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Enoの音楽日記
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オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。
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106回 / 365日(平均2.0回/週)

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Enoの音楽日記さんの新着記事

1件〜30件

  • 川瀬賢太郎/日本フィル

    日本フィルの11月の横浜定期は、当初はインキネンが振る予定だったが、来日できなかったので、川瀬賢太郎が代役に立った。プログラムも一部変更になり、オール・ベートーヴェン・プロになった。その選曲がわたし好みの曲ばかりで、ひじょうに楽しみなプログラムになった。1曲目は序曲「レオノーレ」第3番。冒頭の和音の一撃からして、川瀬賢太郎の思いのこもった重々しい強烈な音が響いた。続く部分のどこをとっても川瀬の意思が徹底されていた。だが、残念ながらオーケストラが硬かった。もっとほぐれた余裕のある演奏がほしかった。少なくともこの曲にかんしては、川瀬の意図をくむだけで精一杯だったようだ。2曲目は交響曲第8番。オーケストラには1曲目のこわばった表情がとれて、みずみずしい音色がよみがえった。川瀬の意図はこの曲でも明瞭で、バネのようにしな...川瀬賢太郎/日本フィル

  • 藤倉大「アルマゲドンの夢」(2)

    オペラ「アルマゲドンの夢」は初日を観て、その感想を書いたが、最終日も観たので、いくつかの補足的な感想を書いておきたい。このオペラが世界に通用するものであることは、初日に感じたとおりだが、もうひとつ感じたことは、歌手、オーケストラ、演出その他の制作面で、今回の公演は、かりに世界のどこかで初演されたとしても、これ以上の水準は期待できないと思われる水準だったことだ。まず歌手だが、ポピュリズムが社会を席巻していることにたいして、なにも行動を起こさないクーパー(それはわたしたち自身の似姿だ)を歌ったピーター・タンジッツは、初日同様、最終日でも役柄を深く掘り下げて歌った。そのクーパーに行動を呼びかける妻のベラを歌ったジェシカ・アゾーディと、人々を扇動するポピュリズム政治家のジョンソンを歌ったセス・カリコは、初日よりも自信を...藤倉大「アルマゲドンの夢」(2)

  • 鈴木優人/読響

    バロックからコンテンポラリーまで自在に往き来する鈴木優人の面目躍如たるプログラム。1曲目はシャリーノ(1947‐)の「夜の自画像」(1982)。いかにもシャリーノらしい濃密な夜の曲だ。打楽器奏者がスチールプレート(文字通りスチール製の大きな板)を2本の大太鼓のばちで(聴こえるか聴こえないかという最弱音で)ロール打ちを続ける。その微かな音が夜の気配を醸し出す。たまにロール打ちが止まると、無音の世界が生まれる。またロール打ちが始まる。無音の緊張から解放される。――そのような曲を鈴木優人指揮の読響は繊細に演奏した。2曲目はシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」。堂々と構築され、弛緩したところのない立派な演奏だったと思うが、あえていえば、肩に力が入っていたと思う。それがわたしを疲れさせた。言い換えれば、もう少し余裕という...鈴木優人/読響

  • 目黒区美術館「LIFE展」:古茂田守介の作品

    目黒区美術館で「LIFEコロナ禍を生きる私たちの命と暮らし」展が開かれている。同館の所蔵作品を「コロナ禍を生きる‥」の視点で構成したもの。そこに古茂田守介(こもだもりすけ)(1918‐1960)の作品が5点展示されている。たいへん感銘を受けたので、二度見にいった。同展の特設ページ(※1)に「母子」(1946)の画像が掲載されている。縦91.5㎝×横117.0㎝の横長の画面に若い母親が生まれたばかりの子どもを抱いて寝ている。満ち足りた幸福感が漂う作品だ。敗戦後間もない時期なので、社会は混乱していただろうが、作品にその影はない。そこだけポカッと空いた陽だまりのような空間だ。古茂田守介は1944年に涌井美津子と結婚して、1946年に長女の杏子(きょうこ)が生まれた。本作はそのときの作品だ。(※2)前述のとおり、同展に...目黒区美術館「LIFE展」:古茂田守介の作品

