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  • それから...高校生活。「窮鼠、猫を噛む!」

    てなわけで、まんまと生徒会長に担ぎ出されて、後から聞くと今までは投票無しで、私のように「生徒指導のご指名」で決まっていたそうだ。私たち以前の先輩在校生は、いわゆる「つっぱり文化」でいきがっている生徒ばかりで、おそらく「不良が会長になっては困る」というとこではないでしょうか? で、「窮鼠、猫を噛む」です。同じクラスの女子に「オレ、XYZ…を野郎と思うんだけど」というと、「えーっ、それやったらジュース1本おごるわ」ということで、本番は「所信表明演説」といっても無理矢理やらされる私には「所信」なんてない。先生の指導?ほぼ先生の作文で原稿が出来ました。 生徒会長の私を先頭に登壇するのですが、私

  • それから...高校生活。うまい話にゃ裏がある。

    ある日の全校集会、全学年が体育館に集まって、伝達事項や行事、表彰などで集まるわけだが、高校は並び順はいい加減で前に行きたい人は前へ後ろに行きたい人は後ろに並ぶ。私は大体最後尾で友達としゃべったりしていた。 その全校集会の最中に生徒指導と担任の先生が私を手招きして呼んで、「お前、次の生徒会長をやれ」と言うことだった。「やってみないか?」ではなく「やれ!」と言うことだ。当然私は「え~、他のヤツにやらしてよ」と当時から教師とフランク?な言葉遣いだった私は当然断った。ここで生徒指導の先生からのトドメの一言「お前、なんで推薦で入ったか分かっているんだろうな!?」。これを言われるともう断れない。「

  • それから...高校生生活。教室に乗り込んできた他学科の生徒に突然殴られる。殴った方が三年間怯えていたという不思議。

    確か一年生の時、教室の中で私の位置は窓際で、お昼の休憩の時に友人が窓を背に並んで座って馬鹿話をしていた。窓際にはずらりと生徒が並んで同じように並んで座っていた。 すると、教室に入っていた普通科の同学年の生徒。「✕✕居るかぁ!!」と怒鳴り込んできて、そいつは教室にいなくて、誰かが「居ない」と言って、私たちは相変わらず馬鹿話を続けた。 なんだか、怒鳴り込んできてヤツがカチンと来たらしく。私の前に来て「✕✕✕!」ってなに言ってるか解らないけど、私がテキトウにあしらったら、なおさらカチンときたらしく、いきなり頬を殴られた。殴った生徒はそのまま出ていったときも私は変わらず友達と馬鹿話を続けていた

  • それから...流されるまままに高校生活、魔がさして

    入学からしばらくたって、とはいうものの1年の一学期に、「40人クラスで、一人一人自己紹介しよう!」ということになり、私に性分で「なにか、面白いことを言わねば」と思い、みな中学当時の部活や趣味のことを言っていたので「よし、これにしよう!」ということで、自分の番が来て「(最初は硬めで)空手をやっています。趣味は盆栽です!」というと予想以上に爆笑を得て、あわてて「冗談、冗談」と言いながら、自己紹介後もクラスの面々に「趣味盆栽なんだって?」としばらく、いじられました。 なにせ、箸がころがっても笑うような年頃なので仕方ないかと・・・。 その他にも、地元の訛りと標準語の違いを休み時間に教壇に立っ

  • それから...高校生生活は続く。正直、嫌な遠征、全国大会に出場...。

    全国大会は各都道府県持ち回りで行っていた。だが、その年に限って団体内で内紛が起こり、東京本部の近くである「千葉幕張メッセ」で行うことになった。 元々、全国の中の各ブロック大会などの遠征は苦手で、そもそも移動が嫌だった。 夏休み時期に入ると、全国大会のずっと以前から、コンビニで夜から深夜帯のアルバイトをしていて、日中は稽古という日々を繰り返していた。確か、全国大会の集合場所は、高速道路の入り口に止めてあったバス付近で、父か道場の先生に送ってもらったと思う。ちなみにその日の午前三時までコンビニのアルバイトをしていた。 遠征となると、旅費は必要で確か高校経由で教育委員会から遠征費の補助が

  • それから...高校生生活は続く。脱線編-稽古前に燃料注入

    高校の授業が終わり、高校と同町内の道場とは距離は近いものの稽古まであと3時間ほどあるので、一旦帰宅することが多かった。 帰る前にコンビニで「ヤマザキ2食パン」を買うことが多かった。田舎なので、今のように24時間営業のコンビニは少なく(というか無かった)国道を挟んで向かいにあるコンビニで買うのだ。 当時、80~100円ほど?とりあえず腹は満たされる。通常の高校生ならば、稽古に出発するまでの2時間ほどで宿題を済ませたりするのだろうが、私の場合は「仮眠」。もしくはTV。 まれに、2食パンが無い場合や「とてもパンでは腹が満たされぬ」と感じた場合は… ひやむぎ この冷や麦を二つほど鍋に放り込ん

  • それから...高校生生活は続く。相変わらず勉強はせず、文化部で全国大会出場!?

