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2024/02/17

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  • デリダとハイデガー(その1)

    デリダの「精神について」(港道隆訳)は、抑圧されたものの回帰としてハイデガーの「精神」を捉えている。デリダは序論を難解にするというクセがあって、ツカミが悪いんだけど論述が進むにつれて問題が明確になると、俄然面白くなってくる。ハイデガーは「問われているもの」Gefragteを「存在」とした時点で、自らもそれが循環論だって気づいてた。なぜなら問うことFragenが存在を問うGefragteわけであり、しかも問いかけられているものBefragteが現存在なんだから、循環論であることは最初から自明なんだ。でもハイデガーが一度も問わなかったのは、まさに問うことFragenの特権的価値というか、なぜ問うことが問われなければならないのかという問いなんだ。デリダはそのことをまず指摘してる。結局のところ「存在と時間」はこの...デリダとハイデガー(その1)

  • フッサールのデカルト的省察(その3)

    現象学の他我問題といえば、ああ、例の感情移入で説明するヤツね、としか思ってなかったんだけど、それは大いなる誤解であって、先験的現象学にとって他我は死活問題でもあるんだな。先験的領域というバーチャル空間においては、経験的私の存在は判断中止されるんだけど、「かのような経験」として先験的自我の時間・空間が内部性としてあるわけだ。この先験的自我から出発して「自我の本質」に到達するには、想像によって私を様々な他人に置き換えて、普遍的自我にしていく必要がある。つまり「他我」は第二段階の形相的還元にとって必要不可欠のものになる。また、他我とは他者の志向性でもあるから、自己の志向性が他者の志向性を構成することがなぜ可能なのかが解明されなければ、志向性の本質を解明したことにはならない。以上の二つの理由で、他我問題が解決され...フッサールのデカルト的省察(その3)

  • フッサールのデカルト的省察(その2)

    フッサールが現象学的還元後の本質世界を探索するとき、彼自身が言っているように、当面「必当然性」の及ぶ範囲を不問に付して、あたかも自然科学者が経験世界を探索するのと同様の「自然的明証」で探索すると述べている。現象学でいう「地平」とは、意識対象は対象だけでなく常に対象よりも多くのものを背景にもっているということであり、そうした地平としての背景がないと対象として意識されないというものだ。例えば知覚対象の場合だとサイコロの裏面のように、対象としては見えていないけど、裏返せば見えるだろうという予期が含まれている、含まれていないとサイコロを対象として意識できないということだ。他にも過去の想起も付随している。問題は、フッサールが志向的分析の例としてサイコロをとりあげるとき、どうも具体的な経験意識の水準で分析してるとしか...フッサールのデカルト的省察(その2)

  • フッサールのデカルト的省察(その1)

    フッサールはまず、明証の種類として「十全的明証」と「必当然的明証」を区別しているんだけど、この区別はたいへん重要で、違いが分からないと先験的現象学が分からないと言っても過言ではない。だいたいフッサールはワイエルシュトラスの助手をしていたぐらいのガチの数学者だったから、書き出しは群論の定義みたいなつもりで書いているのかもしれない。「十全的明証」とは「完全性」とも言い、予測的思念とか付随的思念を伴わない充実した経験のことなんだな。この定義は、先験的自我の「生き生きした現在」の伏線になってることが分かる。つまり意識の現前としての現在は、過去の回想とか、知覚対象の裏側、等々を伴わない経験だから、予測的付随的思念を伴わないという意味で、十全な明証になるわけだ。これに対し「必当然的明証」とは、「明証において与えられた...フッサールのデカルト的省察(その1)

