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私がFPになった理由について、経験してきた出来事を通して感じ、考え、行動したことを書きました。また、おひとり様ゆえの悩みや問題もあります。 このブログが皆様のより良い日々を過ごすための”きっかけ”となれば幸いです。

おひとりさまFPたかちゃん
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2023/03/21

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  • {133}最終章 おひとりさま(4-1.母 逝く)

    義理の叔母からの着信履歴があった。 普段から特に用事が無ければ電話をかけてこない事を考えると嫌な予感がした。 再度、叔母からの電話があり予感は的中した。 「いっちゃん。 行政書士(母の後見人)から電話があって、 『ケアマネージャーが娘さんに会いたい』って言うてるって・・・。 あんた、どうする?」 想定外のことに面食らってしまった。 「・・・。 ちょっと考えてからでもええ。また電話するわ」と言って電話を切った。 叔母からの助言で、『家族が中途半端に関わる事はサポートする側にとってもやり難いから、任せた以上は口出しなどせず全面的にお願いすればいい』というスタンスでいたので、まさかのケアマネージャー…

  • {132}最終章 おひとりさま(3-3.大叔母)

    大叔母は終活にも余念がなかった。 訪ねる度に部屋にあった作品が減っていき『ほとんどを他人に譲った』と言って、お気に入りが一つ二つ残っているだけ。 後に知るのだが、大叔母はガンを患っていたのだった。 そして、『細かい手作業が以前のように出来ない』と言いつつ、 『でもこれが自分の使命と思っている』と言って ボランティアで頼まれたバザーで販売するカードケースや小銭入れを最期まで作り続けた。 私も分けてもらったがどれも丁寧な作りで見事なものばかり。私には絶対に作れないクオリティであった。 大叔母がホスピス病棟に入院したので叔父夫婦と見舞いに行った。 病棟でのクリスマス会の写真や甥の子と孫の写真がベッド…

  • {131}最終章 おひとりさま(3-2.大叔母)

    大叔母は冠婚葬祭などの付き合いを大事にしていた。 震災時、銭湯帰りに何度か立ち寄らせてもらったことがあった。 母の性格上、甘やかしては図に乗ると判断してか絶対に泊まらせてはくれなかったが、『避難所の皆と分けなさい』言って箱買いしたインスタント食品をいくつも私達に持ち帰らせるという優しさと心配りができる人だった。 そんな大叔母のことを母は「叔母ちゃんはああいう人やから、絶対に泊めてくれへん」と文句を言っては私を失望させた。 また、三回り違いの同じ干支である大叔母と私を比べては『あんたはほんまに(気が強いところが)叔母ちゃんそっくりや』と事あるごとに言ったのだった。 そういった影響からか、私は(大…

  • {130}最終章 おひとりさま(3-1.大叔母)

    私のおひとりさまとしての目標は大叔母(母の叔母)である。 彼女は昭和ひとケタ生まれで青春時代を(第二次世界大戦の)戦中・戦後で過ごした。 乳飲み子であった母と暮らしたこともあり、母を叱責し意見できる唯一の存在であった。 兄弟の末っ子で一人娘のため父親(母の祖父)がずっと傍において一緒に暮らしていた。 父親が他界してからは寡婦である義理の姉とその息子達(母の従兄弟)と暮らし、四十代で分譲マンションを購入して一人暮らしを始めた。 独立はしたが、さほど遠くない距離ということもあり義理の姉家族を気遣ってよく会っていたようだった。 また、手先が器用であった大叔母は長年勤めた造幣局を早期退職して造花作り(…

  • {129}最終章 おひとりさま(2-12.父 逝く)

    パートを始めたのはファイナンシャルプランナーとして独立するにあたって、当座の生活費を得ることと興味のある職種だったからだ。 フルタイムと違って融通が利き、セミナーの参加など勉強の時間も確保できるはずであった。 しかし、実際は担当する顧問先が決められ、毎月申請業務の期限に追われるものだった。 私はずっと働いてきたが、しばらく仕事をしていなかった主婦の人たちは本当に大変そうだった。 しかも、業務内容によっては専門的な知識が必要なものもあり(従前の職場とは逆の意味で、失礼ながらパートのする仕事じゃないな)と思っていた。 私の場合、様々な仕事を経験したことがここで活かされて、多少困っても上手く対応でき…

