もう40年ぐらい前、夏の終わりの信州家族旅行の帰りに寄った富山で、なんか大きな盆踊りの終わった感じの町を通り過ぎたことが有りました。そこがおわら風の盆で近年とみに有名になった富山市八尾町(ヤツオマチ)でしたが、当時は全く知りませんでした。その八尾東町にあるおわら玉天本舗の「玉天」(タマテン)です。新鮮卵白を泡立て、そこに寒天と砂糖の加熱した液体を混ぜ込み、固めた後、表面に卵黄を塗って焼き上げたお菓子です。メレンゲを焼いたようなものですかね、1個140円ぐらい。歯ごたえなく音もなく食べられます。少々甘いので、砂糖もミルクも入れないコーヒーか紅茶でいけます。74.玉天
1716(享保元年)年(徳川吉宗が8代将軍に就任した年です)創業の笹屋伊織の「どら焼き」。皆さまが知ってるドラえもんの好物「どら焼き」は、その形がお寺の銅鑼の形に似てるので、そう名付けられたようです。しかし、笹屋伊織の「どら焼き」は、熱した銅鑼の上で焼かれたので、そう名付けられました。江戸時代末期に、京都東寺のお坊さんから、副食になるような菓子を作って欲しいとの依頼を受け、お寺でも作れるように、銅鑼の上で焼くことを思いついたようです。薄皮を銅鑼の上で焼き、棒状にしたこし餡を乗せて、くるくる巻いて竹の皮で包みますので、和風ミルフュールと言う感じです。その美味たる品は町中の噂になり、忙しくなったために、東寺弘法大師の命日である毎月21日だけ販売したそうです。以後もその製法は変えてませんが、販売期間はイオンのよ...73.笹屋伊織の「どら焼き」
北白川通と斜めに交差した志賀越道は、以前山中越がよく混んでいた時には通り抜けていましたが、今はほとんど通ったことが無い道でしたので、この途中にこんな天神宮神社が有るのは知りませんでした。北白川天神宮(キタシラカワテンシングウ)は道真を祀る天満宮ではなくて、飛鳥時代から少彦名命(スクナヒコノミコト)を祭神として、縄文時代から集落が営まれていた地域に根ざした神社のようです。白川は石と花の里で、男は石工でその技術を1894(明治27)年に架橋された、この萬生橋に残し、女は白川女(シラカワメ)として、代々受け継いだ地域に花を届けていたそうです。そしてなんと、車で再々通っていた道の向こう側に、宮内庁治定陵墓を見つけてしまいました。智成親王(サトナリシンノウ)(1856~1872)は全く知らない親王で、私の天皇陵巡...志賀山越9.
婿と手続きに行ったあと、近くのマールブランシュでモンブランかき氷を食べました。世間では義父と婿なら、バーのカウンターか居酒屋で酒を酌み交わすのが普通ですが、二人共アルコールより甘いもの好きなので、女性的なケーキ屋さんの喫茶室でかき氷です。日光から取り寄せた自然の氷は、我が家でのかき氷とは違い、氷とは思えない軽さで、崩れてきません。途中からは2種類のシロップをかけて、中に何か果物とプリンも入っていました。二人とも完食、二人で3080円、カメラ持って行ってないので、婿の携帯でパチリ。家内の見守りで留守番してもらい、感心にもその間にトイレや排水溝の掃除もしてくれていた娘に、お土産と一瞬思いましたが、モンブランは700円なので、やめました。この判断が間違い、お土産なしで帰ったら、やっぱり怒られたので、今後何日間は...後悔先に立たず
この暑さのせいかどうかわかりませんが、また家内の食事量が落ちてきて、不穏になる頻度も増えてきてます。いつも食べてくれていたスクランブルエッグも食べません、それならと久しぶりにゆで玉子を作りました、昔取った杵柄と言うほどの昔でもないですが、2個とも完璧に剥けました。ですが半分しか食べませんでした。昨秋の状態に戻った感じ、なんか気が滅入ります。諦めは良いほうで、努力もしない方ですが、暑い夏が終わったら元気になってくれればよいのですが。昔取った杵柄
今年も送り火の日が巡ってきました。前日の15日、暑いなか火床の準備が始まっていました。8月16日送り火当日、関東に近づいてる台風の影響か、午前中は風もあって曇り空でしたが、火床の準備は終了。1年に1日だけ、私の家は送り火の「妙」の特等席になります。隣の教習所に集まってきた一般大衆を眼下に見下ろしながら?、部屋の電気も消して点火を待ちますが、今年は上手に点火しました。点火が遅れたり、火床の勢いが悪かったりすると、火床を受け持ってた家は怒られるそうですが、今年はどこの家も怒られないでしょうね。「妙」以外に我が家の窓からは、遠くにですが「船形」も見えます。孫Ⅲ-1と、テレビ中継の「船形」と実際の「船形」を見比べています。送り火の日が消えたら、秋が始まるはずですが、消えた後テレビをつけたら阪神負けてましたので、阪...送り火2024
最初の頃に揚げた地図ですが、志賀山越は荒神口から斜めに、当時は何もさえぎるものはなかったので真っ直ぐに、山越えの入り口まで作られた道であることがよく解りますね。私が車で志賀山越(山中越)を行く時は、白川通から御蔭通(高野川に架かる御蔭橋(ミカゲバシ)からずっと延びてる道)へ左折して、市バス③系統の終点北白川仕伏町(シブセチョウ)に行きますが、この白川通も年末の高校駅伝や女子駅伝のテレビ中継で、京都以外の人にも馴染みのある通りになってると思います。その北白川別当町の交差点に、私の大学時代からある懐かしの喫茶店ジュネスもう50年以上行ってないですが、まだやってました。北白川仕伏町にはバプテスト病院が有ります。初孫の孫Ⅱ-1は、産まれてすぐに産院からここの小児集中治療室に入り、島から駆け付けた私の最初の孫...志賀山越8.
