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私がFPになった理由について、経験してきた出来事を通して感じ、考え、行動したことを書きました。また、おひとり様ゆえの悩みや問題もあります。 このブログが皆様のより良い日々を過ごすための”きっかけ”となれば幸いです。

おひとりさまFPたかちゃん
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2023/03/21

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  • {138}エピローグ

    それは、あるセミナーのワークショップで突然に起こった。 今日はどんな新しい知識が得られるのかとワクワクしてその場に臨んだ私は、講師の話が進むうちに自分のカウンセリング体験を思い出していた。 (ファイナンシャルプランナーになりたい)と思ったきっかけが、私の生い立ちと切っても切れないのだから当然と言えば当然であった。 【NLP心理学】はカルチャーセンターですでに受講経験があり、そこでは自分の考え方の癖や他者とのコミュニケーションについて学んでいた。だから復習といった感じで講師の話を聴いていたのだった。 記憶が薄れて曖昧になった知識を繰り返して学ぶことの重要性を改めて考えていた時、ワークが始まった。…

  • {137}最終章 おひとりさま(4-5.母 逝く)

    後見人の行政書士が『世話になったデイサービスから預かって来た』と言って、アンパンマン人形とスタッフの寄せ書き2枚を渡してくれた。 その色紙を見た瞬間、堰を切ったように涙が溢れ止まらなくなった。 そこには母がデイサービスで過ごした日々を写した切り抜きが何枚も貼ってあり、裏面は温かい励ましのメッセージで埋め尽くされていた。 中央には前歯の無い口を大きく開けてニッコリ笑う母のアップ。 私は(母は幸せだったんだ。皆からこんなにも良くしてもらっていたんだ)と 心からの感謝とともに救われた気がしたのだった。 色紙はデイサービスだけでなく、特養のスタッフからも贈られていた。 私はアンパンマン人形と二枚の色紙…

  • {136}最終章 おひとりさま(4-4.母 逝く)

    九月に入ったある日 母が亡くなったと 義理の叔母が知らせてくれた。 『特養へ最後に(母に)会いにくるのなら、手配するので娘さんに聞いて欲しい』と 行政書士からの言づてもあった。 「いっちゃん、どないする?」 「私らが(特養へ)行ったら余計な手間をかけさせて申し訳ないから、火葬前に顔が見られたらそれでいい」 「わかった。そう言うてみるわ」 死とは突然であって、 こちらの都合はお構いなしであるとつくづく思う。 そう・・・ 私は母と対峙する心の準備が未だにできていなかった。 直ぐに義理の叔母から電話があった。「火葬場近くにあるお寺の待合所を借りて30分ほどお別れする時間があるって」「後で、場所と時間…

  • {135}最終章 おひとりさま(4-3.母 逝く)

    特養(特別養護老人ホーム)に入所した母がコロナに感染したと義理の叔母から連絡があった。 後見人である行政書士との連絡先が叔父であり、そこから私に伝えられることが本当に迷惑をかけて申し訳なく思う反面助かった。 なぜなら、行政書士から直接聞くより義理の叔母からの方が、私は動揺や焦りを隠す必要もなく正直な思いを話し相談したうで判断を下すことができた。 行政書士の話は『入院ができるまで特養で経過を見守る』『今後、状況が変わり次第また連絡する』ということだった。 当時、(高齢者がコロナに感染したらほぼ助からない)と思っていた私はその時が近いと覚悟したのだった。 ---------------------…

  • {134}最終章 おひとりさま(4-2.母 逝く)

    応接室に通されるまで、ダイニングが目に入らないよう廊下の壁にピッタリ貼り付いて待つ時間は本当に地獄だった。 叔母が母に話しかけている。 「お義姉さん、わたし〇〇。わかる?」 「わからん!」 と大きくハッキリした口調の母の声。 なおも叔母が二言三言話しかけている。 そして、(母の傍に来るかと)私を手招きした。 私は激しくかぶりを振った。 早くこの状況から逃れたい。 ただただそれ一心だった。 応接室では私たちの向い側のソファーにケアマネージャーと施設長が、隣には用意された簡易な椅子に行政書士が座った。 一通りの挨拶と自己紹介が終わり、私はケアマネージャーからの言葉を待った。 だが、意に反して、特に…

  • {133}最終章 おひとりさま(4-1.母 逝く)

    義理の叔母からの着信履歴があった。 普段から特に用事が無ければ電話をかけてこない事を考えると嫌な予感がした。 再度、叔母からの電話があり予感は的中した。 「いっちゃん。 行政書士(母の後見人)から電話があって、 『ケアマネージャーが娘さんに会いたい』って言うてるって・・・。 あんた、どうする?」 想定外のことに面食らってしまった。 「・・・。 ちょっと考えてからでもええ。また電話するわ」と言って電話を切った。 叔母からの助言で、『家族が中途半端に関わる事はサポートする側にとってもやり難いから、任せた以上は口出しなどせず全面的にお願いすればいい』というスタンスでいたので、まさかのケアマネージャー…

  • {132}最終章 おひとりさま(3-3.大叔母)

    大叔母は終活にも余念がなかった。 訪ねる度に部屋にあった作品が減っていき『ほとんどを他人に譲った』と言って、お気に入りが一つ二つ残っているだけ。 後に知るのだが、大叔母はガンを患っていたのだった。 そして、『細かい手作業が以前のように出来ない』と言いつつ、 『でもこれが自分の使命と思っている』と言って ボランティアで頼まれたバザーで販売するカードケースや小銭入れを最期まで作り続けた。 私も分けてもらったがどれも丁寧な作りで見事なものばかり。私には絶対に作れないクオリティであった。 大叔母がホスピス病棟に入院したので叔父夫婦と見舞いに行った。 病棟でのクリスマス会の写真や甥の子と孫の写真がベッド…

  • {131}最終章 おひとりさま(3-2.大叔母)

    大叔母は冠婚葬祭などの付き合いを大事にしていた。 震災時、銭湯帰りに何度か立ち寄らせてもらったことがあった。 母の性格上、甘やかしては図に乗ると判断してか絶対に泊まらせてはくれなかったが、『避難所の皆と分けなさい』言って箱買いしたインスタント食品をいくつも私達に持ち帰らせるという優しさと心配りができる人だった。 そんな大叔母のことを母は「叔母ちゃんはああいう人やから、絶対に泊めてくれへん」と文句を言っては私を失望させた。 また、三回り違いの同じ干支である大叔母と私を比べては『あんたはほんまに(気が強いところが)叔母ちゃんそっくりや』と事あるごとに言ったのだった。 そういった影響からか、私は(大…

  • {130}最終章 おひとりさま(3-1.大叔母)

    私のおひとりさまとしての目標は大叔母(母の叔母)である。 彼女は昭和ひとケタ生まれで青春時代を(第二次世界大戦の)戦中・戦後で過ごした。 乳飲み子であった母と暮らしたこともあり、母を叱責し意見できる唯一の存在であった。 兄弟の末っ子で一人娘のため父親(母の祖父)がずっと傍において一緒に暮らしていた。 父親が他界してからは寡婦である義理の姉とその息子達(母の従兄弟)と暮らし、四十代で分譲マンションを購入して一人暮らしを始めた。 独立はしたが、さほど遠くない距離ということもあり義理の姉家族を気遣ってよく会っていたようだった。 また、手先が器用であった大叔母は長年勤めた造幣局を早期退職して造花作り(…

  • {129}最終章 おひとりさま(2-12.父 逝く)

    パートを始めたのはファイナンシャルプランナーとして独立するにあたって、当座の生活費を得ることと興味のある職種だったからだ。 フルタイムと違って融通が利き、セミナーの参加など勉強の時間も確保できるはずであった。 しかし、実際は担当する顧問先が決められ、毎月申請業務の期限に追われるものだった。 私はずっと働いてきたが、しばらく仕事をしていなかった主婦の人たちは本当に大変そうだった。 しかも、業務内容によっては専門的な知識が必要なものもあり(従前の職場とは逆の意味で、失礼ながらパートのする仕事じゃないな)と思っていた。 私の場合、様々な仕事を経験したことがここで活かされて、多少困っても上手く対応でき…

  • {128}最終章 おひとりさま(2-11.父 逝く)

    四十九日に納骨をした。 霊園には私、父方母方双方の叔父、通夜葬儀で世話になった寺の住職が送迎バスで向かった。現地では墓購入からずっと担当してくれている〇〇さんが万事滞りなく納骨式を行ってくれた。 墓を作った当初、 『お父さん、これで(眠る場所がある)安心できたね』と冗談めかしに言ったら、 『うん、そうやな』と返事してくれたことがあった。 (男同士仲良くやってね。トミちゃんお父さん頼んだよ)と祈るばかりだった。 ----------------------------------------- 夜、父の誕生日の7月とクリスマスの年二回訪れていたステーキハウスで一人食事をした。 奇しくも12月23…

  • {127}最終章 おひとりさま(2-10.父 逝く)

    団地に住むことで誰かしら近所の人と話ができた。 事故の後片づけでお世話になった人にあらためてお礼を言い、父が亡くなった事を伝えた。 また、事故の様子も詳しく聞けた。 階段の一段目からの転倒であり、向いの棟からよく見えたため発見が早かったということであった。 私は(外出先や部屋の中でなかったこと。僅かな段差であっても起こり得ることだった)と自分自身に納得させたのだった。 通夜、葬儀に連絡が着かなかったケアマネージャーが線香をあげに来てくれた。 以前、私の思いが父に伝わらないことで相談した時、 『できないことを父が自分で認めることは逆に気力を無くすことにつながる』と言われたことがあった。 保険会社…

  • {126}最終章 おひとりさま(2-9.父 逝く)