  • {128}最終章 おひとりさま(2-11.父 逝く)

    四十九日に納骨をした。 霊園には私、父方母方双方の叔父、通夜葬儀で世話になった寺の住職が送迎バスで向かった。現地では墓購入からずっと担当してくれている〇〇さんが万事滞りなく納骨式を行ってくれた。 墓を作った当初、 『お父さん、これで(眠る場所がある)安心できたね』と冗談めかしに言ったら、 『うん、そうやな』と返事してくれたことがあった。 (男同士仲良くやってね。トミちゃんお父さん頼んだよ)と祈るばかりだった。 ----------------------------------------- 夜、父の誕生日の7月とクリスマスの年二回訪れていたステーキハウスで一人食事をした。 奇しくも12月23…

  • {127}最終章 おひとりさま(2-10.父 逝く)

    団地に住むことで誰かしら近所の人と話ができた。 事故の後片づけでお世話になった人にあらためてお礼を言い、父が亡くなった事を伝えた。 また、事故の様子も詳しく聞けた。 階段の一段目からの転倒であり、向いの棟からよく見えたため発見が早かったということであった。 私は(外出先や部屋の中でなかったこと。僅かな段差であっても起こり得ることだった)と自分自身に納得させたのだった。 通夜、葬儀に連絡が着かなかったケアマネージャーが線香をあげに来てくれた。 以前、私の思いが父に伝わらないことで相談した時、 『できないことを父が自分で認めることは逆に気力を無くすことにつながる』と言われたことがあった。 保険会社…

  • {126}最終章 おひとりさま(2-9.父 逝く)

    葬儀後、一週間の休みを取っていたこともあって、私は悲しみはから逃れるように動き回った。 寺に葬儀のお礼を持って行き、住職から戒名の意味について長話を聞く。 仏具店に寄り、私の部屋に置くにあたって新調する予定の仏壇と弟と父の位牌を注文する。 ここでも、私は拘った。 明らかに仏壇とわかる黒は嫌だったので、メープル材の家具調を選んだ。 弟の位牌は塗が剥げていたので父のものと揃いにしたかった。花入れなどの道具類は色の違いを試しては比べた。 霊園には納骨に際し、墓石に新たに戒名を彫ってもらうことを依頼。納骨の日程、供物などを相談した。 また、新仏の供養もあり納骨の日まで実家で生活した。 同時に父の遺品整…

  • {125}最終章 おひとりさま(2-8.父 逝く)

    葬儀にあたって、田舎から伯父夫婦、叔母夫婦、従兄弟が来てくれた。 八十一歳の父の兄妹は当然ながら高齢であり、遠方から来てくれたことにさぞかし父も嬉しかっただろう。 他には父方の叔父夫婦、母方の叔父夫婦と田舎から叔母も来てくれた。 この叔母のありがたい弔問は予定外だった。 料理が足りず喪主である私はスタッフ用を分けて貰うことになった。 皆と違うことに『アレルギーで食べられない物があるから』と言い訳までしてのアクシデントだった。 父の仕事関係者と私の友人たちがそれぞれに供花を贈ってくれたので、"お爺さん"の葬儀でありながら華やかな祭壇になった。 出棺時はその花々で棺がいっぱいであった。 二度目の霊…

  • {124}最終章 おひとりさま(2-7.父 逝く)

    葬儀が終わるまで、遺族が悲しみに浸っている暇はない。 朝から葬儀社の人と通夜、葬儀について一連の説明を聞きながら様々な事を決めていく。 実は、(父がもう駄目だ)と諦めていた私は事前に見学して、概要を聞いていたのだった。 いつもながら、最悪の場合を想定して準備してしまう自分の行動パターンがここでも役立った。 僧侶、親族、父の仕事関係者と知人、私の友人に連絡。 僧侶が来て読経。(僧侶より枕経は臨終後すぐであり、真夜中だろうと連絡すべきであったことを指摘された) 故人について(戒名を考えるにあたってか)聴かれたことを話す。 こうして、午前は過ぎて行った。 そして、【湯灌】が行われ、当然私一人で立ち会…