道端にあった地図の青矢印に沿って、左端の子安観世音から志賀越道を進みます。すぐに疏水分線(白川疏水)を跨ぎました。哲学の道沿いから銀閣寺で西へ折れた疏水分線は、高度を保ちながら不思議にも南から北へと流れて、松ヶ崎浄水場まで行ってます。志賀越道と疏水分線が交差する位置には、こんなトーチカのようなセメント造りの円柱の建物が有って、疎水と関係ありそうですが、何の説明文も有りませんでした。このすぐ北には京大農学部グランドが有って、大学入学早々のほぼ素人の私も、このグランドでデビューしてますし、その冬には雨の中独走の初トライもした、想い出の地です。志賀越道から一筋北に京大人文科学研究所のスペイン風の目立つ建物が有ります。東畑謙三というまあ名のある人の設計だそうです。この辺りは、私が尊敬してたぐらいの大学の友人が下宿...志賀山越7.
またまた「京へと続く街道あるき」から無断借用のですが。京都大学の塀に沿って吉田山との間を直角に進むと、京大構内によって分断された志賀越道(シガゴエミチ)に又出会えることがよく解りますね。吉田山にある吉田神社は859年創建で、一時は藤原氏の守り神として全盛を誇っていましたが、今は何となく節分の日だけ有名になる神社のイメージが有ります。吉田神社のある吉田山は、船岡山・双ヶ丘(ナラビガオカ)と並んで、平安京造営にあたって基準になったと思われる、京都盆地の中にある山と言うか丘ですし、吉田神社の北の裏参道近くに立つ石柱にも、この山の周囲にある天皇陵の名が有りました。斜めの志賀越道が今出川通と交差する手前に、結構立派な大日如来石像が有りました。その軒先に立つ北白川西町道標、1849(嘉永2)年建立東吉田社銀閣...志賀山越6.
家内の友人から、新潟土産を貰いました。「笹だんご」、てっきり「坊ちゃん」に出てくるので有名だと思いましたが、それは「笹飴」でした餡を中に入れたもち米と上新粉の餅を、笹の葉に包んでイグサで結び、蒸してあります。旧暦の端午の節句に、無病息災を祈ったり、田植えを終えたお祓いを兼ねて食べた、ハレの日の餅菓子で、粒餡の代わりに、レンコン・人参・小松菜などお惣菜を入れることもあるようです。1個200円と、手間がかかりそうなのに安いです。貰ったのは、1931(昭和6)年創業で、一番有名だと思われるこの田中屋本店の「笹だんご」です。この店のマスコットはこの「あかねちゃん」らしいです。そもそも「笹だんご」が新潟土産の菓子として有名になったのは、1964(昭和39)年の新潟国体開催の時のようですので、「坊ちゃん」は関係なかっ...72.笹だんご
中学高校同級生の友達は、自分の町内の放下鉾のちまきと若あゆを、律儀にも毎年くれます。島に行ってる間も、京都が恋しいだろうと、わざわざ送ってくれた時もありました。今年は麻雀の時に貰いました。(また役満もして勝ってしまいました)創業1855(明治18)年の大極殿本舗は、長崎にカステラ修行に行き、京都にカステラを流行らせた店と言われてます。カステラ生地で求肥の餅をつつみ、桂川で泳ぐ若鮎の形を模したそうで、飽きが来ない私好みの美味しい和菓子です。友人から貰ったばかりですので、価格ははっきり書けませんが、納得のいく価格のお値打ちのお菓子です。また来年もよろしくね!昨日は突然の夕立5分ほどで、また暑くなりましたが、今日は降るぞ降るぞと思ううちに降ってきて、ブログ書いてる間も降り続いてますので、少しは過ごしやすい夕方に...71.若あゆ
竹内康之著「京へと続く街道歩き」から又また無断借用した地図ですが、荒神口から始めて、青〇印の山中越道標にいます。東大路通と東一条通が交差する角に、南西から志賀越道が交わってきました。この東北角の京都大学の塀沿いに、志賀越道標が立ってます(写真の横断歩道の奥です)。現在の道とは45度ずれて立ってるのは、志賀越道が斜めに通てた道だったことを立証していますし、ここから道は京大構内をつき切ってたのです。左百まんへん(百万遍)右さかもと・からさき・白川(坂本・唐崎・白川)宝永6年(1709)建立、京都で3番目に古い道標らしく、鉄枠で補強もされていました。建立の頃は、富士山の宝永の大噴火に続いて、阿蘇山・浅間山・岩木山・三宅島と、噴火が日本各地で続いてた頃です。今これだけ続いたら、ちょっとビビりますよね。斜めにつき切...志賀山越5.
「ブログリーダー」を活用して、島の医者になってさんをフォローしませんか?
