命が燃え尽きるほど人を愛した経験は、時が経ても鮮やかに甦る。ある瞬間に、命を燃やすことができた人と、そうでなかった人では、どちらが人間として幸せで、どちらが彩り豊かく、別れた後にも深く心に残り、あるいは別れたゆえに鮮やな人生を送ったか、これは疑問の余地はないだろう。ここでお終い。ご購読ありがとうございました。愛の百態ーその100
Sは脳の血流を高め、心肺機能をたかめ、記憶力をたかめ、認知機能をたかめます。さらに親密な社会関係をつくることになります。 老齢・熟年カップルの夜の世界のつぶやき
秋の夜長、ぽっちゃりとして小太りで、色が白くて肌のきめが緻密で、腰回りの張っている体つきの私。こんな夜は、ひとりでいるのがつらくなる性格なのか、知らずうちに、つい手が癖になっているところにゆく。抑えようもなく、思わず漏れてしまう声。なにかやるせない気持ちがつのる。それでも今が私だけの特別のひとときでもある。愛の百態—その2
二人はそのまま無言で抱き合い、やがてぎこちない姿勢のまま口づけをかわした。男はは女を膝に抱き上げるようにして仰向けに抱いた。女は一度は身をすくめたが、男にまた口を吸われると、自分も腕を伸ばして男の頸に巻いた。男は二人が一体になりつつあるのを感じた。が、欲望には限りがなく、男の血は女のすべてを知りたがって、いっそう狂おしく騒ぎ立てた。愛の百態ーその1
前にも言ったように、性的魅力というのは、ただ外見さえ良ければというわけではない。それに加えて、性格や雰囲気、肌合いというものが大きく影響する。むしろこちらの方が大きいのかも知れない。ですから、たとえ、夫婦間であっても、日頃の慣れで、もう少しもときめくことがない、という状態にするのではなく、つねに意識的に雰囲気を大事にする、スキンシップをこころがける、といった日常の気遣いが必要のような気がします。新鮮な感情を保つためにも
百四歳という天寿を全うしてまさ女は逝った。あの戦争が終わって、戦死したと思っていた夫が三年後に奇跡的に帰ってきたのである。夫は満州に出征した後、捕らえられてシベリアに抑留されたらしいと知らされていた。出征前から無口であった夫ではあったが、戻ってから一層無口になっていた。長い捕虜生活の中で夫の人格が著しく変貌していたのである。笑うことがほとんどなくなって、仕事につかず虚空をばんやり見つめているような時が多くなった。そんな夫を見て、まさ女は自分も生活の足しに働かねばならないと思い始めていた。まさ女は朝早く出かけると暗くなるまで働いた。昭和二五年、まさ女は三人目の子供を産んだ。待望の女の子だった。女の子は男の子のように闊達に育った。いつも二人の兄と一緒に、日が落ちるまで夢中で遊んだ。その禍事が起きたのは、二人の...マサ女のピアノ
ともに乱れることによって、二人の関係がより近づき、その結果、さらに次のより強い刺激が欲しくなる。そこにはお互いの甘えと開き直りのようなものが芽生えていて、より障壁のない性の饗宴となる。そうした世界がつくられることで、快楽の感覚はよりとぎ澄まされてゆく。忽然と時が消えゆき、絶対の停止空間が訪れる。時空間の停止状態
女の躰というものは、一度肉体の接触を持った男に対して、例えていえば、あたかも自分の産んだ子供と似たような思いで、切ない母性本能のようなものがあふれてくるものなのですよ。もちろんこれは、愛があってのことで、回数をかさねることで、相手にのめりこむようになるのです。結果、相手をより身近に感じるようになり、離したくなくなるのです。肉体的ばかりでなく精神的にもです。女の躰は
女性にはS行為の際に、はげしく乱れることははしたない、と思う気持ちがあるようです。感じすぎて乱れると淫乱な女性ではないかと思われるのが嫌で、みずから気持ちを抑制してしまう傾向がある、のではないでしょうか。しかし、この点について、男性の受け止め方はまったく違っていて、むしろそんな相手に出会うことの難しさを知っています。女性がいわゆる「いった」状態になる時ほど、男は肉体的にも精神的にも最高の快感を得ることができる、とはある経験者の話でありました。乱れるということ
