山下大将は、ラウレル大統領に既にバギオへの移転を勧めていましたが、このときは大本営からまだ正式にルソン島決戦の許可が出ていませんでした。大本営から許可が下りるだろうルソン島持久作戦に移行する直前に、山下大将・武藤参謀長は、最後の、本当の最後の「念押し」
我が国の近代における軍人エピソードを中心としたブログです。 特に山下奉文陸軍大将と武藤章中将を取り上げていきますが、それ以外の方々や事柄についても触れていきたいと思います。
山下大将は、ラウレル大統領に既にバギオへの移転を勧めていましたが、このときは大本営からまだ正式にルソン島決戦の許可が出ていませんでした。大本営から許可が下りるだろうルソン島持久作戦に移行する直前に、山下大将・武藤参謀長は、最後の、本当の最後の「念押し」
村田省蔵『比島日記』の1944年12月16日(土)以降の記載から経緯をみていきたいと思います。この日、村田大使は第十四方面軍司令部を訪問を訪問予定でしたが、空襲のため中止となり、午後に、田尻愛義公使から「宇都宮の顔を立てるため、第十四方面軍司令部を訪問するのはや
武藤章「比島から巣鴨へ」では、12月15日ぐらいに大本営作戦部長・宮崎周一少将が第十四方面軍司令部にやってきたのを契機に、山下大将と武藤参謀長が密かに計画していたルソン島作戦を明らかにできるようになったと書いてあります。比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一
この言葉は、田尻愛義公使に対して、山下軍司令官が発した言葉です。ロハス(1892-1948)は、のちにフィリピン共和国の大統領となる人物です。山下大将は、あれだけゲリラを拘束しないことをラウレル大統領と約束しているにも関わらず、どうしてもロハスは拘束し、暗殺してお
村田省蔵大使『比島日記』 1944(昭和19)年12月15日の記載です。この日の朝、宇都宮直賢参謀副長が訪問してきたときに、前日にあったこととして、先日憲兵が拘束したゲリラ(匪賊)の頭目モラン大佐の陳述に基づき、それに連なる者として、ロハスなどをを逮捕したいと、憲兵
1944年12月11日(月)この日の村田省蔵『比島日記』を読んでみたいと思います。朝、村田省蔵大使のところに、宇都宮直賢参謀副長が訪問していうことには「ラモスについては上司(山下大将・武藤参謀長)にかなり苦言を呈したにも関わらず聞き入れてもらえなかったから、愛国
山下大将とラウレル大統領が、愛国連盟の結成式以来に顔を合わせることとなりました。当然山下大将は武藤参謀長から経緯は聴いていることでしょうがどのような会談になるのでしょうか・・・。村田省蔵「比島日記」1944(昭和19)年12月10日の記載によるとラウレル大統領は村
愛国連盟の結成式の翌日です。この日は、一週間前から、武藤参謀長がラウレル大統領を訪ねる日となっていました。その前に昨日の愛国連盟の結成式に関して村田省蔵大使は、田尻愛義公使とレクト外相を呼んで、武藤参謀長が来る前に昨日の状況を改めて整理しました。この時に
1944(昭和19)年12月8日(金)村田省蔵大使は、ラウレル大統領を午前中に訪問し、その帰りに田尻愛義公使を訪問し、田尻愛義公使を第14方面軍司令部に行かせて武藤参謀長と直ちに討議をさせようとしました。田尻愛義公使によると、武藤参謀長でさえも、愛国連盟の規約につい
前回のエントリーでは、村田省蔵大使から山下軍司令官に対して、かなりシビアな通告がされました。それでも山下大将は愛国連盟の結成式を執り行うこととしました。軍政の関係者の間も何かと緊張が高まっているように見える中今回は、タイトルだけは「流石に武藤なりと賞賛し
前回のエントリーでは武藤参謀長とラウレル大統領が会談をしたが、不調に終わったことを書きました。その後の話になります。今回は、村田省蔵『比島日記』昭和19(1944)年12月4日条を中心に読んでいきます。村田省蔵大使は、この頃のアメリカ側の雑誌にマニラ湾が「日本艦船
村田省蔵『比島日記』の1944(昭和19)年11月27日の記載によると前日の日中、桜兵営(第十四方面軍司令部)からの帰宅時にみえた道路普請に従事する女子労働者の姿があったのに、夜の11時頃には相当激しいピストルと小銃の撃ちあいの音が聞こえ、日本の憲兵隊、警察隊とゲリ
山下大将と武藤参謀長も、村田省蔵大使の来訪を求めているので、1944(昭和19)年11月26日、村田大使が桜兵営を訪問します。その前に村田大使は、朝の7時30分からラウレル大統領と会っています。一緒に朝食をとった後、ラウレル大統領一家が朝のミサに与る時間を待ってゴルフ