2007年5月31日から本格的に始めた私のブログ、1回目は五島列島奈留島の私のプライベート海岸?のこの写真で「島の医者になって」です。10年前には島から京都に戻り、ブログ名も「島の医者のなって、た頃もあった」に変更して続けてました。3年前の2022年春にはTeacupブログが閉鎖されて、何とか今のgooブログに移転出来て、今までの内容も少々文字化けしてはいますが保存されてきてます。gooブログで今までのアクセス数50ぐらいが150ぐらいになって、新しいgooブログの皆さんのブログも読めるようになって、楽しんでいた所にこの連絡です。18年間で生活の一部になってしまった、ブログを書いたり読んだりすることを、今更やめるわけには行かないので、続けようとは思っています。どこに移転するか、まあ花水木さんやToiten...gooブログ終了の通知
又小川さんの地図ですが、いよいよ青線の東海道は逢坂山に差しかかります。月心寺を過ぎてすぐ、昭和初期までは子孫が住んでいたと言う民家の前に、大津算盤の始祖片岡庄兵衛の碑が有りました。1612(慶長17)年に庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造した大津算盤、この辺りに店を構え幕府御用達にもなって「そろばんと言えば大津、大津と言えばそろばん」とまで言われるようになりました。東海道を行きかう旅人はここ逢坂山辺りで、大津算盤・大津針・大津絵・走井餅をお土産にするそうです。秀吉が播磨の三木城攻めの時に、隣の小野の住民は大津に避難したそうです。その後ここで大津算盤の製造を学び、後日小野に技術を持ち帰ってそろばんを作り始めました。大津算盤はすたれましたが、小野の播州そろばんは生産高の8割を占めて、雲州(島根県)...東海道30.
京都の桜は、そろそろ終わりますが、我が家のこの桜はもうじき満開。ところがこの桜、花水木さんから「桃なんでは」と指摘されました。ええっつ!犬だと思って飼っていたのが猫だった、の気分です。GOOGLEで写真を撮って検索しても、「サトザクラ・かんざん」と出ましたが、もう一度すると「さくらもも」とも出ます。どっちなんでしょうか?まあ桜と騙されていたとしても、長年見てきた我が家の庭に咲いたものですから、今後も愛おしみますが。今はもう私を愛してるとは言わなくなった家内を、私は愛おしんでいますので、そう言うことには慣れてる人生です。愛おしい4番目の孫が、この春は小学校に入学しましたので、昨日は入学式を立派に果たしたそうです。嫁ぎ先からのお祝いの赤飯を、娘と孫が持って来てくれました。京都へ戻ってきた時に小学校に入学した上...入学
西の山に夕日が沈むのも6時過ぎてからになってきました。そろそろこの西日が嫌になる季節が来るのでしょうね。昨日の診療所中庭の枝垂れ桜はほぼ満開、そしたら隣の柳の緑がやや薄れてきました。施設の玄関のソメイヨシノは、昼頃は落花盛ん、明日木曜日の出勤時にはまだもってると思いますが、来週の出勤時にはもう葉桜ですかね。診療所の美人マスク看護婦さん3人が、門の前まで私を見送ってくれたのかと思って手を振って、写真をラインで送ったら、横の竹林にタケノコ掘りに行く途中だったらしいです。私はタケノコにも負けてます。この辺は明智光秀が討たれた明智藪もある、竹林が多い所です。帰りは鴨川沿いに北上する車通勤ですが、五条より南の桜はもう終わり、荒神口の信号停車中の車からの桜は満開、バックの建物は対岸の我が母校です。今日はいい天気、京都...4月も三分の一過ぎ
4月5日土曜日、特別に月2回だけ土曜日にも行かせてもらってるデイサービスに家内を送り、朝から街に出かけました。松ヶ崎疏水の桜は木曜日より綺麗になって、この数日が満開のよう。鴨川の土手を電動自転車で走りながら櫻見物です、出町辺りの桜は満開まであと数日か。自転車で走ると丁度良く、止まると少し寒いです。鴨川べりの高級ホテルの前には、人力車で桜見物に出かける金持ち外国人と思われる人々が並んで出発を待ってました。京都は外国人であふれてるようです。高瀬川沿いの桜は満開、所々の柳の新緑とよく合いますが、高瀬川の桜はなんか夜に店のネオンと共に見るほうが、高瀬川の桜っぽいですね。街に行ったのは、2ヶ月ぶりの麻雀の為。回数も少なくなって、麻雀よりは皆の安否確認の為の、おしゃべりの方が楽しい会になり下がっています。御所を抜けて...4月も5日過ぎ
昔「9月になれば」と言う明るい映画が有りましたが、いよいよ「4月になりました」。4月1日、仕事日ですが家内がデイから帰る前に、買い物に行きます。松ヶ崎疏水沿いの桜で一番早そうだったのがこの桜か、一部満開に近いです。鴛鴦と思いますが、夫婦で餌探し、上から見下ろしても逃げもしませんね。仕事場の中庭のいつもの枝垂れ桜はまだまだですので、来週火曜日の仕事の日ぐらいに満開の写真が撮れそうです。桜と新緑の柳は結構合いますね!小倉百人一首21番の素性法師(ソセイホウシ)の歌に、最近こんなのが有るのを知りました。見わたせば柳桜(ヤナギサクラ)をこきまぜてみやこぞ春の錦なりけり「こきまぜて」がなんか汚い言葉に聞こえるのは、私の教養のなさかもしれませんが、昔から桜と柳は似合ってたのですね。仕事場の京都老人ホーム玄関の桜はソ...4月になった
逢坂山まで登るだらだらした、名神高速道路と京阪電車京津線沿いの旧東海道(青線)の地図ですが、やはり小川さんの地図から借用しています。地図左下で名神高速道路をくぐり、逢坂山への上りにかかる地図○辺りからとった写真です。左の塀が名神高速道路の防音壁、この登りで車はよく数珠繋ぎになりぎます。少し上ると、道端に小さな道標。右一里丁左大谷町この右手少しに一里塚があったようです。端米山月心寺(ズイベイザンゲッシンジ)の塀に沿って、国道一号線沿いの旧東海道を上って行きます。現在月心寺は、橋本関雪(1883~1945)の所有した寺院・庭園及び併設の別邸一帯を指すようです。公開は予約制で、食事も出来るので、一時有名になっていた記憶が有ります。銀閣寺にも関雪の住んだ白砂村荘(ハクササンソウ)があって、大学時代は友人...東海道29.