    葬儀後、一週間の休みを取っていたこともあって、私は悲しみはから逃れるように動き回った。 寺に葬儀のお礼を持って行き、住職から戒名の意味について長話を聞く。 仏具店に寄り、私の部屋に置くにあたって新調する予定の仏壇と弟と父の位牌を注文する。 ここでも、私は拘った。 明らかに仏壇とわかる黒は嫌だったので、メープル材の家具調を選んだ。 弟の位牌は塗が剥げていたので父のものと揃いにしたかった。花入れなどの道具類は色の違いを試しては比べた。 霊園には納骨に際し、墓石に新たに戒名を彫ってもらうことを依頼。納骨の日程、供物などを相談した。 また、新仏の供養もあり納骨の日まで実家で生活した。 同時に父の遺品整…

  • {125}最終章 おひとりさま(2-8.父 逝く)

    葬儀にあたって、田舎から伯父夫婦、叔母夫婦、従兄弟が来てくれた。 八十一歳の父の兄妹は当然ながら高齢であり、遠方から来てくれたことにさぞかし父も嬉しかっただろう。 他には父方の叔父夫婦、母方の叔父夫婦と田舎から叔母も来てくれた。 この叔母のありがたい弔問は予定外だった。 料理が足りず喪主である私はスタッフ用を分けて貰うことになった。 皆と違うことに『アレルギーで食べられない物があるから』と言い訳までしてのアクシデントだった。 父の仕事関係者と私の友人たちがそれぞれに供花を贈ってくれたので、"お爺さん"の葬儀でありながら華やかな祭壇になった。 出棺時はその花々で棺がいっぱいであった。 二度目の霊…

  • {124}最終章 おひとりさま(2-7.父 逝く)

    葬儀が終わるまで、遺族が悲しみに浸っている暇はない。 朝から葬儀社の人と通夜、葬儀について一連の説明を聞きながら様々な事を決めていく。 実は、(父がもう駄目だ)と諦めていた私は事前に見学して、概要を聞いていたのだった。 いつもながら、最悪の場合を想定して準備してしまう自分の行動パターンがここでも役立った。 僧侶、親族、父の仕事関係者と知人、私の友人に連絡。 僧侶が来て読経。(僧侶より枕経は臨終後すぐであり、真夜中だろうと連絡すべきであったことを指摘された) 故人について(戒名を考えるにあたってか)聴かれたことを話す。 こうして、午前は過ぎて行った。 そして、【湯灌】が行われ、当然私一人で立ち会…

  • {123}最終章 おひとりさま(2-6.父 逝く)

    父の容体が安定したため、救急救命センターから一般病棟へ移って、 その後施設で介護を受けるための気管切開をすることになった。 また、一般病棟では個室代が高く、いつまで入院するかわからない状況に私は悩んだ。 無理を言って、ナースセンターの隣にしばらくベットを置いてもらうことができた。 そして、病院のソーシャルワーカーに今後施設で介護を受けるにあたって質問と相談をした。 帰り際、父に向かって「お父さん。 私覚悟したからね。 これからも二人で頑張ろう!」 と約束したのだった。 ----------------------------------------- その夜11時前に病院から電話があり『父の呼…

  • {122}最終章 おひとりさま(2-5.父 逝く)

    決まっている面会時間にしか会えないうえ、家に居ても落ち着かない。 パート先からの方がすぐに病院へ行けることもあって、出勤して毎日退勤後に面会時間の6時から8時に父を見舞った。 看護師からウェットティッシュを渡され『顔や手を拭いてあげてください』と言われた。 父の手は温かく、徐々にではあるが顔の腫れも引いていて、 (まだ、生きているんだ)と実感する日々だった。 母方の叔父夫婦も見舞いに来てくれた。 義理の叔母が『お義兄さん、早う良うなって』と話しかけ励ましてくれた。 私は積極的な措置を望んでいない自分に自問自答した。 同じように入院している患者の家族は皆一様に『良くなって』と言い一生懸命に願って…

  • {121}最終章 おひとりさま(2-4.父 逝く)

    翌日も叔父は病院に来てくれた。 救命救急センターの医師から『変わらず予断を許さない状態だが、安定している』と説明を受けた後、ようやく父への面会ができたのだった。 ベットで口を大きく開けて眠る父の姿は頭に包帯、顔は打撲による内出血のため青く腫れ上がっていた。特に左半分が酷かった。また、呼吸を助けるためのチューブの他にも幾重にも機器に繋がれいた。 その日は入院手続きもあり、紙おむつなど必要なものを持って私だけ夕方もう一度見舞った。 父の好きな演歌を録音したウォークマンを聞かせながら、「お父さん、痛かったね。もう頑張らなくてもいいからね。私なら大丈夫だから心配しないでね」と語りつづけた。 すると、父…

  • {120}最終章 おひとりさま(2-3.父 逝く)

    昼休憩の時、携帯電話に見知らぬ人からの2件の着信履歴。 メッセージがあったので聞くと民生委員からで『お父さんが階段から落ちて救急車で病院に運ばれました。電話に出られないので弟さんへも連絡しました。すぐに病院に向かうと言われました』 頭の中が真っ白になった。 何とか平静を取り戻し、折り返し民生委員に電話し詳細を聞きお礼を言った。叔父(父の弟)にも電話し、『私もすぐに病院に向かう』と伝えた。 父の運ばれた病院は偶然にもパート先から目と鼻の先の距離だった。 『治療中なのでここでお待ちください』と言われた部屋で叔父の到着を待った。 こういう場合、一人で黙って待つのではなく叔父と話していると少し不安が和…

  • {119}最終章 おひとりさま(2-2.父 逝く)

    父は週1回の家事援助に加えて、週二回デイサービスを利用するようになった。 行き帰りは車での送迎、体操や器具を使って体を動かすことができ、昼食にお弁当も頼めた。 他に入浴サービスもあって、 私は『個浴で、男性スタッフに背中を流してもらえて頭も洗ってもらえるよ。家で風呂沸かさんでええし、帰ったらご飯食べてすぐ寝れてええんとちがう』と言って何度も利用を勧めたていた。 しかし、父は『あれは風呂の無い人が入るんや』 と言って頑なに嫌がった。 自転車が乗れなくなったことで行動範囲が狭くなり、気軽に外出できる機会が減った父にとってデイサービスのある日は楽しみであり、心待ちにしていたのだった。 -------…

  • {118}最終章 おひとりさま(2-1.父 逝く)

    大工であった父は過去2回仕事中に大怪我をしていた。 一度目は柱と歩板の間に体が挟まって入院。その後リハビリをしたが頸椎の損傷が完治せずに本人にしか感じることができない程度の後遺症が残った。 二度目は二階の足場から転落。運よく資材の上に落ちたことがクッションとなったが左太ももの大部分の筋肉を断裂した。 そういう理由で、血行改善とリハビリを兼ねて整形外科と接骨院への通院が父の日課であった。 免許の無い父はどこへ行くにもアシスト自転車だったので、左脚を怪我してからも無理して乗っていた。常々、不安を感じていた私は前輪が2輪のアシスト三輪車が脚に負担が少なく安定して乗ることができればと考え、父に勧めたの…

  • {117}最終章 おひとりさま(1-2.再び)

    冷静になって考えると、安定した今の仕事を失うことはリスクが大き過ぎたし、これからも仕事量が増えていくことが予測できる中、私が抜けることでチームの仲間に負担を強いることになる。 こうして私が悶々とするうちに日々は過ぎていった。 予測通り業務が多忙となり、私の日常は様変わりした。 平日は家に寝に帰って、すぐに仕事へ行き、休日は何もする気力がなくただただ眠り続けた。その上、右肩が痛みだして、また五十肩になった。 勤労感謝の日、布団の中でぐずぐずしていた時、頭の中でアラームが鳴った。 (危険、危険!あの頃と同じ) (このままではまた病気になる)(今、行動しなければきっと後悔する)(それだけは絶対に嫌だ…

  • {116}最終章 おひとりさま(1-1.再び)

    術後五年が経った。 私は80%の方に入った。 この頃から、私は生かされていることだけでは満足できなくなっていた。 それは、(自分の本当にしたいことをすることであり、自分の人生を生きたい) という思いが強くなっていたことでもあった。 私は生活をしていく上で、否応なくお金との関わりについて、子供の頃からいろいろ経験してきた。 そして、お金をどのように活かして遣うかは、人それぞれの価値観で違っていて当たり前ということも母を通して実感していた。 そのことをファイナンシャルプランナーの勉強を通して、再確認できたと言っても過言ではなかった。 私の中で一度は諦めたファイナンシャルプランナーになる夢が甦ってき…

  • {115}コーヒーブレイク(第9章 自分の人生)

    術後一年が過ぎた頃から、一人暮らしが本当に楽しくなった。 手術前から続けていたボイストレーニングに加えて、ホットヨガを再び始めることで体力に自信が持てるようになっていた。 また、少しでも元気に見えるようにパーソナルカラーも学んだ。 その年の十月にパーソナルカラーの先生が 『ファッションショーをするのでモデルをしないか』と言われた時には、 二つ返事で出演を決めた。 そして、ファッションショーにはお世話になった義理の叔母、友達、鍼灸院の先生を招待した。 黒のドレスを着て、ランウェイを歩く私の元気な姿を見てもらうことが、 私からの皆へのせめてもの感謝の気持だった。 韓国ドラマにも夢中になった。 おか…

  • {114}第9章 自分の人生(3-7.気がかり)