  • 藤倉大「アルマゲドンの夢」

    藤倉大の新作オペラ「アルマゲドンの夢」。現代の問題(このオペラの場合はポピュリズムの政治家とその政党の台頭)をテーマにするオペラが東京で初めて誕生したという思いが強い。細川俊夫が東日本大震災をテーマにしたオペラ(そのテーマは、原発事故ではなく、津波のほうかもしれないが、わたしは未見)をドイツで新作上演したが、日本発という意味では初めてのケースではないだろうか。原作はH.G.ウェルズの「世界最終戦争の夢」(原題はADreamofArmageddon)。それを藤倉大の長年の友人のハリー・ロスが台本化した。藤倉大が「オペラとは原作の翻案なのであって、原作をそのまま舞台化することに僕は興味はありません。それなら本を読めばよいのですから。」と語っているように(プログラムに掲載された「オペラ『アルマゲドンの夢』、無限の可能...藤倉大「アルマゲドンの夢」

  • 高関健/東京シティ・フィル

    東京シティ・フィルはコロナ禍以前に組んだプログラムを着実にこなしている。その姿が頼もしい。10月定期は高関健の指揮でウィーン・プログラム。ウィーンといっても観光地のウィーンではなく、そこに住んだ作曲家たちの濃い人生が展開されたウィーンだ。オーケストラが登場すると、弦楽器奏者だけなので、奇異に感じた。高関健がマイクを持って登場し、去る10月に急逝した楽団員を偲んでバッハの「アリア」を演奏する旨を告げた。演奏が始まると、第1ヴァイオリンのある奏者が演奏できなくなり、じっとなにかに耐えていた。演奏終了後、一度ステージから離れ、すぐに戻ってきた。体調が悪いわけではなく、悲しみをこらえていたようだ。1曲目はマーラーの交響曲第10番の第1楽章アダージョ。ヴィオラの導入の後、第1ヴァイオリンで奏される第1主題が、艶やかな音色...高関健/東京シティ・フィル

  • 岡田暁生「音楽の危機」

    本年2月以降のコロナ禍の推移で特徴的なことは、カミュの小説「ペスト」が象徴するように、文学、美術、歴史、その他のさまざまな分野の知見が動員され、いま起きていることの意味が論じられたことだ。わたしはそれらの知見にふれながら、では音楽はどうなのかと思っていた。なぜか音楽の分野からの発信はなかった。そんな折、待望の書というべきか、音楽学者の岡田暁生の新著「音楽の危機」が出た。本書は(後述するが、終章をのぞいて)いわゆる緊急事態宣言下にあった4月から5月にかけて執筆された(終章は6月後半に執筆された)。コロナ禍で先行きどうなるかまったく見通しのつかない状態のなかで、心に浮かんだことをそのまま書き留めたものだ。著者はいう、「だが、状況がある程度落ち着いてきたのを見極めてから、それを「客観的に」論じるということを、わたしは...岡田暁生「音楽の危機」

  • 茂木大輔「交響録~N響で出会った名指揮者たち」

    N響の元首席オーボエ奏者、茂木大輔の「交響録N響で出会った名指揮者たち」(音楽之友社)。著者が1990年にN響に入団し、2019年に定年退職するまでに出会った名指揮者たちの思い出を書いたもの。サヴァリッシュ、シュタイン、ブロムシュテット、デユトワ、アシュケナージ、プレヴィン、P.ヤルヴィ等々、そうそうたる顔ぶれが登場する。オーケストラの楽員と話をしていると、たいていの場合、指揮者のことをよくいわない。聴衆のほうでは指揮者の話が一番おもしろいので、水を向けるわけだが、最初はいいにくそうに、だが、なにかの拍子にうちとけると、指揮者の悪口が出てくる。それだけ日常的には指揮者からのトレスが大きいのだろうと推察する。じつは本書にもそのたぐいの話を期待したのだが、案に相違して、指揮者を敬い、上品な書きぶりで、悪口などは(ご...茂木大輔「交響録~N響で出会った名指揮者たち」