  • {123}最終章 おひとりさま(2-6.父 逝く)

    父の容体が安定したため、救急救命センターから一般病棟へ移って、 その後施設で介護を受けるための気管切開をすることになった。 また、一般病棟では個室代が高く、いつまで入院するかわからない状況に私は悩んだ。 無理を言って、ナースセンターの隣にしばらくベットを置いてもらうことができた。 そして、病院のソーシャルワーカーに今後施設で介護を受けるにあたって質問と相談をした。 帰り際、父に向かって「お父さん。 私覚悟したからね。 これからも二人で頑張ろう!」 と約束したのだった。 ----------------------------------------- その夜11時前に病院から電話があり『父の呼…

  • {122}最終章 おひとりさま(2-5.父 逝く)

    決まっている面会時間にしか会えないうえ、家に居ても落ち着かない。 パート先からの方がすぐに病院へ行けることもあって、出勤して毎日退勤後に面会時間の6時から8時に父を見舞った。 看護師からウェットティッシュを渡され『顔や手を拭いてあげてください』と言われた。 父の手は温かく、徐々にではあるが顔の腫れも引いていて、 (まだ、生きているんだ)と実感する日々だった。 母方の叔父夫婦も見舞いに来てくれた。 義理の叔母が『お義兄さん、早う良うなって』と話しかけ励ましてくれた。 私は積極的な措置を望んでいない自分に自問自答した。 同じように入院している患者の家族は皆一様に『良くなって』と言い一生懸命に願って…

  • {121}最終章 おひとりさま(2-4.父 逝く)

    翌日も叔父は病院に来てくれた。 救命救急センターの医師から『変わらず予断を許さない状態だが、安定している』と説明を受けた後、ようやく父への面会ができたのだった。 ベットで口を大きく開けて眠る父の姿は頭に包帯、顔は打撲による内出血のため青く腫れ上がっていた。特に左半分が酷かった。また、呼吸を助けるためのチューブの他にも幾重にも機器に繋がれいた。 その日は入院手続きもあり、紙おむつなど必要なものを持って私だけ夕方もう一度見舞った。 父の好きな演歌を録音したウォークマンを聞かせながら、「お父さん、痛かったね。もう頑張らなくてもいいからね。私なら大丈夫だから心配しないでね」と語りつづけた。 すると、父…

  • {120}最終章 おひとりさま(2-3.父 逝く)

    昼休憩の時、携帯電話に見知らぬ人からの2件の着信履歴。 メッセージがあったので聞くと民生委員からで『お父さんが階段から落ちて救急車で病院に運ばれました。電話に出られないので弟さんへも連絡しました。すぐに病院に向かうと言われました』 頭の中が真っ白になった。 何とか平静を取り戻し、折り返し民生委員に電話し詳細を聞きお礼を言った。叔父(父の弟)にも電話し、『私もすぐに病院に向かう』と伝えた。 父の運ばれた病院は偶然にもパート先から目と鼻の先の距離だった。 『治療中なのでここでお待ちください』と言われた部屋で叔父の到着を待った。 こういう場合、一人で黙って待つのではなく叔父と話していると少し不安が和…

  • {119}最終章 おひとりさま(2-2.父 逝く)

    父は週1回の家事援助に加えて、週二回デイサービスを利用するようになった。 行き帰りは車での送迎、体操や器具を使って体を動かすことができ、昼食にお弁当も頼めた。 他に入浴サービスもあって、 私は『個浴で、男性スタッフに背中を流してもらえて頭も洗ってもらえるよ。家で風呂沸かさんでええし、帰ったらご飯食べてすぐ寝れてええんとちがう』と言って何度も利用を勧めたていた。 しかし、父は『あれは風呂の無い人が入るんや』 と言って頑なに嫌がった。 自転車が乗れなくなったことで行動範囲が狭くなり、気軽に外出できる機会が減った父にとってデイサービスのある日は楽しみであり、心待ちにしていたのだった。 -------…

  • {118}最終章 おひとりさま(2-1.父 逝く)