    墓移転は順調に進むと思っていたが、意外なことに田舎の伯父が難色を示した。 檀家で管理している墓地からの移転に(周りからどう思われるか)と言うことが気がかりだったのだろう。 『今まで、伯父さんだけでなく伯母さんにもお世話になっておきながら勝手なお願いをして本当に申し訳ありません』 『ですが、これから先の代替わりした時を考えて、引き続き従兄夫婦にお世話になることは心苦しくてできません』と私の考えを伝えたが、 伯父は最後まで首を縦に振らなかった。 それでも最後は、【改葬許可証】に現在の当番の墓地管理者である伯父は署名・捺印してくれたのだった。 墓じまいの日は父との待ち合わせが上手くいかず大変だった。…

  • {113}第9章 自分の人生(3-6.気がかり)

    後悔のないよう気になる事は解決しておきたいと思ったことにお墓があった。 田舎にある弟の墓参りには父が毎年お盆の帰省を兼ねて行っていた。 片道3時間かかる上に駅からタクシーに乗り墓地で待機してもらって、再びタクシーに乗って伯父の家へ行く。 墓参りはせわしいとしか言いようがなかった。 父も脚が不自由になってからは年々移動が大変になっていた。 兼ねてから(近くで永代供養をしてくれる墓地は無いか)とネットで調べていた私は、興味を持った霊園に『ゴールデンウイークに見学にいかないか』と思い切って父を誘ってみたのだった。 そして以外なことに、二つ返事で父はOKした。 神戸の山間にある霊園へは自宅からバスで最…

  • {112}第9章 自分の人生(3-5.気がかり)

    私は福祉の担当者に現在の私の状況 (一年前に癌になって五年間は再発の不安があること) (父が無年金で私が生活費を管理サポートしていること)を説明した。 さらに、これまで母の浪費癖でどれだけ大変だったか。 離婚してからも、出来る限り援助してきたこと。 別居して二十年以上経っていること。 最後は感極まって「助けたくても無理なんです」と泣きながら訴えたのだった。 話を聞き終わった担当者から 『今までのことがわかって、お母さんの行動にも納得できました』と言って、 これまでサポートをして困った経緯を教えてくれた。 更に 『自分が知っている中でも本当に気の毒だと思う』と言って、扶養できないことを了承してく…

  • {111}第9章 自分の人生(3-4.気がかり)

    ある日、役所から【お知らせ】が届いた。 内容は母が生活保護の申請をしていて扶養義務者に今後の扶養についての意思確認を求めるものだった。 母に関することは私にとっていつも驚きであり狼狽させられた。 文書では詳細がわからない。 私の都合も知ってもらいたいことから役所に出向いて現状を教えてもらうことにした。 『同じ団地に住む人が母を連れて生活保護の申請に来た』と言われた。また、『生活保護より認知症の方が問題である』とも言われた。 以前、義理の叔母を通じて母が良く遊びに行っている母の従姉妹から 『フミエちゃんの様子がおかしい。認知症かもしれない』と訊かされていた。 私は叔母に 『母を説得して病院で診察…

  • {110}第9章 自分の人生(3-3.気がかり)

    父は私の渡す生活費の範囲内で日々の食事や日常品の買い物、病院代、交通費、小遣いを遣り繰りして(させて)いた。 洗濯は大好き。綺麗好きで食器洗いやシンク周りは問題なかった。 部屋とトイレの掃除は私が週1回休みの日にしていた。 ずっと銭湯を利用していたがつぎつぎと閉店となり、とうとう内風呂を使うことになった。 機械音痴の父にお湯張りを覚えさせた(?)はいいが、掃除は私の役割で私の負担が増えた。 何かの折に、義理の叔母が『いっちゃん、いくら大丈夫と言ってもお父さん家と自分家の両方は大変やて。無理したらあかんよ。 お父さん、脚が不自由やから介護保険で生活支援してもらえるんとちゃうん。 身内やとついつい…

  • {109}第9章 自分の人生(3-2.気がかり)

    電話嫌いの父だが、私への電話は頻繁にあった。 『いっちゃん、洗濯機が動かん!見に来てくれ!』 『どんな様子なん』と私。 『水は出るけど、回らん』 『お父さん、蓋閉めてる?全自動は蓋開けてたら動かんよ』 『動いた。ありがと』 毎度、自分の要件を言って終わり。 -------------------------------------- 北海道への旅行中のこと、携帯電話に父からの数え切れない着信履歴。 『お父さん、何? いま、私、北海道におるんやけど・・・』 『あんな、今日、掃除の時に(団地の自治会の)会長しろって言われたんや』 『私、住んでないから、出来へんって言った?』 『わし言うたけど、おば…

  • {108}第9章 自分の人生(3-1.気がかり)

    父の自立に向けての第一歩は経済状況を知ってもらうことからだった。 毎月の支出額だけでなく、生活費・公共料金・貯蓄用に分けている口座の種類と残高。 いざという時のために私が加入している生命保険とがん保険。 それぞれの通帳と証券、印鑑の保管場所の説明をしなければ始まらない。 『まだ、いい』と言って父は取り合わない。 『田舎の伯父さんからも知ってなあかんって言われたやん』と私。 『おまえがわかってたら、それでええ』 厄介ごとを避けるのは相変わらずであった。 それでも、自分で毎月の生活費をATMで引き出せるようにならなければ駄目なことを説得できた。 だがこれが一筋縄ではいかなかった。 (徐々に画面と操…

  • {107}第9章 自分の人生(2-5.一人暮らし)

    その後、梅木先生を訪れることがないまま今日を過ごしている。 私がカウンセリングを受けた期間を振り返って思うことは、 人生とは本当に予測できないことの連続であり、 自分でも(こんな事があっていいものか)と、 人知を超えた何かしらを感じずにはいられない経験をした。 【禍福は糾える縄の如し】本当に、昔の賢人は良く言ったものである。 「このまま減り続けたら無菌室に入らなければならなくなる」 こう主治医から、本気か冗談かわからないことを言われた私の白血球数は、 薬の服用を止めたにも関わらず正常値に戻ることはないままであった。 しかし、私の免疫力は私の言った通り自力で頑張っていた。 こうして、解き放たれた…

  • {106}第9章 自分の人生(2-4.一人暮らし)

    ここまで言った私は、思い切って先生に持論をぶつけてみた。 「先生、私、間違っているかもしれませんがこう思うんです。人はそれぞれ幸せと不幸せの器を持っていて、 その器の大きさや材質は様々なんです。 私の場合、幸せの器は小さくて僅かなことですぐに一杯になるんですが、 不幸せの器は大きくて素材も強いのでなかなか一杯にはならない上に壊れないんです。 それに比べて母の場合は、幸せの器が大きすぎて私と同量では全然足らないのです。そして逆に、不幸せの器は小さく繊細で、ちょっとのことですぐに一杯になってしまう・・・」 私の言葉はもう止まらなかった。 「何よりも母と違うのは、私は不幸せの器から溢れ出た分を幸せの…

  • {105}第9章 自分の人生(2-3.一人暮らし)

    -------------------------------------- 「先生、その後の薬の服用についてですが、副作用のためか検査の度に白血球が減り続けていて、主治医がこの状態を『気持ち悪い』と言って 服用を中止することになりました」 「これは、私の白血球が『薬の助けがなくても自力で頑張れる!』と言って 抵抗しているのだと思います」 こんな私の無茶苦茶な解釈にも、 「そうね。あなたの言う通りだと思いますよ」と、先生は賛同してくれたのだった。 これに気を良くした私は、思いつくままに話していた。 「私、以前義理の叔母から『あんたようグレんと育ったなぁ』と言われたことがあって、それは私が親から…

  • {104}第9章 自分の人生(2-2.一人暮らし)

    ------------------------------------------- 「高野さん、普通なら当たり前に一人暮らしができるのに、 あなたは本当に時間がかかりましたね」と先生は言った。 「はい。おかげで準備期間が長かった分、一人になっても困ることは何もありませんよ」と、 私は明るく笑顔で答えた。 ------------------------------------------- 私が一人暮らしをすることを決めたのは、もちろん自分の夢を叶えたかったことが一番にあった。そしてもう一つの理由は、今後もし癌が再発した場合を考え、 (父には自立した暮らしができるようになっていてもらいたい…

  • {103}第9章 自分の人生(2-1.一人暮らし)

    私はこれまで、母の脳梗塞、両親の離婚、阪神淡路大震災と一人暮らしをするチャンスを逃していました。 だから、今回が最後のチャンスだと思い、絶対に逃すまいと固く決心したのです。 私はすぐに行動を開始しました。 まず、叔母に会った三日後に振替休日を取って部屋探しです。 ここでもラッキーなことに、すぐにほぼ理想通りの部屋が見つかりました。 そして仮契約を済ませた私はその夜、叔母に報告と保証人を頼むために電話をしたのです。 ちょうどお盆と夏休みが重なった日に、私は念願の一人暮らしを始めました。 それは退院から二カ月経たない暑い頃でした。 叔母夫婦は引っ越しの日も手伝いに来てくれました。 電化製品やラック…

  • {102}第9章 自分の人生(1-4.第三の決心)

    夜の十時を過ぎていたと思います。 神戸の伯父夫婦が私に会いに来てくれました。 「いっちゃん、今お父さんの所で話して来たから、あんた一人で暮らしたらいいわ」 義理の叔母からのにわかに信じ難い言葉でした。 「えっ、どういうこと?」 と、訳のわからない私です。 さらに伯母のビックリな言葉は続きます。 「私らが保証人になるから、部屋を借りたらいいわ」 私は何も言えず、ただただ叔母の次の言葉を待ちました。 「私、あんたのお父さんに言うたんよ。このままだと、いっちゃんが死ぬって!」 「・・・・・」 「死なせたくなかったら、一人暮らしさせたらなあかんって!」 「・・・・・」 「あんたのお父さん『わしさえ、辛…