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山下大将は、ラウレル大統領に既にバギオへの移転を勧めていましたが、このときは大本営からまだ正式にルソン島決戦の許可が出ていませんでした。大本営から許可が下りるだろうルソン島持久作戦に移行する直前に、山下大将・武藤参謀長は、最後の、本当の最後の「念押し」
村田省蔵『比島日記』の1944年12月16日(土)以降の記載から経緯をみていきたいと思います。この日、村田大使は第十四方面軍司令部を訪問を訪問予定でしたが、空襲のため中止となり、午後に、田尻愛義公使から「宇都宮の顔を立てるため、第十四方面軍司令部を訪問するのはや
武藤章「比島から巣鴨へ」では、12月15日ぐらいに大本営作戦部長・宮崎周一少将が第十四方面軍司令部にやってきたのを契機に、山下大将と武藤参謀長が密かに計画していたルソン島作戦を明らかにできるようになったと書いてあります。比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一
この言葉は、田尻愛義公使に対して、山下軍司令官が発した言葉です。ロハス(1892-1948)は、のちにフィリピン共和国の大統領となる人物です。山下大将は、あれだけゲリラを拘束しないことをラウレル大統領と約束しているにも関わらず、どうしてもロハスは拘束し、暗殺してお
村田省蔵大使『比島日記』 1944(昭和19)年12月15日の記載です。この日の朝、宇都宮直賢参謀副長が訪問してきたときに、前日にあったこととして、先日憲兵が拘束したゲリラ(匪賊)の頭目モラン大佐の陳述に基づき、それに連なる者として、ロハスなどをを逮捕したいと、憲兵
1944年12月11日(月)この日の村田省蔵『比島日記』を読んでみたいと思います。朝、村田省蔵大使のところに、宇都宮直賢参謀副長が訪問していうことには「ラモスについては上司(山下大将・武藤参謀長)にかなり苦言を呈したにも関わらず聞き入れてもらえなかったから、愛国
山下大将とラウレル大統領が、愛国連盟の結成式以来に顔を合わせることとなりました。当然山下大将は武藤参謀長から経緯は聴いていることでしょうがどのような会談になるのでしょうか・・・。村田省蔵「比島日記」1944(昭和19)年12月10日の記載によるとラウレル大統領は村
愛国連盟の結成式の翌日です。この日は、一週間前から、武藤参謀長がラウレル大統領を訪ねる日となっていました。その前に昨日の愛国連盟の結成式に関して村田省蔵大使は、田尻愛義公使とレクト外相を呼んで、武藤参謀長が来る前に昨日の状況を改めて整理しました。この時に
1944(昭和19)年12月8日(金)村田省蔵大使は、ラウレル大統領を午前中に訪問し、その帰りに田尻愛義公使を訪問し、田尻愛義公使を第14方面軍司令部に行かせて武藤参謀長と直ちに討議をさせようとしました。田尻愛義公使によると、武藤参謀長でさえも、愛国連盟の規約につい
前回のエントリーでは、村田省蔵大使から山下軍司令官に対して、かなりシビアな通告がされました。それでも山下大将は愛国連盟の結成式を執り行うこととしました。軍政の関係者の間も何かと緊張が高まっているように見える中今回は、タイトルだけは「流石に武藤なりと賞賛し
前回のエントリーでは武藤参謀長とラウレル大統領が会談をしたが、不調に終わったことを書きました。その後の話になります。今回は、村田省蔵『比島日記』昭和19(1944)年12月4日条を中心に読んでいきます。村田省蔵大使は、この頃のアメリカ側の雑誌にマニラ湾が「日本艦船
村田省蔵『比島日記』の1944(昭和19)年11月27日の記載によると前日の日中、桜兵営(第十四方面軍司令部)からの帰宅時にみえた道路普請に従事する女子労働者の姿があったのに、夜の11時頃には相当激しいピストルと小銃の撃ちあいの音が聞こえ、日本の憲兵隊、警察隊とゲリ
山下大将と武藤参謀長も、村田省蔵大使の来訪を求めているので、1944(昭和19)年11月26日、村田大使が桜兵営を訪問します。その前に村田大使は、朝の7時30分からラウレル大統領と会っています。一緒に朝食をとった後、ラウレル大統領一家が朝のミサに与る時間を待ってゴルフ
村田省蔵『比島日記』の1944年12月16日(土)以降の記載から経緯をみていきたいと思います。この日、村田大使は第十四方面軍司令部を訪問を訪問予定でしたが、空襲のため中止となり、午後に、田尻愛義公使から「宇都宮の顔を立てるため、第十四方面軍司令部を訪問するのはや
武藤章「比島から巣鴨へ」では、12月15日ぐらいに大本営作戦部長・宮崎周一少将が第十四方面軍司令部にやってきたのを契機に、山下大将と武藤参謀長が密かに計画していたルソン島作戦を明らかにできるようになったと書いてあります。比島から巣鴨へ―日本軍部の歩んだ道と一