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日々これ好日 https://shirane3193.hatenablog.com/

57歳で早期退職。再就職研修中に脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。治療終了して自分を取り囲む総てのものの見方が変わっていた。普通の日々の中に喜びがある。スローでストレスのない生活をしていこう、と考えている。そんな日々で思う事を書いています。

杜幸
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2023/03/09

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  • 讃岐の生まれ

    「元気なん?」叔母から電話がかかってきた。季節の挨拶だった。受話器を取った瞬間にわかる、故郷の言葉だった。おっとりと優しいイントネーションに自分の心は温まる。故郷と言っても自分が実際そこに住んだのは三歳までで、あとは毎夏休みに母親の里帰りに同行してひと月をその地で過ごした。高校生までそうしていたから延べ日数は短くはない。自分の郷里は何処だと聞かれたら迷うことなく香川と答える。 そんな故郷は香川県中部の港町だった。家から十分も歩けば瀬戸内海が広がっていた。南に少し足を延ばせば古刹・善通寺がありその南には金毘羅山がある。♪こんぴらふねふね 追い手に帆かけて シュラシュシュシュ… 金毘羅参りのあの歌…

  • 見知らぬ街と人々について

    プリンターに封筒をセットする。家庭用インクジェットプリンターだから分厚く重たい封筒など一枚一枚手差しかと思いきやそうでもない。B4封筒を十枚重ねて入れてもミスフィードなしに吸い込んでくれる。みるみる宛名印刷をした80枚の封筒が出来上がった。 自分はそこに印刷所から段ボール箱で送られてきた冊子を入れて封を取じる。封筒の右耳をハサミで切り落としていくのは「ゆうメール」で発送するからだった。中身が冊子や印刷物、あるいはCDなどのメディアであればこれを使う事で少しは安く送れる。右耳を切り落とすことで職員さんが中身を上から覗いて確認するのだった。 別に小銭稼ぎの内職をしているわけでもない。中身の冊子は登…

  • 大月駅

    中央線に大月という駅がある。そんな言い方をすると三遊亭小遊三師匠に怒られるだろう。なにせ長寿のテレビ演芸番組「笑点」では、彼の故郷の町は彼の言葉を借りるならば山梨にあるパリだという。そこで人々はフランス語を喋りクロワッサンとバゲットの朝食を食べるという。自分は色男である、色男とはフランス人、だから故郷の街はパリになるのだ、そんな師匠の鉄板だった。誰もが大喜利でその答えを楽しみにしている。 師匠の郷土愛はよくわかる。誰しも故郷を愛するから。実際の大月市は相模川の上流にあたる桂川沿いに開けた谷間の土地だった。列車の乗り継ぎで久びさに大月駅に立った。首都圏に住むハイカーにとっては大月は馴染み深い。手…

  • ザルにお金

    まだまだスーパーマーケットが世の中に普及する前、昭和四十年代は市場と呼ばれる個人商店が軒を並べた場所があった。アーケードなどもなく狭い路地にトロ箱のように並んだ個人商店の軒で雨風をしのぐ、しかし不思議な熱気に溢れる、そんな場所だった。八百屋や魚屋は会計の時にはザルを使っていた。そのザルは籐で編んだ平ザルでありその外周のうち三、四カ所にゴム紐が通りそれが店の梁からぶら下がっていた。ザルの中には札や硬貨が乗っていた。会計の度にザルは揺れるからそこから金が飛び出さぬかと子供心にも心配をした。 そんな風景もあっという間に消えた。まずは戦後のバラックを想像させるような市場も個人商店が減り、スーパーマーケ…

  • 義務を負う者

    車で一時間半あたりだろう、そんな地で演奏会が予定されていた。ずっと前からそのチラシを大切にしていた。しかしその前日から体の具合が悪くなった。翌日、どうしても車を一時間以上運転する気が出なかった。残念だが今日はパスしよう、そう思った。チケットは当日券を考えていたので取りやめても経済的な損失はないのだった。 バッハはカンタータを毎週日曜日の教会でのミサのために書いていた。王侯付き宮廷楽長であり、教会のカントルを歴任した。ミサのための曲を書くのはそんな彼の仕事としての義務だった。バッハのカンタータの譜面は多くが現存していないものの今でも二百曲は残っているというから驚きだ。週一回に一曲を書く。一年間は…

