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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
出身
埼玉県
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2006/06/13

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  • 芹沢氏が北条氏照へ送った薬の呑み方は? ―おうち戦国―

    おうち時間、資料を介して訪ねる戦国時代。戦国時代、古河公方の家臣で医療に精通していた芹沢氏という一族がいました。薬を調合し、公方へ進上。公方の奉公衆である芳春院周興(季龍周興)は「芹沢土佐守」に宛て、「仍御薬如毎春送給候、目出度存候」と述べており、公方の信頼を得ていたようです(「芹沢文書」)。公方だけではありません。真壁氏や結城氏といった国衆からも薬を所望され、送っています。また、戦国大名北条家も芹沢氏と接点を持っていました。あるとき、芹沢氏は2種類の丸薬を北条氏照に送付。これに対し、氏照は芹沢氏に次の書状を送っています(「同」)。来翰披閲、特丸薬両様三包到来、祝着之至候、白血薬幷万病円、何々之煩ニハ呑汁以何用候委細、被書立可給候、関宿普請取乱之間、委曲自是可申候、恐々謹言五月十七日氏照(花押)掉雪斎回章宛所の...芹沢氏が北条氏照へ送った薬の呑み方は?―おうち戦国―

  • 関東の名医“田代三喜斎”は公方の要請を受ける? ―おうち戦国―

    気落ちしています。つらくないと言えないのがつらく感じます。医療は日々進歩しています。戦国時代、「関東の名医」と賞された“田代三喜斎”という医師がいました。庵号“江春庵”を名乗り、天文6年2月19日に亡くなった医師です。この人物は古河公方の家臣でもありました。あるとき、足利晴氏へ「清円神仙」という薬草を届けています。ちょうどこの頃、晴氏の祖父足利政氏の病が再発。そこで、晴氏は田代三喜斎を呼び戻し、治療に尽力するよう要請しています(『秋田藩家蔵文書』)。梱切被申候、殊清円神仙到来、喜入候、然而其方無際限煩口惜候、仍茎(久喜)之上様御再発之節候、急度有帰参御療養之事被走廻候者、可然候、猶尚可被存其旨候、恐々謹言六月六日晴氏(花押影)三輝(喜)斎田代三喜斎に対する公方の信頼は厚かったようです。久喜(埼玉県久喜市)にいる...関東の名医“田代三喜斎”は公方の要請を受ける?―おうち戦国―

  • 天正11年、洪水で古河公方の姫も避難した? ―おうち戦国―

    おうち時間、資料を介して訪れる戦国時代。天明3年(1783)の浅間山の噴火により利根川の河床はあがり、洪水の発生率が上がるようになりました。もちろん、それ以前に洪水が皆無だったわけではありません。戦国時代にも洪水は起こっています。中でも、天正11年(1583)の洪水は大きな被害をもたらしました。関東の将軍こと古河公方の御座所古河城(茨城県古河市)も大水に見舞われます。足利義氏の娘である氏姫は、川が満水になる前に栗橋城(同県五霞町)に避難。が、城は大水に持ちこたえられそうもなかったのか、「新堤」を切るという手段を採っています。また、古河城近辺の堤をはじめ、関宿、高柳、柏戸などで破堤しました。「新堤」も押し切られ、交通も遮断。猿島もまた冠水に見舞われ、此度の大水は20年以来の規模だったと、古河公方家の奉公人たちは8...天正11年、洪水で古河公方の姫も避難した?

  • 銚子へ行ったつもりの海鮮丼

    千葉県銚子市は海の町で、利根川の果てにある地域です。銚子漁港や銚子大橋をはじめ、川口神社、犬吠埼、千人塚、高崎藩陣屋址、君ヶ浜など、その地域を特徴づけるものがたくさんあります。海のない北埼玉に住む者にとってそこは別世界。漁港にとまるたくさんの漁船、その上で働く漁師たち、対岸には鹿島コンビナートや風量発電所が見え、飛び交うカモメと夜になると光る灯台は、海のない町では見られないものです。春になると行きたくなります。銚子を知るのに、早朝の姿を目にしなければならないのでしょう。しかし、予断を許さない新型コロナウィルス。PCに残っていた前に撮った写真で、訪れたつもりになる銚子です。銚子は水揚げ量が全国1位で、漁港には魚料理が食べられる店が軒を連ねています。何の情報もなく入ったお店は外装が蔵造りで、中は居酒屋風になっていま...銚子へ行ったつもりの海鮮丼

  • 明和町の“江黒古墳”は近くて遠い?

    中学生のとき、利根川で一緒に過ごす同級生たちがいました。自転車を河原にとめ、集めた流木で火を焚き、打ち上げるロケット花火。川は音もなく流れ、頭上から降り注ぐ雲雀の声。川ではときどき魚が飛びはね、1度だけ大群のハクレンが壮大なジャンプを繰り広げていました。河原で多くの時間を過ごしたのに、ついに一度もしなかったのは水泳です。川の中に入るとしても、膝まででストップ。それ以上奥へは入りませんでしたし、僕らの関心はどちらかと言えば水源や川の果てだったかもしれません。僕らが遊んだ利根川の河原は埼玉県羽生市で、その対岸は群馬県明和町になります。対岸は高い土手が連なっているため、河原からでは町の様子は望めません。強いて見えたのはおそらく会社の看板の一部で、全くの無関心ではありませんでしたが、僕らは自転車で館林市へ行くことはあっ...明和町の“江黒古墳”は近くて遠い?

