■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
①苦しいのは、現実を否定しているからだ。一切皆苦とは、現実の否定の苦しみである。欲望(=100点)から見た現実(の無=0点)の否定(=マイナスの自己評価)であるから、(自分には価値がないと思い)苦しい。※現実は、欲望から常に離れているから、これ以上
善さを与えられるために参加するなら、そんな(思いどおりの)ものは(存在し)無いので、思いどおりに与えられない現実を否定して苦しむことになる。善さを与えるために参加するなら、善いことをした場合に限り、善さで現実を肯定して幸福を感じることができる。
気の合わない人とは、縁を切ってしまえばいいという、現実を否定する考え方では、否定の苦しみが生じてしまいます。また、(現実を否定したままですと)逆に自分もそういう風に周りに扱われているという自責(疑心暗鬼や被害妄想)になってしまいます。嫌な人とは縁
会話も他責の一種(他者の注目を自分に引かせる行為=他者の時間や労力の負担になる行為)となる。よって、他者の負担をカバーできるような、善さや善いことのみを言う・行う(善い言い方も含む)必要がある。善さや善いものが無いなら(善さを与えないなら)黙って
現実を否定する苦しみを消して、現実を善さで肯定する幸福の方法(ただ生きるのではなく、善く生きること)①現実の都合が悪いではなく(現実の無を否定するのではなく)②現実に都合が良いものは無いとする(現実の無を受容する)③現実には善さが有るし、
人は、悩み苦しみ抜いた後にやっと気づくんだよこの世には(自分の思いどおりになるものなんて全て)無いんだとね無いことが分かって始めて、この世に有るものの善さに気づく。だから善さに笑えるようになるそれに気づくまでに、悩みと苦しみのあまり、おかしくな
◇現実を否定するから苦しむ◇現実を否定しているから(現実の自分を否定しているから=自己肯定感が低い・マイナスであるから)=現実を受け入れていないから、苦しむ。現実とは:客観的事実(個人の好みに関係せずに決まること)否定とは:主観的感想(個人の好み
酔うと脳機能が麻痺し(低下し)て、本能的な苦しみの機能(旧皮質・脳髄)も鈍くなる、から苦しみを忘れることができる(=陽気になる)。酔いが覚めれば(脳機能が復活して)苦しみも戻るので、苦しみを忘れるために酒(=脳神経系に麻痺作用のある広義の薬物)を摂取
ーロシアが戦争と経済制裁があるのに好景気だと報道されていることについてー戦争って、無能を(金銭で釣って)戦場送りにして合法的に処分できるし、戦時下だからという理由で経済的弱者への社会福祉や支援を減ら(して、軍事事業を始めとした公共投資にまわ)すことが
メンタルをケアする(苦しみを消す)ために、無意識を納得させるには、無意識に善さを気づかせる必要がある。無意識に気づかせるは、時間はかかるが、問題となる現実の(ひとつでもいいので深い)理由を・主観的感想(好き嫌い)を抜きにして・客観的事実(現実に起
苦しみ(心の痛み)があると、辛い(ストレス)ので、生活や行動に支障が出ることがないように苦しみ(心の痛み)消すことが必要になる苦しみの原因は、思いどおりにいかない現実を否定している=自分を否定している=自己肯定感がマイナスになっている、から。
善いことのみを行うのが(自分の幸せにとって)いいことです。 人生の結果は(みんないずれ死ぬので)無ですが、(人生の過程において)善いことした場合に限り、善さ(価値)が残(り、自己の価値=自己肯定感をプラスにできる=幸せになることができ)るからです。
ただ(結果のために)生きるのではなく、(人生の過程において)善く生きること人生は原則として無であるが(すべていずれは死ぬから)、善く生きれば、善さ・価値が残るから、人生は無駄ではない(無ではあるが駄目ではない)善く生きれば、善さ・価値が生まれ
《善いこと》知性の善さ:未知を既知とする活動(善の目的を伴う研究や調査)が、知性の善さである認識できていないことを、認識する活動(善の目的を伴う哲学的な思索)、が知性にとって善いことである肉体の善さ:運動する、体を鍛える、睡眠を取る、栄養を取る
ーゲームと苦しみーこのゲームは苦しみを煽ることばかりだ。なぜなら、勝負に負けた結果、負ければ無どころかマイナスだから、・他者評価の無と負の苦しみ(負けると無点どころか減点される)・他者の無の苦しみ(相手運と味方運が無い)・自分の無の苦しみ(自分
ただ生きるのではなく、善く生きること〈人生の目的〉人生の目的は、幸福である=幸福とは、自分に善さ・価値があると感じている状態=自己肯定感が有る=善さ・価値に気づいている 善さ・価値を与えている=善く生きる=善い行いをする:活動による善
人生の結果は無ではあるが、人生の過程は無駄ではない過程も無ではあるが、駄目ではない結果の帰結は死(という無)であっても、過程で善いことをした場合は、善さ(価値)は残るから、駄目ではないのだよって、善いことをしなさい