    大工であった父は過去2回仕事中に大怪我をしていた。 一度目は柱と歩板の間に体が挟まって入院。その後リハビリをしたが頸椎の損傷が完治せずに本人にしか感じることができない程度の後遺症が残った。 二度目は二階の足場から転落。運よく資材の上に落ちたことがクッションとなったが左太ももの大部分の筋肉を断裂した。 そういう理由で、血行改善とリハビリを兼ねて整形外科と接骨院への通院が父の日課であった。 免許の無い父はどこへ行くにもアシスト自転車だったので、左脚を怪我してからも無理して乗っていた。常々、不安を感じていた私は前輪が2輪のアシスト三輪車が脚に負担が少なく安定して乗ることができればと考え、父に勧めたの…

  • {117}最終章 おひとりさま(1-2.再び)

    冷静になって考えると、安定した今の仕事を失うことはリスクが大き過ぎたし、これからも仕事量が増えていくことが予測できる中、私が抜けることでチームの仲間に負担を強いることになる。 こうして私が悶々とするうちに日々は過ぎていった。 予測通り業務が多忙となり、私の日常は様変わりした。 平日は家に寝に帰って、すぐに仕事へ行き、休日は何もする気力がなくただただ眠り続けた。その上、右肩が痛みだして、また五十肩になった。 勤労感謝の日、布団の中でぐずぐずしていた時、頭の中でアラームが鳴った。 (危険、危険!あの頃と同じ) (このままではまた病気になる)(今、行動しなければきっと後悔する)(それだけは絶対に嫌だ…

  • {116}最終章 おひとりさま(1-1.再び)

    術後五年が経った。 私は80%の方に入った。 この頃から、私は生かされていることだけでは満足できなくなっていた。 それは、(自分の本当にしたいことをすることであり、自分の人生を生きたい) という思いが強くなっていたことでもあった。 私は生活をしていく上で、否応なくお金との関わりについて、子供の頃からいろいろ経験してきた。 そして、お金をどのように活かして遣うかは、人それぞれの価値観で違っていて当たり前ということも母を通して実感していた。 そのことをファイナンシャルプランナーの勉強を通して、再確認できたと言っても過言ではなかった。 私の中で一度は諦めたファイナンシャルプランナーになる夢が甦ってき…

  • {115}コーヒーブレイク(第9章 自分の人生)

    術後一年が過ぎた頃から、一人暮らしが本当に楽しくなった。 手術前から続けていたボイストレーニングに加えて、ホットヨガを再び始めることで体力に自信が持てるようになっていた。 また、少しでも元気に見えるようにパーソナルカラーも学んだ。 その年の十月にパーソナルカラーの先生が 『ファッションショーをするのでモデルをしないか』と言われた時には、 二つ返事で出演を決めた。 そして、ファッションショーにはお世話になった義理の叔母、友達、鍼灸院の先生を招待した。 黒のドレスを着て、ランウェイを歩く私の元気な姿を見てもらうことが、 私からの皆へのせめてもの感謝の気持だった。 韓国ドラマにも夢中になった。 おか…

  • {114}第9章 自分の人生(3-7.気がかり)

    墓移転は順調に進むと思っていたが、意外なことに田舎の伯父が難色を示した。 檀家で管理している墓地からの移転に(周りからどう思われるか)と言うことが気がかりだったのだろう。 『今まで、伯父さんだけでなく伯母さんにもお世話になっておきながら勝手なお願いをして本当に申し訳ありません』 『ですが、これから先の代替わりした時を考えて、引き続き従兄夫婦にお世話になることは心苦しくてできません』と私の考えを伝えたが、 伯父は最後まで首を縦に振らなかった。 それでも最後は、【改葬許可証】に現在の当番の墓地管理者である伯父は署名・捺印してくれたのだった。 墓じまいの日は父との待ち合わせが上手くいかず大変だった。…

  • {113}第9章 自分の人生(3-6.気がかり)