  • 上原彩子のオール・シューマン・プログラム

    上原彩子のオール・シューマン・プログラムを聴きに行った。曲目は「パピヨン」、「クライスレリアーナ」、「謝肉祭」の3曲。上原彩子というとチャイコフスキーをはじめとするロシア物のイメージが強いが、そんな上原がシューマンをどう弾くかと興味がつのった。「パピヨン」はあまり印象に残らなかったが、それにしては、一夜明けたいま、その音像がはっきり思い出される。もしかすると昨日は、「さあ、聴くぞ」というわたしの意気込みと、シューマン最初期のこの曲とのミスマッチが起きたのかもしれない。2曲目の「クライスレリアーナ」も(わたしには)空転した。音の粒立ちに欠け、ベタッとした音塊に聴こえた。もっとも、それは上原彩子にかぎらず、この曲の実演を聴くといつもそう感じるので、これは演奏の問題というよりも、わたしの問題かもしれない。正直にいうと...上原彩子のオール・シューマン・プログラム

  • 「スパイの妻」

    「スパイの妻」は、昭和15年(1940年)、戦火の迫る神戸が舞台だ。福原聡子は貿易商を営む福原優作と幸せな毎日を送っている。優作は満州に出張する。そこで関東軍の機密にふれる。優作はその機密が人道上許せず、(国内は軍国主義一色なので)アメリカで公表しようとする。聡子は幸せな生活を守るために、夫の企てを止めるが、その機密を具体的に知ると、夫への愛を貫くために、夫とともに行動する。聡子の印象的な台詞がある。「私は狂ってなんかいません。でも、狂ってないことは、狂ってることなんでしょうね、この国では。」。みんなが狂っているときに、自分も狂っていれば楽だが、自分だけ狂っていないと、孤独に耐えなければならない。非難され、白眼視される。それでも自分の道を歩む人は、その結果起きるすべてのこと(迫害、あるいはそれ以上のこと)を受け...「スパイの妻」

  • 「異端の鳥」

    映画「異端の鳥」をみた。時は第二次世界大戦中、所は東欧のどこか(特定されていない)。ナチス・ドイツのユダヤ人狩りが迫るなか、ある少年が老婆のもとに預けられる。ところが老婆が急死する。少年は逃げ出す。戦争、暴力、性的虐待など、あらゆる辛酸をなめながら、少年は状況に適応して屈辱に耐え、悪を身につけて生きのびる。少年はどこに行きつくのか――というサバイバル物語。少年を迫害するのはナチス・ドイツやソ連軍ではなく、普通の人々だ。少年が紛れこむ村々で生活する住民だ。それがなんともやりきれない。むしろ軍人の中にはひそかに少年を助ける人もいる。だが、普通の人々は過酷だ。偏見に閉ざされ、ナチス・ドイツにおもねる。この作品はナチス映画ではない。また戦争映画でもなく、ホロコースト映画でもない。今の世の中に無数にあるマイノリティへの迫...「異端の鳥」

  • 小説「世界最終戦争の夢」とオペラ「アルマゲドンの夢」

    H.G.ウェルズ(1866‐1946)の「世界最終戦争の夢」(1901)を読んだ。11月15日から新国立劇場で上演予定の藤倉大の新作オペラ「アルマゲドンの夢」の原作だからだ。同劇場のホームページによると、スタッフ・キャストの外国勢はすでに入国して、リハーサルに加わっているらしい。入国制限の折からたいしたものだ。原作のストーリーは――、ロンドンに向かう電車の中で、著者はある男から話しかけられる。著者は夢にかんする本を読んでいたのだが、その男がいうには、「自分は夢の中で別の人生を生き、そして死んだ。毎晩夢を見た。その夢は連続していた。目覚めているときはこの世を生き、眠っているときは別の場所、別の時間を生きた」と。そしてその男は夢の中での人生を語る。それは奇妙に生々しい物語だった。それは戦争の物語だった。男は「北の国...小説「世界最終戦争の夢」とオペラ「アルマゲドンの夢」

  • 辻彩奈&角田鋼亮/日本フィル

    日本フィルの横浜定期は、辻彩奈(つじ・あやな)をソリストに迎えて、新味のあるプログラムを組んだ。先にプログラムをいうと、演奏会前半はバッハの「シャコンヌ」、ヴァイオリン協奏曲第1番と第2番、後半はブラームスの交響曲第4番。指揮は角田鋼亮(つのだ・こうすけ)。辻彩奈のヴァイオリンは一度聴いたことがあるが(そのときも指揮は角田鋼亮だった。曲はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。オーケストラは別のオーケストラだった)、そのときはあまりよくわからなかった。1997年生まれの若手で、2016年にモントリオール国際音楽コンクールで第1位という経歴なので、もう一度聴いてみたいと、この横浜定期を楽しみにしていた。結果は、すばらしいバッハだった。「シャコンヌ」では(いうまでもなく)オーケストラは登場せずに、辻彩奈が一人で登...辻彩奈&角田鋼亮/日本フィル

