸稲(右側)と陸植2代黒米(中央)・陸植2代赤米(左側)を刈り取って干しているが、畑の肥料不足だったのか全体的に稲丈が低く稲穂も少ない。なんと水田に植える陸植2代の黒米は陸稲より稲丈が高かった。陸植2代赤米は稲丈も低く稲穂が実っていないので来年の陸植3代目はできないであろう。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米
ウォーキング途中で山陽自動車道の法面にアケビの蔓がありたくさんの実が付いていた。実が割れて熟していたのがあったので食べてみると種は沢山あるが甘い懐かしい味であった。昔は山に入っていたのでアケビを見つけることがあったが今は山に行くことも無く久々のアケビであった。アケビが‼
先月23日に種蒔きした廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の苗が育ってきたのでそれぞれ5株に間引いた。毎年種を採って次年にどのように育っていくのかをみるだけ・・・手間暇かけてまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
吉和地区で草葺き(茅葺)屋根が残されている民家は1棟のみであるが、かつて草葺き(茅葺)屋根であった民家には薄鉄板葺きの屋根とされているものが多く見られる。画像の民家は田舎の佇まいであった母屋と納屋が薄鉄板葺きとされているものである。薄鉄板葺きの民家
昨日、我が母校の平良小学校では創立150周年記念式典が開催され、併せて各学年発表会などの記念行事が行われた。明治6年(1873)に上平良小学校の前身である文会社が創立されてから150周年となり、当ブログ主の祖父、父、当ブログ主、子、孫と五代に亘って学ばせて頂いた。平良小学校・創立150周年記念
吉和地区の無住の民家軒下に残されているレトロな自販機3台で以前にも何度か紹介したことがあるが以前より色が褪せて字が読取りにくいようになっていた。字が読み取れた頃は左側はブルボンのポテトチップの自販機で200円を入れてレバーを下げると商品が出てくるようである。中央はヴィレ&CoffeeZの自販機で何れの商品も100円だったようである。右側はSunkistの自販機であるが字が消えており詳細は不明である。レトロ自販機
小瀬川沿いの国道186号から中道方面に分岐する県道119号佐伯錦線で小瀬川に架かる出合橋はあまり見たことが無いような橋の途中橋幅が変わっているものである。橋を渡った向う側は急カーブのためにこのような橋が作られたものとみられる。広がった橋・狭まった橋⁉
現在冠高原に行くには国道186号から金子峠で分岐しているが、かつては手前の吉和さくらバスの冠高原下停留所(かつて広電バス-冠高原入口停留所)がある三差路分岐から1.5km位歩いていたのである。冠高原口付近には昭和27年(1952)に広電が冠高原つつじケ丘ヒュッテを建築しており、いつ頃廃止となったのか不明であるが雑木林の中に石積みが残されている。(ヒュッテ画像-広島電鉄開業100年・創立70年史より)冠高原③
昭和30~50年代頃に冠高原スキー場が賑わっていた時のスキー場山の家の一棟が取壊し中であった。中高者向けのスキー場にあったロープ塔の関連建物が残されており表示板には「一日券1000円、6回券300円、1回券50円」とあった。冠高原②
久しぶりに冠高原を訪れてみた。国道434号脇に冠高原ドックパークが設けられていた。かつて冬期スキー場があった頃はこの緩斜面は初心者用のスキー場であった。自動車エンジンを利用したロープ塔があった名残りの廃車が遠くにみられる。冠高原
吉和支所複合施設内に設置されたという吉和歴史民俗資料館を訪れてみた。施設内には冠遺跡で出土した石器類、吉和地域内で発掘調査された古墳などから出土した遺物、木材を切り出した鋸の各種など何んと写真画像の部分が施設展示のすべてであった。空いた展示スペースがあったので展示追加されるのかも知れない。吉和歴史民俗資料館
ウォーキング途中の田んぼで今年も原小学校の体験活動で稲刈り、ハゼ掛けなどが行われたようである。ハゼ掛けは以前のように乱雑でないが稲刈りの跡が乱雑でありハゼ架けも農家がされたような仕事ぶりではないようなので体験活動で行われたものと思われる。原小体験活動の稲ハゼ掛け⁉
佐伯地区の田んぼで早く刈り取りがされたものとみられ、稲の切り株からひこばえが生えており稲穂もみられた。これから寒さに向かっていくので稲茎が伸びることもなく稲穂も実ることはないであろう。稲のひこばえが‼
国道433号線の陽光台南交差点から時折り紹介している平良丘陵開発用地に向かうアクセス道路の市道堂垣内広池山線の整備工事で、現在可愛川への架橋のための橋梁下部工事が始まったようである。架橋予定地の東側では一部の道路築造工事が行われているようである。市道堂垣内広池山線工事の今
可愛川に架かる七尾橋を渡ってすぐに墓地がありその脇に流れ薬師(道挟薬師とも)といわれる小堂があり堂内には本尊の他に三体の石仏が祀られている。大正期に記された地誌に時代不明の大洪水で川末から薬師如来が流されて下平良に至りこれを流薬師と称すとあるが、川末から流れてくると形が無くなるのでは・・・伝説は伝説として。江戸期の地誌絵図をみると小さな小山の上に流れ薬師がみられる。この付近は櫟や藪などが茂った高地であったようであるが明治初年に開墾されたようである。流れ薬師