  • 太宰治が訪れた群馬県の温泉街は?

    何をやってもうまくいかないことがあります。頑張っても空回り。届く知らせは気持ちを重くさせるものばかり。そういう“谷”のような期間が、人生には多かれ少なかれあると思います。太宰治が群馬県水上を訪れたのは昭和11年のこと。パビナール中毒と肺病の療養を兼ねて谷川温泉を訪れるのですが、太宰にとってちょうどこの頃が一つの谷だったようです。本来ならば、同地に吉報が届くはずでした。芥川賞の受賞。太宰は受賞を確信していたのです。それによって過去を清算するばかりでなく、借金を抱えていた彼は賞金をあてにもしていました。ところが、まさかの落選。宿泊先の川久保屋(現「旅館たにがわ」)でその知らせを受け、失意の底に叩き込まれます。あまつさえ、怒りも湧き起こったらしく、選考委員だった川端康成を攻撃する文章も執筆。昭和11年8月のことです。...太宰治が訪れた群馬県の温泉街は?

  • 逆井城へ入った北条氏繁が呼んだのは?

    歴史好きの息子を持つ先輩が、北埼玉の近くでおすすめの城はどこかと訊かれたとき、「逆井城」と答えたことがあります。すると、先輩は息子を連れて逆井城を探訪。後日、「とってもよかったよ」と感想を述べてくれましたが、当時小学校高学年の息子さんの心の琴線に触れたかどうか、少し不安になりました。とはいえ、逆井城址は平城の史跡公園としては理想の形に近いと思います。茨城県坂東市にある逆井城。別名飯沼城とも呼びます。文献に登場するのは後者で、飯沼城=逆井城とするのは疑問を持たれていましたが、数度にわたる発掘調査によって同一視されるようになりました。土塁や堀が現存するほか、二階櫓や井楼矢倉、土塀や木橋などが復元されており、遺構の迫力はもとより、ビジュアル的にも楽しめる史跡公園です。かつて関宿城にあった城門が移設されており、その奥に...逆井城へ入った北条氏繁が呼んだのは?

  • 群馬県みなかみ町に太宰治のギャラリーがある?

    かつて太宰治が宿泊した「旅館たにがわ」(旧「川久保屋」)を訪ねたのは、幼なじみのS君とぶらり旅をしたときのことです。当時の僕たちは、水上を訪れた太宰のように人生の谷だったわけでもなく、むろん、そこで事を起こそうとしていたわけでもありません。「旅」と言っても日帰りの無計画で、利根川の上流へ行ったついでに「旅館たにがわ」へ足を伸ばしたのです。同館の一室には太宰治のギャラリーが設けられています。展示されているのは、太宰関連書籍や小山初代・山崎富栄の写真など。太宰が宿泊した当時の部屋も再現され、彼が使ったという定期券もあります。再現されたその部屋に太宰と小山初代を重ねれば、きっとそこで書かれた作品を読みたくなるでしょう。そんなギャラリーでS君が気になるものを発見しました。それは、当時中学生の村田一真君が書いたレポートで...群馬県みなかみ町に太宰治のギャラリーがある?

  • 宣教師から見た本能寺の変と明智光秀

    歴史が好きでなくても多くの人が知っている「本能寺の変」。天下統一を目前にしながら、家臣明智光秀の裏切りによって果てる織田信長は、人生の幕引きも強烈なインパクトを与えます。30代のはじめ、本能寺の跡地を訪ねたことがあります。その名が広く知られているにも関わらず、信長が最期を遂げた場所は閑静な住宅街になっており、石碑がポツンと建っているだけでした。信長と共に寺も焼け落ちたのですから、当然と言えばそうかもしれません。本能寺はのちに別の場所に移されますが、明智光秀が襲撃した場所は住宅街になっています。山科言経が記した日記『言経卿記』によれば、光秀が本能寺を襲撃したのは「卯刻」、すなわち午前6時頃のことでした。夜の襲撃のように描くドラマもありますが、だいぶ明るかったようです。また、本能寺の変に参加した明智方の本城惣右衛門...宣教師から見た本能寺の変と明智光秀

  • “北条氏直”の成人の通過儀礼は? ―おうち戦国―

    羽生市の広報「Hanyu」2月号は、晴れ着姿の新成人が表紙を飾っています。令和2年度、羽生市では規模を縮小して成人式が執り行われました。一つの行事やイベントにはたくさんの人が関わっているものです。実行委員会をはじめ、名前すら登場しない多くの裏方が力を尽くし、大変な状況下で一つの行事を執り行っているわけです。何かを成すのは簡単ではないことは言うまでもありません。さて、資料を介して訪れる戦国時代。戦国期に限りませんが、往古において成人する年齢は皇族で約11歳~16歳だったようです。一般では5、6~20歳の間。元服すると幼名から実名が付けられます。むろん、大人数が集まって執り行う「成人式」はありませんでした。豊臣秀吉による討伐によって滅亡を余儀なくされた小田原城主北条氏直は、天正4年(1567)末か翌年はじめ頃の元服...“北条氏直”の成人の通過儀礼は?―おうち戦国―

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