  • {101}第9章 自分の人生(1-3.第三の決心)

    梅木先生はもう呆れたといった様子で、溜息をついた。 「先生、父を殺すつもりなら、もうとっくに殺していますよ」 「なぜ、殺さなかったのかといえば、殺しても私が損するだけで何の価値もないことがわかっていたからです」と言って、私は苦笑いをした。 「ほんとにそうね」と、先生も私の考えに同感してくれたのだった。 ---------------------------- これ以上、父と話しても無駄なので、私は『寝る』と言って話しを打ち切りました。 寝ると言ったものの、私は腹が立って眠れません。 (父にわからせるためには実力行使しかない)と考え、 早速実行するべくインターネットでホテルを予約したのです。 翌…

  • {100}第9章 自分の人生(1-2.第三の決心)

    私が退院したことを職場の同僚や同級生達が喜んで、私のために食事会を開き誘ってくれました。 書店時代の年長の同僚が職場復帰に際して 『どんなことがあっても休まずに出勤し続けないといけない』と言って へたれの私を励ましていました。 ですから私なりに絶対無理はせず、人々の好意に感謝して誘いを受けていました。 ある日、翌日が休みとあって私は少し羽目を外して帰宅が遅くなってしまいました。 父が鬼の形相で待ち構えていました。 「何時やと思ってるんや!」 「明日、休みやから別にいいやん」 「いつもやないか!」 「皆がせっかく誘ってくれるのに断られへん」 「それに、ちゃんと自分でしてるから大丈夫やて」 「ええ…

  • {99}第9章 自分の人生(1-1.第三の決心)

    八月の下旬、まだまだ残暑も厳しい頃、 私は梅木先生のカウンセリングを受けていた。 通り一遍の挨拶を終えた後「先生、私一人暮らしを始めました!」と、言った。 私のこのセンセーショナルな報告にこれ以上驚きを隠せないといった表情で「本当に凄い、精神力ですね」と、先生は言った。 「それはもう、大変だったんですよ」と言って、私は事のいきさつを話し始めた。 ---------------------------- 私の手術中に義理の叔母と看護師の友人が父と一緒に居てくれたことはお話ししました。 その時、『私が退院したらもっと自由に好きにさせてあげて欲しい』と 二人が交互に父に頼んでくれました。 父は『よく…

  • {98}コーヒーブレイク(第8章 病気)

    週1回のホットヨガをもう20年近く続けている。 心身のストレス緩和のために始めたホットヨガ。 体の硬い私ではあるが、【継続は力なり】でそれなりに出来るポーズも増えた。 全身汗まみれ(下着もビチョビチョ)になることを気にする必要もなく、終わったときの爽快感は超気持ちイイ。 【シャバ・アーサナ(おやすみのポーズ)】ではアロマの香りの中、プチ瞑想または寝落ちする(いびきをかいてるかも・・・)。 当初、負けず嫌いの私はポーズが出来ないことにイライラ。 上手な人を羨んでいた。 でもある時、『自分は自分!』と悟って(?)からは、ポーズの完成形が出来なくても『私はこれでいいのだ』となった。 実際、無理に完成…

  • {97}第8章 病気(4-6.復活)

    私は体の回復を素直に喜べない心情をようやく語り終えた。 梅木先生は私の話を黙って頷きながら聞いていた。 「先生、皆は私に『元気になって良かったね』と喜んでも、『よくやったね』とは言ってくれませんでした」 「『頑張れ』と励ましても、『頑張ってるね』とは言ってもらえませんでした」 「こんなにも必死で頑張っているのに、 これ以上頑張れと言われたら、 私はどうしたらいいのでしょうか」 私は止まらない涙をハンカチで拭いながら、誰にも言えなかった辛い心の内を吐き出した。 先生は唐突に「高野さん、本を書きなさい」と言った。 先生のまたしても予期せぬ言葉に、私はどう答えたものかと戸惑った。 「本ですか?」 「…

  • {96}第8章 病気(4-5.復活)

    一カ月半ぶりの出勤は緊張の中、同僚の驚きと安堵の表情で迎えられました。 職場の業務上、私の病名は周知の事実でしたが、皆変わり果てた姿の私にどう言葉をかけていいものかと躊躇していたことを覚えています。 私の方は、上司に挨拶をしている最中に感極まって泣き出してしまいました。 (ここまで、やっと戻ってこられた)という安心感から出た涙でした。 どんな所でも、戻れる場所があるというのは幸せなことなのだと、私はこの時までわかっていなかったと知りました。 抗がん剤治療を決めたものの、私はやはり積極的になれないでいました。 自分は生かされているんだと感謝しつつも、 それに応えることを拒否する自分がいることが申…

  • {95}第8章 病気(4-4.復活)

    今後の治療は抗がん剤の服用をどうするかということになりました。 私の場合、転移は無くても再発リスクが高いので、 当然のことながら、父は『抗がん剤を飲むよう』私に強く言いました。 医師からは 『抗がん剤を飲んだからといって、必ずしも効果が期待できるものではない』と、 またもや身も蓋もない言い方をされました。 その上で、三種類の薬剤の作用の強さと服用回数の説明が行われ、 私は選択を迫られることになったのです。 私は抗がん剤の副作用を考えると極力飲みたくなかったのです。 しかし、薬さえ飲べば治ると思い込んでいる父に言ったところで、 私の考えを理解してもらえるとは到底思えないでいました。 私は正直なと…

  • {94}第8章 病気(4-3.復活)

    私の癌は『目に見えるものはすべて取り切った』と聞いていました。 しかし、『浸潤していたので、恐らく転移しているだろう』と言われていました。 担当医師が病理検査の結果が出たので話しがあると呼びに来ました。 私が『父と一緒に聞かないと・・・』と言うと、 医師は『悪い話じゃないから一人で聞けばいい』と言ったのです。 医師の言う通り悪い話しではありませんでした。 私の癌は転移していませんでした。 (奇跡だ!)と思いました。 医師は続けて、転移はなくても限りなくクラスⅢに近いクラスⅡbだと言い、5年生存率は80%だと私に告げたのです。 (80%かぁ・・・)と思ったのも束の間、 『そうは言っても20%にな…

  • {93}第8章 病気(4-2.復活)

    (今日こそは、何が何でも私を起こして歩かせる) 気でいた看護師の友達は、私の姿を見て拍子抜けしたようでした。 私は(イレウス管だけは二度と御免だ)と思っていました。 ですから、本当に必死のパッチで頑張りました。 看護師が『職場の上司から面会の問い合わせがあった』と言うので、 私は少しでも元気な姿に見えるよう美容院に行くことを希望しました。 なるべく早くしてもらうということで外出を許可され、病院の近くで行ったことのある美容院に一人で行きました。 シャンプーとカットをしてもらい私は非常に満足でした。 後に、治療で髪が抜けても良いように短すぎるショートにしてみると、やつれた感が少しましになりました。…

  • {92}第8章 病気(4-1.復活)

    翌朝、様子を見に来たもう一人の担当医師に私は 『管を外して欲しい』と頼みました。 そして、医師から『執刀した担当医が休みであり、今日は無理だ』と言われた時、 またしても私の心は折れたのでした。 後で来た父に、私は涙ながらに『私は(癌になったことが)悔しくて堪らない』 『起き上がるためには管をどうしても外さないと無理だから、 先生に外してもらえるよう頼んで欲しい』 と訴えたのでした。 癌を知ってからも気丈で冷静だった私の取り乱しように、 父は驚いてすぐさま医師のもとへ頼みに行ってくれたのでした。 イレウス管を抜き取られた瞬間、 長い苦しみからようやく解放されると思いました。 『ハァー』と大きく溜…

  • {91}第8章 病気(3-6.限界)

    外科へ移ってからの私は同室の人達と会話を全くしていませんでした。 挨拶程度はしても、管が邪魔であり疲弊しきった体では、ただただほっておいてもらいたかったのでした。 また、彼女達三人が母と同世代だということも、関わりたくない理由でした。 閉塞していた大腸が正常に動き出そうとすれば、当然に便意が戻るということになり、寝たきりの私はオムツの中で排泄をしました。 看護師にオムツ交換をしてもらわなければなりません。 その行為自体を私は恥ずかしいとは思っていませんでしたので抵抗はなかったのです。 しかし、同室のご婦人方には許されなかったようでした。 起き上がることができないへたれで不愛想の私に同情はしてく…

  • {90}第8章 病気(3-5.限界)

    もう一人の看護師の友達が言ったように、寝ている間に手術は終わりました。 『髙野さん、わかりますか』 看護師の呼びかけに返事をした私は、硬く冷たいベッドの上で寒さの余りガタガタと震えだしました。 『寒い・・・』 毛布を何枚もかけられ体を摩ってもらいながら急いで病室に運ばれた私は、安心した表情の父や叔母、友達が『帰る』という言葉に頷くだけでした。 手術の結果は 『腹膜播種が無かっただけでなく、出血も少なく輸血の必要も無かった』と言われました。 こうして私の手術は無事に終わり、私は生き延びることができたのです。 ほっとしたものの、それは一瞬のうちに失望に変わりました。 何故なら、 あの忌まわしいイレ…

  • {89}第8章 病気(3-4.限界)

    母方の伯父夫婦は何度も見舞いに来てくれました。 また嬉しいことに、義理の叔母は私のためにパジャマや花を差し入れるだけでなく、『手術の日も来る』と言ってくれました。 私は看護師の友達に 『手術の間、父と一緒に待っていて欲しい』とお願いをしていました。 ですので、伯母からのこの心遣いは本当に有り難く、心配事が無くなったと思ったのでした。 手術の日の朝、久々にシャワーを許された私は、全裸の自分を見て愕然としました。 鏡に映る姿は痩せ細っていて、例えるなら拒食症の事例写真のようでした。 嘔吐の日から二十日以上、ほぼ絶食だったの私の体重は十キロ以上減っていました。 (腸閉塞って究極のダイエットやなぁ) …