エクスタシーに達するには女性がある程度性的に成熟している必要があるようです。初体験からエクスタシーを感じることはありません。ところでエクスタシー状態とはどういう状態を言うのでしょうか。体験的には興奮の頂点に達し、激しい快感とともに意識が虚ろになる、痙攣する、などの表情を呈します。このような実感を得るのは何度かの体験を通すことで性感が徐々に開発され、深まってゆくということになります。肉体的変化というものが生じるのですね。このエクスタシーを感じるようになるためには、肉体的なこともさることながら精神的な要素も大いに関係することを忘れてはなりません。成熟ということについて
自らの内に受け入れる性と放出する性とでは感覚的にも生理的にもちがいがあります。性の探検者である男はつねに未知の相手を求めようとする欲求があります。これは雄という生物が背負う宿命なのかも知れません。だから、仮に近くに魅力的は異性がいても、それだけでは満足せず、性的欲求は常に他をもとめてさまよいます。こうした男の本能的欲求を満たしてやることは至難のわざですが、答えは、女ということを意識させることですね。S行為に際しても、つねに受け身である必要はありません。自分の欲求を相手に知らせて、それを満足させることも必要かもしれませんね雄としての男の本姓
女性はムードに弱いと言いますが、本当ですよ。女性が受けいれ易い状態に誘うことは、男性の重要な務めであり、それが下手で誘うことに失敗する事例はたくさんあります。この点が男性の悩みのようですね。ムードづくりはいろいろありますが、例えば、部屋の明るさとかBGMを流すとか、さりげなく相手の横に座るとか、するのも一つの方法ですね。とはいえ、マニュアルがあるわけではなく、いくら事前にシュミレーションしても思う通りにゆかないものです。あくまでタイミングというものがあるので、女性がその気になっていても、今はダメということがあるものです。女性もその時はダメでも、誤解のないように、言葉を尽くす必要がありますがね。一度、断られたから、傷ついて、もう諦める、ということはありませんよ。ムードづくりについて
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命が燃え尽きるほど人を愛した経験は、時が経ても鮮やかに甦る。ある瞬間に、命を燃やすことができた人と、そうでなかった人では、どちらが人間として幸せで、どちらが彩り豊かく、別れた後にも深く心に残り、あるいは別れたゆえに鮮やな人生を送ったか、これは疑問の余地はないだろう。ここでお終い。ご購読ありがとうございました。愛の百態ーその100
掌の上の雪は、それを握ったとたん、たちどころに消える。愛もそれに似て消えやすい。そうと知りながら、人はまた愛を求めてゆく。男と女とが同じ方向に傾いた心を持つ時、二人は性をきっかけに結びつく。性は二人を結びつけるきっかけにすぎない。愛が終了しても嘆くことはない。その経験が、その人豊かにするからである。愛の百態ーその99
ふつう男は女性と近づきになるまでは獣のごとく荒々しい感情が体内に吹きまくるが、ひとたび女性との関係ができると紳士的になり穏やかになる、といわれる。ところが、反常識的になるが、愛をより深めるためには、親しくなるまでは紳士的にして、いったん心が通じあったら、獣のように相手を求め続ける、というのが理想のパターンなのではないか。愛の百態ーその98
若いということは未熟であることでもある。女性も40半ばを過ぎると心身ともに豊穣さを身につけることになる。凄まじい、という表現にぴったりの、命を燃やすことのできる年齢になる。熟女というのはそういう人をいうのだろう。愛の百態ーその97
恋は美しいというのは本当ではない。恋のエネルギーには嫉妬や憎しみが含まれていて、それがあってこそ燃え上がる。生々しく、どろどろとした情念が恋の起爆力になるのだ。誰か不幸にしなければ恋はかなわぬものなのか。愛の百態ーその96