  • トマトのワルツ

    やあ、僕はすっかり大きくなったんだ。ここの家に来た時はまだ苗ポッドだったね。もう背丈は六十センチだからね。前にご主人が間違って僕の枝の一つを折ってしまった時、痛かったよ。だけどその分僕に栄養が回るね。おかげで、どう。立派でしょ。 そう話しかけられた。なるほど、防鳥ネットの向こうには緑色のタマがいくつも連なっている。まるで犬のふぐりのようでもあった。ポッドから土植えに変えて毎朝楽しみに見に行くのは妻の仕事だった。大きくなった、やれ枝が曲がっている。支柱を立てて沿わせよう。そんなに煩く言わなくても伸びるだろう、気にしない気にしない。野生の力を信じよう。いつも喧々諤々だ。 そんな日々が続いていたが、…

  • 朝の運動

    早起きをして空き地に駆けていく。町内会のおばさんがラジオを手にしている。何故わくわくしたのか。朝早くから友達に会えるからだろう。そして最後には首にかけた紙にハンコを押してもらう。皆勤賞迄あとわずか、と嬉しくなる。 事務所の扉を開ける。自分の社員証のバーコードをスキャンする。メンバーの一人がCDプレーヤーのボタンを押すと流れてくる。ピアノ演奏と元気の良い声が。 今の子供はわからぬが、日本人なら誰もが勝手に体が動いてしまうであろう、ラジオ体操。調べると1928年からNHKが放送していたとある。なんとも長い歴史があるようだ。 一旦ラジオ体操とは小学校卒業とともに別れてしまった。再会するのは社会人にな…

  • 松本礼賛

    旧制高校を卒業し仙台の大学医学部に進む若き作家の卵はこう書いている。「車窓から穂高の姿が消えると自分は汽車の座席に戻り、うつろに詩集を開いた」と。 軽妙なエッセイと純文学を残した作者は旧制松本高校で終戦直後の青春を過ごす。そんな疾風怒濤の時も終わり新しい街へと旅立つ日に、車窓から見る北アルプスを見ているのだろう。新しい世界へは期待があるはずなのになぜうつろだったのか。過ごした時間が余りに濃密だったからだろうか。昭和に大衆から人気のあった作家・北杜夫氏の作品である「どくとるマンボウ青春記」では一人の少年が多感な青年となり悩む時を経て文学と言う自らの道を見出していく。その文庫本は今も大切にしている…

  • お国言葉

    山梨県の北西部に引っ越してきた。周りの人との会話は友人や店先でのものだった。友人は移住組だった。JR駅や道の駅で職員さんと会話をしても、キッチンカーやワインバーでオーナーと話しても、皆さん共通語だった。聞けばやはり誰もが都心からの移住組であり、長い時を経てのUターン組だった。 もっと違うはずだと密かに楽しみにしていた。ご近所さんとの付き合いが深まり、更にこの地で働きだしてからようやく嬉しくなった。この地の方言に触れる事になったのだ。 ○○だろ、○○だろう、そんな時職場の同僚は「○○ずら」や「〇〇だら」と言うのだった。鳥肌が立つではないか。自分にとっては馴染深い言葉だった。静岡県は駿東地区、つま…

  • 黄金の曼殊沙華

    近所の野草園に出かけた。庭にロシアン・セージを植えようと思い買いに行ったのだった。太陽は南アルプスの真上を横断し信州の山並みに隠れようとしていた。 ああ、と声が出た。思わず車のブレーキを踏んでしまった。西から指す陽射しが実りの盛りの田を照らしているのだった。そしてなんだろう、その田と用水の境には曼殊沙華が見事に花開いているのだった。稲穂と曼殊沙華を写真に収めたくなった。車を停めて農作業をしている人に声を掛けた。どちらも写真に撮って良いですか?と。 どうぞと快諾された。四十歳代と思える女性だった。野良姿なのに肌は綺麗で顔も整っているのが不思議だった。無理矢理に汚れても良い格好をしているように見え…