  • 死をどう捉えるか

    死が人間固有のものであるなら、それは言語と何らかの関係を持つに違いない。だから死は、身体の死と言語による死の二つに分かれる。身体の死は動物と同じであり、人間固有の死とは無関係だ。人間固有の死は、言語を習得する時点で既に始まっている。つまり他人の発する言葉を意味あるものと捉えた時点で、すでに自分自身を他人の言葉によって捉えていることになる。他人の言葉の中に自分が消失しているわけだ。言語を習得する前は他人の言葉は無意味な声の連続に過ぎない。無意味な声がいつ始まるともなく始まり終わることもなく続いている。それは生と同じで意味もなくただ続くだけなんだな。これを自分の言葉として発するということは、自分が言葉の創始者となることでもあり、それは他人の言葉の無限連続を中断させて新たに開始することでもある。だが言語そのもの...死をどう捉えるか

  • ドゥルーズの差異概念

    差異というと普通は対象Aと対象B,C,D,...との違いのように捉えてしまうんだけど、それは表象同士の差異であってドゥルーズの言う「差異」ではない。そうした表象的差異はヘーゲル的差異であって、必ず否定を伴う。Aの同一性はA以外のものとの差異によって捉えられるということは、A以外のものを否定しているからだ。だから差異を肯定するということの意味は、表象的差異を前提とする限りイミフとなる。ドゥルーズの言う差異は、そうした表象的差異とは別のレベルの差異だ。この別のレベルのことをドゥルーズは内的差異、本質の差異、特異点、潜在性、多様体などと言い換えてるわけだけど、なにしろ表象とは別のレベルだから分かりにくい。私見ではドゥルーズの最良の入門書はスピノザだ。まずスピノザの差異概念についてみてみよう。「エチカ」における原...ドゥルーズの差異概念

  • なぜスピノザを読むべきか

    読書が喜びであるのは、どんな本を読んでも、それまで自分の知らなかった事柄を知ることができて精神が拡大するからである。だが一方で不安もある。果たしてこの本を最後まで読むことができるか、途中で挫折するのではないか、さっぱり理解できなくて読むのが苦痛になるのではないかという不安である。だが精神が拡大するということは、それまでの自分が別のものへ変化していくことだから、そうした不安は避けられない。むしろ安楽に得られる喜びなどはただの自己確認であり贋の喜びであり、精神は拡大していない。つまり喜びは幸福ではない。幸福とは、自己の存在を維持すること(「エチカ」4部定理18備考)であり、喜びの前提条件に過ぎない。したがって幸福に大小はない。また何が幸福であるかも人によって様々だ。場合によっては悲しみさえも存在している限り根...なぜスピノザを読むべきか

  • ドゥルーズのマゾッホ論

    ドゥルーズのマゾッホ論は多くの論点があるんだけど、私なりに感銘を受けた箇所を整理してみると次のとおりである。サド世界とマゾ世界は各々閉じていて、二つの世界には何の共通性もない。それゆえマゾ世界の主体と客体をMと非Mとし、サド世界の主体と客体をSと非Sとすると、M≠非Sであり、また非M≠Sである。つまりマゾ世界のマゾヒストはサド世界の客体(犠牲者)ではないし、マゾ世界の女主人はサド世界の主体(サディスト)ではないということだ。私はマゾヒストではないので(多分)、女性に虐められて何が面白いのかさっぱり分からない。主人として非力な女性を選ぶのは欺瞞ではないか。被虐願望の本気度が足りないと思ってしまうんだな。だけどマゾ世界はそれだけで完結している。つまり真のマゾヒスト(妙な言い方だけど、谷崎潤一郎や沼正三など、マ...ドゥルーズのマゾッホ論

  • 宗教とマゾヒズム

    北森嘉蔵著「神の痛みの神学」はたいへん説得力がある。カール・バルトは北森神学に対して否定的評価を下していたようだけど、バルトの「ローマ書講解」は神と人間との隔絶がやたら強調されていて、福音というより律法臭い。北森神学の方が福音としての本来性を感じる。「神の痛み」は神の怒りが愛であるから痛みになるというロジックだ。旧約における神の怒りと新約における神の愛が十字架の痛みとして矛盾なく整合している。旧約のエレミヤ書の一節にある「神の痛み」を拡大解釈したものだけど、該当箇所はルターもカルヴァンも注目したところだから神学的伝統を踏まえたものであり、北森だけの恣意的解釈でもなければ、バルトの言う日本的特殊性でもない。むしろバルトよりも普遍的で現代性を感じる。なにより北森神学には福音の喜びがある。福音は律法のように人間...宗教とマゾヒズム