適当な距離があってはじめて二人の愛はうまく成立する。去る者は日々に疎しというとおり、離れていればおのずと愛は色あせてゆく。反対に近づきすぎてひとつの壁もなくなるのも愛を壊す。付かず離れずの関係が長続きさせるコツなのかもしれない。愛の百態ーその95
男の、オスの本能ともいうべき性的好奇心は、もっと本質的な言い方をすれば、限りある命を、絶頂の感覚で燃えたたせたいと願う心から発するものである。こうした行為に走らせる根源の理由は、死への無意識な恐怖心があるからで、一見、遊び感覚で女性に接する男の心にさえ、暗い深淵が口をあけている。快楽を求める行為の底には死への本能(タナトス)がつきまとっているのである。愛の百態ーその94
第一に、ある性的成熟が必要であること、さまざまな抑圧から解放されていること、相手に心を開くことができる状態にある、などの条件がととのってはじめてエクスタシーに達することができるという。あくまで肉体的なことではなく、心あるいは脳内活動の問題だ、と言える。愛の百態ーその93
私見によれば、女性がエクスタシーを感じるというのは極めて主観的なもので、それだけに本当に自分がそうした状態に達しているのかどうかわからず、思い込みで理解しているように思える。エクスタシー状態とは、瞬間的な絶頂感に陥ることである。この状態になるためには、いくつかの条件があるが、何よりも相手との心のつながりがあることであろう。それなくしてテクニックなどで何とかするとか考えるのは邪道だ。愛の百態ーその92
さる調査結果によれば、交際相手のいる単身者の方がそうでない妻帯者より性愛欲求が強いと言う。これは何を意味するかと言うと、人は社会的に拘束される異性関係より、より自由な関係を求める、と言うことであり、自由な性愛にこそ自由が実現すると言う思いがあるからであろう。これからの社会はそう言う方向へさらに発展してゆくことを暗示している。愛の百態ーその91
すべての愛の行為は、まず自分のいつわらない気持ちを正直に相手に告げることだ。それをせずに相手がわかるはずだと思うのは、独りよがりの、勝手な思い込みである。特に、男にはこういうタイプが多い。愛の百態ーその90
アバタもエクボといわれるように、愛しているさなかは、相手を客観的に見ることはない。いわば、相手を性的な幻想のなかで受け止めているのである。ところが、ある瞬間相手に対する性的幻想をうしなうということがある。そうなるとすっかり気持ちが醒めてしまって、いままでエクボであると思っていた部分がアバタに見えてしまう。特に、男の場合これが強く出るようだ。愛の百態ーその88
恋の焔は周りの状況が悪ければ悪いほど燃え上がる、といわれる。それだけにそれを保つエネルギーは大変なもので、周囲の敵視に対して居直れる図太さが必要だ。それができない恋の焔はすぐに消える。恋愛感情は周りの条件が悪ければ悪いほど燃え上がる。不倫はもとより親が反対する結婚でも同じこと。周囲からの軋轢がかえって二人の関係を強固にする。愛の百態ーその87
お互いに愛しあっていた男女がなにかのきっかけで別れるということはままあることだ。が、肉体の絆が強いためになかなか別れないこともある。何か問題が起きてもこの絆が強いために危機を乗り越えることができる場合がある。肉体の記憶というものは想像以上に強く心に刻み込まれているのである。一般的に女性の方が強く体にとどめておくように思われる。愛の百態ーその86
女性の美しさは、若い時は当然である。本当の美しさは輪をかさねたところから発露する美しさだ。50歳を超えて生まれる美しさは本物である。ということは女性の魅力の本質は外見ではないということだ。熟成した魅力は年齢を経なければ生まれで出ないのである。愛の百態ーその85
男の浮気心というものは、男の懲りない本姓がなせるわざというしかない。常にエロスを求める男は狩人のごとく異性を探し求める。が、それが実行に移されないのは、社会的な制約があるためだ。それがいいか悪いかが問われるのは日本だけで、例えば、フランスでは成り立たない。男と女が愛し合うことは人生の主要目的として、たとえそれが道に外れていたとしても市民権をもっているのである。愛の百態ーその84
