須賀敦子は「ユルスナールの靴」のプロローグで、「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」と言います。「森の生活」を著したヘンリー・ソローは「歩く」の中で、「私は人生において”歩く”とか”散歩”の術を理解している人にはほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。こういう人はいわばさすらうsauntering才能をもっているのでした」と記しました。・・・なにやら小難しい書き出しになってしまいましたが、私の好きな言葉です。 ゴルフもランニングもしないしジムにも通わない私が、唯一こだわっているのは「歩く」ことです。数年前に四国八十八カ所を歩いたのもその流れです。そん…
きのうおとといと忘年会が続きました。きのうはお昼に絵画部の忘年会という名のランチ会が、同志社大学寒梅館7階のフレンチレストランWillであり、薄っすら雪化粧の比叡山を眺めながら楽しい時間を過ごしました。その帰りに河原町三条の和洋古書籍「キクオ書店」さんに寄り道して、謡本「二人静」を手に京阪電車三条駅に向かって歩いていると、三条大橋の向こうに大きな虹を見つけました。来年は何か良いことがありそうな予感がします(笑)。 おとといの夜は、大阪駅からひと駅目、福島駅界隈の聖天通商店街にあるイタリアンのお店で、現役時代の異業種交流仲間と半年ぶりの再会でした。遅くまで親交を温めました。 その商店街の入り口…
日々の慌しさの中で、ふっと我に帰る瞬間があります。誰かが目に見えない力で私にブレーキをかけようとしている。そんな瞬間を、私は大事にしています。 何かの本で、人間は独りで「生きている」のではなく「生かされている」のだという話を読んだことがあります。少なくとも社会の動きと乖離して生きていくことはできません。時間と空間の座標軸の中で、自身の存在を見定めることの大切さを学びました。「風景」という言葉を好んで使うのも、そのためです。何千年という歴史を越えて、いま目の前に広がる「風景」の中に、私が生かされているという「事実」を素直に受け止めたいと思っています。 私は時々、都会の喧騒を離れて、小さな山小屋で…
歳をとっても師走を迎えるとなんとなく慌ただしさを感じる今日この頃です。お買い物がてら自転車に乗って近くのコーナンに行く途中、2年前まで田圃だったところにススキが繁茂し、その穂が白く陽に輝いている風景に出会いました。都会地にあってほっとする晩秋の風景でした。 京都御所では、イチョウやモミジなど紅葉が見ごろを迎えています。広い御苑ですから観光地と化した神社仏閣とは異なり観光客もまばら。しばしシニア仲間たちとのんびり散策を楽しみました。 この日は午前中、「百済王らは朕の外戚なり~桓武天皇の母」と題する古代史の授業を受けたあと、午後からは水彩画に取り組みました。先日歩いた難波橋(ライオン橋)から中之島…
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