ウォーキング途中の畑にみたことが無いような葉の付いた植物があった。何かと近づいてみていると茎に緑の果実が房状についていた。畑を作っている人に訊ねてみるとパパイヤであると教えて貰った。この地で緑のパパイヤが熟していくのだろうか。パパイヤが‼
物入れの片隅に若い頃に長期月賦で買った単車のコレダ125SHのカタログがあった。先日のブラタモリで若戸大橋が少し紹介されていたので、若戸大橋が完成してすぐにこの単車に乗って訪れたことを思い出した。250ccのオートバイ1台、125ccの単車3台、50ccのバイク3台の仲間達と昭和37年(1962)10月6日に若戸大橋から博多まで訪れた。バイクは関門トンネルの人道側を通らなければいけなかったが土地勘もなく携帯も無い時代にうまく合流できたものだ。遥か61年前のことである・・・今では考えられないような冒険をしたものだ。コレダ125SH
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で一昨日夜には神楽奉納が行われ、昨日は神輿渡御が斎行された。白丁衣装をまとった白装束の氏子崇敬者の方々20数人により重さ900kgもあるという神輿を担いで境内一帯を神幸された。速谷神社-神輿神幸
速谷神社の例祭(阿岐祭)の関連行事で昨晩は有福神楽保持物会が神楽を奉納した。神楽の演目は剣舞、神降し、日本武尊、胴の口、恵比須、大江山、大蛇などが演じられた。速谷神社-桃祓祭・奉納神楽
連休の天気予報が雨予報であったので急遽、昨日協力助っ人を得て2ケ所の離れた田んぼの稲刈りを済ませた。今ではあまり見かけなくなったハゼ干しをしており、ハゼ杭はアルミ三脚でナルは鋼管をしている。昔からハゼ廿日と言われており、天日干しで20日くらいまで乾燥させたおいしい米が待ち遠しい。稲刈り
ウォーキング途中で今迄に見かけたことが無いような花がみられた。Googleレンズで検索してみると上画像からクレマチス・ウイタルバ、モミジアオイ、ムラサキルエリアに似ている花のようである。見たままのブログなので探究しておらず違っているかもしれませんが・・・路傍の花
原小学校のプール横に原低区配水地が設けられる敷地が造成されていることを以前にも紹介しており画像のような施設が設けられるようである。上平良地区小原を通っている市道50第一路線脇にはポンプ所の敷地が築造されており、これから送配水管の敷設工事が行われるのではなかろうか。原地区水道施設
上画像は大正後期から昭和初期頃の廿日市港の様子を表した絵葉書で住吉新開の堤防脇付近に住吉神社がみられる。昭和58年(1983)の護岸改修で護岸道路や住吉公園付近一帯は廿日市港が埋め立てられたもので、住吉神社も現在地に遷座された。廿日市港今昔
秋祭りも近づいて天神山の天満宮では干しダコに似たような独特の吹き流しがたなびいていた。天神山は街中にある高台であり天満宮の吹き流しは街の各所から見ることができ、秋の訪れを知らせてくれる風物詩である。天神さんの吹き流し
12日は速谷神社の例祭(阿岐祭)なので昨日地域の人達と幟立てをした。速谷神社では関連行事として7日に桃祓祭、奉納神楽(有福神楽保持者会)が催され、8日には神輿神幸が斎行されるようである。秋祭りの幟立て
宮島サービスエリアからみた平良丘陵開発用地内の工事状況である。画像左側の伐採されている山は極楽寺道があった尾根筋であろうか。掘削地向うの瀬戸内をみると津久根島から安芸の小富士と呼ばれている似島、その向こうには灰ケ峰が連なって見える。平良丘陵開発の今
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「六角枠」六角枠は前に転がして碁盤の目のような跡を付けていくもので、交点に前向きで植えて行くため効率的である。植え筋が縦列と横列が揃った植え方となるのである。田植えに関する民具④
「スジツケ」上画像は前に向かって植え筋を付けていくもので、下画像は引いて植え筋を付けていくものである。隠岐郷土館に展示してあるスジツケ(下画像)には「ババ」と表示してあり、出雲地方では筋を引くことをババヒキと言っているようである。筋の上に前に向かって植えて行くので効率的であるが植え手によって間隔はバラバラとなるのである。田植えに関する民具③
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキングで速谷神社に参詣したら社殿前に茅で作った茅の輪が設置されていた。6月の晦日には酷暑の真夏をひかえ、人々の健康と厄除け無病息災を願う夏越の大祓神事が斎行される。速谷神社「茅の輪」
「三角枠」上画像は親の時代に使用していたもので、4~5人で印の付いた所に植えて手前に回していくものである。植え手のスピードや後すだりのため効率はあまりよくないものであった。下画像の「タウエワク」は廿日市町史通史編に掲載されていたものであるが、三角枠と同じように印の付いた所に植えて手前に回していたもののようである。田植えに関する民具②