介護で辛いのは、家内と日常の何気ない会話と意思疎通が出来なくなって、心が通じ合わなくなったような気がすることです。しかたがないので最近は、本棚から家内の買った本で面白そうなものを取り出して、読んでいます。ということで、今更ながらですが、私には初めての吉本ばななさんの「キッチン」を読みました。初版は1988年1月、彼女が買ったのは約1年後の1989年4月の第31刷1030円です。やはりベストセラーだったんですね。「キッチン」・「満月-キッチン」・「ムーンライト・シャドウ」の3作が入っています。40年近く前に20歳過ぎの少女が書いた本なのに、今でもすごい新鮮な文体で、3作共に死が全体を包んでいるのに、暗くはなく、一気に読んでしまいました。50年以上前に20歳過ぎの私には、その頃到底考えられなかった内容です。家...キッチン
春はあけぼの・・・・、ですが。一昨日の朝雨上がり、もう朝6時はあけぼのは終わって朝でした。5日前には一つだけ花が開いていた、我が家の庭のシデコブシ?。暖かくなり、昨日はもう満開で沢山花をつけてたので、二つだけ切って椿に変えて部屋に飾り、部屋にも春を呼び込みました。昨日土曜日は家内がデイサービスに行ったので何かできるはずでしたが、のんびりボーっと午前中を過ごしてしまったので、午後から近くの買い物だけ。松ヶ崎疏水の桜はこの1本が咲き始めていただけ、この木曜日の買い物ぐらいには満開かも知れませんが、今朝はまた寒かったので、来週末が見頃かもしれません。少し切られてしまいましたが、近所の家の桜は今年も満開まじかです。我が家の遅咲き桜は、まだつぼみ膨らむ程度、土曜日の競馬はまた全敗、阪神はしっかりした勝ち方で開幕2連...続春が来た
前回数独の解答はまだコメントされていませんが、東海道先を急ぎます。数独解けた時はいつでもコメントください、このままではもやもやが晴れません。又小川さんにお世話になる地図です。中央車道の展示が境内にあった閑栖寺を過ぎて、分かれ道の髭茶屋追分(ヒゲチャヤオイワケ)に来ています。少しピントがずれた写真で残念ですが、この皆さんも見慣れた(ブラタモリファンの方だけですが)場所、そう今年の正月のブラタモリ東海道57次の冒頭でタモリさんたち一行が来ていた髭茶屋追分です。右が東海道53次で京都へ、左へ行くと東海道57次で大阪への分かれ道です。そして京都府京都市山科区と滋賀県大津市の境です。以前も佐賀県に行った時に書いたと思いますが、昔は県庁所在地同士が県境で接してるのはここだけだったんですが、今は佐賀と福岡・宮城と山形...東海道28.
前回掲載の最後の写真再掲ですが、横に数独を写し込んでいたので、コメンテーターさんの誰かが食いついてくれるかなと思いましたが、スルーされてしまいました。毎日新聞の朝刊夕刊に掲載されてる「毎日数独」、週に3~4回中級と上級編が掲載されるのですが、初めてこの問題が解けません、左端に2が入ったまでは良かったのですが、以後進まず。何か特別の解き方のテクニックが必要な問題なんでしょうか、最近は毎日閲覧数200を超えるようになった私のブログ、読者の皆さんぜひこの問題の解き方を教えて下さい。気になって、新しい数独に進めなくなっています。よろしくお願いいたします。数独
「春が来た」と思うと、伊坂幸太郎の「重力ピエロ」の冒頭「春が2階から落ちてきた」をいつも思い出します。落ちたと言うなら、家内の介護ベットの下に布団を敷いて、人間センサーになって寝ている私の肩に、昨晩3時半ごろ家内がこけ落ちてきました「妻がベットから落ちて来た」です。本題からずれ始めたので本題に戻って、先週のお彼岸朝にはまだ大きな大きなボタン雪が降っていました。「妙」もあっと言う間に白くなっていましたが、すぐに溶けはしました。でもお彼岸過ぎたら、「春が来ました」狭い我が家の庭にも、椿以外に色彩が戻ってきて、こんな水仙もあることを知りました。40年ぐらい前に、友達家族と越前海岸に蟹を食いに行った時、道路の道端に咲く水仙をたくさん採った記憶が有ります(今ならアウトですかね)。まさかその時の水仙が咲いてるのではな...春が来た
この地図下の国道1号線を跨ぐ歩行者用陸橋を渡り、さらに上(東)へ逢坂山を越えるべく進みます。何となく旧街道を思わせるような坂道を上って行くと、左手に鐘楼のような建物が見えてきました。この辺りの手前を横木町(ヨコギチョウ)と言うようですが、車石が敷き詰められる前、豊臣秀吉が大仏殿造営のための巨石を運搬する時に、丈夫な木を横に敷き詰めたので、この名が残ってるようです。立派な鐘楼付きの門のある浄土真宗大谷派放光山閑栖寺(カンセイジ)です。門前には東海道の石柱と車石も置いてあり、大津絵も飾ってありました。その境内には車道のある東海道が再現されていました。(こちらから奥へ行くのが京都方向です)今回の東海道編で、恥ずかしながら車石のことを初めて知って喜んだり感心もしましたので、ここで車石のおさらい;江戸幕府は街道...東海道27.