どうせみんな死ぬんだし、最初からみんな無いものとして扱えばいい・みんな=「他者」と「自分(の卓越性)」・どうせ死ぬから=「他者」と「自分」の人生の結果は、全て平等に死ぬこと、無になること・最初から無いものとして扱う=「他者」の無常と「自分」の無我
世の中には、自己肯定感が低くくて苦しいあまりに、他者を貶めて(=他者攻撃をして)、優越感に浸りたい(=一時的に承認欲求を満たして苦しみを和らげようとする)人が、たくさんいるので(人は本能的にそうしがちなので、自分もそうならないように)気をつけよう。そ
有神の宗教※は、神が有ることを心の拠り所とする。神がいるから、自分が神に認められるために善いことをする。→確実なものは、神である。→神の定義についての争い(宗派争い)が生まれやすいし、他者間の権威権力争いもある。※キリスト教、イスラム教、バラモ
他責的で、プライドが高く、否定的な人の正体(心理)とは、自己肯定感が低(くて苦し)いから、自分を(苦しみから)守ろうとして、他責(否定・悪口・嫌み・嫉妬・マウント・ハラスメントなどの他者攻撃)や自責(卑屈、自虐、被害妄想、自己嫌悪、自暴自棄)をする人で
面白いことは嫌なこと(厄)からも生まれる嫌なこととは、役に立つこと、面白いことの新しい気づきとなる→笑いになる嫌なこと(一切皆苦:本能的な共感を呼びうる→悲劇的な話題)も(現無仕受)、・嫌なことの中にある、善いことの新たな気づき(現有新気)や、
①一切皆苦生きることは苦しみであり、苦しいからこそ生きてこられた②現無仕受「現実には、自分にとって都合のいい他者は無いこと(無常)」と、「特別な自分も無いこと(無我)」が、「当たり前」なのだから、そうなるのは「仕方がないと受け入れる」こと②現有新気
どのようなタイプや性格であっても、生きづらさ(苦しみ)への対処法は一緒で、「現実には、自分にとって都合のいい他者は存在しない」のが「当たり前」なのだから、そうなるのは「仕方がないと受け入れること」なのかなと思いますね(心理学でいうアクセプタンスです)
気にくわない他者が、苦しみで不幸であるとか、報いを受けると考えようとしている時点で、・他責(他者攻撃)であって、・他者に自分の機嫌を取ってもらおうとしており、・現実を受け入れていないから、あなたも苦しみに囚われたまま(不幸なまま)なんです他者
自己肯定感を上げる各段階と仕組み(メモ書き程度に言語化)【現実の否定の段階(心の苦しみの段階)】生きている限り、本能的な(他者評価を求める)欲望がある→思いどおりにいかず(他者評価が与えられないので)、現実を否定してしまう→自己肯定感がマイナス
(他者評価が思うように(100点)得られないことに苦しむ) ↓他者評価は原則として無い(0点)↓1点は自分で生むしかないし、この1点(自分で生んだ価値:自分の知性・自分の肉体、他者への貢献)のみが自己肯定感となるーー無の概念ーー他者評価を求め
幸せ(自己肯定感が正であること)には、2種類ある。①価値を与えられる幸せと、※他者から価値(他者評価)を与えられる幸せ②価値を与える幸せである。※自分の知性に価値を与える幸せ(気づき・知識・経験)※自分の肉体に価値を与える幸せ(運動・筋トレ)
苦しみ(痛み)とは、致命的な状況を避けるという意味で、生きるために必須なのだ。体の痛みは、外傷で死なないようにしている(痛みがなければ回避行動が取れず、大怪我をして死に至る)ように、心の痛みは、人と自分と距離が離れすぎて(他者評価が得られず、経済的に
☆認知行動療法の一種である「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT/アクト)」を、哲学(仏教の一切皆苦・諸行無常・諸法無我、アドラー心理学の他者課題と共同体感覚、アリストテレスの活動説と最高善)と絡めて説明する☆①現実に苦しむ(負・マイナス・
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■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
ある事件や事故を起こした人の問題行動の理由を説明するのに・優秀な人だから・真面目な人だから・金持ちだからという、特定の目を引く性質を理由に問題行動を起こした、と言うのは間違っている。これらの不快な記事は、ライター側が読者の関心を引くために仕掛け
①外から与えられたものはすべて喜ぶ、感謝する・空即是色(自分の外には何も無く空であるなら、すべてのものは奇跡的な幸運の産物であり、よって、すべての物欲はすでに満たされている)・欲望の幸福(外から与えられる幸福)の『幸運に』感謝する・幸運とはなかな
この世の全てが「 」(無や空)であるならば、この世の全ての物が有ることは全て奇跡(幸運)の産物であり、愛情の対象となる。有ることが難しい奇跡的な物への(有り難うという言葉のとおりの)感謝や慈しみとなる。物欲(客体への欲望)も、無や空がベース(本来の、根