当ブログ主の田植は何とか終わったので、過去にみかけた田植えに関する民具を紹介する。原地区で以前にみかけた「マグワ」2基であるが現在は無くなっている。マグワは馬や牛に曳かせて代掻きをする器具で「ホ・コ(爪の部分の呼称)」が木製のものと金属製のものがある。「エブリ」は当ブログ主が使用しているもので代掻きをして田んぼの不陸を均すものである。(中画像-日原民具志)田植えに関する民具①
昨日、田植えの二便が助っ人2(田植え2年生)により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。四角な田んぼであるが植えた列は湾曲していたが片目をつぶってみておこう。田植え②
当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の実が実っておりもうすぐ種を採取しなければ・・・来シーズンには廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
上平良地区の吉野山にある中電の廿日市八幡線高圧線鉄塔(上画像赤丸ケ所)が同じ山上で少し位置を変えて建替えられるようである。藤戸の谷の田んぼでは作業をするための用地が整備されていた。吉野山の高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況を時折り紹介しているが、東側の工事はほぼ終わっているようである。周辺整備がもう少し残っているのだろうか。今年度は西側の橋脚工事が行われるのであろう。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日、田植えの一便が助っ人により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。平野地で圃場整備された四角な田んぼであれば苦労は少ないが、いびつな箱庭のような段々田では何かと大変である。田植え
早朝、田んぼの水廻りを兼ねた夏場のウォーキングコースとなり速谷神社に参詣した。現在、楼門や神門、社殿に防護覆いがしてあり修復工事が行われているようである。速谷神社社殿の修復工事
一昨日の中国新聞に広電宮島線でかつての廿日市駅舎前にある山田漬物店が閉店されることが大きく掲載されていた。以前にも紹介したが、昭和18年(1943)にマキノバスが広島電鉄に買収統合されて廿日市営業所となった。当ブログ主が小学生の頃、漬物店の所に営業所と待合所があったのを記憶している。昭和29年(1954)に国道2号線沿い(メガネ21ケ所)に移転しており、昭和42年(1967)に廃止となっている。(下画像-ふるさとの写真集)広電廿日市営業所跡
知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
ウォーキング途中の田んぼの荒れ地に見たことが無いような小さなキキョウに似たような花があった。ネットで調べてみると北アメリカ原産の帰化植物のキキョウソウのようである。別名はダンダンギキョウ(段々桔梗)というようで、この葉の付きかたから付いた名前のようである。野の花-キキョウソウ
廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)の種が実ったので昨日採取した。この種で次のシーズンには廿日市19代目桜島大根と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。近接して栽培しているので桜島大根の影響なのか切葉松本地大根の特徴が全くないようなものになっているのである。桜島大根も廿日市18世桜島大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の種採取
天満神社の玉垣正覚院の石燈籠佐方八幡神社の狛犬佐方八幡神社の石燈籠御船屋敷には元文元年(1736)頃に93人の家中が居住しており、市域の寺院には船屋敷関係者の墓碑が多くみられる。また家中の田原小左衛門は天満神社の玉垣、正覚院の石燈籠、佐方八幡神社の狛犬を寄進し、堀田仁助藤原泉〇は佐方八幡神社の石燈籠を寄進しており、船屋敷の人々は廿日市町人の生活の中に融合していたようである。津和野藩御船屋敷家中の寄進物
津和野藩主の亀井家は江戸時代大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際し津和野街道を東上して廿日市に宿泊しここから海路をとっていた。この中継居留地が津和野藩御船屋敷(廿日市下屋敷)であったが御船屋敷の遺構は残されていない。昨年までは御船屋敷跡に津和野太鼓谷稲荷神社を勧請して祀られていた稲生神社があったが現在は天満神社境内社の稲荷神社に合祀されている。唯一定かでないが御船屋敷時代のものではないかと思われる井戸が某所に残されている。(井戸画像-昭和後期に撮影)「廿日市の文化第19集津和野藩御船屋敷(屋敷位置復原の試み)参照」津和野藩御船屋敷旧跡