  • 沼尻竜典/東京シティ・フィル

    沼尻竜典が東京シティ・フィルの定期を振るのはこれが初めてらしい。ちょっと意外な気がするが、それもなにかの巡り合わせの結果だろう。ともかく沼尻竜典が東京シティ・フィルをどう振るか、東京シティ・フィルがそれに応えてどんな演奏をするか、そんな興味のわく演奏会だった。1曲目は芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」。第2楽章が沼尻竜典らしいスリリングな演奏だったが、テンポが速かったのか、オーケストラに余裕がなく、指揮者についていくのに必死だったような気がする。それにしても、いつも思うのだが、この曲の第1楽章はなにかに似ている。それはなんだろう。あえていえば、ピエルネの「小牧神の入場」ではないだろうか。そんなことをいうと、当たらずといえども遠からずだね、と冷ややかにいわれそうだが、ピエルネ云々はともかくとして、芥川には珍し...沼尻竜典/東京シティ・フィル

  • シェイクスピア「リチャード二世」

    新国立劇場で「リチャード二世」が上演中だ。2009年の「ヘンリー六世」に始まるシェイクスピアの歴史劇シリーズの最終演目。上演順は「ヘンリー六世」三部作、「リチャード三世」(2012年)、「ヘンリー四世」二部作(2016年)、「ヘンリー五世」(2018年)と続いた。今回の「リチャード二世」は全8部の歴史劇の端緒となる出来事を描いている。その作品が最後に上演されたことで、2009年以来続いた歴史劇のすべてがスタート地点から照射されるような感覚になった。そしてもう一つ、最終演目がこの作品でよかったと思う点は、この作品が終幕に向かうにつれてどんどん内省的になるからだ。リチャード二世は愚かな王だったかもしれないが(プログラムに掲載された神奈川大学名誉教授の石井実樹子氏のエッセイ「愚王リチャード二世はエリザベス一世?――な...シェイクスピア「リチャード二世」

  • アーティゾン美術館のクレー・コレクション

    アーティゾン美術館がパウル・クレー(1879‐1940)の作品24点を新規収蔵して、現在公開中だ。いかにもクレーらしい作品が入っている。以下、何点かご紹介したい。画像は下記のリンク先を参照願いたい(※)。「ストロベリーハウスの建築工事」(1921)は(クレーがこの時期よく描いた)折れ線を積み重ねた作品で、その折れ線は工事現場の柵のようだ。それが心地よいリズムを生む。画面の中心部は黄緑色が占め、その周辺にえんじ色が配されている。それらの2色には濃淡があり、全体的に緑のグラデーションと赤のグラデーションとの組み合わせのような画面だ。左側に「T.」が、右側に「H.」が描き込まれている。それらの文字が何を意味するかは(わたしには)不明。チラシ(↑)に使われている作品は「庭の幻影」(1925)。中心部の明るくなったところ...アーティゾン美術館のクレー・コレクション

  • 鈴木優人/読響「峡谷から星たちへ…」

    読響のサントリー音楽賞受賞記念コンサートだが、コロナ禍のために、まず曲目がメシアンの「我らの主イエス・キリストの変容」から同「峡谷から星たちへ…」に変わり、次に指揮者がカンブルランから鈴木優人に変わった。だが、そういう変遷を微塵も感じさせないほど充実した、焦点の合った演奏会になった。カンブルランが振ったら、極度に張りつめた演奏になったかもしれないが、鈴木優人が振ると、清新で、暖かみのある演奏になった。それは個性の違いだが、ともかく代役という範疇をこえる演奏になった。これで読響と鈴木優人との関係が一層強固になったのではないかと感じられる演奏だった。ピアノ独奏は児玉桃だった。さすがに堂に入った演奏だ。「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」も「鳥のカタログ」も弾いてきた児玉桃の、メシアンの語法が手の内に入った演奏だった。「...鈴木優人/読響「峡谷から星たちへ…」

