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  • 鈴木優人/読響

    鈴木優人指揮読響の定期演奏会。プログラムはベリオの「シンフォニア」とモーツァルトの「レクイエム」。まずベリオから。ベリオは1925年生まれ、2003年没だ。来年は生誕100年のアニヴァーサリーイヤーに当たる。今回の「シンフォニア」はそのプレ企画かもしれない。シャープで色彩豊かな演奏だった。鈴木優人の現代音楽への適性をあらためて感じた。「シンフォニア」の第3楽章はマーラーの交響曲第2番「復活」の第3楽章(「子供の魔法の角笛」の中の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」による)をベースにする。今回の演奏は、マーラーの音楽が横方向に流れ、そこにさまざまな引用がコラージュ的に浮き沈みする演奏ではなく、それらのコラージュが縦方向に切断され、その切断面が見えるような演奏だった。結果、整然とした流れではなく、収拾のつ...鈴木優人/読響

  • ルイージ/N響

    ファビオ・ルイージ指揮N響のAプロ。1曲目はワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。ルイージのワーグナーなので期待したが、オペラ的な盛り上がりに欠けた。当日のメインの曲目(後述するが、シェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」)に重点が置かれ、1曲目は十分に力が入らなかったのだろうか。2曲目はリヒャルト・シュトラウスの歌曲を5曲。ソプラノのクリスティアーネ・カルクの独唱。私事だが、カルクは以前聴いたことがある。2016年10月にベルリン・フィルの定期演奏会に行ったとき、モーツァルトのオペラ・アリアとコンサート・アリアを各1曲歌った。とくにコンサート・アリアがドラマティックな歌唱だった。指揮はイヴァン・フィッシャーだった。今回もそのときの印象と変わらないが、カルクは声量の豊かさで聴か...ルイージ/N響

  • カプワ/日本フィル

    日本フィルの東京定期。当初は沖澤のどかが指揮する予定だったが、出産予定のため、パヴェウ・カプワに代わった。カプワの生年はプロフィールに記載がないが、まだ30代前半くらいの若い指揮者だ。出身はポーランド。クラクフ音楽院で指揮を学んだ。コンクールの優勝歴はとくに記載されていない。ワルシャワ・フィルをはじめ、ヨーロッパ内のオーケストラを振っている。日本ではまったく無名だ。で、どんな指揮者だったか。結論からいうと、意外に逸材かもしれない。インキネンを発掘したときと似たような感覚がある。日本フィルのカプワの起用は成功したと思う。プログラムは沖澤のどかのプログラムを引き継いだ。1曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はセドリック・ティベルギアン。しみじみした内向的な演奏だ。ばりばり弾くヴィルトゥオーゾ・タイ...カプワ/日本フィル

  • 新国立劇場「ウィリアム・テル」

    新国立劇場の新制作「ウィリアム・テル」。ロッシーニのオペラは好きなので、機会があれば観てきたが、「ウィリアム・テル」は初めてだ。事前にCDを聴き、流れをつかんだが、実際に観ると想像以上のオペラだった。まず例の序曲。中学生のころに初めて聴いたクラシック音楽のひとつだ。それが(若すぎる)最晩年のロッシーニの、簡潔で透明感のある名作だとは、中学生のわたしには思いもよらなかった。幕開けの合唱の後、テル(バリトン)とアルノルド(テノール)の二重唱になる。マッチョな男声二重唱だ。まるでヴェルディの音楽のようだ。第1幕フィナーレに展開する激しい合唱。それもヴェルディだ。パワーで押す音楽。ロッシーニの華麗でスポーツ的な快感のある音楽は影をひそめる。第2幕フィナーレと第3幕フィナーレも激しい合唱で終わる。だが最後の第4幕フ...新国立劇場「ウィリアム・テル」

  • インキネン/日本フィル(横浜定期)

    インキネンが久しぶりに日本フィルに戻って横浜定期を振った。2023年4月の東京定期以来なので、わずか1年半ぶりにすぎないが、もっと間があいた気がするのはなぜだろう。日本フィルがカーチュン・ウォン時代に入ったからか。1曲目はグラズノフのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。けっこう聴く機会の多い曲だが、神尾真由子の演奏は、濃厚な表情付けで、しかもその表情付けがロシア的な節回しを感じさせる点で個性的だった。ロシアの曲なので、ロシア的な節回しは当然といえば当然だが、意外にこの曲の演奏ではロシアを感じたことはない。もっとあっさりした演奏が多い気がする。神尾真由子はアンコールにパガニーニの「24のカプリース」から第24番を弾いた。これも太い音で荒々しい演奏だった。音色も暗めだ。イタリア的な明るく軽い演奏...インキネン/日本フィル(横浜定期)

  • 東京都美術館「田中一村展」

    東京都美術館で「田中一村展」が開催中だ。わたしは平日の午前中に行った。会場はかなり混んでいた。すごい人気だ。人気の理由は、分かりやすい作風と、一村(いっそん)の生涯のドラマ性にあるだろう。代表作「アダンの海辺」(1969)(チラシ↑の作品)と「不喰芋(クワズイモ)と蘇鉄(ソテツ)」(1973)が展示されている。「アダンの海辺」は丸いボールのようなアダンの実を中心に、いかにも南国らしい風景を描いた作品だが、本展で見たときにまず目に飛び込んできたのは、黒く湧き上がる雲だった。異様な迫力がある。その雲を上方に追うと、雲の切れ目から明るい陽光が射す。陽光はアダンの実を照らし、また海を照らす。神の光のようだ。本作はたんに南国の風景を描いた作品ではなさそうだ。「不喰芋と蘇鉄」(1973)(画像は本展のHPに掲載)は、...東京都美術館「田中一村展」

  • オロスコ・エストラーダ/N響

    アンドレス・オロスコ・エストラーダがN響に初登場した。オロスコ・エストラーダはすでにウィーン・フィルの日本公演を振ったりしている。聴いた方も多いだろう。わたしは初めて。どんな指揮者かと興味津々だ。1曲目はワーグナーの「タンホイザー」序曲。オロスコ・エストラーダは2025年のシーズンからケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とケルン歌劇場の音楽監督に就任する。ワーグナーを振る機会も多くなるだろう。さて、どんなワーグナーかと、わたしはこの曲に一番注目した。結果は案外つまらなかった。最後の金管の鳴り方は雄大だったが、そこに至るまでのドラマに欠けた。2曲目はワインベルクのトランペット協奏曲。トランペット独奏はラインホルト・フリードリヒ。初めて聴くが、大変な名手だ。ルツェルン祝祭管弦楽団の創設時に、アバドに乞われて首席奏者...オロスコ・エストラーダ/N響

  • 山田和樹/N響

    山田和樹が指揮するN響定期Aプロ。1曲目はルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第1組曲。第2組曲は時々演奏会で取り上げられるが、第1組曲は珍しい。華やかで躍動的な音楽から始まる。演奏会のオープニングにふさわしい。その後も舞台上で生起するバレエの動きを彷彿とさせる音楽が続く。最後は静かに終わる。それは次の曲につなげる効果がある。繰り返しになるが、演奏会の1曲目にふさわしい。山田和樹の明るくポジティブなキャラクターが全開した演奏だ。だがオーケストラがトゥッティで咆哮するときに、音が濁ることが気になった。それを澄んだ音で鳴らしてくれると、演奏が一段とレベルアップするのだが。2曲目はバルトークのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はフランチェスコ・ピエモンテージ。冒頭のピアノの音がクリアーに聴こえた。自分の音をもつピアニ...山田和樹/N響

  • ノット/東響

    ジョナサン・ノットの音楽監督の任期があと1年となり、一つひとつの演奏会が貴重なものになってきた。昨日は定期演奏会。1曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。もちろん良い演奏だったが、匂い立つような香気はなかった。2曲目はミカエル・ジャレル(1958‐)のクラリネット協奏曲「Passages」。東響など4団体の共同委嘱作品だ。クラリネットの名手マルティン・フロストを想定して作曲された。今回はフロストが急病のため、直前にマグヌス・ホルマンデルに代わった。ホルマンデルはフロストの推薦らしい。世界初演は2023年10月にフロストの独奏、ノット指揮スイス・ロマンド管が行っている。ともかく生まれたてほやほやの曲だ。しかも超絶技巧の曲。それを短時間でものにしたホルマンデルの力量はすごい。現代音楽に強い人なのだろう。だがそれ...ノット/東響

  • コンヴィチュニー演出「影のない女」

    東京二期会が上演したオペラ「影のない女」が炎上している。炎上の原因はペーター・コンヴィチュニーの演出だ。わたしは観ていないので伝聞情報だが、リヒャルト・シュトラウスの音楽を一部カットしたり、入れ替えたりしたようだ。またホフマンスタールの台本をマフィアの抗争のストーリーに読み替えたらしい。それらの点について反対派と擁護派のあいだで論争が起きている。上記のように、わたしは観ていないので、何もいう資格がないと思っていたが、11月6日の朝日新聞デジタルに吉田純子氏の「演出に「冒涜」と批判も「影のない女」が問う日本のオペラの現在地」という記事が載った。俯瞰的な視点から今回の上演を論じている。やっとわたしも意見をいう土俵ができた思いがする。吉田純子氏の記事は次のセンテンスで始まる。「オペラが重視すべきは生身の演劇性か...コンヴィチュニー演出「影のない女」

  • ルルー/日本フィル

    フランソワ・ルルーが日本フィルを振るのは2度目だ。初めて振ったのは2022年。ラザレフの代役だった。ルルーはいうまでもなく世界的なオーボエ奏者だが、当時、指揮者としてはどうなのかと、期待と不安が入り混じった。だがすばらしい出来だった。メインの曲はビゼーの交響曲第1番だった。ルルーのオーボエ演奏さながらに、ニュアンスに富み、音楽的な大きさのある演奏だった。今回は1曲目がラフ(1822‐1882)の「シンフォニエッタ」。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各2人の管楽アンサンブルのための曲だ。ラフという作曲家は知らなかった。ロマン派の真っただ中の作曲家だ。「シンフォニエッタ」もまさにそう。全4楽章からなる。わたしは第2楽章のスケルツォがおもしろかった。演奏は気合の入った濃密なアンサンブルだった...ルルー/日本フィル

  • 指揮者の引退

    97歳のブロムシュテットがN響のA、B、Cのすべてのプログラムを振って帰国した。わたしはAプロ(オネゲルの交響曲第3番「典礼風」とブラームスの交響曲第4番)とCプロ(シューベルトの「未完成」と「ザ・グレート」)を聴いた。Aプロのときはオーケストラのコントロールが衰えたかなと思ったが、Cプロのときは見事なコントロールに脱帽した。ブロムシュテットは来年10月にもA、B、Cの全部のプログラムを振る予定だ。ブロムシュテットには引退の言葉はないらしい。昔は長老指揮者といえばストコフスキー(1882‐1977)が代名詞だった。ストコフスキーは90歳を超えても指揮を続け、引退宣言をしないまま、95歳で亡くなった。その後、朝比奈隆(1908‐2001)が90歳を超えても指揮を続け、巷では「ストコフスキーを超えるのではない...指揮者の引退