  • 満ちる光

    一枚のCDを聴いている。自分が住む高原のコンサートホールでそれを手に入れてから何度再生した事だろう。そのジャケット裏にはサインがしてある。それは奏者自らが目の前でサインをしてくれたのだった。そして僕はその奏者の手を握るのだった。ぎこちなくしかし確実に差し出された右手に僕は触れ、握った。硬質とも思えた音なのに奏者の手も指も柔らかかった。固い音ばかりではない、時に力を抜き柔らかいタッチもある。それを可能にするのはそんな手指のお陰だろう、そう思った。 ステージの上に一台のピアノが置いてあり何気なくそこに会場の光が集まっていた。ピアノは見慣れたスタインウェイではなくベーゼンドルファーだった。ああ、これ…

  • ロールキャベツ

    挽き肉をこねて作る料理はあまねく好物だ。多少中身が異なるにせよどれも美味しい。ハンバーグに餃子など好きな二大料理だ。それぞれが七変化する。ハンバーグはピーマンに椎茸に詰めればそれぞれの肉詰めに。あるいは蓮根に挟めば挟み揚げに。小さく丸めたら肉団子に。鶏肉でやれば串に刺されつくねに。餃子は料理法では負けていない。焼く、蒸す、茹でる、揚げる。餡の量と皮を変えれば雲呑になる。 我が家の庭は十平米もない小さなものだ。酸性の赤土だったので土壌改良をしてもらった。培養土を埋め三列の畝を作った。畝作りも防草シート敷きもトンネル支柱を立て寒冷沙と呼ばれるビニールを被せるのも、初めてだった。全ては家内の指図で自…

  • 山梨カルテット 甲斐からの山・日向山

    山歩きは好きだが、三十年の間自分は一度度登った山に何度も繰り返して登ることは余りなかった。「山の広辞苑」とでも言うべき労作がある。厚みはまさに広辞苑と寸分たがわぬ。そこには国土地理院の二万五千分の一地形図全てに記載されている山の全て。加え地形図に記載なくとも登山対象の山として各地の人々に関わりの深い山の名前が網羅されている。地形図は四千四百枚以上に及ぶから数は膨大だ。それら全てに山の名前とその標高、緯度経度に加え歴史や謂れ、そんな地理学的な情報、歴史や地政学的な観点から山を調査している。何とそこの記載されたピークの数は二万五千に至る。まさに唯一無二な書物だった。自分はそこの本に記されている山に…

  • 漆黒のガラス瓶

    一度は飲んでみたいと思っていた。しかしそれは如何にも古めかしく、それを飲んでしまったら古い価値観を受け入れたことになる、そんな風に思っていた。 父親は昭和一桁代の生まれだった。戦争が終わった時には十五歳だから戦争の中を過ごしたことになる。彼からその当時の話を聞いたことはない。香川県中部という比較的長閑な場所に住んでいたのだから戦火にあまり会わなかったかもしれない。一方で、戦時下の教育を受けているのだから、あるいは自分も潔くお国の為に身を捧げるのだとでも思っていたのかもしれない。 自分は父親が三十三歳の時に生まれた。そんな昭和三十八年と言えばどんな時代だったのだろう。ネットを見れば情報は幾つもあ…

  • 風の悪戯

    森の中に一日車を停めていた。ボンネットに何か落ちているな。まぁいい、走ろう。しかしそれはボンネットから転がりワイパーで止まった。仕方ないなぁ、と車を停めてそれを車内に収めた。よく見れば左のミラーにもそれは引っかかっていた。 散歩の途中だった。足元のイガグリが目に留まった。幸いに車には踏まれていない。少し蹴ってみたらいつか割れた。持ち上げようとしたら棘が刺さり痛い。爪先で持ち上げて散歩カバンに入れた。 二つを机に並べてみた。まったく秋だった。ドングリが落ちるにはまだ早いようにも思えたが強い風でまだ色づかぬ枝葉ごと落とされたのだった。実際、実はまだ青かった。イガグリは何故落ちたのか。重くなりすぎて…