    後悔のないよう気になる事は解決しておきたいと思ったことにお墓があった。 田舎にある弟の墓参りには父が毎年お盆の帰省を兼ねて行っていた。 片道3時間かかる上に駅からタクシーに乗り墓地で待機してもらって、再びタクシーに乗って伯父の家へ行く。 墓参りはせわしいとしか言いようがなかった。 父も脚が不自由になってからは年々移動が大変になっていた。 兼ねてから(近くで永代供養をしてくれる墓地は無いか)とネットで調べていた私は、興味を持った霊園に『ゴールデンウイークに見学にいかないか』と思い切って父を誘ってみたのだった。 そして以外なことに、二つ返事で父はOKした。 神戸の山間にある霊園へは自宅からバスで最…

  • {112}第9章 自分の人生(3-5.気がかり)

    私は福祉の担当者に現在の私の状況 (一年前に癌になって五年間は再発の不安があること) (父が無年金で私が生活費を管理サポートしていること)を説明した。 さらに、これまで母の浪費癖でどれだけ大変だったか。 離婚してからも、出来る限り援助してきたこと。 別居して二十年以上経っていること。 最後は感極まって「助けたくても無理なんです」と泣きながら訴えたのだった。 話を聞き終わった担当者から 『今までのことがわかって、お母さんの行動にも納得できました』と言って、 これまでサポートをして困った経緯を教えてくれた。 更に 『自分が知っている中でも本当に気の毒だと思う』と言って、扶養できないことを了承してく…

  • {111}第9章 自分の人生(3-4.気がかり)

    ある日、役所から【お知らせ】が届いた。 内容は母が生活保護の申請をしていて扶養義務者に今後の扶養についての意思確認を求めるものだった。 母に関することは私にとっていつも驚きであり狼狽させられた。 文書では詳細がわからない。 私の都合も知ってもらいたいことから役所に出向いて現状を教えてもらうことにした。 『同じ団地に住む人が母を連れて生活保護の申請に来た』と言われた。また、『生活保護より認知症の方が問題である』とも言われた。 以前、義理の叔母を通じて母が良く遊びに行っている母の従姉妹から 『フミエちゃんの様子がおかしい。認知症かもしれない』と訊かされていた。 私は叔母に 『母を説得して病院で診察…

  • {110}第9章 自分の人生(3-3.気がかり)

    父は私の渡す生活費の範囲内で日々の食事や日常品の買い物、病院代、交通費、小遣いを遣り繰りして(させて)いた。 洗濯は大好き。綺麗好きで食器洗いやシンク周りは問題なかった。 部屋とトイレの掃除は私が週1回休みの日にしていた。 ずっと銭湯を利用していたがつぎつぎと閉店となり、とうとう内風呂を使うことになった。 機械音痴の父にお湯張りを覚えさせた(?)はいいが、掃除は私の役割で私の負担が増えた。 何かの折に、義理の叔母が『いっちゃん、いくら大丈夫と言ってもお父さん家と自分家の両方は大変やて。無理したらあかんよ。 お父さん、脚が不自由やから介護保険で生活支援してもらえるんとちゃうん。 身内やとついつい…

  • {109}第9章 自分の人生(3-2.気がかり)

    電話嫌いの父だが、私への電話は頻繁にあった。 『いっちゃん、洗濯機が動かん!見に来てくれ!』 『どんな様子なん』と私。 『水は出るけど、回らん』 『お父さん、蓋閉めてる?全自動は蓋開けてたら動かんよ』 『動いた。ありがと』 毎度、自分の要件を言って終わり。 -------------------------------------- 北海道への旅行中のこと、携帯電話に父からの数え切れない着信履歴。 『お父さん、何? いま、私、北海道におるんやけど・・・』 『あんな、今日、掃除の時に(団地の自治会の)会長しろって言われたんや』 『私、住んでないから、出来へんって言った?』 『わし言うたけど、おば…

  • {108}第9章 自分の人生(3-1.気がかり)