  • ブロムシュテット/N響

    ブロムシュテットが指揮するN響の定期演奏会Cプロ。先週のAプロ(オネゲルとブラームス)はSNSで多くの方に絶賛されたが、わたしはブロムシュテットのオーケストラのコントロールに危惧をおぼえた。今回は気が重かった。だが杞憂だった。今回は気力があふれてオーケストラとがっぷり四つに組んだ。1曲目はシューベルトの交響曲第7番「未完成」。冒頭の低弦楽器の序奏が、暗い音色でそっと呟くように演奏された。思わず身を乗り出した(もちろん比喩的な意味だが)。続く弦楽器の細かい刻みが快適なテンポで進む。その刻みに乗ってオーボエが第1主題を吹く。抑えた音量の中に豊かな抑揚がある。音楽が停滞せずに進む。彫りが深い。緊張した静かなドラマが続く。第2楽章も第1楽章のペースを引き継いで演奏された。第1ヴァイオリンが奏でる第1主題は過度に甘...ブロムシュテット/N響

  • 樋田毅「旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録」

    樋田毅氏の「旧統一教会大江益夫・元広報部長懺悔録」(以下「懺悔録」)を読んだ。大江益夫氏は1993年~1999年に旧統一教会(以下「統一教会」)の広報部長を務めた。その前後も統一教会と関連団体の要職を歴任した。その大江氏へのインタビュー本だ。インタビュアーの樋田毅氏は元朝日新聞記者。樋田氏はすでに「記者襲撃――赤報隊事件30年目の真実」(岩波書店)、「最後の社主――朝日新聞が封印した「御影の令嬢」へのレクイエム」(講談社)そして「彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠」(文藝春秋社)の著書がある。わたしはすべて読んだ。どれもひじょうに惹かれた。そこで「懺悔録」も読んだ次第だ。統一教会の幹部だった人物の回顧録。自身が行い、また見聞きした事柄を率直に語っている。樋田氏とは思想信条が異なるはずだが、...樋田毅「旧統一教会大江益夫・元広報部長懺悔録」

  • ブロムシュテット/N響

    97歳になったブロムシュテットが振るN響の定期演奏会Aプロ。1曲目はオネゲルの交響曲第3番「典礼風」。第1楽章「怒りの日」が始まる。激しい音楽だが、その音に濁りがある。どうしたのだろう。N響らしくない。また(激しさとは別の)力任せなところがある。音に緊張感がなく、緩さがある。ブロムシュテットらしくない。ブロムシュテットらしさが現れたのは、最後の第3楽章「われらに安らぎを与えたまえ」の後半になってからだ。前半の闘争的な音楽が終わり、ふっと平穏な音楽に転じる。やっと音に艶が出て、演奏に集中力が感じられた。会場は拍手喝采だった(言い遅れたが、ブロムシュテットがコンサートマスターの川崎洋介の腕につかまって登場したときから拍手喝采だった)。だが、演奏としては、どうだったのだろう。もちろんそういうわたしだって、97歳...ブロムシュテット/N響

  • 森岡実穂「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」

    新国立劇場の「夢遊病の女」の公演プログラムに森岡実穂氏の「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」というエッセイが載った。森岡氏が「夢遊病の女」の諸映像を参照しつつ、演出上のポイントを紹介したものだ。わたしが注目したのは、ヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトの演出(2011年、シュトゥットガルト歌劇場)とヨハネス・エラートの演出(2023年、ライン・ドイツ・オペラ)だ。ともにロドルフォ伯爵の前史を設定する。久しく故郷を離れていたロドルフォ伯爵が、父伯爵が亡くなったために、新領主として故郷に戻ってくるわけだが、そのロドルフォ伯爵が故郷を離れていたわけは、村の娘を妊娠させたからだという設定だ。ロマーニの台本にはそこまで書いてはいない。だがロドルフォ伯爵の登場の場面で、ロドルフォ伯爵は過去の過ちを悔悟し、不...森岡実穂「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」

  • 新国立劇場「夢遊病の女」

    新国立劇場の新制作「夢遊病の女」。マドリッドのテアトロ・レアル、バルセロナのリセウ大劇場、パレルモのパレルモ・マッシモ劇場との共同制作だ。幕が開く。舞台中央に高い木が一本立つ。そこに一対の若い男女の人形が吊り下がっている。結婚を控えたアミーナとエルヴィーノだろう。幸せなはずの二人だが、その人形はあまり幸せそうには見えない。周囲は切り株だらけだ。荒涼とした森の中。背景はオレンジ色の空だ。夕日だろうか。幻想的な弱々しい光だ。霧が立ち込める。霧にまかれてアミーナが立つ。ふらふらしている。夢遊病の中にいるアミーナだ。何人もの不気味なダンサーが登場する。アミーナを威嚇するように、また時にはアミーナを支えるように踊る。アミーナが見る夢だ。アミーナは結婚を控えて何か不安があるのだろうか。エルヴィーノにたいする疑問だろう...新国立劇場「夢遊病の女」

  • ウルバンスキ/東響

    ウルバンスキが指揮する東響の定期演奏会。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はデヤン・ラツィック。わたしは初めて聴くピアニストだ。濃厚なロマンティックな表現も、また聴衆を熱狂させるダイナミックな表現もある。加えて、生き生きしたリズム感がある。そのリズム感はたとえば第1楽章の展開部に現れた。何でもない淡々とした流れがそのリズム感で生き生きした音楽になった。なお全般的にオーケストラのバックも雄弁だった。濃厚なロマンティシズムはラツィックに劣らなかった。ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思...ウルバンスキ/東響

  • ヴァイグレ/読響

    読響がヴァイグレの指揮で10月13日~24日までドイツとイギリスへ演奏旅行に行く。昨夜の定期演奏会ではそのプログラムのひとつが披露された。1曲目は伊福部昭の舞踊曲「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。中近東風のエキゾチックな音楽と伊福部昭流の土俗的なリズムが交互に現れる曲だ。ドイツやイギリスの聴衆には未知の日本人版の「7つのヴェールの踊り」として話題になるかもしれない。演奏はヴァイグレ/読響らしくがっしり構築したもの。最後の熱狂的な盛り上がりはさすがに迫力があった。2曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はクリスティアン・テツラフ。もう何百回も(?)弾いているだろうこの曲を、テツラフはまるで名優の語りのように雄弁に演奏した。音楽の中に入り込み、その音楽を生きるような演奏だ。リズムの正確さ...ヴァイグレ/読響

  • 出口大地/日本フィル

    最近、出口大地(でぐち・だいち)という指揮者の名前をよく見かける。どんな指揮者だろうと思っていた。日本フィルの横浜定期に登場するので、楽しみにしていた。結論から先にいえば、とても良い指揮者だと思った。1曲目はハチャトゥリアンの「スパルタクス」より「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」。出口大地は2021年のハチャトゥリアン国際指揮者コンクールで優勝したので、ハチャトゥリアンを演奏する機会が多いのかもしれない。それもキャリアの形成期には名刺代わりになるだろう。当夜の「アダージョ」では冒頭の弦楽器の音の繊細さに惹かれた。以後もその印象は損なわれなかった。2曲目はカバレフスキーの組曲「道化師」。ギャロップが圧倒的に有名だが、組曲全体を聴くのは初めてかもしれない。プロローグは聴いたことがあると思った。その他の曲...出口大地/日本フィル

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目は今年生誕200年のスメタナの「わが祖国」。高関健は常任指揮者就任披露の2015年4月の定期演奏会でもこの曲を取り上げた。ただし今回はチェコ・フィルの「現実演奏版」を使用する。「現実演奏版」とは何か。高関健がプログラムに寄せたエッセイによると、「今晩の演奏では、1985年頃当時の音楽企業スプラフォンが出版したチェコ・フィルの伝統的なパート譜に基づく「現実演奏版」を使う。この楽譜はターリヒからアンチェルに続く伝統的な演奏をほぼそのまま楽譜に起こしたもの(以下略)」とのこと。ターリヒからアンチェルのころは、スメタナのこの曲にかぎらず、またターリヒやアンチェルにかぎらず、巨匠たちは多少なりとも譜面に手を入れて演奏することがあった。だがそれが出版譜の形で残っているのは...高関健/東京シティ・フィル

  • ケストナー没後50年(2):「動物会議」

    ケストナーの「動物会議」は絵本だ。だが「飛ぶ教室」などの児童文学と同程度の内容がある。ケストナーの力作のひとつだ。絵は児童文学の第一作「エーミールと探偵たち」以来の盟友ヴァルター・トリアーが描いた。トリアーは「動物会議」刊行の2年後に亡くなった。「動物会議」がケストナーとの最後の仕事になった。「動物会議」は1949年に刊行された。まだ第二次世界大戦の傷跡が生々しいころだ。世界には難民があふれ、大量の孤児がいた。都市は荒廃していた。そんな時期なのに世界の首脳たちはまた戦争の準備をしている。その状況に憤ったケストナーが書いた作品が「動物会議」だ。どんな話か。世界の首脳たちがケープタウンで会議を開く。87回目だ。延々と会議をしている。結論は出ない。そんな状況に怒った動物の代表たちが動物ビルに集まる。代表たちは世...ケストナー没後50年(2):「動物会議」

  • ケストナー没後50年(1):「独裁者の学校」

    今年はドイツの作家エーリヒ・ケストナー(1899‐1974)の没後50年だ。ケストナーは「エーミールと探偵たち」、「飛ぶ教室」、「二人のロッテ」などの児童文学が有名だ。わたしも大ファンだ。だがケストナーの執筆活動は児童文学にかぎらない。今年2月にはケストナーの戯曲「独裁者の学校」の日本語訳が刊行された(酒寄進一訳、岩波文庫↑)。戯曲は珍しい。興味津々読んでみた。題名の「独裁者の学校」とは独裁者の替え玉を養成する学校だ。独裁者はすでに死んでいる。独裁勢力は独裁者の死を隠して、独裁者にそっくりな替え玉を仕立てる。独裁体制は続く。その替え玉も暗殺されることがある。だが困らない。替え玉は10人以上も養成されているからだ。独裁勢力の一人はいう。「(引用者注:たとえ独裁者が暗殺されても)大統領(=独裁者)はその都度、...ケストナー没後50年(1):「独裁者の学校」

  • 秋山和慶/東響

    「秋山和慶指揮者生活60周年記念」と銘打った秋山和慶指揮東響の定期演奏会。60周年とはすごいことだ。生まれたての赤ちゃんが還暦を迎えるまで、秋山和慶は指揮者生活を続けてきたわけだ。わたしのような勤め人の生活を送った者には考えられない長さだ。一種の職人のような仕事の仕方かもしれない。いまの秋山和慶には仕事一筋に打ちこんだ職人が到達する崇高な輝きがある。1曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」。ヴァイオリン独奏は竹澤恭子。秋山和慶は東響の音楽監督・常任指揮者時代にシェーンベルクの「グレの歌」や「モーゼとアロン」などを演奏した。60周年記念演奏会にベルクを取り上げるのは自然なことかもしれない。竹澤恭子の艶のある音色と密度の濃い表現もすばらしいが、オーケストラの細かく丁寧なアンサンブルもすばらしか...秋山和慶/東響

  • ルイージ/N響

    ファビオ・ルイージ指揮N響の定期演奏会Aプロ。曲目はブルックナーの交響曲第8番(初稿/1887年)。第8番の初稿は、先日、高関健指揮東京シティ・フィルで聴いたばかりだ。そのときはホークショー版と明記されていた。今回はとくに記載がない。ノヴァーク版なのか、それともルイージが多少手を入れているのか。その詮索はともかく、ルイージ指揮N響の演奏は見事だった。わたしは初めて第8番の初稿の自然な流れを聴いた思いがした。ブルックナーの頭の中で鳴っていたこの曲の姿を初めて聴くことができたと。ブルックナーは作曲当時、第7番の初演が成功して、すでに大家になっていた。脂の乗りきったブルックナーの筆から流れ出た初稿だ。そこにはブルックナー独自の論理があった。それが今回の演奏で音になった。話が脇道にそれるが、わたしが第8番の初稿を...ルイージ/N響