  • 結局僕は、果たせない

    ラジウム鉱泉の先にあるとある山小屋だった。そこは日本百名山の一つである岩の峰に登るには最も最適な場所だった。自分も又そこに車を停めて山頂を目指した。十一月の岩肌は冷たく数日前に降ったであろう雪が残っていた。陽が高くなると少しだけ空気は棘を失い雪も消えていった。山にはまだ悪くない季節だった。 山を終えて山小屋に下りた。下界に戻るバスはもう終わっていたのだろうか、バス停の近くに年老いた男性がいた。山靴を解きサンダルに履き替える。ザックから身の回りのものを取り出して助手席に置く。車に上半身を預けて下半身のストレッチをする。最後に落し物はないかを確認してから車に乗る。五分から十分かかるだろう。 エンジ…

  • 女神たち

    学生の頃、世の中の女性は全て女神に見えた。何と美しいのだろう、それは近づけない程に…。なかでも好きになってしまったひとは更に輝いていた。まさに高嶺の花だった。手を伸ばしても届かない。そもそも怖くて手が出ない。怖いのは自分が傷つくからか、恥ずかしいからか、それは定かではない。持てる全てのマイナス思考が自分がそんな行為に至ることを止めてしまうのだった。 しかし結婚生活を何十年もしているとわかる。女性も人間であると。しかし女性とは男性にとり、例え喧嘩をしてもいずれ還っていく安らぐ存在だ。年齢に関係なく男はいつも女神に憧れるように出来ている。それが無くなったらオスとしては終焉なのだろう。 花を第三人称…

  • 君は何を待つ?

    リードにぐいぐい引っ張られながら走る。全力疾走だ。還暦を越えた自分が心配すべきは足がもつれて転倒する事だった。顔の骨でも折るだろう。 未だ幼稚園だった。最寄りの国鉄の駅には駅ビルが建っていた。その屋上には小さな遊具施設があった。親に連れられて何度か行った。しかし遊具よりも僕の目を引いたのは向かい側の駅前広場の向こうの踏切を駆け抜ける赤い電車だった。それは恐ろしく速く轟音とともに埃っぽい踏切を駆け抜けるのだった。まるで赤い矢か、それこそ火の玉のようだった。 京浜急行電鉄だった。その駅には国鉄と京浜急行の駅が広場を挟んで向かいわせにあった。とうの昔に京浜急行は高架駅になったが当時は踏切だった。三浦…

  • 武田橋・信玄橋 自転車一筆書き

    ずっと横浜に住んでいた。家は工業地帯を展望する高台にあり開港記念日には港の花火が見え、大晦日の夜には年が明けると一斉になる船の汽笛が除夜の鐘だった。そんな街から僕はひたすら一筆書きをしていた。自宅からサイクリングである所まで。すると次回はそこから次の街へ。ときには車を使い時には自転車を輪行袋に収めそこから走り出す。初めは気ままだったがそのうちに方向性が出てくる。僕は学生時代の友が住む東北の街を目指そうと考えた。横浜から武蔵野へ、所沢へ。熊谷へ、伊勢崎へ、佐野へ。そして栃木から鹿沼、宇都宮、黒磯へ。松尾芭蕉が歌った白河の関の西、棚倉という古い城下町が目指すところで、そこには懐しい友が住んでいた。…

  • 枝豆・ゆでタマゴ

    毎朝顔を洗う。肌に気を使う人ならばきちんと石鹸を使い手入れをするのだろう。自分は冷たい水でざぁっと数度手を往復するだけだ。高原の水道は冷たい。しょぼついていた目はすぐに覚める。 鏡を見てつくづく思う。歳をとったなと。そして人相も変わったな、と。小学校の卒業アルバムは坊っちゃん刈の間抜け顔。中学校の卒業アルバムは何故か紛失。高校のそれでは一応横分けをしている。そして大学のそれでは何を考えていたのか髪の毛の上部を短くカットしてピンピンと立たせようとしていた。さしずめ好きなロックヒーローの髪型の真似でもしたかったのだろう。それは決してジョニー・ロットンを目指したものではない。第一彼は超ガリガリだった…