道端にあった旧東海道マップの如く、地図上方の山科駅前から赤線の旧東海道を四宮地蔵や三井寺観音道を紹介しながら、地図一番下の弥二さん喜多さん風の二人連れの所まで来ました。もうここは滋賀県です。マンホールの蓋も滋賀県ですが、この蓋ほぼ琵琶湖のことばかり、琵琶湖大橋・遊覧船・ヨット・瀬田レガッタ。今はない観覧車・琵琶湖噴水・花火、やはり滋賀県は琵琶湖だけやんと思わせますね。下の豚?信楽のタヌキでもなさそうですが?ここで国道1号線を跨ぐ歩行者用陸橋を渡りますが、写真は陸橋の上から東を見ています。左へ行くと国道161号線や湖西道路で高島から敦賀へと通じる、昔の北国海道です。右へ行くと国道1号線、草津から米原へ、昔の東海道・中山道へ通じます。若い時に琵琶湖に泳ぎに行く時、ここはいつも渋滞していた気がしますが、今はまあ...東海道26.
先日の土曜日、家内は月に二回の土曜日デイサービスに行ったので、以前働いていた病院の外来看護婦さんに誘われてた昼食会に行きました。久しぶりの京都駅、久しぶりの街の雰囲気、人混みに酔う感じも有りますし、島に居た頃に都会に行った時に感じる気持ちと同じ感を思い出しました。20年前のことになるので、皆そこそこの年齢になったと言っても、20歳ぐらい若い看護婦さん達としゃべってると楽しくて、せっかく京都タワーが見える席だったのに、景色も観た記憶がなく、料理の写真も皆の写真も撮り忘れてしまいました。早く着いたので、この京都駅の大階段からを一枚ぐらい。会う前に行った伊勢丹内のトイレ。洗面所の蛇口が十字型?中央で手を洗った後、少し両手を広げると、横の枝棒から暖かいジェット空気が出てきて乾かしてくれました。初めての経験です、さ...懐かしい人々と
暖かくなってきたので、家内がデイサービスから帰ってくるのを、庭をブラブラしながら待っていました。庭と言っても猫の額か私の額かというぐらいの狭い我が家の庭ですが、その庭の奥の方にもう1本椿の木があるのに、初めて気づきました。私の背丈の2倍ぐらいには育った椿の木で、最近も切ってた記憶が有りますが、椿とは全く気付かず、我が家には前回報告の椿だけだと思っていました。どうして気づかなかったのか不思議ですが、たぶんこれが五島列島に居る時に「玉ノ浦」だと思って買った椿でしょうね。早速これも切って部屋の飾ります。「玉ノ浦」ではそもそも無かったのか、それとも我が家の土壌がこんなに薄ぼんやりした「玉ノ浦」にしたのか分かりませんが、まあこれはこれで長襦袢の様で綺麗ですね。そうです「長じゅばん」として新品種登録を個人的にしました...続我が家の椿
今は367号線となっている本道とクロスするようになってる旧道を、進みます。この辺りの山間の細長い集落が、八瀬童子と言われる人々の住居、本来の八瀬だと思います。八瀬(矢背)の地名の由来になってる、ちょっと疑問符の付く、第40代神武天皇の矢傷を治したと言う竃(かま)風呂の実物が有りました。まるで大きなお饅頭ですね。このかま風呂は、青木・青松葉を焚き、頃合いを見て火を引き塩水を撒いて、菰を敷いて中に入る蒸し風呂です。正面のこの小さな入り口から暗い中に入るのは(今は補強の柱が入っていますが)、小さなサウナでは時々恐怖感が出てくる閉所恐怖症の私には、入ってゆったりすることなどは無理でしょうね。前述の平八茶屋にも、これより大きく開放的なかま風呂が有り、食事した人は入れましたが、私は入りませんでした。祭神として菅原道真...大原街道17.