  • ブリテン「夏の夜の夢」

    新国立劇場が7カ月余りの休止期間をへてオペラ公演にこぎつけた。演目はブリテンの「夏の夜の夢」。オーケストラ編成が小さいので、オケピットは密にならない利点があるが、一方、児童合唱が入るので、(リハーサルでもステージでも)密にならない配慮が必要だ。その他、さまざまな問題が想像される。くわえて外国人の入国規制が続いているので、指揮者、制作スタッフおよび歌手の代替えが必要だ。それらのハードルを乗り越えて公演にこぎつけた大野和士監督以下関係者の皆さんの努力を讃えたい。予定されていた演目がブリテンのこの作品だったことも幸いだ。人はだれでも夢を見る。いや、夢を見たい。そんな願いに応えてくれるのが本作だ。シェイクスピアの戯曲の中でももっとも幸せな作品、そしてブリテンの音楽の中でももっとも幸せな音楽が本作だ。コロナ禍で疲れたわた...ブリテン「夏の夜の夢」

  • B→C 北村朋幹

    東京オペラシティのB→C(バッハからコンテンポラリーへ)シリーズに北村朋幹(きたむら・ともき)が登場して、プリペアド・ピアノ、トイピアノ、普通のピアノ、チェンバロの4種類を弾き分けるプログラムを組んだ。プリペアド・ピアノはピアノの弦に「大小のボルト、ねじ、ナット、プラスチック片、ゴム、消しゴム」(有田栄氏のプログラム・ノーツ)などを挟んで音色を変えた楽器だが、そのプリペアド・ピアノを使った演奏曲目は、ジョン・ケージ(1912‐92)の「ソナタとインターリュード」(1946‐48)。ケージはピアノの弦の約半数にそれらの異物を挟むよう指定しているので、ピアノは変調された音と普通の音との複合的な楽器になる。本作は16曲のソナタと4曲のインターリュードからなるが、変調された音が主体の曲ではガムラン音楽のような音色とリズ...B→C北村朋幹

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮の東京シティ・フィルの定期。高関健がプレトークでいっていたが、「2月の飯守泰次郎先生の定期のとき以来の、日にちもプログラムも変更のない定期」。なるほど、そういわれてみると、たしかにそうだ。10月以降はそうもいかず、すでに11月はプログラムの一部変更が発表になっているが、今回はその間隙をぬった変更なしの定期だ。1曲目はバッハ(エルガー編曲)の「幻想曲とフーガハ短調」。原曲はBWV537のオルガン曲だが、それをエルガーが編曲した。エルガーのバッハ編曲というのは珍しいが、最晩年の作品のようだ。幻想曲の部分は、寂しげな沈んだ音調で、いかにもエルガーらしい。柴田克彦氏のプログラム・ノーツによると、「6/4拍子から3/4拍子に変更」されているそうだから、その影響もあるのかもしれない。フーガの部分はド派手な編曲で、...高関健/東京シティ・フィル

  • 国立西洋美術館のスルバラン「聖ドミニクス」

    国立西洋美術館で開催されている「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」に行ったことは前回書いたが、同展に行った理由の一つは、同美術館の常設展で展示されている2019年度新規収蔵作品のフランシスコ・デ・スルバラン(1598‐1664)の「聖ドミニクス」(1626‐27頃)(※1)を見るためもあった。スルバランはリベラ(1591‐1652)、ベラスケス(1599‐1660)、ムリーリョ(1617‐1682)らとならぶスペイン・バロック時代の画家だ。スルバランの作品には深い宗教性を感じさせるものが多い。その一方で、あれは何年前だったか、「プラド美術館展」が開かれたときに日本にきた「ボデゴン」のようなリアルな静物画もある。「聖ドミニクス」はドミニコ会修道院の創設者の聖ドミニクスを描いた作品だ。201.5㎝×135.5㎝の...国立西洋美術館のスルバラン「聖ドミニクス」

  • ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

    ロンドン・ナショナル・ギャラリー展に行った。大型企画展に行くのは久しぶりだ。最近は会場内の混雑が嫌になったので、大型企画展は敬遠していたが、今回行く気になったのは、チラシ(↑)に使われているカルロ・クリヴェリの代表作の一つ「聖エミディウスを伴う受胎告知」(1486年頃)が来たからだ。実物を見ると、207×146.7㎝の大画面だ。クリヴェリの一部の作品と同様に、異様なまでに発色がよい。まるで洗浄した後のような艶やかさだ。ちなみに常設展では「聖アウグスティヌス」(1487/88年頃)が展示されているが、それはその時代にふさわしい褪色ぶりを示しているので、「聖エミディウスを伴う受胎告知」の鮮やかさが際立つ。大画面の堅牢な構成に圧倒されるが、その堅牢さが過剰なようにも感じられる。この種の過剰さはクリヴェリの他の作品にも...ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

  • プリーモ・レーヴィと石原吉郎

    わたしは時々「神はこの人を選んで、あえて過酷な体験をさせたのではないだろうか」と思うことがある。音楽でいえば、耳が聞こえなくなったベートーヴェンだ。ベートーヴェンがどんなに絶望したかは、想像に余りある。その絶望があったからこそ、たとえば後期の弦楽四重奏曲のような音楽が生まれたのではないか。語弊を恐れずにいえば、そのような音楽を書かせるために、神はベートーヴェンに過酷な試練を課した、と。ショスタコーヴィチもその一人だ。スターリン統治下で粛清の恐怖に晒された。その恐怖があったからこそ、晩年の比類のない音楽が生まれたのではないか。底知れない深淵を覗いた音楽は、わたしにはベートーヴェンに比肩すると思われる。文学に関していえば、アウシュヴィッツ強制収容所を経験したプリーモ・レーヴィと、シベリア抑留を経験した石原吉郎がその...プリーモ・レーヴィと石原吉郎

  • 石原吉郎「望郷と海」

    アウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする「強制収容所」は、人間が生きるもっとも過酷な条件の一つだった。そこでは、生きるために、人間の本性がむき出しになった。人間が人間であるギリギリの線、その線を越えると人間の姿をした別のものになる場所がそこだった。そんな「強制収容所」から生還した人々がいる。それらの人々が書いた回想録は人間の本質とは何かを考える教材のようなものだ。そのような回想録でわたしがまず思い浮かべるものは、アウシュヴィッツ強制収容所から生還したプリーモ・レーヴィ(1919‐1987)の「これが人間か――アウシュヴィッツは終わらない」(1947)と「溺れるものと救われるもの」(1986)だ。それらの2作はわたしがいままで出会った書物の中でももっとも大切なものだ。他にはフィリピンのレイテ島で捕虜収容所に収容さ...石原吉郎「望郷と海」

  • 尾高忠明/読響

    尾高忠明指揮の読響の9月定期は、1曲を除いてプログラムが変更になった。その1曲が冒頭に演奏されたグレース・ウイリアムズ(1906‐77)の「海のスケッチ」(1944)。弦楽合奏による全5楽章の曲だ。海の諸相の描写音楽。弦の澄んだ音色が美しい。編成は12‐10‐8‐6‐4。その弦がよく鳴った。読響の実力だが、もう一つはソーシャル・ディスタンスの配置により、舞台いっぱいに広がった奏者たちの、その広がりからくる効果もあったろう。同じ編成でも、通常の(密にかたまった)配置による音と、ソーシャル・ディスタンスの配置による音とでは、客席に届く音の印象が変わるようだ。2曲目以降は当初のプログラムから変更になった。2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番。ピアノ独奏は小曽根真。ジャズ風に崩すとか、そんなことはなく、至極まっと...尾高忠明/読響

  • 山田和樹/日本フィル

    山田和樹指揮日本フィルの定期演奏会は、ステージ上の密を避けるために、曲目の一部を変更して開催された。その変更がよく考えられていて、指揮者とオーケストラの努力の跡がうかがえた。1曲目と2曲目は当初予定通りで、1曲目はガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」変奏曲。ピアノ独奏は沼沢淑音(ぬまさわ・よしと)。なぜかピアノの音が乾いて聴こえた。オーケストラにも余裕がなかった。2曲目はミシェル・ルグラン(1932‐2019)のチェロ協奏曲。ルグランは「シェルブールの雨傘」などの映画音楽で有名だが、「80歳代になってから」(小沼純一氏のプログラム・ノーツより)ピアノ協奏曲とチェロ協奏曲を書いた。そのチェロ協奏曲が日本初演された。チェロ独奏は横坂源。これは大変おもしろかった。全5楽章からなるが、最初の3楽章は急‐緩‐急の普通...山田和樹/日本フィル