  • DIC川村記念美術館

    千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館(写真↑はWikipediaより)が今後のあり方を検討中だ。選択肢は二つある。(1)規模を縮小して東京に移転する、または(2)閉館する。年内に結論を出す。その後の対応のため、来年1月に休館する。そのニュースの衝撃は大きかった。千葉県知事と佐倉市長が存続を求める発言をした。ネット署名も立ち上がった。わたしもショックだった。理由のひとつは、8月末の発表から来年1月の休館までに5か月しかなく、あまりにも短兵急だったからだが、より本質的には、同美術館が類例のない個性派美術館だからだ。同美術館はレンブラント、モネ、ピカソなどの作品を所蔵するが、その他に第二次世界大戦後のアメリカに起きた抽象表現主義の作品を多く所蔵する。とくにマーク・ロスコの大作「シーグラム壁画」7点が目玉だ。「...DIC川村記念美術館

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォン指揮日本フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第9番。最近はさまざまな作曲家・音楽学者の第4楽章補筆完成版で演奏する場合もあるが、この日はブルックナーが完成した第3楽章までで終えるやり方。どちらが良いかは意見が分かれるだろう。わたしは第4楽章の補筆完成版はラトル指揮ベルリン・フィルのCDしか聴いたことがないが、少なくともそのCDにはブルックナーとは異質なものを感じた。マーラーの交響曲第10番の各種の補筆完成版とはちがい、ブルックナーのこの曲の場合はまだその異質性を楽しむには至らない。さて、オーケストラが登場すると、まずコントラバスがステージの正面奥に横一列に配置されることに驚く。人数は10人だ。弦楽器の編成は16型なので、コントラバスが通常より2人多い。その増強されたコントラバス...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第8番の第1稿ホークショー版。ホークショー版は2022年に出版された。わたしは2010年にインバル指揮都響の演奏で第1稿を聴いたが、そのときはノヴァーク版だった。ホークショー版とノヴァーク版には「基本的な差異はない」が、ホークショー版は「ノヴァーク版に残る約400個所の錯誤を訂正したとのことである」(プログラム・ノート(注)に掲載された高関健のエッセイより)。インバル指揮都響で聴いた第1稿の衝撃は大きかった。そのときの記憶が残っている。それ以来久しぶりに第1稿を聴いた。インバル指揮都響のときの記憶とすり合わせ、また通常演奏される第2稿との違いを追った(音の違いが無数にある)。いうまでもないが、第1楽章の末尾は第2稿では静かに終わるのにたい...高関健/東京シティ・フィル

  • エメリャニチェフ/読響

    マクシム・エメリャニチェフが読響の定期演奏会に初登場した。エメリャニチェフはすでに東響と新日本フィルを振ったことがあるそうだ。先ほど東条先生の「コンサート日記」を検索して知った。わたしには未知の指揮者だったが、昨夜の聴衆の多くはエメリャニチェフを知っていたのかもしれない。プロフィールによると、エメリャニチェフは1988年ロシア生まれ。モスクワ音楽院でロジェストヴェンスキーに師事したとあるから、読響との縁はある。指揮者としては古楽とモダンの両オーケストラを振っている。2025年にはスウェーデン放送響の首席客演指揮者に就任する予定。またチェンバロ奏者、ピアノ奏者としても活動している。ともかくユニークな指揮者だ。1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」だが、大きくテンポを動かし、起伏を付け、あざといくらい...エメリャニチェフ/読響

  • 原田慶太楼/東響

    サントリーホールサマーフェスティバル2024が終わり、まだ余韻がさめないうちに、もう在京オーケストラの通常公演が始まった。昨日は原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。1曲目は上田素生の「儚い記憶は夢となって」。上田素生(うえだ・もとお)という人は1998年生まれという以外にプログラムには何の情報も載っていない。本人の書いたプログラム・ノートが載っているだけだ。とにかく曲を聴いてみよう。三拍子のノスタルジックな音楽が頻出する曲だ。昭和の劇伴音楽のようだ。今の若い世代の中にはこういう音楽を好む人もいるのだろうか。2曲目はガーシュウィンのピアノ協奏曲。ピアノ独奏は角野隼斗(すみの・はやと)。その人気のためか、当公演は全席完売だった。客席には女性客が目立つ。目の子では7割くらいが女性ではないか。演奏は音が美しく、スリリ...原田慶太楼/東響

  • アルディッティ弦楽四重奏団:オーケストラ・プログラム

    サントリーホールサマーフェスティバル2024の最終日。アルディッティ弦楽四重奏団のオーケストラ・プログラム。オーケストラはブラッド・ラブマン指揮の都響。1曲目は細川俊夫の「フルス(河)~私はあなたに流れ込む河になる~」。音の粒子がすさまじい勢いで飛び交う嵐のような曲だ。弦楽四重奏とオーケストラの境目は相互に侵食し合い、不分明な磁場のような音場を形成する。アルディッティ弦楽四重奏団の演奏と都響の演奏がシャープですばらしかったのはいうまでもないが、指揮のラブマンがこの曲を表面的にではなく、深く理解していることが感じられた。ラブマンは8月23日のマヌリのオーケストラ・ポートレートでも鮮烈な演奏を聴かせた(オーケストラは東響)。大変な実力の持ち主ではないだろうか。2曲目はクセナキスの「トゥオラケムス」。クセナキス...アルディッティ弦楽四重奏団:オーケストラ・プログラム

  • マヌリ:室内楽ポートレート

    サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家フィリップ・マヌリ(1952‐)の室内楽ポートレート。1曲目は弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」。全11楽章の各々短い音楽からなる曲だ。演奏はタレイア・クァルテット。若い女性たちの弦楽四重奏団だ。第1楽章の激しい出だしから気合が入っていた。藤田茂氏のプログラム・ノートによると、この曲は2016年にアルディッティ弦楽四重奏団によって初演された。そのアルディッティ弦楽四重奏団が来日している。演奏会にはメンバーの何人かが聴きに来ていた。もちろんマヌリ自身も聴いている。そんな中での演奏は緊張しただろう。タレイア・クァルテットには良い経験になったのではないか。2曲目は「六重奏の仮説」。以下に述べる6人の奏者の目の覚めるような演奏だ。こんなに難しい曲を指揮者...マヌリ:室内楽ポートレート

  • アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(2)&(3)

    サントリーホールサマーフェスティバル2024。昨日は昼公演がアルディッティ弦楽四重奏団の室内楽コンサート(2)、夜公演が同(3)だった。室内楽コンサート(2)は、1曲目がエリオット・カーター(1908‐2012)の弦楽四重奏曲第5番。単一楽章の曲だが、内容は細かく分かれる。結果、頻繁にテンポが変わる。それを一気に聴かせる。聴かせ上手だ。ヴィオラが目立つ場面が何度もある。弦楽四重奏のヒエラルキーを破り、4人の奏者が対等に書かれている。2曲目は坂田直樹(1981‐)の新作「無限の河」。尺八の音の組成と演奏法を参照した曲だそうだが、わたしは単調に感じた。演奏のせいだろうか。3曲目は西村朗(1953‐2023)の弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」。坂田直樹の前曲とは対照的に変化に富み、ドラマがある。西村朗の資質はオ...アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(2)&(3)

  • マヌリ:オーケストラ・ポートレート

    サントリーホールサマーフェスティバル2024のテーマ作曲家はフィリップ・マヌリ(1952‐)だ。恒例のオーケストラポートレートは、マヌリが影響を受けた作品としてドビュッシーとブーレーズの作品が、またマヌリが将来を嘱望する作曲家としてヴェルネッリの作品が、そして(これも恒例だが)マヌリの新作が演奏された。演奏はブラッド・ラブマン指揮の東響。1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。リハーサルに十分な時間を割けなかったのか、演奏には余裕がなかった。ラブマンの指揮は明快だが、それはリハーサル不足を補うようで、オーケストラはその指揮に慎重についていった。ところが2曲目のブーレーズの「ノタシオン」になると、水を得た魚のように、演奏に生気が生まれた。ブーレーズ特有の明るく上品な音色と眩いばかりのリズムの炸裂が表...マヌリ:オーケストラ・ポートレート

  • アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(1)

    恒例のサントリーホールサマーフェスティバルが始まった。今年のプロデューサーはアルディッティ弦楽四重奏団を率いるアーヴィン・アルディッティ(1953‐)だ。アルディッティ弦楽四重奏団は1974年に結成された。今年は創立50周年だ。アルディッティは昨年自伝を出版した。そこには彼らの50年間にわたる出来事が記されているそうだ。アルディッティは今回3つの室内楽コンサートと1つのオーケストラ・プログラムを組んだ。3つの室内楽コンサートは、武満徹の「ア・ウェィ・ア・ローン」を除いて、すべてアルディッティ弦楽四重奏団に献呈された曲で組まれている。しかも(新作を除いて)プログラム・ノートもすべてアルディッティ自身が書くという力の入れようだ。昨夜はその第1回。アルディッティは演奏に入る前に短いスピーチをした。「昨年から今年...アルディッティ弦楽四重奏団:室内楽コンサート(1)

  • 濱田芳通/アントネッロ「リナルド」

    濱田芳通が率いる古楽演奏団体アントネッロはいつか聴いてみたいと思っていた。やっとその機会が訪れた。濱田芳通の第53回(2021年度)サントリー音楽賞の受賞記念コンサートだ。曲目はヘンデルのオペラ「リナルド」。評判通り、ビート感のある表情豊かな演奏だ。弦楽器の澄んだ音色、木管楽器の個性的な演奏、ティンパニだけではなくタンバリンなどを加えた打楽器の多彩さ、そして通奏低音の精彩ある演奏など、聴きどころが満載だ。日本にはいつのまにかアントネッロとバッハ・コレギウム・ジャパンという互いに個性を競う古楽アンサンブルが2つできていた(各々の個性は鈴木雅明・優人と濱田芳通の個性からくるわけだ)。第1幕の鳥のさえずりは濱田芳通のリコーダー演奏で表現された。目の覚めるような妙技だ。即興的な面もあったのだろう。第2幕の冒頭には...濱田芳通/アントネッロ「リナルド」

  • 浅田次郎「帰郷」

    浅田次郎の「帰郷」には6篇の短編小説が収められている。どれも太平洋戦争にまつわる話だ。一種の戦争文学だが、戦闘場面は「鉄の沈黙」にしか出てこない。しかも「鉄の沈黙」でさえ戦闘場面は最後の一瞬に過ぎない。大半はその前夜の話だ。6篇中、戦争中の話は「鉄の沈黙」と「無言歌」の2篇だけだ。「無言歌」は戦争中の話ではあるが、戦闘場面は出てこない。太平洋の底に沈んだ潜水艦の話だ。潜水艦は故障して航行不能になる。乗員は2人。だんだん酸素が乏しくなる。2人は銃後に残した女性の話をする。不思議なくらい穏やかな会話だ。最後の言葉が胸をうつ。残りの4篇は戦後の話だ。「夜の遊園地」を例にとって内容に触れると――時は戦後復興が始まったころ。所は東京の後楽園遊園地。主人公はアルバイトの大学生だ。父親は戦死した。母親は主人公を実家に預...浅田次郎「帰郷」