京都では6月30日に水無月を食べるそうですが、本日(30日)に限らず、私はその前から娘の持って来てくれた鶴屋吉信のこの水無月2個半、一気食いの贅沢をしています。4月からは、京都生協の宅配弁当を週5回頼んでいます。これで1回700~800円、ご飯は自分で1合ほど炊いて、二人で分けて食べる夕食ですので、金貯まりそうでしょ。この6月28日(金)のメインはぶりの味噌焼き、さすが京都の生協弁当、小さいですが水無月のデザートも付いていました。その日は私たちの49回目の結婚記念日でした、ドラマチックな結婚式(中途で中止)でしたが、家内は当時の事を全く覚えていないそうですし、今私と結婚してることさえ定かでないようです。Toitenlaさんからの借用で;全てを忘れた家内とと~もに老いが二人を追い越して~行く♪一人私だけが水...水無月
久しぶりのゆで玉子です。もう完璧に殻は剥けるようになって、食べるのが惜しいぐらいで、2個とも綺麗なものですが、10個入りの卵パック、写真以上にこんなに大きさにバラつきがあるとは思っていませんでした。ただ最近、家内は目玉焼きもゆで玉子も半分ぐらいしか食べてくれないので、朝はスクランブルエッグに方針転換して、挑戦を続けています。作ってみると、意外にスクランブルエッグは時間もかからず簡単に出来ますね。最初は溶いた卵に、ミルクを入れたり塩コショウを振ったりしてましたが、もう今はバターを敷いた熱した玉子焼き器に、直接卵を落とし、箸で素早く混ぜて30秒ほどで完成。ケチャップを家内は好きなので、こうして出すと卵1個分食べてくれます。玉子焼き器も洗わずに翌朝そのまま使えますし、目玉焼きやゆで玉子より簡単ですので、家内の心...日々変化
チョーコーの「えびつゆうすいろ濃縮2倍」です。家内がつゆには海老を入れると言っていたのと、チョーコーの製品にも引かれて、今回はこのめんつゆを試しました。チョーコーは長崎の会社ですし、島でも醤油などでよく聞いていた名前でしたが、長工と書くんですね、今更ながら気づきました。「うすくち」ではなく、「うすいろ」と書いてあるのが、何となく長崎っぽくて良いですね。値段は高めですが、2倍に薄めるので、前述の高千穂峡よりも実際は安くなりそうです。以前買った少し安めのそうめんは、ちょっとなじめなかったので、今回は播州そうめん🎶そうめんやっぱり揖保乃糸♪です。何でもそうかもしれませんが、そうめんは値段高いほうが美味い!!ついでに少し揖保乃糸よりは安いですが、島原そうめんも試してみました。長崎県島原は、島原の乱による人口減少後...つゆその2.
八瀬の里の地図です。古くから八瀬で生活する人々八瀬童子と言い、天皇の大礼(タイレイ)・大喪(タイソウ)の時は、その輿(ミコシ)を担ぐ駕輿丁(カヨチョウ)の役を務めていて、これを誇っていたようです。大原街道は新しい道(367)とクロスするようにある旧道です。八瀬の駅前から少し北上し、大原街道沿いにあるこの石碑の道を入ると𥒎観音寺(カケカンノンジ)が有りました。「𥒎」は「坂」を意味するようです。源義朝(頼朝・義経の父です)が平治の乱で平家に追われて逃げる時に、危機を乗り切れたお礼に、崖に鏃(ヤジリ)で観音菩薩を刻みましたが、その線刻された観音菩薩は周りの岩盤が砕けて立ち入れなくなっています。その像を祀るように昭和になってできたのがこのお寺です。義朝の伝承は他にもあって、この高野川の河原には義朝が馬のまま飛...大原街道16.
いよいよ?地図の八瀬に到着。八瀬の名は、壬申の乱で第40代天武天皇が背に矢を受け、この地のかま風呂に入って完治したと言うところから矢背⇒八瀬の名が付いたそうですが、これは疑問です。京福電鉄の八瀬遊園1964(昭和39)年開業は、大型プールが有って、水は冷たかったですが、何回か泳いだことは有ります。その後1983(昭和58)年にはスポーツバレー京都に変わって、私の息子達もこの水泳教室を利用したことが有りますが、深い潜水用のプールで泳ぐ我が子を見てると、なんか怖かったです。今そこはエクシブ京都八瀬離宮と言う会員制リゾートホテルになってます。叡山本線終点の八瀬比叡山口駅です。綺麗にレトロに改修されていました。丁度駅に、ユニークな外観の観光列車「ひえい」が入ってきました。櫻の頃に取材に行ってます。少し歩くと、今度...大原街道15.
くすぶっていても仕方ないので、一泊旅行も考えましたが、日によって家内の調子も変わるので、まずは少し遠出のドライブにと、1年近くぶりの越前海岸までドライブ。海を見てると五島列島のことも思い出すので良いかなと思いましたが、家内はあまり反応してくれなかったです。そんなことよりも先ず刺身。漁師料理なのか、切り方は粗いですが、美味い!!海老は甘い甘い味が口腔内に広がります。焼き魚定食の鯖?は、大きくても油は乗っています。鯛の頭が入ったみそ汁と、鯵の南蛮漬けだけでも充分過ぎましたが、あまり食べない南蛮漬けも美味しい!以前も食べて美味しかったイカの煮ものも頼みましたが、これがイカ好きの私には美味過ぎました。到底食べきれない量は分かってたので、持参したタッパに詰めて、その日の夜ごはんとそのまた次の日の朝ごはんになりました...越前海岸
大原街道はここからは高野川右岸に沿って北上するのですが、叡電三宅八幡駅から終点の八瀬比叡山口駅までの一駅は車で1~2分です。最近でも滋賀県に行くために週に一回は車で通ってるこの道ですが、蓮華寺(レンゲジ)は素通りするだけで、全く知らなかったお寺ですので、初めて入ってみました。修学旅行生はお断りの張り紙が有りました、何かあったのですかね?まあここに修学旅行生は来ないと思いますが。洛北蓮華寺は1662(寛文2)年に、京都駅辺りにあった寺をこの地に移し再興したもので、天台宗のお寺です。この時詩仙堂で有名な石川丈山や狩野探幽、木下順庵などの当時の著名文化人が協力してるそうです。石川丈山の作と言われる、鶴石・亀石を配した池がなかなかいい感じです。参拝者も私一人だったので、ゆっくりと縁に座って、文化人のように過ご...大原街道14.