巷で見かけるカップルのなかには、どうしてあの二人は一緒にいるのだろうか、と意外に思うケースがある。しかし、それは二人にしかわからないわけがあるのだ。この二人には論理や理性ではない肉体の記憶が刻み込まれていて、それが二人の強い絆になっているのである。生活能力のないダメ男から離れられない女、本当の性に目覚めさせてくれた男、男からしても同じようなことがいえる。愛の百態ーその83
二人の内密の関係は、それが密かに秘密に満ちているゆえに、その味わいは格別のものがある。日常はさりげなく過ごしているが、ひとたび、その時を迎える際には、日常が失われ、非日常ともいうべきめくるめく関係が醸成される。このなんと見えない瞬間は当事者でなければ分からない。だから、再び、その機会を求めることになる。愛の百態ーその82
もう年だと思いつつも、なぜかカラダの芯から訳のわからない魔性のような、生への欲求がが蠢き出るのを何とも処理し難くて、それを温めつづけている。それが生きている証拠なのだろう。生きている限りその気持を失わないでいたい。無性に肌と肌が触れ合うことへの欲求が芽生える。愛の百態ーその81
老齢の異性に対する関心というものは、残った命への抑圧を排除したいと思う強い願いであり、また命への讃歌でもある。それは神聖な生命の輝きでもある。いっぺんだけしか生きられないのに、こんなことでいいのか、という心のそこから沸き起こる欲求である。限りある命の自覚
すっかり満たされた行為の後、いまのオルガスムが絶対のものと思える時がある。しかし、それもいっときのことで、時の経過とともにその時の感触はうすらいでゆく。振り返ってみれば、あれは一瞬の幻想のようなものであったと思えるのだ。そうと知りつつ、またあの時の感触が忘れられず、絶対の境地を求めるようになる。命が燃え尽きるほどの充実感は他のこととは代えることのできない悦びであるのだ。躰に刻まれる絶対感
恋をすることで人は自分をよりよく知ることになる。今まで知らなかった自画像を。意外に真面目なんだなとか、気弱なんだとか、悲観的なんだなとか、好色なんだとか、それまで知らなかった自分を知ることになる。それによって相手をより知ることになり、人間への関心もたかまる。どんなかかわりであっても、心があり、感情がある人間には、そのステップが不可欠なのだ。自分を知るためにも
読書の醍醐味は、心折れる現実からの逃避願望と別の自分になる変身願望が満たされることであり、これは何ものにも変えられない自由であり、権利でありましょう。特にラブストリーにおいては。例えばこんな場面で「二人の間には危険で甘い匂いが立ち込めはじめていた。いま彼女の躰にふれても拒みはしまいと男は思った。男の中に芽生えた雄の本能がむらむらと沸き起こった。」というような下りで。読書の醍醐味
まずは、性的欲求。男性も女性もめぼしい相手を探している時、男性ホルモンのテストステロンにより性欲が引き起こされる。次に、恋慕。ある特定の一人に恋焦がれている時は、ドーパミンが高まっていることが多い。そして、愛着。母性のホルモンであるオキシトシンが増えると、カップルの絆が生まれる。という具合に、躰はひとつのリズムをもって躍動してゆくのである。躰のリズム
特に女性は自分の年齢に線をひいてしまって、もう恋愛は無理とか、S行為は考えられないと、自分の気持ちを封じ込めてしまっている人が多い。そうすることで、男性が近づいてこなくても傷つかないようにしているフシがあります。ですが、男性からみると年齢はそれほど絶対的なものではなく、魅力ある女性であればその気になる、ということのようです。日本の場合、過度に道徳的であり、世間体を気に過ぎますね。そんな考えを捨てて、もっと自分に正直になった方がいいように思います。年取ったふりをしてそれに安住する安易な生き方ではなく、もっと挑戦的になるべきだと思いますね。もっと前向きに