  • 東京ステーションギャラリー

    東京ステーションギャラリーで「空想旅行案内人ジャン=ミッシェル・フォロン」展が開かれている。チラシ(↑)に惹かれて行ってみた。チラシに使われた作品は「月世界旅行」(1981水彩)だ。カバンが三日月なのがユーモラスだ。帽子をかぶった男はリトル・ハット・マン。フォロンの作品になくてはならないキャラクターだ。多くの作品に登場する。フォロンの分身だ。本展の表題にある「空想旅行案内人」とはフォロンの名刺にあった言葉だそうだ。フォロンの自己イメージであるとともに、リトル・ハット・マンのことでもあるだろう。「月世界旅行」は色彩の淡さと透明感が印象的だ。それがフォロンの特徴だ。加えて、全体にただようユーモア。押しつけがましさは一切ない。飄々として軽妙だ。鑑賞者は身構えることなくスッと作品に入って行ける。だが、たんにそれだ...東京ステーションギャラリー

  • 湯浅譲二の逝去

    作曲家の湯浅譲二(1929‐2024)が7月21日に亡くなった(写真↑はWikipediaより)。がっくりして元気が出ない。湯浅譲二の姿を最後に見たのは、5月28日に東京オペラシティで開かれたN響のMUSICTOMORROW2024のときだった。湯浅譲二の「哀歌(エレジィ)―formywife,Reiko―」が尾高賞を受賞し、その表彰式と演奏が行われた。湯浅譲二は体調不良が伝えられていたので、表彰式に出席できるかどうか危ぶんだが、車椅子に乗って現れた。ファンとしては姿を見せてくれただけでもありがたいが、だいぶ弱っていた。「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏された。湯浅譲二は客席で聴いたようだ。湯浅譲二が演奏会場で自作を聴く、あれが最後の機会になったろうか。「哀歌(エレジィ)」は、2008年に玲子夫人が亡くな...湯浅譲二の逝去

  • ヴォルフガング・リームの逝去

    ドイツの作曲家のヴォルフガング・リーム(1952‐2024)が7月27日に亡くなった。昨年はフィンランドの作曲家のカイヤ・サーリアホ(1952‐2023)が亡くなった。わたしと同世代の作曲家が一人また一人と亡くなる。リームの名前は「新ロマン主義」という言葉とともに、素人の音楽好きにすぎないわたしにも比較的早い時期から(1970年代だったと思う)伝わった。だが、就職したばかりで仕事に追われていたわたしは、リームの音楽を探して聴く余裕がなかった。初めてリームの音楽に向き合ったのは、2003年10月の読響の定期演奏会でゲルト・アルブレヒト(当時の常任指揮者)が「大河交響曲に向かってⅢ」を演奏したときだ。ダイナミックな音のうねりに目をみはった。上掲のCD(↑)は別の指揮者とオーケストラの演奏だが、それを聴くと、ア...ヴォルフガング・リームの逝去

  • お隣さんはヒトラー?

    映画「お隣さんはヒトラー?」。時は1960年、所は南米・コロンビア。荒れ果てた野原に廃屋のような家が2軒ある。その1軒に住むのはポーランド系のユダヤ人ポルスキー。ナチス・ドイツのホロコーストにより家族全員が殺された。ポルスキーだけが生き延びて、コロンビアで暮らす。孤独だが、平穏な日々だ。ある日、空き家だった隣の家にドイツ人のヘルツォークが引っ越してくる。えらく威張り腐った男だ。ポルスキーとのあいだにトラブルが絶えない。いつもサングラスをかけているが、トラブルのはずみにサングラスを外す。青い目だ。ポルスキーは過去に一度だけヒトラーを見たことがある。ヘルツォークの目はヒトラーにそっくりだ。ポルスキーはヒトラーにかんする本を調べ始める。ヘルツォークは多くの点でヒトラーに似ている。時あたかもナチスの高官のアイヒマ...お隣さんはヒトラー?

  • アラン・ギルバート/都響

    アラン・ギルバート指揮都響の都響スペシャル。現代作品2曲と「シェエラザード」というプログラムだが、そのすべてにハープが使われ、ハープは吉野直子が客演するという豪華版だ。1曲目はフィンランドのリンドベルイ(1958‐)の「EXPO」(2009)。10分程度の短い曲だが、リンドベルイ自身の書いたプログラムノートによると、「10を超えるテンポ設定の指示」があるそうだ。なるほど、めまぐるしくテンポが変わる。おもしろいのは、その変化がデジタル式に変わるのではなく、あるテンポに別のテンポが滲み込むように変わることだ。それが約10分間絶え間なく起こる。リンドベルイらしい明るい音色が移ろいゆくポジティブな曲だ。アラン・ギルバートのニューヨーク・フィル音楽監督就任に当たって書かれた曲。アランの持ち歌のようなものだろう。手の...アラン・ギルバート/都響

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会。曲目はラヴェルの「クープランの墓」とブルックナーの交響曲第7番(ノヴァーク版)。追悼音楽プロだ。「クープランの墓」は木管楽器、とくにオーボエが活躍する曲だが、今回の演奏は生真面目過ぎた。きっちり演奏しているが、もっと洒落っ気がないと、この曲の味が出ない。もどかしく感じるうちに演奏が終わった。難しいものだ。他の木管楽器では、クラリネットが時々アレッと思うほどの表情を付けた。ブルックナーの交響曲第7番は、力感あふれる大演奏だった。第1楽章はレガートのかかった、たっぷりとうたう歌が、連綿と続く。その流れに乗ってゆけば良いのだが、そのうちに、間がないことに気付いた。総休止の途切れがなく、レガートでうたい継がれていく。それはそれで魅力的だが、総休止はどこにいったのかと‥。それが気になって...ノット/東響

  • 森美術館「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」

    森美術館で「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」が開催中だ。シアスター・ゲイツ(1973‐)はアメリカ・シカゴ生まれの黒人アーティスト。2004年に愛知県常滑市で陶芸を学ぶために初来日した。それ以来、日本とのかかわりが深い。2番目の展示室は床一面に茶褐色のレンガが敷きつめられている。「神聖な空間」(英語でShrine)と名付けられたその展示室では、お香が焚かれる。文字通り神聖な場所だ。本展のHP(↓)の「展示風景」に写真が載っている。だが、写真ではそのインパクトは伝わらないかもしれない。「神聖な空間」にはゲイツ自身の作品とともに、他のアーティストの作品も展示されている。それもまたゲイツの世界だ。ゲイツのキュレーションによる作品の展示と、床一面のレンガが例示するような圧倒的な物量が、本展の特徴だ。その2点が集...森美術館「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」

  • 広上淳一/日本フィル

    広上淳一指揮日本フィルの定期演奏会。1曲目はリゲティのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は米元響子。最近、コパチンスカヤの独奏、大野和士指揮都響の演奏と、荒井英治の独奏、高関健指揮東京シティ・フィルの演奏で聴いたばかりだ。さて、今回はどうか。結果的には、期待値を上回る出来だった。ヴァイオリン独奏が繊細な音を紡ぐ。オーケストラも繊細だ。ヴァイオリン独奏とオーケストラが一体になり、ガラス繊維のような音響を形成する。時々打楽器が強い音を打ち込む。繊細な音響にアクセントを付けるようだ。特徴的なことは、各楽章がキャラクター・ピースのように性格付けられていることだ。目が覚める思いがする。前述のとおり、最近3回この曲を聴いたが、演奏は三者三様だ。コパチンスカヤの演奏は、おもしろくて仕方がなかった。個人芸といいたいくら...広上淳一/日本フィル

  • ヴィンツォー/読響

    読響の定期演奏会にカタリーナ・ヴィンツォーという若い指揮者が登場した。1995年、オーストリア生まれ。ウィーン音楽大学とチューリヒ芸大で学ぶ。2020年のマーラー国際指揮者コンクールで第3位。1曲目はコネソンの「ラヴクラフトの都市」から「セレファイス」。眩いばかりの色彩感にあふれた明るくポジティブな曲だ。ハリウッド映画の音楽のようだといったら語弊があるだろうが、最近の映画音楽は渋くて断片的なものも多いので、あえてハリウッド映画の音楽のようだと‥。そんな音楽をヴィンツォーは的確に振った。ヴィンツォーの読響デビューにふさわしい。話が脱線するが、コネソン(1970‐)は現代フランスの人気作曲家だ。記憶に新しいところでは、沖澤のどかが京都市交響楽団を率いた東京公演で、メインのプログラムにコネソンの「コスミック・ト...ヴィンツォー/読響

  • フルシャ/都響

    7年ぶりにフルシャが振った都響の定期演奏会。Bシリーズのプログラムはブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏は五明佳廉(ごみょう・かれん))とブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(1878/80年稿コーストヴェット版)。五明佳廉を聴くのは初めてだ。張りのある強い音が出る。オーケストラを向こうにまわしてバリバリ弾く。プロフィールを見ると、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに学んだとある。いかにもディレイ門下の演奏だ。競争の激しい世界の音楽業界で生き残る才能と個性の持ち主だろう。フルシャ指揮都響のバックも良かった。都響の首席客演指揮者だった時期の演奏を思い出した(後述するが、フルシャが首席客演指揮者だった時期には、わたしも定期会員だった)。第1楽章の中間部での激情的な箇所での、テンポを...フルシャ/都響

  • ジェームズ・ロッホランの想い出

    イギリス・スコットランド出身の名指揮者、ジェームズ・ロッホラン(1931‐2024)が亡くなったと日本フィルが発表した。享年92歳。日本フィルの名誉指揮者で、数々の名演奏を残した。ご冥福を祈る。日本フィルのHPを見ると、ロッホランが初めて日本フィルを振ったのは1980年だ。それ以来2006年までの26年間、日本フィルを振った。わたしは1974年に日本フィルの定期会員になったので、ロッホランが振った定期演奏会はほとんど聴いた。一番鮮明に覚えているのは、1993年3月の定期演奏会で指揮したリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」だ。オーケストラが整然と整えられ、すべての音が同じ方向をむいた演奏だった。当時新任のコンサートマスターだった木野さん(現ソロ・コンサートマスター)が見事なヴァイオリン・ソロを聴かせた。...ジェームズ・ロッホランの想い出

  • 鈴木秀美/東京シティ・フィル

    鈴木秀美が指揮する東京シティ・フィルの定期演奏会。先にプログラムを書いておくと、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」序曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏は小山実稚恵)そしてシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。わたしの好きな曲ばかりなので、楽しみにしていた。「ドン・ジョバンニ」序曲が始まると、12型の弦楽器のノンビブラートの音が耳に飛び込んできた。一人ひとりの音が透けて見えるようだ。指揮者によっては冒頭の和音の低音を長く引き伸ばすこともあるが、鈴木秀美は短く切る。慣習を洗い直してもう一度組み立てた演奏だ。だが主部に入ってからは、演奏の基本は変わらないが、アンサンブルに荒さを感じた。鈴木秀美の身中からほとばしる躍動感はあったが。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番では、オーケストラは「ドン...鈴木秀美/東京シティ・フィル

  • 東京都美術館「デ・キリコ展」

    東京都美術館で「デ・キリコ展」が開かれている。ジョルジョ・デ・キリコ(1888‐1978)の生涯にわたる作風の変遷をたどる展覧会だ。デ・キリコの作品は「形而上絵画」といわれる。形而上絵画が生まれたのは1910年代だ。時あたかも第一次世界大戦の真最中。形而上絵画は戦争が生んだ不安の表現のひとつだった。だが、デ・キリコの難しい点は、そのような作風が第一次世界大戦の終結後も、折に触れて繰り返されたことだ。後年生まれたそれらの作品(新形而上絵画といわれる)をどう捉えるかは、人によって異なる。本展には「大きな塔」(1915?)という作品が展示されている(残念ながら本展のHPには画像が載っていない)。81.5×36㎝の縦長の作品だ。画面いっぱいに5層の塔が描かれる。塔は暗赤色だ。各層ごとに何本ものベージュ色の円柱が並...東京都美術館「デ・キリコ展」