  • {88}第8章 病気(3-3.限界)

    イレウス管は何重にもテープで鼻に固定されました。 これでは洗面もままならないうえに点滴とのダブルでトイレへ行くことが更に大変になりました。 その後、私は外科病棟へ移されました。 イレウス管が喉を刺激するためか、唾液が溢れて苦しかった。 吐いても吐いても、唾液は止まらず出つづけました。 また、腹部の膨張から胸が圧迫されて息もできません。 私は絶食には我慢できますが、眠れないことには我慢できませんでした。 痛みには耐えられますが、苦しみには耐えられませんでした。 手術が待ち遠しかったです。 この苦しみから楽になれるなら、 たとえ(手術中に死んでもかまわない)とまで思い詰めていました。 私は手術を担…

  • {87}第8章 病気(3-2.限界)

    イレウス管を挿管された私の姿は友達にかなりのショックを与えていたようで、 もう一人いる病棟勤務の長かった看護師の友達は、 『初めての入院であれはきついわ』と言っていたと 後日、私は聞いたのでした。 ずっと絶食だったのでたいした違いではなかったのですが、腸閉塞のため絶飲絶食になり口を湿らすことだけが許されました。 私に拒絶され、途方に暮れた母が自分の弟妹に私の入院を知らせたので、週末に叔父や叔母が夫婦で見舞いに来てくれました。 久しぶりに会えたこともあり話は尽きませんが、連日の長時間の応対に私はヘトヘトでした。 おまけに管が邪魔で会話もままならない状態です。 それでも私は精一杯、皆へ『頑張る』と…

  • {86}第8章 病気(3-1.限界)

    嘔吐からほぼ何も食べていないうえに、点滴のため熟睡できないでいた私は体力も気力もぎりぎりの状態でした。 そんな私に追い打ちをかけるように更なる苦しみが待っていました。 私の大腸は直径五センチ大の癌によって、95%塞がれていました。 つまり僅か5%の隙間で動いていたのでした。 このおかげで腸閉塞の発見が遅れたかと思うと悲しくなりました。 消灯時間を過ぎて、看護師が鼻から管を入れる処置をするためベッドに来ました。 昼間、看護部長らしき人から、『もしかしたら』と言われていて、 『そうなると苦しい』とも言われていたのでした。 暗い中での処置のためか、なかなか管がうまく通りません。 私は何度も繰り返され…

  • {85}第8章 病気(2-5.衝撃)

    午後からは看護師の友達が会いに来てくれました。 私は彼女に『父と自宅に行ってキャッシュカードを探した後、 父と一緒にATMでお金を引き出して来て欲しい』と頼みました。 同時に持って来て欲しい物も。 私は今まで携帯電話を持つことに必要性を感じていなかったのですが、 職場への連絡などをする上で持っている方が便利だと思い、 彼女に『携帯電話の新規加入契約を替わりにして欲しい』と更に頼んだのでした。 彼女は本当に頼りになり、良くしてくれました。 昨夜といい、私は友達に恵まれていると感謝したのでした。 その夜、病状について説明がありました。 父と二人で聞くつもりでしたが、父が叔父を呼んでいたので三人で聞…

  • {84}第8章 病気(2-4.衝撃)

    まず、私は母に会ったことで、これまでのことを否が応でも思い出すことになり、 悔しさの余り癌のことを考えずに済んだのでした。 そして、今日、両親に言いたかったことをぶちまけた私は、 (もう死んでも思い残すことは何も無い!) と覚悟を決めることができたのでした。 他に、私は自分のことより、 今回も不甲斐無さを露呈した父のことが気掛かりでした。 生活費のことはもちろんですが、何より精神面が心配だったのです。 こうして私は自分が【父の保険】であったのだと思いました。 次の日も検査があり、私が病室に戻ると驚いたことに母がいました。 『何しに来たん!』と言いたいところを我慢して、 『友達に助けてもらうから…

  • {83}第8章 病気(2-3.衝撃)

    父に『通帳や連絡先を書いたものを持って来くるよう』に頼み、 両親には帰ってもらいました。 その後、私は友達二人と職場の上司に癌を知らせるための電話を掛けました。 父ではどうにも頼りにならないので、私にとっては友達が頼みの綱です。 主婦で看護師の友達にはすぐに連絡がついたので、 『入院中いろいろなことで助けて欲しい』とお願いして、 仕事で帰宅の遅い友達へはお母さんに伝言を頼んだのでした。 職場の上司に癌のことを『まだ、余命何年とか具体的には聞いていないんです』 と何気なく言ったところ、 いつものように冗談で返してくれると思っていた私は、『そうか、大変だな・・・』と、上司の神妙な口ぶりに癌という病…

  • {82}第8章 病気(2-2.衝撃)

    人生二度目の驚天動地です。 父には『昨夜、病名を伝えた』と医師は言いました。 更に『一週間後に手術をするため、今から検査を始める』と言われました。 私は質問する間もなく、そのまま車椅子で検査室に向かったのでした。 検査室に向かう途中で、私は見覚えのある姿を見ました。 それは、母でした。 私の頭は混乱していました。 たった今、癌の告知をされたうえに、この世で最も会いたくない母の姿を見たのですから当たり前です。 苦しい大腸カメラの検査を終えた私を病室で父と母が待っていました。 母は(どうしてここに連れてこられたのか分からない)といった感じで不機嫌そうに私には見えました。 「お前から、これ(母)に病…

  • {81}第8章 病気(2-1.衝撃)

    入院すれば楽になれると思っていた私の願いは叶えられませんでした。 嘔吐から十数日、食事はもちろんのこと、医院での点滴だけでは栄養が足りていなかったことから、私は長時間の点滴をしなければならなくなり、それに伴う尿意のためトイレへ日に何度も行くことを余儀なくされたのでした。 こうなると眠ることもできなくなりました。 (家に居る方がましだった)と正直思いました。 医大病院での検査結果が出たということで、父に取りに行ってもらうしかありません。私は結果を心配するより、父がちゃんと受け取って来られるかの方が心配でした。 その夜、あの担当医師が私のベッドに来て尋ねました。 『以前、大腸で浮腫があったところは…

  • {80}第8章 病気(1-4.我慢)

    『動けない』と言う私をおぶって救急車へ運んでくれました。 救急車では『落ち着いてゆっくり呼吸をするよう』に言われましたが上手くできません。ドラマでよく観るビニール袋を当てての呼吸を想像していた私は、紙袋を手渡されてほっとしたのでした。 運ばれた救急病院は、以前父が頸椎を痛めた時に入院した病院でした。 応急室のベッドで医者に診てもらう頃には、私の症状も落ち着いていて 『帰って良い』と言われたのですが、 私は腹痛がもとでの過呼吸であることと、これまでの経緯を一生懸命訴えたのです。 医者は私の腹部に聴診器を当て、『大丈夫、腸は動いている』と言って、私を帰したのでした。 その後も、私は医院で点滴を受け…

  • {79}第8章 病気(1-3.我慢)

    大腸カメラ検査を受けることを決めた私の状態は最悪でした。 それでも、私は検査のため準備を始めたのでした。 腸内洗浄のための溶液を飲み始めて数十分後、激しい嘔吐が続いたのです。 (このままでは脱水症状になる)と思った私は、クリニックがまだ開いていないこともあり、取りあえず家族で観てもらっている医院へふらふらになりながらも一人で向かったのです。 診察と点滴を受け数時間後に帰った私に、父が『クリニックから検査に来ないことを心配して連絡があった』と言いました。 私はクリニックの医師に状況を説明して、『もう検査は受けない』と言ったのでした。 それっきりクリニックには二度と行っていません。 嘔吐は収まりま…

  • {78}第8章 病気(1-2.我慢)

    血液検査の結果、 『ホルモン量は正常値であり、生理が止まっている原因は他にある』 といわれた私は、伝え忘れていた薬剤名を婦人科医に言ったのです。 伝えた途端、原因はこの薬であり、 『医者でも副作用についてよくわかっていないことがある』 と婦人科医に言われたのでした。 私はクリニックの医師に貧血のことを伝えて、 『原因が何であるか』と訊き続けていました。 その度に、医師は 『消化器官からのものではなく、 他から例えば婦人科系ではないか』 と言っていました。 私は医師に『現在、生理は止まっていてそれはあり得ない』 とも言っていたのでした。 受診した婦人科医の話を私がしたところ、 医師は『副作用のこ…

  • {77}第8章 病気(1-1.我慢)

    五カ月後、私は再び梅木先生の元を訪ねた。 「どうしたのですか?」痩せ細った私を見るなり、先生は開口一番に言った。 「予約があったので何事かと思っていたのですよ」と、先生は心配そうに私に尋ねた。 「先生、実は私、大腸ガンの手術をしたんです」 「ええ!」先生は絶句した後、 「なんていうことなの」 「こんなことがあるなんて・・・」 信じられないだけでなく、 私が気の毒でならないといった様子で先生は言った。 「先生、私辛くて堪らないんです」そう言って、私は梅木先生に病気に至る経緯を話し始めたのであった。 -------------------------------------- 前回のカウンセリング…

  • {76}コーヒーブレイク(第7章 迷い道)