成熟した性というものは、ある程度年齢を重ねないと育まれないものです。ですから熟年女性の方がはるかに感受性が豊かなんですね。そうしたS行為を好むことを「好色」といいますが、若い女性に夢中になっている状態では、これはまさに「好色」以前で話になりません。熟年で、肉体的美徳があふれた女性こそが魅力なのです。殿方はこのことをわきまえることです。また、女性は躰の線を気にするなどということはやめて、性感を高める努力をするべきなんです。いわゆる好色について
男はみんな若い女性がいいと思っているフシがありますが、若いということはまだか躰が未熟ということで、案外味気ないものだ、ということがいずれ分かります。まだ開花されていない女体は快感を感じることが鈍いのです。そうじて若い女性とのS行為は味わいがなく、殺風景なのが定石です。見栄えはよいが味のない料理のようなものなのです。よほど未熟な男は別としてただ若い肌に接するとか、見るだけではいずれ飽きがきてしまうものです。開花する女体
濡れるという現象は、かならずしも感じている、ということではない、ということを男性諸氏は知っていないようです。女体は不思議なもので、膣を濡らすことで、自己防御をする場合があるということです。これは意識的になされることではなく、躰が自然にそうなる、という本能的なものです。従って、S行為の際には、当の本人に、「気持ちよいうかどうか」を確認する必要があります。一方的に、思い込んで行為に至ると女性が痛みを感じることになります。そうしたうえで、快感をともなった濡れる状態になった時に溢れ出る、いわゆる愛液というものを解説すると、これには4種類あって、膣の入り口、中、奥からと出る場所を異にするのです。濡れるはかならずしも、感じている、ではない
相手に興味をもちはじめた女性は、相手の恋愛経験を聞いたり、今、誰かと付き合っているのかと、いろいろ相手の女性関係を知りたがる。そうした過程で安心感がはぐくまれ、しだいに相手にのめり込むようになる。そうなれば、今まで控えめだった態度がかわり、積極的になる。はじめはキスや手を繋ぐだけだったのに、それ以上の行為を厭わなくなる。こうして主導権が女性の側に移り、より積極的に相手に行為を求めることになる。さらに一線を超えた時、女性は自分の欲求を満たすことに貪欲になり、より深い快楽を求めるようになる。豹変する女性
いわゆる善がり声は、自分のことはさしおいて、人によって千差万別だ。どうしてこうもいろいろ異なるのだろうと思うが、異なるなかにも、より男を興奮させる声というものがあるようだ。女性の口から漏れる甘美な喘ぎ声は、男性にとっては何よりも強烈な興奮のタネなり、思わず男性のそれが硬く勃起する。やがて、「善がり声」は「よがり泣き」へと高揚する。ある時はしくしくとすすり泣き、ある時はしゃくりあげるような、吠えるような声になり、イクあるいはダメを連発しながら絶頂へと向かう。善がる声について思うこと
男性のオーガスムの究極は射精にあるとはいうものの、その男性の求めに応じて、ただ受け身的に身をまかせるのでは苦痛に等しいかも知れない。お互いのコミュニケーションを深めるという意味でも、こちらの欲求も相手に伝え、共に快楽のるつぼに没入することが大切なことだと思います。相互の愛の表現で
好物が年齢とともに変わるのはたしかにある。例えば、海鞘(ほや)は若い時は食べられなかった。あの感触がなにかゲテモノを食べるようで嫌だった。それが不思議なことに中年を過ぎる頃から海鞘を口にできるようになった。むしろ、積極的に食べてみたいと思うようになった。あの柔らかなぬめっとした舌の感触が好きになった。独特の匂いもあるし、クセがあるのだが、それも惹きつける理由になる場合もある。海鞘がアレに似ている、というのが夫の見解である。似ていて非なるもの
女性はS行為に関しては受け身でなければならない、という世間的な味方がある。それに反して、女性の側から積極的に行為を申し出ることははしたないという見方がある。でもそんなものだろうか。女性の側からいろいろな要求を出し、欲しいものを口に出すことによって、それを叶えてもらうこと。それによって、より深い快楽を得ることができるし、満足感が残るものなのだ。S行為はコミュニケーションを深めることであり、快楽の共有でもあるのだ、ということを忘れないで欲しい。女性は年齢に関係なくセクシュアルであるべきなのだ。欲しいものを口に出せる愛の行為