  • 関心領域

    映画「関心領域」は5月下旬の公開後、約1か月たつ。関心のある人はあらかた観てしまったのかもしれない。わたしが行った日は雨の降る寒い日だったこともあり、観客は10人足らずだった。上映終了も間近いのか‥。ともかく間に合って良かった。いうまでもないが、本作品はアウシュヴィッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスとその家族を描く映画だ。ヘスの住居は強制収容所に隣接する。塀を隔てたむこうは強制収容所だ。ヘスとその家族はそんなきわどい住居で贅沢な暮らしをしている。ヘスはともかく、妻と子どもたちは強制収容所で何が行われているか、まるで知らない様子だ。関心領域の外なのだ。関心領域(TheZoneofInterest)とは恐ろしい言葉だ。だれにでも関心領域がある。自分の生活を支える領域だ。恐ろしいのは、その外側に広大な無関...関心領域

  • マトヴィエンコ/東響

    若手指揮者のドミトリー・マトヴィエンコが東響に初登場した。マトヴィエンコは2021年のマルコ国際指揮者コンクールの優勝者だ。同コンクールのHPを見ると、コンクール時点で30歳、ベラルーシ出身とある。モスクワ音楽院に学び、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ウラディミール・ユロフスキー、テオドール・クルレンチス、ワシリー・ペトレンコの各マスタークラスを受けた。2024/25のシーズンからデンマークのオーフス交響楽団の首席指揮者に就任予定。周知のことだが、今回の東響初登場に当たって、当初発表のプログラムはツェムリンスキーの「人魚姫」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」だった。只者ではないプログラムに注目したが、後に「人魚姫」がラヴェル2曲に変更された。がっかりしたというのが正直なところだ。1曲目はラヴェル...マトヴィエンコ/東響

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はウェーベルンの「夏風の中で」。わたしの大好きな曲だが、演奏は少し勝手がちがった。絵画的な要素が(視覚的な要素といってもいい)皆無なのだ。冒頭の弱音は驚くばかりで(わたしはワーグナーの「ラインの黄金」の序奏が始まるのではないかと思った)、以後も弱音のコントロールが徹底している。だがそこからの音の広がりがない。弱音の部分と強音の部分が二項対立的になり、その間のグラデーションがない。ヴァイグレが感じるこの曲はこうなのだろうか。2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第12番。わたしの偏愛する曲だ。以前持っていたLP(ブレンデルのピアノ独奏、マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズの演奏)を何度聴いたことだろう。今回数年ぶりに聴いて、心の故郷に戻ったよ...ヴァイグレ/読響

  • 原田慶太楼/N響

    原田慶太楼が振るN響のAプロ。プログラムはオール・スクリャービン・プロ。それだけでも凝っているが、加えて選曲が、スクリャービンが神智学に傾倒する前の曲ばかり。一捻りも二捻りもしたプログラムだ。1曲目は「夢想」。スクリャービンが書いた2作目のオーケストラ作品らしい(小室敬幸氏のプログラムノーツより。ちなみにオーケストラ作品の一作目は、2曲目に演奏されるピアノ協奏曲だ)。演奏時間約4分の短い曲だが、魅力的な曲だ。当時ショパンに倣ったピアノ曲を書いていたスクリャービンが、同じ音楽をオーケストラで書いた感がある。演奏も、たとえば弦楽器が大きく飛翔する部分など、N響の優秀さを感じさせた。2曲目はピアノ協奏曲。ピアノ独奏は反田恭平。会場が満席だったのは、反田人気か。キラキラ輝くような音色、あふれる情熱、夢見るような甘...原田慶太楼/N響

  • 大植英次/日本フィル

    ラザレフが振る予定だった東京定期が秋山和慶に代わり、プログラムもガラッと変わった。その秋山和慶が鎖骨骨折を起こしたので、急遽大植英次に代わった。プログラムは秋山和慶のものを引き継いだ。1曲目はベルクの「管弦楽のための3つの小品」。原曲は4管編成の巨大なオーケストラ曲だが、それをカナダの現代音楽作曲家ジョン・リーア(1944‐)が28人の室内アンサンブル用に編曲した。管楽器は2管編成が基本で、弦楽器は各パート2名だ。私見では、2名としたことがものを言っている。1名だとシェーンベルクの室内交響曲第1番のように各パートがソロ楽器のように動くが、2名だとそれなりの厚みがでる。この編曲はたいへんおもしろかった。原曲だと巨大なオーケストラが壁のように立ちはだかり、細かい動きは壁の中に埋もれるが、この編曲だと細かい動き...大植英次/日本フィル

  • 目黒区美術館「青山悟展」

    目黒区美術館で開かれている「青山悟展」。会期末ぎりぎりになったが、出かけることができた。同展は副題に「刺繍少年フォーエバー」とある。副題のとおり、青山悟(1973‐)は古い工業用ミシンを使って刺繍作品を作る現代美術家だ。チラシ(↑)を見ると、美しい都会の夜明けが写っている。写真のように見えるが、じつは刺繍だ。「東京の朝」(2005)という作品。本展にも展示されている。実物を見ると、なるほど刺繍だ。それにしてもなんて精巧なのだろうと思う。おもしろいのは、クシャクシャになった上記のチラシが、刺繍で作られ、本展に展示されていることだ。思わず笑ってしまう。チラシとは本来、その役目を終えれば(=本展が終われば)、用がなくなるものだ。だが刺繍で作られたチラシは、本展が終わっても、作品として残るだろう。消えゆくものの記...目黒区美術館「青山悟展」

  • 世田谷美術館「民藝」展

    世田谷美術館で「民藝」展が開かれている。柳宗悦(1889‐1961)らが提唱した手作りの日用品に美を見出す民衆的工藝=「民藝」。本展では着物、茶碗、家具などが展示されている。いずれも無名の職人が作ったものだ。個性を競う芸術家の作品ではない。野心とは無縁のそれらの品々を見ていると、一種のさわやかさを感じる。本展は3章で構成されている。第1章は1941年に日本民藝館で開かれた「生活展」を再現したもの。テーブル、椅子、食器棚などを配置して生活空間を作り、そこに茶碗などをさりげなく並べる。当時は画期的な展示方法だったらしい。第2章では民藝品を「衣・食・住」に分類して展示する。わたしは今回「衣」の品々に惹かれた。八丈島の黄八丈の着物「八端羽織」(はったんはおり)(江戸時代19世紀)がまず目に留まった。素朴な風合いが...世田谷美術館「民藝」展

  • MUSIC TOMORROW 2024

    N響恒例のMUSICTOMORROW2024。今年度の尾高賞受賞作品は湯浅譲二(1929-)の「哀歌(エレジィ)-formywife,Reiko-」(2023)。コンサートに先立ち授賞式が行われた。94歳の湯浅譲二。体調不良の噂もきく。はたして授賞式に出席できるのかと危ぶんだが、車椅子にのって現れた。数年前までは元気に演奏会に来ていた。だいぶ弱ったようだ。わたしはそっと敬慕の念を抱いた。「哀歌(エレジィ)」は2曲目に演奏されたが、まず「哀歌(エレジィ)」から書き始めると、わたしもこの曲は傑作だと思う。奥様を亡くした悲しみから生まれた曲だ。その慟哭の想いがあふれる。音の密度(物理的な密度ではなく、音に込めた感情の濃さ)が半端ではない。わたしは杉山洋一指揮都響の初演も聴いた。そのときも感動したが、今回のペータ...MUSICTOMORROW2024

  • マーク=アンソニー・ターネジの音楽

    東京オペラシティ恒例の「コンポ―ジアム2024」。今年の審査員はマーク=アンソニー・ターネジ(1960‐)。演奏会の「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」はポール・ダニエル指揮都響の演奏で開かれた。1曲目はストラヴィンスキーの「管楽器のためのサンフォニー」(1920年版)。この曲はドビュッシーの追悼のために作曲されたらしい(向井大策氏のプログラムノーツより)。管楽アンサンブルのための曲だ。木管13、金管11、合計24とかなり大きい。そのアンサンブルが一糸乱れずに演奏した。目の覚めるようなシャープな演奏だ。都響のメンバーの他に在京オーケストラの首席奏者も加わっていた。それらの演奏者の力量はもちろんだが、ポール・ダニエルの統率力にも目をみはった。2曲目はシベリウスの劇音楽「クオレマ」から「カンツォネッタ」。シ...マーク=アンソニー・ターネジの音楽

  • ヴァルチュハ/読響

    今年4月に読響の首席客演指揮者に就任したユライ・ヴァルチュハ。読響を振ったのは昨年8月が初めてだ。わたしはそのときは都合で聴けなかった。今回が初めてのヴァルチュハ体験。曲目はマーラーの交響曲第3番。ちなみに昨年8月の曲目はマーラーの交響曲第9番だった。長大な第1楽章では、トロンボーンがオーケストラ全体に君臨するように轟きわたった。底光りするような音色だ。トロンボーンが古代ギリシャの神ディオニュソスを象徴するのだとしたら、わたしは初めてそれを実感したように思う。トロンボーンにかぎらず、第1楽章全体にわたって、音の陰影が濃い。明るく輝くような音から暗くくぐもるような音まで、明暗のコントラストがはっきり付けられている。音のイメージが徹底され、音楽が深く彫琢されている。ヴァルチュハは、心地よさよりも、音楽の骨格を...ヴァルチュハ/読響

  • 井上道義/日本フィル(横浜定期)

    井上道義が振る日本フィルの横浜定期。今年12月末での指揮活動からの引退を表明する井上道義。日本フィルを振る最後の演奏会だ。プログラムはオール・ショスタコーヴィチ・プロ。1曲目はチェロ協奏曲第2番。めったに実演を聴く機会のない曲だが、今まで聴いた実演の中では、抜群のおもしろさだった。ショスタコーヴィチ晩年の様式が顕著な曲だ。晦渋とも、暗いとも、謎とも、いろいろなイメージで語られるが、演奏前にマイクをもって現れた井上道義は「ユーモア」といった。「心に余裕がないとユーモアは生まれない」と。そのような解釈が関係するのかどうか、ともかく長大な第3楽章が驚くほどおもしろく聴けた。延々に続くチェロのモノローグが、少しも重くなく、むしろ軽やかだった。チェロ独奏は佐藤晴真だが、その独特の豊かな音と丸みをおびた表現、そして日...井上道義/日本フィル(横浜定期)

  • ノット/東響

    昨日も書いたが、定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つの演奏会が土日に重なり、2つを振り替えて聴いた4つの演奏会。最後はノット指揮の東響。ともかくこの演奏会を聴けて良かった。2年後の退任が発表されたノットが、東響であげた数々の成果のうち、この演奏会は忘れられないもののひとつになりそうだ。1曲目は武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」。何度も聴いた曲だが、ノット指揮東響の演奏は細部まできっちりして、音楽の区切りが明確で、しかも呼吸感のある演奏だった。武満トーンといわれる音が、過度に柔らかくなく、芯のある音で鳴った。2曲目はベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」。武満徹の音楽にはベルクの影響を感じることがあるが、並べて聴くと、武満徹の、音がまばらで隙間の多い書法にたいして、ベルクの場合は高音域から低音域まで音...ノット/東響