地図中央の線路の叡電は、宝ヶ池駅で右への八瀬方面の叡山本線と直進する鞍馬線に分かれます。地図に青点線で示したように、高野川左岸に沿って花園橋は渡らずに叡電の下をくぐり、更に左岸に沿って進んで三宅橋を渡り、ここから右岸に沿って進むのが大原街道だと思われます。花園橋交差点に立って、今から進む東の方向を見てる写真ですが、ここまでくると比叡山は目の前です。このまま真っ直ぐ、緑色の叡電の鉄橋をくぐって進みます。しばらく行って、三宅八幡駅近くの高野川に架かる三宅橋を渡りますが、そこから三宅八幡宮の参道が始まるので、本当は鞍馬線の八幡前駅からの方が三宅八幡宮には近いです。三宅八幡宮は、遣隋使として日本史の教科書にも載ってる小野妹子が、隋から無事帰国のお礼に、小野郷と言われるこの自分の土地に建立したと言われています。子供...大原街道13.
月に2回だけ家内は土曜日もデイに行くようになったので、私には月に2回の休養日ですが、真面目な?私は、「京都へ、京都から」の取材のために、山科まで自転車で行ってきました。旧東海道を走ってると、懐かしいメルヘンチックな建物を山科で見て、思い出しましたよ、スイス菓子ローヌ。昔からローヌのこのマイスターチーズケーキ(350円)は有名ですし、昔はもっと安かった気がしてますが、それでもお手頃です。若い時に山科の友達の家で麻雀した時や、滋賀県方面のゴルフの帰りなどに、ご機嫌うかがいとしてお土産に買って帰ってました。20年以上ぶりのマイスターチーズケーキ、フワフワして若い時よりも年寄りには食べやすく、より美味しく感じました。イチジク好きの家内の為に、奮発してこの一番高いイチジクタルト(620円)もお土産にして、久しぶりの...久しぶりのチーズケーキ
自宅のすごく近くに開店したスーパー「ライフ」、開店前からプリベートカードも作って待ってました。開店5日を過ぎて、平日の昼の買い物客も減ってきたようなので、買い物に出かけました。いつも行く、生協やイオンや平和堂とは少し違う商品も置いてあります。結婚したてに、家内の作るうどんつゆがめちゃくちゃ美味しくて、自家製でないと食べられなくなっていたのですが、島で一人で居る時の夏の昼のそうめんは、九州宮崎のヤマエの高千穂峡のつゆを使っていました。これが甘めで、私の口にぴったりでしたが、京都に戻ってきてからは売り場で見たことが無かったのですが、ライフにはありましたので、早速買ってきました。大手のつゆより少し高目でしたね。阿波名産半田素麺ですので、茹で時間が少し短かったのか、やや硬めになりました。これも阿波名産のスダチを絞...つゆ
前回の地図を再掲してます。平八茶屋の横を通って、マラソンや駅伝中継でもおなじみの、叡山電鉄を跨ぐ跨線橋を横目に見て大原街道(若狭街道)を進みますが、高野川沿いが旧道のようです。3.高野川の向こう側に見えるのが、宝ヶ池公園の一部子どもの楽園です。1949(昭和24)年~1958(昭和33)年の10年間ほどは宝ヶ池競輪場があった場所、その頃は小学生だった私のような未成年や学生は立ち入り禁止の場所でした。この跡地に、1964(昭和39)年に子どもの楽園がオープンし、逆に「大人のみの入場はお断りします」の看板が立つ場所になりました。1981(昭和56)年、私たちの子供がここをよく利用していた頃は、写真のように競輪場のスタンド席がまだ残っていて、我々は昔競輪場のバンクだった所で遊んでることになります。そして私の孫達...大原街道12.
このいつもの4連休、家内の気分があまり良くないのと、私も少し落ち込んでるので、金・土・日とどこにも行かず家にいます。ものすごく近くに「ライフ」というスーパーマーケットが開店したので、行ってみましたが、レジに並ぶ人の数を見て帰ってきました。今日は小雨と思ってたら、昼からは本格的に降り出しました。最近庭に出ることが多いので、ドクダミ・アジサイ・オオムラサキツユクサを切って、家に花を飾ってみました。写真のバックが気に入りませんが、母の日で二人の嫁から貰った生花とドライフラワーと併せて、室内は花盛りです。ドクダミもこうして飾って近くで見ると、なかなか綺麗なもので、気分も少し晴れます。お爺さんがこんなことをしだすと、ますます死期が近づきそうな気もしますが、逆に早速効果は有りました。第74回安田記念、香港馬ロマンチッ...何もすることが無い
地図はやはり「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。この地図の左端ぐらいが、今の我が家。1・2・3・4の番号順に、大原街道(若桜街道)を進みます。1.大原街道が北山通を横切る角にある双鳩堂(ソウキュウドウ)さん、島に行く前ぐらいまでは古い店構えだったのですが、最近新しく建て替えられていました。古いと言っても明治13年創業ですので、江戸時代の大原街道には無かったお店です。名物はこの「鳩もち」、これから行く三宅八幡のお使い鳩をかたどったお菓子で、以前私のブログ「菓子たくさん」でも紹介済みです。北山通を越えてすぐの三叉路の少し先に、東赤山道の道標を見つけました。明治17年建立、6丁(650ⅿ)東に行ったら、平安京の鬼門を守る、紅葉が綺麗な赤山禅院に至ります。2.先の三叉路を左にとって、再び川端通りに合流し...大原街道11.