  • スピノザとニーチェの超人

    スピノザによると人間精神とは「身体の観念」であるという。この点について、どの解説書も今一つ要領を得ないので、自分なりに整理してみた。「エチカ」の公理によると「結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む」(第1部公理4)とある。だけど考えてみると、これは妙だ。もし結果の認識に原因の認識が含まれているのであれば、神は万物の原因だから、人間は現在の結果を認識することで神を認識できるはずだ。だが実際はそうなっていない。それゆえ公理の「認識」は人間の認識ではない。人間の認識は原因について非十全な観念しかもちえないと一見、第一部の公理と矛盾することを第二部でスピノザ自身も述べている。これが公理と矛盾していないとすると、「エチカ」第一部でいう認識は人間ではなく神の認識であると解するほかはない。つまりスピノザは神による...スピノザとニーチェの超人

  • 神学大全第3巻を読む

    トマス・アクィナスの神学大全は邦訳全45巻が刊行中であって、深みにはまらない限りとても全巻読む気になれない。どれか一冊となると、第3巻がお勧めだ。というのもキリスト教が他の宗教と異なる際だった特色は三位一体論にあり、第3巻がそれを徹底的に論じているからだ。実によく考えられている。これを読むと三位一体論が新プラトン主義からスピノザの実体-様態論まで関わっていることが分かる。例えばスピノザは当時の神学的教養を前提として「エチカ」を書いているから、そこでいう「知性」「観念」「本質」などの諸概念は、現代の用語理解ではなく、当時において共有されていた理解に基づかないとイミフになる。その前提を知るうえで神学大全が参考になる。「エチカ」を理解するには解説書より、神学大全第3巻を読んだ方が早道かも知れない。1・2巻につい...神学大全第3巻を読む

  • 神の無限とは何か

    神の無限という場合、それは数の無限ではないのは当然として、どういう意味での無限なのか一応の整理をしてみよう。スピノザの言う無限については今一つ分からない。特に属性の無限と実体(神)の無限との関係が分からない。数の無限なら可算無限と非可算無限について無限の水準の違いが明快だが、スピノザの無限は彼自身が否定するように数の表象ではないから、無限の無限というのが何なのか今の私にはよく分からない。これに対しアクィナスの言う無限と有限の意味は明快だ。文字どおり限定されているか否かの違いであって、質料が形相によって限定されているか、逆に形相が質料によって限定されていることを有限としている。つまり有限物とは質料と形相の複合体なんだな。これに対し質料のない純粋形相、あるいは形相によって限定されない純粋質料(第一質料という)...神の無限とは何か

  • 普遍論争

    「馬性は馬性でしかない」というアヴィセンナの言葉は何のことか、前から気になっていたんだけど、山内志朗著「普遍論争」を読むとよく分かる。だけど、そこは奥が深いので、私の小さい頭で理解しえた範囲でパラフレーズしてみよう。これは「馬性」という耳慣れない言葉に面食らうんだけど、「人間性」に置き換えると「人間性は人間性でしかない」ということになる。これだと少し親しみやすい。つまり「馬」や「人間」は普遍概念だけど、「馬性」や「人間性」は普遍概念ではないということだ。かといって個体でもない。だから馬性や人間性でしかないわけだ。では「馬性」や「人間性」とは何かといえば、普遍の原因、つまり本質なんだな。「人間性」という本質が原因で、「人間」という普遍が結果ということになる。アヴィセンナは本質と普遍を原因と結果として捉えてい...普遍論争

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