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  • 74.玉天

    もう40年ぐらい前、夏の終わりの信州家族旅行の帰りに寄った富山で、なんか大きな盆踊りの終わった感じの町を通り過ぎたことが有りました。そこがおわら風の盆で近年とみに有名になった富山市八尾町(ヤツオマチ)でしたが、当時は全く知りませんでした。その八尾東町にあるおわら玉天本舗の「玉天」(タマテン)です。新鮮卵白を泡立て、そこに寒天と砂糖の加熱した液体を混ぜ込み、固めた後、表面に卵黄を塗って焼き上げたお菓子です。メレンゲを焼いたようなものですかね、1個140円ぐらい。歯ごたえなく音もなく食べられます。少々甘いので、砂糖もミルクも入れないコーヒーか紅茶でいけます。74.玉天

  • 73.笹屋伊織の「どら焼き」

    1716(享保元年)年(徳川吉宗が8代将軍に就任した年です)創業の笹屋伊織の「どら焼き」。皆さまが知ってるドラえもんの好物「どら焼き」は、その形がお寺の銅鑼の形に似てるので、そう名付けられたようです。しかし、笹屋伊織の「どら焼き」は、熱した銅鑼の上で焼かれたので、そう名付けられました。江戸時代末期に、京都東寺のお坊さんから、副食になるような菓子を作って欲しいとの依頼を受け、お寺でも作れるように、銅鑼の上で焼くことを思いついたようです。薄皮を銅鑼の上で焼き、棒状にしたこし餡を乗せて、くるくる巻いて竹の皮で包みますので、和風ミルフュールと言う感じです。その美味たる品は町中の噂になり、忙しくなったために、東寺弘法大師の命日である毎月21日だけ販売したそうです。以後もその製法は変えてませんが、販売期間はイオンのよ...73.笹屋伊織の「どら焼き」

  • 志賀山越9.

    北白川通と斜めに交差した志賀越道は、以前山中越がよく混んでいた時には通り抜けていましたが、今はほとんど通ったことが無い道でしたので、この途中にこんな天神宮神社が有るのは知りませんでした。北白川天神宮(キタシラカワテンシングウ)は道真を祀る天満宮ではなくて、飛鳥時代から少彦名命(スクナヒコノミコト)を祭神として、縄文時代から集落が営まれていた地域に根ざした神社のようです。白川は石と花の里で、男は石工でその技術を1894(明治27)年に架橋された、この萬生橋に残し、女は白川女(シラカワメ)として、代々受け継いだ地域に花を届けていたそうです。そしてなんと、車で再々通っていた道の向こう側に、宮内庁治定陵墓を見つけてしまいました。智成親王(サトナリシンノウ)(1856~1872)は全く知らない親王で、私の天皇陵巡...志賀山越9.

  • 後悔先に立たず

    婿と手続きに行ったあと、近くのマールブランシュでモンブランかき氷を食べました。世間では義父と婿なら、バーのカウンターか居酒屋で酒を酌み交わすのが普通ですが、二人共アルコールより甘いもの好きなので、女性的なケーキ屋さんの喫茶室でかき氷です。日光から取り寄せた自然の氷は、我が家でのかき氷とは違い、氷とは思えない軽さで、崩れてきません。途中からは2種類のシロップをかけて、中に何か果物とプリンも入っていました。二人とも完食、二人で3080円、カメラ持って行ってないので、婿の携帯でパチリ。家内の見守りで留守番してもらい、感心にもその間にトイレや排水溝の掃除もしてくれていた娘に、お土産と一瞬思いましたが、モンブランは700円なので、やめました。この判断が間違い、お土産なしで帰ったら、やっぱり怒られたので、今後何日間は...後悔先に立たず

  • 昔取った杵柄

    この暑さのせいかどうかわかりませんが、また家内の食事量が落ちてきて、不穏になる頻度も増えてきてます。いつも食べてくれていたスクランブルエッグも食べません、それならと久しぶりにゆで玉子を作りました、昔取った杵柄と言うほどの昔でもないですが、2個とも完璧に剥けました。ですが半分しか食べませんでした。昨秋の状態に戻った感じ、なんか気が滅入ります。諦めは良いほうで、努力もしない方ですが、暑い夏が終わったら元気になってくれればよいのですが。昔取った杵柄

  • 送り火2024

    今年も送り火の日が巡ってきました。前日の15日、暑いなか火床の準備が始まっていました。8月16日送り火当日、関東に近づいてる台風の影響か、午前中は風もあって曇り空でしたが、火床の準備は終了。1年に1日だけ、私の家は送り火の「妙」の特等席になります。隣の教習所に集まってきた一般大衆を眼下に見下ろしながら?、部屋の電気も消して点火を待ちますが、今年は上手に点火しました。点火が遅れたり、火床の勢いが悪かったりすると、火床を受け持ってた家は怒られるそうですが、今年はどこの家も怒られないでしょうね。「妙」以外に我が家の窓からは、遠くにですが「船形」も見えます。孫Ⅲ-1と、テレビ中継の「船形」と実際の「船形」を見比べています。送り火の日が消えたら、秋が始まるはずですが、消えた後テレビをつけたら阪神負けてましたので、阪...送り火2024

  • 志賀山越8.