  • ハイキング・グローブ

    しまったなあ、そんなふうに口にした。ゲルハルト・ヘッツェル氏がザルツブルグ近郊の山歩きで滑落死したのはバランスを崩した際に彼が指をかばい岩を掴むのを拒んだから、と報じられていた。 ・・しかし自分は何だろう。只の趣味の範囲だが一応自分も弦楽器奏者だった。フレットを押さえる左手の指五本、そして弦を弾く右手は親指・人差し指・中指まではフルに使う。右手の薬指と小指は不要かと言えばそうでもない。何気にバランスを取るの役立っているし弦全体にミュートする時はブリッジに手の平、特に小指を置いて弦の余分な響きを押さえる。また親指引きをする際に右手を固定し余分な弦を鳴らさぬよう残りの指全てでのミュートが必要だ。左…

  • ピクニックランド

    中央線に相模湖という駅がある。駅前に小さなバスロータリーと観光案内板がある。その西の藤野駅を以って神奈川県は終わり山梨県になる。東は高尾駅でそこは東京都だった。相模湖自体はその下流の津久井湖と同様に相模川をせき止めたダム湖だ。人造湖と言うと身も蓋もないが自然が作ったものではないから仕方ない。一応手漕ぎやスワンボートも有るがどれほど人気が有るのかはわからない。湖を前にした狭い市街地はかつては中央高速道路の渋滞を避けるための裏道の要所だった。実際オートバイで車で何度も通った。 そんな駅前で撮った色褪せた、いや記憶の中では鮮明な写真があった。若草色のサマーセーターを着た若い女性と、肥満した青年が写っ…

  • もう少しもたって欲しい

    8分音符があるとする。音符の位置で音が出ればよいがこちらはコンピューターではないのでそうもいかない。音符より少しだけ前で音が出るか、その通りで出るか、やや遅れるか、難しい。 スリーコードのブルースがあった。もう少しゆっくり目で、ノリを重たくして引っ張って欲しい、そうドラマー氏から注文があった。彼とは長い付き合いになるが言いたいことはストレートにきちんと言ってくれるので助かっている。以前から言われているが彼によると僕はいつもリズムが走ってしまうという。ライブハウスで実演となると誰もが走ってしまう。それは熱演のあまりテンポが速まるという意味だが、彼が言っているのは自分は何時も音の出が早いという事だ…

  • 中央線上り高尾行き

    中距離列車に乗るがロングシートだった。クロスシートの車両は、向い合せ席になるし収容人数が少ないからか、いつしか見なくなっていた。一両の長さが二十メートルに三扉だから一つのシートは長い。都心の通勤車両が同じく二十メートルで四扉なのに比べると、やはりのんびりとしている。 山を見ながら居眠りをしていると健康的な笑い声で目が覚めた。自分が乗った駅では手に届きそうだった南アルプスは遠ざかり、雲に隠れていた。自分から一つ置いて二人の女子高生が座っていた。向かいの席にも幾人もいた。笑い声はそこから湧いていた。先程まで乗っていたニキビの男子高生達はいつしか降りていた。今はカッターシャツやリボンの付いたブラウス…

  • 裏庭のヒマラヤ 甲斐からの山・編笠山

    「裏庭のヒマラヤ」。何のキャッチフレーズか広告か覚えていない。登山道具メーカーだったのか登山道具店だったのか。登山雑誌の広告か、カタログに書かれていたのかポスターか、ウェブサイトかもわからない。山はいつも身近にありますよ、そんなことを言いたかったのだろう。山好きにとり山が近いのは嬉しい。なかなか良く出来た台詞に思える。しかしヒマラヤが裏庭とはどんな処なのだろう。ネパールか、パキスタンか。 山道を登りながら考えた。あ、そうかここは裏庭の八ヶ岳だ、と。自分の住む街の駅舎は五、六年前に新しいものに建て替えられた。如何にものどかな昔の駅舎が好きだったが、近代的な駅舎内にはエレベーターもあり駅そば店から…