    私の趣味の一つにアロマテラピーがある。 興味を持ったきっかけはストレス緩和に役立つと思ったから。 何でも、香りはダイレクトに脳へ働きかけ効果バツグンらしい。 手始めにアロマポット、聞いたことのあるラベンダーとローズマリーの精油を買った。 暖められた精油がほのかに香る。 (なんか、いいかも?!) もっと色んな香りを試したい! ハンドブックを買って精油の種類や効能、それぞれの相性、ブレンド方法etc...を知った。 更に、カルチャーセンターでアロマを使っての化粧水・クリーム・芳香剤作り等々を体験。 理科の実験さながらで楽しい。 私が精油を買う基準はまず効能であり、 ハンドブックで調べてお店に行った…

  • {75}第7章 迷い道(5-5.重圧の果て)

    カウンセリングは終えたが 『自分の本当に望む人生を生きていない』という、根本的な問題は解決していない。 正直なところ、今の自分が解決できるとは到底思えない。 しかし、私はカウンセリングを受けたことで、色々なことに気付けた。 今まで、私は断片的ではあるが両親について、親しい人に話を聞いてもらっていた。 そして、皆一様に同情と励ましの言葉を言ってくれた。 それは、私には慰めであったが、本当の意味での癒しにはなっていなかった。 私には、子供の頃からこれまでの自分自身を認めてやることが必要だったのだ。 それは、 『いっちゃん、今までよく頑張ったね』 と褒めてやることだった。 また、傷付いた自分を心から…

  • {74}第7章 迷い道(5-4.重圧の果て)

    そして、先生は更に続けて言った。 「あなたは、自分がこうなったことを決して人のせいにしていない」 「こんなにも自分が辛い思いをしていることを誰かのせいにしてカウンセリングを受ける人達がほとんどなのに、あなたは誰の責任にもしないで、ただ起こった事を淡々と話しているだけでした」 「そうなんですか?」 先生の意外な言葉に、私はどう答えていいのか分からなかった。 何かのせいにするといったことを考えたところで、私には仕方の無いことだった。 敢えて言うなら、自分ではどうにもならない運命だと思っていた。 だからこそ、【子供は親を選べない】と思って生きてきた。 そうやって、自分なりに理由付けをすることで自分自…

  • {73}第7章 迷い道(5-3.重圧の果て)

    今更、『自分の人生を生きていない』と言われたところで 私にはなすすべもなかった。 それでも、私は自分で答を求めるために、梅木先生に訊いたのだった。 「以前、年長の書店時代の同僚から 『私がしっかりすればするほど親を駄目にした』 と言われたことがありました」 先生は頷いて、「それは、間違っているとは言えないわね」 私は堪らずに、「じゃあ、私はどうすれば良かったのですか!」 「死んだ弟の分まで頑張ろうと、 前を向いて生きてきたことが親を駄目にしたのなら、 私は他にどうすれば良かったのですか!」 「今さら、過去は変えられないじゃないですか!」 私の魂の叫びだった。 人生を全否定されたように思った私は…

  • {72}第7章 迷い道(5-2.重圧の果て)

    「あなたは自分の人生を生きていない」 先生の予想外の言葉だった。 私は驚いて「えっ!」「どういうことですか?」 なおも納得できない私は「私はいろんなことを限られた選択肢の中でも、自分で選んでやって来ました!」と反論した。 「髙野さん。それは、あなたが本当に望んだことではなかったの」 更に、先生は「あなたが本当にやりたいことをしない限り、良くならないわ」 それは、私にとって決定的な言葉であった。 「・・・・・」 私はショックの余り何も言えず、しばらくの間、ただ頭の中で先生の言葉を繰り返していた。 (自分の人生を生きていない?) (私の本当にやりたいこと?) (治らない!)

  • {71}第7章 迷い道(5-1.重圧の果て)

    ついに生活を支えなければならなくなったにも関わらず、私は未だ仕事に対して迷っていました。 (ファイナンシャルプランナーの資格を活かして仕事をしたい) 私の漠然とした夢であり、希望でした。 独立系のファイナンシャルプランナーとして起業することを考えました。 女性のための起業塾でどうすれば起業できるのかを学んだのでした。 すぐに私の考えが甘かったと実感させられました。 私には夢を実現させるためのビジョンがありませんでしたし、 何よりも覚悟が足らなかったのでした。 (私は何もできないんだ) (今まで何をしてきたんだろう) これからのことを前向きに考えられないでいました。 それでも生きていくためには、…

  • {70}第7章 迷い道(4-4.執行猶予)

    私の予想通り、父の仕事はその後も不安定でした。 仕事が切れて焦る父を、私は市のシルバー人材センターに登録させました。 そこで、父は一日だけの植木の剪定や包丁研ぎの仕事を紹介されて行っていました。 しかし、簡単であっても大工仕事だけは絶対にしませんでした。 それは、父の職人としてまだまだ現役でやれるという誇りであったと私は思いました。 次の日から、父がシルバー人材センターに強くお願いして紹介してもらった長期間の清掃の仕事をすることになっていました。 事前の打ち合わせを終えて帰って来た父に、知り合いの大工から仕事の依頼の電話がありました。 今回も悩んだ末、父は大工の仕事を選びました。 翌朝、私は父…

  • {69}第7章 迷い道(4-3.執行猶予)

    それは祖母からの電話で、母が公営住宅に引っ越すから、私に保証人になってもらえないかということでした。 私は即座に断りました。 金輪際、母と関わりたくないこともありましたが、実は私も数年前から公営住宅に移り住んでいたからでした。 私は『公営住宅の保証人にはなれない』と祖母に説明したのでした。 それから数日後のことでした。 また祖母からの電話で、『母が公営住宅に引っ越すことができた』と知らせがありました。 祖母の話では、離婚と震災の時に世話になった叔父が保証人になってくれただけでなく、引っ越しも手伝ってくれたということでした。 母からも電話がありました。 留守番電話のメッセージは、引っ越したことだ…

  • {68}第7章 迷い道(4-2.執行猶予)

    父と訪れた高齢者対象の職業紹介所は、私が行き慣れた職業安定所とは違い、落ち着いた雰囲気で相談をしながらゆっくり仕事を探すことができました。 期待はしていませんでしたが、それ以上に現実は厳しいものでした。 大工仕事は当然ながら皆無で、六十を過ぎた父に出来る仕事は本当に限られたものでした。しかも賃金は時給で数百円というものばかりです。 父より就活の大変さを知る私がショックを受けるほどですから、父のショックは(さぞかしだろう)と思いました。 しかし、父は私が思っていた以上に覚悟を決めて来ていたのでした。 父は大手スーパーマーケットの掃除を請け負う会社のパートで働くことを選んだのでした。 その場で希望…

  • {67}第7章 迷い道(4-1.執行猶予)

    私の勉強は通信大学の卒業、ファイナンシャルプランナーの上級資格取得で終えることができました。 その間、一つの仕事に定着できないでいた私は就活と転職を繰り返していました。同時期、父の仕事も上手く行っていませんでした。 震災後、しばらくは大工仕事をしていましたが、そのうちに仕事が切れてしまい、次の仕事の当てがない父は自暴自棄になっていきました。 生活を支えることに自分の価値を置いていた父でしたから、私はそれをごく自然な父の反応だと思って余計なことは言わず、むしろ励ましていました。 しかし、私の想いとは裏腹に、父は先行きの不安と暇を持て余すことに耐えられず、ついには生活費を無断で全てパチンコに使い果…

  • {66}第7章 迷い道(3-3.現実逃避)

    雇用保険の【修学支援制度】を利用できる通信制講座の一つであり、費用、期間、興味が私に一番合っていたというだけで正直何でも良かったのです。 期待していなかったにも拘らず、いざ勉強を始めてみると、私が知りたかったことの集大成といった内容でした。 金融、不動産、保険、年金、税金等々。 通信大学で学んでいる政治、経済、社会学との関連もあって夢中で勉強しました。 短期集中できたこともあって、ファイナンシャルプランナーの試験には難なく合格できました。 合格したことで満足して終えるつもりでいたファイナンシャルプランナーの勉強だったはずでしたが、私に上級資格に挑戦させる出来事が起こりました。 思い切って合格者…

  • {65}第7章 迷い道(3-2.現実逃避)

    『社会に出れば実力がものを言う』とはいえ、学歴で門前払いされることを経験した私は次の目標に通信大学を受講することにしたのです。 それは、(法律を勉強したことを無駄にせず、何らかの結果として残したい)という思いの方が強く、学歴云々というのは二次的なものでした。 通信大学の学科は私の知的好奇心をこれまでになく刺激してくれました。 また同時に、知識を通じて私の持つちっぽけで偏った世界観も広げてくれました。 スクリーニングで様々な人たちと同じ目標のもと勉学に励むことができたことは、一人の時間を過ごすことに慣れていた私にとって、かけがえのない有意義な時間でもありました。 その他には、サテライトキャンパス…

  • {64}第7章 迷い道(3-1.現実逃避)

    窮屈で忙しい日々を過ごしながらも、私は資格取得という目標と夢を見つけていました。 非正規雇用の私は、自分が主体となってスキルアップを試みなければいけないと前向きに考えていました。 それは、仕事に役立つスキルというだけでなく、 (履歴書に書ける資格を身に付けたい)ということでもありました。 興味のあったものはある国家資格でした。 しかし、難関で合格が厳しいという以前に、私には受験資格がありませんでした。そこで、受験資格を得るために、別の国家資格を目指すことにしたのです。 これまで全く興味のなかった法律の勉強が始まりました。 週に一、二回、仕事の後スクールに通う生活は、ちょうど震災の直前から始めた…

  • {63}第7章 迷い道(2-3.束縛)