女ははプラスマイナスの計算をする。そして、人生から今まで窮屈な制限ばかり押し付けられていたこと知ってゾッとする。自分のものだったこの短い幻滅の生涯を前にして、もどかしい未来を前にして若い娘と同じ行動をとる。彼女は自分の有限性を拒止するのだ。彼女は生活の貧しさに比べつつ、自分の人間を素晴らしく豊富なもののように想像する。女として、多少とも受け身におとなしく宿命に従ってきたことを、機会を略奪され、騙され、知らぬ間に青春から老境へ滑り込んでしまったと思う。「わたしはいっぺんだけしか生きられないのに、こんなことになってしまった」その時、周囲の者をびっくりさせるような変化が彼女に起きる。新たな青春が芽生えるのだ。新たな女の誕生
その雅な響きに惹かれて、宗男は越中の小京都と呼ばれる城端(じょうはな)を訪ねた。訪ねたもうひとつのわけは、風の頼りに聞いた、そこに住むであろうと思われる、ひとりの女性の足跡を探し求めるためもあった。宛のない人探しではあったが、町筋を歩くほどに、もしかしたら逢えるかも知れない、という淡い期待があった。あいの風鉄道、高岡駅から城端線に揺られること50分ほどで終点の城端駅に着く。駅から街中へは10分ほど歩くことになるが、街の北側を流れる山田川を渡り、御坊坂をのぼりつめたあたりから、町並がひらけてくる。地元の観光パンフレッドがこの街を「情華舞歩」として紹介しているのにふさわし佇まいである。右手に、いかにも荘厳なたたずまいの寺域が現れた。善徳寺と記された看板が見える。道を回り込んでから、さっそく山門から境内に足を踏...まぼろしの彼の人を求めて
待つということに関しては男は女にかなわない。それは女性の身体の構造からそうなるのだろうが、それは男の瞬発力に対して女の持続力ということになる。女の持続力
女が惹かれる男の体の部分とは1)手指2)目3)腕4)お尻5)背中だそうだ。なぜそうなるかといえば、良い遺伝子を残す為の本能的な女性の選択眼がはたらくかららしい。それだから、いかに相手に男性ホルモン(テストステロン)が強くあるかないかを瞬時に判断しなければならないということになる。無意識のなかでオスの本質を見極めるべく行動するというのがおもしろい。女が惹かれる男とは
現在のように閉鎖的になりやすい社会にあっては、みなそれぞれが鎧を身につけて生きている。あるいはハリネズミのように危険から身を守るために防備する。が、そうした姿勢では人間関係を深めることができない。ほんとうは誰かを愛したいと考えている、あなた。ではどうしたら?よりよいパートナーを選ぶためにも、まずは、みずからの性格や好きなこと、興味をもっていること、さらに自分がどんな人生を送ってきたか、などを率直に相手に伝える必要がある。そうすることで、相手の心も開き、話がはずみ、交際が持続し、より深い関係へと飛躍してゆく。依存しあう関係では真のパートナー選びはできない、という気がする。パートナー選びは
肌と肌の触れ合い、ボデイランゲージに勝るものはない。中途半端な言葉、表面の言葉では分かり合えなくとも、ボデイランゲージによって理解が深まるのである。とはいえ、女の躰は微妙だ。たとえ同じ行為でも、好きな人に抱かれるのと、嫌いな人に抱かれるとでは天と地の違いがある。行為そのものは同じでも、一方では例えようもない快感を味わうのに、他方では我慢ができないほどの苦痛と嫌悪感に襲われる。ボディランゲージの大切さ
男女の関係を新鮮に保つためには、適当な距離をつくっておくことが必要だ。強い絆で結ばれていた愛も離れすぎれば薄れるし、近づきすぎれば鬱陶しさがつのる。二人の間には侵すべからざるものがある。そんな壁のようなものがあったほうが、新鮮で爽やかな関係を持続させることができるように思う。離れて相手を見るときと、身近で見るときとでは、案外評価がかわるものだ。日常という惰性のなかにいるよりか、たまに逢うことで勃起する強い欲望のほうが新鮮だ。適当な距離をおいた愛