  • 藤岡幸夫/東京シティ・フィル~ルイージ/N響

    昨日は午後は東京シティ・フィルへ、夜はN響へ行った。連チャンは苦手だが、わたしが定期会員になっている5つのオーケストラのうち4つのオーケストラの演奏会が、昨日と今日に重なったため、2つのオーケストラを振り替えたからだ。東京シティ・フィルは藤岡幸夫の指揮。1曲目はディーリアスの「夜明け前の歌」。藤岡幸夫がプレトークで「ディーリアスはイギリス音楽の代表のように思われているかもしれないけれど、ディーリアス自身はフランスに住んでいて、フランスが好きだった」(大意)といっていた。なるほど、そういわれてみると、「夜明け前の歌」はフランス近代の音楽のように聴こえた。2曲目はリストのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は福間洸太朗。緩急のメリハリをつけた演奏だ。演奏によっては捉えどころがなくなりがちなこの曲だが、福間洸太朗の演...藤岡幸夫/東京シティ・フィル~ルイージ/N響

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォンが日本フィルを振ってマーラーの交響曲第9番を演奏した。それは予想もできない演奏だった。第1楽章は音の断片が飛び交うマーラーの音楽の、その断片が鋭角的に発音される。ニュアンスが際立ち、パッチワーク風とも、コラージュ風ともいえるが、その言葉には収まりきらない、全体が崩壊の寸前でとどまっている感覚があった。わたしは現代音楽が好きなのだが、まるで現代音楽を聴くようだった。第2楽章はのどかなレントラーやワルツといった舞曲よりも、軋み(きしみ)とか、歪み(ゆがみ)とか、何かそんなものを感じさせた。主体(マーラー)と客体(舞曲)とのかい離といったらいいか。素直には喜べない感覚があった。第3楽章は闘争的な音楽だが、その音楽と演奏の間に齟齬がなかった。全4楽章の中でもっとも普通に聴くことができた。終盤に入...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • 国立西洋美術館:ゴヤ「戦争の惨禍」

    国立西洋美術館でゴヤ(1746‐1828)の版画集「戦争の惨禍」が展示中だ(5月26日まで)。全82点。スペイン独立戦争(1808‐1814)の悲惨な状況と、(戦争には勝利したものの)戦後の反動政治による抑圧を、ゴヤならではのリアルな目で描いたものだ。同美術館は「戦争の惨禍」の初版を所蔵する。これまでもその数点を展示することはあったが、全点の展示は初めてだ。初版はゴヤの死後35年もたった1863年に出た。そのときには80点にとどまった。残りの2点の原版が見つからなかったからだ。その後2点の原版が発見された。同美術館は2点の第2版を所蔵する。82点すべての画像は同美術館のHPで見ることができるが、実物のほうが、細かい描写や繊細なニュアンスがよくわかる。本展の解説によると、全体は三部に分けられる。第一部は戦争...国立西洋美術館:ゴヤ「戦争の惨禍」

  • SOMPO美術館「北欧の神秘」展

    SOMPO美術館で「北欧の神秘」展が開かれている(6月9日まで。その後、松本市、守山市、静岡市に巡回)。北欧絵画の展覧会は珍しいので、新鮮だ。手つかずの自然や素朴な人々を描いた作品が多い。北欧とはいっても、本展はノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国の画家の作品で構成される。デンマークとアイスランドの画家は含まれない。実質的にはスカンジナビア半島の文化圏の展覧会だ。北欧絵画はあまり馴染みがないが、近年、国立西洋美術館がデンマークのハンマースホイ(1864‐1916)の作品を収蔵し、その記念に2008年にハンマースホイ展が開かれた(2020年にも開かれた)。最近はフィンランドのガッレン=カッレラ(1865‐1931)の作品を収蔵し、またスウェーデンの劇作家で小説家のストリンドベリ(1849‐1912...SOMPO美術館「北欧の神秘」展

  • 国立新美術館「遠距離現在 Universal Remote」展

    国立新美術館で「遠距離現在UniversalRemote」展が開かれている(6月3日まで)。8人と1組の現代美術家の作品の展覧会だ。「遠距離現在」という言葉はあまり聞きなれない言葉だが、開催趣旨は、世界規模に広がる人間活動にあって、人と人との距離、人と社会との距離は近くなったのか、それとも遠くなったのか、ということらしい。本展のキーワードはインターネットの普及とパンデミックの経験だ。作品はすべてパンデミック以前に制作されたものだ。それらの作品をパンデミック以後のいま見るとどう見えるか、と本展は問う。8人と1組は国も年齢も、そして関心のありようもさまざまだ。わたしがもっとも面白かった作品は、北京とニューヨークを拠点とするシュ・ビン(1955‐)のヴィデオ作品「とんぼの眼」だ。本作品はインターネット上で公開さ...国立新美術館「遠距離現在UniversalRemote」展

  • 横山幸雄(ピアノ&指揮)/日本フィル

    日本フィルが4月の横浜定期と来年4月の横浜定期の2回に分けて、ショパンが書いたオーケストラ付きの曲全6曲をすべて演奏する企画を始めた。ピアノと指揮(弾き振り)は横山幸雄だ。1曲目は「《ドン・ジョバンニ》の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲」。シューマンがショパンを世に紹介した記念すべき曲だ。シューマンの文章を吉田秀和の訳(岩波文庫「音楽と音楽家」)で引用すると、「この間、オイゼビウスがそっと戸をあけてはいってきた」と始まる。オイゼビウスはフロレスタンとともに、シューマンが創作した架空の人物だ。オイゼビウスは「諸君、帽子をとりたまえ。天才だ」といって楽譜を見せる。オイゼビウスはピアノで弾く。フロレスタンは「すっかり感激してしまって、陶然とよいきったような微笑をうかべたまま、しばし言葉もなかったが、やっと、こ...横山幸雄(ピアノ&指揮)/日本フィル

  • B→C 阪田知樹ピアノ・リサイタル

    B→Cシリーズに阪田知樹が登場した。1曲目と2曲目はバッハ。まずバッハがマルチェッロのオーボエ協奏曲をピアノ独奏用に編曲した曲(BWV974)から第2楽章アダージョ。バッハがイタリア的な歌に耳を傾ける様子が目に浮かぶ。次に「イタリア協奏曲」(BWV971)。ペダルを使用しないピアノからクリアな音像が立ち上る。3曲目は今年没後100年に当たるブゾーニのエレジー集から第2曲「イタリアへ!」。ブゾーニは未来音楽を考察した長い射程と、非ヨーロッパ圏の音楽にも関心を示した広い視野とで興味深い存在だ。「イタリアへ!」はイタリア人の父とドイツ人の母をもつブゾーニの複雑に入り組んだ感情が渦巻く。4曲目のリストの「BACHの主題による幻想曲とフーガ」は、3曲目のブゾーニと続けて演奏された。関連深いリストとブゾーニだが、各々...B→C阪田知樹ピアノ・リサイタル

  • オラモ/東響

    サカリ・オラモが東響に初登場した。自国フィンランドの作品3曲とドヴォルザークの交響曲第8番というプログラムを振った。1曲目はラウタヴァーラ(1928‐2016)の「カントゥス・アルクティクス」。鳥の鳴き声とオーケストラのための協奏曲だ。わたしは何十年も前に一度聴いたことがある。その印象は強烈だった。今回は二度目。オーケストラの細かい動きは忘れていたが、野生の鳥たちの雄大な鳴き声を聴くと、何十年も前の記憶が蘇った。意外にオーケストラの動きはシンプルだと思った。でも、それはそうだろう。オーケストラが複雑な動きをしたら、鳥たちの鳴き声が相殺される。オラモ指揮の東響はそのオーケストラ・パートを抑制的に、だが最後は目一杯きらびやかに演奏した。2曲目はサーリアホ(1952‐2023)の「サーリコスキ歌曲集」。ソプラノ...オラモ/東響

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。1曲目はリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」第1幕と第2幕より序奏とワルツ集。「ばらの騎士」はロジンスキー編曲といわれる組曲版がよく演奏されるが、当夜の版はシュトラウス自身の編曲だそうだ。そんな版があったのかと驚く。聴いてみると、ほとんど演奏されない理由がわかる。高関健がプレトークでいっていたが、シュトラウスが最後に結末をつけようとして、途中からオペラにはないことを始める。反面それがおもしろい。今後はもう聴く機会がないかもしれないが、聴けて良かった。高関健がプレトークでいっていたが、「ばらの騎士」にはこの他にシュトラウス自身が映画用に(無声映画だろう)オーケストラだけで(歌手なしで)演奏できるように編曲した版があるそうだ。高関健はそれを演奏できないかと検討した...高関健/東京シティ・フィル

  • ヤノフスキ/N響

    ヤノフスキ指揮N響の定期演奏会。1曲目はシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」。前日に下野竜也指揮日本フィルで同じくシューベルトの交響曲第3番を聴いたので、どうしても比較してしまう。両曲は同時期の作品だ。またN響も日本フィルも同じ12型の編成。それなのに出てくる音楽は対照的だった。下野竜也指揮日本フィルが、軽く明るい音でチャーミングなシューベルトを聴かせたのにたいして、ヤノフスキ指揮N響は、重く渋い音でがっしりした骨格のシューベルトを聴かせた。同時期の作品とは思えない違いだ。好みの点ではどうかといえば、それは人それぞれだろう。シューベルトは第4番の後で、小ぶりで愛らしい第5番を書いたので、下野竜也指揮日本フィルの演奏スタイルのほうがシューベルトの創作のうえで連続性がある。一方、ヤノフスキ指揮N響の演奏は、ヤ...ヤノフスキ/N響

  • 下野竜也/日本フィル

    下野竜也が指揮する日本フィルの定期演奏会。1曲目はシューベルトの交響曲第3番。なんて明るく軽い音だろう。ステージの照度が一段上がったようだ。下野竜也も日本フィルも、いつの間にかこういう音が出せるようになったのだ。加えて、フレーズの区切りが明確で、呼吸感がある。それは若いころからの下野竜也の美質だ。それが柔らかく、ニュアンス豊かになってきた。結果、チャーミングなシューベルトが繰り広げられた。個々の奏者では、第3楽章のトリオでオーボエの杉原さんとファゴットの田吉さんが好演した。それは演奏全体に華を添えた。2曲目はブルックナーの交響曲第3番(1877年第2稿、ノヴァーク版)。弦楽器は1曲目のシューベルトが12型だったのに対して16型に拡大された。そうか、1曲目のシューベルトが軽い音だったのは、2曲目のブルックナ...下野竜也/日本フィル

  • 舟越桂の逝去

    彫刻家の舟越桂が3月29日に亡くなった。72歳。肺がんだった。わたしは迂闊にも、その訃報で初めて、舟越桂がわたしと同い年だったことを知った。そうだったのか……と。なので、なおさら逝去が身にしみた。わたしが初めて舟越桂の作品を見たのは、2005年、ハンブルクでのことだった。ハンブルクにはオペラを観に行った。日中は暇なので、郊外のバルラッハ・ハウスを訪れた。バルラッハはドイツの彫刻家だ。ケーテ・コルヴィッツと同様に、ユダヤ人ではないが、ナチスに迫害された。わたしはバルラッハの作品が好きなので、期待して出かけた。ところが着いてみて驚いた。舟越桂という日本人の彫刻家の展覧会が開かれていた。バルラッハの作品と舟越桂の作品が並んで展示されていた。そのときは、バルラッハの作品を見に来たのに日本人の作品を見るのかと、正直...舟越桂の逝去

  • カンブルラン/読響

    カンブルラン指揮読響の定期演奏会。カンブルランが読響の常任指揮者を退任したのは2019年3月だ。その後、2022年10月と2023年12月にカンブルランが読響を振るのを聴いた。今回で3度目だ。前回までの軽い身のこなしと、常任指揮者時代と変わらない引き締まった音から、今回は少し変わったと感じる。1曲目はマルティヌーの「リディツェへの追悼」。冒頭の音が恐ろしいほど暗く不穏に鳴った。その一撃でチェコの小村リディツェで起きた悲劇を描き尽くすようだ。カンブルランはこれほど表現的だったろうかと。その後の追悼の音楽はむしろ温かい音色でヒューマンだ。カンブルランがこの曲を選んだ気持ちがわかる気がする。2曲目はバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏は金川真弓。かねてから評判をきくにつけて、早く聴いてみたいと...カンブルラン/読響