  • サントリーホール・サマーフェスティバル:川島素晴・鈴木優人/東京フィル

    サントリーホール・サマーフェスティバルの最終日は、ザ・プロデューサー・シリーズの管弦楽演奏会(2)で、新作初演3曲という意欲的なプログラムだった。1曲目は川島素晴(1972‐)の管弦楽のためのスタディ「illuminance/juvenile」。illuminanceとは「物理学・光学でいう「照度」の意味」、juvenileとは「幼年性、少年・少女向けの、といった意味」(作曲者自身のプログラム・ノートより)。第1楽章「illuminance」は「20に及ぶ自然界の「光の現象」をテーマにイメージが紡がれ、織り成していく」(同上)。その音はアニメの動きを音楽化したような活きの良さがあった。視覚的な音楽というか、むしろ視覚の音楽化といったらよいか。表題通り、照度の高い音の光景が展開し、その光景は目に焼きついた。第2楽...サントリーホール・サマーフェスティバル:川島素晴・鈴木優人/東京フィル

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの4月定期の振替公演。4月定期ではデジェー・ラーンキのピアノ独奏でブラームスのピアノ協奏曲第2番とリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」が予定されていたが、ラーンキは来日できず、「ツァラトゥストラ‥」は4管編成で舞台が密になるため、プログラムが大幅に変更された。その変更後のプログラムが、意図が明確で、内容充実の、思わず唸ってしまうプログラムだった。1曲目はコープランドの「市民のためのファンファーレ」。冒頭の打楽器の音が重く、抉るような叩き方だったので、ギョッとしたが、それに続くトランペットの音が明るく、輝かしかったので、ホッとした。打楽器はともかく、金管、とくにトランペットは快演だった。トランペットにかぎらず、金管アンサンブルが、立体的というか、陰影の豊かな、曲の...高関健/東京シティ・フィル

  • サントリーホール・サマーフェスティバル:杉山洋一/読響

    今年のサントリーホール・サマーフェスティバルは、テーマ作曲家のイザベル・ムンドリーの演奏会は中止になったが、一柳慧が企画したザ・プロデューサー・シリーズの演奏会は無事に開催された。一柳慧の企画は「2020東京アヴァンギャルド宣言」と題して2つの室内楽演奏会と2つのオーケストラ演奏会で構成。それらの演奏会には6曲の新作初演がふくまれている。昨日はオーケストラ演奏会の第1回があった。オーケストラは杉山洋一指揮の読響。1曲目は高橋悠治(1938‐)の「鳥も使いか」(1993)。三絃の弾き語りとオーケストラのための曲だ。この曲にはCDが出ているので、わたしも聴いたことがあるが、CDで聴いた印象と実演の印象とでは、雲泥のちがいがあった。実演で聴くと、三絃の華やかな音がホールを満たし、オーケストラの薄く透明な音とあわせて、...サントリーホール・サマーフェスティバル:杉山洋一/読響

  • 北條民雄「いのちの初夜」

    2019年6月に東京都東村山市の多磨全生園を訪れた。同園は全国に13か所ある国立ハンセン病療養所の一つだ。そこを訪れたのは熊本県の菊池恵楓園の中の絵画サークル「金陽会」の作品展を見るためだ。10人の方々の合計29点の作品は、各人の個性を生き生きと映していた。同展は多磨全生園の中の国立ハンセン病資料館で開かれた。作品展を見てから、わたしは同館を見て回った。ハンセン病とは何か、感染者とその家族への差別の歴史、ハンセン病の現状(ハンセン病はいまでは治療可能な病気で、日本ではほとんど発症例がなくなったが、世界ではまだ治まっていない)などが説明されていた。資料館を出て、わたしは敷地内を歩いた。いまでは一般に開放されているその敷地は、緑豊かで、静かな、すばらしい環境だった。食堂があるので、入ってみた。先客がいた。その人は何...北條民雄「いのちの初夜」

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