①色即是空:物(色)への欲(物欲)は苦痛しか生まないため、物欲が生まれたら、これを、自分より外から与えられるものは無く、すべてが空であるとして捨て去る。すべての物(色)が無いとすれば、(理想や願望も空であり、現実(もまた空であるから)とのギャップも生
□欲望を捨て去るために欲望を完全に捨て去るなら、自分の外から入ってくるものは、全くないものと思い(外には何も無い)、自分の内から外へ出ていくものしかない(自分のみが確実に有る)、と思うほかない。ゲームだって、無から考えれば、ゲームがあって、
■承認欲の強い人は必ず苦痛を感じ不幸になる人から認めてもらいたい欲求(承認欲求)を持ってしまうと、自分の力で自分のことを認めることができなくなって、自分だけでは、自分に価値があると思えること(自己肯定感を得ること)ができなくなってしまう。代わりに、
真面目な人が、ストレスのせいで問題行動を起こして転落するのではなくて、(承認欲求が強いせいで、外面が良くて)真面目な(ように見える)人が、承認欲求の苦痛のせいで問題行動を起こして転落していくのだ。しかし、本当に真面目に会社のために頑張って貢献しようと
承認欲求とは、子供が生き延びるための本能であるから(自活できない子供が、親や周りの他者から、可愛い子供であると認知されて、食べる物などを与えられて生き残るための欲望であるから)、自活できる(ようになる代わりに子供の持つ可愛さを失う)大人がいつまでも持つよ
気分の浮き沈みがあるとしたら、それは、・欲望が満たされたから一時的に気分が良くなっているか(自己肯定感がある・高い)、・欲望が満たされなかったから気分が悪くなっているか(自己肯定感がない・低い)、のどちらかの心理状態を、日常生活の中で揺れ動いている
点を取りたいから勉強をするのではなくて(点を取って他者よりも上に立ちたいという欲望ではなくて)、この世の中の仕組みを理解し(てあげ)たいから勉強をする(理解をしてあげる、知識を身につけて役に立てるという理性である)ことだ。点数がとれるかどうかは、そ
日本を含む先進国で精神疾患が多い理由は、欲望(承認欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすことが人生の幸福である、という価値観が推奨され広く浸透しているからです。しかし、幸運に恵まれ(続け)ない限りは、欲望を満たし続けることはできないので、欲望の幸福の屋台骨
○行為だって、自分の欲望を満たすからではなく、□の役に立つという理性を満たす気持ちでやることだ。□を理解する・□に優しくする・□に興味を持つ・□に愛を感じてもらう・□にひとりではないと感じてもらう。○欲は、欲望なので苦痛と不幸にしかならない。
欲望は苦痛しか生まないから捨て続けること。この世の全て(外界から自分に入ってくるものは)利己的・欲望的なものだ。よって幸運や他者課題に恵まれなければ、欲望の不満の苦痛により不幸(欲望を満たせない自分には価値がないと思う状態)となる。利他的・理性的
欲望とは、欲望の苦痛を自分に与えて、欲望の理想へ向かう行動を強制させ続ける仕組みである。そして、欲望の理想を獲得するには、幸運や他者の評価・人脈などの他者課題が必要となる。よって、人間は、生きている限り、欲望の苦痛に苛まれ続ける。生まれながらに
!欲望は苦痛になるので、勝ち負けは考えない。負け続けることもあるのが当たり前の事実だと現実を受け入れる。苦しみたくなくば欲望を捨てよ。!自分の技量を実行すること、技量を確認することだけを快感とする。技量が行えれば(行えなければ)、その結果で勝とうが
この世の全て(外界から自分に入ってくるもの)は利己的なもので溢れている。よって幸運がなければ、欲望の不満の苦痛により不幸となる。利他的なものとは、自分から外界に対して出していくものだけだ。自分の意志と善の活動により、役に立てる、理解してあげる、優
現代社会で各種ハラスメントやうつ病患者が増えている理由について、そのメカニズムを以下に記載しておく。■人は不満があれば簡単に他責や自責をしてしまう他者からの関心、注目、評価をもらえず、承認欲求が満たされないと、人から注目されない自分には価値がな
幸福になるというのに、愛嬌やコミュ力が必要だと考えていると、運悪く自分より愛嬌や能力がある他者が出てきたり、運良く理解者があらわれなかったり、自分が愛嬌や能力を保てなくなったら、幸福の屋台骨が崩れて、すぐに不幸の沼に沈むというのに、そんな(承認欲求という
円安も増税も貧困も、自分では制御できない外的要因である。自分の力が及ばない運要素に頼るものについて悩んでも仕方がないし、不満をためるだけ思考と時間の損だ。①利己の幸運があったことに感謝する②利己は捨てる(幸運がある理想の諦め、幸運がない現実の受
■他責他者を責めて(下げて)、自分の方が特別に優れていると思い、他者の関心(尊敬、恐れ)を引こうとする承認欲求の表れ■自責自分を責めて(下げて)、自分のことを特別に悲劇的だと思い、他者の関心(同情、憐れみ)を引こうとする承認欲求の表れ■他責と