地図赤線の大原街道(若桜街道)に沿って、明治末までは無かった琵琶湖疏水支線をまたいで北上します、琵琶湖疏水支線を越えると、そこにもう賀茂波爾神社(カモハニジンジャ)(赤の宮神社)です。下鴨神社の境外摂社で、波爾は高野川がかって埴川(ハニガワ)と呼ばれていたことに由来するとも言われていますし、江戸時代には赤宮稲荷大明神と呼ばれ、稲荷社ともされていて、鳥居が朱塗りにされていたので、赤の宮と呼ばれていたこともあったようです。境内には波爾井(ハニイ)清水と呼ばれる御神水があって、今もこの湧き水は豊富な水量が有ります。さらにもう少し街道を進み、曼殊院道と交差する角に、明治25年建立の「比叡山無動寺大弁財天道六十八丁」の大きな道標が立っています。ここから曼殊院を通って雲母坂(キララザカ)を上り比叡山の上まで6...大原街道10.
本日日曜日朝、家内を誘って植物園まで一駅、地下鉄に乗って散歩に行ってきました。帰りに近くでランチする予定でした。それほど暑さもなく、休み休みゆっくり歩いてバラ園まで。バラは気持ち悪いぐらい満開、色々ありますが赤いバラと白いバラがやはり一番バラらしい。さつき展もやってました、「さつきとツツジはどう違うのですか」とおじさんに質問したら、「同じようなものですが、咲く時期が違いますし、交配していろんな色の花を咲かすのがさつきです」と答えてくれました。盆梅・盆桜・盆皐月と、同行の人はどこにでもいるんですね。花しょうぶも満開ですかね。さすが植物園、ドクダミもあちこちで群生してましたが、我が家の庭のドクダミの方が花は大きかったです。花も綺麗ですが、今の季節は新緑も気持ちいいです。家内に従って、休み休み歩き、新緑に浸るよ...京都府立植物園
最近メール交換頻回のメール友達と言うかメール親戚の小母様と、庭の手入れや草花の話などで盛り上がっています。それで今回の私のブログはいつもとは趣の違うブログになりました。(これは花水木さんのブログではありませんよ)ドクダミがはびこってるので、それを抜き始めてますが、簡単に抜けると思って楽しんでいたら、「地下茎で増えるので追いかけっこに負けないように」と、メールで指示も貰いました。ドクダミを写真で一輪アップにすると、綺麗で凛とした花なんですがね、抜いてると手に匂いが残ります。今まではあまり庭に出ることはなかったですが、家の管理もしなくてはならなくなり、庭に出てますが、小さな庭もよくよく見てみたら、野草と言うか雑草と言うか、いやいや家内が育てた花の残りか、可愛い花が咲き乱れるほどではないですが、有りますね。結構...庭の花
「そすいさんぽ」の地図を借用。左の川が賀茂川、右の川が高野川です。赤線に沿って疏水は流れています。青点線が今歩いてる大原街道、左の青線が前回の鞍馬街道になります。そして今丁度、琵琶湖疏水の疏水分線である白川疏水道の青〇印にいることになります。その青〇に立って東を向いての写真です。明治以降の大原街道は、疎水分線をまたぐことになり、疎水の水は東(画面奥)から西へ流れています。ここからもう少し西に流れた分水は、高野川の下をサイフォンの原理で越えて、松ヶ崎浄水場に琵琶湖の水を送ってましたが、現在は高野川の下を流れる水路は無くなって、直接この水は高野川に流れてしまうそうです。したがって、高野川の西にある松ヶ崎浄水場には、今は琵琶湖の水は到達してないので、琵琶湖疏水分線は今ではここで終了です。=琵琶湖疏水分線=滋賀県...大原街道9.
写真の地図は、また竹内康之さんの「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。下方の出町柳から赤→とは逆に、やや高野川から離れるように大原通に沿って北上します。1908(明治41)年に竣工した鐘ヶ淵紡績(鐘紡)京都工場の跡地が、大原通が北大路に達する前に見えてきました。赤レンガの建物の一部が残されて、公園になっています。1975年に閉鎖された工場跡は、1978(昭和53)年に、川崎清さん設計の公団東大路高野住宅として生まれ変わりました。工場があったことは知りませんが、公団が出来たのは、私たちが松ヶ崎に引っ越してきた頃なので、憶えています。今では日本に沢山の外資系ホテルが有りすぎるぐらいですが、日本初のホリデイインがこの高野川沿い✖に出来たのは、1973(昭和49)年私が働きだした年です。泊ったことは有りませ...大原街道8.
8ヶ月ぶりの一泊旅行。娘夫婦と孫二人と私たち夫婦の6人で、婿さんの運転での旅です。助手席に座っていたら、たとえ高速道路でも、首を回して周囲の景色もゆっくり眺められ、天気も良かったですし、良いドライブです。鳴門の渦潮の観潮船を大鳴門橋通過の時に眺めていたら、肝心のブログ特派員としての写真撮影を忘れていたことに気づきましたが、時すでに遅し、もう四国に上陸寸前の、この小鳴門海峡に架かる撫養橋(ムヤバシ)通過の写真しかありません。徳島への旅は、家内の母親(92歳)の見舞いと言うか、家内よりしっかりしてる義母に家内を見舞ってもらう為の旅でした。一泊しての帰りは雨、大鳴門橋通過時も雨でした。明石海峡大橋通過時も雨、対岸の神戸も霞んでいました。10歳年下の義弟が、父の日に息子から贈られた「THEFIRSTSLAMDU...徳島旅行