    最初の頃に揚げた地図ですが、志賀山越は荒神口から斜めに、当時は何もさえぎるものはなかったので真っ直ぐに、山越えの入り口まで作られた道であることがよく解りますね。私が車で志賀山越(山中越)を行く時は、白川通から御蔭通(高野川に架かる御蔭橋(ミカゲバシ)からずっと延びてる道)へ左折して、市バス③系統の終点北白川仕伏町(シブセチョウ)に行きますが、この白川通も年末の高校駅伝や女子駅伝のテレビ中継で、京都以外の人にも馴染みのある通りになってると思います。その北白川別当町の交差点に、私の大学時代からある懐かしの喫茶店ジュネスもう50年以上行ってないですが、まだやってました。北白川仕伏町にはバプテスト病院が有ります。初孫の孫Ⅱ-1は、産まれてすぐに産院からここの小児集中治療室に入り、島から駆け付けた私の最初の孫...志賀山越8.

  • 志賀山越7.

    道端にあった地図の青矢印に沿って、左端の子安観世音から志賀越道を進みます。すぐに疏水分線(白川疏水)を跨ぎました。哲学の道沿いから銀閣寺で西へ折れた疏水分線は、高度を保ちながら不思議にも南から北へと流れて、松ヶ崎浄水場まで行ってます。志賀越道と疏水分線が交差する位置には、こんなトーチカのようなセメント造りの円柱の建物が有って、疎水と関係ありそうですが、何の説明文も有りませんでした。このすぐ北には京大農学部グランドが有って、大学入学早々のほぼ素人の私も、このグランドでデビューしてますし、その冬には雨の中独走の初トライもした、想い出の地です。志賀越道から一筋北に京大人文科学研究所のスペイン風の目立つ建物が有ります。東畑謙三というまあ名のある人の設計だそうです。この辺りは、私が尊敬してたぐらいの大学の友人が下宿...志賀山越7.

  • 志賀山越6.

    またまた「京へと続く街道あるき」から無断借用のですが。京都大学の塀に沿って吉田山との間を直角に進むと、京大構内によって分断された志賀越道(シガゴエミチ)に又出会えることがよく解りますね。吉田山にある吉田神社は859年創建で、一時は藤原氏の守り神として全盛を誇っていましたが、今は何となく節分の日だけ有名になる神社のイメージが有ります。吉田神社のある吉田山は、船岡山・双ヶ丘(ナラビガオカ)と並んで、平安京造営にあたって基準になったと思われる、京都盆地の中にある山と言うか丘ですし、吉田神社の北の裏参道近くに立つ石柱にも、この山の周囲にある天皇陵の名が有りました。斜めの志賀越道が今出川通と交差する手前に、結構立派な大日如来石像が有りました。その軒先に立つ北白川西町道標、1849(嘉永2)年建立東吉田社銀閣...志賀山越6.

  • 72.笹だんご

    家内の友人から、新潟土産を貰いました。「笹だんご」、てっきり「坊ちゃん」に出てくるので有名だと思いましたが、それは「笹飴」でした餡を中に入れたもち米と上新粉の餅を、笹の葉に包んでイグサで結び、蒸してあります。旧暦の端午の節句に、無病息災を祈ったり、田植えを終えたお祓いを兼ねて食べた、ハレの日の餅菓子で、粒餡の代わりに、レンコン・人参・小松菜などお惣菜を入れることもあるようです。1個200円と、手間がかかりそうなのに安いです。貰ったのは、1931(昭和6)年創業で、一番有名だと思われるこの田中屋本店の「笹だんご」です。この店のマスコットはこの「あかねちゃん」らしいです。そもそも「笹だんご」が新潟土産の菓子として有名になったのは、1964(昭和39)年の新潟国体開催の時のようですので、「坊ちゃん」は関係なかっ...72.笹だんご

  • 71.若あゆ

    中学高校同級生の友達は、自分の町内の放下鉾のちまきと若あゆを、律儀にも毎年くれます。島に行ってる間も、京都が恋しいだろうと、わざわざ送ってくれた時もありました。今年は麻雀の時に貰いました。(また役満もして勝ってしまいました)創業1855(明治18)年の大極殿本舗は、長崎にカステラ修行に行き、京都にカステラを流行らせた店と言われてます。カステラ生地で求肥の餅をつつみ、桂川で泳ぐ若鮎の形を模したそうで、飽きが来ない私好みの美味しい和菓子です。友人から貰ったばかりですので、価格ははっきり書けませんが、納得のいく価格のお値打ちのお菓子です。また来年もよろしくね!昨日は突然の夕立5分ほどで、また暑くなりましたが、今日は降るぞ降るぞと思ううちに降ってきて、ブログ書いてる間も降り続いてますので、少しは過ごしやすい夕方に...71.若あゆ

  • 志賀山越5.

    竹内康之著「京へと続く街道歩き」から又また無断借用した地図ですが、荒神口から始めて、青〇印の山中越道標にいます。東大路通と東一条通が交差する角に、南西から志賀越道が交わってきました。この東北角の京都大学の塀沿いに、志賀越道標が立ってます(写真の横断歩道の奥です)。現在の道とは45度ずれて立ってるのは、志賀越道が斜めに通てた道だったことを立証していますし、ここから道は京大構内をつき切ってたのです。左百まんへん(百万遍)右さかもと・からさき・白川(坂本・唐崎・白川)宝永6年(1709)建立、京都で3番目に古い道標らしく、鉄枠で補強もされていました。建立の頃は、富士山の宝永の大噴火に続いて、阿蘇山・浅間山・岩木山・三宅島と、噴火が日本各地で続いてた頃です。今これだけ続いたら、ちょっとビビりますよね。斜めにつき切...志賀山越5.

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