  • 焼き餃子

    おかずとして自分の好きな料理を三つ挙げろと言われたら? ロースカツ、ハンバーグ、そして餃子か。一杯・一皿で済むものならラーメンだ。「支那そば」と呼ばれる昔ながらの醤油ラーメンは外せない。何故かわからぬがインドカレーとスープカレー以外のあのどろりとしたカレーには関心がない。刺身も寿司も出てこないのだからなかなか安上がりに出来ている。しかもメタボリックシンドローム向きのメニューばかりだ。 揚げ物は自分では出来ない。温度管理もさることながらあの大量の油を考えると精神衛生上あまり感心しない。これはやはり専門店でサクッと揚がったものを頂きたい。ハンバーグも餃子もやはりステーキハウスや町中華が美味しいだろ…

  • 打ち止めです

    腱鞘炎という名前には憧れがあった。ピアノの練習のやりすぎ、野球で投げ込みすぎ、手首から上を湿布や包帯でくるんでいると、ああ、この人は一生懸命に自分の道に集中したのだな、羨ましい。なにちょっとやりすぎただろう、早く治ればよいな、そんな憧れが湧くのだった。 手首が痛くなった。親指の力は入る。腱鞘炎ではないと思うがとりあえず湿布を貼った。ピアニストでも美容師でも、野球選手でもないのに何故手首から親指の付け根が痛いのだろう。思い当たる節はあった。この数日間、ずっと集中していた。 それは庭造りだった。植樹とは別に庭の大まかなデザインを叶えるためには、石やレンガが必要だった。石は自宅の敷地を掘った際に幾つ…

  • ラーメンエレジー

    映画「男はつらいよ」が大好きだ。最後の二作品を別とすると実質的に故・渥美清が寅さんこと車寅次郎を演じた作品は四十八話になる。盆と正月に年二度のペースで上演されていて誰もがそれを心待ちにした、まさに国民的映画だったのだろう。細切れであるいは通して、一体自分はこの作品群を何度見て、飽くことなく何度涙をながしたか数えられたない。気に入った話だけをDVDで持っている。癌病棟に居た時にそれらを買った。ベッドでいつも嗚咽した。それは二十七本に及ぶ。癌が消えたのは寅さんのお陰かもしれなかった。泣く事で幸せホルモン・オキシトシンが活性化しがん細胞を蹴散らした、そう思っている。では二十一本が何故ないのか?まぁそ…

  • バーガーの悩み

    生まれて初めてハンバーガーを食べたのは何時だろう。そうか、高校生だった。そこは広島市だった。通っていた高校は市の西の端に出来た新設校で家から近くだった。家は瀬戸内海を見る高台にあった。特段の用事もない限り市の中心部に出ることはなかった。 唯一行くとしたらそれは塾だった。中学の頃通っていた塾は百貨店の立ち並ぶ繁華街の北側にあった。高校になってからは全国展開の塾に通った。それは新幹線の停まる駅前にあった。 路面電車の好きな自分は時折国鉄ではなくそれで塾から自宅に帰った。時間は倍かかるがゴトゴトと振動を楽しんだ。街一番の交差点にバスセンターを兼ねた大きな百貨店がある。そこには東京の大型書店が入ってい…

  • 図書の旅41 中国行きのスロウ・ボート

    ・中国行きのスロウ・ボート 村上春樹著 中公文庫1986年 自分はハルキストではない。何故人気があるのかも知らなかった。会社の同じ日本人駐在員から貸していただき唯一読んだのは長編小説「半島を出よ」だった。当時は活字としての日本語に飢えていた。まぁ面白いからと薦められたのだった。有事での日本人の危機管理や対応能力にストックホルムシンドローム的な要素をからめたストーリの上手さが印象に残った。村上春樹が稀代の人気作家とは知っていたが、何故だろうそこで止まってしまった。 何十年振りかに図書館通いをするようになってからも自分が借りるのは読み慣れた戦前からせいぜい昭和五十年代辺りまでの作家ばかりだった。新…

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