中央市民センターの掲示板に津和野街道交流記念事業のパンフレットが掲示してあり、今月11日に厳島神社の平舞台で津和野弥栄神社の鷺舞が奉納されるようである。鷺舞の画像は平成29年(2017)7月20日に津和野町の殿町通りで舞っている鷺舞である。鷺舞奉納
廿日市町絵図芸州吉田行程記中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源と思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)廿日戎旧跡
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社
ウォーキング途中でみかけた2種類の磁器製酒樽については以前に紹介したが、かつての家納喜酒造の前身である丸亀商店の支配人に宮城春悟の名がみられる。(大正10年(1921)~昭和7年(1932))また、昭和7年(1932)頃には以前紹介した幸橋モニュメントの地に宮城春悟の和洋酒類の商店があったようである。これらからみていくと丸亀商店の登録商標の正宗を宮城商店でも販売していたようである。「正宗」磁器製酒樽
ウォーキング途中の道路脇の山には白い花が咲いたようにマタタビの葉が白くなっていた。花を付ける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようで葉の裏側は緑のままである。以前にマタタビの実を焼酎に入れてマタタビ酒を作って物入れの奥に置いていたのを忘れており下画像のようになっていた。古酒となったがもう飲めないだろうか・・・マタタビの葉が白化
ウォーキング途中にみられる麦畑で毎年この時期に紹介しているが、小麦が実っているようでありもうすぐ刈り取りをされるのではなかろうか。この小麦を使って味噌も作っておられるようで以前に頂戴したことがある。下画像は今月初めに訪れた出雲平野の麦畑である。麦秋
今治市波方町養老にある厳島神社で江戸期の地誌「愛媛面影」にはみられず由緒などについては定かでない。看板表示によると厳島神社のある地は中世来島家の居館波方館の別館養老館があった地のようである。各地の厳島神社⑱-養老厳島神社
昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると催し場用の大型テントの設営がされていた。本日か明日に関係者による地鎮祭が行われるのではなかろうか。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
ウォーキング途中で民家の片隅に見たことが無いようなヒペリカムの黄色い花が咲いていた。上画像は23日に撮影しており、昨日よくみると黄色い花と思っていたが、花びらや黄色の実もあり赤くなり始めている実もみられた。ヒペリカム
昨日の午前中、五日市港に2隻の車両運搬船が停泊していた。右側の船はパナマ船籍の「アクアマリンエース」で収容力は18772トンDWTで、次の寄港地はシンガポールのようである。左側は「日昇丸」で収容力は5030トンDWTで、次の寄港地は苅田港のようである。五日市港の車両運搬船
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)各地の厳島神社⑰-弘化台厳島神社
上画像のような平良丘陵開発が行われる予定地の山々を山陽自動車道宮島サービスエリア下り線の展望所先端部からパンニング俯瞰。4枚目画像の海の向こう遠くにG7広島サミットで各国首脳が訪れた宮島が見られる。平良丘陵開発予定地俯瞰
平良丘陵開発地域への市道堂垣内広池山線のルートで可愛川の東側部分(下画像赤丸ケ所)では道路の一部が築造されていた。上画像の山方面に道路が向かうと以前紹介した旧石州街道がある所に向かう。中画像の可愛川には橋が架けられて向うの国道433号線の陽光台南交差点に接続するようになる。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
ウォーキング途中の畑の隅に珍しい磁器製の酒樽が置かれており、酒樽には「廿日市丸亀支店正宗第六号」とあった。丸亀支店とあるのはかつての家納喜酒造創業者である丸亀小六に関係があるものとみられるのである。丸亀小六は大正7年(1918)に丸亀商店、大正9年(1920)に家納喜酒造を創業している。下画像には丸亀酒場とあり丸亀支店・丸亀酒場は丸亀商店創業以前のものであろうか。「正宗」磁器製酒樽
平良丘陵開発予定地内の広池地区をウォーキングしていると道端にピラカンサの花が咲いていた。秋には赤い実がびっしりとなっているのを車での通りがかりに何年も見ていたのであるが、花が咲いているのは歩いていて初めて気が付いた。ここは開発予定地内であり赤い実がなるまでには取り除かれてしまうのではなかろうか。ピラカンサの花
本日から広島サミットが開催される。以前訪れた北海道洞爺湖畔には平成20年(2008)7月に開催された洞爺湖サミットを記念した洞爺湖サミット記念館が設けられていた。記念館内には各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が保存展示してあった。洞爺湖サミット記念館