    母が居た頃は、私の帰りが多少遅くなっても父は何も言いませんでしたが、二人で暮らすようになってからは、私が『帰って来るまで眠れない』と文句を言うようになりました。 私が十時過ぎに帰宅しようものなら、八時就寝の父には遅いということであり、いい歳した社会人の娘に対する父の言い分はエゴそのものとしか、私には思えませんでした。 たまの外出の時は 『何時に帰ってくるんや』とは言っても、 『ゆっくり楽しんで来いや』とは決して言ってもらえませんでした。 まさに父の愛情は、私を自分の傍から離さず縛り付けることだったのです。 次第に私は外に出て楽しむことより、一人家で過ごす楽しみを選ぶようになったのでした。 それ…

  • {62}第7章 迷い道(2-2.束縛)

    事情を言うため電話をしても、電話嫌いの父は出ません。 大急ぎで仕事を終えて帰ると、当然のことながら何も食べずに待っています。 空腹であり就寝時間も過ぎているので父の機嫌は最悪です。 私が『何か適当に買って食べれば良かったのに』と言っても、 『すぐに帰って来ると思っていた』と言います。 そして、 『なんでこんなに遅くなるんや』と訊くので、『急な仕事で仕方がなかった』と答えると、『急な仕事ってなんや、そんなんあるかい。はよ帰って来たらええんじゃ』 と一方的に言う始末。 また、夕飯の用意をしておいても、食べずに待っていることも度々ありました。 これには、私も流石に頭にきて 『先に食べといてと言ったの…

  • {61}第7章 迷い道(2-1.束縛)

    私は最初に就職した医院以後、非正規雇用で働いてきました。 それには様々な理由がありますが、就業時間にこだわったことが一番でした。 父の生活時間帯は朝三時から夜八時。 朝は弁当のおかずを用意しておけば、後は自分で適当に詰めて持って行きます。 お風呂は家風呂ができても、『銭湯が良い』と言って銭湯に行きます。 ただ、夕飯だけは自分では何もしませんでした。 仕事から帰ると、すぐに銭湯に行くので、その後に買い物などできないという理由でした。 父はとにかくマイペースで、(私が自分に合わすのが当然)と思っていましたので、私は嫌でも、夜八時までに夕飯を用意しなければならなかったのです。 そうなると必然的に、私…

  • {60}第7章 迷い道(1.価値観の違い)

    私は職人である父を尊敬していました。 中学を卒業後、内弟子として親方の家での修行時代は私が想像できないくらい、さぞかし大変だったと思います。 父はよく『お父ちゃんが、賢かったら大工にならんかった』と 本気とも冗談とも取れるようなことを言っていました。 父の基本的な考えは、【働かざる者食うべからず】で、 一番稼いでいる者が偉いと思っているようでした。 また、職人の常識でしか物事を考えられないところがあり、 会社勤めの常識が全く理解できませんでした。 そして、昔ながらの男女の役割分担についても、父なりのこだわりを持っていました。 私に言わせれば、父は世間知らずでもありました。 銀行や役所の手続きは…

  • {59}コーヒーブレイク(第6章 阪神淡路大震災)

    私のマンガ人生は貸本屋の存在無しには始まらなかった。 商店街にあった貸本屋は学校帰りに寄ることができ、自宅からも近く利便性バツグンでほぼ毎日行っていた。 一泊二日一冊数十円で借りることができたので、子どものおサイフにも優しかった。 更に、常連さんだった私はコミックは新刊をほぼ一番乗りで、雑誌も発売日の翌日に借りることができた。更に付録のみ売って貰えるという特典もあった。 私が「何かありますか?」と訊けば 貸本屋のおじさんが「今日入ったのはこれだけ」と言って 適当に出された本は少女漫画オンリーの私が絶対にチョイスしないジャンルが必ず混ざっていて毎度興味津々だった。 北斗の拳・ドカベン・あだち充・…

  • {58}第6章 阪神淡路大震災 (5-4.第二の決心)

    それは、当時の私が考えられる限りの母への注意であり、願いだったのでした。 そして、これ以後、私は母と話すことも会うこともありませんでした。 --------------------------------------- ここまで言って、私はずっと胸の内に閉じ込めていた想いを梅木先生にぶつけたのだった。 「先生、私はずっと強くて、優しくて、賢くありたいと頑張って来たつもりでした。・・・ でも、駄目でした」と言うと、同時に涙が込み上げてきた。 梅木先生は「あなたは言ったとおりになったじゃない」「もう、十分にしてあげましたよ」と言った。 私は首を左右に振って「いいえ、私は酷い人間です。 母のためと言…

  • {57}第6章 阪神淡路大震災 (5-3.第二の決心)

    私は別れの言葉を伝えるために、母の元へ行きました。 そして、ローンの残額と定年までの家賃の負担分がほぼ同額であることを説明し、『ローンの一括返済を肩代わりすることを最後に、一切の関わりを断つ』と言ったのでした。 私は母に、『何か悩みがあるのか』と訊きました。 母は首を傾げて『何も無い』と答え、『後悔していない』とはっきりした口調で言いました。 そして、『あんたは、一生お父さんから離れられない』と残酷に言い捨てたのです。 『あんたを厳しく育て過ぎた』とも言われました。 ------------------------------------------- 「はぁ~」 呆れたといった感じで思わず梅…

  • {56}第6章 阪神淡路大震災 (5-2.第二の決心)

    それは、田舎の田んぼが売れて、祖母と母、弟妹達でお金を分けることになり、母に思わぬ臨時収入がもたらされたのでした。 母は祖母に『いつこに残してやるために買った』と言って、宝石を買っていたのです。 再び、購買欲に火が付いてしまった母は臨時収入以上に宝石類を買い、更にローンを組んでいたのでした。 これで私は何度、母に裏切られたことになるのでしょうか。 正直なところ、自分でも覚えていられないぐらいです。 そしてまたしても、私を引き合いに出して、自分を正当化しようとする母という人間の狡さに、私はほとほと嫌気がさしたのでした。 当然のことながら私は母を罵倒し、責めました。 それは同時に、私という人間の醜…

  • {55}第6章 阪神淡路大震災 (5-1.第二の決心)

    被災後、私と父だけでなく母もすぐに部屋を借りることができ、それぞれが仕事も続けられたことは本当に運がよかったとしか言い様がありませんでした。 しかし、(今後の生活を考えると、喜んでばかりいられない)と、私は正直思っていました。 何故なら、家賃が以前に比べ倍近く増えたことと、母の家賃も半分負担することになったからでした。後に、被災者に対して家賃補助の制度があり、両方が補助を受けることができましたが、それでも負担は重いものでした。 私は毎月、母を訪ねて家賃の半分を受け取り、残りの半分を加えて家主に振込んでいました。 そうやって、少なからず母の生活振りを監視することが、保証人である自分を守ることでも…

  • {54}第6章 阪神淡路大震災 (4-3.別居)

    それからの母は、ほぼ理想通りと言ってもよい部屋が決まりご機嫌でした。 また、大阪に住む母の叔母が電話の加入権を譲ってくれたので、電話を使えるようにもなりました。更に、私は母の新生活に必要なものを揃えるため、久々に二人で三宮へ行くことにしたのでした。 三宮の街は暗く沈んでいました。 かつて、書店勤めのため毎日通った、あの懐かしい街ではありませんでした。 私は込み上げてくる悲しみに必死で耐え、母を連れて私のよく知る家電量販店に向かったのです。 そこでは客も店員も【がんばろう神戸】のもと、明るく前向きに今を耐えているように感じられたのでした。とりわけ母については、新生活への期待と買い物ができるからか…

  • {53}第6章 阪神淡路大震災 (4-2.別居)

    引っ越しはしましたが、水道が使えるようになるまで、父は避難所での生活を続けることにしたので、私は引き続き避難所に通っていました。 母は避難所で私達といる間、お金はもとより食事や身の回りのことを全部私に任せっきりでお気楽そのものでした。 しかし、私達が早々に引っ越しをしたことで『あんたらは良いよな、住む所が決まって』と言い出しました。 父は母が仮設住宅に申し込めば、(直ぐにでも入居できるようになる)と思っていたようですが、私は(そう簡単にはいかないだろう)と考えていました。 そして、(母の気性ではまず我慢できないだろう)とも思っていました。 離婚した時に、(無一文で追い出された)と思い続けている…

  • {52}第6章 阪神淡路大震災 (4-1.別居)

    引っ越しの日は、田舎から父方の伯父夫婦も様子を見に来ていました。 私の両親は共に実の母親が姉妹である、いとこ同士の結婚でした。 だから離婚しているとは言っても、親類であることに変わりなく、伯父たちと母は正直気まずそうでした。 今回のことで、伯父は両親が復縁すると考えていたようで、父にどうするのか訊きました。 私は再び母と暮らすことなど想像もしていなかったので、世間的には伯父の考えが最もなことなのかと暗澹たる気持ちになったのでした。 意外なことに、父は『復縁する気はない』ときっぱり伯父に言ってくれました。 二週間とはいえ、避難所で母と一緒に過ごして、相変わらずの母の態度に苛立っていたことを思うと…

  • {51}第6章 阪神淡路大震災 (3-3.希望を持つこと)

    自宅待機中で暇な私が、仕事に出ている父と母の食事を準備していました。救援物資だけでなく、自分たちで惣菜を買って来て食べていました。 三人での食事は、はっきり言って楽しいものではありませんでした。 他の人たちの手前もあり、怒鳴り合うまではいきませんでしたが、父と母は文句ばかり言い合っていました。 そして間に入っていた私は、ストレスと疲れのためか、とうとう風邪を引いてしまいました。実は震災翌日から突然生理にもなっていたので、本当に体は正直だと思ったのでした。 隣にある掛かり付けの医院で、薬を貰い飲んでいましたが咳が止まりません。 夜は雑魚寝ですから、咳をしては回りに迷惑をかけることになります。 私…