    正確に言えばスイミングスクールを辞めたのは、2年から3年に進級したタイミングだった。 その前に水泳と同時に、空手をやっていたのは書いたが、空手の稽古は週三回、内訳は火曜が「出稽古」といわれる自分の所属していない道場で教えていただく稽古のこと。同じ学年の道場生は私が所属する道場に居たは居たが、始めたばかりの初心者で発展途上。組手の練習相手にはならない。 ※組手イメージ図 それで所属の先生に相談すると「おぉ、行ってこい。あいつ(隣町の道場の先生)には理事会で言っとくから」と、うちの先生は全くこだわりがなく(いい意味で)快諾してくれた。 その隣り町は私が通っていた高校のある町だったが、空

  • それから...高校生生活。相変わらず勉強はせず、文化部所属でスポーツ三昧

    私は元来「金槌」で、海に行っても終始浮き輪のお世話になっていた。でも、なぜか海中に潜ることは出来た。 兄は見るに見かねてか、スイミングスクールへ私を送り込んだ。泳げないので、もちろん「初心者コース」。高校生の私にすればプールが婆の漬け物樽になっている様だった。二人組の練習の時には率先して婆さんが私の所に来る。 私は早々に次のコースに昇格して婆さんたちとおさらばした。 それからというものドンドン昇格(昇級)していき、二年間でとうとう一番上の上級コースまで行った。 どこのコースも一つのレーンを往復で使うため、バタフライのような、幅を使うような練習は出来ない、平泳ぎのキックでさえ往路の人を

  • それから...流されるままに、努力もないまま高校受験

    兄の学力は「中ノ下」というか「下ノ上」というか、地元にある工業高校に通って、私が高校受験前に卒業した。 今、思うとわけのわからない自慢だが、兄は「学年で成績が3番だった、2番だった。」というのだが、兄が通っていた高校の中にある三つある学科の内、レベルが一番下の学科に通っており、自慢も何もないもんだと思う。 だが、運動神経は優れていて、私とは大違いだった。 で、私の高校受験の話だが、以前書いたように三年間勉強したこと無し、宿題もしてない、夏休みの宿題なんかもした覚えがない。 思い出すのが、小学校4年くらいだったころ、歴史好きの私のことを知っていた町内の一つ上の人が、夏休みに「ぼっしゅ、夏

  • それから...それから中学生時代

    「内的」な弟に業を煮やした「活発な兄」は、なぜ自分のように活発になれないのか、不思議に思ったのか、怒りを感じたのか、日々暴力だった。その兄が高校に入ってから、空手を始めた。 この期に乗じて私も引きずり込まれた。「サッカーに引きずり込んだ長馴染み」と同じ手法だ。 道場に入るまで、入会する前に兄の特訓は始まった。兄のお下がりのヨレヨレの道着を着て、近所にあった廃校になった中学校の体育館で基本・型・組手とあるが、特に「組手」というのは、一般的に言うと「殴り合い」だ。本来初心者は形式的なもので、相手の体に触れることが無い。つまりは相手との距離感を掴む稽古なのだが、私と会いに場合は入会もして

  • それから...中学生時代

    中学校の生活は「もちろん」勉強なんぞしなかった。 ただ、なんの時間か忘れたが部活とは別に授業の枠で、興味のある「準部活」みたいなのがあって、料理や和裁みたいなのもあったと思うが、私が選んだのは、なにか自分の興味があるものに対して研究というか学内の図書館を使って調べるものというもの。 話しは戻るが、私の小学校高学年はフジTV系で「俺たちひょうきん族」が放送開始していて、残念ながら私が住んでいた地域では、裏番組のドリフは放映されず、同フジTV系の「ドリフの大爆笑」で初めてドリフを認識した。 話は飛んでしまったが、その「漫才ブーム」+「俺たちひょうきん族」に大いに影響されたのと同時に、私

  • それから...中学前後

    「・・・そんな感じをさせないような明るい振る舞いで残り一年の小学校生活を通した。」 そんなわけで、小学校高学年の学校の写真には悪ふざけして「変顔」した写真しか残っていない。学校に復帰した後は謎の発熱も無くなっていた。 必死に明るく振る舞っていた。 戯けていた。 当時、漫才ブームになっていて、その要素を入れて面白く振る舞っていた。 相変わらず、宿題も予習も復習もせず、勉強をすることに意義/意味を感じずにいたから。 中学生になった。 入学してすぐのテストでは「中の下」。 そんなことにも意味を感じなかった。 ただ、歴史は好きだった。 それは小学生の頃から。 当時は各出版社が「まんが 日本の

  • それから...

    「...多分、つづく。」 つづいていいるようです。 丁度、私が5年生から6年生に上がるときに母が居なくなって、教室の同級生のメンバーに変化は無かったが、家の環境は大きく変わった。 父は次男だったので、父の実家の近くに「本家」があったので、祖母が家事を担うようになった。 とはいっても、本家のことがあるので晩ご飯のおかずを持ってきて、私が帰ってくると食卓に乗っているのが日常になった。 ...が、家族の激変と小学校内での立ち振る舞いを以前と変わらず「明るい自分」を演じなければならなかったので、そのギャップが身体症状に出て、原因不明の発熱が2ヶ月ほど続いた。 その間、私は本家の二階で療養生活

  • どこから、お話ししましょうか?(初投稿)

    私は昭和生まれで、最後のベビーブームあたりに生まれました。 小学校から勉強嫌い。宿題はやらないのが当たり前、かといってわんぱく小僧でもなかった。 内向的で家で一人テレビを観ている時間が長い小学生時代が4年生まで続きました。 私の知らないところで、家族は崩壊し始めていたようで、5年生の私に「離婚したら、家に残る?お母さんと一緒に行く?」と何度か聞かれました。 私は残るとも一緒に行くとも返事をせずにいました。 母親がタンスに入れていた離婚届を一度だけ破いた。 でも、「別れないで欲しい」とまでは言わなかったような気がする。 ある日、小学校から帰ると、共働きだったので家には誰も居なかった。 私

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