    父の自立に向けての第一歩は経済状況を知ってもらうことからだった。 毎月の支出額だけでなく、生活費・公共料金・貯蓄用に分けている口座の種類と残高。 いざという時のために私が加入している生命保険とがん保険。 それぞれの通帳と証券、印鑑の保管場所の説明をしなければ始まらない。 『まだ、いい』と言って父は取り合わない。 『田舎の伯父さんからも知ってなあかんって言われたやん』と私。 『おまえがわかってたら、それでええ』 厄介ごとを避けるのは相変わらずであった。 それでも、自分で毎月の生活費をATMで引き出せるようにならなければ駄目なことを説得できた。 だがこれが一筋縄ではいかなかった。 (徐々に画面と操…

  • {107}第9章 自分の人生(2-5.一人暮らし)

    その後、梅木先生を訪れることがないまま今日を過ごしている。 私がカウンセリングを受けた期間を振り返って思うことは、 人生とは本当に予測できないことの連続であり、 自分でも(こんな事があっていいものか)と、 人知を超えた何かしらを感じずにはいられない経験をした。 【禍福は糾える縄の如し】本当に、昔の賢人は良く言ったものである。 「このまま減り続けたら無菌室に入らなければならなくなる」 こう主治医から、本気か冗談かわからないことを言われた私の白血球数は、 薬の服用を止めたにも関わらず正常値に戻ることはないままであった。 しかし、私の免疫力は私の言った通り自力で頑張っていた。 こうして、解き放たれた…

  • {106}第9章 自分の人生(2-4.一人暮らし)

    ここまで言った私は、思い切って先生に持論をぶつけてみた。 「先生、私、間違っているかもしれませんがこう思うんです。人はそれぞれ幸せと不幸せの器を持っていて、 その器の大きさや材質は様々なんです。 私の場合、幸せの器は小さくて僅かなことですぐに一杯になるんですが、 不幸せの器は大きくて素材も強いのでなかなか一杯にはならない上に壊れないんです。 それに比べて母の場合は、幸せの器が大きすぎて私と同量では全然足らないのです。そして逆に、不幸せの器は小さく繊細で、ちょっとのことですぐに一杯になってしまう・・・」 私の言葉はもう止まらなかった。 「何よりも母と違うのは、私は不幸せの器から溢れ出た分を幸せの…

  • {105}第9章 自分の人生(2-3.一人暮らし)

    -------------------------------------- 「先生、その後の薬の服用についてですが、副作用のためか検査の度に白血球が減り続けていて、主治医がこの状態を『気持ち悪い』と言って 服用を中止することになりました」 「これは、私の白血球が『薬の助けがなくても自力で頑張れる!』と言って 抵抗しているのだと思います」 こんな私の無茶苦茶な解釈にも、 「そうね。あなたの言う通りだと思いますよ」と、先生は賛同してくれたのだった。 これに気を良くした私は、思いつくままに話していた。 「私、以前義理の叔母から『あんたようグレんと育ったなぁ』と言われたことがあって、それは私が親から…

  • {104}第9章 自分の人生(2-2.一人暮らし)

    ------------------------------------------- 「高野さん、普通なら当たり前に一人暮らしができるのに、 あなたは本当に時間がかかりましたね」と先生は言った。 「はい。おかげで準備期間が長かった分、一人になっても困ることは何もありませんよ」と、 私は明るく笑顔で答えた。 ------------------------------------------- 私が一人暮らしをすることを決めたのは、もちろん自分の夢を叶えたかったことが一番にあった。そしてもう一つの理由は、今後もし癌が再発した場合を考え、 (父には自立した暮らしができるようになっていてもらいたい…

  • {103}第9章 自分の人生(2-1.一人暮らし)

    私はこれまで、母の脳梗塞、両親の離婚、阪神淡路大震災と一人暮らしをするチャンスを逃していました。 だから、今回が最後のチャンスだと思い、絶対に逃すまいと固く決心したのです。 私はすぐに行動を開始しました。 まず、叔母に会った三日後に振替休日を取って部屋探しです。 ここでもラッキーなことに、すぐにほぼ理想通りの部屋が見つかりました。 そして仮契約を済ませた私はその夜、叔母に報告と保証人を頼むために電話をしたのです。 ちょうどお盆と夏休みが重なった日に、私は念願の一人暮らしを始めました。 それは退院から二カ月経たない暑い頃でした。 叔母夫婦は引っ越しの日も手伝いに来てくれました。 電化製品やラック…

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