  • 戦雲

    ドキュメンタリー映画「戦雲」(いくさふむ)。タイトルの「戦雲」は石垣島に伝わる歌の言葉だ。「また戦雲(いくさふむ)が湧き出してくるよ。恐ろしくて眠れない」という内容だ。本作品は三上智恵監督が2015年から8年間にわたり撮り続けた映像を編集したもの。なんのストーリーも想定せずに、宮古島、石垣島そして与那国島に暮らす人々の日常を撮り続けた。急速に軍事化が進むそれらの島々で、人々は不安をかかえ、憤りをおぼえ、それでも慎ましい日々の生活を送る。そんな人々を撮り続けた。スクリーンからは三上監督の共感のこもった眼差しが感じられる。人々はマイクをもって自衛隊に訴える。「私たち住民は、戦争になったら、もしかすると避難することができるかもしれない。でもあなたたちは逃げられないんですよ」と。命が軽んじられるのは住民も自衛隊員...戦雲

  • 原田慶太楼/東響

    原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。1曲目は藤倉大の「WaveringWorld」。シアトル交響楽団からの依頼で「シベリウスの交響曲第7番と共演できる作品」(藤倉大自身のプログラムノート)として作曲された。透明感のある弦楽器の音が飛び交う曲だ。その音は銀色に輝くように感じられる。藤倉大の鮮度のよい音の典型だ。弦楽器の音が交錯する中で木管楽器がうごめき、金管楽器が咆哮する。シベリウス的だ。途中からティンパニの強打が始まる。それがずっと続く。ほとんどソロ楽器のようだ。本作品は天地創造のイメージから発しているらしいが(上記のプログアムノートより。ただし天地創造はキリスト教の創世記からではなく、フィンランド神話、日本神話などからインスピレーションを得た藤倉大独自のもの)、ティンパニ・ソロは天地創造の登場人物を表すとい...原田慶太楼/東響

  • かづゑ的

    瀬戸内海の島にたつ国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。宮崎かづゑさんは10歳のときに入所した。90歳を超えたいまもそこで暮らす。映画「かづゑ的」は宮崎かづゑさんの日常を追ったドキュメンタリー映画だ。冒頭、かづゑさんが電動カートに乗ってスーパーにむかう。顔見知りの店員さんに声をかける。陳列棚から果物や野菜を取り、かごに入れる。だがその動作が大変だ。かづゑさんには両手の指がない。指のない手で商品を取るのは難しい。両腕でかかえるようにして取る。レジに行く。店員さんが財布を開けてお金を出す。指がないと財布を開けることも、お金を出すこともできない。わたしは冒頭のその場面で「可哀想だな」と思ってしまった。そう思ったわたしのなんと浅はかだったことか。かづゑさんの明るく前向きな生き方が、以後、わたしの同情心を打ち砕く。同...かづゑ的

  • ポリーニ追悼

    ポリーニが亡くなった。82歳だった。一時代を画したピアニストだった。多くの方がSNSで追悼の言葉をささげている。わたしはファンの多さに圧倒された。わたしが初めてポリーニを聴いたのは1974年の初来日のときだ。会場は東京厚生年金会館だった。プログラムの中にシューベルトの「さすらい人」幻想曲とショパンの「24の前奏曲」があった(その他にもう1曲あったような気がする)。「さすらい人」幻想曲の音のやわらかさと「24の前奏曲」の息をのむような完璧さに鮮烈な印象を受けた。もしも神様がわたしに「いままで聴いた演奏会の中でひとつだけもう一度経験させてやる」といったら、あの演奏会を選ぶかもしれない。わたしは当時大学生だった。ポリーニの名前を知ったのは、吉田秀和の著書でその名前を見かけたからだ。懐かしいので引用すると――「も...ポリーニ追悼

  • リープライヒ/日本フィル

    アレクサンダー・リープライヒが(コロナ禍での中断後)久しぶりに日本フィルに客演した。1曲目は三善晃の「魁響の譜」(かいきょうのふ)。1991年の作曲なので、脂が乗りきった時期の作品だ。4管編成が基本のオーケストラ編成だ。三善晃の作品の中では最大規模の編成ではないだろうか。冒頭の暗く混沌とした響きから、武満徹を思わせる甘美な音色があらわれ、アルバン・ベルクのような練れた音楽があらわれたかと思うと、疾駆する音楽があらわれる。広瀬大介氏のプログラムノートに引用された三善晃のインタビュー記事に「今回の作品(注:「魁響の譜」)において、私の語法の論理を使いきったと思います」(岡山シンフォニーホール友の会会報『フリューゲル』インタビュー記事、1991年)とある。たしかに当時の渾身の作品かもしれない。演奏は気合の入った...リープライヒ/日本フィル

  • 新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

    新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」。当初予定されたトリスタン役とイゾルデ役の歌手がキャンセルして、わたしには未知の歌手が代役に立った。がっかりしたが、代役の歌手が役目を果たした。わたしもそうだが、劇場側もホッとしたことだろう。代役に立った歌手は、まずトリスタン役はゾルターン・ニャリ。個性的な声だが、歌はしっかりしている。第3幕のモノローグもメリハリがある。イゾルデ役はリエネ・キンチャ。第1幕の長丁場は緊張感を欠いたが、第3幕の「愛の死」は抑揚に富む。繰り返すが、総じて2人とも及第点だ。多少脱線するが、この作品はトリスタンとイゾルデの半音階を駆使した音楽と、クルヴェナールの跳躍の多い音楽と、マルケ王の動きの乏しい音楽との3種類の音楽からなる。わたしはだんだんクルヴェナールの音楽が好きになる自分に気付く。そ...新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

  • 森美術館「私たちのエコロジー」展

    森美術館で開かれている「私たちのエコロジー」展は、環境問題に向き合う現代アートを集めた展覧会だ(3月31日まで)。上掲の画像(↑)の左半分はモニカ・アルカディリの「恨み言」。青い部屋に白い球が浮く。海に浮かぶ真珠をイメージしている。美しい。だが小さな声が聞こえる。「海は全てを暴いてしまう。強い呪いの力で。海に住むものとして、私は呪われた人生を送ってきた。呪われるとは、隠された事実を垣間見ることだ。(以下略)」と。真珠が呟いているのだ。アルカディリは1983年生まれ。ベルリン在住、クウェート国籍。ペルシャ湾岸は古代メソポタミア時代から天然真珠の産地だった。20世紀初頭に日本の養殖真珠によって駆逐された。声はその恨み言だ。本展では上記の「恨み言」をはじめ国内外の34人のアーティストの作品が展示されている。現代...森美術館「私たちのエコロジー」展

  • マリー・ジャコ/読響

    マリー・ジャコが読響の定期を振った。1990年パリ生まれ。2023年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立歌劇場の首席指揮者、25年からケルン放送響の首席指揮者に就任。ヨーロッパのメジャーなポストを席巻中だ。プログラムは20世紀前半の特徴ある曲を並べたもの。1曲目はプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」組曲。カラフルな音色で鮮やかな演奏だ。明るい感性が息づいている。力みなくオーケストラを鳴らす。集中力が途切れない。指揮者としての力量の発露が感じられる。それにしてもこの曲は面白い曲だ。プロコフィエフはオペラというジャンルにじつに手の込んだ音楽を書いたものだと感嘆する。わたしは一度このオペラを観たことがある(ベルリンのコーミッシェオーパーでアンドレアス・ホモキの演出だった)。音楽もストーリ...マリー・ジャコ/読響

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期。チケットは完売になった。曲目はシベリウスの交響詩「タピオラ」とマーラーの交響曲第5番。同時代を生きたシベリウスとマーラーだが、オーケストラ書法は対照的だ。音を切り詰めてラジカルな簡素化に向かったシベリウスと、音を複雑化して前代未聞の肥大化に向かったマーラー。その対比は興味深いが、それにしてもチケット完売はすごい。高関健と東京シティ・フィルの評価が上がっているからだろう。シベリウスの「タピオラ」は時に鋭角的な音を交えながら、すべての音を明確に示す演奏だ。オーケストラが沈黙すると思っていた部分でホルンが鳴っていたり、弦楽パートの意外な絡み合いがあったり、「なるほどこの曲はこう書かれているのか」と新鮮に聴いた。言い換えれば、茫漠とした北欧情緒で聴かす演奏ではなかった。たぶん高...高関健/東京シティ・フィル

  • 秋山和慶/新日本フィル

    友人からチケットをもらったので、新日本フィルの定期演奏会を聴いた。指揮は秋山和慶。1曲目は細川俊夫の「月夜の蓮―モーツァルトへのオマージュ―」。わたしは初めて聴く曲だ。相場ひろ氏のプログラムノートによれば、2006年にモーツァルトの生誕250年を記念して北ドイツ放送局の委嘱により書かれた曲だ。「モーツァルトのピアノ協奏曲から好きな曲を1曲挙げ、それと同様の楽器編成を用いて演奏することができるように」という依頼だった。細川俊夫はピアノ協奏曲第23番を選んだ。たしかに曲の最後にモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章が出てくる。モーツァルトが書いた音楽の中でももっとも甘美な音楽だ。「月夜の蓮」は、産みの苦しみと、開化の直後の晴れやかな静けさを感じさせる音楽だ(ホルン協奏曲「開花の時」(2011年)に通じる...秋山和慶/新日本フィル

  • 東京都美術館「印象派 モネからアメリカへ」展

    東京都美術館で開催中の「印象派モネからアメリカへ」展は、印象派の絵画がヨーロッパ各地、アメリカそして日本にどのように伝わったかを辿る展覧会だ。展示作品のほとんどはアメリカのウスター美術館の所蔵品。ウスターはマサチューセッツ州の(ボストンに次ぐ)第二の都市だ。コロー、ピサロ、モネの上質の作品が来ている。それぞれの画家のエッセンスが凝縮されたような作品だ。どれもウスター美術館の所蔵品。本展のHP(↓)に画像が掲載されている。だがもっとも感銘を受けたのは、アメリカ印象派の作品だ。初めて名前を知る画家たちの作品が新鮮だ。なかでもメトカーフ(1858‐1925)の「プレリュード」とグリーンウッド(1857‐1927)の「雪どけ」は、本展の白眉だった。「プレリュード」は早春の山野を描く。木々の芽吹きと若草が目にやさし...東京都美術館「印象派モネからアメリカへ」展

  • インバル/都響

    インバル指揮都響のマーラーの交響曲第10番(デリック・クック補筆版)。わたしが聴いたのは2日目だ。SNSを見ると、1日目の演奏には辛口の意見が散見される。だが少なくとも2日目の演奏は、伝説的な名演の誕生と思われた。冒頭のヴィオラの音がクリアーで、かつ潤いがある。首席の店村さんの、これが最後のステージだと思ったからかもしれないが、いつまでも記憶に残りそうな音だ。その音が端的に示すように、第1楽章を通して、弦楽器の各パートの、明瞭に分離し、かつしっとりした音色が続いた。例の不協和音のところも、絶叫調にならずに(音が濁らずに)、けれども衝撃力をもって鳴った。その直後のトランペットのA音の持続は悲痛でさえあった。わたしはコロナ禍以前には、長年都響の定期会員だった。コロナ禍以後は継続しなかったが、単発的に聴いていた...インバル/都響