  • {50}第6章 阪神淡路大震災 (3-2.希望を持つこと)

    私はアドレス帳を探し出して、その夜近くの公衆電話から友人たちに連絡しました。 奈良在住の友人は、『役所に問い合わせて、こちらへ探しに行こうとまで考えていた』と言い。 大阪で一人暮らしの友人は、『何日でも泊まりにおいで』と言いました。 こんな風に皆が私を心配して、連絡を待っていたとは思わなかったのでした。 ある夜更けに、避難所に小学校からの友だちが訪ねて来ました。 友人の住むマンションは避難を免れたのですが、『水道が使えないので、毎日給水のために並んでいる』ということでした。 友人は『カップラーメンとインスタントやきそばのどちらを食べるか迷った時、苦労して運んだ水を捨てるのは勿体無いから、カップ…

  • {49}第6章 阪神淡路大震災 (3-1.希望を持つこと)

    私は手を酷使し過ぎて書店の仕事を辞めざるを得なくなり、その後幾つかの仕事を経て、子宮ガン診断などの検査をする事務に転職していました。 神戸の東灘にある職場に連絡出来ずにいた時、同僚が避難所に探しに来てくれたのです。 私は住む場所も決まり、避難所で一人のんびり寝転んでいました。 うとうとしていた私の目の前に、突如同僚の顔が現われたのです。 当然のことながら、私はびっくりして、しばらく訳が分かりませんでした。 同僚は『連絡のつかない私を心配していたこと』 『自宅が一番近い自分が、帰り道の途中に訪ねたこと』 『まず全壊したアパートに行き、私がここに避難していることを大家さんから教えて貰った』と説明し…

  • {48}第6章 阪神淡路大震災 (2-3.行動すること)

    父が営業している銭湯があると言うので、私達は早速行くことにしました。 二時間近く並んで、漸く入ることが出来た風呂は、まさに、【芋の子を洗う】状態でした。 湯船にはお湯が僅かしかなく、それも垢が浮いたもので、体と髪をどうやって洗ったのかわかりません。 それでも約一週間振りに風呂に入れたことで、さっぱりして気持ち良かったことは確かでした。 仮設住宅についての話が避難所での、専らの話題となっていました。 入居は抽選で、優先順位があるとのこと。 当時、父は五十九歳で私は三十歳。父一人なら入居できる確率が高いと思った私は、父にそう言ったのですが、父は『一緒に住む』と言って譲りません。 仕方なく仮設住宅へ…

  • {47}第6章 阪神淡路大震災 (2-2.行動すること)

    その夜、大家さんから私達にアパートの賃貸契約を解約するという話がありました。 契約書を見せられ、説明を受け、すぐに手続きが終わりました。 敷金の一部は戻って来ましたが、私達は新たに住む所を見つけなければならないのと、大家さんが『建物の解体を早くしたい』と言ったので、すぐにでも家財を運び出さなければならなくなりました。 翌日、私は父に家財を一時置かせてもらえるよう、前田さんにお願いしてほしいと頼み、私は近くの運送屋へ車と運転手を頼みに行きました。 次の日、私達三人で運び出せる限りの家財を持って、前田家に向かったのでした。 久しぶりに訪ねた家は、私が世話になっていた頃とは、すっかり見違えっていまし…

  • {46}第6章 阪神淡路大震災 (2-1.行動すること)

    震災当日は、私がコンビニで買った僅かな食料を私達三人と大家さん夫婦で分けて食べましたが、翌日は何もありません。 私は自転車に乗って飛び出しました。 近くの小学校の体育館に行って食料を分けてもらおうと考えたのでした。 慌てていた私は、『住んでいる地区の学校ではないから、自分たちの地区の学校へ行くよう』に言われました。それ以上はとても話しかけられないと思った私は、自分たちの地区の小学校へ向かおうとした時、父が私を追いかけて来ていたのを知りました。 二人で着いた地区の小学校の体育館も、先の小学校と同様でした。話しかけられる雰囲気でないことと、助けて貰える余裕もないと、咄嗟に感じた私は次の目的地を探す…

  • {45}第6章 阪神淡路大震災 (1-2.無事であること)

    アパートは全壊でした。 私の住む一階の部屋は隣の大家さんの家が支えとなっていましたが、母の部屋から先は建物が無く、大きく傾いていました。 一旦、部屋に入って服を着替え、靴を履き、貴重品を取り出した私は近くにあるコンビニに向かいました。 コンビニの前の公衆電話から、同じ市内に住む父方の叔父に無事を知らせ、巻き寿司など目についた食べ物を買ったのでした。 コンビニではレジが使えないのか、店員が電卓で計算していましたが、余震の危険もあるので店を閉め始めていました。大勢の客でごった返す中、ぎりぎりで買えました。 もう一度、叔父に電話をしようとしましたが、公衆電話も繋がらなくなっていました。 大家さんの計…

  • {44}第6章 阪神淡路大震災 (1-1.無事であること)

    ふっと目が覚めました。父がいつものように朝の支度をしている気配がします。(もう少し、眠れるな)と思った瞬間、 天井が【ドドドドドド】と鳴りました。 (また、天井裏でネズミか何かが暴れているのかな) 埃が落ちて来るのが嫌で布団を頭まで被った途端、体を激しく下から何度か突き上げられた後、左右に大きく揺れ出しました。 (地震だ・・・凄い) 布団の上に何かが落ちて来るのを感じながら、私は身を固くして揺れが収まるのをひたすら待ちました。 どれぐらい経ったのか、急に静かになったので、私が様子を窺おうと布団を捲った時、『いつこ、地震や!』と言う父の声が聞こえたので、 私はすぐさま起き上がり『お父さん、大丈夫…

  • {43}コーヒーブレイク(第5章 被害者同盟)

    我が家は一部屋4.5畳・3畳・風呂無しを壁をぶち抜いて二部屋分を借りていた。 当然のことに父がリフォーム(?)した。 各部屋は上半分透明・下半分すりガラスの引き戸で仕切られ、私の部屋に置いてあるテレビを隣の居間から家族で観ていた。 だから、自分の部屋があってもプライバシーは無かった。 家族が寝静まった真夜中が私にとって一人になれる時だった。 小学校高学年の頃からラジオの深夜放送にハマったのは必然だった。 ヤンタン(ヤングタウン)、ヤンリク(ヤングリクエスト)、オールナイトニッポン、ぬかるみの世界、サイキック青年団etc. 楽しかった。 各パーソナリティの話す内容がただただ面白くて、 布団の中で…

  • {42}第5章 被害者同盟 (5-2.無心)

    しばらくしたある日、母が私に『本当に離婚しているのか』と訊いたので、 『離婚届は出してある』と答えると、 次の瞬間、耳を疑うようなことを母は言ったのです。 『私、慰謝料貰ってないねんけど』『え、今さら何言うてんのん。第一あんたの借金全部引き受けたやん』『それとは、別や』『・・・』(この人はどこまで身勝手で自分本位なんだ) 母の理不尽な言葉は、私を不安にさせました。 今思い出しても、当時の私は恥ずかしいぐらい無知でした。 離婚届を提出する際に【親権者欄】にチェックを入れていたところ、係の人に不必要なことを指摘され、その場で訂正印を何箇所も押したことを思い出したのでした。 そして、困った私は市の無…

  • {41}第5章 被害者同盟 (5-1.無心)

    私は父との二人暮らしを【被害者同盟】と呼んで、協力し合いながら頑張っていこうと考えていました。 父に負担をかけないよう家計は当然のことながら、弁当を含めた食事作りが新たに私の役目となりました。 家庭科は得意でしたし、皮肉なことに母の面倒がない分、家事は変えって楽になりました。 勤務時間が短いことも幸いして、仕事と家事の両立だけでなく趣味の時間も確保できていました。さすがに、同僚とのお茶の時間は減りましたが、小遣いの倹約と思い我慢していました。 父に至っては、生活面と雑事を私に任せることができたおかけで、仕事だけに専念して居ればよく、かなり楽になっていたと思います。 但し、母について、新たな頭痛…

  • {40}第5章 被害者同盟 (4-2.後始末)

    母の借金返済も忘れてはなりません。 私はまず、現状把握から始めました。 母からの話と、手元にある請求書を掻き集めました。銀行口座引き落としのクレジットもありましたが、ほとんどが地元の商店への支払いでした。 また、母のつまらないプライドの高さが幸いしてサラ金(消費者金融)には手を出していませんでした。 私は請求書を手に、商店を一件一件訪ねては事情を説明して『返済を待ってくれるよう』お願いすることと、『今後は母に売らないで欲しい』と頼んで回りました。 複数の洋品店、呉服店、化粧品店、雑貨店と、ほとんど全ての店が好意的な対応をしてくれたことが有り難かったです。 家賃の支払いも遅れていました。 大家さ…

  • {39}第5章 被害者同盟 (4-1.後始末)

    離婚したと言っても、世間体を気にする母の要望で、母の姓はそのままとし、母方の叔父(弟K)と祖母以外の親戚には離婚を知らせないというものでした。 また、別居できるお金も無かったので、借りているアパートの大家さんに頼んで、空いている隣の部屋に母は住むことになりました。 中途半端な状況でしたが、 (こんな奇跡があるんだ)(人生何があってもおかしくないんだ)と実感しました。 私と父の生活再建のために、私はまず、市役所へ行きました。 父が年金を払ってないことが、常々気になっていたからでした。 役所の担当者には、『今から払っても年金は貰えない』ということを言われました。 この時、父は既に五十二歳でした。 …

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