  • PERFECT DAYS

    映画「PERFECTDAYS」を観た。映画を観るのは久しぶりだ。昨年は映画を観なかった。観たい映画はいくつかあったが‥。「PERFECTDAYS」は昨年12月に封切になったので、もう1か月以上続いている。今でもかなりの入りだ。話題作なのでプロットを紹介するまでもないだろう。一言でいえば、ドロップアウトした人の話だ。名前は平山という。恵まれた家に生まれたようだが、父親と対立して家を出た(詳しくは描かれない)。その後どういう経緯をたどったかはわからない。ともかく今は下町の老朽化したアパートに住み、公衆トイレの清掃員をしている。貧しいが、自由だ。自由の代償は貧しさと孤独だが、平山は自由を選んだ。親ガチャとは正反対の生き方だ。そんな生き方を描く映画を多くの人が観る。なぜだろう。みんな心の底ではそんな生き方に憧れて...PERFECTDAYS

  • カサド/N響

    パブロ・エラス・カサド指揮N響の定期Bプロ。スペイン・プログラムだ。1曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。冒頭のヴィオラを主体にした弦楽器の音が美しい。音の層が透けて見えるようだ。2曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏はアウグスティン・ハーデリヒ。1984年生まれ。両親はドイツ人だがイタリアで生まれたと、プロフィールにある。わたしは初めて聴くヴァイオリニストだ。並みの才能ではないようだ。一時のスター演奏家のように人一倍大きく張りのある音で弾くタイプではない。繊細な音が目まぐるしく動く。自由闊達に音楽の中で動きまわる。天性の音楽性の持ち主のようだ。カサド指揮のN響もそのヴァイオリンによく付けていた。抑制され、しかも俊敏な音だ。ヴァイオリン独奏のスタイルと齟齬がない。プロコフィエフ...カサド/N響

  • 追悼 小澤征爾

    小澤征爾が亡くなった。1951年生まれのわたしは、中学生のころからクラシック音楽に夢中になったが、小澤征爾は当時のわたしのアイドルだった。音楽雑誌に載った小澤征爾の写真を切り抜き、大切にしていた。小澤征爾の演奏は何度か聴いた。もっとも記憶に残っているのは、分裂前の日本フィルを振ったシューベルトの「未完成」交響曲とバーンスタインの「ウエストサイド物語」からのシンフォニック・ダンスの演奏だ。「未完成」交響曲の、集中力のある、しなやかな演奏に魅了された。異様な体験だったのは、日本フィルの分裂直前のマーラーの「復活」交響曲の演奏だ。テンションが極限状態に高まり、音楽が崩壊する瀬戸際の演奏だった。日本フィルの分裂という異常事態を前にして、音楽以外の要素が諸々入りこんだ演奏だっただろう。しかしそれも人の営みとしての音...追悼小澤征爾

  • 山田和樹/読響:小澤征爾追悼演奏「ノヴェンバー・ステップス」

    山田和樹指揮読響の定期演奏会は、忘れられない演奏会になった。プログラムは3曲あった。2曲目に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」があった。それが始まる前に山田和樹がマイクをもって登場した。どうやら小澤征爾が亡くなったらしい。「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は小澤征爾に捧げるとのことだった(マイクを通した声がホールに反響して、細部はよく聴こえなかったが)。「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は一種特別なものだった。オーケストラが完璧なピッチで鮮明に鳴った。この曲のオーケストラ部分は断片的な音楽だが、その音楽に今までこの曲では聴いたことがないような色彩感があった。そしてオーケストラが独奏楽器の尺八と琵琶に耳を傾け、沈黙し、ついには圧倒されるドラマが浮き上がった。尺八は藤原道山、琵琶は友吉鶴心。この曲の第一世代...山田和樹/読響:小澤征爾追悼演奏「ノヴェンバー・ステップス」

  • METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

    METライブビューイングでダニエル・カタン(1949‐2011)のオペラ「アマゾンのフロレンシア」を観た。1996年にヒューストンで初演されたオペラ。甘く酔わせるメロディーがふんだんに出る。アリアあり二重唱ありアンサンブルあり。アリアの後には(観客が拍手できるように)ちゃんと間がある。今でもこのようなオペラが作られているのだ‥。前回のMETライブビューイングはアンソニー・デイヴィス(1951‐)の「マルコムX」だった。「マルコムX」は1986年にニューヨーク・シティ・オペラで初演された。前々回はジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」。2000年にサンフランシスコで初演された。今回の「アマゾンのフロレンシア」と合わせて、現代は多様なオペラが作られている。そのオペラの沃野を感じる。「デッ...METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

  • 井上道義/N響

    井上道義の2024年12月での引退がカウントダウンに入ってきた。N響の定期演奏会を振るのはこれが最後だ。そう思うと、やはり感慨深い。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」。ショスタコーヴィチ最大の曲だ。余力を残して引退する井上道義にふさわしい曲目だ。「バビ・ヤール」の前に2曲演奏されたので、以下順に。1曲目はヨハン・シュトラウス二世のポルカ「クラップフェンの森で」。シュトラウスがロシアで作曲した曲だそうだ。カッコウの鳴き声の笛が入る。「ああ、この曲か」と。その笛がのんびりと、ちょっとテンポが遅れて入る。それがユーモラスだ。途中で演奏者が笛を落とした。それも演出かと思ったが、そうではなかったようだ。2曲目はショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番から「行進曲」、「リリック・ワルツ」...井上道義/N響

  • 藤岡幸夫/東京シティ・フィル

    藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。1曲目はロッシーニの「チェネレントラ」序曲。「チェネレントラ」は好きなオペラだが、序曲を演奏会で聴いたことがあったろうかと。そもそもロッシーニの序曲を演奏会の冒頭に組むことが(最近では)珍しくなった。昭和の時代を思い出すといったら、語弊があるか。演奏は堂々としたシンフォニックなもの。それも昔懐かしい。序奏でのファゴットが軽妙な味を出した。藤岡幸夫の指示なのか。首席奏者・皆神陽太の創意なのか。舞台でのコミカルな演技を彷彿とさせた。2曲目は菅野祐悟の新作「ヴァイオリン協奏曲」。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。菅野祐悟の作品を聴くのは3度目だ。サクソフォン協奏曲を2度(東京シティ・フィルと日本フィルで)と交響曲第2番を1度(東京交響楽団で)聴いた。どれも透明な美しい音響...藤岡幸夫/東京シティ・フィル

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォンと日本フィルが快調に飛ばしている。昨年10月の首席指揮者就任披露公演となったマーラーの交響曲第3番はもとより、11月のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」や12月のショスタコーヴィチの交響曲第5番もすばらしかった。そして今度はカーチュン・ウォンと日本フィルならではのプログラムが組まれた。1曲目はチナリ―・ウン(1942‐)の「グランド・スパイラル:砂漠の花々が咲く」。ウンはカンボジア生まれの作曲家だ。1965年にアメリカに渡り、クラリネットと作曲を学んだ。当時カンボジアではクメール・ルージュによる大虐殺が起きたが、ウンはアメリカにいたために難を逃れた。その後アメリカで音楽活動を続ける。前置きが長くなったが、そんなウンの「グランド・スパイラル」は、鮮やかな色彩感と西洋音楽とは異質な拍節感...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • METライブビューイング「マルコムX」

    METライブビューイングでアンソニー・デイヴィス(1951‐)のオペラ「マルコムX」(現題は「X:ThelifeandTimesofMalcolmX」)を観た。アメリカの黒人解放運動の指導者のひとりマルコムX(1925‐1965)の生涯を描いたオペラだ。全3幕、上演時間約3時間の堂々たるオペラだ。第1幕はマルコムXの父親が交通事故で亡くなった(白人のレイシストから殺害された可能性がある)1931年から、従姉に引き取られてボストンで青年時代を送る1940年代までを描く。第2幕はマルコムXがイスラム教の団体「ネイション・オブ・イスラム」の伝道者として活躍する1950年代から1960年代初頭までを描く。第3幕はマルコムXが「ネイション・オブ・イスラム」から離れてメッカに巡礼に赴き、人種に関係なくイスラム教のもと...METライブビューイング「マルコムX」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

    カーチュン・ウォンが指揮する日本フィルの横浜定期。1曲目は伊福部昭のバレエ音楽「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。リズムの切れが良く、中東的な情緒が濃厚だ。一朝一夕の演奏ではなく、作品への理解と自信が感じられる。カーチュンと日本フィルが積み上げてきた伊福部昭作品の演奏経験の表れだろう。「7つのヴェールの踊り」といえばリヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」の同名曲を思い出すが、シュトラウスの音楽とはそうとう異なる。わたしは初めて聴いたので正確性を欠くかもしれないが、曲は大きく分けて、静―動―静―動の4つの部分に分かれるようだ。たぶんその中で7つのヴェールを一枚ずつ取り去るのだろう。2曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノ独奏は上原彩子。例の甘いメロディーの第18変奏が意外に甘さ...カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はワーグナーの「リエンツィ」序曲。重心の低いがっしりした演奏だ。劇場でオペラ公演の序曲として聴いたら、堂々とした立派な演奏だと思うかもしれない。だが演奏会の曲目として聴くと、音色の魅力に欠ける。音色をもっと磨いてほしい。ドイツのローカルなオーケストラの音のようだった。2曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はダニエル・ロザコヴィッチ。2001年ストックホルム生まれというから、今年23歳だ。驚くほど澄んだ音色の持ち主だ。フレージングも美しい。抜群の音楽性を持っているようだ。だが、気になる点がある。たとえば第1楽章のカデンツァが終わり、オーケストラが戻る箇所で、ヴァイオリンの音が聴こえるか聴こえないか、というほどの弱音になった。テンポは今にも止まりそう...ヴァイグレ/読響

  • ソヒエフ/N響

    ソヒエフが指揮したN響の定期演奏会Aプロ。1曲目はビゼー作曲シチェドリン編曲の「カルメン組曲」。バレエのための音楽だ。初めて聴いたときにはびっくりした。「カルメン」の音楽が順不同に出てくるのはともかくとして、「カルメン」とは関係のない「アルルの女」の音楽と「美しきパースの娘」の音楽が出てくる。たぶんバレエのストーリーの展開のうえで、つなぎの音楽が必要だったのだろう。弦楽合奏と多数の打楽器(5人の打楽器奏者が演奏)のための音楽だ。全体は13曲からなる。たとえば第4曲「衛兵の交代」では打楽器がコミカルな動きをする。第11曲「アダージョ」から第12曲「占い」、第13曲「終曲」へと一気にシリアスになる。コミカルからシリアスへの転換が鮮やかだ。演奏は極上だった。弦楽器も打楽器も繊細な神経が張り巡らされ、集中力が途切...ソヒエフ/N響

  • 沖澤のどか/東京シティ・フィル

    沖澤のどかが東京シティ・フィルの定期演奏会に初登場した。1曲目はシューマンのピアノ曲「謝肉祭」をラヴェルがオーケストラ用に編曲したもの。そんな曲があったのかと思う。柴田克彦氏のプログラムノーツによると、ラヴェルが舞踊家のニジンスキーのために行った編曲とのこと。惜しむらくは、ラヴェルは「謝肉祭」の全曲をオーケストレーションしたが、出版されたのは4曲だけで、それ以外の曲は失われたそうだ。出版された(今回演奏された)4曲は「前口上」、「ドイツ風ワルツ」、「パガニーニ」、「ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進曲」。どの曲もバレエ音楽らしい華やかさに満ちている。全曲が残っていたらどんなに良かったことか。編曲時期は1914年なので、たとえば1912年の「ダフニスとクロエ」よりも後だ。ラヴェルの成熟した手腕がうかがえる...沖澤のどか/東京シティ・フィル

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